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2005年9月29日 (木)

寄せ集め映画短評集 その5

 在庫一掃セールもついに第5弾。今回は各国映画7連発。

クジラの島の少女(2003年、ニキ・カーロ監督、ニュージーランド)
candlestick1   ヒロイン・パイケア役のケイシャ・キャッスル=ヒューズがいい。映画初出演というが、難しい役を見事に演じている。伝説の英雄パイケアの流れをくむ家系に生まれ、またその名を受け継ぎながら、女だというだけで伝統を受け継ぐことを拒否された少女の役だ。その悩みの深さと、男の子に負けずに先祖の意思を継ごうとけなげに努力する意志の強さを表現しえている。じっと前を見つめる黒い瞳が魅力的だ。
  伝統を受け継ぐ族長で、彼女の祖父役であるラウィリ・パラテーン,祖母役のヴィッキー・ホートン、パイケアの父親役クリフ・カーティス、いずれもニュージーランドを代表する名優で、しっかりとした存在感を持って演じている。パイケアが一際かわいい女の子で、男の子を打ち負かすほどの力を持っているという設定はできすぎという感もあるが、それがさほど抵抗なく受け入れられ、彼女をむしろ応援したくなるのは、女の子ゆえに謂われなく差別されてもそれにめげずに彼女が因習に立ち向かって行くからである。原初、どこでも母系社会だった。映画は双子の子供を生んだパイケアの母親が男児とともに死ぬところから始まっている。生き残ったのは女の子だった。民族の血を受け継ぎ受け渡すのは産む性なのだ。一貫して彼女を支えてきた祖母の存在も忘れてはならない。
 アボリジニが自らを描いた「裸足の1500マイル」は民族差別が常に背景に描きこまれていた。「クジラの島の少女」ではほとんどすべての登場人物がマオリであり、むしろマオリの民族的誇りが謳いあげられている。「裸足の1500マイル」の根底にあったのも民族が伝えてきた知恵であり、差別に立ち向かう民族の誇りであった。この年にはもう1作、イヌイット語で作られた初めての映画「氷海の伝説」も公開されている。壮大な叙事詩でこれも傑作だった。この3つの映画が同じ年に日本で公開された意義は大きい。それぞれの国でそれぞれの人々がそれぞれの言葉で自分たちを語り始めている。われわれはもっと耳を傾けなければならない。

ポーリーヌ(2001年、リーフェン・デブローワー監督、ベルギー・仏・オランダ)
  女性ばかり4人姉妹の2番目がポーリーヌ。知的障害がある。一番上の姉と暮らしていたが、その姉が突然亡くなる。3番目の妹は店を一人で切り盛りし、かつオペレッタでも活躍していた。4番目の妹は都会のブリュッセルに住み、フランス人の彼氏と暮らしている。どちらもポーリーヌをもてあましている。いっそ施設に入れようかとも思うがなかなか決心がつかない。ポーリーヌは花と妹のポーレットが好きだ(ポーレットは迷惑顔だが)。一番下の妹のことはどうやら誰なのか認識していないようだ。ポーリーヌはいたっておとなしく、天真爛漫でいつも笑っているが、廻りに迷惑をかけてしまう。一人では靴紐も結べず、食事のときもナイフを使えない。ポーレットは決意しポーリーヌを施設に入れ、オペレッタもやめ店も閉めて海辺に引っ越す。しかし寂しさに悩まされる。一人海辺のベンチに腰掛け涙を流す。結局ポーレットはまたポーリーヌを引き取り一緒に暮らす。最後のあたりは泣かされた。
  老人や障害者の世話の問題はどこの国も同じように悩みの種だ。姉妹の間でたらいまわしにする気持ちも分かる。ポーレットも店をやめ舞台を引退したからポーリーヌを引き取れたのだ。「森の中の淑女たち」「八月の鯨」「コクーン」などの老人が活躍する映画は楽しい。しかしボケや障害の問題を正面から描けばなんとも気の重い映画になる。そこをこの作品ではポーリーヌの天真爛漫さと、悩みながらも姉に対して完全には冷たくなれない姉妹たちの存在によって回避している。ただ、予告編やビデオのジャケットの説明が、まるでポーリーヌを天真爛漫な天使のように描き、彼女のせいで周りが明るくなるかのように宣伝しているのは間違いだ。彼女はやはり周りに迷惑をかけっぱなしなのだ。ただ、それにもかかわらずなぜか彼女を憎めない。そういうことだ。深刻な状況を描きながら、日本のテレビドラマのようにどろどろには描かない。この危ういバランスの上でこの映画は成り立っている。そういう意味で優れた映画だと思う。

21グラム(2003年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、アメリカ)
  「アモーレス・ペロス」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。一つの交通事故を通じてナオミ・ワッツ(事故で娘2人と夫をなくす)、ベニチオ・デル・トロ(ひき逃げ犯)、ショーン・ペン(心臓の移植を待っている患者)の3人の運命が交錯する。3人とも苦悩をかかえ悩み苦しむ。「アモーレス・ペロス」と同じタイプの粘っこい映画。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督独特の持ち味。
cut-window6  ベニチオ・デル・トロは元犯罪者で今は敬虔なクリスチャン。それが事故を起こし、警察に届けず逃げてしまう。自分を許せず、悩み苦しむ。殺してほしいと望むが殺してもらえない。心臓移植を受けたショーン・ペンは心臓提供者に関心を向け、その妻(ナオミ・ワッツ)に接触する。家族を失い麻薬におぼれる彼女に同情以上の感情を持ち、ついには肉体関係まで持ってしまう。ある夜二人がベッドに寝ているとベニチオ・デル・トロが進入してきて殺してくれと懇願する。ナオミ・ワッツは憎しみにかられベニチオ・デル・トロを何度も殴りつけるが、その間にショーン・ペンは銃で自分を撃ってしまう。移植された心臓が拒否反応を起こしていた。しかしそれだけが理由ではないだろう。
  すさまじいまでに過酷な状況の中に生身の人間を投げ込み、ねじれた関係を繰り広げながら互いに苦しみもだえるさまを描く。見ごたえはあるのだが、出口が無い鬱屈した思いだけが残る。運命と出会い。生と死。反発と依存。罪の意識と信仰。重いテーマだがもう一つ胸に迫ってこない。なぜだろう。俳優たちの演技は3人とも素晴らしい。現在と過去が入り組み、交錯する展開。特に新鮮な演出ではないが、しかしこれが問題ではない。どうも、シチュエーションの設定にどこか人工的なものを感じるからかも知れない。あるいは、3人とも並行して描かれているため、結果として誰にも感情移入が出来ないからか。やはり出口がないことが問題なのか。あるいは、ひょっとしてそれぞれの人物の苦悩が個人的なものとして描かれており、社会的・歴史的な広がりや深みに欠けるからなのかも知れない。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年、ゴア・バービンスキー監督、アメリカ)
  ジョニー・デップがいい味を出している。ストーリー展開が巧みで飽きさせない。一言で言うと、この映画は実写版アニメだ。アニメを実写版にしたものという意味ではなく、最初から実写として撮ったアニメ調映画という意味だ。アニメが元にあってそれを実写で撮った映画にろくなものがないが、それは元のアニメに作る側も見る側もどうしても捕らわれてしまうからだ。しかしアニメの動きや味わいを生かしつつ最初から実写として企画すればそのデメリットを避けられる。ジョニー・デップの体の動きやせりふまわしなどはまるっきり「モンスターズ・インク」や「シュレック」と同じだ。ゾンビ的海賊などのCG効果はアニメ的効果を出すために使われているといっていい。アニメ的映画を作る道具としてCGを生かす可能性がここで開発されたのだ。製作がディズニーであることを考えれば、この方針はおそらく意識的なものだ。ジョニー・デップをはじめとするキャラクターの演技の仕方がいかにも戯画的、アニメ的なのも意図的なのだ。

都会の牙(1950年、ルドルフ・マテ監督、アメリカ)
  「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。この当時にこんなめまぐるしい展開の映画があったのかと驚く程のテンポの速さだ。最近の映画はどんどんエスカレートして見せ場てんこ盛り、ゲームの様なテンポになってきているが、55年前にもこんな映画があったとは新しい発見だ。こんな「お宝映像」がまだあったとは!
  ストーリーの設定もユニークだ。冒頭男が警察にやってくる。その男は殺人事件だと告げる。被害者は誰かと警察が聞くと、男は自分だと答える。そこから男の話が始まる。見事な導入部分である。
 結婚前に気ままな一人旅に出た男が酒場でルミナス毒を盛られる。その毒には解毒剤がない。男は1日か長くても1週間以内に死ぬ運命にある。その前に事の真相に迫ろうとする。体に時限爆弾を埋め込まれて爆発前に解除の方法を探るとか、毒を盛られて解毒剤を探すとかいう映画はあったが、死ぬことが決まっているという設定は新鮮だ。
  主人公がサンフランシスコに遊びに行っている間に、彼の事務所に緊急の連絡が何度も入る。事務所の秘書(主人公の婚約者)からその連絡を受けていたが主人公は無視していた。しかし毒を盛られてからその電話が気になる。電話をしてきた男の事務所を訪ねるとその男は自殺したと聞かされる。どうやら何かの取引で騙されたらしい。死んだ男の家を訪ねその妻と会う。さらに色々探って行き、とうとう真相にたどり着く。自殺だと思われていた男は実は殺されていた。犯人は・・・・・。話し終えた主人公はばたりと倒れ息絶える。
  真相自体はなんてことはないが、とにかく息をつがせぬ展開が見事だ。主演は熱演型のオドモンド・オブライエン。名優だ。タイトルは忘れたが、ある映画でなんともいやらしくて憎たらしい犯人役を熱演していた。マルコビッチもたじたじの演技だった。監督はギャング映画でおなじみのルドルフ・マテ。「知られざる傑作」の名にふさわしい作品である。このシリーズバカに出来ない。なくならないうちにめぼしいものを全部買っておこう。

ゴースト・ワールド(2001年、テリー・ツワイゴフ監督、アメリカ)
  ソーラ・バーチ(イーニド)と最近お気に入りのスカーレット・ヨハンソン(レベッカ)主演。2001年キネマ旬報ベストテンで9位に入った作品。
hanehosi1  結論から言うと、期待したほどではなかった。比重はヨハンソンよりもソーラ・バーチにある。イーニドは高校を卒業したものの自分を見出せず、世の中や他の人たちに対して不満ばかりがつのる。しがないレコードマニア(スティーブ・ブシェミ、女にもてる役なんて初めてじゃないか?!)に一方的に入れあげ、彼の恋の世話を焼く。しかしその恋がうまく行くと自分の嫉妬がつのる。唯一の友達のレベッカとも次第に亀裂が入りだす。結局イーニドは心が満たされることなく、バスに乗りどこへともなく去って行く。そのバス路線はとっくに廃線になっており、待っていてもバスが来るはずはないのだが、バス停のベンチにいつも老人が座っていてバスを待っていた。何もかもいやになって自棄になっていたイーニドはその老人がバスに乗り込むのをたまたま見かける。来るはずのないバスに。そのベンチでイーニドもバスを待ち、そして来るはずのないバスに彼女も乗ったのだ。このラストはある種の救いを暗示している。
  この映画の魅力はソーラ・バーチにある。小太りでスタイルは悪い。しかし顔の表情が豊かで、不満気な表情が魅力的だ。しかし欠点も彼女にある。と言うよりは、彼女の描き方にある。確かに彼女の不満には根拠がある。優しそうで、しかし本当には彼女のことを心配しているとは思えない父親。男たちはバカばかり。唯一気が合った中年男は女性との付き合いが苦手なレコードオタク。すべてがうまく行かない。何もかも不満だらけ。分からないでもない。しかし、ただどこかへ去ってゆくだけでは本当の解決にはならない。不満や苛立ちだけを描き、何も肯定的なものを提起しない。ヌーヴェル・ヴァーグによくあったパターンだ。この映画に対する不満はそこにあると言っていい。

活きる(1994年、チャン・イーモウ監督、中国)
  40年代から60年代までの中国に生きたある一家を描いている。地主の息子が博打で家財産をすべて失い、影絵芝居で何とか暮らしを立ててゆく。公演中に国民党に無理やり徴兵され、九死に一生を得る。塹壕の中で酒を飲んで翌朝目覚めると部隊は撤退して一緒に寝ていた3人しか残っていない。野戦病院があったところには累々と死体が折り重なっている。この場面はショッキングだ。やがて共産軍に救われ影絵の芸を活かして何とか生き延びる。しかも革命活動に従事したという証明までもらう。これが幸いした。やがて時代は共産党時代に代わり、博打で彼の家をのっとった男は走資派として処刑される。博打で負けていなければ彼がその運命にあっていた。
  戦争から戻ると娘が口をきけなくなっていた。しかし息子が生まれていた。その息子は学校で鉄を作っているとき事故で死んでしまう。娘は足の悪い紅衛兵と結婚するが、出産の際に出血多量で死んでしまう。医者は走資派として糾弾されており、空腹のあまり饅頭を7個も食べて倒れてしまって役に立たなかった。
  次々と不幸が襲う。しかし娘は死ぬ前に男の子を産んでいた。その子は無事成長している。初老になった夫婦は孫と娘婿に囲まれて子供たちの墓参りをする。次々と降りかかる不幸に負けず生き抜いてゆく二人の夫婦に共感を抱かずにはいられない。決して重苦しくならないのは、主人公が絶望せず、常に生き続けようとしているからだ。
  主人公を演じたグォ・ヨウが実に存在感があってすばらしかった。妻役のコン・リー以上の好演だった。彼はテレビでも人気の俳優のようだ。きつい顔立ちだが、いい味を出している。特に初老になってからのふけ具合が実に自然だった。コン・リーももちろんよかったが、あまりふけて見えなかった。しかし、「きれいなおかあさん」同様、汚れ役をやらせてもはまるのは大女優の証だ。
  この映画は中国では上映禁止になった。今でもそうなのかは分からない。劇中に、主人公が娘に、アヒルはガチョウになり、ガチョウは馬に、馬は牛になり、牛は共産党になるというせりふが出てくるが、後に同じせりふを主人公が孫に言うときには最後の共産党を言えなかった。おそらくこれが検閲に引っかかったのではないか。つまらないことで上映禁止にするものだ。

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コメント

レスありがとうございます。
映画は多くの方たち同様に自分も好きなのでまたお邪魔させていただきます。私の送らせていただいたTB2つもあったのですね。1つは消してくださって構いません(2つ消すとなると・・・それはナシですよ)。また来ます。

 南方さん コメントありがとうございます。
 「森のくじら」のことですが、こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、実はココログが提供しているテンプレートなのです。ですから同じ「森のくじら」を使っているブログは他にもたくさんあるのですよ。プロフィールの絵も自分が描いたものではありません。絵を見るのはすきなのですが、描く方はさっぱりで・・・。すべて借り物です。
 がっかりさせてしまったかもしれませんが、よろしかったらまたお寄りください。

素敵なブログで気になっていたのですがレスTBありがとうございます。ご自分でお書きになるのですか?上のクジラのような、ヌリカベのような・・・森の番人?プロフィールの絵は付け替え用のマスクですね。今日はどういう表情で出かけるのでしょうか、このゴブリンくんは。私もゴブリンならぬ森の精”コリブリ”(ハチドリ)関連で「21g」にTBさせていただきました。またお邪魔します。

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How many lives will we live?How many times will we die?They say we all lose twenty-one grams at the exact moment of a death.Everyone.And how much fits into twenty-one grams?How much is lost?When is less twenty-one grams?How much goes with them?How much... [続きを読む]

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