寄せ集め映画短評集 その4
毎度おなじみ、在庫一掃セール第4弾。今回は各国映画7連発。
「父よ」(2001、ジョゼ・ジョヴァンニ監督、フランス)
「穴」で成功したジョゼ・ジョバンニの自伝を彼自らが映画化したもの。自伝だがむしろ視点はタイトルどおり父親に当てられている。父親はプロの賭博師だがまじめな性格で、暗黒街に身を投じた2人の息子とは仲が悪かった。鼻が大きくジャン・ギャバンを思わせる堂々とした体躯。息子達は逮捕され投獄される。兄は脱走を試み殺される。残った弟(マニュ)を父親は何とかして助けようと懸命の努力をする。刑務所の向かいの酒場に毎日のように通い、弁護士や看守にさかんに働きかける。ついには被害者の家族に会い、減刑嘆願書を手に入れる。そのおかげでようやく息子は死刑を逃れる。しかし父親はそれを母親の努力の成果だと息子には伝える。やがて息子は出所し、彼の書いた手記「穴」がベストセラーになり、映画も大ヒットする。出版記念のパーティに父親は姿を現すが、息子とは会わずに去る。
全体にフィルム・ノワールを思わせる暗い色調で描かれている。それが効果的だ。死刑が迫り精神的に荒れる息子。何とかして息子を救おうと考えられる限りの努力をする父親。母親は頼りにならない。よく出来た作品だと思うが、もう一つ胸に迫ってこなかった。「穴」のような脱獄の話ではないので緊迫感が足りないのは仕方がないとしても、淡々としすぎていて盛り上がりに欠けるせいだろうか。その点が残念だ。
「道中の点検」(1971年、アレクセイ・ゲルマン監督、ソ連)
作品完成後検閲に引っ掛かり15年もお蔵入りしていたアレクセイ・ゲルマン監督作品。この作品はどうしてそれまで上映禁止になっていたのかと思うほどすぐれた映画である。ドイツ軍の捕虜になっていた男がソ連軍に投降してくる。この男は敵のスパイか、それとも味方か?この点をめぐって二人の将校の意見が対立する。味方であることを立証するために、彼はドイツ軍の車を奪うように命令される。任務は首尾よく果たしたが、味方も一人殺され、そのため疑いはまだ晴れない。彼は最後のチャンスとしてドイツ軍の軍用列車を奪う作戦に加えられる。作戦はうまくゆき列車を奪うことができたが、主人公は味方を援護して戦死する。白黒の画面が素晴らしく、またドキュメンタリー・タッチとよく合っている。信頼と疑惑の狭間で苦悩する主人公をウラジミール・ザマンスキーが見事に演じている。
だがこの映画の中心人物はもう二人いる。二人の将校だ。主人公に対する評価が真っ向から対立するこの二人の確執は、この作品のもう一つの主題になっている。この二人の対立を最も劇的に示しているシーンは、鉄橋爆破のシーンである。橋の架かる川の上を一隻のはしけがゆっくりと進んでいる。そのはしけにはソ連兵の捕虜がひざを抱える姿勢でぎっしり詰め込まれている。パルチザンたちは鉄橋に爆薬を仕掛け、ドイツ軍の軍用列車を爆破しようとしている。しかし列車が橋に差しかかった時、ちょうどはしけがその下を通過した。爆破すべきか否か。この時も二人の将校の意見は対立した。緊張の数秒が過ぎ去り、橋は爆破されずに残っていた。このシーンは作品の一挿話に過ぎないが、作者のヒューマンな姿勢が最もはっきりと表れた印象的なシーンである。これだけの作品が15年間も公開されないでいたということは驚くべき事実だ。
「黄色い大地」(1984年、チェン・カイコー監督、中国)
最初に見たのが1989年の4月だから約15年ぶりに観た。主題はすっかり忘れていた。地方の民謡を採取して新しい歌詞をつけて人々に広めるために村にやってきた役人と、彼が泊めてもらった家の娘の関係を描いたものだ。今見ると共産党をたたえる歌を子供に教えたり、南の方では親が娘の結婚相手を見つけるのではなく、自分で見つけるようになっているという話に娘が感化されるなど、相当に共産党色が強い映画だ。ただ、黄河が流れる黄色い大地の色、花嫁を乗せた籠にかぶせた赤い布の色など、色彩の描き出しにチャン・イーモウ(撮影監督)らしさがのぞいている。
たくさん出てくる民謡はいかにもスタジオ録音っぽくてリアルではない。むしろリアルさは黄色い荒れ果てた大地とその横を流れる黄河の流れ、そこまで5キロの道のりを歩いて水汲みに行く労働などにある。娘の親の老人が言う古い因習にしばられた考え方、結婚式の風習や普段の生活(娘の弟は放牧をしている)なども今見てもリアルである。
娘には年上の、それもだいぶ前から決まっていた結婚相手がおり、いよいよ嫁入りが決まる。役人の話に出てくる自由な生き方に憧れ、自分も八路群に連れて行ってほしいと望むようになる娘の気持ちが切ない。しかし役人は帰ってしまう。娘は結婚させられるが、嫁入りの日、不気味なほど黒い手が彼女が頭にかぶっている赤い布を取る。夫の顔は出てこないが、恐ろしさに後ずさりする娘の姿が描き出される。結局、娘は夫のもとを逃げ出し、対岸の八路軍のところに渡ろうと黄河に船を出すが、途中でおぼれたことが暗示される。
最後に役人がまた村に戻ってくると、また結婚式が行われており(映画の冒頭も結婚式で始まる)老人と息子はそれに出ていた。しかし娘の姿はない。悲恋仕立てにしているところがこの映画を救っている。
「さびしんぼう」(1985年、大林宣彦監督)
期待したほどではなかったが、若いころ見ていたら引き込まれたかもしれない。ビデオ屋で並んでいた大林作品を眺めていて気付いたが、彼の作品はみな超自然的現象を扱ったロマンチック恋愛ドラマなのだ。「はるかノスタルジー」は言うまでもなく、過去の時代と接点を持ってしまうTVドラマ「告別」もそうだし、幽霊が出てくる「ふたり」や男女の精神が入れ替わってしまう「転校生」も同じだ。「さびしんぼう」を観ていて今の韓国映画と共通するものがあると感じた。出だしの悪がきどもの馬鹿騒ぎも「ラブストーリー」と同じだし、写真の女の子が現れるというありえない設定も「イルマーレ」や「リメンバー・ミー」に通じる。まるで今の韓国映画を見ているようだ。韓国映画が大林から影響を受けたということは聞いたことはないが、これは新しい発見だった。
それにしてもどうして十代の若者を描くときはあんなに馬鹿みたいに描くのか。そんなに馬鹿みたいにはしゃいでばかりいるわけではないだろう。「ジョゼと虎と魚たち」の最初のあたりにもそれを感じたし、「ピンポン」や「GO」にすらその気がある。逆に小学生を描くときは大人びた生意気な子どもが多く出てくる。面白い現象だ。
「さびしんぼう」の後半はよく出来ている。冨田靖子の魅力がよく生かされている。一番かわいかった頃だろう。高校生役と道化役がそれぞれに魅力的だ。特に道化のときの最後の場面、雨で目の黒い化粧が溶けて雫となってほほを流れ落ちるシーンは印象的だ。この後半のよさを最初から出せていたら傑作になっていただろう。しかし冨田靖子の未来の姿が藤田弓子では夢も希望もないわい。もっとも藤田弓子も最後は多少きれいに見えたが。小林稔侍が若い。20年近く前だから当然だが、今のへらへらしたいやらしさはない。
「シティ・オブ・ゴッド」(2002年、フェルナンド・メイレレス監督、ブラジル・米・仏)
ブラジル製作の新手のギャング映画だ。麻薬と女がからむのはいずこも同じ。違うのは子供のギャングだということ。どこで手に入れるのか子供たちが銃を持っている。そして舞台は貧民街。貧困が根底にある。
はじめは普通の強盗だったが、その仲間の一番小さい子供が仲間が引き上げた後襲った店の人間を皆殺しにしてしまう。この子供が後のリトル・ゼという町一番のギャングになる。彼は次々に他のギャングたちを殺し、麻薬を一手に支配する。しかし、最後のもう一つ別のグループと全面対立に至り、激しい抗争の末に双方ほぼ壊滅してしまう。そしてまた小さな子供たちが銃を手にして・・・。
いつ果てるともない暴力支配を、新鮮な演出でスタイリッシュに描いている。社会派的な描き方ではないが、一人一人のギャングを短いが端的に描き分けてゆく演出力は出色だ。ストーリーを語るのはギャングの仲間ではないが、終始その近くにいたカメラマン志望の少年である。彼が決して暴力に走らないまじめな少年であることが、この映画をただ血なまぐさいだけのギャング映画になることから救っている。
銃と暴力が密接に関係していることをいやというほど見せ付けられる映画だ。子供たち同士が殺しあっていることに胸が痛む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」と併せて見るといいかも知れない。
「猟奇的な彼女」(2001年、クァク・ジェヨン監督、韓国)
いかにも東洋的なラブ・ロマンスである。何といってもヒロインの激しい性格が魅力的だ。一方のキョヌは対照的に気が弱くて人が良い。「ぶっ殺されたい?」というせりふが有名になったが、確かに強烈な印象を残す。出会いがすごい。電車のホームでふらついて電車にひかれそうになっているのをキョヌが見かねて助ける。何とか電車に乗せたが、彼女は実は酔っ払っていて、前に座っているおじさんの頭に思いっきりゲロを吐いてしまう。そのまま眠ってしまったので仕方なくホテルに泊める。翌日食堂か何かで話していると近くの客にいきなり怒鳴りつける。気に食わないとキョヌもひっぱたく。とんでもない暴力女だが、なかなか魅力的な女性である。
キョヌは彼女に魅かれる。だが、どこの誰だかわからない(彼女の名前は最後まで出てこない)。連絡はいつも彼女から携帯にかかってくる。しかしそのうち彼女は前の恋人と別れたことが分かってくる。彼女にはその恋人が忘れられないのだ。だからキョヌを真には愛せない。結局二人は分かれることになる。丘の上の木の下にそれぞれ相手に当てた手紙を埋め、2年後に会うことを約束する。このあたりはいかにもロマンチックな仕掛けだ。
しかし2年後彼女は現れなかった。しばらくキョヌは通い続けたが、彼女は現れなかった。3年後に彼女は木の下にやってきた。そこには老人がいた。その老人から、実はその木は雷で折れ、代わりに同じような木を一人の若者が運んできたものだと聞かされる。そして本気で思えば、偶然会えるものだと言われる。最後に、実は彼女の元恋人の母親がキョヌの叔母だということが分かる。叔母を挟んで二人は「偶然」再会する。
ヒロインを演じたのは、「イルマーレ」のチョン・ジヒョン。この映画の魅力の半分は彼女の魅力である。韓国の女優は美女が多い。多分これからもっと個性的な女優が出てくるだろう。しばらくぶりに若い頃の、女性に惹かれる痛い思いに浸った。相手役のチャ・テヒョンもいい。美男ではないが人のよさそうなところに好感が持てる。笑顔が良い。そして、恥ずかしくなりそうなロマンス仕立て。しかしこれが意外にはまっている。日本のテレビドラマだと鼻についてしょうがないものになってしまうだろうが、恐らくヒロインの破天荒な性格と彼女の魅力がこの絵に書いたようなロマンスの破綻を防いでいるのだろう。
「グッバイ・レーニン」(2003年、ヴォルフガング・ベッカー監督、ドイツ)
再統一後の東ドイツの生活の移り変わりを母と息子の関係を通じて描いた映画。母親はベルリンの壁が崩壊する直前に、デモに参加していた息子が警官に逮捕される場面を目撃して気を失ってしまう。そのまま8ヶ月昏睡し続けたが、ある日意識を取り戻す。しかし強い刺激は命取りだといわれた息子のアレックスは、その間の東ドイツ崩壊の事実を母から何とか隠そうとつとめる。
いい話なのだが、どこか設定そのものがわざとらしい。もっと正面から描く方法もあっただろう。東側に西側の文化や金が急激に入り込む様子がリアルに描かれていただけに、室内描写と親子の関係に焦点を絞ってしまったのは視野を狭める結果にもなって残念だ。しかし親子の情は良く描かれている。少しマザコン気味かと感じるほどだ。息子が眠っている隙に母親が外に出てしまうシーンは印象的だ。ヘリコプターに吊るされたレーニン像がまるで母親に手を差し伸べるようにして飛んでゆくシーンがなんとも思わせぶり。
映画の政治的立場は微妙だ。西側の金ずくめの生活文化や考え方を皮肉に見ている面もあるが、東側のよさを見直そうというわけでもない。ただ時代の流れに流されてゆく人々を少々の感慨を込めて描いたという感じである。
ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの生活の変化が良く描かれていたのは収穫だった。壁崩壊直後のワールドカップでドイツが優勝したことが東と西の融和を促進したこともよく分かった。
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