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2005年9月

2005年9月30日 (金)

深呼吸の必要

2004年c_aki02aw
監督:篠原哲雄
出演:香里奈、谷原章介、成宮寛貴、金子さやか、久遠さやか
    長澤まさみ、大森南朋、 北村三郎、吉田妙子

  沖縄のサトウキビ刈りに参加した5人の若者の苦労と成長を描く。それぞれ不安や傷を負った若者たち。彼らがつらい作業と共同生活を通して共通の達成感を持ち、自分を変えてゆく。よくあるパターン通りのストーリーだが、丁寧に作ってあるので完成度は高い。これがテレビドラマだったらちょっといい話で終わっていただろう。

  主演の香里奈の落ち着きのある佇まいがいい(立花ひなみ役)。TVドラマ「カバチタレ」に出ていた女優だそうだが、この作品で演技開眼したようだ。サトウキビの最後の一本を刈るシーンが実際のラストカットだったようで、緊張したそうだ。しかしその分感慨深いシーンになったという。サトウキビは実際に刈った。慣れてくると単純作業なのでそのうち集中してやってしまう。刈り終えた時は達成感があったそうである。

  他に、元甲子園で活躍したピッチャーで斜に構えている青年西村大輔(成宮寛貴)、手術に失敗して心に傷を持つ青年医師池永修一(谷原章介)、ブランドで着飾ってちゃらちゃらした女の子川野悦子(途中で逃げ出すがまた戻る、金子さやか)、ほとんど口を利かず他人と一緒に風呂にも入れない女の子土居加奈子(長澤まさみ)。もう一人、元沖縄に住んでいたが、思うところあって沖縄にふらっと戻ってきた女性美鈴(実は妊娠していた、久遠さやか)も途中から参加する。農場の持ち主であるおじいとおばあも、若者たちに余計な口出しをせず黙って見守っているところがいい。

  青年医師池永は経験の長い先輩格の青年田所豊(大森南朋)が自動車事故で怪我をしたとき手術をして活躍する(その後例の手術の失敗のことを立花に打ち明ける)。先輩の田所が、自分はサトウキビばかりではなく季節ごとに日本中あちこちに行って様々な仕事を手sep20伝っていると自慢げに話した時、西村はあんたの現住所はどこだ、あんたこそ自分の居場所がなくて逃げ回っているんじゃないかと噛み付く。しばらくギクシャクするがすべて刈り終わったとき田所は彼にグラブを渡し、一緒にキャッチボールをする。途中で逃げ出した川野もその後は心を入れ替えて懸命に頑張る。周りに打ち解けなかった土居も最後には声を出し(「なんだ話せんるんじゃないか」とみんなが驚く)、笑顔を見せる。労働と共同生活を通して若者たちが心を開いてゆく。確かによくあるストーリーだ。しかしそう思っても確かにさわやかな映画だという思いは強く残る。沖縄の強い日差し、作業が遅れても「なんくるないさぁ」と笑い飛ばすおじいの存在感などがこの映画を支えている。見ていて自分も参加したくなってくる。今の日本、みんな何か一生懸命に打ち込むこと、いろんな人との人間的なつながりをどこかで求めているのだ。

  「ナビィの恋」、「ホテル・ハイビスカス」と沖縄映画は秀作が生まれている。南国特有の明るさとたくましさがみなぎる映画だ。「深呼吸の必要」はその明るさとたくましさを求めて内地からやってきた人々の映画である。視点は違っているが、やはり沖縄ならではの映画だ。

悪人と美女

lady51952年 アメリカ
監督:ヴィンセント・ミネリ

撮影:ロバート・サーティーズ
出演:ラナ・ターナー、カーク・ダグラス、ディック・パウエル
    ウォルター・ピジョン、グロリア・グレアム
    バリー・サリヴァン、ギルバート・ローランド

  懐かしい映画との感動の再会。この映画は自分にとって思い出深い映画である。最初に観たとき感動した。長い間もう一度観たいと思っていたのだが、なぜかその後まったく出会うことのなかった映画なのだ。テレビでも、映画館でも、ビデオでも見られなかったのだ。高校2年で映画を見始めてごく最初の頃に観たと思われる。最初に見てから30年はたっているだろう。ラストシーンだけはぼんやり覚えていた。一人が電話に出て、他の仲間も顔を寄せて声を聞こうとする場面だ。それ以外の話はほとんど忘れていた。今回改めて見直して、その最後の場面に至る流れがようやくつながった。

  ある日、パリにいる名プロデューサー、ジョナサン・シールズから3人の男女に呼び出しがかかる。映画監督のフレッド(バリー・サリヴァン)、女優のジョージア・ロリソン(ラナ・ターナー)、そして作家であり、脚本家でもあるジム・バートロー(ディック・パウエル)。いずれも今では成功を収めている人たち。3人ともジョナサンによってひとかどの映画人にしてもらったのだが、彼から手ひどい扱いを受けてその後絶交している。ジョナサンはその3人にあえて声をかけ、新しい映画の製作にかかわってくれるよう頼んだのだが、3人とも冷たく断る。しかし間に信頼できる人物ハリー(ウォルター・ピジョン)が入っているため、いやいやながら3人は集まる。そこから回想になる。

  3人とジョナサンの関係が過去にさかのぼって明らかにされてゆく。確かにジョナサンは3人に対してひどい扱いをしたのだが、それは彼らを単なる道具として利用したからではなく、本物のスター、監督、脚本家を育てたかったからだということがエピソードを通して次第に明らかになってゆく。突然の亀裂が入るまでは皆ジョナサンを心から信頼し愛していたのである。だからあのラストシーンになるのである。最期に話は現在に戻る。ジョナサンはパリから電話をかけてきており、提案に対する3人の返事を待っている。3人ともその提案を断リ、部屋を出て行く。しかし最初にジョージアが立ち止まり、隣の部屋にあった電話機を取ってハリーとジョナサンの話を盗み聞きする。他の2人も彼女の両側に顔を寄せてジョナサンの声を聞こうとする。

  結局3人が映画制作に参加したのかどうかは分からないが、少なくとも彼らがジョナサンを心から憎み切っているわけではないことが分かる。見事なラストシーンだ。複雑な人間関係をうまく整理しながらもそれぞれの心理を見事に描いている脚本、シャープで重厚な演出、それらに応えた俳優たちの見事な演技。今見ても少しも色あせない見事な人間ドラマである。  

2005年9月29日 (木)

寄せ集め映画短評集 その5

 在庫一掃セールもついに第5弾。今回は各国映画7連発。

クジラの島の少女(2003年、ニキ・カーロ監督、ニュージーランド)
candlestick1   ヒロイン・パイケア役のケイシャ・キャッスル=ヒューズがいい。映画初出演というが、難しい役を見事に演じている。伝説の英雄パイケアの流れをくむ家系に生まれ、またその名を受け継ぎながら、女だというだけで伝統を受け継ぐことを拒否された少女の役だ。その悩みの深さと、男の子に負けずに先祖の意思を継ごうとけなげに努力する意志の強さを表現しえている。じっと前を見つめる黒い瞳が魅力的だ。
  伝統を受け継ぐ族長で、彼女の祖父役であるラウィリ・パラテーン,祖母役のヴィッキー・ホートン、パイケアの父親役クリフ・カーティス、いずれもニュージーランドを代表する名優で、しっかりとした存在感を持って演じている。パイケアが一際かわいい女の子で、男の子を打ち負かすほどの力を持っているという設定はできすぎという感もあるが、それがさほど抵抗なく受け入れられ、彼女をむしろ応援したくなるのは、女の子ゆえに謂われなく差別されてもそれにめげずに彼女が因習に立ち向かって行くからである。原初、どこでも母系社会だった。映画は双子の子供を生んだパイケアの母親が男児とともに死ぬところから始まっている。生き残ったのは女の子だった。民族の血を受け継ぎ受け渡すのは産む性なのだ。一貫して彼女を支えてきた祖母の存在も忘れてはならない。
 アボリジニが自らを描いた「裸足の1500マイル」は民族差別が常に背景に描きこまれていた。「クジラの島の少女」ではほとんどすべての登場人物がマオリであり、むしろマオリの民族的誇りが謳いあげられている。「裸足の1500マイル」の根底にあったのも民族が伝えてきた知恵であり、差別に立ち向かう民族の誇りであった。この年にはもう1作、イヌイット語で作られた初めての映画「氷海の伝説」も公開されている。壮大な叙事詩でこれも傑作だった。この3つの映画が同じ年に日本で公開された意義は大きい。それぞれの国でそれぞれの人々がそれぞれの言葉で自分たちを語り始めている。われわれはもっと耳を傾けなければならない。

ポーリーヌ(2001年、リーフェン・デブローワー監督、ベルギー・仏・オランダ)
  女性ばかり4人姉妹の2番目がポーリーヌ。知的障害がある。一番上の姉と暮らしていたが、その姉が突然亡くなる。3番目の妹は店を一人で切り盛りし、かつオペレッタでも活躍していた。4番目の妹は都会のブリュッセルに住み、フランス人の彼氏と暮らしている。どちらもポーリーヌをもてあましている。いっそ施設に入れようかとも思うがなかなか決心がつかない。ポーリーヌは花と妹のポーレットが好きだ(ポーレットは迷惑顔だが)。一番下の妹のことはどうやら誰なのか認識していないようだ。ポーリーヌはいたっておとなしく、天真爛漫でいつも笑っているが、廻りに迷惑をかけてしまう。一人では靴紐も結べず、食事のときもナイフを使えない。ポーレットは決意しポーリーヌを施設に入れ、オペレッタもやめ店も閉めて海辺に引っ越す。しかし寂しさに悩まされる。一人海辺のベンチに腰掛け涙を流す。結局ポーレットはまたポーリーヌを引き取り一緒に暮らす。最後のあたりは泣かされた。
  老人や障害者の世話の問題はどこの国も同じように悩みの種だ。姉妹の間でたらいまわしにする気持ちも分かる。ポーレットも店をやめ舞台を引退したからポーリーヌを引き取れたのだ。「森の中の淑女たち」「八月の鯨」「コクーン」などの老人が活躍する映画は楽しい。しかしボケや障害の問題を正面から描けばなんとも気の重い映画になる。そこをこの作品ではポーリーヌの天真爛漫さと、悩みながらも姉に対して完全には冷たくなれない姉妹たちの存在によって回避している。ただ、予告編やビデオのジャケットの説明が、まるでポーリーヌを天真爛漫な天使のように描き、彼女のせいで周りが明るくなるかのように宣伝しているのは間違いだ。彼女はやはり周りに迷惑をかけっぱなしなのだ。ただ、それにもかかわらずなぜか彼女を憎めない。そういうことだ。深刻な状況を描きながら、日本のテレビドラマのようにどろどろには描かない。この危ういバランスの上でこの映画は成り立っている。そういう意味で優れた映画だと思う。

21グラム(2003年、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督、アメリカ)
  「アモーレス・ペロス」のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。一つの交通事故を通じてナオミ・ワッツ(事故で娘2人と夫をなくす)、ベニチオ・デル・トロ(ひき逃げ犯)、ショーン・ペン(心臓の移植を待っている患者)の3人の運命が交錯する。3人とも苦悩をかかえ悩み苦しむ。「アモーレス・ペロス」と同じタイプの粘っこい映画。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督独特の持ち味。
cut-window6  ベニチオ・デル・トロは元犯罪者で今は敬虔なクリスチャン。それが事故を起こし、警察に届けず逃げてしまう。自分を許せず、悩み苦しむ。殺してほしいと望むが殺してもらえない。心臓移植を受けたショーン・ペンは心臓提供者に関心を向け、その妻(ナオミ・ワッツ)に接触する。家族を失い麻薬におぼれる彼女に同情以上の感情を持ち、ついには肉体関係まで持ってしまう。ある夜二人がベッドに寝ているとベニチオ・デル・トロが進入してきて殺してくれと懇願する。ナオミ・ワッツは憎しみにかられベニチオ・デル・トロを何度も殴りつけるが、その間にショーン・ペンは銃で自分を撃ってしまう。移植された心臓が拒否反応を起こしていた。しかしそれだけが理由ではないだろう。
  すさまじいまでに過酷な状況の中に生身の人間を投げ込み、ねじれた関係を繰り広げながら互いに苦しみもだえるさまを描く。見ごたえはあるのだが、出口が無い鬱屈した思いだけが残る。運命と出会い。生と死。反発と依存。罪の意識と信仰。重いテーマだがもう一つ胸に迫ってこない。なぜだろう。俳優たちの演技は3人とも素晴らしい。現在と過去が入り組み、交錯する展開。特に新鮮な演出ではないが、しかしこれが問題ではない。どうも、シチュエーションの設定にどこか人工的なものを感じるからかも知れない。あるいは、3人とも並行して描かれているため、結果として誰にも感情移入が出来ないからか。やはり出口がないことが問題なのか。あるいは、ひょっとしてそれぞれの人物の苦悩が個人的なものとして描かれており、社会的・歴史的な広がりや深みに欠けるからなのかも知れない。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年、ゴア・バービンスキー監督、アメリカ)
  ジョニー・デップがいい味を出している。ストーリー展開が巧みで飽きさせない。一言で言うと、この映画は実写版アニメだ。アニメを実写版にしたものという意味ではなく、最初から実写として撮ったアニメ調映画という意味だ。アニメが元にあってそれを実写で撮った映画にろくなものがないが、それは元のアニメに作る側も見る側もどうしても捕らわれてしまうからだ。しかしアニメの動きや味わいを生かしつつ最初から実写として企画すればそのデメリットを避けられる。ジョニー・デップの体の動きやせりふまわしなどはまるっきり「モンスターズ・インク」や「シュレック」と同じだ。ゾンビ的海賊などのCG効果はアニメ的効果を出すために使われているといっていい。アニメ的映画を作る道具としてCGを生かす可能性がここで開発されたのだ。製作がディズニーであることを考えれば、この方針はおそらく意識的なものだ。ジョニー・デップをはじめとするキャラクターの演技の仕方がいかにも戯画的、アニメ的なのも意図的なのだ。

都会の牙(1950年、ルドルフ・マテ監督、アメリカ)
  「ハリウッド・クラブ 幻の洋画劇場」シリーズの1本。この当時にこんなめまぐるしい展開の映画があったのかと驚く程のテンポの速さだ。最近の映画はどんどんエスカレートして見せ場てんこ盛り、ゲームの様なテンポになってきているが、55年前にもこんな映画があったとは新しい発見だ。こんな「お宝映像」がまだあったとは!
  ストーリーの設定もユニークだ。冒頭男が警察にやってくる。その男は殺人事件だと告げる。被害者は誰かと警察が聞くと、男は自分だと答える。そこから男の話が始まる。見事な導入部分である。
 結婚前に気ままな一人旅に出た男が酒場でルミナス毒を盛られる。その毒には解毒剤がない。男は1日か長くても1週間以内に死ぬ運命にある。その前に事の真相に迫ろうとする。体に時限爆弾を埋め込まれて爆発前に解除の方法を探るとか、毒を盛られて解毒剤を探すとかいう映画はあったが、死ぬことが決まっているという設定は新鮮だ。
  主人公がサンフランシスコに遊びに行っている間に、彼の事務所に緊急の連絡が何度も入る。事務所の秘書(主人公の婚約者)からその連絡を受けていたが主人公は無視していた。しかし毒を盛られてからその電話が気になる。電話をしてきた男の事務所を訪ねるとその男は自殺したと聞かされる。どうやら何かの取引で騙されたらしい。死んだ男の家を訪ねその妻と会う。さらに色々探って行き、とうとう真相にたどり着く。自殺だと思われていた男は実は殺されていた。犯人は・・・・・。話し終えた主人公はばたりと倒れ息絶える。
  真相自体はなんてことはないが、とにかく息をつがせぬ展開が見事だ。主演は熱演型のオドモンド・オブライエン。名優だ。タイトルは忘れたが、ある映画でなんともいやらしくて憎たらしい犯人役を熱演していた。マルコビッチもたじたじの演技だった。監督はギャング映画でおなじみのルドルフ・マテ。「知られざる傑作」の名にふさわしい作品である。このシリーズバカに出来ない。なくならないうちにめぼしいものを全部買っておこう。

ゴースト・ワールド(2001年、テリー・ツワイゴフ監督、アメリカ)
  ソーラ・バーチ(イーニド)と最近お気に入りのスカーレット・ヨハンソン(レベッカ)主演。2001年キネマ旬報ベストテンで9位に入った作品。
hanehosi1  結論から言うと、期待したほどではなかった。比重はヨハンソンよりもソーラ・バーチにある。イーニドは高校を卒業したものの自分を見出せず、世の中や他の人たちに対して不満ばかりがつのる。しがないレコードマニア(スティーブ・ブシェミ、女にもてる役なんて初めてじゃないか?!)に一方的に入れあげ、彼の恋の世話を焼く。しかしその恋がうまく行くと自分の嫉妬がつのる。唯一の友達のレベッカとも次第に亀裂が入りだす。結局イーニドは心が満たされることなく、バスに乗りどこへともなく去って行く。そのバス路線はとっくに廃線になっており、待っていてもバスが来るはずはないのだが、バス停のベンチにいつも老人が座っていてバスを待っていた。何もかもいやになって自棄になっていたイーニドはその老人がバスに乗り込むのをたまたま見かける。来るはずのないバスに。そのベンチでイーニドもバスを待ち、そして来るはずのないバスに彼女も乗ったのだ。このラストはある種の救いを暗示している。
  この映画の魅力はソーラ・バーチにある。小太りでスタイルは悪い。しかし顔の表情が豊かで、不満気な表情が魅力的だ。しかし欠点も彼女にある。と言うよりは、彼女の描き方にある。確かに彼女の不満には根拠がある。優しそうで、しかし本当には彼女のことを心配しているとは思えない父親。男たちはバカばかり。唯一気が合った中年男は女性との付き合いが苦手なレコードオタク。すべてがうまく行かない。何もかも不満だらけ。分からないでもない。しかし、ただどこかへ去ってゆくだけでは本当の解決にはならない。不満や苛立ちだけを描き、何も肯定的なものを提起しない。ヌーヴェル・ヴァーグによくあったパターンだ。この映画に対する不満はそこにあると言っていい。

活きる(1994年、チャン・イーモウ監督、中国)
  40年代から60年代までの中国に生きたある一家を描いている。地主の息子が博打で家財産をすべて失い、影絵芝居で何とか暮らしを立ててゆく。公演中に国民党に無理やり徴兵され、九死に一生を得る。塹壕の中で酒を飲んで翌朝目覚めると部隊は撤退して一緒に寝ていた3人しか残っていない。野戦病院があったところには累々と死体が折り重なっている。この場面はショッキングだ。やがて共産軍に救われ影絵の芸を活かして何とか生き延びる。しかも革命活動に従事したという証明までもらう。これが幸いした。やがて時代は共産党時代に代わり、博打で彼の家をのっとった男は走資派として処刑される。博打で負けていなければ彼がその運命にあっていた。
  戦争から戻ると娘が口をきけなくなっていた。しかし息子が生まれていた。その息子は学校で鉄を作っているとき事故で死んでしまう。娘は足の悪い紅衛兵と結婚するが、出産の際に出血多量で死んでしまう。医者は走資派として糾弾されており、空腹のあまり饅頭を7個も食べて倒れてしまって役に立たなかった。
  次々と不幸が襲う。しかし娘は死ぬ前に男の子を産んでいた。その子は無事成長している。初老になった夫婦は孫と娘婿に囲まれて子供たちの墓参りをする。次々と降りかかる不幸に負けず生き抜いてゆく二人の夫婦に共感を抱かずにはいられない。決して重苦しくならないのは、主人公が絶望せず、常に生き続けようとしているからだ。
  主人公を演じたグォ・ヨウが実に存在感があってすばらしかった。妻役のコン・リー以上の好演だった。彼はテレビでも人気の俳優のようだ。きつい顔立ちだが、いい味を出している。特に初老になってからのふけ具合が実に自然だった。コン・リーももちろんよかったが、あまりふけて見えなかった。しかし、「きれいなおかあさん」同様、汚れ役をやらせてもはまるのは大女優の証だ。
  この映画は中国では上映禁止になった。今でもそうなのかは分からない。劇中に、主人公が娘に、アヒルはガチョウになり、ガチョウは馬に、馬は牛になり、牛は共産党になるというせりふが出てくるが、後に同じせりふを主人公が孫に言うときには最後の共産党を言えなかった。おそらくこれが検閲に引っかかったのではないか。つまらないことで上映禁止にするものだ。

ブリジット・ジョーンズ゙の日記 きれそうなわたしの12か月 

2004年 英・仏・米・独・アイルランドSD-ca-book1-03
監督:ビーバン・キドロン
出演:レニー・ゼルウィガー、コリン・ファース
    ヒュー・グラント、ジャシンダ・バレット
    ジム・ブロードベント、ジェマ・ジョーンズ
       サリー・フィリップス

 等身大の独身女性を描いて評判になったヒット作の続編。主要な観客層として独身の女性を想定していると言われるが、男性が観ても面白い映画である。圧倒的に女性ファンが多い作品の場合(例えば「マディソン郡の橋」など)男が見るとどうということがない場合が多い。しかしこの作品には何の抵抗もなく入って行ける。なぜだろう。

 一つはヒロインのキャラクターが魅力的だからだろう。ブリジット(レニー・ゼルウィガー)は少々のことではへこたれない。体ばかりか神経も相当太い。びしょ濡れになろうが、入ってはいけない場所に入ってはいけないタイミングで入ってしまおうが、めげずに突き進む。その爽快感が何といっても魅力だ。ダーシーとうまく行かなくなったときはさすがにめげたりもするが、そういう時の気持ちを含めて、女性たちは彼女に共感してしまうのだろう。非常に分かりやすいシチュエーションなので彼女の気持ちは男性でも理解できる。

    ストーリーはドジで太った(太めなどという控えめな表現のレベルをはるかに超えている)独身女性の恋人獲得(あるいは再獲得)物語だが、細身・長身・美貌・エレガンスなどといったラブストーリーのヒロイン像を見事にひっくり返した設定が功を奏している。誰もが美人であるわけではない。どこにでもいる普通の女性の行動と感情だから共感できるのである。同時に、それはまたコメディ向きの設定でもある。難しい理屈抜きのラブ・コメディという作りになっている。それが性別を問わず誰にでも親しめるもう一つの理由だろう。

    ブリジットは前作以上に肥え太っている。「ぽっちゃりしていてかわいい」から、「ぶくぶく太っているのにそれでもかわいい」へ。この分では3作目が作られるときは相撲取りのようになって出てくるのか?タイトルも「ブリジット・ジョーンズの日記 恋のはっけよい 抱きしめて!手が届くなら」になってたりして(タイトルがさらに長くなるのは言うまでもない)。冗談はともかく、渋い二枚目の恋人マーク・ダーシー(コリン・ファース)との全く似合わない組み合わせも妙にはまっている。コリン・ファースは渋すぎてほとんど怒っているように見えるが(また怒って当然というタイミングで必ずブリジットが現れる)、実はブリジットを憎からず思っている、というのもほとんどシュールなレベルに達していてかえって可笑しい。あの太った姉ちゃんのどこがいいねん、と思わずなれない関西弁で突っ込みを入れたくなるが、分からなくていいんだそんなことはといわんばかりの強引な設定にいつしかのせられている。

SD-ca-daf03   ダーシーという名前はジェーン・オースティンの『高慢と偏見』でヒロインが憧れる大地主の名前と同じで、明らかにそれを意識している。ヒロインよりもヒーローの方が社会階層は上という設定も同じである。しかし全体としてはアメリカ的ドタバタ・コメディという色彩が濃い。冒頭に「サウンド・オブ・ミュージック」を真似たシーンが出てくるが、これもほとんど毒のないパロディである。イギリスらしいねじれてブラックな味付けはほとんどない。アイロニーや風刺よりもストレートな笑いに重点が置かれている。その分口当たりがよくなっている。アメリカ的コメディへの傾斜は前作より強まった気がする。男女を問わずすんなり受け入れられるのはそのためだろう。

 脇役もお約束のようにうまく配されている。元上司でとことん女たらしのダニエル・クリーバー(ヒュー・グラント)、美人ですらりとスタイルのいいレベッカ(ジャシンダ・バレット)。ドジで、早とちりで、妄想癖があり、タイミングの悪いブリジットに、この二人が絡んで無事に済むはずはない。ダニエルに騙された挙句に麻薬所持の現行犯で逮捕されてしまう。いやはや。しかしそこでも彼女はめげない。いつしか周りの女囚たちをすっかり手なずけてしまっている。誰かがまるで牢名主のようになっているといっていたが、さすがにそれは言いすぎでしょ(笑)。むしろたとえるなら「天使にラブ・ソングを・・・」、修道院に逃げ込んだウーピー・ゴールドバーグですな。「どうせやるんなら徹底的にやらなきゃ」と言って、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」の振り付けを始めるあたりはまさにそのノリだ。考えてみればデロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)とブリジットはキャラクターも体形も似ている!?レニー・ゼルウィガーが太らねばならないのはどうやら必然性があるんだ。あの押しの強さはあの体形でないとだせない。

 周りの女囚たちとうまくやってはいるが、少なくとも15年は豚箱に入ったままだと言われて、さすがにブリジットも落ち込む。ことここに至ってようやく渋い、というより苦々しい顔の王子様(ダーシー)が登場する。そこからハッピーエンドまでは一直線だ。ちょっとした誤解が間に挟まるが、その誤解が解けてハッピーエンドになるのは『高慢と偏見』のパターンである。

   ブリジット・ジョーンズはすっかりレニー・ゼルウィガーの当り役になってしまったが、もうこの辺で打ち切ったほうがいいのではないか。また太ったらもう元に戻れないかもしれない。あるいは逆に激痩せのキャラクターにするか。いやいや、あんまり体に無理をさせてはいかん。どうしても続編を作るなら普通の体形の普通のOL役にしなさい。

2005年9月28日 (水)

茶の味

2003年reath1
監督、脚本:石井克人
出演:坂野真弥、佐藤貴広、浅野忠信、手塚理美
    三浦友和、我修院達也、土屋アンナ、中嶋朋子

 一風変わった映画だがなかなかいい映画だ。どこが変わっているのか。まず、シュールな映像がふんだんに出てくる。男の子(佐藤貴広)の額から列車が出てきて、空を飛んでゆく。男の子の頭には穴が開き向こうが見通せる。その妹の幸子(坂野真弥)には時々巨大な自分が見える。庭や教室やグランドに突然巨大な女の子が出現する。おじいちゃん(我修院達也)はどう見ても老人には見えないし、その行動も奇怪だ。幸子のおじさん(浅野忠信)が子どもの頃、卵の上に野糞をしたと思ったら、それは卵ではなくしゃれこうべだった。その後刺青をした血だらけの男が野糞をした男の子に付きまとう。また別の男が土の中から出てくる。色々なエピソードが唐突に挟まれ、ストーリーも素直につながっていない。

 しかしそれでも支離滅裂にならないのはどこかつながりがあるからである。列車が額から出てきた男の子は丁度好きだった女の子が列車に乗って転校していくのを見送っていた。列車が頭から出てくるのはいかにもシュールな映像だが、去ってゆく女の子を思う男の子の気持ちをとっぴな形で描いただけだ。なぜ巨大な女の子が出てくるのかはよく分からないが、いずれにしても女の子のもう一つの意識だろうと想像できる。血まみれの男は頭蓋骨に糞をしてしまった男のこの罪の意識の表れだろう。土から出てきた男はよく分からないが、罪の意識が消えたとき血まみれの男が消えたので、その男が生き返ったのかもしれない。しかし訳が分からなくてもこれだけシュールな映像があふれていれば、これぐらいのことは大して違和感を感じない。

 突然関係ないと思える映像が出てくるのは、この映画が特定の人物に焦点を絞っているのではなく、家族一人一人をほぼ等分に描いていることから来るものでもある。同じ家族でも家にいるとき以外はそれぞれ学校に行ったり職場に行ったり別々にすごしている。それを等分に描こうとすれば、ばらばらのエピソードの積み重ねにならざるを得ない。女の子を演じた坂野真弥がキャストの一番最初に名前が出てくるのがそれを象徴している。他にもビッグネームが何人もいるのに、必ずしも一番多く出演していたわけではない坂野真弥の名前が先頭にあるのだ。佐藤貴広の名前が2番目に出てくるのも同じ考えに基づいている。奇怪な行動をとるおじいちゃんも、最後に家族みんなの絵をかいていたことが死後に分かり、残された家族や観客をほろりとさせる。と、こんな風に説明してしまうのも野暮だ。要するに、観ながらどこか辻褄が合っていると思えるからシュールな映像や展開が頻繁に出てきても違和感を覚えないのである。奇抜な映像を好む監督は得てして人生や社会をひねてみていることが多いが、この監督が人間を見る目は温かい。おじいちゃんが残した絵や家族みんなが一斉に(それぞれ別の場所で)同じ夕焼けを眺めるラストシーンにそれが現れている。

 父親(三浦友和)と母親(手塚理美)はまともに描かれている。一時的に厄介になっている伯父さんの浅野忠信もまともだ。彼が突然昔振られた中嶋朋子と出会い、言葉を交わすシーンは実にリアルだ。互いにばつが悪そうに、そわそわしながら話す。話はまったく弾まない。言葉を交わしたいが、どこか気まずくて言葉が出てこない、そんな空気が場面にあふれていて、見ているこちらまでそわそわしてしまう。「下妻物語」に先立って出演していた土屋アンナも魅力的だ。佐藤貴広が一目ぼれしてしまうのも無理はない。

 監督は石井克人。他の作品も観てみたくなった。ここ数年の日本映画は見逃しているのが多いが、少し意識してみてみる必要があると考え直した。日本映画はかなり上向きになってきているという印象は間違っていなかった。韓国映画や中国映画の活躍が日本映画人に刺激を与えているのかもしれない。                              

子猫をお願い

SD-fl6-092001年 韓国映画
監督、脚本:チョン・ジェウン
出演:ペ・ドゥナ、イ・ヨウォン、オク・ジヨン、イ・ウルシル
    イ・ウンジュ、オ・テギョン、キム・ファヨン
        チェ・サンソル、パク・ソングン、ムン・ジョンヒ

 韓国の女性観客映画賞で「韓国女性が選ぶ最高の韓国映画」に選ばれた作品だ。監督はこれが初長編のチョン・ジェウン。短髪で一見男性の様な顔立ち。年齢は30代くらいか。かなり落ち着いた感じの人だ。初めての長編なので自分の気持ちに重ねてストーリーを作ったとインタビューで語っている。それまでに短編を2本作っただけの新人がこれだけの作品を作れるところに、韓国映画の水準の高さ、映画人育成システムの充実ぶりがうかがえる。

  高校を出たての5人の女性が社会に出ても互いに友情を保とうと努力する映画である。テヒ役にペ・ドゥナ。ボーイッシュな髪型で鼻が大きく、決して美人ではない。しかし顔も雰囲気も坂井真紀似で、実に魅力的だ。「ほえる犬はかまない」ではすっかり魅了された。ここでも5人の中で一番の存在感だ。驚いたことにインタビューでは長髪になっていて、結構美人に見える。もう一つ驚いたのは、彼女はモデル出身だということだ。小柄なイメージだが実際は結構背が高いようだ。「リンダ リンダ リンダ」(未見)の写真を見ると一番背が高い。共演のイ・ヨウォンとオク・ジヨンとはモデル時代からの知り合いだという。

  大企業でOLをしている美人のヘジュをイ・ヨウォン、貧しい暮らしをしながらデザイナーになる夢を持っているジヨンをオク・ジヨン、双子の姉妹をイ・ウンシルとイ・ウンジュが演じている。ヘジュの誕生日に貧しいジヨンは拾った子猫をプレゼントする。しかしヘジュはいらないと付き返す。その後ジヨンは不運に見舞われ、ついには火事で家族を失う。警察による単なる型どおりの尋問になぜかジヨンは何も答えない。彼女は怪しまれ拘置される。テヒだけが彼女を案じて面会に行く。

  一時5人の関係が壊れかかるが、また仲が戻る。親とはそりが合わないが、優しいところがあるテヒ。美人で薄情でファッションなどに目がないが、仲間とは離れてゆきそうで離れないヘジュ。イラストレーターの才能があるのに貧しいゆえに夢をかなえられないジヨン。いつも陽気で明るい双子。それぞれの個性が絡み合い、つかず離れず関係が続く。社会に出て互いに流されそうになりながら、何とかむかしの友情を保とうとする5人の女性。監督が言うように、女性なら、誰もが誰かに自分を投影できるようだ。男には必ずしもぴんと来ないが。しかし共感は出来る。誰かに自分を重ねたりはしないが、群像劇として楽しめる。女性がたくさん出てくることだけが魅力なのではない。個性を描き分け、それぞれどこか社会の中に足場を十分築けず浮遊しながらも、精一杯生きようとする姿勢に共感できるのだ。ほとんど男性との恋愛が出てこないところがいい。韓国はそんな映画も作れるのだ。韓国映画にまた傑作が一つ加わった。

2005年9月27日 (火)

ベッカムに恋して

jewelgrape5 2002年 イギリス・ドイツ
監督:グリンダ・チャーダ
出演:パーミンダ・ナーグラ、キーラ・ナイトレイ
    ジョナサン・リース・マイヤーズ、アーキー・パンジャビ
    シャヒーン・カーン、フランク・ハーバー

 サッカーにあこがれるインド系少女がインドの伝統を押し付けてくる母親との葛藤を経ながら自分の夢をあくまで追求するという映画だ。その意味では「インドへの道」の系譜、「ぼくの国、パパの国」の系譜に属するが、成功物語という意味では「ブラス!」、「リトル・ダンサー」や「グリーン・フィンガーズ」の系統にも属する。しかし、イギリス国内に暮らすインド人というテーマからすれば、イギリスのパキスタン人移民を描いた「ぼくの国、パパの国」の系統に入れるのが一番妥当だろう。監督をはじめ製作スタッフの中心はインド人である。そのことが成功を生んだといえるだろう。一貫してインド人の視点から描かれている。その点でイギリス人の視点から描かれる「インドへの道」と異なる。

  主人公のジェスの姉が映画の最後で結婚するのだが、婚約や結婚のパーティの場面はまるでインド映画のようだ。極彩色の衣装、音楽と踊り。両親、特に母親はインドの伝統を守ろうとしている。母親は娘がサッカーをすることには反対だ。男と混じってプレイする、肌を見せて走り回る、すべてが気に入らない。このあたりはさすがにインド人のスタッフが作っているだけあってリアルだ。ジェスも自分の夢は捨てきれないが、家族の考えを無視するわけにはいかない。何度も練習に出られない事態になる。特に決勝戦が姉の結婚式の当日に当たることが分かり、状況は深刻になる。この彼女の葛藤がおざなりでないところが作品に真実味を与え、作品の価値を高めている。

  決勝戦と結婚式がかち合うのはドラマによくある常套手段と言えるが、それまでに十分伝統と新しい価値観の衝突は描きこまれているため、とってつけたような人工的クライマックスという感じは与えない。彼女は結局式を途中から抜け出して、試合に出る。そして試合に勝った。しかも彼女の活躍で。そしてアメリカから来たプロのスカウトに認められてアメリカ行きと奨学金を手にする。絵に描いたような結末だが、最後のあたりは涙を禁じえなかった。古い伝統を跳ね返し、自分の人生を自分で決めようとするジェスに深く共感したからだ。

  インド人とイギリス人の人種問題、それも植民地意識が介在する関係もよく描かれている。同じ有色人種でもインド人とイスラム教徒とでは扱いが違うようだ。娘に反対して父親が「サッカー選手にインド人がいるか?(いないだろう)」とどなると、ある有色人種の選手の名前があげられる。しかし彼はイスラムだと父親は反論するのだ。実は父親自身かつてクリケット選手で、有望な才能があったようだが、インド人だというだけで相手にされなかったという苦い経験を持っていた。この父親の描き方がいい。最初から母親とは違って多少娘に理解がある親として描かれていた。最も感動的なのは結婚式を抜け出そうとする娘に気づいた彼が、姉の結婚式に不機嫌な顔をされていてはかなわない、それより試合に行ってこい、だが帰ってきたときには最高の笑顔を見せてくれと言った時だ。あるいは、娘のアメリカ行きに反対する母親に向かって、昔自分は人種の壁にぶつかってクリケットをあきらめたが、娘には同じ思いをさせたくないと断固として娘の肩を持った時である。

  ジェスをスカウトしたイギリス人の女子選手とその家族(彼女とジェスをレスビアンだと勘違いしてしまう母親が傑作だ、彼女は最後には娘を失いたくないとサッカー・ファンになる)、そして女子チームの男性監督もいい。特に彼をめぐっては女子サッカーチームに対する差別意識が絡められ、作品のテーマを深めている。彼とジェスは恋愛関係になる。甘い設定といえば甘いが、前向きな意思にむしろ共感した。映画は夢を描くものなのである。

  最後に主役の女の子について一言。ちょっと小太りで歩くときの姿勢もやや前かがみだ。サッカーをしているときの動きもあまり機敏ではない。しかし彼女の表情がいい。普通にしているときやふくれているときはそれほどかわいく見えないが、ちょっといたずらっぽく笑ったときの笑顔がいい。このまま女優を目指すのか分からないが、普通の女の子を演じられる女優になってほしい。

人生は、時々晴れ

2002年 イギリス・フランスdan01bw
監督、脚本:マイク・リー
出演:ティモシー・スポール、レスリー・マンビル
    アリソン・ガーランド、ジェイムズ・コーデン

  なんとも気が重くなるようなイギリスの下層の生活がこれでもかとばかりに描き出される。口数の少ない、見るからにうらぶれたタクシー運転手(ティモシー・スポール)。奥さんはしっかり者だが口うるさい。彼女もスーパーでレジのアルバイトをしているが、生活はぎりぎりだ。太った娘も老人施設のようなところで清掃の仕事をしている。まじめに働いている子だ。しかし息子は、これまた太っていて、何も仕事をせず一日中ぶらぶらして、親に口答えしてばかりいる。母親に汚い言葉を投げつけても、父親は何も言わずただ黙って見て見ぬふりをするだけ。隣は母娘の家庭で、娘には恋人がいるが、やがて妊娠が発覚する。しかし相手の男は無責任で絶対産むなと言って出てゆく。そのまた隣の家の娘はいつも家の前をぶらぶらしている。変な若い男が彼女にまとわりついているが、彼女は歯牙にもかけていない。隣の妊娠した娘の恋人に岡惚れしている。父親は最初の家族の父親と同じタクシー会社の同僚である。妻はアル中でほとんど廃人寸前。

  イギリスの下層の生活はこんなものなのだろうか。「マイ・ネーム・イズ・ジョー」「がんばれ、リアム」など出口のない気のめいる映画がイギリスには多いが、確かにこれらはイギリスの現状を伝えているのだろう。しかしこの映画の重苦しさは複数の家族の日常生活を描いているだけに、遥かに暗く、重く、よどんでいる。どこでもそうなのだという気持ちになってくる。ディケンズの小説の中にはもっとすさまじい貧困と怪物のようになった人間が出てくるが、戯画化したり、どこか突き放して客観的に書いたりしているのでこのような重苦しさはない。なまじそれぞれの家庭に密着して具体的に描いているので、逃げ道がないように思えてくるのだ。

  しかし、最後にわずかな光明が見出せる。最初の家族の太った息子がサッカーをしていた時、突然発作に襲われて倒れてしまう。それをたまたま買い物から帰ってきた隣の主婦2人が発見する。すぐに救急車を呼ぶように一人が言うが、もう一人のアル中の主婦はただおろおろするばかりで役に立たない。彼女の娘が事態に気づいて母親を押しのけるようにして電話をかける。普段ぶらぶらしてばかりいる娘だが、緊急の事態にはしっかり対応する姿が描かれている。倒れた子どもの母親は連絡を受けてすぐ夫の車で飛んで行こうとするが、夫に連絡がつかない。アル中の主婦の夫が同じタクシー会社の同僚なので、彼の車で病院に向かう。しかし途中バックしてきたほかの車と衝突してしまう。怒鳴りあう二人のドライバーを残して母親は病院へ走る。しかし夫とはまだ連絡がつかない。

  実はそのとき何もかもいやになった彼女の夫は、タクシーの無線も携帯も電源を切って、テムズ川の河口あたりと思われるところに車を止めて考え事をしていたのだ。自殺するのshot7かと思わせる気配もあった。だが、やがて気持ちが晴れたのか父親は仕事に復帰し、息子の入院を知り病院に駆けつける。妻と激しくやりあうが、幸い息子の命に別状はなかった。ただ一生薬を飲み続けなければならないと医者に言われる。ベッドに横たわる息子は人間が変わったようになり、以前のとげとげしい口の聞き方をしなくなる。息子の病気とその変化をきっかけに、その家族は立ち直り始める。父親は妻に向かって、お前は俺を愛していないんだと泣いて訴える。妻は心を動かされる。この何年かの間で初めて本心から交わした会話だったのだろう。お互いに愛を確認しあった後、2人は家庭を立て直す努力を始める。

  最後にわずかな光明が見出せるのが救いだ。ケン・ローチ、マイク・リー、リン・ラムジー、マイケル・ウィンターボトムなど、何人もの監督たちがイギリスの現状を描いてきた。貧困、無教養、無気力、麻薬禍、退廃等をリアルに描きながら、同時に必死で生きようとする人たちのもがきをどう描くのか。これがこれからのイギリス映画の課題となるだろう。簡単に出口は見出せないが、出口がなければ、希望がなければ人は生きられない。この出口なき現状に、どのようにして安易ではない出口を描き出すのか。映画人たちの苦心と努力は続くだろう。

  主演はティモシー・スポール。「ラスト・サムライ」でカメラマンを演じていた、あの太ったおっちゃんだ。イギリスの庶民を演じさせたらまさにうってつけの役者である。だらしなく太り、年中同じ服を着ている感じで、だらけた生活を日々おくっている情けない中年男、そんな役がぴったりはまる。

  90年代以降のイギリス映画にはケン・ローチ監督の作品を初め、庶民生活を描く作品が目立って多くなっている。したがって、ダニエル・デイ・ルイスやヒュー・グラントのようないかにも貴公子然とした俳優ではなく、ロバート・カーライルやユアン・マクレガーのような、不満だらけで鬱屈した労働者や町のあんちゃんが似合う役者が台頭してくる。ピート・ポスルスウェイトやブレンダ・ブレッシン同様、本来脇役が似合うティモシー・スポールも時代の流れに後押しされて、今やどうどう主役を張っているのである。その彼が一転して日本人真っ青の猛烈セールスマンに扮したのがダニー・ボイル監督の「ヴァキューミング」だ。主人公トミーは電気掃除機の販売員で、完全な仕事人間。全く逆の役柄になりきってしまう。すごい俳優だ。

  監督は「秘密と嘘」のマイク・リー。「秘密と嘘」はケン・ローチの「レディバード・レディバード」とならび、秀作・話題作ひしめく90年代イギリス映画の中でも頂点に立つ傑作である。次の「キャリア・ガールズ」はがっかりしたが、「人生は、時々晴れ」はなかなかの秀作。現在のイギリス映画界を支える重要な監督の一人である。

2005年9月26日 (月)

ディープ・ブルー

2003年 イギリス・ドイツclip-do3
監督、脚本:アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット
撮影:ダグ・アラン、ピーター・スクーンズ、リック・ローゼンタール

  今上田でも「皇帝ペンギン」が公開されているが、このところ動物ドキュメンタリー映画が続々作られている。「ディープ・ブルー」はイギリスBBC製作の海洋ドキュメンタリー映画だ。ペンギン、サメ、シャチ、亀、クジラ、アシカ、深海魚などの映像が延々と続く。NHKで放送されるBBCのドキュメンタリーもの大好きの僕にとってはたまらない映像だ。動物もののドキュメンタリーという意味ではフランスの「WATARIDORI」に通じるが、あちらは鳥がテーマ。海がテーマと言う意味では、むしろ同じフランスの「アトランティス」(リュック・ベッソン監督)に近い。ただ、「アトランティス」が静かな映像でヒーリング向きなのに対して、「ディープ・ブルー」はベルリン・フィルを使った音楽が激しく鳴り響き、波の音や魚が水を切る効果音などが体を震わせる。動きもはるかに動的で、展開もドラマチックである。とうていリクライニング・チェアーを後ろに大きく倒して、グラス片手にゆったりとくつろぎながら観る映画ではない。シャチがアシカを襲う場面、魚と鳥が小魚を追いまくる場面などはすさまじい限りである。後者は空から見ると、激しい水しぶきが上がり、まるで艦隊と爆撃機の戦闘場面のように見える。水中から見るとまるで白兵戦の修羅場だ。小魚たちは群れて一斉に同じ動きをする。まるで次々にメタモルフォーゼを繰り返す一つの巨大な生き物のように見える。

  一転して深海に潜ると光と音のない世界。暗闇に怪しく光る不思議な生き物たち。チョウチンアンコウの様なグロテスクなものから、光を放つ妖精のように美しいものまで、実に様々な異形のものたちが棲息している。深海を訪れたものは宇宙を訪れたものより少ないと言う意味のナレーションが印象的だ。人は見たことのない世界を見てみたいと思う。ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』に描かれた地中の世界もそうだし、深海ものや宇宙のかなたの星を探検する話も同じだ。深い地底や海底には人間が見たこともない怪しげな生き物や恐ろしい生き物が生息しているに違いない。そこにどんな世界があるのか、見たことがないだけに人は覗いてみたくなる。「アビス」「デプス」「リヴァイアサン」などの映画は、そのぞくぞくするような深海の怖さを味わう映画である(期待に応えたかどうかはともかく)。「ジュラシック・パーク」のような恐竜時代を再現して見せた映画が大ヒットするのも同じ欲求からくるものだろう。

  まあ、この手の映像は好きでよく観るから珍しくはないのだが、テレビで見るときと違って音響効果がものすごいのではるかに迫力がある。プラズマテレビでサラウンドにして観たのでものすごい迫力だ。映画館で見たらなおさらすごいだろう。特に海面近くで撮った映像の迫力は下手な人間のドラマをはるかに凌ぐ。そこにはナマの生存競争がある。まさに弱肉強食の世界。やらせでも芝居でもない、本物の食うか食われるかの世界だけに圧倒的な迫力である。

  疲れたときに観て心が安らぐ映画ではないが、音を消してただ流しているだけだったらどうだろうか。ヒーリングになるか。眠れない夜に「アトランティス」と「ディープ・ブルー」を続けてみてみよう。

ボン・ヴォヤージュ

SD-shipwindow022003年 フランス映画
【スタッフ】
脚本:ジャン=ポール・ラプノー、パトリック・モディアノ
監督:ジャン=ポール・ラプノー
音楽:ガブリエル・ヤレド
撮影:ティエリー・アルボガスト
【出演】
 イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュー
 ヴィルジニー・ルドワイヤン 、イヴァン・アタル
  グレゴリ・デランジェール、ピーター・コヨーテ

 1940年6月14日、ドイツ軍の侵攻によりパリは陥落する。フランス第3共和制はこれにより崩壊し、政府はボルドーに疎開する。その後ペロン元帥を首相とした、親ナチス政権であるヴィシー政権が成立する。「ボン・ヴォヤージュ」はこのヴィシー政権誕生前夜の混乱した時期を背景として、2つのストーリーをもつれ合うように展開させている。

  一つは女優ヴィヴィアンヌ(イザベル・アジャーニ)と作家志望の幼なじみのオジェ(イヴァン・アタル)のストーリー。ヴィヴィアンヌはしつこく迫ってくるアルペルという男を誤って殺してしまい、その死体の始末をオジェに頼むが、オジェが車で死体を運んでいる途中事故にあい、トランクの中に隠していたアルペルの死体が見つかってしまう。オジェは犯人にされて監獄に入れられてしまう。しかしドイツ軍の侵攻により囚人たちもパリから他の土地に移送されることになるが、その混乱に乗じてオジェは同じ囚人のラウルと共に脱走する。ヴィヴィアンヌは彼女のファンである大臣ボーフォール(ジェラール・ドパルデュー)に取り入ってうまくボルドーに脱出する。

  第2のストーリーは原爆の基となる化学物質“重水”をドイツ軍に見つかる前にイギリスへ持ち出そうとするコポルスキ教授と女子学生カミーユ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)のストーリーである。彼らもパリからボルドーに向かうが、その途中足のないオジェとラウルを同乗させる。  この2つのストーリーが大混乱に陥ったパリとボルドーを舞台にめまぐるしく展開される。ボルドーは避難して来た政府関係者や一般人でごった返している。道もホテルもレストランも人であふれている。その混乱の中でドイツのスパイである新聞記者も暗躍している。

  めまぐるしい展開だが前半はやや退屈だった。人間関係が複雑なのでどうしても説明的描写が多くなるからだろう。後半は“重水”をイギリスへ持ち出せるかどうかというサスペンス的要素が濃くなるのでそれなりに惹きつけられる。ヴィヴィアンヌとカミーユとの間でゆれるオジェの三角関係の行方もそれに絡んでくる。

  魅力的なストーリーだが、テーマが複雑すぎて消化不良で終わっている。それ以上に不満なのはイザベル・アジャーニだ。主役は言うまでもなく彼女だが、この映画で一番活躍しているのはイヴァン・アタルとヴィルジニー・ルドワイヤンである(ジェラール・ドパルデューもさすがの存在感だ)。このギャップが欠点となっている。イザベル・アジャーニは確かに美人だし、もう50も近いというのに可愛らしさが十分残っているが、顔が能面みたいで表情に乏しく、主役としての魅力に欠ける。もちろん映画スターという設定だから、常に回りを意識して表情を崩さないよう努力したり、自分の魅力を武器に男に取り入ろうとするのはある意味でリアルであるともいえる。しかし女優としての表の顔のほかに当然裏の顔、すなわち彼女の素顔もあるはずだ。その二つを演じ分けられなければ主演の役割を果たしているとは言えない。めまぐるしい展開に追われて、中心にある人間ドラマを十分掘り下げられなかった。「ボン・ヴォヤージュ」が傑作にならなかった一番の理由はそこにあると思う。

2005年9月25日 (日)

ハウルの動く城

cut-window3  「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」は色々なテーマを無理に詰め込みすぎてどこかごちゃごちゃした感じがした。しかし宮崎駿は「ハウルの動く城」で再び「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」の路線に戻った。彼にはやはり大冒険活劇が似合う。理屈ぬきに楽しめるからいい。

  「ハウル」には上の3作のエコーが感じられる。爆撃機が飛び交う火に包まれた戦場の場面は「未来少年コナン」のタイトル場面や「風の谷のナウシカ」を思わせる。鉄の戦艦や飛行機は「風の谷のナウシカ」を連想させる。最後にチラッと出てくる、緑の木と芝生に囲まれた空飛ぶ「城」はまさに「天空の城ラピュタ」だ。何度も出てくる文字通り絵のように美しい場面は見ているだけで心を和ませる。フィクションが本来持っている重要な効果の一つ、現実を超えた理想的な状況や場面を疑似体験させてくれるという効果を、最大限に発揮している。わくわくする冒険の世界。これこそアニメの、ひいては物語の原点だ。魔法の世界はそういう意味で効果的に機能している。ダイアルを変えるたびに違うところに通じるドアがまさにそれだ。ヨーロッパ風の町並みの美しさも特筆すべき。「魔女の宅急便」や「紅の豚」にも出てくるが、「ハウル」のものが一番美しい。そして何といってもあの動く城だ。その外観もさることながら、内部のヨーロッパ風の作りがため息が出るほど素晴らしい。

  この作品の素晴らしさは声優の使い方にも現れている。これまで有名人を起用していたため、本職の声優の様には絵と声が一致していない恨みがあった。本作ではそれが見事に一致している。とりわけ倍賞千恵子は若いソフィーとばあさんのソフィーの声を見事に使い分けていた。妹「さくら」も顔はもうすっかりばあさんなのだが、その声の若々しいこと。実に見事な声技だ。美輪明宏と加藤治子は絵が本人に似せて描かれていたこともあり、絵と声がうまくマッチしていた。以外なのは木村拓哉。一番心配だったが何の違和感もoldcastle-1なくやってのけた。賞賛していい。

  原作が外国のものだけに、人物は西洋人風に描かれている。特にソフィー(もちろん若い方)は魅力的だ。これまでのヒロインの中で一番女の子としての魅力を感じた。顔の映らない斜め後ろからの姿がこれほどまでに心をときめかすヒロインは今までいなかった。長く愛せる作品がまた増えた。宮崎駿には毎年1作ずつ永遠に作ってほしいくらいだ。

  ちょっと褒めすぎか。自分らしくない気もするが、たまには手放しで褒める映画があってもいいだろう。宮崎駿は本当に好きなのだから。

寄せ集め映画短評集 その4

毎度おなじみ、在庫一掃セール第4弾。今回は各国映画7連発。

c_aki01b 「父よ」(2001、ジョゼ・ジョヴァンニ監督、フランス)
  「穴」で成功したジョゼ・ジョバンニの自伝を彼自らが映画化したもの。自伝だがむしろ視点はタイトルどおり父親に当てられている。父親はプロの賭博師だがまじめな性格で、暗黒街に身を投じた2人の息子とは仲が悪かった。鼻が大きくジャン・ギャバンを思わせる堂々とした体躯。息子達は逮捕され投獄される。兄は脱走を試み殺される。残った弟(マニュ)を父親は何とかして助けようと懸命の努力をする。刑務所の向かいの酒場に毎日のように通い、弁護士や看守にさかんに働きかける。ついには被害者の家族に会い、減刑嘆願書を手に入れる。そのおかげでようやく息子は死刑を逃れる。しかし父親はそれを母親の努力の成果だと息子には伝える。やがて息子は出所し、彼の書いた手記「穴」がベストセラーになり、映画も大ヒットする。出版記念のパーティに父親は姿を現すが、息子とは会わずに去る。
  全体にフィルム・ノワールを思わせる暗い色調で描かれている。それが効果的だ。死刑が迫り精神的に荒れる息子。何とかして息子を救おうと考えられる限りの努力をする父親。母親は頼りにならない。よく出来た作品だと思うが、もう一つ胸に迫ってこなかった。「穴」のような脱獄の話ではないので緊迫感が足りないのは仕方がないとしても、淡々としすぎていて盛り上がりに欠けるせいだろうか。その点が残念だ。

「道中の点検」(1971年、アレクセイ・ゲルマン監督、ソ連)
  作品完成後検閲に引っ掛かり15年もお蔵入りしていたアレクセイ・ゲルマン監督作品。この作品はどうしてそれまで上映禁止になっていたのかと思うほどすぐれた映画である。ドイツ軍の捕虜になっていた男がソ連軍に投降してくる。この男は敵のスパイか、それとも味方か?この点をめぐって二人の将校の意見が対立する。味方であることを立証するために、彼はドイツ軍の車を奪うように命令される。任務は首尾よく果たしたが、味方も一人殺され、そのため疑いはまだ晴れない。彼は最後のチャンスとしてドイツ軍の軍用列車を奪う作戦に加えられる。作戦はうまくゆき列車を奪うことができたが、主人公は味方を援護して戦死する。白黒の画面が素晴らしく、またドキュメンタリー・タッチとよく合っている。信頼と疑惑の狭間で苦悩する主人公をウラジミール・ザマンスキーが見事に演じている。
  だがこの映画の中心人物はもう二人いる。二人の将校だ。主人公に対する評価が真っ向から対立するこの二人の確執は、この作品のもう一つの主題になっている。この二人の対立を最も劇的に示しているシーンは、鉄橋爆破のシーンである。橋の架かる川の上を一隻のはしけがゆっくりと進んでいる。そのはしけにはソ連兵の捕虜がひざを抱える姿勢でぎっしり詰め込まれている。パルチザンたちは鉄橋に爆薬を仕掛け、ドイツ軍の軍用列車を爆破しようとしている。しかし列車が橋に差しかかった時、ちょうどはしけがその下を通過した。爆破すべきか否か。この時も二人の将校の意見は対立した。緊張の数秒が過ぎ去り、橋は爆破されずに残っていた。このシーンは作品の一挿話に過ぎないが、作者のヒューマンな姿勢が最もはっきりと表れた印象的なシーンである。これだけの作品が15年間も公開されないでいたということは驚くべき事実だ。

「黄色い大地」(1984年、チェン・カイコー監督、中国)
  最初に見たのが1989年の4月だから約15年ぶりに観た。主題はすっかり忘れていた。地方の民謡を採取して新しい歌詞をつけて人々に広めるために村にやってきた役人と、彼が泊めてもらった家の娘の関係を描いたものだ。今見ると共産党をたたえる歌を子供に教えたり、南の方では親が娘の結婚相手を見つけるのではなく、自分で見つけるようになっているという話に娘が感化されるなど、相当に共産党色が強い映画だ。ただ、黄河が流れる黄色い大地の色、花嫁を乗せた籠にかぶせた赤い布の色など、色彩の描き出しにチャン・イーモウ(撮影監督)らしさがのぞいている。
  たくさん出てくる民謡はいかにもスタジオ録音っぽくてリアルではない。むしろリアルさは黄色い荒れ果てた大地とその横を流れる黄河の流れ、そこまで5キロの道のりを歩いて水汲みに行く労働などにある。娘の親の老人が言う古い因習にしばられた考え方、結婚式の風習や普段の生活(娘の弟は放牧をしている)なども今見てもリアルである。f_kesiki01w
  娘には年上の、それもだいぶ前から決まっていた結婚相手がおり、いよいよ嫁入りが決まる。役人の話に出てくる自由な生き方に憧れ、自分も八路群に連れて行ってほしいと望むようになる娘の気持ちが切ない。しかし役人は帰ってしまう。娘は結婚させられるが、嫁入りの日、不気味なほど黒い手が彼女が頭にかぶっている赤い布を取る。夫の顔は出てこないが、恐ろしさに後ずさりする娘の姿が描き出される。結局、娘は夫のもとを逃げ出し、対岸の八路軍のところに渡ろうと黄河に船を出すが、途中でおぼれたことが暗示される。
  最後に役人がまた村に戻ってくると、また結婚式が行われており(映画の冒頭も結婚式で始まる)老人と息子はそれに出ていた。しかし娘の姿はない。悲恋仕立てにしているところがこの映画を救っている。

「さびしんぼう」(1985年、大林宣彦監督)
  期待したほどではなかったが、若いころ見ていたら引き込まれたかもしれない。ビデオ屋で並んでいた大林作品を眺めていて気付いたが、彼の作品はみな超自然的現象を扱ったロマンチック恋愛ドラマなのだ。「はるかノスタルジー」は言うまでもなく、過去の時代と接点を持ってしまうTVドラマ「告別」もそうだし、幽霊が出てくる「ふたり」や男女の精神が入れ替わってしまう「転校生」も同じだ。「さびしんぼう」を観ていて今の韓国映画と共通するものがあると感じた。出だしの悪がきどもの馬鹿騒ぎも「ラブストーリー」と同じだし、写真の女の子が現れるというありえない設定も「イルマーレ」や「リメンバー・ミー」に通じる。まるで今の韓国映画を見ているようだ。韓国映画が大林から影響を受けたということは聞いたことはないが、これは新しい発見だった。
  それにしてもどうして十代の若者を描くときはあんなに馬鹿みたいに描くのか。そんなに馬鹿みたいにはしゃいでばかりいるわけではないだろう。「ジョゼと虎と魚たち」の最初のあたりにもそれを感じたし、「ピンポン」や「GO」にすらその気がある。逆に小学生を描くときは大人びた生意気な子どもが多く出てくる。面白い現象だ。
  「さびしんぼう」の後半はよく出来ている。冨田靖子の魅力がよく生かされている。一番かわいかった頃だろう。高校生役と道化役がそれぞれに魅力的だ。特に道化のときの最後の場面、雨で目の黒い化粧が溶けて雫となってほほを流れ落ちるシーンは印象的だ。この後半のよさを最初から出せていたら傑作になっていただろう。しかし冨田靖子の未来の姿が藤田弓子では夢も希望もないわい。もっとも藤田弓子も最後は多少きれいに見えたが。小林稔侍が若い。20年近く前だから当然だが、今のへらへらしたいやらしさはない。

「シティ・オブ・ゴッド」(2002年、フェルナンド・メイレレス監督、ブラジル・米・仏)
  ブラジル製作の新手のギャング映画だ。麻薬と女がからむのはいずこも同じ。違うのは子供のギャングだということ。どこで手に入れるのか子供たちが銃を持っている。そして舞台は貧民街。貧困が根底にある。
  はじめは普通の強盗だったが、その仲間の一番小さい子供が仲間が引き上げた後襲った店の人間を皆殺しにしてしまう。この子供が後のリトル・ゼという町一番のギャングになる。彼は次々に他のギャングたちを殺し、麻薬を一手に支配する。しかし、最後のもう一つ別のグループと全面対立に至り、激しい抗争の末に双方ほぼ壊滅してしまう。そしてまた小さな子供たちが銃を手にして・・・。
  いつ果てるともない暴力支配を、新鮮な演出でスタイリッシュに描いている。社会派的な描き方ではないが、一人一人のギャングを短いが端的に描き分けてゆく演出力は出色だ。ストーリーを語るのはギャングの仲間ではないが、終始その近くにいたカメラマン志望の少年である。彼が決して暴力に走らないまじめな少年であることが、この映画をただ血なまぐさいだけのギャング映画になることから救っている。
  銃と暴力が密接に関係していることをいやというほど見せ付けられる映画だ。子供たち同士が殺しあっていることに胸が痛む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」と併せて見るといいかも知れない。

「猟奇的な彼女」(2001年、クァク・ジェヨン監督、韓国)
  いかにも東洋的なラブ・ロマンスである。何といってもヒロインの激しい性格が魅力的だ。一方のキョヌは対照的に気が弱くて人が良い。「ぶっ殺されたい?」というせりふが有名になっsuiso01たが、確かに強烈な印象を残す。出会いがすごい。電車のホームでふらついて電車にひかれそうになっているのをキョヌが見かねて助ける。何とか電車に乗せたが、彼女は実は酔っ払っていて、前に座っているおじさんの頭に思いっきりゲロを吐いてしまう。そのまま眠ってしまったので仕方なくホテルに泊める。翌日食堂か何かで話していると近くの客にいきなり怒鳴りつける。気に食わないとキョヌもひっぱたく。とんでもない暴力女だが、なかなか魅力的な女性である。
 キョヌは彼女に魅かれる。だが、どこの誰だかわからない(彼女の名前は最後まで出てこない)。連絡はいつも彼女から携帯にかかってくる。しかしそのうち彼女は前の恋人と別れたことが分かってくる。彼女にはその恋人が忘れられないのだ。だからキョヌを真には愛せない。結局二人は分かれることになる。丘の上の木の下にそれぞれ相手に当てた手紙を埋め、2年後に会うことを約束する。このあたりはいかにもロマンチックな仕掛けだ。
  しかし2年後彼女は現れなかった。しばらくキョヌは通い続けたが、彼女は現れなかった。3年後に彼女は木の下にやってきた。そこには老人がいた。その老人から、実はその木は雷で折れ、代わりに同じような木を一人の若者が運んできたものだと聞かされる。そして本気で思えば、偶然会えるものだと言われる。最後に、実は彼女の元恋人の母親がキョヌの叔母だということが分かる。叔母を挟んで二人は「偶然」再会する。
  ヒロインを演じたのは、「イルマーレ」のチョン・ジヒョン。この映画の魅力の半分は彼女の魅力である。韓国の女優は美女が多い。多分これからもっと個性的な女優が出てくるだろう。しばらくぶりに若い頃の、女性に惹かれる痛い思いに浸った。相手役のチャ・テヒョンもいい。美男ではないが人のよさそうなところに好感が持てる。笑顔が良い。そして、恥ずかしくなりそうなロマンス仕立て。しかしこれが意外にはまっている。日本のテレビドラマだと鼻についてしょうがないものになってしまうだろうが、恐らくヒロインの破天荒な性格と彼女の魅力がこの絵に書いたようなロマンスの破綻を防いでいるのだろう。

「グッバイ・レーニン」(2003年、ヴォルフガング・ベッカー監督、ドイツ)
  再統一後の東ドイツの生活の移り変わりを母と息子の関係を通じて描いた映画。母親はベルリンの壁が崩壊する直前に、デモに参加していた息子が警官に逮捕される場面を目撃して気を失ってしまう。そのまま8ヶ月昏睡し続けたが、ある日意識を取り戻す。しかし強い刺激は命取りだといわれた息子のアレックスは、その間の東ドイツ崩壊の事実を母から何とか隠そうとつとめる。
  いい話なのだが、どこか設定そのものがわざとらしい。もっと正面から描く方法もあっただろう。東側に西側の文化や金が急激に入り込む様子がリアルに描かれていただけに、室内描写と親子の関係に焦点を絞ってしまったのは視野を狭める結果にもなって残念だ。しかし親子の情は良く描かれている。少しマザコン気味かと感じるほどだ。息子が眠っている隙に母親が外に出てしまうシーンは印象的だ。ヘリコプターに吊るされたレーニン像がまるで母親に手を差し伸べるようにして飛んでゆくシーンがなんとも思わせぶり。
  映画の政治的立場は微妙だ。西側の金ずくめの生活文化や考え方を皮肉に見ている面もあるが、東側のよさを見直そうというわけでもない。ただ時代の流れに流されてゆく人々を少々の感慨を込めて描いたという感じである。
  ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの生活の変化が良く描かれていたのは収穫だった。壁崩壊直後のワールドカップでドイツが優勝したことが東と西の融和を促進したこともよく分かった。

2005年9月24日 (土)

アフガン零年

minzokuishou2003年 アフガニスタン、日本、アイルランド
監督:セディク・バルマク
出演:マリナ・ゴルバハーリ、モハマド・アリフ・ヘラーティ
    ゾベイダ・サハール、ハミダ・レファー
    モハマド・ナデル・ホジャ、モハマド・ナビ・ナワー

  最後まで観るのはつらかった。タリバンの無法振りには体中から怒りが噴出す思いだ。神の名を語りながら、人道にもとる非情な振る舞いを平気で行う。アメリカの侵略も非道だが、タリバンも許せない。つくづく日本は豊かで平和だと感じる。いくら不況だといっても日々命の不安に怯えることはない.。

  映画の冒頭、男手をなくした女達のデモ隊が道を行進してくる。私たちは政治団体ではない、ただひもじいだけだ、働き口がほしいと口々に叫びながら。そこにタリバン兵たちが襲い掛かる。銃で威嚇し、水を浴びせる。主人公の少女とその母親はたまたまそのデモに居合わせていた。少女の一家は父親を失い、祖母と女三人で暮らしている。せめてこの娘が男の子だったら働けるのにと母親が嘆く。祖母が眠っている娘の髪を切って男の子に似せる。少女マリナは牛乳屋で働かせてもらうが、タリバンに無理やり召集されてしまう。軍事訓練などをさせられるが、特に印象的なのは男の子が初めて射精したときにどう体を洗うか教わるところだ。右の睾丸を3度洗い、次に左の睾丸を3度洗う。最後に「真ん中」を3度洗うのだと教えて、長老が自ら実践して示す。なんとも奇妙な風習だ。これはイスラム圏に一般に行われる風習なのか、それともタリバン独特のものなのか分からない。少女も無理やり風呂に入らされる。

  そのことがあってから彼女は女っぽいと他の男の子からはやし立てられるようになる。彼女をかばってくれたのは、身寄りのない線香屋の少年だ。彼は木に上って男の子だと証明してやれとマリナに言う。彼女はうまく木に登ったが、一人では降りられない。そのうちタリバンに見つかってしまう。罰としてマリナは井戸に吊るされる。この場面には激しい怒りを覚えた。引き上げられると、彼女は初潮が始まり血が足を伝っていた。女の子であることが発覚したマリナは宗教裁判にかけられる。

  裁判が始まり次々に判決が言い渡される。ビデオを映していたのでスパイだとされた外国人は銃殺にされた。次の女性は、罪状は忘れたが、石打で死刑にされた。地面に穴を掘り埋められている。マリナは罰は受けなかったが、無理やりある老人の嫁にされてしまう。老人はマリナを家に連れてくると門の中に入れて鍵をかける。各部屋に鍵をかける念の入れようだ。他にも無理やり彼と結婚させられた女性が何人かいた。初夜の場面で終わる。中国映画「紅夢」(コン・リーがもっとも美しかった頃の作品だ)も同じように無理やり売られてゆく女性の話だが、これほど悲惨ではない。

  マリナを演じた少女は親を亡くし物乞いをしていたという。キャスト・スタッフ紹介でそれを知ったとき、思わず深いため息の様なものが口から出た。何ということか。人類に進歩はないのか。怒りと虚無感に襲われる。

  監督はアフガニスタン人でソ連の傀儡政権時代にソ連で映画を学んだという。タリバン時代はパキスタンに亡命しており、タリバン政権崩壊後アフガニスタンに戻った人だ。これが長編映画第1作目。演出にやや拙いところがあるが、ストーリー自体の強烈さがそれを超えている。マリナの不安そうな、しかし強いまなざしが目に焼きついて離れない。今年観たもっとも重い映画だ。              

少女の髪どめ

2001年 イランfullmoon1
監督、脚本:マジッド・マジディ
出演:ホセイン・アベディニ、モハマド・アミル・ナジ
    ザーラ・バーラミ、ホセイン・ラヒミ、ゴラム・アリ・バクシ

 「運動靴と赤い金魚」「太陽は、僕の瞳」に続くマジッド・マジディ監督の作品。どれも傑作なのはすごい。3作ともモントリオール映画祭でグランプリを受賞している。

 冬のテヘラン。ラティフは建設現場で働く17歳の青年。短気で喧嘩っ早い性格だ。その現場ではアフガニスタン人が違法に働いている。ときどき査察があり、アフガニスタン人はそのたびにあわてて隠れる。ある時アフガニスタン人の一人が誤って2階から落下し怪我をする。翌日代わりに息子のラーマトが働きに来る。そのラーマトにお茶汲み仕事を奪われ、代わりにきつい仕事をさせられたため、はじめラティフはラーマトに意地悪をする。しかしある時ラーマトが女の子であることを知ってしまう。その時からラティフは彼女に引かれる。何かと彼女を助ける。次の査察のとき運悪くラーマトが見つかってしまい、それ以後はその現場ではアフガニスタン人は働けなくなってしまった。ラティフはたまたま見つけたラーマトの髪どめを帰そうと彼女の家を探す。やっと家を見つけたラティフは、金に困ったラーマトの一家に稼いだ金を全部渡してしまう。やがてラーマト(本名はバランでそれが原作の題名になっている)たちはアフガニスタンに帰ってゆく。一家がトラックで去った後、ラティフはぬかるみに残ったラーマトの足跡を見て微笑む。さりげない別れが切ない。

 初めのうちは短気なラティフにいらいらするが、ラーマトに献身的に尽くすようになってからはそれも気にならなくなる。なぜ彼がそこまでするのか、何でそんなに彼がラーマトに惹かれるのかは分からない。個人の感情の問題だからだ。しかし彼や現場監督をはじめ、イラン人はアフガニスタン人に親切である。ラティフのラーマトいやバランに対する愛情にはアフガニスタン人に対する同情も混じっているだろう。彼がラーマトを探してアフガニスタン人居住区に行くあたりは、「運動靴と赤い金魚」で貧しい親子が裕福な地域を回って働き口を探す場面を思い起こさせる。ラティフは少女を探しに行き、社会を見るのである。

 イラン映画にはイラン人以外にクルド人やアフガニスタン人などがよく登場する。市井の人々を描きながら他民族や他国人も視野に入っている。イランでは黒澤や小津が尊敬されているというが、なんでもない庶民を描きながらそこに社会的な広がりがある。子どもが主人公になることが多いイラン映画だが、子どもは常に大人の社会の一員として描かれている。ラティフのバランに対する愛情は自己犠牲をいとわない純粋なものだったかもしれないが、われわれは社会を通してそれを見るのである。冬のテヘランの街の美しい風景も忘れがたい。中国とも韓国とも違う独自の映画文化をイラン映画は築いてきた。日本映画も中国映画も韓国映画でさえも描いたことのない愛の世界が、ここには描かれている。映画の持つ美しさとは何かを考えさせられる映画である。                       

2005年9月23日 (金)

八月のクリスマス

1998年 韓国2204snowmanwreath4
監督:ホ・ジノ
出演:ハン・ソッキュ、シム・ウナ、シン・グ、イ・ハンウィ
    オ・ジヘ、チョン・ミソン

 韓国お得意のラブ・ロマンス。しかもその王道を行く難病ものだ。しかし決して大仰に涙を誘おうとはせず、淡々と主人公の最後の日々を映してゆく。病名も分からない。しかもお定まりのパターンとは違って、病気で死ぬのは男のほうだ。その主人公ジョンウォンを韓国の大スター、ハン・ソッキュがさわやかに演じている。彼は常に微笑んでいる。「シュリ」の時とはまるで違う表情。こんなにニコニコしているのが似合う俳優は他にいない。一番ハン・ソッキュらしい役柄ではないか。

 彼が営む写真館をたびたび訪れる交通取締官タリムを演じるのはシム・ウナ。主人公ジョンウォンを「おじさん」と呼んでしきりに付きまとう。ジョンウォンは彼女を見ると必ず微笑む。時期は暑い八月だ。タリムが一方的に付きまとう関係は夏の間続く。しかしやがてジョンウォンは入院し、タリムがいつ行っても留守になっている。タリムはドアの間に手紙を入れて立ち去る。やがて彼女の管轄区域が変わり、話を交わすこともなくタリムは別の地域に移る。管轄が変わると聞いて、トイレで涙を流す彼女の鏡に映った顔が印象的だ。

 一時店に戻ったジョンウォンは彼女の手紙を見つけ、返事の手紙を書くが、渡すことなく箱に入れて棚にしまう。お涙頂戴の常道をとことん排してゆく。この映画のさわやかさはこの演出法から来ている。彼の死の場面もあっさりと描かれる。最後に葬儀用の写真を自分で撮り、その写真が実際の葬儀の写真に変わる。冬が来てタリムが店を訪れる。店の前に飾られた自分の写真を見て彼女は微笑み、去ってゆく。おそらく彼女はジョンウォンの死を知らないのだろう。彼女に知られることもなくジョンウォンは静かに去って行ったのだ。楽しかった思い出だけを彼女の胸に残して。

 「シュリ」のように泣かせよう泣かせようとする安易な方向に行ってしまいがちな韓国映画だが、湿っぽくなりがちな題材をさらっと描いたことがこの作品の成功の一番の理由である。「冬のソナタ」が日本でも大ブームだが、映画では「イルマーレ」やこの「八月のクリスマス」のようなさわやかな映画を作ってしまう。韓国映画の成熟を見事に体現している映画だ。

丹下左膳餘話 百万両の壷

asagao-31935年 日活京都  原作:林不忘
【スタッフ】
製作: 脚本:三村伸太郎
監督:山中貞雄
音楽:西悟郎
撮影:安本淳
【出演】
大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎、深水藤子
宗春太郎、花井蘭子、高勢実乗

 山中貞雄(1909-38)の現存する三本のフィルムの一つ。他の2本は「人情紙風船」(1937年)と「河内山宗俊」(1936年)。

   「丹下左膳餘話 百万両の壷」は決して派手なチャンバラ映画ではない。むしろアンチヒーロー時代劇コメディとでも呼ぶのがふさわしい。大河内伝次郎扮する丹下左膳は、美人で歌のうまいお藤(喜代三、NHKの黒田あゆみアナウンサーにそっくり)が営む矢場に居候する用心棒。普段は奥の部屋にぐうたらと寝そべっているしまりのない男。少しも凄腕の剣士という雰囲気を放っていないところがいい。大河内伝次郎は頭が大きすぎて、全身が映るとなんとも不恰好である。皺の寄ったよれよれの着物を着ている。およそ英雄豪傑、剣豪のイメージからは程遠い。しっかりものでやり手のおかみとぐうたら用心棒の組み合わせが抜群だ。しょっちゅうつまらないことで言い合っているが、この掛け合いがコミカルで面白い。

    とはいえ、前半はさほど優れた映画だという気はしなかった。どうも説明的だからだ。冒頭で柳生家に代々伝わる「こけ猿の壷」にまつわる秘密が語られる。その壷には百万両の隠し財宝のありかが隠されていたのである。柳生家の当主はそれとは知らず、弟の源三郎の結婚祝いにその壷を贈ってしまう。源三郎は安っぽい壷ひとつしかくれなかった兄に腹を立て、腹いせにその壷をクズ屋に捨て値で売り払ってしまう。

    源三郎を演じるのは沢村国太郎。沢村貞子の実の兄だ。しかしどうもこの沢村国太郎の演技がしっくり来ない。下手ではないのだろうが、下手に見えてしまう。台詞回しもどこか浮いている感じがする。どうもまだこの役柄に慣れていないという感じがして仕方がない。

   こけ猿の壷はクズ屋の隣りに住む安吉という子どもの手に渡り、金魚鉢として使われている。安吉の父親がやくざに殺され、独りぼっちになった安吉はお藤のところに引き取られる。そのお藤が営む矢場に源三郎がよく遊びにくる。こうして、矢場を中心に主要登場人物と壷が結びつく。このあたりから映画は俄然面白くなってくる。丹下左膳とお藤が登場すると映画がぐっと締まってくるのである。

   安吉をめぐって丹下左膳とお藤が掛け合い漫才のようにやり合うあたりはホーム・コメkingyo-t2ディのノリだ。互いに「あたしゃ子供なんか大嫌いだよ」とか「俺はやだよ」とか言いながら、画面が切り替わると言葉とは反対に竹馬を買ってやったり、いじめっ子を懲らしめたりと子煩悩振りを発揮しているのである。このあたりがなんとも可笑しい。ただ、この手法が何度も繰り返されているのがちょっと気になった。

   一方、源三郎は「壷を探すのは10年かかるか20年かかるか、敵討ちの様なものだ」などとのんきなことを言いながら毎日壷探しに出かけるが、実はお藤の矢場で毎日遊びほうけている。そこで働く若い娘にほれ込んでいるからだ。このあたりまで来ると沢村国太郎のほんわかした馬鹿殿ぶりが実にいい味を発揮するようになってくる。場面になじんでくると言うか、大河内伝次郎と喜代三という芸達者二人と響きあうように生き生きとしてくる。 しかしこちらも「壷を探すのは10年かかるか・・・」というせりふがあまりに多用されている。1、2度ならともかく、やりすぎると逆効果だ。おそらく撮影終了後の編集に十分時間がかけられなかったのではないか。前半がもたついているのもそのせいだろう。

  源三郎が奥方に浮気を見抜かれ禁足を食ったり、金に困った丹下左膳が万事休した末に道場破りに行くとそこが源三郎の道場で、道場主である彼が実はさっぱり剣術が出来ないことがばれそうになったりと、どたばた調の展開をへて、万事平和に収まるという結末に至る。チャンバラ映画らしいところは道場破りの場面で少し出てくるが、これが売り物ではない。徹底してチャンバラ映画の常道を意図的に踏み外して行く。そこがなんとも爽快だ。

  ラストがまたいい。源三郎は壷のありかを知っていながら、あえてそれを持ち帰らず、壷探しと称して矢場での気ままな自由時間を楽しんでいる。彼が本当に求めていたのは財宝ではなく、自由な生活だったという落ちが効いている。

  「こけ猿の壷」探しというストーリーを縦糸に、横糸として丹下左膳、お藤、安吉を中心としたヒューマン・ホーム・コメディと、肩身の狭い婿養子の境遇からの脱出をはかる源三郎の浮気話が絡められている。それにチャンバラ・シーンが味付けとして添えられている。そういう映画だ。アンチヒーローが主人公という点は「人情紙風船」も同じ。すさまじい殺陣を売り物にしたチャンバラ映画とは一味もふた味も違う。数ある時代劇映画の中でも実にユニークな位置を占めている。もっと多くの山中貞雄作品が現存していれば、もっと彼が長生きしていればと思わざるを得ない。

付記
 KSさんからとても参考になるコメントを頂きました。そちらもどうぞあわせて読んでみてください。

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2005年9月22日 (木)

殺人狂時代

  1947年 アメリカclip-lo5
監督、脚本、製作、音楽:チャールズ・チャップリン
出演:チャールズ・チャップリン、マーサ・レイ、マリリン・ナッシュ

 ずいぶん久しぶりに観たが、これはやはり傑作だ。「ライムライト」がチャップリン唯一の悲劇だとすれば、これは彼の唯一のシリアス・ドラマだ。1889年生まれで1947年の作品だから、チャップリン58歳の時の作品である。彼の役者としての類まれなる才能にとにかく驚かされる。前半はシリアス・タッチでベルドゥ氏(チャールズ・チャップリン)の日常を描く。何重もの結婚をしていて、金が必要になると女を殺して奪う。それが彼の日常だ。したがって移動が多い。汽車の車輪が何度も映される。彼は元銀行員。ものすごい速さで金を数える。このシーンというか指さばきははっきり覚えていた。思わずスロー再生して確かめてみたくなるほどの早さだ。何人もの妻がいるが、本当の妻と息子もいる。どうやらこの妻と息子は本当に愛しているようだ。この描き方がいい。ヒトラーも決して根っからの冷血人間ではない。にもかかわらず冷酷な犯罪を平気で出来るのだ。

 後半あたりから徐々に喜劇的な色調も入ってくる。重々しかった彼の身のこなしも軽くなってくる。ちょび髭にどた靴とステッキといういつもの扮装をした時とはまた動きが違うが、それでも喜劇の常道である逃げたり隠れたりといった行動が混じってくる。チャップリンが船長に扮して会いに行く女性が出てくるあたりからだ。その女性はものすごくこわい顔つきで、性格もきつい。コメディにもってこいのキャラクター。ボートに乗ったとき水面を見て「怪物がいる」と叫ぶが、すぐ後に「あら、自分だったわ」というところが可笑しい。このシーンも覚えていた。チャップリンはシリアスな演技もコミカルな演技も見事にこなす。並みの俳優ではない。俳優であり、芸人であり、芸術家である。ほかに思い当たる人がいない、まさにワン・アンド・オンリー。神業だ。

 そのベルドゥ氏も株の大暴落(世界大恐慌の頃が背景だ)で全財産を失う。すっかり落ちぶれ、警察に通報されても逃げもしない。おとなしく掴まる。そして死刑の前の獄中のシーン。有名な場面だ。「一人殺せば犯罪だが、百万人殺せば英雄だ」という有名なせりふ。それ以上に印象的だったのは、牧師が神と和解しなさいというと「神とは平和な関係にある。人間と対立しているのだ」というせりふだ。

 何が彼を殺人者にしたのか。株の暴落もヒットラーの登場もその原因とはいえない。なぜならその前から彼は既に殺人者になっていたからだ。平凡な銀行員として30年間勤め上げた後、あっさり首にされた彼の心境に何があったのか。もう一度じっくりと見直してよく考えなければ簡単に言えない。チャップリンは「独裁者」でヒットラーを笑い飛ばしたが、この(浦沢直樹の「モンスター」を連想させる)怪物を笑い飛ばすことは出来なかった。彼は死刑になったが、薄笑いを浮かべながら泰然自若として死んで行ったのだ。

  コメディや社会風刺を通過して彼が最後に到達した高み。冷徹な人間観察。冷徹な風刺。磨き上げられた芸。これが彼の最高傑作かもしれない。

DVDを出してほしい映画

_ こうしてリストを作ってみて、ほとんどが社会派の作品だということに気付いた。当然僕の好みも反映しているが、これには映画会社やDVD製作会社の姿勢もあわられていると言っていいだろう。またその一部は観る側の姿勢の表れでもある。どうせ売れないと判断するから出さないわけだ。「ジョニーは戦場へ行った」が今年の8月に発売されたが、あの名作の発売がこんなに遅れたのも同じ共通の理由があると思わざるを得ない。
 (注) 作品名の後に紹介とあるのは、当ブログに作品紹介がのっていることを表して
     います。

 

「青い凧」
  50~60年代の中国。時代によって翻弄されてゆく人々を描く忘れがたい傑作。
「歌っているのはだれ?」
  木炭バスに乗り合わせた人々の旅を独特のユーモアで綴るユーゴスラビアの名編。
    84年に岩波ホールで観たきりだが、口琴のビヨーンビヨーンという音が耳について
  離れない。
「ウディ・ガスリーわが心のふるさと」 祝!発売
  フォークの父、ウディ・ガスリーの伝記映画。歌が民衆とともにあった時代!
「エボリ」
  イタリアの巨匠フランチェスコ・ロージ監督が描くいぶし銀の様な傑作。
「エル・ノルテ 約束の地」 紹介
  弾圧を逃れ、南米からアメリカへ密入国した兄妹を待っていたのは過酷な現実
  だった。
「オフィシャル・ストーリー」
  アルゼンチンの軍事政権下で闇に葬られてきた事実を鋭くえぐる。南米映画の金
  字塔。
「戒厳令下チリ潜入記」
  軍事政権下のチリを亡命監督ミゲル・リティンが潜入して撮ったドキュメンタリー。
「下り階段をのぼれ」
  30年以上も前に淀長さんの解説つきでテレビで見たきり。ロバート・マリガン監督
  の反骨精神が発揮された傑作。ばかげた規則なんか糞食らえ。
「紅夢」
  チャン・イーモウ監督の傑作悲劇。この頃のコン・リーは本当に美人だった。
「五月の七日間」
  米ソ間の核禁止条約案をめぐる米軍内部の陰謀を描いた骨太な政治サスペンス。
「ザ・フロント」 祝!発売
  未公開作品だが、ハリウッドの赤狩りを題材にした映画の中でも群を抜いた傑作。
「森浦への道」 紹介
  韓国のロード・ムービーの傑作。ビデオは出ているがDVDも是非ほしい。
「シェーン」 祝!発売
  アメリカ開拓時代の農民の生活をリアルに描いた名作。DVDがないのが不思議だ。
「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」
  未公開作品だが必見の傑作。R.デュバルとR.ハリスの老優二人の名演に酔う。
「シベールの日曜日」 祝!発売
  アンリ・ドカエが撮った白黒画面の透き通るような、寒々とした美しさは例えようもな
  い。
「ジャズメン」
  ジャズが禁止されていた時代のソ連。それでも若者たちはジャズの演奏をやめな
  い。好きでたまらないことをやっているときの人間の顔はこれほどまで輝くものか。
「ジュリア」 祝!発売
  イギリスの大女優ヴァネッサ・レッドグレーヴの代表作。反ナチ活動に身を捧げる
  彼女のきりっとした姿は感動的だ。リリアン・ヘルマン原作。
「シルバー・スタリオン 銀馬将軍は来なかった」  紹介
  米兵にレイプされ村八分にされた母親。韓国の封建的体質を鋭くえぐった名作。
「終身犯」 祝!発売
  獄中で鳥の研究を始めた男がやがて鳥獣学の権威になる。バート・ランカスター
  が渋い。彼には重厚な作品が似合う。
「真実の瞬間」 
  91年のアメリカ映画ではなくイタリアの巨匠フランチェスコ・ロージ監督が闘牛士を
  描いた65年の映画。闘牛を主題とした映画としてはダルトン・トランボが変名で原
  作を書きアカデミー原作賞を受賞した「黒い牡牛」と並ぶ傑作。「黒い牡牛」もDVD
  化を望む(ラストが感動的)。
「1900年」 祝!発売
  5時間を越える超大作。ベルトルッチが最もラディカルだった時代に作られた最高
  傑作。
「Z」(東北新社から出ているそうです。せっかくですからこのまま載せておきます。)
  社会派コスタ・ガブラス監督の代表作。政治サスペンスといえばまずこの作品が思
  い浮かぶ。
「大閲兵」
  文芸座の中国映画祭で観た。個人的には初めて観た中国映画。閲兵式の訓練の
  ためにひたすら行進させられる兵士達を人間的な悩みも交えながら描く。チェン・カ
  イコー監督が「黄色い台地」に続いて撮った第2作。
「遠い日の白ロシア駅」
  ソ連版「再会の時」。戦後25年ぶりにかつての四人の戦友が隊長の葬儀のために
  再会する。白ロシア駅はドイツとの戦いに勝利してベルリンから帰還した兵士達の
  終着駅であった。ソ連映画はまだDVD化がさほど進んでいない未開拓の分野。こ
  こにはごく一部の作品を上げるにとどめる。まだほんの一部しか開拓されていない
  広大な沃野に今後どれだけ鍬が入るのか。
「にがい米」 祝!発売
  女性季節労働者たちを描いたネオ・リアリズモの傑作。S.マンガーノの太ももがま
  ぶしい。
「日曜日には鼠を殺せ」 祝!発売 紹介
  スペイン戦争の後日談。罠と分かっていてスペインに戻るG.ペックの決意が感動
  的だ。戦争映画のBOXには入っているが、単独でも出してほしい。
「日曜日は別れの時」
  後に労働党の議員になったグレンダ・ジャクソンの代表作。美人ではないが素晴ら
  しい女優だった。
「二ペンスの希望」
  貧しいがゆえに働き続けなければならない若者と恋。イタリアのほのぼの喜劇。
「にんじん」
  ルナールの名作の映画化。アリ・ボールの演技が素晴らしい。赤毛だから「にんじ
  ん」。
「灰とダイヤモンド」 祝!発売
  アンジェイ・ワイダの代表作の一つ。3度目に観たときにはこんなもんだったかと
  がっかりした記憶もあるが、やはりポーランド映画の代名詞的作品だけに名前を挙
  げておく。この作品に限らず、ワイダの作品は、いや、ポーランド映画はほとんど
  DVD化されていないのではないか。
「バウンティフルへの旅」
  いつも壁に向かって話しかけている老婆。ある日故郷のバウンティフルへと一人旅
  立つ。しかし故郷に向かう鉄道は廃線になり、バスの路線はまだあるが故郷の駅が
  なくなっている。いろいろな人に助けられてやっと故郷にたどり着く。主演のジェラル
  ディン・ペイジが素晴らしい。これが遺作となった。
「ハンガリアン」 祝!発売
  第二次大戦中ドイツに出稼ぎに行ったハンガリーの農民たち。戦争の波に彼らも
  否応なく巻き込まれ翻弄されてゆく。何人もの人がばたばたと殺される映画が横行
  する中、一人の農民が死んだときに仲間たちが仕事を放り出し囲むようにして祈り
  を上げる場面は感動的だ。初めて海を見た彼らが言葉もなくただ呆然とたたずむ
  シーンも忘れがたい。
「ハンガリアン狂詩曲」
  民族的なダンスが時折差し挟まれながらドラマが展開する。今まで見たことのない
  独特の様式を持った作品だ。この映画と「ハンガリアン」「メフィスト」を見れば、80
  年代のハンガリー映画の水準がいかに高かったか分かる。
「100人の子供たちが列車を待っている」 紹介
  貧しくて映画も見たことのない子供たちに映画の原理を説き明かし、手作りで映画
  というものを教える女性教師。原初的な形の動画が次々に出てくる。目を輝かせて
  見つめる子供たち。映画の原点を見つめなおさせてくれるチリ映画の名作。「列車」
  とはリュミエールの「列車の到着」に出てくる列車のことである。ビデオは手に入れ
  たが、DVDも是非ほしい。
「標識のない川の流れ」
  10数年前にNHKで放映された。いかだ流しの老人と中年男と青年。舞台を川と
  筏に限定しながらこの三人の生き方を描く。ゆったりとした河の流れが映画のリズ
  ムを作る。中国映画の傑作。
「フィクサー」
  ユダヤ人作家バーナード・マラマッド原作。30年以上前にテレビで観たきり未だ見
  る機会を得ない幻の名作。ユダヤ人差別を正面から描いた気骨ある作品。
「芙蓉鎮」 祝!発売 紹介
  世界に衝撃を与えた歴史的名作。文革の実体をこの作品を通して初めて知った人
  は多い。
「マルチニックの少年」
  マルチニック島に住む少年が成長してゆく過程を温かい目で描いている。子供らし
  いいたずらも出てくるが、人種問題にも鋭く切り込んでいる。監督のユーザン・パル
  シーは「白く渇いた季節」という傑作を出した後さっぱり名前を聞かないが、今どうし
  ているのか。
「路」 紹介
  トルコのユルマズ・ギュネイ監督の代表作。この映画を見たときの衝撃は今も忘れ
  ない。
「メイトワン1920」
  あまり知られていないのが残念だが、労働組合の闘いを描いた数少ない傑作の一
  つである。
「夜行列車」 祝!発売
  同じ夜行列車に乗った様々な人々。それぞれの人生模様を描く群像劇。ポーランド
  映画を代表する傑作のひとつだ。
「やぶにらみの暴君」 祝!改作「王の鳥」発売
  学生の頃フィルム・センターで観た。伝説の名作は評判を裏切らなかった。50年以
  上も前のアニメだが、その想像力の豊かさは今でも十分驚嘆に値するだろう。技術
  的には超えられても、創造性は簡単には超えられない。
「ラグタイム」
  E.L.ドクトロウの同名小説の映画化。20世紀初頭のアメリカをパノラマ的に描い
  ているが、黒人差別に憤りテロに走る黒人ピアニストのエピソードが強烈。
「ル・バル」 
  全編せりふなし、ダンスだけで戦前から現代までの歴史を表現してゆく。エットーレ
  ・スコラ監督の才能が光る異色の傑作。
「レッズ」 祝!発売
  『世界を震撼させた十日間』の著者ジョン・リードの伝記映画。W.ベイティ監督、
  主演。

2005年9月21日 (水)

寄せ集め映画短評集 その3

在庫一掃セール第3弾。今度はアメリカ映画5連発

「マッチスティック・メン」(2003年、リドリー・スコット監督)quebec5-s
  いい映画だと思った。あえてジャンルに分ければ、ヒューマン犯罪コメディって感じか。極端な潔癖症で神経科医にもかかっている詐欺師が、14年ぶりに会った娘に振り回されてあたふたする。ついには相棒に詐欺にかけられる。犯罪コメディたるゆえんだ。そして最後がいい。だまされたのをきっかけに彼は立ち直り、結婚してまじめに働いている。ある日1年ぶりに娘とばったり出会う。彼は娘を許す。そして親子として別れる。ヒューマン・コメディたるゆえんである。
  ほとんどありえないような設定だが、それを可能にしているのがさえない主人公を演じたニコラス・ケイジだ。何で俺がこんな目にあうんだとあたふた走り回る役柄は彼の18番だ。医者の薬が切れるととたんに呂律が回らなくなり、医者を必死で探すあたりのぼろぼろになった演技がいい。一番彼らしさが出ている映画だ。イラク侵略で国内がとげとげしくなっている時にこのような映画を作ったスタッフに拍手を送ろう。

「コンフィデンス」(2002年、ジェームズ・フォーリー監督、アメリカ)
  詐欺師の話だ。めまぐるしい展開。スピーディでシャープな演出が売り。だましだまされる展開に引き込まれるが、あまりに展開が速すぎて、味わいが少ない。昔の「スティング」や「ハスラー」や「シンシナティ・キッド」のように、登場人物の性格や人間関係をじっくりと描き、緊張感を持ちながらじわじわと展開して行く作りが懐かしい。
  最近のハリウッド映画はCGを駆使して、これまで描けなかった迫力ある映像を創造できるようになったが、あまりに見所を盛り込みすぎ、テンポがめまぐるしくなりすぎて、まるでゲームのようになってしまった。「キッチン・ストーリー」の様なほかの国のゆったりとしたリズムの映画や、同じアメリカ映画でも「ストレイト・ストーリー」の様なゆったりとしたテンポの映画が却って新鮮に思えるのはそのためだ。もうそろそろ、ハリウッドは映画作りを見直す時期に来ているだろう。
 主演のエドワーズ・バーンズが渋くていい味を出している。

サルバドル~遥かなる日々(1985年、オリバー・ストーン監督、アメリカ)
  「プラトーン」ほどの評判にはならなかったが、アメリカの他国介入政策に対する批判はより厳しく、その姿勢は一貫しており、作品の出来ははるかに上である。オリバー・ストーン監督の最高傑作。イラク情勢が完全に泥沼化している今こそ、この映画を見直すいい機会ではないだろうか。
  最前線という限界状況におかれた一兵士の目を通して描かれた「プラトーン」に対し、「サルバドル」は金のためにエル・サルバドルにやってきた新聞記者を主人公に設定した。記者の行動範囲の広さを最大限にいかして、虐殺現場、左翼ゲリラとの戦闘場面、ゲリラとの会見、アメリカ大使館の内部、ただおざなりにインタビューする他のアメリカのマスコミ等、エル・サルバドルの実情を多角的に捉え、現地の軍事政権をアメリカ政府がどのように利用し、間接的に支配しているかをダイナミックに暴きだして見せる。
sg  自ら死の危険を冒して取材するうちに記者のリチャードはアメリカの姿勢に疑問を抱き始め、絶えず死の恐怖におかれている民衆に共感を覚える。ゲリラになると言う少年にリチャードが「神のご加護があるように」と言うと、少年が「この国にはもう神はいない」と答えるシーンが印象的だ。そしてラストがいい。リチャードは現地 で愛した女性を何とかアメリカまで連れ出すことに成功するが、今度はアメリカの移民局員によって強制的に連れ戻されてしまう。リチャードはただ呆然と立ちすくむ。悲痛なシーンである。
  リチャードを演じるジェームズ・ウッズも見事だが、同僚の記者キャサディを演じるジョン・サベージが出色である。いつかキャパの様な写真を撮りたいという彼の姿勢から、リチャードは真の記者魂を学ぶ。キャサディは戦闘場面を取材中、戦闘機に撃たれて死ぬが、その戦闘機がアメリカから提供されたものだったというのも皮肉である。

「アメリカン・ジャスティス」(2000年、トニー・ビル監督、アメリカ)
  炭坑労働者が1年以上にわたってストを打ち抜き、最後に勝利する映画だ。「エアフォース・ワン」とは対極にある映画である。主演はホリー・ハンター。炭坑労働者の妻役。
  冒頭に落盤事故がおきる。利益のみを追求する経営者が安全性を無視した結果だ。そこへ組合のオルグがやってくる。きちんと背広を着た男で、見かけは労働者から浮いている。不安を感じさせるが、映画が進むうちに誠実な組合員であることが分かってくる。彼の前の幹部は組合の金をくすねていて今は監獄に入っている。労働組合の負の面も描かれているのである。最初は彼も同じいい加減なやつだと思っていた組合員やホリー・ハンターもやがて彼に説得されてストに入る。最初はホリー・ハンターの夫のほうが組合活動に熱心だったが、ストが長引くにつれて男たちは情熱をなくしかけてゆく。反対に労働者の妻たちが立ち上がる。まるで「北の零年」だ。長期戦になった時こそ女性の真価が発揮される。
  スト破りの乗ったトラックを追い返すために、男たちはピケを張っていたが裁判で3人までしかピケ・ラインに立てないことになる。そこで組合員でない女たちなら文句はないだろうと妻たちがピケを張る。トラックが強引にピケ・ラインを越えようとすると彼女たちは道に寝転び抵抗する。ベルトルッチの「1900年」に出てくる有名なシーンを意識したと思われる。
  しかしさすがにストも長引くと寝返る者も出てくる。ついに経営側についた労働者がストをしている労働者を銃で射殺するという事件がおきる。これがきっかけになって裁判で労働者側が勝利する。
  型どおりといえば型どおりの映画だが、その基本的な姿勢には共感できる。かつて「ノーマ・レイ」(マーティン・リット監督、1979年)、「メイトワン1920」(ジョン・セイルズ監督、1987年)という労働組合の戦いを正面から描いた力作があったが、これはそれに続くものである。地味だが、貴重な作品だといえる。

「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年、ソフィア・コッポラ監督、日米)51person
  日本でオールロケをしたことが評判になったが、日本ロケはそれほど意味がないと思える。ストーリーの骨格は共にアメリカから日本にやってきた男女が、異国の文化の違いに戸惑い、うまくいっていない夫婦関係に不満を感じ、たまたま同じホテルに泊まったことがきっかけになって近づいてゆくというものだ。この部分はそれなりに観る者を惹きつけるものがある。しかしそこが日本である必要は特に感じなかった。異国であればどこでも良かったのではないか。しかも日本人はおよそ愚かしく描かれている。ネオン輝く大都会だが、そこに住む人間達は愚かでどこか荒廃している。京都も一部描かれているが、ここは素晴らしい場所として描かれている。しかし人はほとんど描かれず、風景のみがクローズアップされている。大都会があり、便利で近代的な生活を送っており、素晴らしい風景にも恵まれているが、そこに住む人々は中身のない愚か者ばかり、それが日本の印象だ。もちろん日本人以外にも愚かな人物は登場する。イヴリン・ウォーの名前で泊まっているというアメリカ人女優がそうだ。仕事ばかりで妻を顧みないシャーロットの夫もしかり。しかし人間観察がそれで深まっているとは到底思えない。日本も大都会ばかりではない。同じ東京でも下町はまた違う面があるはずだ。薄っぺらな人間観察が映画の邪魔になっている。ストーリーと舞台のこの乖離が完成度を低めている。
  主演の2人はいい味を出している。ビル・マーレイ(ボブ)の渋さ。スカーレット・ヨハンソン(シャーロット)の可憐さ。スカーレット・ヨハンソンは「アメリカン・ラプソディー」の時よりもぐっと大人の女になっている。この2人が最後まで肉体関係に進まないところがいい。互いに惹かれあいながら分かれる。さわやかなラストだ。それだけに薄っぺらな人間描写が惜しまれる。俗世間を離れて2人の中心人物の濃厚な魂の交わりを描こうという狙いだったのかもしれないが、その意図は裏目に出たようだ。

中国旅行記余話

大連・フフホト点描_12
  大召寺の欄干のところで若い生臭坊主たちが4、5人群れて、携帯を持ちながらぺちゃぺちゃしゃべっていた。隠れて携帯をやるという気持ちもさらさらない。修行はどうした、おい、修行は!ブータン映画「ザ・_12カップ/夢のアンテナ」を思い出したが、あの程度ならかわいいもんだ。大召寺はフフホトで一番大きな寺だが、こいつらの代でこの寺も滅亡だな。(右は大召寺の鐘楼)

 ホテルの近くに映画館があったので少し中をのぞいてみた。「宇宙戦争」と「ステルス」、ほかに中国映画を2本やっていた。中国でも上映作品の半分はアメリカ映画なのか。

  レストラン「天天漁港」で食事をした。いけすを泳いでいる魚や魚介類を見ながら、これを生で、これを炒めてと調理法を決めて注文してゆく。今このタイプの店が大連で流行っているそうだ。地図で見た限りでは大連に「天天漁港」は2店あり、どちらも入ってみた。結構うまいと思った。 もう1軒、名前は忘れたが同じようにいけすが付いていて、そこで選ぶ形式の店にも入った。中国に来て一番おいしい店だった。ヒルトンホテルの角で左折したところにある。ここは美人の女の子をたくさん使って客を接待している。こりゃ流行るはずだ。「天天漁港」よりいけすも魚介類も多かった。「天天漁港」はこの店にいい魚を取られて最近味が落ちているらしい。

  ホテル横にあるCD屋に入る。日本のものや欧米のものがあって探してみるとなかなか面白い。しかも1枚15元、2枚組みでも30元である。信じられない安さ。海賊版なのか。何軒か歩いてCDを2セット買った。ノラ・ジョーンズの「フィールズ・ライク・ホーム」とコンピ「キューバン・リボリューション・ジャズ」2枚組み。あわせて58元。620円くらいか。聞いてがっかりしてもこの値段ならそれほど損した気分にはならないだろう。

  2軒ほど日本料理店に入った。どちらも結構本格的な日本料理でおいしかった。中国人の舌に合わせるのではなく日本人向けの味付けにしている。日本人が経営している喫茶店にも入った。結構おいしいコーヒーだった。日本人も多い街なので、こういう店が成り立つのだろう。

_16 16日に解放路の大きなデパートに入った。信じられないくらいの人出だった。金曜日で、しかも中秋の名月の二日前ということで大混雑である。クーラーもきかない。真下ならまだ涼しいが、ちょっと離れると熱気でムワっとする。ものすごい人いきれだ。中国の庶民の活力にただただ圧倒された。デパートを出るときには汗でびっしょりになっていた。(左は解放路)

 帰国する日は朝6時起き。大連空港から関西空港へ。そこで乗り継ぎに4時間かかり、羽田に着いたのが6時過ぎ。新幹線が上田に着いたのが8時過ぎ。タクシーで家に着いたのは8時半頃。くたくただったが、正直ほっとした。しかし家に戻るまで14時間もかかるとは。

面白悲しい失敗談
  中国に着いた日の翌朝、7時起きのはずが6時に起きてしまった。腕時計は時差の調整で1時間遅らせたが、目覚まし時計の時間を遅らせるのを忘れていた。貴重な1時間を失った。今思い出しても悔しい。

  2枚ほど写真を取ったところでデジカメの電池が切れた。出発前に点検しておかなかったのは失敗だった。せめて予備の電池を持ってきておけばと思ったが、後の祭り。電気店で単2電池を4本買った。24元。少々高いがこれがないとデジカメが使えないので仕方がな_13い。中国語は話せないので、電池を指差し指で4本ほしいと伝えた。なぜかガラスケースの中に入っており、店員が鍵でケースを開けて取り出していた。たかが電池でこの物々しさ。どういうことか未だに理由が分からない。世界に数十本しかない何か特別の電池だったのか?それにしちゃ安いが。(左は大召寺に展示されていたお面)

 夜、鍵束がないことに気付いてバックパックとスーツケースの中を何度も探した。床にはいつくばって椅子の下やベッドの下もくまなく探した。しかし見つからない。鍵がないと日本に戻ったとき家に入れない。鍵屋さんに頼もうにも上田に着くのは夜だからもう閉まっているだろう。盗られたのか、失くしたのか。いろんな思いが頭をよぎる。最後にもう一度スーツケースの中を全部調べたがやはりない。あきらめてスーツケースを閉じてベッドの上から床に移した。何とスーツケースの下に鍵束があった。いくら探しても見つからないはずだ。ベッドの上に置いたスーツケースの下、そこは完全な盲点だった。

  失敗のとどめは最後の最後、帰宅時に発覚した。家に着いてみると、なんと1_11階のリビングの電気が煌々と点いているではないか。1週間ずっと点いてたのか!出発の日、起きた時にはまだ暗くて電気をつけたが、家を出るころには明るくなっていたので電気をつけていたことを忘れていたのだろう。中国でずいぶん安い買い物をしたと思っていたのに、その一方でこんな無駄遣いをしていたとは!電気代の明細書を見るのが怖い。(右は星海広場近くに立つ巨大マンション群)

2005年9月20日 (火)

女はみんな生きている

2001年 フランスmas1
監督、脚本:コリーヌ・セロー
出演:カトリーヌ・フロ、ラシダ・ブラニク、ヴァンサン・ランドン
     リーヌ・ルノー、オレリアン・ヴァイク、イヴァン・フラネク
 このところのフランス映画の好調さを示す痛快な映画だ。だらしない夫と息子と暮らしている平凡な主婦エレーヌが、たまたま若い女性が暴行されるところに出くわしたことから物語が展開し始める。事なかれ主義の夫は女を救うどころか車のドアをロックし、係わり合いになることを避け走り去る。翌日女のことが気になったエレーヌは彼女が入院している病院を突き止め、献身的に付き添う。しかし彼女には怪しい男が付きまとう。この映画の前半はサスペンス調である。

 この若い女性は娼婦で名前はノエミということが分かってくる。ある時2人組みの男達にノエミが連れ去られそうになるところをエレーヌが救う。そのままエレーヌはノエミを夫の母親のところへ連れ行き、かくまう。義理の母とはうまくいってなかったが、ノエミの存在がエレーヌと義母の関係も修復させる。エレーヌはノエミからそれまでの身の上を聞き出す。女であるゆえにまるで奴隷のように扱われ、危うく父親によって老人と結婚させられるところを逃げ出した。親切な男に拾われたが、その男は売春組織の一員だった。麻薬を打たれ陵辱されてノエミは無理やり娼婦にさせられた。ノエミは男をだまして搾り取った金をこっそりスイス銀行に預金していた。それが発覚し組織に追われていたというわけである。

 この辺りからこの作品はサスペンス調女性映画になる。後半は組織と警察の手から逃れながら、組織を警察に捕まえさせ、エレーヌの夫と息子を痛い目にあわせ、さらにノエミと同じようにだまされて結婚させられそうになっていたノエミの妹を救い出すという展開になる。複雑な筋だがテンポよく進む。見事な脚本だ。当然ハッピーエンドである。特にフェミニズム臭くはないが、だらしなくまた邪悪な男たちを徹底してやりこめるところが痛快だ。「アメリ」以来のフランス映画の傑作である。

涙女

2002年 中国・韓国・カナダ・フランスm000413fd
監督:リュウ・ビンジェン
出演:リャオ・チン、ウェイ・シンクン、リ・ロンジュン
    ウェン・ジン、チョウ・イフイ

  いい映画だと知り合いから聞かされていたので期待して観た。確かに傑作だった。「ションヤンの酒家」のヒロインとはまた違った意味でたくましいヒロインだ。ヒロインのグイはマージャンに明け暮れているぐうたらな夫と北京で暮らしている。あるときその夫がマージャンをやっている時に、金を払えず、相手がその時はお前の女房と寝させてもらうと言ったので、かっとして相手を殴ってしまう。夫は傷害罪で監獄に入れられグイは故郷に強制送還され、殴られた男から治療費9000元を請求される。金のないグイは思わず嘘泣きをするが、それを見ていた元恋人がそんなに泣くのがうまいなら泣き女になれば金が稼げるとアドバイスする。元劇団員でもあったグイはたちまち人気泣き女になる。

 やくざの親分の葬儀の直前に、グイは夫が脱走して抵抗の挙句死んだと警察に告げられる。あんな夫はいなくなった方がいいと言って家を飛び出したグイだが、葬儀の場で夫を思い出して真の涙を流す。葬儀に参加していた客たちが次々にグイにご祝儀を手渡してゆく。

 中国の泣き女がイタリアのように喪服を着て大声で泣くのではなく、くるくると歌い踊る習慣なのには驚いた。歌によって料金を変え、入り口に料金表が貼ってあるのが可笑しい。中にはフォーク調の歌もある。色々な風習があるものだ。それにしてもグイのたくましさはどうだ。話し方、歩き方、身のこなし。どれをとっても蓮っ葉な女だが、夫が刑務所に入ると妻のある元恋人と堂々と浮気し、その妻に淫売だと怒鳴られても負けずに怒鳴り返す。客に涙を流していなかったと料金を値切られたときには、相手の女房をひっぱたいたりする。周りから白い目で見られているが一向に気にしない。そこにいやらしさではなくたくましさを感じる。

 泣き女になる前はDVDを非合法に売っていた。ポルノ作品は服の中に隠している。しかし警察に見つかって品物を取り上げられてしまう。同情を引くためか商売の時には他人の子供を借りてつれてゆくのだが、警察に捕まった後子供を返しに行くと親が夜逃げしていた。女の子だからいらなかったのだろう、子供は置きっぱなしだ。しかたなくグイはその女の子を自分で世話をする。後で人に預けるが、放っておかない所は人間味がある。ところがその子は何を差し出しても飲まないし食べようとしない。これがまたおかしい。グイは散々怒鳴り散らすがたたいたりはしない。夫のために最後に流した涙も本物だ。破格だがなんとも魅力的なヒロインである(余談だが、ヒロインは松田聖子そっくりだ)。また一つ優れた女性映画が生まれた。

2005年9月19日 (月)

大統領の理髪師

9kikyou12004年 韓国
【スタッフ】
脚本:イム・チャンサン
監督:イム・チャンサン
撮影:チョ・ヨンギュ
【出演】
ソン・ガンホ、ムン・ソリ、イ・ジェウン、チョ・ヨンジン
ソン・ビョンホ、パク・ヨンス リュ・スンス、ユン・ジュサ
チョン・ギュス、オ・ダルス

 傑作である。ホーム・コメディに政治風刺を盛り込むという困難な試みを見事成功させている。韓国映画と言えば「冬ソナ」の影響もあって恋愛映画をまず思い浮かべる人も多いだろうが、韓国映画はベトナム戦争(「ホワイト・バッジ」等)や南北問題(「JSA」等)といった政治的テーマにも果敢に挑んできた。しかし軍事政権が国民を抑圧していた軍事政権時代を直接テーマとして描いた作品は少ない。少なくとも日本ではほとんど紹介されていない。映画の中でも、DVDに収録されたインタビューの中でも「つらい時代」という表現が何度も出てくる。60、70年代は韓国国民にとってあまり思い出したくない時代なのだろう。しかしいつかは取り組まなければならないテーマだった。

 まだ30代の若いイム・チャンサン監督は、コメディ・タッチの風刺劇という手法を用いることでこの悪夢の時代を映画の中に取り込むことに成功した。チェコのヤン・フジェベイク監督がナチス占領時代をコメディ・タッチで描いた「この素晴らしき世界」と同じ手法である。直接経験した世代ではなく、後の世代だからこそ出来る描き方である。韓国映画は20年以上の時を経て映画の中でようやくこの時代と向き合うことが出来たのだ。そういう作品なので、ここではストーリーの細かい紹介は最低限にとどめ、この映画の歴史的意味を中心に考えてみたい。

 まず、政治風刺を上で強調したが、そうは言っても、この映画は基本的にホーム・コメディである。主人公は床屋のソン・ハンモ(ソン・ガンホ)。ハンモの発音が「豆腐一丁」とどうやら同じらしく、それがあだ名になっている(日本人には渥美清が自分の顔を下駄にたとえるように、顔が四角いから「豆腐」だと考えた方が分かりやすいが)。その彼がひょんなことから大統領の理髪師に抜擢されてしまう。時代は過酷な圧政を敷いた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代。その時代の庶民生活がよく再現されている。大統領と床屋と言うとチャップリンの「独裁者」が連想されるが、むしろこの庶民的雰囲気は日本のテレビドラマの名作「私は貝になりたい」(1958年)に近い。主人公も同じ床屋だし、演じているのも日本のソン・ガンホ、フランキー堺である(と言うか、ソン・ガンホを韓国のフランキー堺と呼ぶべきかも知れない)。

 大統領官邸がある街の住民であることをソン・ハンモは素朴に誇りに思っている。街の有力者の言うがままに投票し(勝利のVサインを2番目の候補に丸をつけるという意味と勘違いし、あわてて消して1番目の候補に丸をつける場面は傑作だ)、不正選挙に加担したりもする。

 全くこの時代には今では信じられない様なことが起こっていたに違いない。共産主義アレルギーが過熱し、ただの下痢を「マルクス病」と騒ぎたてて大量弾圧するあたりはkikyou005滑稽に描かれているが、恐らく同様のことが実際にあったのだろう。ソン・ハンモの息子さえ下痢を起こしたために引き立てられてゆく。このあたりから家族や親子の関係がクローズアップされる。しかし最後まで政治問題と家族問題を切り離さなかった。この映画が優れているのはその一貫性にある。ハンモの息子の拷問シーン(と言っても本人はくすぐったがっているだけだが)はやりすぎだという感じがしたが(拷問の担当者が踊り狂う場面は笑えない)、このあたりのさじ加減は確かに微妙で、リアルすぎてもいけないし、茶化しすぎても逆効果である。微妙なさじ加減は韓国人と日本人とでは感じ方が違ってくるかもしれない。

 この映画の成功は主演のソン・ガンホ抜きには考えられない。日本で言えば、フランキー堺や渥美清に近いタイプだが、芸域は広く、何をやらせてもうまい。しかし一番似合うのはやはりコメディだろう。どこか鈍臭く、ドジで無教養だが、愛情と人間味あふれる父親。まさに彼のはまり役である。美男美女ひしめく韓国映画界にあって、アン・ソンギやハン・ソッキュと並ぶ主演級演技派俳優として独自の境地を切り開いている。世界的レベルで見ても得がたい役者だ。ソン・ガンホの出演作に駄作はないという法則に未だ例外はない。

 監督のイム・チャンサンはこれが初監督作品。前にもどこかで書いたが、韓国映画では初監督作品によく出会う。映画人養成機関がうまく機能している表れだろう。しかも一発屋で終わる事は少なく、ほとんどの監督が高い水準を保ったままその後も製作を続けていることは特筆に価する。スターや花形監督が特別扱いされるようなスターシステムが出来て映画界が歪められるようなことがなければ、韓国映画の勢いは当分続くだろう。

 それにしても、長い戦争時代を耐え抜いてきた日本の国民が戦後も長い間しなやかさとしたたかさを身につけていたように、韓国の庶民も圧政の下で苦労に耐える力を蓄えしぶとく生き抜いてきた。韓国国民の苦労は日本人の比ではない。第二次世界大戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争を経験し、今なお南北問題をかかえている。それに加えて93年まで軍人を大統領に戴き、内政面でも苦労の連続だった。軍人から文民に大統領が代わった後も様々な政治の不正・腐敗が発覚した。90年代の終わりから世界的レベルの映画を次々に生み出し、「冬ソナ」を始めとするテレビドラマもアジアを席巻するようになり、韓国は今やわが世の春を謳歌しているように見える。しかしついこの間まで韓国国民は苛烈で腐敗がはびこる政治の下で長い間呻吟していたことを忘れてはならない。「大統領の理髪師」のしなやかさの背後に強靭な批判精神がある事を見て取らねばならない。

 ソン・ハンモは新しい大統領全斗換(チョン・ドゥファン)に呼び出され、髪を切ろうとするが、はげ頭を見て「髪が伸びたらまた来ます」と言って拒否する。そのため彼は文字通り袋叩きにされる。痛い目にはあったが気持ちは晴れた、と息子のナレーションが伝えている(韓国の観客はここで大いに溜飲を下げたことだろう)。こうして彼も「つらい時代」を乗りこえたのだ。そこで腐れ縁を断ち切ったからこそ、息子と二人で並んで自転車をこぐラスト・シーンがひときわ感動的なのである。

 映画は全斗換(チョン・ドゥファン)が権力を掌握するところで終わるが、圧制はなおも続く。有名な光州事件が起きたのもチョン・ドゥファン大統領時代だ。チョン・ドゥファン政権は88年まで続いた。その後に大統領に就任したノ・テウもまた軍人であった(前よりましにはなったが)。韓国国民は93年に金泳三(キム・ヨンサム)による文民政権が生まれるまで、なお13年間も軍人による政治に耐え忍ばなければならなかったのである。

反則王

art-pure1504cw2000年 韓国
監督:キム・ジウン
出演:ソン・ガンホ、チャン・ジニョン、パク・サンミョン
    チャン・ハンソン、イ・ウォンジョン、チョン・ウンイン
    キム・スロ、コ・ホギョン、シン・ハギョン、キム・ガヨン

  もっとはちゃめちゃなコメディかと思ったが、意外にまともなコメディである。決してバカバカしさはない。むしろサラリーマンの悲哀感がよく出ていて出色の出来である。凡百のコメディと違うのはその点だ。その意味では名作「アパートの鍵貸します」に通じるものがある。ちょっとほめすぎか。ソン・ガンホ主演なので案外いい映画ではないかと思ってDVDを買ったのだが、予想以上によかった。

  イム・デホ(ソン・ガンホ)はさっぱり業績の上がらない銀行員。契約確保数はいまだゼロ。遅刻の常習犯でもある。韓国も出勤時間帯はラッシュ地獄があるようで、電車の窓ガラスに顔を押し付けられている冒頭のシーンが可笑しい。職場の朝礼もあるようで、彼が遅刻して行くと、お説教の真っ最中。さっそく怒鳴られる。(職場の様子が普通の企業の様な感じで、とても銀行に見えない。窓口ではなく、その奥にある部屋なのだろうか。)意地悪な上司で、トイレでデホはヘッドロックをかけられる。それをはずせなかったのが悔しくて、友人にテコンドーを教えてもらおうとするが、テコンドーにヘッドロックはないと言われる。もっともこうやればはずせると、色々技は教えてくれるがとてもやれそうにない。

   そんなある時たまたまプロレス・ジムのメンバー募集の張り紙を見かける。しかし恥ずかしがってすぐには入門しない。やがて決心して門をたたく。デホは館長に昔見た反則王ウルトラタイガーマスクの話をぺらぺらとまくし立てるが、館長に追い出される(実はその館長自身がその反則王だった)。その時他のレスラーをチラッと見かけるが、でれでれと練習していて少しも強そうでないのがこれまた可笑しい(それも二人しかいない)。そのジムの館長は、日本帰りの有名レスラーの試合に反則専門の相手役がほしいと頼まれていた。そこへまたデホが頼みに来たので館長は彼を弟子入りさせる。デホは反則王になるべく毎晩特訓を受ける。メリケン粉の様な目潰し、木に銀メッキを塗ったフォークなど、小道具がこっけいだ。ある時、間違えて本物のフォークを持ち込み、同僚のレスラーに突き刺してしまったり・・・。随所にコミカルなシーンを織り込んでいて飽きさせない。

  しかしそのうちデホはプロレスの素晴らしさに目覚め、反則技のみならず、本物の技も磨き始める。コーチは館長の娘。やがてデホはかなりの実力を身につける。しかも血を見るとかっとなって、とんでもないパワーを発揮することも練習試合で分かる。

ityou1  ついに本番の試合の日。本当は別のレスラーが日本帰りの有名レスラーと対戦するはずだったが時間になっても現れない。そこでデホが覆面レスラー「阿修羅X」となり登場(偶然見つけた師匠のウルトラタイガーマスクをかぶって出てくる)。最初は反則業を繰り出すが、そのうち血を見て興奮して本気で技をかけだす。場外乱闘になり、ともに血まみれで暴れまわる。いつしか壮絶な死闘になっていた。二人ともリングでダウンしてしまう。このレスリング場面はかなり引き締まった演出でぐいぐい観るものを引きつける。

  うだつの上がらない駄目人間が思わぬきっかけで俄然活躍してしまうというのはよくあるストーリーである。仕事人間としても駄目、同僚の美女にも無視されっぱなし、友達は同じ職場の同じように成績最低の男。家に帰れば父親にも馬鹿にされる。まったくうだつの上がらない面白くもない人生に、かろうじて光が差し込んだのがプロレスの世界。しがない銀行員の悲哀感と何とかそこから抜け出しというという願望、このメインの主題にコミカルな味付けと迫力ある試合の場面が適度にミックスされている。この絶妙なバランスがこの作品を成功させている。

  そして何と言ってもソン・ガンホの存在が大きい。アン・ソンギ、ハン・ソッキュ、チェ・ミンシクと並ぶ韓国男優の「四天王」。女性週刊誌でもてはやされている若手「四天王」など足元にも及ばない。ソン・ガンホはシリアスな役も見事にこなすが、あの顔つきからしてもやはりしがない庶民の役、それもコミカルな作品が一番似合う。「殺人の追憶」の田舎のどんくさい刑事役もこの範疇に入る。「大統領の理髪師」もこのタイプである。しかし到底はまり役には思えないシリアスな役も見事に演じてしまうところが彼の俳優としての本当のすごさだ。日本で言えばフランキー堺に近いタイプか。

2005年9月18日 (日)

中国旅行記――中国の旅は驚きの連続だ

_3  1週間ほど出張で中国に行ってきました。滞在したのは内蒙古のフフホトと大連です。では、お約束の旅行記をお届けします。

  中国に行ってまず驚くのは交通状態。はっきり言って全くの無政府状態だ。ほんの10年ほど前までは自転車の大部隊が道路を占領している映像をよく見かけたが、今は車が急増して道路状態は混乱の極に達している。急に車が増えたので対応が追いつかないのだろう。車はともかく自転車も歩行者も信号を守ろうなどという気は全くない。車、自転車、バイク、人が入り乱れて道を行き来する。しかもそのそれぞれの数が半端ではない。
  主要な道路はどこも道幅が広い。片側4車線から5車線もある。横断歩道がなくても中国人は平気でこの広い道を渡る。だが日本人にとってそこを歩いてわたるのには勇気がいる。何せ広すぎて一気には渡れない。車がびゅんびゅん通る道の真ん中に立っている人を何度も見た。しかも中国は右側通行だから、日本とは逆から車が来る。この感覚に慣れるのにも時間がかかる。中国経験の豊富な日本人同僚に、道を渡るときは中国人の後についてゆけと教えられた。17
    移動は基本的にタクシーだったが(初乗り料金が8元だから120円程度で安い)、乗っていて何度も肝を冷やすような場面を経験した。しかし運転手には日常茶飯事なのだろう。平気で車や人すれすれに走ってゆく。仕事の関係で狭い道の両側に露店がぎっしり並んでいるところを何度も通ったが、人であふれているその道にタクシーは強引に入ってゆく。信じられない。怖くてとても自分では運転できないと思った。
(左上の写真はフフホトの通り。混んでいる時はこんなものじゃない。右は大連の市街電車。)


 今回は内蒙古のフフホトと遼東半島の大連市を回った。フフホトは人口200万。日本の1_1 感覚では大都会だ。大連にいたっては人口600万。とてつもない大都会である。大連に行ってまず驚くのは高層ビルがいたるところににょきにょきと建っていることだ。中国は地震がないので高層ビルが建てられる。経済発展の波に乗って巨大ビルが次から次へと出現する。同僚から毎年来るたびに古い家が並ぶ地域がなくなり、そこに新しいビルが出来ていると聞いた。アメリカの1920年代さながらだ(摩天楼が出現したのはこの時代)。後から後から作られるので、既に倒産した高層ビルも幾つかある。

   中国の経済発展の勢いを一番感じたのは星海広場へ行ったときだ。市_9電を降りて広場に向かうと、見渡す限り続く広大な地域に出る。左側には超高層の近代的ビルが4棟並んで立っている(右の写真)のが目に入る。かなり距離はあるが相当な高さである事は分かる。その左隣にはクリスタル・パレスの様な総ガラス張りの巨大な建物がある。こちらは同僚によれば、去年はなかったそうだ。右側を見れば巨大なマンション群が建ち並んでいる。後で中国の人に聞いたが、ここには中国中の金持ちが集まってくるそうだ。4棟の超高層ビルには温泉が付いているという。唖然とする。

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   売店でジュースを買って飲んでみた。昔懐かしいオレンジジュースの味だ。公園自体はフランス庭園風に左右対称の幾何学的配置になっている(左上の写真)。バスで団体客も来ている。海には遊覧船も浮かんでいる。公園広場自体も広大だが、丘の上の巨大マンション群まで含めるととんでもない広さだ。丘の上の巨大マンションの_13隣には西洋のお城の様な建物もある(左下の写真)。確か貝の博物館だそうである。中国の経済発展の目覚しさ、力強さをまざまざと見せ付けられた感じだ。経済の新陳代謝が盛んな証拠だ。

 

 

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   その巨大建造物の下には貧しい人たちもいる。中山広場に面した旧中山ホテルの横に少数民族と思われる女性が子供をかかえて階段の下にうずくまるように座っていた。仕事を終えて戻ってきたときもまた同じところに同じ姿勢で座っていた。
   フフホトにいたとき金剛座舎利宝塔と大召寺を見て回った。後者は大きくて立派なお寺だった。よく映画で見る手でくるくる回すドラムの様なものに初めて触った。意外にも真鍮で出来ていた。ところどころへこんでいる。寺から出ると両足のない人、両手の先がない人などが金をせびっていた。昔上野駅にも傷病兵がよくいたことを思い出した。(右は金剛座舎利宝塔)

_10 しかし一番印象的だったのは金剛座舎利宝塔から大召寺に行く途中に通った貧民街のような所だ(左の写真)。映画で見るようなみすぼらしい建物が並んでいる。一部はこわされて新しいビルが建っている。いずれは全部消えてゆくのだろう。家にトイレがなく、共同便所が何箇所かある。このようなスラム街を実際に見るのは初めてだ。
   大連駅近くから市街電車に乗って星海広場へ行ったときも途中相当に古い町並みを通った。フフホトで見た貧民街ほどではないが、今の日本ではまず見かけないみすぼらしい家々だ。薄汚れた壁の家々、看板が外れて鉄の枠だけが残っている商店。ほんの少し前までの中国ではこんな建物が大半だったのだろう。ところどころ廃墟の様な建物があったり、壊されてレンガの山になっている所もあった。スクラップ・アンド・ビルド。貧しさと近代化が隣り合っている。なんとも奇妙な光景だ。

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   大連のロシア人街に行った(右の写真)。途中線路をまたぐ橋を渡るが、この橋の上でも見るからに貧しそうな人たちがとても売れそうにない品物を並べて売っていた。橋の下を覗くと線路脇にいろいろなものが捨てられていた。橋を渡りきると、その先がロシア人街だった。昔のものを再現したもので、ほとんどは人が住んでいないそうだ。道の両側にみやげ物を売る露店が並んでいる。さながら浅草の仲見世通りといった感じだ。

2005年9月11日 (日)

山田洋次監督「家族」

1970年(松竹)  tenkiyuki
監督:山田洋次  
脚本:山田洋次、宮崎晃   
撮影:高羽哲夫  
出演:倍賞千恵子、井川比佐志、笠智衆、前田吟
    春川ますみ、花沢徳衛、森川信、ハナ肇
        渥美清、木下剛志

 ある家族が長崎の南端に浮かぶ伊王島から北海道の中標津にある開拓村まで3000キロの旅をする過程を描いた映画だ。風見精一(井川比佐志)は炭鉱で働いていたが、給料が安く、また人に使われるのがいやで、同じ村の出身者がいる北海道の開拓村に入植することを決断した。出発したときは夫婦2人、子供2人、祖父1人の5人だったが、着いた時は4人になっていた。1歳の娘は東京で体調を崩し回復することなく死んでしまう。北海道に着いた時は骨壷に入っていた。そして着いた翌日の歓迎会の夜、祖父が布団の中で冷たくなっていた。結局この家族は3人になってしまった。

  今なら飛行機を使えば1日で行ける。当時も当然飛行機はあったが恐らくかなり料金が高かったはずだ。庶民がめったに乗れるものではなかったと思う。だから電車を乗り継いで2、3日がかりで北海道まで行く計画を立てたのだ。既に新幹線は大阪まで通っていたから、大阪から新幹線に乗る。これがなかったらとんでもない時間がかかっただろう。彼らが大阪に着いた時、ちょうど万博が開催されていた。人類の調和と進歩を謳う祭典が行われている陰で、3000キロの距離を電車と船を乗り継いで旅する貧しい一家がいたのだ。電車代すら30000円の借金をしてやっと出せたのである。旅の途中風見精一はいつも財布を覗いてはため息をついていた。5人分の旅費だから決して安いものではなかったはずである。

 この映画は一種のロード・ムーヴィーである。ロード・ムーヴィーは「ピカレスク小説」の系統につながる。ピカレスク小説の主人公は社会のアウトローである。既存の社会からはみ出した主人公は各地を放浪する。小説の関心は主人公にはなく、彼が出会った人々や彼らが行く先々で起こった出来事にある。われわれはピカロ(ピカレスク小説の主人公)の旅を通して社会を観察するのである。

 「家族」の観客は風見一家の旅を通して、高度成長期の総仕上げ、その象徴ともなった大阪万博(EXPO70という言葉が懐かしい)の時代の日本社会を彼らとともに垣間見る。時代は重厚長大の時代だった(後に80年代の初め頃か、これが軽薄短小という言葉に取って代わられる)。公害問題が深刻だった頃だ。九州で見た八幡製鉄所のすすけて灰色の工場群、大阪を出た後も同じような灰色の工場群が立ち並ぶ街を通る。大阪で初めて経験する怒涛の様な人並み。見ていてこっちまで疲れる。東京の人々は他人に冷たい。子供が病気だから早く病院へと叫んでも、タクシーの運転手は振り向きもしないし、一言も口をきかない。やっと開いている病院を見つけたときは手遅れだった。

 東京を出ると一転して延々と続く田園風景。出発した時伊王島では桜が咲き始めていたというのに、北海道はまだ大量に雪が残っている。あの頃日本の街(町)はまだそれぞれの顔と雰囲気を持っていた。今はどこの土地に行っても同じようなプレハブ住宅が建ち並び、街(町)は個性を失ってしまった。この映画はそんな時代の日本を点々と記録してゆく。

 二人の人物が亡くなるが、この映画は決して重苦しい映画ではない。子供が死ぬあたりもさらりと流していて、お涙頂戴調の描き方をしていない。もちろん子供が死んだ直後は一家そろって暗く沈んだ気分になっているが、山田監督はそこに渥美清を登場させる。明るい気分をそれとなく挟み込んでゆく。にくい演出だ。北海道に着いた頃には妻の民子(倍賞千恵子)の顔には笑顔が浮かんでいた。

 やっと知stationり合いの家に着いたときには、全員疲れきっていて玄関口から一歩も動けず、その場でみんな倒れこんでしまう。しかし映画は北海道に着いたところで終わるのではない。雪が解け、春が来てやがて牧場が緑の草に覆われる頃、牧場で1頭の子牛が生まれる。その時民子のお腹にも新しい生命が宿っていた。山田洋次監督の映画だから最後は明るく終わる。未来の希望の象徴として子供の誕生を使うのは常套手段だが、悲惨な旅の後だけに正直ほっとする。見終わった時はすがすがしい気分になっている。

 もちろんこの映画はただ日本各地の風景や風俗を映し出すだけの映画ではない。中心には家族のドラマがある。ロード・ムーヴィーはたいがい旅をするのは一人かせいぜい2、3人で、それに旅の途中で知り合った仲間が加わることもある。「家族」は家族5人がまとまって移動するというところがユニークな点だ。彼らは一旦広島の福山で下車する。風見精一の弟(前田吟)がそこに住んでおり、老いた父(笠智衆)をそこに置いてゆくつもりだったからだ。しかしせまい家に暮らす弟一家に父を迎える余裕などないとわかる。やむなく父も一緒に北海道に行くこととなった。老いた親の世話を誰が見るかというテーマがここに織り込まれている。夫精一はいつも不機嫌で怒鳴ってばかりいる。炭鉱で働いていた教養のない男なので、人を説得する術を持たない。怒鳴るしかないのだ。その精一をここぞというときにたしなめるのが祖父だ。笠智衆は実に存在感があって素晴らしい。幼い娘が死んですっかり予定が狂ってしまい、その上出費がかさんでパニックになっている息子に、「これを使え」と密かに溜めていた金を渡すのも彼である。

 妻役の倍賞千恵子も実に印象的だ。娘を亡くしたときはさすがに泣いてばかりいて「こんなことなら島に残っていた方がよかった」と愚痴をこぼすが、芯は強く一番早く立ち直ったのは彼女かもしれない。彼女がやっと微笑んだとき見ているこちらもほっとせずにはおれない。家族それぞれがつらい体験をし、それぞれにそれを乗りこえてゆく。劇的な展開のあるドラマではないが、「故郷」と並ぶ山田洋次監督の初期の傑作と言っていいだろう。

 笠智衆、渥美清、前田吟、森川信、三崎千恵子など「寅さん一家」が総出演。クレージー・キャッツの面々も顔を出している。ミニ・スカート全盛時代とあって倍賞千恵子も短いスカートをはいていて、しょっちゅうスカートを膝まで引っ張り下ろしているしぐさをする。なかなかきれいな脚だった。

 映画とは関係ないが、万博には幾つか思い出がある。会場でおじさんに時間を聞かれた。まだ時計を身につけて間もない頃だったので時間を読み間違ってしまった。正確な時間は覚えていないが、5時50分とかそんな時間だった。すると短針は6に近いわけで、思わず6時50分と言ってしまった。そのおじさんは「えっ、もうそんな時間ですか、そろそろ帰らなくては」とあわてて去っていった。あの時のおじさん、ごめんなさい。僕のせいで1時間損させてしまいました。

 もう一つよく覚えていることがある。デジタル式の時計を万博会場で初めて見たのだ。デジタルといっても、テニスの点数表みたいにパタパタとパネルが倒れて数字が変わってゆく方式だった。それでも仰天したものである。時計というのは長針と短針であらわすものだとそれまで思い込んでいたからだ。確かに時間は4時35分のように数字で言っていたが、時間そのものを数字で表すなんて考えもしなかった。今考えると誰でも思いつきそうな簡単なことなのだが、当時は時計の針以外に時間の表示の仕方があるなんて全く考えたことすらなかった。発想の転換というのはそういうものである。思いもよらぬことを思いつく人が世の中にはいるのだ。その時は非常に感心して、いつかそのうちこれは実用化されるだろうと思った。それがほんの数年のうちにデジタル式腕時計が発売され一気に広まったのである。時代は想像を超えた速さで変化していたのだ。

サイドウェイ

gurasu2004年 アメリカ
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:アレクサンダー・ペイン、ジム・テイラー
撮影:フェドン・パパマイケル
出演:ポール・ジアマッティ、トーマス・ヘイデン・チャーチ
                      ヴァージニア・マドセン、サンドラ・オー

 久々に見たアメリカ映画。とにかく久しぶりに何かアメリカ映画を観てみようと意識して探していたから目に付いたのである。監督は「アバウト・シュミット」のアレクサンダー・ペイン。彼の作品だということが選んだ決め手だった。ちょっと見にはこれといった魅力のない映画だ。中年の男二人のロード・ムービー。ワイナリーめぐりの旅といっても大して興味はそそられない。アカデミー賞の脚色賞を取った映画だが、地味な部門なのでさほど話題にはならなかったと思う。しかしこれが意外な収穫だった。

 アメリカ人は移動を好む国民なのでロード・ムービーはたくさん作られてきたが、この作品は数あるロード・ムービーの中でも傑作の部類に入るだろう。主人公は小説家志望でワイン好きの高校教師マイルス(ポール・ジアマッティ)とTV俳優のジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)。マイルスは頭も禿げかけたさえない小太りの男。2年前に離婚を経験し、以来女性が苦手である。やっと小説を書き上げ、出版社に送って結果を待っているところだ。一方のジャックは対照的なプレイボーイ。結婚を1週間後に控えて、独身最後の自由な時間を過ごそうとマイルスを誘って二人でワイナリーをめぐる旅に出る。

 二人は大学の寮で同室となって以来の友人同士である。どこでももてもてのプレイボーイとさえないまじめ男というでこぼこコンビだ。この取り合わせがいい。監督自身も大好きだというワインの薀蓄をたれながらの珍道中。しかしまったくのドタバタ喜劇ではない。映画の視点はどちらかといえばマイルスに向けられている。彼はまじめな男だからあまりはめをはずさない。女性には臆病になっているので、マヤ(行きつけのレストランのウェイトレス/ヴァージニア・マドセン)という好きな女性がいるが、積極的には近づこうとはしない。問題はいつもジャックが起こす。無節操なジャック(彼の本当の目的は女とやりまくることだと本人がマイルスに打ち明けている)の行動に顔をしかめながら、結局彼がジャックの尻拭いをする。その典型が財布事件。ジャックは例によって初対面の女にちょっかいを出し、まんまと彼女の家にしけこむ。しかし明け方素っ裸で逃げ戻ってくる。彼女の夫が予想外に早く家に戻ってきたからだ。素っ裸で5キロ歩いてきたという。ところが彼女の部屋に大事な財布を忘れてきたので戻って取りにゆくといってきかない。結局マイルスがその家に忍び込んで、ベッドで取り込み中の二人の横の棚にある財布を取って逃げてくる。今度はその家のだんなが素っ裸で二人を追ってくるという展開。このあたりはドタバタ調だ。

 マイルスは小説が不採用になったときなど時々切れて暴れることもあるが、普段は憂鬱な情けない顔をしている。ジャックの無節操な行動にさんざん振り回され、小説が認められないと落ち込み、マヤには惹かれているがどうせ俺なんか相手にされないとまた落ち込む。前の妻との離婚の傷が癒えずなかなか一歩が踏み出せないのだ。そこにまたジャックからことあるごとに早くマヤをものにしろとせっつかれるので、イライラがつのる。それでもなんとかマヤとうまく行きかけるが、またまたジャックのせいで大きな亀裂が入ってしまう。ジャックはステファニー(サンドラ・オー)と深い仲になっていたが、彼は自分が近く結婚することを隠していた。マイルスがうっかり口を滑らせてマヤにそのことを教えてしまったためステファニーは激怒し、マイルスもマヤから同じ穴のムジナだとばかりにはねつけられてしまう。

 まあ、こんな調子で話が進んでゆく。ジャックが前面に出るとドタバタ調になり、マイルスが前面に出ると、悩める中年男のちょっと滑稽な愛の彷徨話となる。このあたりの切り替えや織り込み方が絶妙だ。最後はマヤの誤解も解け、マイルスがマヤの家を訪ねてゆくところで終わる。その時マイルスの小説が重要な役割を果たす。マイルスはマヤと小説への自信を同時に取り戻すのだ。

 山田洋次の「家族」の感想を書いた時に「われわれはピカロ(ピカレスク小説の主人公)の旅を通して社会を観察するのである。」と書いたが、「サイドウェイ」の場合、観察眼はむしろ主人公たち、特にマイルスに向けられている。その意味で同じロード・ムービーでも「サイドウェイ」は「家族」や「モーターサイクル・ダイアリーズ」などとやや性質を異にする。視点が主人公の他に向けられたとしても、それは社会というよりも他の人間(特にマヤ)、つまり人間関係(とりわけ恋愛関係)に向けられているのである。ロード・ムービーといっても主人公二人があまりあちこちの土地を旅しないのは、個人的な人間関係(マヤとステファニーとの関係)に縛られているからである。

 主演の二人の男優がともに好演。マヤ役のヴァージニア・マドセンも色気たっぷりで実に魅力的だ。ステファニーを演じた韓国系女優のサンドラ・オーはアレクサンダー・ペイン監督の奥さんだそうである。

2005年9月10日 (土)

ハリー・ポッターの新作が面白い

clip71   このところホームページとブログ作りに時間を取られ、なかなか本を読む時間が取れない。映画はブログに記事を載せるために結構観ている(何だか本末転倒の様な気もするが)。しかし家に帰るとすぐパソコンに向かう生活スタイルになってしまったので、それ以外の時間を映画と本の両方にあてる余裕がないのである。

 

  Harry Potter and the Half-blood Princeを買ったのは7月25日で、買ったその日から読み始めた。最初は順調に読んでいたが、そのうち上に述べたような事情でだんだん読む日が飛び飛びになり、ブログを作り始めてからはずっと中断したままだ。なにせ652ページもあるハードカバーの分厚い本だ。文庫本のように気軽にバッグに入れて持ち歩くわけには行かない。家にいるときしか読めない。家にいるときにはパソコンに向かっているか映画を観ているかだ。

   現在161ページまで読んだ。前作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』はさらに長大な上に話が散漫で、シリーズ中はじめて面白くないと感じた。まだ翻訳も出ていないときから第1作を読み始めて、以来ずっと新作を楽しみにしながら読み続けてきた。しかし前作が今一だったので、次は買わないつもりだった。どうもJ.K.ローリングはベストセラー作家になって慢心したのかと疑っていたからだ。 しかし新作が発売されるとやはり買ってしまった。読み出してみるとこれが面白い。前作の様な散漫なところはほとんどない。出だしからぐっとひきつけられた。

   マグルの首相のオフィスに魔法省の大臣ファッジがやってくる。このところヴォルデモートとデスイーターの巻き返しが始まり、次々と魔法使い達が殺されたり行方不明になったりしている。アズカバンのディメンターたちは囚人の番をやめ、アズカバンを抜け出しヴォルデモートの側についた。国中で冷気を撒き散らし魔法使いを襲っている。その事態を収拾できない責任を取らされてファッジは更迭された。そのことを伝えるために来たのだった。続いて新しい魔法省の大臣Rufus Scrimgeourが現れ挨拶をしてゆく。ただならぬ事態である事が伝えられる。マグルの首相のうろたえぶりが滑稽だ。

  次の章は不吉である。魔法省は対抗措置としてデスイーターたちを拘束した。ドラコ・マルフォイの父親も捕まった。スネイプの元にナーシサ・マルフォイが訪ねてくる。彼女を止めようと一緒に姉のベラトリックスもついてくる。ナーシサは夫が逮捕されたことに腹を立て、同じデスイーターとしてハリー・ポッターを殺すのを手伝ってほしいと頼みに来たのだ。スネイプがそう簡単には出来ないというと、ベラトリックスはスネイプになぜいつまでもホグワーツにいるのか、なぜわれわれの仲間に加わらないのかと詰問する。スネイプは敵の中に自分がいれば色々と情報をヴォルデモートに流すことが出来るからだと答える。ドラコがハリー・ポッターに復讐するつもりでいることも話しから分かる。スネイプは以前から微妙な立場だったが、ここで彼が言っていることは本心なのか気になるところだ。

  一方ハリー・ポッターはダンブルドア校長に連れられて、闇の魔術の防衛術の新しい教師ホレース・スラッグホーンに紹介される。でっぷりと太った男だ。ハリーは「予言」の中でヴォルデモ-トを倒す人物として名指しされていることが分かる。ハリーはダンブルドアの個人レッスンを受けることになる。

  新学期が始まり、ハリー、ロン、ハーマイオニーがまたそろう。デスイーターやディメンターたちに狙われているのでハリーには護衛がついている。ダイアゴン横丁ではハグリッドが護衛役を務めてくれた。フレッドとジョージが開店したジョーク・ショップを訪ねてゆくところも可笑しい。店は子供たちで一杯である。ウィンドウにはYou-Know-Who(例のあの人)をU-No-Pooとからかったポスターが貼ってある。

  店の中を案内してもらっている時ハリーはドラコが一人で不審な行動をとっているのを見かける。ハリーたちは後をつけて彼が怪しげな店に入るのを見つける。中の話はよく聞こえないがドラコは何かの修理を頼んだらしい。 ハリーたちはホグワーツ・エクスプレスに乗り込む。ドラコの怪しい行動が気になるハリーは、透明マントをつけてドラコたちの個室に忍び込む。しかしドラコに見つけられてペトリフィカス・トタルスの呪文をかけられ、石のように動かなくされてしまう。列車は駅に到着しみんな降りてゆくが、透明マントをかぶせられているので誰も床に倒れているハリーに気付かない。このままでは元の駅に戻ってしまう。列車が動き出す直前にトンクスに助けられる。

  とまあこんな話だ。早く先が読みたくなる。時間さえあればなあ・・・。

ハリポタ用語は「ハリー・ポーッター用語辞典」のサイトを参照しました。
(http://www.pottermania.jp/terms/te_top.htm)

下妻物語

2004年il_2anv_03
監督:中島哲也
出演:深田恭子、土屋アンナ、宮迫博之、篠原涼子
     樹木希林、阿部サダオ、小池栄子

  期待以上だった。もっとおちゃらけた映画かと心配していたが、結構まともなところがある映画だった。元ヤンキーのロリータ娘と現役ヤンキー娘の出会い。最初は反発しあいながら最後は真の友情で結ばれるようになる。こう書くとお決まりのパターンだが、最後になってもロリータ娘はロリータ路線を変えようとはしないし、ヤンキー娘も相変わらずバイクをぶっ飛ばしている。互いに友情を結び合いながらもそれぞれの生き方を貫こうとするところがさわやかな後味を残す。

  見かけの演出としてはテレビでよく見かける低俗なおふざけ、お笑いドラマタッチだが、しっかりとした芯があるのでむしろ良質の風俗コメディになっている。特に主演の二人がいい。中でも深田恭子の徹底したロリータぶりがいい。ヤンキーの土屋アンナを見るときの「何この人」という目つきや顔つきが実に堂に入っている。なかなかの存在感ですっかり彼女を見直した。土屋アンナはやや無理してヤンキーを演じている感じがしてその分深キョンに劣るが、実は役柄そのものもそういう設定なのだ。まったく煮ても焼いても食えない不良というわけではない。案外素朴で信念もあり、人情もある。本物の水野春夫を見て興奮するところも笑える。また、周りの人たちが彼女たちを冷たい目で見ていないところがいい。深キョンの父親や祖母も相当な変わり者だ。街の人たちも特に毛嫌いしている感じはない。

 しかし全面的に良いともいえない。どうしてこういうおふざけタッチで描かなければならないのか。最近の日本映画は何かを正面から描こうとするものは少ない。「GO」や「ジョゼと虎と魚たち」のような優れた映画にもそういうタッチは多少紛れ込んでいる。「深呼吸の必要」「誰も知らない」は例外的な作品だ。漫画の映画化や昔のドラマの焼き直しばかりはびこっている。エスプリもユーモアもアイロニーもない、かといって良質のどたばた喜劇の洗礼された切れ味もない。「踊る大捜査線」のようなバカバカしさがコメディだと思っている。「下妻物語」はそのレベルをはるかに超えてはいるが、その影響は受けている。ただ面白いと言っているだけではなく、このあたりも考えてみる必要があるだろう。ただこの映画には力があり、そこから新しいコメディの可能性が見えてくるかも知れない。この後どう脱皮して行くか期待したい。

駅前旅館

1958年 東宝art-temariuta20001c
監督:豊田四郎
原作:井伏鱒二
音楽:団伊玖磨
出演:森繁久彌、フランキー堺、伴淳三郎、淡島千景
    草笛光子、淡路惠子、藤木悠、多々良純、左卜全
        森川信、山茶花究、三井美奈、浪花千栄子

  原作が井伏鱒二とは知らなかった。こんなものも書いていたのか。もう一つ驚いたことは「駅前」とは上野駅の前だった。時代が違うのだから当然だが、70年代半ば頃で既に上野駅の前には旅館なんかなかった。映画に描かれた街頭風景はまったく消え去っていたし、そもそも駅舎そのものが違う。実に意外だった。

  上野駅のまん前の旅館だから当然修学旅行の生徒たちがどかどかとやってくる。ものすごい騒ぎだ。その旅館の館主が寅さんの初代「おいちゃん」役の森川信。最初は十朱久雄かと思った。しばらくしてやっと分かった。その女将さん役が草笛光子。計算高くて冷酷なところがある。番頭役が森繁久彌。ベテランの番頭だが、今の時代は電話一本で何十人という客が取れるのだから、腕の立つ番頭なんかいらないといって森繁を首にする提案をするのはこのおかみさんだ。森繁の下で働くのがフランキー堺。相変わらずの芸達者で、客にロカビリーをせがまれて、三味線を手にロカビリーを歌って見せる場面は傑作だ。ライバル旅館の番頭が伴淳三郎と多々良純。森繁とフランキー堺、そして他の店の番頭たちがよく通う料理屋の女主人が淡島千景。彼女は森繁に「ほの字」だ。色気があって実に魅力的だ。いつ見ても淡島千景はいい。修学旅行の生徒を引き連れてくる先生の一人が左卜全。長野県の女工たちを引き連れてきたのが淡路惠子と浪花千栄子。淡路惠子は森繁と昔縁があった。風呂場で森繁をつねったことがある。耳たぶが魅力的だったと言って淡島千景にやきもちを焼かせる。とまあ錚々たる芸達者たちが繰り広げるにぎやかな風俗コメディである。当時大ヒットし、東宝のドル箱の一つとなった「駅前」シリーズの記念すべき第1作。

 とにかく騒々しい。次からつぎから客が来て、やくざも絡んで、その上恋愛も絡めてなんやかんやとてんこ盛り。人気が出るはずだ。庶民生活の活気に満ち満ちている。こういう猥雑で活気のある映画はまず今では撮れないだろう。時代が変わってしまったのだ。

 駅前の浄化運動に腹を立てたやくざがこの旅館に因縁をつけに来たとき、そのドサクサの中で森繁は首にされてしまう。まだ地方の旅館なら彼の腕も役に立つだろうと、彼は山梨の方だったかに流れてゆく。すると淡島千景が彼を追いかけてくる。せまい田舎道に馬車を二台並べて、通れないので後ろから怒鳴り散らす自動車の群れを尻目に、2人はすずしい顔でのんびりと田舎道を行く。愉快でさわやかなラストだ。

  「駅前」シリーズはだいぶ昔1本だけ観に行ったことがある。一つだけはっきり覚えているシーンがあるが、そのシーンは出てこなかったのでシリーズの中の別の1本だったのだろう。

2005年9月 9日 (金)

おばあちゃんの家

toy12002年 韓国
監督、脚本:イ・ジョンヒャン
出演:キム・ウルブン、ユ・スンホ、ミン・ギョンフン
     イム・ウンギョン、トン・ヒョフィ、イ・チュニ

 耳が遠く口も利けないおばあちゃんと大都会ソウルから来た孫との心温まる交流を描いた映画だ。昔の日本映画を思わせる温かみのある映画だが、今の日本にはこのような映画はほとんどなくなってしまった。

  監督は「美術館の隣の動物園」の女性監督イ・ジョンヒャン。彼女の長編第2作である。ありがちなテーマだがユニークなのはおばあちゃんがまったく話せないことと、ほとんどおばあちゃんと孫の2人だけで話が進行することである。孫のサンウはソウル育ちでわがままな子どもに育っている。サンウの母親は自分のことだけで精一杯で、離婚して職探しのために足手まといになる息子を母親に預けてさっさとソウルに帰ってしまう。何もない山奥の田舎におばあちゃんと2人で取り残されたサンウはなかなかおばあちゃんになじまない。おばあちゃんはすっかり腰が曲がっている。昔は日本にも腰の曲がった老人はたくさんいた。耳が聞こえないと思って「バカ」などと汚い言葉を浴びせかけるあたりは腹が立つくらいだ。一人でゲーム機で遊んでいるところは日本の子どもとまったく同じである。実際日本の今の子どももまったく同じような反応を示しただろう。持っているゲーム機やロボット(サイコロを組み合わせたような形)やアイボのようなロボット犬などもほとんど日本のものと同じだ。おばあちゃんが作るものを食べず、母親が持ってきた缶詰をもっぱら食べている。おばあちゃんが何を食べたいかと聞くと、ピザやフライドチキンを食べたいと答えるあたりは笑ってしまう。おばあちゃんが町に行って鶏を買って来るが、鳥の丸焼きを見てこれはフライドチキンじゃないから食べられないとわがままを言う。

 そんなサンウも近所の女の子に心を惹かれるあたりから変わりはじめる。その彼女が仲良くしている男の子に、暴れ牛が来るぞと嘘をついて意地悪をしたりするが、逆に自分が暴れ牛に踏み潰されそうになったときには助けてもらった。少しずつ他人へのいたわりの気持ちが芽生え始め、雨の中鶏を買いに行って風邪を引いたおばあちゃんに布団をかけ、食事を作ってあげたりする。

 小道具としてうまく使われているのが電池だ。ゲーム機の電池が切れた時、サンウはおばあちゃんのかんざしを盗んで電池を買いに行く。しかし村中を探したが電池は手に入らず、ゲーム機はそれっきり放り出してあった。ある日野菜を売りにサンウとおばあちゃんはバスで町に出かけた。サンウは電池を売っている店を見かけるが、おばあちゃんが野菜を売って稼いだ金を自分においしいものを食べさせるためにほとんど使ってしまっているのを見ていたため、サンウは電池代をねだらなかった。そこに彼の成長が伺える。そのゲーム機はさらにもう一度印象的な場面に小道具として使われる。女の子に会いに行く孫におばあちゃんがゲーム機を手渡すのである。どうせ壊れているんだからと迷惑そうにサンウは受け取ったが、後で紙包みを開けてみると中に紙幣が2枚入っていた。サンウは思わず涙を流す。感動的な場面である。

 やがて母親が来てサンウは帰ってゆく。バスの中でサンウは胸をなでるしぐさをし(おそらく「ごめんなさい」という意味だろう)、おばあちゃんに手を振る。去ってゆくバスを見送るおばあちゃん。ラスト・シーンのようだが、ここで終わってほしくないと思った。2人がその後どうなったのか知りたいと思った。果たしてその後に短いシーンが続いていた。サンウは字のかけないおばあちゃんのために「すぐに合いたい」「体の具合が悪い」等と書いた絵葉書を作り、バスに乗るときに手渡していたのだ。口が利けないので電話もかけられないおばあちゃんがいつでも連絡を取れるように。家に続く長い坂道をいつものようにゆっくりと登ってゆくおばあちゃんの姿を映しながら映画は終わる。おばあちゃんが腰を曲げてゆっくりと道を歩く場面が映画の中で何度も出てくる。それがおばあちゃんの日常生活を象徴している。ラストシーンとしてこれ以上ふさわしいものはないだろう。

フランス・アニメの傑作「ベルヴィル・ランデブー」

2002年 フランス=カナダ=ベルギー 2004年12月公開tuki-siro
原題:Triplettes de Belleville, Les
【スタッフ】
製作:ディディエ・ブリュネール
脚本:シルヴァン・ショメ
監督:シルヴァン・ショメ
音楽:ブノワ・シャレスト
美術:エフゲニ・トモフ

 日本製アニメは確かに世界でも最高の水準にある。日本の漫画やアニメに慣れた目から見ると、ディズニーでさえも絵の下手さにあきれることがある。確かに絵の見た目のきれいさは日本アニメが最高だろう。しかし、一見下手に見えるがまた独特の味わいを持った絵柄というのもある。「ベルヴィル・ランデブー」もそういうアニメのひとつだ。その絵の味は、「木を植えた男」(1987)のような素朴な味わいを持つアニメともまた違う。ソ連の「チェブラーシカ」ほどメルヘンチックでもない。絵の感じはフランスの古典的アニメ「やぶにらみの暴君」(1952)にむしろ近い。

  エンキ・ビラルの未来・SF志向とは反対に戦後のフランスを舞台にしたどこか懐かしさを感じる物語。最初にフレッド・アステアやジョゼフィン・ベーカーのパロディ/カリカチュアも出てくる。しかし実に独特のアニメだ。極端にデフォルメされた人体。主人公のおばあちゃんの目とメガネは頭のてっぺんにある。自転車選手の息子は体の太い部分と細い部分が極端に強調されている。背景描写は凝っているがこれもデフォルメされている。どう見てもうまい絵ではないし、きれいな絵でもない。しかし不思議な魅力がある。例えば船が出てくるが、これがありえないほど幅が狭く(まるでまな板の長いほうの辺を下にして立てたような形だ)、喫水線が極端に低い(ほんのわずかしか水に沈んでいない)。これではすぐに横倒しになってしまう。しかし現実にはありえない形だからこそ却って新鮮でインパクトがあるわけだ。

  絵の動きのスムーズさや顔の美しさ、あるいは派手な展開よりも、素朴だがシュールでひねりのあるストーリー展開やキャラクターの奇抜な個性に重きが置かれているアニメである。せりふが少ないのも特徴のひとつだ。宮崎駿ともアメリカの「モンスターズ・インク」や「シュレック」とも違う。どちらかというとイギリスの「ウォレスとグルミット」シリーズやチェコのイジー・トルンカなどに近い味わいである。またベルヴィルという街は明らかにアメリカのカリカチュアだが、風刺的味付けはまたヨーロッパ的だ。同じフランスのミッシェル・オスロ監督(「キリクと魔女」「プリンス&プリンセス」)ともまた違う。こうしてみてくると世界にはいろんなタイプのアニメがある事が分かる。

 この映画の主人公は一人のおばあちゃんだ。孫のシャンピオンはまるで機械のようで、感情を持たない感じである。顔の表情も変わらない。シャンピオンは自転車が好きで、それを見抜いたおばあちゃんがツール・ド・フランスに出場させようと特訓を始める。その成果があって孫はツール・ド・フランスに出場するが、途中で棄権してしまう。しかもその直後に謎の黒服の男たちに連れ去られてしまう。それに気付いたおばあちゃんが息子を取り戻そうと大活躍する。なにしろ息子たちは例の不思議な形の船に乗せられベルヴィルに連れてゆかれるのだが、その船をおばあちゃんはよく湖などにある足こぎボートで追いかける。何と大西洋を足こぎボートで漕ぎ渡ってしまうのだ!!いやはや、彼女こそツール・ド・フランスに出場すべきだった。
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  ベルヴィルの街は明らかにパロディ化されたアメリカである。ベルヴィルを通してアメリカそのものが風刺されている。特にアメリカ映画・アニメがカリカチュアの対象だ。自由の女神は太ったおばちゃんになっている。例のなんとも奇妙な黒服の男たちはアメリカのギャングのパロディ。またベルヴィルでおばあちゃんは年取った三人姉妹と出会うが、彼女たちを通してアメリカのショービジネスがパロディ化されている。彼女たちはアニメの最初に登場している。まだ現役の若い頃で、テレビのショーに出演している。かなり売れっ子だったのだろうが、今は年老いて貧乏暮らしをしている。彼女たちが食べているものがすごい。池で蛙を取ってきて食べているのだ。しかも蛙の取り方がまた荒っぽい。手りゅう弾を池に投げ込んで、吹き飛ばされた蛙を網で拾い上げる。この蛙料理にはさすがのおばあちゃんも一瞬たじろぐ。おばあちゃんはこの三人姉妹と協力して孫を救い出すのである。この三人姉妹は実に魅力的だ(決して悪意がこめられたパロディではない)。おばあちゃんも十分すごいが、やはり彼女だけでは魅力に欠けると考えたのだろう。おばあちゃんのペットの犬(列車を見ると必ずほえるのが可笑しい)も含めて、登場するキャラクターがみんな魅力的なのがすごい。

  黒服の男たちは自転車選手を誘拐して、無理やり自転車を焦がせて客たちに賭けをさせている。自転車は、健康器具として使われる自転車のように固定されていて動かない。前にスクリーンが付いていて、そこにツール・ド・フランスのコースと思われる道が映し出される。よくゲームセンターにある、コースから外れないように自動車を走らせるゲームの様な画面だと思えばいい。最後は動かないはずのこの自転車が台ごと動き出して、おばあちゃんたちはそれに乗って逃げる。それを自動車に乗った黒服の男たちが追跡する。アメリカ映画お得意のカー・チェイスのパロディだ。

 アニメは漫画と違って絵が動く上に音も出せるので、格段にリアリティが増す。漫画の方が表現手段として下位にあると言っているのではない。制限があるからこそ工夫が生まれるのである。スーパーマンがなぜマントをつけているかご存知だろうか。あのマント自体は何の実用性もない。にもかかわらずマントを付けているのは、空を飛んでいる場面を描く時にマントがひらめいていると風を切って飛んでいる感じが視覚的に伝わってくるからだ。マントがなければただ体が横になっているだけである。それはともかく、話を元にもどすと、アニメは漫画よりリアリティが増すが、にもかかわらずリアリズムのアニメは極めて少ない。現実ではなく、むしろ現実にはありえないものを描くのに適している。したがって相当に荒唐無稽なストーリーでもさほど抵抗なくすんなり受け入れられる。それがアニメの強みだ。

  「ベルヴィル・ランデブー」はカリカチュアやパロディといった風刺の伝統とつながっている。ヨーロッパには長いカリカチュアの伝統がある。金権腐敗にみちた十九世紀のパリを辛辣に風刺したドーミエやイギリスの『パンチ』誌を思い起こせばよい。風刺画、風刺漫画、漫画は本来毒があるものなのだ。「ベルヴィル・ランデブー」はこの伝統を受け継いでいる。残念ながら日本の漫画・アニメにはこの毒がほとんどない。その意味でももっと日本で知られていいアニメだと思う。

2005年9月 8日 (木)

犬猫

cyclamen92004年 「犬猫」製作委員会
監督、脚本:井口奈己
撮影:鈴木昭彦
美術:松塚隆史
出演:榎本加奈子、藤田陽子、西島秀俊
    忍成修吾、小池栄子

 各種映画評で肯定的に評価されていたので楽しみにして観た。多くの批評は主演の一人藤田陽子(スズ役)をほめていたが、榎本加奈子(ヨーコ役)も意外によかった。意外にというのはそれまで彼女をいいと思ったことがなかったからだが、メガネをかけた地味な顔がなんとも魅力的で、それまでの彼女とはまったく違うキャラクターになっていた。そこがいい。

 一方の藤田陽子はCMで活躍していたり、「模倣犯」「犬と歩けば」などの映画に出ていたらしいが、この2本は観ていないのでまったく知らなかった。驚いたのは「茶の味」のエンディング・テーマを作詞し歌まで歌っていたということだ。もともと歌手だったそうだ。ちょっとキーの高いソフトな声で話すのが何となく顔と合わない気がするが、独特のほんわかした雰囲気がこれまたいい。もう一人、友情出演で最初だけ出てくる小池栄子も印象的だ。売れっ子の彼女だが、彼女もまたこれまでどこがいいのかと思っていた。しかしこの映画の中では非常に魅力的だった。編み上げ帽子がよく似合う。どこにもいる普通の女の子のように見えたからかもしれない。あまりにいい感じだったので、最後にもう一度画面に出てきてほしいと思ったほどだ。他に主演の二人とからむ男優が二人出てくるが男はどうでもよろしい。

 この映画はいわば私小説映画である。女の子二人のどうということのない日常を描いている。恋愛と嫉妬も絡んではくるが、大半は家の中でごろごろしている光景だ。布団を敷いたり(シーツを敷くときスズはただ表面をパタパタたたくだけですそを織り込まないところが可笑しい、普段もそうしているのか?)、料理を作ったり、ちゃぶ台で食事をしたりといったごく日常的な描写が続く。互いに交わす言葉も特にどうということのない日常的な会話だ。一方男との会話はさっぱり弾まない。若い女性二人の等身大の日常生活がさらりと描かれているだけだ。特に劇的な展開があるわけでもない。せいぜいヨーコが密かに憧れていた三鷹(忍成修吾)とスズが急接近して、その腹いせにヨーコがスズの元彼である古田(西島秀俊)の家で一晩過ごすことぐらいだ。翌日ヨーコはスズに昨日古田と寝た(実は、古田は夜バイトに出ているのでこれは嘘)と言うとスズはヨーコに飲んでいた酒をぶっ掛けて部屋を出て行く。というような波乱はあるが、どうやらそれも収まってゆく気配だ。

 なんでもない日常の世界を描いているため、ちょっとした目の動きや表情の変化、微妙なせりふや感情の動き、あるいはその場の雰囲気などが重要な要素になってくる。最初に二人の主人公の魅力について触れたのは、まさにこの二人の存在感にこの映画の出来不出来の大部分がかかっているからだ。監督の井口奈己は二人にとにかく力を抜くよう何度も指示したそうだ。二人も本当にその部屋に前から住んでいるような感じを出そうと努力したそうである。その結果がこのよく出来た私小説映画に結実した。

 監督もこの二人の個性をうまく描き分けている。ヨーコはしっかりものだが地味な性格。スズはちょっと天然ボケが入った、こだわらない明るい性格で、料理がうまい。スズは三鷹を家に連れてきて、横で面白くない顔をしているヨーコの前で、「彼女とは昔から同じ男の子を好きになるのよね」などと脳天気に言ったりするのである。普段冴えないメガネをかけているヨーコが、スズに三鷹を取られたときはメガネをはずしてコンタクトをつける。このあたりは女性心理をうまく描いていると思う。なかなか気の利いた演出もある。スズは犬を散歩に連れてゆくアルバイトをしているが、初めてその家に行ったときなかなかその家を見つけられない。そのスズがすねてバイトに行かないのでヨーコが代わりに犬を散歩にcatw_47連れてゆくシーンがあるが、ヨーコもまたその家を探しあぐねてスズと同じように同じところを何度も行ったりきたりする。2回とも同じ角度から撮っていて、二人はまったく同じように道に迷うのだ。何とも愉快なシーンである。

 最近日常的世界を描くこの手の映画が増えてきた気がする。「珈琲時光」「茶の味」も似たような要素があるし、韓国映画の「子猫をお願い」なども多分にこの要素を含んでいる。肯定的に言えば、アメリカなどの派手な演出の映画のアンチテーゼであると位置づけられるだろう。否定的に見れば、自分たちの世界にこもって社会に目を向けようとしない視野狭窄の世代の映画だともいえる。ゲームに夢中になって育った世代は社会に目を向けることをせず、自分の身の回りのことにだけ神経を尖らせる。そういう時代の映画なのか。

 いや、そこまで言ってしまってはこの映画に対して不当な評価をしたことになるだろう。人生の大部分は日常的なことの繰り返しなのである。だからこそたまの休みにどこかへ出かけることが楽しいのだ。人々は日常にしばられ、しばられているからこそそこから逃れたいと願う。映画や小説などはその「願い」の部分を題材とすることが多い。毎日同じ仕事をしていることを描いてもドラマにならないからだ。「Shall We ダンス?」はそういう日常からの脱出という夢を描いた映画だ。いや、他にいくらでもある。西部劇やアクション映画を観て自分もヒーローになったような気分に浸るのも同じことだ。クレージー・キャッツのサラリーマン・シリーズだって一種の夢物語である。あんな脳天気な「無責任男」は現実にはいない。

 しかしその日常の部分に光を当てる映画があってもいいはずだ。小津の映画だってその範疇に入る。日本の私小説もそうだ。ドラマとしては成立しにくいが、登場人物のささやかな夢やあわい恋心、些細な悩み、微妙な感情のゆれ、意識のひだなどをクローズアップすることによって見るものの共感を誘う映画だって成立する。そういう題材になるのは、定職を持たない若い女性が多い。ある程度行動が自由で漂泊する感情の流れが描きやすいからだろう。「珈琲時光」しかり、「子猫をお願い」しかり、そしてこの映画しかり。同じ仕事を繰り返す職場が描かれる場合はむしろそこからの脱出が描かれることが多い。「Shall We ダンス?」しかり、「反則王」しかり。あるいは、普段はしがない会社員またはOLだが、しかしひとたび事件がおきれば・・・。この手の映画やアニメはいくつも思い当たるだろう。しかし日常からの脱出は現実には難しい。だから人は映画や小説の架空の世界にひと時の現実逃避を求めるのである。「犬猫」の冒頭で留学するため中国へ向かうアベチャン(小池栄子)も、それまでは他の二人と同じようにだらだらしていたのに違いない。しかし彼女は日常からの脱出を決意したのである。小池栄子にいつになく魅力を感じたのは、彼女が演じた役柄にこの行動力があったからかもしれない。しかし他の二人は彼女をうらやましく思いながらも、アベチャンを見送った後また日常に戻ってゆくのである。

 こう書いてきて自分でも気付いたが論理がぐるぐる回っている。実際それが日常生活の実態なのだ。日常から脱却したいと願いつつ、やはり日常を繰り返さざるを得ない。ある決意をして新しい人生を送り始めたとたん、それがまた日常になってゆく。人は絶えず日常を繰り返し、また絶えず日常から逃れたいと望み続けるのである。私小説映画の主人公はある意味でアンチヒーローである。「夢」を描く映画には出てこない日常の生活が却って新鮮に映るのが私小説の魅力である。若い女性は自分ひとりで家にいるときは綿入れ半纏を来てコタツで丸まっているのか?!振り返って自分を顧みれば、家の中ではだらしない格好をしているじゃないか。そうだ、そうだとここに共感が生まれる。にもかかわらず「犬猫」のような映画には物足りないものも感じる。やはりどこか息苦しさを感じる。もっと何か突き抜けたものを求めたくもなる。日常を描いてゆけば、イギリス映画によくあるお先真っ暗の暗い映画になってゆく可能性だってあるわけだ。「セールスマンの死」に行き着いたのでは余りに切ない。井口監督もこのタイプの映画ばかり撮り続けるつもりではないだろう。この先小さくまとまらないでどんどん新たな挑戦をしてほしいと願う。

月曜日に乾杯!

2002年 フランス・イタリアn0003sn
監督、脚本:オタール・イオセリアーニ
出演:オタール・イオセリアーニ、マニュ・ド・ショヴィニ
   ジャック・ビドゥ、アンヌ・クラヴズ・タルナヴスキ
   ラズラフ・キンスキー、ナルダ・ブランシェ

 オタール・イオセリアーニを最初に見たのは岩波ホールで上映された「落葉」である。当時のチラシを見ると「ピロスマニ」に続くグルジア映画第2弾という位置づけだったことが分かる。映画ノートで「落葉」を見た日付を確かめてみると82年9月18日とある。もう23年前だ。内容はもうほとんど思えていない。

 最近のヨーロッパ映画に多いのだが、「月曜日に乾杯」は実に奇妙な味わいの映画だ。主人公は工場の労働者。毎日同じように工場に行き同じように帰宅する。妻からも子どもたちからもろくに相手にされない。ある日突然工場をサボり、家族に黙ってヴェニスに行ってしまう。しばらくゆっくり羽を伸ばして、家に帰る。旅先から送っていた絵葉書を妻はろくに見もせず破り捨てていたが、夫が帰ってくると何事もなかったかのように迎える。子どもたちもちょっと長い休暇から父親が帰ってきた程度の反応。またいつものように日常が始まる。  

 ストーリーはこのようなものだが、ほとんど説明がなく勝手にどんどん場面が変わってゆく。にもかかわらずどういうわけか画面にひきつけられてしまう。冒頭の工場の様子からそうだ。何の工場かよく分からないが人々が働く様子をカメラがなめるように写し取ってゆく。いったい何が始まるのか分からないのでずっと観ていると、いつの間にか画面にひきつけられている。結局何も起こりはしない。ただ毎日の労働の様子をそのまま写しただけだ。全体がこんな感じで淡々と流れてゆく。そう、流れてゆくという感じだ。何も劇的なことは起こらない。突然の旅行もあっさり流される。そもそもなんでタイトルが「月曜日に乾杯!」なのかも分からない。

 不思議な味わいの映画だ。淡々とした描き方はオリヴェイラの「家路」を思わせるが、まだ多少なりとも筋があるだけ分かりやすい。日常からの脱出というテーマも分かりやすい。しかし日常からの脱出というよりも、日常そのものが主題ともいえる。息子たちが父親に関係なくハングライダーで空を飛ぶシーンが挿入されたりする。ヴェニスでは金をすられたり、訪ねていった家族が彼が出て行った直後に猛然と言い合いを始めたり。すべてが日常だ。確かにアメリカ映画のようにそうそう大事件が起こるわけではない。人生の大半は何事もなく凡々と過ぎてゆく。主人公もヴェニスで何か人生の教訓を学んだわけではなく、ただのんびりすごしただけだ。何とか気がまぎれて、また日常に戻ることが出来たに過ぎない。この程度のちょっとした「はめはずし」は誰にでもある。その日常を、観客を退屈させることなく描いた力量は注目に値する。ヨーロッパで小津が尊敬される理由が何となく理解できる。

 この映画の場合、説明を省いていることが効果を上げている。突然現れる人物にいったい誰かと注目する。しかしさらっとその場面は流れてゆく。汽車の中で出会う女性がどこか思わせぶりで、何かその先重要な役割を演じるのかと観客は予想するが、それきり出てきはしない。訳が分からないから何とか理解しようと緊張する。そしていつの間にか画面に引き込まれている自分に気づくのだ。小津とはまた違った日常の描き方の文法を発明している。                                    

2005年9月 7日 (水)

トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ①

ユルマズ・ギュネイ(1937-84)監督紹介
  まずギュネイ監督自身について紹介しておきたい。ギュネイは1937年4月1日生まれ。父母はともにクルド族の出身である。貧困と人種差別を経験したことから(クルドsedang3族問題は、「路」のオメールの物語 の主題になっている)、社会的矛盾に目を向けるようになった。ギュネイ自身が後に語ったことによると、金持ちの家で雑用をしていた彼の母親が持って帰る食べ物の残り物は、彼らにとってはごちそうだったが、時が経つにつれて、それは金持ちの食べ残しでしかないことに気づき、誇りを傷つけられたということだ。芸術に対する彼の興味はシナリオや小説の執筆という形で現れ、20歳になった時には既に小説家としての名声を獲得していた。彼はシナリオ作家と映画監督になりたかったが、周囲の勧めで俳優になり、1958年から14年の間に100本以上の映画に出演し、国民的スターになった。後に監督になり主演を兼ねるようになるが、途中何度も政治犯として投獄された。「路」、「敵」、「群れ」は彼が獄中にいた間に、獄中から指揮して代理監督に撮らせたものである。仮出獄したときにロケハンし、獄中を訪れる代理監督や俳優たちと細部の打ち合わせをしたという。

  ギュネイの作品が日本に紹介されたのは、85年に「路」が公開された時である。この重苦しく、悲痛な作品は日本の観客に衝撃を与え、ロングランヒットになった。このヒットを受けて、同年4月渋谷のユーロスペースで「エレジー」と「希望」が、西独製の記録映画「獄中のギュネイ」(必見!)と併映という形で公開された。小ホールにもかかわらずガラガラの入りだったが、いずれも優れた作品だった。ついでながら、翌86年5月には「ハッカリの季節」(1983、エルデン・キラル監督、日本公開84年)もユーロスペースで上映された。恐らく日本で最初に公開されたトルコ映画ではないか。高度3000メートルにある小さな村と小学校が舞台。雪に覆われた何もない世界と独特の生活風習には心底驚いた。文字通り未知の世界だった!

 そして86年の暮れから87年にかけて「群れ」と「敵」が公開された。計5本、ギュネイの主要な作品が日本に紹介されたわけだ。

世界に衝撃を与えた代表作「路」
  82年のカンヌ映画祭は社会派の作品が他を圧倒した。グランプリを分け合ったアメリカの「ミッシング』とトルコの“YOL”の他に、イタリアの「サン・ロレンツォの夜」が審査委員特別賞を獲得している。「ミッシング」は82年、「サン・ロレンツォの夜」は83年に公開されたが、“YOL”の方は84年に なっても公開されず、結局見られないのではないかと思っていた。それがやっと85年になって「路」という邦題で公開されるに至ったのである。トルコでも映画を作っているのか、という声さえ出てきそうなほど映画「後進国」と見られていた国で作られたこの映画は、しかし、公開されるやいなや波紋のように感動の輪を広げロングランになり、半年後には早くもリバイバルされるという大変な人気を得たのである。

 「路」は重苦しく、悲痛であると同時に感動的な映画である。グランプリを取ったカンヌ映画祭で上映された時、場内は厳粛な沈黙に一瞬つつまれ、やがて湧き上がるような感動の拍手に包まれたという。この映画は、イムラル島拘置所から仮出所を許された5人の男たちの後を追って行く形で展開する。5人の前に待っていた現実はそれぞれに異なっているが、いずれもトルコ社会の根深い前近代的体質、自由抑圧という点では獄中となんら変わらないことが、力強いリアリズムによって見事に描き出されている。特に印象深いのはメメットとセイットの物語である。メメットは妻の兄と銀行強盗を働いたときに、おじけづいて妻の兄を見殺しにしてしまった。出獄したメメットは妻に会いに行くが、妻の家族は彼を許さない。メメットは妻とともに逃げ出し、途中の列車のトイレの中でhanehosi1愛し合おうとする。しかし乗客に見つかりあやうくリンチにされそうになる。車掌により何とか助けられるが、そこへ彼の後を追ってきた妻の弟に妻もろとも撃ち殺されてしまう。直後にインポーズされる列車の汽笛は、まるで悲鳴のように耳をつんざく。トルコ社会の抜き難い前近代的体質を、ぞっとするような迫力でまざまざと見せつけるエピソードだ。

 セイットの物語りはさらに圧倒的であり、彼の悲劇的苦悩は見るものの胸を揺るがさずにはおかない。セイットの妻ジネは、夫の服役中身を売ったために8ヶ月も家族に監禁され、掟によってセイットはジネを殺さねばならない。しかし妻を哀れむ心を抑えられず、セイットは雪深い谷を越えて妻を実家の村へ連れて行くことによって、直接自分で手を下さずにジネを死に至らしめようとする。狼の遠吠えがこだまする中、一面の雪景色の中をセイットとジネとその息子の三人が丘をのぼって行く。8ヶ月も鎖につながれていたジネは力つき倒れ、夫を呼ぶ。「セーイーット。わたしを見捨てないで。わたしを狼のえさにしないで!」白一色の画面にジネの赤い服が映え、目に焼きついて離れない。美しくも凄絶な場面である。最初に息子が立ち止まる。セイットの歩みも遅くなる。ついに彼は立ち止まってしまう。どうしても前に進めない。ついに彼は引き返して妻を抱き上げる。眠ったら死んでしまうぞと励ましながら妻を背負ってゆくが、村に着いたときには妻は凍死していた。トルコ社会の自由なき現実を告発しつつ、民衆の中にある克服されるべき古い体質からも目をそらさないギュネイのこの姿勢を、ある批評家は「戦うリアリズム」と呼んだ。「路」は現実に対する厳しい姿勢を持つとともに、忘れ難い詩情をたたえた、まれに見る映画である。

 「路」を撮っていた時、監督のユルマズ・ギュネイは政治犯として獄中にいた。獄中で脚本を練り、仮出所した時にロケハンをし、獄中を訪れる代理監督(シェリフ・ギョレン)や俳優たちと細部の打ち合わせをした。ギュネイは映画の完成直前に脱獄し(看守たちも彼に協力的だったという)、スイスとフランスで完成させた。カンヌでグランプリをとった年(82年)から2年後の1984年9月9日、ギュネイはパリで病死した。「路」は長い間上映禁止だったが1999年にやっとトルコで上映された。

生活の困窮と人間的苦悩「敵」
 「敵」(1984)についてはもっとじっくり論じてみたいのだが、ここでは簡単にまとめておこう。「群れ」はトルコ人の生活と思考を深く支配している因習がいかに人々を不幸にしているかを主に問題とした作品だが、「敵」の中心主題は貧困と家庭崩壊である。冒頭の職探しの場面(失業者が多すぎて雇い主のいいように賃金を切り下げられるところは「怒りの葡萄」を連想させる)と、やっと見つけた野犬狩りの仕事を主人公が良心の呵責を感じてやめてしまう挿話が特に印象的だ。主人公は生活のために仕方なく野犬を毒殺する仕事をしているのだが、それを見とがめた子供に石を投げ付けられる。死んでゆく犬の苦しむ姿を見て夜は悪夢にうなされる。生活のために働こうとしても、人間としてのプライドを捨てなくてはやれない仕事しかない。生活の困窮に人間的苦悩が加わる。ついには女優志望で、派手好きの女房にまで逃げられてしまう。

 「路」同様、主人公が新しい未来を見いだそうと出発するところで終わるが、経済、政治、社会、道徳のすべてにわたって複雑に絡み合った抑圧機構は容易には崩れず、「敵」は社会のみならず自分の心の中にも潜んでいる。車に乗って新しい地へ向かう主人公の前に続く道は、トルコ社会がこれから歩まねばならない苦難に満ちた道なのかもしれない。
 (「群れ」についてはメモが残っていない。いずれ機会があれば紹介したい。)

トルコ映画の巨匠ユルマズ・ギュネイ②

ギュネイの記録映画「獄中のギュネイ」0901moon
 「路」のヒットを受けて、渋谷のユーロスペースで、ギュネイが監督と主演を兼ねた「エレジー」(1971)と「希望」(1970)の2作品が、西ドイツ製の記録映画「獄中のギュネイ」と併映という形で続けて公開された。だが「路」の大ヒットにもかかわらず、こちらの方はガラガラの状態であった。ユーロスペース自体まだほとんど知られていなかった頃だったので無理もないことだったかも知れない。だがこの2本と記録映画は全くの拾い物だった。

 まず記録映画の方を取り上げよう。パンフレットがないので細かいところは忘れてしまったが、まず印象的だったのは、ギュネイが鉄の檻の中ではなく普通の建物の前(中だったか?)で自由に相手の質問に答えていることだった。そしてその質問に対する答えが、驚くほどラディカルな言葉で語られていたことも意外な感じがした。彼はまるでアメリカを非難するベトナム兵士のように、トルコ政府とトルコ社会を厳しく批判した。だが最も鮮明な記憶として残っているのは、インタビュアーが街の人々にギュネイ監督をどう思うかと質問しているところである。聞かれる人のほとんどが、ギュネイを好きであるとか尊敬しているとか答 えている。中でも、路上で靴みがきをしていた男が、「なぜギュネイの映画が好きなのか]というインタビュアーの質問に対して、自分の靴みがき台の横に張ってある写真を指さしながら、「俺たちのことを描いているからだ」と答え、「彼は単なるスターではなく、民衆を愛する革命家なのです」と言っているところが 印象的だった。

トルコ版ウエスタン「エレジー」
 さて次に、「エレジー」の方に話を移そう。社会問題に正面から切り込んだ「路」とは別に、西部劇や悪漢小説的なアクション映画などもギュネイは手掛けて おり、「エレジー」はその代表作である。「エレジー」はトルコ版ウエスタンといった趣の作品だが、もちろんただのウエスタンではない。もろい岩ばかりの荒涼とした風景と、そこを根城に動き回る密輸グループの男たち。自然の不毛さと人間たちの冷酷非情さは、そのままトルコ社会の貧しさと人間的荒廃を映し出している。物語は単純である。仕事を頼まれた密輸グループが裏切りに合い、命からがら切り抜けるが、その帰途憲兵隊に包囲され、壮絶な撃ち合いの末、首領のチョバンオール(ギュネイ)は負傷する。彼は村の女医により手術を受け、命を取り留める。女医に心引かれながらも、チョバンオールはやはりアウトローの道 を選び、再び仲間たちと去って行くが、途中仲間割れし、残ったチョバンオールも最後には村人に殺されてしまう。

 「エレジー」の見所の一つは崖の下での憲兵隊との銃撃シーンである。巨大な岩が次々に転がってくるのを避けながら双方撃ち合う場面のダイナミズムは、まさに圧巻である。特撮など一切用いず、砂煙を上げて落ちてくる本物の岩石の腹を揺るがすような地響きと威圧感を、そのまま小細工なしで映し取ったことと、俳優たちの命懸けの演技によって、まれに見る壮絶なシーンが作り出されている。だがこの映画を真に価値あるものにしているのは、主人公の「悪党」たちに対する作者の眼である。われわれは、これらの「悪党」たちに人間性を失うギリギリのところまで追い詰められた貧しい魂を見、彼らの密輸行為の中に生活を感じてしまう。どう見ても悪党なのだが、なぜか義賊のようにも思えてくる。それでいて首にかけられた賞金のために村人たちに殺されてしまうラストシーンには、妥協のない非情さがある。貧しい者どうしが殺し合っている。生きるためには手段を選ばないのは他の人々も同じなのだ。民衆を見る複眼的な眼はここにも生きている。「エレジー」を単なるアクション映画に終わらせていないのは、人間をとらえるこの眼の豊かさである。

宝を掘り続ける貧しき者たち「希望」
 「エレジー」に登場するギュネイは精悍な顔つきであり、これがまたこの作品に魅力を加えている。しかし「希望」のギュネイは全く違った人物になりきっている。ギュネイ扮する主人公のジャバルは文盲で、しがない乗り合い馬車の御者をしている。しかし事故で馬を一頭失い、残った一頭も債権者に持ち去られる。 その後強盗を試みたりデモに行ったりするが、状況は少しも好転しない。思い余った彼は、友人ハサンが持ちかけた話を信じ、あるはずのない財宝をさがそうと、超能力を持っているという触れ込みの聖職者と三人であちこち掘り返し始める。止める妻の言葉も聞かず、残った金を全部つぎ込んでさがすが宝は見つからず、cut_gelf_non_w300ジャバルはほとんど狂人のようになって穴を掘り続ける。

 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の初めのあたりにも同じような話が出てくるが、「希望」の方がより社会的背景と密接に関連づけて描かれている。イタリアのネオ・リアリズモを思わせるような徹底したリアリズムで、ギュネイはこの作品を最後まで描き通している。馬が一頭死んだだけでみるみる生活が傾いてしまうほどの極貧、信じられないほどの無知。超能力を持つという僧が二人をだましているというのではなく、その僧自身宝の存在を信じ込んでいるという設定が卓抜である。独自の地方色や手法という点では「エレジー」に一歩譲るが、その詩情と、安易な妥協を排して市井の人々の貧しさと無知を描き抜いた手腕は非凡である。(「希望」は初期のサタジット・レイを思わせるところがある。)

亡命芸術家の苦悩
 ユルマズ・ギュネイという人物を考える時、トルコ社会の現実との関係を抜き去ることはできない。彼は最もトルコ社会の変革を望んだ人物であるが、同時に 最もトルコ人を愛した人間であり、トルコ社会の矛盾に満ちた現実を芸術作品として描き出すことに最も成功した芸術家でもあった。ギュネイが死の数週間前 にロンドンの“Still”誌と交わしたインタビュー中の次の一説は、芸術家(特に亡命を余儀なくさせられた芸術家)にとっての祖国の意味を考える上で、実に興味深い示唆を与えてくれるだろう。

インタビュアー:
  現在亡命しているわけですが、それが映画にどんな相違をもたらすと思いますか。
ギュネイ:
  亡命監督は母国から引き離されているという、大きな問題をかかえています。つまり私のイメージ、視覚的背景、そして私を母国、人々、私の過去と結びつけているバックグラウンドから切り離されていることを意味します。私には技術的、理論的基礎はありますが、それらを使って撮るには慣れ親しんだ土地が必要です。私は以前カメラを持たない〃刑務所の映画監督〃でした。今はカメラを持つことはできますが、一体何を撮ればいいのでしょう。私には視覚的な資産が 何もない。トルコにいた頃はシナリオなしに映画を撮っていました。必要なかった。撮影している土地のことも、そこに住む人間も、彼らの間の関係も熟知しているし、スタッフも旧知でした。ところが今の私は斧のまだ入っていないジャングルにいるようなもので、まずそれを切り開く新しい方法を見いださねばなりません。

2005年9月 6日 (火)

五線譜のラブレター

2004年 アメリカ・イギリスm001134bg
原題:De-Lovely
配給:20世紀フォックス映画
監督:アーウィン・ウィンクラー
脚本:ジェイ・コックス
撮影:トニー・ピアース=ロバーツ
出演:ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド
        ジョナサン・プライス、ケヴィン・マクナリー
        サンドラ・ネルソン、アラン・コーデュナー
    ピータ・ポリカープー、キース・アレン
       ジェームズ・ウィルビー、ケヴィン・マクキッド
特別出演
   ナタリー・コール、エルヴィス・コステロ
       シェリル・クロウ、アラニス・モリセット、ロビー・ウィリアムス、ララ・ファビアン
   ダイアナ・クラール、ヴィヴィアン・グリーン、マリオ・フラングーリス、レマー
   ミック・ハックネル

 期待を上回る傑作だった。最近アメリカ映画に元気がないと思っていたが、そんな心配を少し和らげてくれる良質の作品である。「スター・ウォーズ エピソード3」と「宇宙戦争」でルーカス対スピルバーグの競演も話題になった。やっとアメリカ映画らしくなってきた。こうでないといけない。山の様にある凡作と質はともかく話題の超大作と少数の優れた作品、これがアメリカ映画の本来の姿である。やっとその本来の姿に近づいてきた。もう少し様子を見ないと安心できないが、どうも最近のアメリカ映画界はおかしいぞという心配が杞憂であればいいのだが。

 老齢のコール・ポーターが舞台で演じられる自分の半生を客席で見る設定になっている。数々の名曲を交えたミュージカル仕立ての演出、ナタリー・コールやエルビス・コステロ等の有名ミュージシャンの特別出演、そして何といっても古きよき時代のアメリカ映画の香りを優雅に漂わせるムード。ここにはアメリカ映画の優れた伝統を凝縮した世界がある。「シカゴ」を上回る出来だ。

 出演しているミュージシャンがすごい。ナタリー・コール、エルヴィス・コステロ、シェリル・クロウ、アラニス・モリセット、ロビー・ウィリアムス、ララ・ファビアン、ダイアナ・クラール等々。この豪華さこそアメリカ映画の醍醐味だ。他の国では到底まねが出来ない。

 しかし一番素晴らしいと思ったのは主演の二人だ。ケヴィン・クラインとアシュレイ・ジャッド。二人とも実際に吹き替えなしで歌っている。この二人の歌が素晴らしい。特にケヴィン・クラインの歌は説得力があり、ぐんぐん胸に迫ってくる。並みの才能ではやっていけないハリウッドの凄みを感じる。さらに素晴らしいのはいうまでもなく演技力だ。二人とclip-eng3も若いときから老齢までを演じ分けている。少しずつ髪の毛に白いものが混じり、動きも鈍くなり、ほほがたるみ、顔にしわが増えてくる。声も変わってくる。特に感動したのは死の床に伏せるリンダ(アシュレイ・ジャッド)のメークだ。つるつるしていた顔に残酷なしわが走り、顔にたるみが出来ている。目の周りは黒く落ち窪んでいる。これはまあ老人のメイクとして当たり前だ。驚くべきは喉のしわだ。老人は喉の辺りにもしわが出来ているが、そんなところまで手を抜かずに丁寧に作り上げている。いや、メーキャップだけの効果ではない。俳優の動き、身振り、話し方、そして何よりも年齢を重ねるごとに身にまとってゆく人生の重み、それらが伴わなければ、ただの着ぐるみを着ているのと同じだ。二人はそれを見事にやってのけた。そこが素晴らしい。

 もちろん老け役ばかりがいいわけではない。若いときの二人は輝かんばかりだ。さっそうとしたケヴィン・クライン。美しさとしとやかさを兼ね備えたアシュレイ・ジャッド。彼女は「サイモン・バーチ」以来のファンだが、この映画が一番彼女の魅力を引き出している。二人にとってこの作品は代表作になるだろう。衣装や宝石類には何の関心もないのでどうでもいいが、建物や室内装飾は時代を感じさせる豪華なものだ。コスチューム・プレイというが、衣装だけでは時代を表現できない。舞台装置も重要な要素である。こういうところに金をかけられるからこそ夢を描けるのだ。そういう点でアメリカは有利である。最もこの点では古い豪壮な建物が多く残っているヨーロッパも負けてはいないが。

 この種の伝記映画はどうしても主人公を美化して描きがちである。コール・ポーターがホモ・セクシャルだったことを隠さずに描いたのはその辺を意識してのことだったかもしれない。もっとも、全体としてそれも含めて彼の生き方を肯定しているので美化している感じは拭い去れない。特にリンダとの愛にかんしては完全に美化している。しかしそれがこの映画の一番の魅力でもある。「僕の歌は全て君の歌だった。」いかにもという感じのせりふだが、これがすっと自然に入ってくるのは演出がうまいのだろう。五線譜に書き込まれたラブレター。あまりに甘美すぎるこのテーマを、老人になり死を間近にした主人公が振り返るという設定にすることによって多少なりとも抑えようとしている。しかも本人ではなく別の演出家が演出することによって本人が触れたがらないことにも触れている。甘い思い出として振り返るだけではなく、自分で自分を客観視させられる面もある。この演出が秀逸だ。

 この映画の魅力はこれで尽きるわけではない。コール・ポーターの曲そのものの魅力がどれだけこの映画を支えているか。ジョージ・ガーシュイン、デューク・エリントン、アーヴィング・バーリンなどと並ぶアメリカの大作曲家。いかにもミュージカルという明るくテンポの速い曲から、じわりと胸にしみこむバラード調の曲まで。場面に合わせ巧みに織り込まれている。今まで特にいい曲だと思っていたものはほとんどなかったが、この映画で大分考えを改めさせられた。早くDVDを手に入れて、それぞれの曲をもう一度じっくりチェックしてみたい、サウンドトラックのCDも欲しい、そんな気持ちに駆られた。

 監督のアーウィン・ウィンクラーは長い間プロデューサーとして活躍し、数々の名作を製作してきた。監督としては91年の「真実の瞬間」が第1作である。その処女作が今までの代表作だったが、「五線譜のラブレター」はさらにその上を行く出来だ。この作品は彼の代名詞になるだろう。

永遠のマリア・カラス

gclifis2_22002年 伊・仏・英・ルーマニア・スペイン
監督:フランコ・ゼフィレッリ
出演:ファニーアルダン、ジェレミー・アイアンズ
    ジョーン・プローライト、ガブリエル・ガルコ
     ジェイ・ローダン

  この映画の成功は大部分マリア役を演じたファニー・アルダンに負っていると言ってよい。ゼフィレッリ監督もマリア・カラスにそっくりだと激賞している。もっとも監督はそっくりさんを描くことではなく、彼女の魂を描くことに狙いがあると言っているが。その狙い通りの映画が出来たということだろう。往年の美声を失い失意のまま引退生活を送っていたにしては美しすぎるが、そこまでリアリズムを突き詰めることはないだろう。プロモーター役のジェレミー・アイアンズもさっそうとして格好いい。

  かつて栄光を極めた歌手の誇り、絶頂期の自分を取り戻したいという欲望、まだやれるという執念、そして人生の最後に偽りの自分をさらしたくないという芸術家としての、そして人間としての誇り。これらの間でゆれる人間的葛藤を見事に描き出している。そしてその苦悩の末に、自らも傑作と認める映画を破棄することを決断する。

  フィクションではあるが人間としてのマリア・カラスを描こうとしている。その苦悩を十分描き切ったとは言えないかも知れない。だから、それまで満足していた映画を彼女が突然拒否するのが唐突に感じられるのである。それでもやはりすぐれた映画だと言える。絶頂期のマリア・カラスと自信をなくし失意に沈む彼女を同時に描くことに成功しているからである。この映画が「シカゴ」に勝っている理由はこの点にあるといえる。パゾリーニの「王女メディア」で本物のマリア・カラスを見てはいるものの、彼女には何の思い入れもない。全編に流れる彼女の歌はさすがに素晴らしいが、他の名歌手よりどう優れているのか分からない。それでもこの映画に共感させられたのは、やはりこの映画に力があるからだ。

  「ロミオとジュリエット」で世界中の女性の涙を絞ったフランコ・ゼフィレッリ監督も(1923年生まれだから)この作品を撮った時は79歳!99年の「ムッソリーニとお茶を」も傑作だった。最晩年に傑作を2本も生み出している。マノエル・ド・オリヴェイラもびっくり!?驚くべきじいさんだ。

2005年9月 5日 (月)

ピエロの赤い鼻

2003年  フランス映画
原題:EFFROYABLES JARDINS
原作:ミシェル・カン、”EFFROYABLES JARDINS”(恐るべき庭)
【スタッフ】
 脚本:ジャン・ベッケル、ジャン・コスモ、ギョーム・ローランtomato
 監督:ジャン・ベッケル
 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル
 撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
【出演】
 ジャック・ヴィユレ、アンドレ・デュソリエ、ティエリー・レルミット
 ブノワ・マジメル、 シュザンヌ・フロン

 「ピエロの赤い鼻」は「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」より出気がいいと思った。「ピエロの赤い鼻」の大体の話は分かっていたが、肝心な部分はかなり予想外の展開だった。大枠はピエロを演じる父親を恥ずかしく思っている息子に、父親の親友がなぜ父親がピエロを演じるかを話して聞かせるというものである。父親のジャック(ジャック・ヴィユレ)は友人のアンドレ(アンドレ・デュソリエ)とレジスタンスの真似事をして鉄道のポイント切り替え所を爆破する。ドイツ軍は犯人を見つけるために人質を4人選び、犯人が名乗り出なければこの4人を殺すと脅した。このあたりの展開はだいたい予想したとおりだった。

 しかしその4人の中にジャックとアンドレが選ばれてしまう。彼らは大きな穴の中に突き落とされる。もろい土である上に雨が降っているのでぬるぬるして這い上がることができない。4人の人質たちは雨と泥まみれになって不安な時間を過ごす。こういう展開になるとは思ってもいなかった。当然監獄の様なところに押し込められるのだろうと思っていた。恐らく配給会社は意識してこのあたりの展開を隠していたのだろう。穴の中の4人はどうやったら穴から抜け出せるか色々やってみるが、結局あきらめる。まるで安部公房の「砂の女」だ。そのうち食い物(フランスの郷土料理カスレ)の話をしたり、誰が彼ら4人を指名したのか犯人当てをしたりし始める。このあたりの展開が滑稽で、翌日には処刑されるという絶体絶命の窮地にあるにもかかわらず、どこかファンタスティックな感覚さえ覚える。さっぱり切実感も緊迫感もない4人の状態が彼らの置かれた深刻な状況と妙に齟齬をきたすために、全体としてどこかシュールな雰囲気が漂いだす。実に秀逸な演出である。

 やがてそこに一人のドイツ兵が現れ、滑稽なしぐさをして彼らを笑わせる。穴の上と穴の中。4人の男たちは下からドイツ兵を見上げている。ドイツ兵のピエロが彼らを慰める展開になることは前もって知っていたが、まさかこういう形で彼らが会うとは思わなかった。翌日彼らは銃殺されることになるが、例のドイツ兵が銃を構えなかったので指揮官に撃ち殺されてしまう。このあたりからシュールな感覚はなくなり、ぐっとリアルな演出になる。

 彼らは銃殺直前に「真」犯人が名乗り出たため助かる。実は、ジャックとアンドレが爆破した建物の中にはそこで働くフランス人がいた。彼は爆破で大怪我をして入院していた。自分が助からないと覚悟した彼は、どうせ死ぬのだからと自分が犯人だと名乗り出るよう妻に頼んだのだ。

 映画の最も感動的な部分はその後だ。やがてフランスは開放されジャックたちは平和に暮らart-pure2001awしている。ある日二人は死んだフランス人の妻に会いに行く。自分たちが犯人だったと告白するつもりだった。しかし言えずに一旦引き下がる。だが途中で思い直し、また引き返す。戻ってきた二人に、死んだ男の妻は二人がやったことは知っていたと話す。呆然とする二人。彼女の夫は爆破の直前に顔を見ていたのだ。彼女は二人が戻ってきて打ち明けたことを褒め、もうこのことは誰にも話さないよう告げる。ここは実に感動的な場面であった。毅然とした老婦人の態度に胸を打たれる。ジャックがピエロになることを決意したのはこの時である。

 この話を聞いて息子の父親に対する認識が一変する。このあたりはまあ予想通りだ。事前にある程度の予備知識を持っていれば、全体の枠組みは予想通りで意外性は全くない。しかしこの作品の価値はその枠組みの間に挟まれた部分、回想の部分にある。この部分は普通なら苦痛を伴うリアリスティックな描写になるはずだ。しかしこの作品は敢えてそうはしなかった。ジャックとアンドレアが登場したときから滑稽なムードが流れる。のっぽとちびの文字通りのでこぼこコンビである。その二人が共に恋心を寄せる女性ルイーズにいいところを見せたいばかりにレジスタンスの真似事に走る。ジャックとアンドレの滑稽なやり取りを見ていると、爆破事件さえも本当にあったことではなく冗談なのではないかというどこか非現実的な雰囲気がかもし出される。だから絶体絶命の穴の中でも、この非常時にカスレが手に入るわけはない、などとどうでもいいようなことを本気で論じ合うような場面が自然に描けるのである。

 笑いで不安や恐怖をやわらげるというのではない。もっとねじれていてシュールな状況になっている。日本人ならあんな場面は描けない。それでいて彼らの味わった恐怖や殺しあうことのむなしさ、さらには夫の意思を正面から受け入れ夫が銃殺される場面を目撃しても、なおレジスタンスの行為に走った二人を許す夫人の毅然とした態度を十分観るものに伝え得ている。たとえシュールに見えてもそれは現実逃避ではない。監督はあるインタビューに答えて「彼らのように、絶望の分だけ希望を持つことが人生には大切なんだ。」と語っている。フランス人の「笑い」はかくも強靭であり、また柔軟である。

 この演出方法はまかり間違えば大失敗につながる。戦争を笑いものにしていると勘違いされかねない。しかしジャン・ベッケルの演出は笑いとリアリズムのつぼをしっかりと押さえていた。冷酷なドイツ軍将校とピエロのドイツ兵を描き分けたように。命令に従わなかったドイツ兵(ピエロを演じた男)を何のためらいもなく撃ち殺すドイツ軍指揮官の冷酷さはステレオタイプ的だが、後の死体処理を命じられた下士官(?)の戸惑ったような表情はリアルだった。ドイツ軍といえども人間である。

 穴の場面を作り出したことによってこの映画は傑作となった。「笑ってごらん、幸せになれるから」という「イブラヒムおじさん」のキャッチフレーズはむしろこの作品にこそふさわしい。

寄せ集め映画短評集 その2

 在庫一掃セール第2弾。今度は5連発。


「ホテル・ハイビスカス」(2003年、中江裕司監督)

  期待通りの佳作だった。何といっても主人公の美恵子を演じた蔵下穂波の存在感がすごい。小学3年生だというが、自由奔放な性格が画面からはじけ出ている。特典映像でこれは自分の「地です」と言っていたが、彼女をオーディションで発見した段階でこの映画の成功は保障されたようなものだったのではないか。それくらい存在感がある子役だajisai2った。伝説の森の精霊キムジナー探しに夢中になったり、お父さんを探しに一人でバスに乗って「冒険」に出たりと、彼女の身の回りの出来事を追ってゆく展開で、特にこれといった一貫したストーリーがあるわけではない。基地の存在、混血児の存在、サンシンの弾き語り、先祖の霊を迎える儀式などを随所に取り込み、沖縄らしさを演出している。

  監督の中江裕司は京都出身だが大学が沖縄大学で、沖縄に魅せられ住み着いたそうだ。巧みな替え歌が効果的に使用され、屈託のない子どもの世界が描かれている。原作はもっと多面的に描かれているようだが、脚本は思い切って子どもに焦点を当てたという。おそらくそこに成功の原因があったといえよう。軽いコメディだが、ほほえましい映画だ。「ナビィの恋」(1999年)もいい映画だったが、これもそれに劣らない。

「過去のない男」(2002年、アキ・カウリスマキ監督、フィンランド)

  正直言ってカウリスマキ監督には偏見があった。最初に見た彼の作品「マッチ工場の少女」があまりに面白くなかったので、その後まともには見ていなかった。しかしこの作品を観て彼に対する認識を新たにした。

  暴漢に襲われて頭を殴られ、記憶をなくした男の話。病院で一旦死を宣告されるが、奇跡的に生き返り、病院を抜け出す。そのまま港湾のコンテナ住居に流れ着く。救世軍に救われ、そこでイルマと出会う。やがて銀行強盗に遭遇したことがきっかけで身元が分かる。しかし妻の元に返ると、既に離婚が成立しており、妻には新しい男がいた。主人公はまたイルマの元に戻る。

  カウリスマキのいつもの乾いた奇妙な雰囲気を持つ映画だが、ほのぼのとした温かみがある。コンテナ住居の周りには失業者たちがあふれている。社会の最底辺に生きる人たちが登場人物のほとんどだ。最初に世話になった男が、今日は金曜日だからディナーに行こうと主人公を誘う。行ってみると何と救世軍の配るスープをもらってくるだけだった。そこで救世軍に勤めるイルマと出会うわけだ。このあたりのほのかなユーモアの効いた演出が素晴らしい。このユーモアがこの映画に独特の温かみを与えている。救世軍のバンドに「世俗的な」曲を演奏させるあたりも面白い。イギリス映画によくある、気がめいる様な暗さはない。また、湿っぽさもない。独特の乾いた感覚がまた素晴らしい。社会の底辺に生きる人たちを温かく見守っている描き方が共感を誘う。イルマは主人公に「この世では慈悲ではなく、自力で生きねば」と話す。これがこの映画の底流となっている。

「炎/628」(1985年、エレム・クリモフ監督、ソ連)

  これは1943年、ドイツ占領下の白ロシアを描いたもので、邦題はドイツ軍に焼き尽くされた村が628あったことから付けられた。最後の大虐殺の地獄絵図は言語に絶する迫真力で、見終わった後はしばらく口もきけな いほどだ。だがラストシーンの卓抜さによって、この映画は単なる怨念と恨みの物語を超えたものになっている。
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  主人公の少年は(この時には髪が白くなり、額には皺が深く刻まれ、くちびるは割れてふくれあがり、一日にして老人のようになっている)水溜りに落ちているヒトラーの写真を銃で撃ち続ける。撃つごとに当時のニュースフィルムが逆回転で映される。軍隊は後ろに行進し、投下された爆弾は次々に爆撃機の中に納まる。そしてニュースの中のヒトラーは少しずつ若くなり、最後は母親に抱かれた赤ん坊になる。その時少年は撃つのをやめる。何がこの赤ん坊を誤った信念に取りつかれた独裁者に変えたのか。時間を元にもどしてほしい、失われた家と人々をわれわれに返してほしい、という作者の思いが痛いほど伝わってくる秀逸なシーンだ。森の中を進んでゆくパルチザンの兵士たちの背にモーツァルトのレクイエムが流れるラストの感銘は、単なる怒りと告発の作品からは得られないほど深い。

  見終わった後わずか20人にも満たない観客たちは、一様におし黙りうなだれるようにして、映画館の階段を下りていった。この作品を観て来た者の気持ちは、その原題にすべて語り尽くされている。「来たれ、そして見よ」。

「脱走山脈」(1968年、マイケル・ウィナー監督、アメリカ)

  傑作だと思った。象をつれてアルプスを越える話だが、象は山の上は苦手だし、一頭だけでは眠らないのでもう一頭撮影に連れて行ったというエピソードからも、そもそも設定として無理がある話だということが分かる。しかしそれでも、映画としての面白さは損なわれていない。目立ちやすい象をつれてドイツ軍の追跡をかわしつつスイスへ脱出するという奇想天外のストーリーが、むしろこの作品の一番の魅力になっている。

  このメインのストーリーに、アメリカ人の脱走捕虜(なつかしやマイケル・J・ポラード)をリーダーとするレジスタンス・グループの破壊活動が絡まりあってストーリー展開をより膨らませている。オリヴァー・リードのまじめなキャラクターとマイケル・J・ポラードの脳天気なキャラクターとのギャップもうまく作用している。今この映画はカルト的な人気があるそうだが、戦争ファンタジーとでも呼ぶべきジャンルを切り開いた傑作としてもっと正当に評価されてしかるべきだろう。

「最後の冬」(1986年、ウー・ツーニュウ監督、中国)

  冬の終わり、一人の少女と二人の男女がゴビ砂漠にあるさびれた駅に降り立つ。駅で少女が農場はどこかと聞くが、駅にいた人々の反応がどこか異様である。何とか場所を聞き出して三人は歩き出す。しかしそこは砂と岩しかない荒涼とした所で、道らしいものすらない。彼らが目指している農場とは、地の果てとも思 われるところに設置された犯罪者労働改造農場だったのだ。この冒頭の描写が素晴らしく、フランチェスコ・ロージ監督の「エボリ」を思わせるが、こちらはもっと乾いており、文字通り何もない。
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  三人はそれぞれ自分の身内に面会に来たのだった。固く心を閉ざし、最後の別れのときやっと心を開く弟、母を思い出し泣き出す妹。肉親たちの現在と過去の対比は常套的で感心しないが、肉親を思う彼らの心が素直に胸を打つ。例えば面会を終えて農場の近くの宿舎に泊まっていた時、夜突然銃声が轟く。三人とも自分の肉親が脱走したのではないかと思って恐慌状態になる。まもなく囚人たちを集める号砲だということが分かり、一斉に笑い出しそれが涙に変わる。それを見て、事情を知らない女将が言う。「何てこったね。囚われている人たちより、囚われていない人たちの方がいかれてる。」なんともアイロニカルで、緊張と弛緩のドラマティックな展開が見事である。

  翌朝、帰路につく三人は、いつの間にか一つの家族のように心を通い合わせていた。春の近いことを願いつつ駅に向かう三人の姿がさわやかだ。映像が美しく、深みがあり、また訪問者の中の少女がなまいきで可愛らしく、重くなりがちなムードを救っている。決して完璧な作品ではないが、忘れがたい一遍である。

 

2005年9月 4日 (日)

68年版「ミニミニ大作戦」

1968年、アメリカart-hituji3502
【原題】The Italian Job
【スタッフ】
製作: マイケル・ディーリー
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
監督:ピーター・コリンソン
音楽:クインシー・ジョーンズ
撮影: チャック・ウォーターソン、他
【出演】  マイケル・ケイン、ノエル・カワード
            ベニー・ヒル、ラフ・ヴァローネ
       トニー・ベックリー、ロッサノ・ブラッツィ

 マイケル・ケイン主演の痛快犯罪アクション映画。2003年に再映画化されたが、そちらは見ていないし見る気もない。この68年版はBFI(British Film Institute)選定イギリス映画ベスト100の第36位に選ばれた傑作。マイケル・ケインの出演した作品は他に「狙撃者」(71年)16位、「ズール戦争」(64年)31位、「アルフィー」(66年)33位、「国際諜報局」(65年)59位、「モナリザ」(86年)67位など、合計6本入っている。68年のこの作品はまさに彼の絶頂期に撮られた彼の代表作の一つである。他にも「探偵スルース」(72年)、「殺しのドレス」(80年)、「デストラップ・死の罠」(82年)、「ハンナとその姉妹」(86年あたりが僕にとっては印象深い。その後さっぱり名前を聞かなくなったかと思っていたら、「リトル・ヴォイス」(98年)「サイダーハウス・ルール」(99年)「ウォルター少年と夏の休日」(03年)などで健在ぶりを示していた。すっかり爺さんになってはいたが、さすがの存在感である。

 この映画はミニ・クーパーが大活躍するので(タイトルはここから来たのだろう)車オタクたちが好むマニア向け映画のごとく思われているふしがあるが、決してそんなことはない。僕にとって車は単なる移動手段であって、名車や高級車には何の関心もない。ミニ・クーパーだろうがアストン・マーティンだろうがおよそどうでもいい。走っているのがカローラでもマーチでも一向に構わない。それでも十分楽しめる。そんなことにこの映画の眼目はない(小型車だということには重要な意味があるが)。

 まず、映画の冒頭場面からして印象的である。長い曲がりくねった道をスポーツ・カー(ランボルギーニ・ミウラだそうです)が疾走している。車はトンネルに入ったとたん何かに衝突して炎上してしまう。マフィアの待ち伏せにあったのである。いきなりのクラッシュでショッキングだが、それ以上に映像が実に鮮明でシャープであることに驚かされる。イギリスのカラー映画といえば、マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーの「赤い靴」や「黒水仙」のあの鮮明で濃厚な映像が有名だが、こちらは濃厚さを排したぐっとシャープな映像である。今見ても驚くほど鮮明で新鮮だ。

 もちろん素晴らしいのは映像ばかりではない。この映画はその奇抜なアイデアが浮かんだ段階で傑作になることがほとんど保障されていたといってもいいだろう。400万ドルの金塊を積んだcar現金輸送車から金塊を奪うという計画自体はありきたりである。その方法が奇抜なのだ。信号機を制御するコンピューターに偽の指令を流して交通渋滞を引き起こし、その混乱に乗じて金塊を奪い、大通りの渋滞を尻目にミニ・クーパーで裏道や細い路地や、果ては建物の屋根から下水道まで走り抜けて逃走するという奇想天外な計画である。だからミニ・クーパーでなければならないのだ。総勢20人近くの仲間がそれぞれの持ち場でてきぱきと指示通りに動く。警察の追跡を振り切ったミニ・クーパーは大型トラックの荷台に乗り込み、金塊を積み替えた後は崖下に突き落とす。てきぱきとした手順とそれを描く切れの良い演出。この一連のプロセス全体が見せ場である。

 銀行強盗や宝石泥棒などをテーマにした映画は限られた空間で展開されることが多い。「おしゃれ泥棒」「トプカピ」「オーシャンと11人の仲間」(あるいはその再映画化作品「オーシャンズ11」)、「エントラップメント」、あるいはパトリス・ルコントの「スペシャリスト」など、いずれもその類である。しかしこの映画はトリノの街を縦横に走り回る。そこに無類の爽快感がある。金塊奪取の部分も面白いが、その後の逃走劇、カー・チェイスももちろん見せ場だ。これがすごい。ミニ・クーパーだからこそ出来る、ドラえもん的「どこでも道路」逃走術。「フレンチ・コネクション」より3年前、マックィーンの「ブリット」より1年前に作られたとは思えない、カーチェイスのお約束的要素がすべて入っている。

 だが、皮肉なことに警察もマフィアも振り切って成功を確信した瞬間にトラックは道をまがりそこね、崖のふちから車体半分を突き出したかたちで止まってしまう。まるでシーソーのように上下に揺れるトラック。ゆれるたびに金塊は滑って手の届かない奥へと移動してしまう。まるでチャップリンの「黄金狂時代」に出てくる崖っぷちの小屋だ。最後はマイケル・ケインの「いいアイデアがある」という言葉で終わる。車が宙ぶらりん状態になるというシチュエーションはその後たくさんの映画で真似されている。「いいアイデアがある」と言っているが、結局金塊は車と一緒に崖に落ちていったに違いない。仕事に成功して浮かれるあまり、帰りに事故に会うというのは「恐怖の報酬」と同じだ。

 イギリスを代表する名優の一人として、不気味な殺人者から人のいい優しい爺さんまで様々な役柄を演じてきたマイケル・ケインだが、ここでの彼はさっそうとしたチンピラやくざという役回りである。まだ若く、はつらつとした彼が見られる。

 他の出演者についても一言。マイケル・ケインに計画を指示する獄中の大ボス、ブリッジャーにイギリスの有名な劇作家ノエル・カワードが扮している。獄中なのになぜかまるで自分の大邸宅にいるような余裕の生活ぶりを見せている(これがまたシュールでいい)。ラフ・ヴァローネ(マフィアのボス)とロッサノ・ブラッツィ(最初に車を疾走させていた男)を見たのは実に久しぶり。いやあ、ふたりともなつかしかった。
 (「BFI選定イギリス映画ベスト100」の全作品を知りたい方は、本館の「緑の杜のゴブリンへ飛び、「イギリス映画の世界」のコーナーに入ってください。邦題つきで載せ
 てあります。元の英語のサイトへも本館のリンクから飛べます。)

メアリ・ローズ・ガーデン

 イギリス映画に「グリーンフィンガーズ」という作品がある。「グリーンフィンガーズ」とは「庭弄りが好きな人」という意味である。囚人たちがガーデニングを始め、やがて"ハンプトン・コート・パレス・フラワーショウ"にまで出場するという映画だ。いかにもガーデニング王国イギリスらしい映画である。そう いえば、「大脱走」にもイギリス人のガーデニング好きが活かされた場面が出てくる。連合軍の捕虜たちは脱走のためにトンネルを掘るのだが、そこで彼らは頭の痛い問題に直面した。掘り出した土をどう処理するかという難問である。そこで思いついたのが畑作り。イギリス人捕虜がドイツ兵に畑を作らせてくれと頼み込んで了解を得る。その畑に何食わぬ顔をして掘った土をばら撒いてゆくのである。頼みに行ったのがアメリカ人の捕虜だったら逆に怪しまれたかもしれない。イギリス人だったから成り立った話である。
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 別にこの映画に影響を受けたわけではないが、2001年に本格的に庭を造った。家を建てて3年目だ。それまでは庭というより荒地で、石がごろごろしていてコンクリートの破片や太い鉄線などが地面から顔を出していた。庭を造って以来、散歩のときも他の家の庭をよく眺めるようになった。ああ、あの塀の作りはいいなあ、あのかたちのいい木は何の木だろう、ああいう花の色 の配色は参考になるなどと思いながら眺めるのである。ガーデンデザインの本などを見ると見事な庭の写真が載っているが、素人にはとてもまねが出来ない。せいぜいそこからヒントを得て、自分の庭に応用する程度である。しかしそれが楽しい。

 そのうち本格的なガーデンも観たくなる。上田にはこれといったものはないが、佐久にはメアリ・ローズ・ガーデンがあり、茅野市にはバラクラ・イングリッシュ・ガーデンがある。バラクラ(「薔薇のある暮らし」をもじった名前らしい)には行ったことはないが、メアリ・ローズ・ガーデンには一度行ったことがある。その時の日記を引用しておこう。

 駐車場から見上げた建物は素晴らしかった。期待が膨らむ。美しい英国風の建物で、そこがガーデンの入り口と書いてある。中に入ると売店のようになっていて、すぐ左にレストランがある。奥に切符売り場があり、その横のドアを通るとガーデンに出た。見事なガーデンだった。自然庭園風ではなく、幾何学的な庭園 だった。丘の斜面に作られているので段々畑のようになって続いている。それぞれを塀で囲い、狭い門のような入り口でつないでいる構造がいい。ローズ・ガーデンとなっているが、薔薇以外にも様々な花が咲いていた。写真でしか見たことがなかったものもたくさんあり、勉強になった。写真では実際の大きさが分からないからだ。花の配置の仕方、芝生と花壇の配置もよくできていた。芝生が随分短く刈ってあって、こんなに短くするものかと驚く。家の芝生は長すぎる。と言うより、ほとんど手入れしていないから伸び放題である。確かにこのくらい短いと歩きやすい。しかし手入れが大変だろう。

 ガーデン全体が段々状になっているのですぐには全貌がつかめないのもいい。あちこち歩き回りながら、まだこの先にもあるのかと楽しみが長く続く。ちょっと奥の方にシークレット・ガーデンと名がついている一角もあった。ブランコがあったので乗ってみた。ブランコに乗るのは久しぶりだ。こういう隠れ家の様なスペースは前から欲しかった。ちょっとしたこの遊び心がいい。庭が広ければシークレット・ガーデンを作って見たいものだ。ガゼボのある一角も素晴らしい。同じものがほしいと思ったほどだ。うちじゃ置くとこもないが。

 一通り回った後、塔に登ってみた。結構面白い作りで、両脇に螺旋状の階段がつき、その間に小ぶりな部屋が二部屋続きで配置してあるという作りだ。屋上からは回りが見渡せ、眺めはいい。下を見下ろすと、庭園の全貌が見て取れる。意外に小さいスペースだった。中にいるとかなり広い気がするが、実際にはたいしたスペースではない。その狭い空間を、いくつものパートに区切って、それぞれ違った個性を持たせ、びっしりと花が植えてあるために狭さを感じないのだ。見事な工夫である。

 塔から降りて、レストランの横のテントを張ったテラスでコーヒーを飲む。コーヒーはサービスだ。楽しいひと時だった。

2005年9月 3日 (土)

SWEET SIXTEEN

mintglass2002年 英・独・スペイン
監督:ケン・ローチ
出演:マーティン・コムストン、ウィリアム・ルアン
アンマリー・フルトン、ミッシェル・クルター
ゲイリー・マコーマック、トミー・マッキー

 観る前はジャケットの写真から何かひどく歪んでひねくれた若者の映画だろうと思っていた。確かに麻薬を売って儲けたりはするが、主人公リアム(マーティン・コムストン)は意外にまともである。麻薬も母親の愛人が隠していたものを盗んだもので、彼自身も親友のピンボール(ウィリアム・ルアン)も麻薬をやってはいない。彼が麻薬に手を出してまで金を手に入れたかったのは、彼の16歳の誕生日に刑務所に入っている母親が釈放されるので、母親のために新しい家を手に入れたかったからだ。

 母親は何をやって刑務所に入れられたのかはっきり描かれていない。しかし麻薬に手を出していたことは面会のときの会話で分かる。母親の愛人とその父親はリアムを使って母親に麻薬を渡そうとする。母親は自分が使うのではない、人に渡せばいい金になるのだと弁解するが、リアムは渡すことを拒否する。その結果母親の愛人とその父親に散々殴られる。この一連のエピソードで彼が悲惨な家庭環境の下で育ったことが分かる。にもかかわらず、彼は母親の釈放を心待ちにしている。温かい家庭に飢えているのだ。麻薬を使った金儲けという違法な手段に訴えはするが、それは他にまともな仕事がないことを示している。今のイギリスは浮かび上がろうにも、まともな手段では出来ないのである。必死になって母親のためにまともな家を確保しようと努力するリアムの気持ちがいじらしい。

 しかし麻薬に手を出したため、ボスににらまれ手足として使われることになる。母親の愛人はせっかくリアムが手付金を出して確保しておいた家(いかにも安物だが)に火をつけて燃やしてしまう。それどころか、出所してきた母親も最初の晩だけは歓迎パーティーに出て楽しそうにしていたが、結局翌朝出て行って愛人のところに戻ってしまう。それにはリアムの姉が絡んでいる(彼女だけのせいではないが)。姉はまだ十代で子供をもうけたが、幸せに暮らしている。母親への憎しみは骨がらみで、決して母親を許そうとはしない。散々裏切られてきたからだろう。彼女の気持ちも理解できる。むしろひたすら母親を思うリアムの気持ちの方が不自然と言えば不自然だ。それはともかく、このあたりの描写は実にリアルで、安易な出口mintglass3を与えようとはしていない。

 母親の後を追って実家に行き、母親の愛人と口論の末、リアムは相手を刺してしまう。ふらっと海岸に出たリアムの携帯に姉から電話が入る。「今警察がお前を捜している。大丈夫なの?」呆然と海岸に立ちすくむリアム。これがラストシーンだ。

 ディケンズの「われらが共通の友」にチャーリー・ヘクサムという人物が出てくる。父親はテムズ川で死体を浚い、それが身につけている金品を奪ったり家族からの報奨金で生活している。社会の最底辺で暮らしている一家だ。チャーリーはそのおぞましい暮らしからの脱出を願い、教育者となって身を立て、それから姉のリジーを救い出そうと決心する。その限りではきわめてまともな思いだった。しかし出世街道を進むうちに、出世それ自体が自己目的化してゆき、ついには慕っていた姉のリジーや師と仰いでいた恩師も自分の出世の妨げになると切り捨ててゆくような冷酷な人物になってゆく。作者の共感はリジーの側にあるが、彼は安易にチャーリーを挫折させはしない。完成した最後の小説でディケンズが到達した冷徹なリアリズムである。

 リアムは、言ってみればまだ変心する前のチャーリーである。ラストシーンでのリアムは実に微妙な立場にいる。せっかくの思いをまともに受け止められないだらしない母親に、自分の努力をむなしいと感じたのか?人を刺した以上、彼自身が母親と入れ替わるように刑務所に入ることになる。そうなった後でも彼はまともな気持ちを持ち続けられるのか?小説のように長く描けない映画は結末以後を観るものの想像にゆだねる。見るものの思いは社会にも向けられるだろう。まともな感覚を持ちながら、チンピラとしてしか生きられないリアムやピンボールの様な若者たち。彼らが這い上がる余地を与えない社会。21世紀のチャーリーは今後どのように生きるのか。

 このところ出口のない気が重くなるような作品が多かったケン・ローチ作品としては、かすかながらまだ光が見出せる作品である。2000年以降の作品としては一番優れているのではないか。主人公を演じたマーティン・コムストンはまったくの素人で、サッカーのプロチームの選手だった。サッカーをやめて(趣味としては続けるようだが)俳優を志すそうだ。期待したい新人である。03年のキネ旬ベストテンでは選外だったが、傑作ぞろいの03年公開作品の中でもベスト20に入れたい傑作である。

家族のかたち

2002年 英・独・オランダ011006_03_q
監督:シェ-ン・メドウス
出演:ロバート・カーライル、リス・エヴァンス、
    シャーリー・ヘンダーソン、フィン・アトキンス
    キャシー・バーク、リッキー・トムリンソン

 ロバート・カーライル主演。大分予想と違っていた。いつものイギリスの下層中流階級を描いた重苦しい映画。舞台はノッティンガム。グラスゴーでテレビを見ていたジミー(カーライル)は元妻のシャーリー(シャーリー・ヘンダーソン)がテレビに出ているのをたまたま見かける。デック(リス・エバンス)という男がテレビでシャーリーに求婚して断られていた。それを見てジミーはシャーリーとよりを戻そうとノッティンガムに舞い戻る。監督のシェーン・メドウスは男が町に舞い戻ってきて厄介ごとを起こすという西部劇のパターンを取り入れたと話している。

 実際、シャーリーと娘のマーリーンはデックとうまくやっていた。ジミーの出現は文字通り厄介者の帰還だった。ジミーは強引にシャーリーの家に入り込む。弱気なデックはシャーリーの気が代わったと思い町を出て行こうとする。しかし車にマーリーンが乗り込んでいた。マーリーンは実の父のジミーを嫌っており、デックに好意を寄せている。マーリーンを見て気が変わったデックは、ジミーと対決し、彼を殴り倒す。本気で争えばジミーに勝ち目があるが、シャーリーもマーリーンもデックの側についたことを悟った彼はおとなしくデックの車で(デックが差し出した交換条件だった)グラスゴーに戻ってゆく。

 シャーリーは意志が弱く、いつも誰かを頼りにしていないといられない性格だ。この映画を観ていて感じるイライラの大半は彼女の優柔不断さから来る。ジミーは強盗をやって金を奪うような男。粗雑で自分勝手な性格。ただロバート・カーライルがメイキングで語っていたが、彼は最初もっと悪党として設定されていたらしい。しかしデックとの差がありすぎるので、ただのだらしない男にトーンダウンした。確かに彼は暴力を振るってはいない。しかしそれでも彼の粗暴さと自分勝手さは、映画全体を暗くしてやりきれない思いを感じさせるには十分だった。救いはデックが最後に勇気を奮うところだ。彼のパンチはまぐれ当たりの様なものだが、これでハッピーエンド。気がめいるような終わり方にはなっていない。そこを評価したい。

 それにしても階級社会であるイギリスの庶民を描くのは難しい。お先真っ暗でこっちまで暗くなる映画か、そうでなければ頑張って成功を収めるか、両極端になりがちだ。「家族のかたち」の明るいエンディングもとってつけたような感じがしないでもない。現実の困難を描きながら庶民のしたたかさ、明るさ、力強さを映画くのは至難の業だ。それはリアリズムそのものの課題でもある。麻薬やアル中の蔓延、精神の荒廃、無知と粗暴さ、これらを描きつつなおかつ見るものに感動を与える作品を作ることは困難な課題だ。それに成功したのはわずかに「秘密と嘘」「レディバード・レディバード」「シーズン・チケット」くらいではないか。これからも労働者階級や下層中流階級を描く作品は作られ続けるだろう。そこからまた傑作が生まれることを期待したい。

 ついでながら、平凡社新書に収められた『不機嫌なメアリー・ポピンズ イギリス小説と映画から読む「階級」』(新井潤美著)はおすすめです。これほどイギリスにおける微妙な階級的特徴を面白く解説した本はほかに見当たらない。

2005年9月 2日 (金)

この世の外へ クラブ進駐軍

06instrument2003年
監督:坂本順治
出演:萩原聖人、オダギリ・ジョー、MITCH、シェー・ウィガム
ピーター・ミュラン、松岡俊介、村上淳、真木蔵人、池内万作

 前半は多少軽い感じがしたが、後半はぐっと引き込まれる。単なる音楽映画でもなく、「ウォ-ターボーイズ」や「スイング・ガールズ」や「深呼吸の必要」のような努力型夢実現映画でもない。ジャズ・ミュージシャンとして成長してゆく若者たちが描かれているが、この映画を優れたものにしているのは進駐軍との関係だ。

 主人公は進駐軍相手にジャズを演奏する日本人の素人ミュージシャンたち。最初そんなものはジャズではないと馬鹿にした白人アメリカ兵(彼もサックスを吹く)と最後には心が通じ合う。しかし、ここで描かれているのは、占領軍とその慰安のために演奏している日本人ミュージシャンの心の交流というだけではない。最後に朝鮮戦争が勃発し、その白人アメリカ兵は出征して戦死する。彼が残した曲を日本人のミュージシャンが演奏する。この場面は感動的だ。しかしただ感動的だというだけでもない。彼らが演奏するその曲「この世の外へ」をバックに、次に朝鮮戦争に出兵する兵士の名が次々に読み上げられてゆく。名前を呼ばれて立ち上がる兵士たちが哀れだ。彼らのうち何人が生きて帰って来られるのか、そう考えざるを得ない。追悼曲を演奏するというそれだけではありきたりとも言える場面に、出兵兵士の名を読み上げる声をかぶせることによって、感動がより深まり、同時に戦争の残酷さを見るものの胸にいやというほど刻みつけることに成功している。映画史に残るラストシーンだといってよい。

 アメリカ兵を演じているシェー・ウィガムとその上官ピーター・ミュランが素晴らしい演技をしている。これも特筆すべきだ。「ロスト・メモリーズ」のチャン・ドンゴンのように、日本映画に出てくる外国人は一様にどこかうそ臭い。日本語のせりふが不自然だし、そもそも外国語では母国語で話すときのようにうまく感情を言葉に乗せられない。チャン・ドンゴンもその苦労をインタビューで率直に話していた。しかしこの映画の場合彼らは英語で話している。それがまず成功の一因だ。そして彼らにほとんど主役に近い重要な役割を与えていることがもう一つの理由である。

警察日記

aki091955年

監督:久松精児
出演:三島雅夫、森繁久彌、三國連太郎、十朱久雄、宍戸錠
    小田切みき、二木てるみ、十朱幸代

 典型的な人情喜劇。福島県の磐梯山のふもとの町の警察署が舞台。おそらく会津あたりと思われる。まだ日本が貧しかった頃の話だ。子供二人を捨てた母親、夫がいなくなり食い詰めて万引きや無銭飲食をする子連れの母親、病気の母親と幼い弟たちのために身売りする娘、こそ泥。警察署の厄介になるのはそんな人間ばかり。凶悪犯罪はない。貧しさゆえに犯した罪。警察官は怒鳴ったり諭したりするが、捨て子を親身になって世話したり、金に困って犯したちょっとした罪などは見逃してやる。親に捨てられた2人の子供が別々の家に預けられ、姉の方がまだ赤ん坊の弟を心配して夜訪ねてゆくところなどは泣かされる。人情物は、困った立場のものに同情できる共通の感情的基盤があって始めて成り立つ。かつての日本にはそれがあったのだ。しかしその一方で、町から出た大臣が帰郷する際の、町の大物たちのあわてぶり、へりくだり、へつらった歓迎振りもまた皮肉を込めて描かれている。

 役者たちがみな若い。三國連太郎も宍戸錠もまだ20代くらいではないか。宍戸錠はまだ頬を膨らませる前の二枚目だった頃だ。三島雅夫、森繁久彌、十朱久雄、杉村春子など、芸達者ぞろい。60年代以降の日本の映画やテレビはこの世代の俳優たちに支えられて成り立っていたのだ。その後これほどの役者たちはほとんど生まれてはいない。その遺産もほとんど食い潰してしまった今、日本の映画とテレビは大きな危機に直面しているといっていいだろう。監督も脚本家も俳優も、彼らを育てていたかつての育成制度がなくなってしまったのだ。テレビ出身の見てくればかりのタレントが幅を利かせている。古い映画を見ると、改めてそういったことを感じざるを得ない。

本日休診

31su1952年
監督:渋谷実
出演:柳永二郎、三國連太郎、岸恵子、淡島千景、鶴田浩二
長岡輝子、佐田啓二

 見るのは二度目だ。三國連太郎の切れた演技が一番記憶に残っていた。題名通り病院が舞台。医者と患者の間で展開される人情喜劇である。

 八春先生の病院は、せっかくの休日にも次々に患者が押しかけて来ててんやわんやである。戦争後遺症で時々発作を起こしては大声で騒ぎ出す青年(三國連太郎)、小指を詰めるので麻酔をかけてくれと迫るやくざ(鶴田浩二)とその愛人(淡島千景)、男に暴行され警官(十朱久雄)に連れてこられた若い女(角梨枝子)、難産で苦しむ妊婦。昼と夜とを問わず次々と玄関のベルがなり、電話が鳴る。散々振り回されながらも、患者のために先生は奔走する。

 金に困るものには支払いは後でいいと笑って話す。医は仁術を地で行く、医者の鏡のような先生だ。それでも説教臭くならないのは、戦後の混乱した世相を背景に(リヤカーが盗まれるといったエピソードが出てくる)コメディタッチで描いたからだ。ばくち打ちや泥棒が登場するが、根っからの悪党はいない。病院が舞台ではあるが、「警察日記」と同じ人情コメディだ。日本映画黄金期の傑作の一つ。

 主演の柳永二郎が豪放でかつ磊落な味わいのある演技をしている。並み居るスター達を向こうに回して、群を抜く存在感だ。主役として映画の土台をがっちり引き締めている。「朴さん」で主演した韓国のキム・スンホを思い出した。昔はこういう役者がたくさんいた。ドラマの中心に地味だが存在感のある役者をどっしりと据え、その周りにスターを配するという見事なキャスティングだ。三國連太郎はまだ若いが、戦争で精神を病んだ青年をオーバーになりすぎずに演じている。それに比べると佐田啓二はまだまだ青二才で、台詞回しの下手なこと!鶴田浩二も後年の落ち着いた味わいはまだない。忘れてならないのは望月優子や田村秋子、あるいは中村伸郎や十朱久雄といった名脇役だ。地味な存在ながら作品をしっかりと脇で支えている。こういう俳優が今はほとんどいなくなってしまった。スターばかりでは人間ドラマは成り立たないのだが。

2005年9月 1日 (木)

ブログとホームページの違いに驚く

gem2  新しくブログを作ったのは8月の27日。ホームページの「恋太郎の映画日記」はさっぱり人気がでないが、それはタイトルのネーミングが悪いからだろうと考えて、さんざん頭をひねって、ブログのタイトルを「銀の森のゴブリン」にした。最初からメルヘンチックなタイトルを作ろうと思ったわけではないが、出来上がったらそうなっていた。銀は銀幕から取った。最初は「何とかカフェ」とか、「何とかタイム」にしようかと考えていたが、映画関係のホームページやブログには多いのでやめた。代わりに思いついたのが「何とかの森」だった。そこから「銀の森」ができた。ゴブリンはどこから発想したのか覚えていないが、妖精の住むケルトの森を連想したのだろう。このタイトルなら反響があるはずだ。その考えはあたった。

  ものすごい反響である。きのう(8月30日)1日だけでなんとアクセス数が70あった!そのうちの10くらいは自分でアクセスしたものだ。アップした文章がどんな風に見えるか確かめたり、どれくらいアクセスがあったかを調べるためにアクセスしたものだ。それを除いても60くらいある。とんでもない数である。まだ開設して3日目だぞ。今日も60近いアクセスがあった。しかもホームページ時代には経験したことがなかった、コメントやトラックバックが入ってくる。これは感動だ。自分の書いた文章に他の人からの反応が返ってくる。反応が直に感じられるのである。一方、ホームページはといえば、きのうのアクセス数10、うち自分でアクセスしたのが7あるから、純粋な外来分はたったの3回だ。今日なんかもう後30分で日付が変わるがまだ7だ。純粋な外からのアクセスは3回のみ。何とか自分のホームページを宣伝しようとあちこちのアクセスアップ・サイトに登録したりしたが、さっぱりアクセス数は増えない。もう嫌気が差してやる気をなくしかけていた。それがブログを作ったとたんにこの反響。一体何なんだこの違いは。

  確かにタイトルもずっと魅力的になったし、ブログのデザインもタイトルにふさわしいデザインを選んだ。見かけはホームページより断然良い。それは自分でも分かる。女性でも違和感なく入ってこれる(ただ文体が堅いのですぐ他のブログに移ってしまうかもしれない)。しかしそうはいっても、名前を変えたところでブログの存在が知られていなければ誰も見に来ない。どんなに優れたサイトでも見つからなければ存在しないも同然である。ブログがホームページよりも有利なのはまさにこの点である。作ってみてから知ったのだが、ブログは自分で記事さえ載せればあとは勝手に情報を流してくれるのである。ホームページでは出来たばかりのサイトは検索にかからないが、ブログにすれば有名なサイトだろうが出来たばかりの無名のサイトだろうが関係なく、公平に新着情報として流れるから目に触れる機会が増えるのだ。ココログならココログのサイトに行けばいつでも新着の文章が見られるのである。自分が書いた文章のタイトルがのっているのを見つけた時は本当にうれしかった。ホームページではホームページのタイトルすら検索になかなかかからないのに、ブログなら文章単位で人の目に触れるのである。実にうまく出来たシステムだ。これならば、アクセスが増えるかどうかはどれだけ人をひきつけられる文章が書けるかどうかにかかっている(もちろんサイトのコンテンツは文章だけではないが)。これは公平な競争である。どんなにもがいても上位に上がれないホームページの時代はもう終わるのかもしれない。

 ただそうは言ってもホームページのほうが使い勝手が良い面もある。だから当分は両方を使おうと思う。それぞれの性格を分けようと考えている。ホームページは一種のデータベースにして、良さそうなのを選んでブログで公開する。例えばそういうやり方だ。

 反響が出てくると俄然やる気が起きてくる。まだまだどれだけの人が定着して、リピーターになってくれるか分からない。そのためにはひたすら読んでもらえる文章を書くことだ。文体も色々変えてみよう。堅い一方じゃ読者を選ぶ。ある一定の線以上は妥協するつもりはないが。ポリシーはなくさない、しかし戦略は柔軟に。これで行こう!

ある陶芸家の話

kirie_bl 食事に出かける。店に入ると年配の先客がいた。Y先生という小諸に住んでいる陶芸家の先生だと紹介された。後からKさんも来た。客が三人になった。カウンターで横に並んでいたのでマスターを挟んで色々と話をしたが、Yさんの話が面白かった。彼が独自に開発した「練りこみ」という技法の話だ。陶芸というとすぐろくろを使うと連想するが、「練りこみ」の場合はろくろが使えない。粘土を細かく切ってブロック塀を積み上げるようにして下から積み上げてゆく技法だ。粘土は何種類もの色を用意して模様をつける。上薬を塗るのではなく、一つひとつの違う色の粘土を組み合わせて模様を付けてゆく。点描画の様な手法である。写真を1枚見せてもらったが、着物の柄にヒントを得た見事な模様である。

 何と彼は50歳まで30年ほど呉服屋をやっていたそうだ。だから着物の柄に詳しかったわけだ。まさに50の手習いである。今74歳だといっていた。50歳からまったく分野の違うことに手を出してここまで来るとは。それも世界で彼にしか出来ない唯一無二の技法を編み出したのである。

 とにかく小さな粘土を一つずつ貼り付けて行くのだから気の遠くなる作業だ。写真の壷は幅50センチ、高さ50センチだからかなりの大きさである。前述のように、ろくろを使わずに下から積み上げてゆく。ろくろを使うと表面をこするわけだから、せっかく一つひとつ貼り付けた粘土が流れて混じってしまう。とにかく、空気が入らないように力を込めて押し付けながら貼り付けてゆく。

 しかも驚いたことに、粘土はあらかじめ色違いのものを何種類も分けて用意しておくのだが、焼く前はどの土も皆白い色なのだそうだ。焼いて初めて色が出る。したがって積み上げているときはほとんど白一色なのだ。粘土も間違わないように番号をつけておくのだそうである。その上、壷だから下絵の様なものは作れない。実際あらかじめ完成図を頭に描いて作ったのではないそうだ。積み上げながら模様を作り上げてゆくのだそうだ。ほとんど同じ白い色の粘土だから、組み上げた部分はどこにどういう色の粘土が入っているか頭に入れておかねばならない。それでいて完成品は見事な絵柄になっている。一体どうやったらそんなことが出来るのか。

 難しいのは一番てっぺんの部分である。壷だから口のところはすぼまっている。てっぺんのあたりはドームのようになるわけだ。ここはしっかり貼り付けないと粘土自身の重みで下にたれてきてしまう。一旦たれたら手で持ち上げて直しても、焼いたときにへこんでしまうそうである。まるで形状記憶合金だ。

 そのほかにも陶芸のいろいろな話を聞いた。実に面白かった。小諸の懐古園の近くに店があるそうなので一度行ってみたいと思った。

寄せ集め映画短評集 韓国映画10連発

 威勢のいいタイトルですが、日記に書いた短い映画の感想を集めただけ。大体1年前くらいのものです。在庫一掃セールの様なものだと思ってください。良いとか悪いとかいう程度のことしか書いてません。読み飛ばしてもらって結構です。


「二重スパイ」(2003年、キム・ヒョンジョン監督)

  ハン・ソッキュが南に潜入した北朝鮮のスパイ役を演じている。冒頭のベルリンでの亡命劇が実にシャープで迫力ある演出で、ぐいぐいと観客を引き込んでゆく。それに続く韓国側の拷問シーンも迫力がある。アメリカ映画の独壇場だったバイオレンス・タッチを見事に自家薬籠中の2ajisai1ものにしている。スパイの疑いも晴れ、ハン・ソッキュは韓国側のスパイ養成教官を務めることになる。このあたりまで彼が本当の亡命者なのかスパイなのかはっきり分からない。
  しかしラジオの女性アナウンサーが実は北のスパイで彼に連絡を取ってくるところから彼の正体が明らかになる。そこから彼の正体がばれずにうまく任務を果たせるのかどうかが焦点になり、緊張した場面が続くことになる。このあたりの演出も見事だ。やがて彼と女性スパイは互いに惹かれあうようになる。しかし彼女が幼い頃から慕っていた老医者(彼も北のスパイ)が捕まり、彼女は彼を抹殺する指令をハン・ソッキュに伝えねばならなくなるのだが、情に流され指令を伝えなかった。そのためハン・ソッキュまで北から裏切り者とみなされる。その頃彼らの正体もばれ、彼らは北と南両方の諜報機関から追われることになる。
  何とか彼らは脱出に成功する。南米に逃れてしばらくは二人で幸せな生活を送っているが、ある日彼は暗殺者に殺されてしまう。何も知らない女性(コ・ソヨン)は家で彼の帰りを待っている・・・。ハン・ソッキュがコ・ソヨンの裏切りを責めたとき、コ・ソヨンが言った「北でも、南でもないところに行きたい」という言葉が切ない。同じスパイものである「シュリ」は泣かそうとする演出が興醒めだったが、こちらはその幣を免れている。その点でこの作品の方が出来は上だ。韓国製スパイ・アクションものの傑作である。

「ペパーミントキャンディー」(1999年、イ・チャンドン監督)
  何か犯罪アクション・ドラマだと思っていたが、まったく違っていた。20年ぶりに川辺に集まってピクニックをしているグループに、かつてその仲間の一人であった男がフラッとやってくる。彼は狂ったように叫びまくったかと思うと、線路に上がり電車に轢かれて自殺する。
  映画は彼の過去をたどり始める。一気に過去にさかのぼり現在まで戻るのではなく、5年前、15年前、20年前と少しずつ過去にさかのぼってゆく構成が新鮮である。彼はかつて警察官であった。その後警察をやめ商売を始める。しかし妻に裏切られ、信用していた男に金を持ち逃げされ、男は人生に絶望する。その彼の20年前、初恋の人がいた。まだ人生の苦難を知らない20年前の彼と初恋の人との心の交流は、限りなく美しい。転落して行った男と、その過去を描いた名作である。

「カル」(1999年、チャン・ユニョン監督)
  よく出来た連続猟奇殺人もの。血なまぐさい映画だが、こういう映画は好きだ。不気味な雰囲気がいい。あまり説明がないので事件の真相はよく理解できなかったが、物足りない感じはない。切れのいい演出、なかなか底が割れない謎の深さ。ホラー・サスペンス物の一級品だ。「八月のクリ2cyclamen1スマス」のコンビ、ハン・ソッキュとシム・ウナが再び競演している。ハン・ソッキュはここでもいい演技をしている。彼の存在感はどんな役を演じても薄れることはない。すごい俳優だ。

「接続 The Contact」(1997年、チャン・ユニョン監督)
  またまたハン・ソッキュ主演。1997年の映画で、当時盛んだったコンピュータでのチャットが重要な要素として使われている。主人公2人は最後の最後まで互いに顔も知らず、チャットだけで連絡を取り合う。何度かすれ違ってはいるのだが互いに相手だとは気づかない。すれ違いの恋愛劇だ。しかもそれぞれに思いを寄せる人がいる。
  2人をつなぐものとしてベルベット・アンダーグラウンドの古いレコードがうまく使われている。ハン・ソッキュはラジオ番組のディレクターで、そのレコードの中の「ペイル・ブルー・アイズ」をラジオで流す。この曲が劇中何度も流れる。実に効果的に使われている。決して悪くない映画だが、やはり最後までメインの2人が会わないというのはインパクトが弱くなる。最後に2人が映画館の前で待ち合わせるシーンでは、ハン・ソッキュはその場に来ているのだが、声をかけそびれて近くの喫茶店からジッと彼女を眺めている。何時間も彼女は待ち続け、あきらめて帰ろうとしたときにやっと彼が声をかける。相当無理な設定だ。引き延ばし作戦もここまでやればいやみだ。相手の女性が女友達とその恋人と3人で同棲していて、しかも友達の彼に横恋慕しているという設定も無理がある。
  いい雰囲気を出してはいるが、総合点としては4点といったところだ。ハン・ソッキュはここでもにこやかな物静かな人物として登場している。これが彼の基本のイメージなのだろう。

「春の日は過ぎ行く」(2001年、ホ・ジノ監督)
  「八月のクリスマス」のホ・ジノ監督作品だが、がっかりした。男女の恋愛もので、結局は最後に分かれる。男は未練たらたらでいつまでも女に付きまとう。女は女で男と離れてゆく理由がはっきりしない。別れてくれと言ったかと思うとまた男のところに現れる。なんて自分勝手なやつだ。男にも女にも共感出来なかった。こういうはっきりしない映画は嫌いだ。女はイ・ヨart-bottleletter20002waンエだが、カメラは決して主人公たちをクローズアップで撮らない。突き放した描き方をしたかったのだろうが、「プラットホーム」と同じで成功していない。
  男の家族は祖母とおじ夫婦と一緒に住んでいるが、特に祖母は意味ありげに何度も登場する。祖母は死ぬ前に泣きじゃくる孫に向かって「去ってゆくバスと女は追いかけてはいけない」と忠告する。これを描きたかったのだろうか。確かにその後はあれほど未練たらたらだった男が、またよりを戻そうとする女を拒否する。しかしどうも主人公たちの恋愛にうまく絡んでいるとは言えない。男は自然の音を採集する録音係だが、仕事の関係でラジオのDJをしている女と知り合う。二人が次第に接近してゆく前半のあたりはいいのだが、後半の別れるまでがいらいらしどうしだった。まあ恋愛に理屈はないのだろうが、主人公たちに共感できなかったことは大きなマイナスだ。

「美術館の隣の動物園」(1998年、イ・ジョンヒャン監督)
  こちらはなかなかよかった。韓国映画得意のラブ・ロマンスである。シム・ウナとイ・ソンジェの2人の主役がいい。特にシム・ウナは彼女のかわいらしさが一番良くでていると思う。
  韓国映画のラブ・ロマンスはシナリオがうまい。実に特異な状況を設定して、ありきたりの恋愛物になってしまうのを巧妙に避けている。しかも決して不自然さを感じさせない。また今の日本映画のようなひねた感情がなく、ストレートに恋愛を描いているのが却って新鮮に映る。男が昔の彼女のアパートを訪れるがそこには別の女性が住んでいたという設定(前に日本のテレビドラマに同じ設定のものがあったが)、二人が反発しあいながらも共同でシナリオを書き、それが劇中劇として入り込む(しかも劇中劇の主人公はともに主人公2人の思い焦がれる男女だという設定)という演出。これが見事に効果を発揮している。それもそのはず、もともとシナリオ・コンクールで賞を取ったシナリオを基に、そのシナリオの作者が監督したという映画である。「イルマーレ」「八月のクリスマス」と並ぶラブ・ロマンスの傑作だ。

「帰らざる海兵」(1963年、イ・マニ監督)
  出だしはまるで「史上最大の作戦」だ。それに続く戦闘場面もすさまじく、なかなかの出来だ。敵が潜んでいる建物を制圧したとき一人の女の子を助ける。どこにも預けられないのでそのまま部隊と一緒に連れてゆくが、その女の子が兵隊たちのアイドル的存在になる。そして兵隊たちの悲惨な運命をより印象づける存在として使われる。やや強引でわざとらしい設定だが、ある程度成功している。
  最初の戦闘場面の後はしばらく兵隊たちの日常生活が描写される。そして最後に大規模な戦闘場面が来る。陽動作戦のおとりの役割をさせられた彼らは3人を除いて全art-pure2003w滅する。後から後からまるで地から湧いてくるような中国軍の数に圧倒される。女の子に一人一人あだ名をつけられた兵隊たちもみんな死んでいった。悲惨なラストである。
 1963年の映画だ。戦闘場面などはアメリカ映画から多くを学んでいるのだろう。「プライベート・アイアン」を見た目からしてもまったく遜色ない迫力である。また演技や人物描写には日本映画からの影響も見て取れる。不毛といわれた時代の映画だが、アメリカ映画と日本映画から真摯に学んですぐれた作品を作り上げた。賞賛に値する作品だ。

「インタビュー」(2000年、ピョン・ヒョク監督)
  あまり面白い映画ではなかった。インタビューという独特の形式がそもそも面白くない。監督役のイ・ジョンジェが憧れている女性の役をシム・ウナが演じているが、どこか影がありいつもくらい表情をしている。最後に彼女の恋人が死んでおり、彼女はその喪失感から抜け出せていないことが分かる。事情は分かったが面白くないことに変わりはない。設定が野暮だった。ここ数週間に見た10数本の韓国映画の中では唯一の凡作だ。まあ期待度も一番低かったから意外ではないが。

「リベラ・メ」(2000年、ヤン・ユノ監督)
  こちらは良かった。さほど期待していたわけではなかったが、予想を上回る出来。「バック・ドラフト」と似た映画だと予想していた通り、火事と炎の映像は当然ながらよく似ている。ただしCGは使わなかったそうだ。迫力とぐんぐんひきつける演出も期待以上だった。
  連続放火犯人と消防士たちとの戦いという設定になっている点が「バック・ドラフト」とは違っている。犯人は冒頭から示されている。犯人役のチャ・スンウォンがなんとも憎々しげで出色のでき。精悍な顔の消防士チェ・ミンスも印象的だ。もっとも、最後の犯人との一騎打ちで散々ぶちのめされてしまうのでがっかりしたが。最後に勝つことは勝つが、その頃には観ているほうは犯人に対して激しい憎しみを感じているので犯人こそぶちのめしてほしかった。
  また、子供時代のトラウマが犯行を引き起こしたという設定は、これだけの犯罪を説明するにkikyou001はありきたりで物足りない。しかし火災との戦いに犯人との戦いが重なり合い、緊張した場面が続く展開は娯楽アクション映画としては秀逸な部類だ。この面では韓国映画人はアメリカからしっかり学んでおり、時には本家を超えていると感じさせることがある。

「グリーンフィッシュ」(1997年、イ・チャンドン監督)
  韓国で各種賞を総なめにした映画だというので多少期待したが、がっかりした。どうも主人公のマクトン(ハン・ソッキュ)に共感できない。「友へ・チング」のように不可避的にギャングの世界に入り込まざるを得ないわけではなく、抜け出ようと思えばそうできたはずだ。無論除隊後の無職状態という前提もあるが、ある意味ではミエというギャングの情婦に引かれてしまったということなのだろう。あるサイトの書き込みに、ハン・ソッキュが最後の頃には表情が変わってきて、いつもの凄みのある男に変身していることを評価する意見があった。確かに変わってはいくがそれほど凄みはない。女に付きまとい、付きまとわれてふらふらしたまま煮え切らない状態である。
  ギャング映画に家族というファクターを入れたことも高く評価されているが、完全に悪に染まらないままずるずる引きずられるようにしてはまり込み、無駄に死んでいっただけである。家族が営む料理屋が彼の夢の実現として描かれる最後の場面(そこに彼はいない)も誉められているが、それまでに感情移入していなければその場面も特にどうということもない。ボスのペ・テゴンの凄みが際立つだけに、マクトンのにやけた顔が情けなく見える。

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