記録映画の傑作「柳川掘割物語」
1987年 記録映画、167分
監督、脚本:高畑勲
製作:宮崎駿
撮影:高橋慎二
日本が貧しかった頃、どの村にも小川が流れていた。
春の小川はさらさらとゆき、
岸にはすみれやレンゲの花。
子どもは子鮒を釣り、夏のホタルを追ってあそんだ。
日本が貧しかった頃、どのまちにも掘割があった。
「柳川掘割物語」は、アニメ界の俊英、宮崎駿と高畑勲が、それぞれ製作と監督を受け持った長編記録映画である。2時間45分という記録映画にしては異例の長さだが、最後までまったく飽きさせない。まず、簡明で美しいナレーションがすばらしい。冒頭に引用したのはその初めの部分だが、映像とよくマッチし、観る者により深い理解と感銘を与える。そしてこのナレーションと映像が綴った「物語」がまた見事である。以下、この映画の素晴らしさを4つの主題に即して紹介したい。
まず最初の二つの主題は柳川の風土の美しさと、水と人の生活の調和を描くことである。水路の水は決して澄み切ってはいないが、魚が泳ぐのが見え、また回りの風景とよく調和している。竿一本で舟をこぐ船頭と船の姿も絵になっている。監督の高畑勲が、「地上から撮ればどこを撮っても似てくる」が、「小船の上にカメラを据え付けて撮れば、地上からみてる風景とは全然違った風景が拡がる」と言っている。この発想は非常に重要である。小船に据えられたカメラは、水路自体のみならず、その回りの人々やその生活までも映し出す。水路から水を汲んでいる人、洗濯をする人、近くで遊んでいる子供たち、釣りを楽しむ人々。人家の裏をぬうように水路が走っているのだ。柳川の美しさは、水路と人々の生活が調和している美しさである。このことは水路から見てはじめてわかる。また小船にカメラを据えたことは、映画そのものの流れに川の流れのようなゆったりとしてテンポを与えている。そのテンポは過去から現在にいたる掘割と人間の交流・共存の歴史を語るのにふさわしい速度である。
柳川の掘割は土地面積の20%を超え、柳川市全体で総延長470キロメートルにも達するという。水路は人々の生活を支えている。この水との長い付き合いの歴史はいくつもの素晴らしい文化遺産を生み出し、また北原白秋のような詩人を生んだ。白秋祭や川祭り、そして城掘水落ちなどの行事は、水とのかかわりの中で生まれたこの地方独特の文化である。今では昔語りでしかない「ふるさと」がここにはあるのだ。柳川生まれでないわれわれまでが、この映画を見てなつかしいと感じるのはそのためだろう。
柳川の掘割は、空から見ればよく分かるが、文字通り大地の血管なのである。水を守ることは人々の命を守ることなのだ。自然を生かし、そして自然とともに生きる。人々がこの「水とのわずらわしいかかわりあい」を止めてしまったとき、掘割は死に、人々の生活も荒れ果てる。ほとんど自然を失ってしまった都会に住むわれわれには、この「わずらわしさ」がむしろうらやましい。だがこの水とのつきあいは厳しいものであった。昔まだ水がきれいだったころ、子供たちは掘割で泳いだが、その子供たちは毎朝(冬場は寒さにふるえながら)掘割から手桶いっぱいの水を何杯も汲まねばならなかった。田より低い水路から水を引くために、農民は水車を踏み続けなければならなかった。現在でも水草取りやゴミすくいなどの面倒な仕事がある。水と人間の生活の調和は、人々が「わずらわしいかかわりあい」を止めた時、破れてしまうのである。
ではその調和を保ち、「水から生活を作る」ために、代々の人たちはどのような工夫をしてきたのか。映画はナレーションと実写の外にアニメーションを加え、柳川の水利システムを分かりやすく説明する。そこに説明された、人間の驚くべき知恵。この映画が描く三つ目の主題はこれである。たった一本の川から、いかにしてこの平地の全域に水を行き渡らせるか。柳川の人々は自分たちの生活を守るためにさまざまな工夫をしてきたが、なかでも感心させられたのは「もたせ」の仕組みである。「もたせ」とは「水路網の水位を保つために節目節目に設けられた」様々なタイプの樋門や堰を利用して、「大雨の際も、水の流れを妨げ、もちこたえ、水路網全体に水を分散させて、排水口や下流へたどり着くまでの時間をかせぐ」ようにするシステムである。水を活かし、人を活かすというこの土地ならではの発想が生んだ、合理的なシステムである。ナレーションは、この祖先の知恵が考え出した治水と利水を兼ね備えたシステムを、近代的合理主義(「せっかく降った雨を巨大な地下のパイプやポンプで川に捨て、コンクリートの堤防で閉じ込めて素早く海へ流し去る。それで足りなくなった水は遠い他人の土地にダムを作って取ってくればよい」)と比較して、一体どちらが本当に合理的なのかと問いかける。
列島改造時代に水路がすっかり荒廃し用をなさなくなってしまった時に、問われたのはまさにこのことだった。荒れ果て悪臭を放つ水路を暗渠にし、文字通り臭いものにふたをするのか、それとも人工による再生ではなく、水と掘割が本来もっている力を復活させるのか。市当局は高度成長のおりから、当初前者の道を選んだ。しかしその計画を担当することになった係長がこの計画に疑問を抱き、市長に直訴し、ついにその考えを変えさせ、後者の道を選ばせた。この作品を感動的なものにしている四つ目の主題はこの浄化運動である。係長の広松氏は市長を説得した後住民の間に運動を起こし、住民と行政の連帯を作り上げ、この困難な課題をやり遂げる。それは確かに困難な課題だった。なぜなら、それは自然保護という受け身的な運動ではなく、自然の再生だったからである。しかもそのためには、「進歩・近代化」をうたった当時の列島改造論に真っ向から逆らい、住民の意識を変えて行かねばならなかったのだ。掘割の再生は「人間の和」の再生でもあった。人々の間の連帯があって、初めて人間と水の調和・共存が取り戻され、また維持されるのだということを、この映画はわれわれに教えてくれる。
そしてこの人間の和は生活の中にも浸透している。祭りの際には年長者が子供たちに祖先から伝えられてきたものを伝え、年上の子は下の子に舟のこぎかたを教える。この映画のラストは5月の水天宮祭りの実写で終わる。祭りは人の和で成り立つ。水路の上で太鼓をたたき三味線を弾く子供たちは、大人たちの伝統を受け継いでいる。人々は水路の周りに集まり交流を深める。「町の人たちの、町の人たちによる、町の人たちのための祭り」である水天宮祭りは、さながら住民の連帯感と自治意識の力を示し、祝っているかのようだ。
1988年3月8日執筆
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コメント
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「小諸の風」さん、コメントありがとうございます。ブログを作った翌日にさっそくコメントをいただいて、感激でどきどきしてしまいました。ホームページは埋もれてしまってさっぱり反応が来ないのですが、その点ブログの影響力は大きいですね。
投稿: ゴブリン | 2005年8月28日 (日) 20:28
こんにちは。かつて小諸市民会館でこの映画の上映会をやりました。見に来ていただいた方からよかったと言われたことを思い出します。
広松さんにも何回かお話をお聞きしましたが、すでに亡くなったんですね。合掌
投稿: 小諸の風 | 2005年8月28日 (日) 18:00