パニのベランダで伊丹十三を読みながら
久しぶりに喫茶店「パニ」に行った。幸いベランダの席が空いていたので、そこに座って伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫)を読んだ。「北京の55日」を撮っていた頃の話だ。1963年の映画だからその1、2年前の話だろう。当時の伊丹十三は俳優をやっており、「北京の55日」や「ロード・ジム」などの外国映画にも出演していた。この2本は昔テレビでよく放送されていた。その頃の伊丹十三はまだ若造で、細身であまり存在感がなかった。当時は大根だと思っていた。まあ、大柄な外国人俳優に混じっていたのだから、(身体的にも存在感の上でも)小さく見えるのは無理もなかったわけだが。
しかしこのエッセイは面白い。共演したチャールトン・ヘストンやデヴィッド・ニーヴン、あるいは他の俳優たち、プロデューサー、監督などの裏話が満載だ。あるいはイギリス、フラン
ス、スペインなどと日本を比較している部分も面白い。特にチャールトン・ヘストンにまつわる話が多く、どのエピソードもこっけいだ。小話などがふんだんに出てきて、しかもそれが実によく出来ているので感心する。さらに興味深いのは、当時から伊丹十三が演出や脚本について一家言を持っていたことだ。後に監督としてデビューする(1984年の「お葬式」が監督デビュー作)素地が既にこの頃から培われていたことが分かる。文章は軽妙で、知性と批判精神にあふれている。
時々本を置いて目の前の景色を眺める。「茶房パニ」は独鈷温泉の裏山をさらにどんどん登っていった山の上にある喫茶店だ。まったくの山の中にあるので、周りには人家は数
軒しかなく、見えるのは山ばかり。まったく信州は山深い土地だ。山の向こうにまた山がある。遠くの山ほど青く見えるのを実感したのも信州に来てからだ。しかしどこを見ても山で視界がさえぎられているのは息苦しい。海岸に近い土地で育った僕は視界がさえぎられていると圧迫感を覚えるが、信州育ちの人は却って安心感があると言うから面白い。ベランダは高いところにあって下を見下ろせるのが一番いい。夜景にしても高いところから見下ろすから美しく見えるのだ。昨日「阿弥陀堂だより」を観たばかりだが、阿弥陀堂から見下ろす眺めは最高だった。下界の家々がジオラマのように小さく見える。遠くには山がそびえ、その山の後ろにはアルプスらしき雪をいただいた高山が見える。毎日こんな景色を眺めていたら体から毒素もすっかり出て行くだろう。
ふとまた現実にかえると、目の前にヤマボウシの花が咲いている。うちのヤマボウシの花はとっくに枯れたのに、ここではまだ咲いている。季節が数週間遅れている感じだ。ベランダに出ているので気持ちがいい。麓では暑くてベランダで本を読む気分になれないが、ここまで上がってくると温度も2、3度低いのだろう。適度な気温で気持ちがいい。
それにしても何でこんなにベランダは気持ちがいいのだろうか。うちにも玄関の横にテラスがありデッキ用のテーブルとチェアーが置いてある。ベンチもある。2階にはベランダがある。しかしこんなに気持ちよくはない。周りが家に囲まれているので落ち着かないし、眺めもよくないからである。やはりベランダやテラスは眺めがよくなければならない。広い庭で隣近所の目が気にならなければ、あるいは小高い丘の上で下を見下ろせる位置にあればくつろげるだろうが、うちのように猫の額程度のせまい庭では外から丸見えだ。
レストランなどに素晴らしいベランダがあると、何とかうちにもこんなのを作れないかと想像してしまう。あるいは外国の映画に出てくるようなガゼボや和風のあづまやにもとても憧れる。駐車場のあそこをこうしてなどと考えるが、周りが家ばかりではそんなものを作っても仕方がないといつも最後はあきらめてしまう。リフォームばやりだが、庭やエクステリアの改造も放送してほしい。いろんな卓抜なアイデアを仕入れたい。
子どもの頃は屋根裏部屋(あの屋根のところに窓がついているやつだ)と暖炉に憧れた。恐らく外国の小説を読んでいてうらやましいと思ったのだろう。屋根裏部屋は、夏は陽が当たって暑苦しいに違いない。狭苦しくて決して居心地はよくないだろう。だから外国では召使の部屋に使われるのだ。子供にとっては冒険心をくすぐるところがあって憧れるのかもしれないが、現実にはあまり快適ではないだろう(もっとも「劇的リフォーム ビフォーアフター」などを見ていると実にうまく作ってあって、あれなら快適そうに思えるけれども)。
暖炉はなぜ憧れたのか今となってはよく覚えていないが、やはり日本にはあまりなじみの
ないものなので異国情緒を感じて憧れたのかもしれない。信州は寒いので暖炉を作っているところもあるが、たいていは見せ掛けだけの飾りである。中に電気ストーブが入っていたりする。しかし家の中にレンガの一角があるのはいいものだ。レンガは見栄えがして好きだ。うちでも庭の周りにレンガの塀を作ろうと考えている。全部を覆うのではなく、また高さも数段重ねただけの低いものだ。完全に覆ってしまうのは防犯上よくない。あくまで庭のアクセントである。赤レンガではなく、黄色いレンガがいい。落ち着いていて上品だ。まあ実際に作るのはいつになるか分からないが。出来てしまってからよりも、色々考えているときのほうが楽しいのかもしれない。
「パニ」のベランダで考えたことと、家に戻って日記を書きながら考えたことが入り混じった文章になってしまった。それにしてもエッセイ風の文章を日記に書いたのは久しぶりだ。映画のエッセイはしょっちゅう書いているのだが、これは実際に映画を観ているから書ける。しかし純粋なエッセイは精神的に余裕がないと、あるいは何か強烈なきっかけがないと書けない。映画を観て感動したときは、興奮冷めやらぬまま感想を書く。精神が高揚している時に書くのでいい文章が書ける。1週間後ではとても書けない。ふさわしい言葉や表現が浮かんでこないのだ。日常的な行動を繰り返しているだけではエッセイのアイデアは浮かんでこない。
「あの頃名画座があった」を書いたきっかけは、記憶があせてしまう前に昔のことを書き残しておきたいと考えたからだ。しかし実際に書き出したのは何かのきっかけがあったのに違いない。そのきっかけが何だったかは忘れたが。あの日は喫茶店に入って、手書きの映画ノートを見ながら夢中で書いていた。文字通り時間がたつのを忘れていた。ふと一息ついて顔を上げると、喫茶店のおじさんがものすごい顔でこちらをにらんでいた。はっとして時計を見ると大分時間がたっていた。珈琲一杯で何時間も粘られたのでは迷惑なのだろう。もっとも他には客がひとりもいなかったと思うが。あわててもう一杯珈琲を注文した。懐かしい思い出だ。
エッセイは映画関係の文章に比べると収録数が少ない。もっと意識して書かなければ。しかし意志だけで書けるものではない。もっと非日常的な経験をたくさんしなければいけない。週末はもっと外出するようにしよう。
※写真は07年6月11日に撮ったものです。
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