道の向こうに何があるか
行きつけの書店の写真集コーナーを見ていたとき、ふとある写真集の表紙が目に留まった。風景写真である。手前には背の低い草が一面に広がった丘があり、その真ん中をくねるように道が走っている。その道は丘のゆるい斜面を登り、一番高いところで見えなくなっている。その先には森があり、木立がうす靄に覆われてうっすらと暗い影のように立っている。道の切れ目のすぐ上に、かすんだ木立にかぶせるようにしてタイトルが黒字で縦に入っている。『道のむこう』。
どこか中国映画の「初恋の来た道」を思わせる絵柄だった。しかし、この本を手にとってみようと思わせたのは、その写真よりもむしろタイトルの方だった。もしタイトルが単に『道』だけだったならば、おそらく取り出して中を見ることはなかっただろう。『道のむこう』となっていたから興味を引かれたのである。子供の頃、高い塀の向こう側はどうなっているのか、あの山の向こうには何があるのだろうか、と誰しも思ったことがあるだろう。その先に何があるのか、人は見えないものに惹かれる。この写真集のタイトルが注意を引いたのは、瞬間的にこの感覚を思い出したからだろう。
話はすこし飛ぶが、僕はフリードリヒの絵が好きだ。あの幻想的な絵柄にとても惹かれる。<エルベ川の夕暮れ>、<朝の田園風景(孤独な木)>、<樫の森のなかの修道院>、<海辺の日の出>、<エルデナ修道院跡>などのように、彼の絵は風景画を描いても独特の幻想的雰囲気を漂わせている。そして何といっても彼の特徴は、常に画面の向こう側を見ている人物たちが絵に描きこまれていることである。<海辺の日の出>の中で海辺の岩に座っている3人の人物も、体は左側を向いているが、顔は画面の奥にある海に向けている。もちろん、「自然に向き合う人間」というこのテーマが典型的に表れているのは、有名な<朝日のなかの婦人>や<雲海のうえの旅人>などである。この2作とも後ろ向きの人物が画面の中央に描かれている。僕がフリードリヒに惹かれるのはその幻想的な作風のためでもあるが、この向こうを向いて何かを眺めている人物のたたずまいが、画面に描かれていない何かを描きこんでいるように思えるからである。おそらく、鑑賞者は自分をこの中央の人物に重ねて見ている。背を向けている人物の向こう側の景色を鑑賞者である自分が見つめるように、絵の中の人物も目の前の風景を眺めているに違いない、とそう思うのだ。人物が描かれていなければ鑑賞者は自分の感覚で風景を眺めるが、人物が描かれている場合、そこに描かれた人物の視点が入ってくる。彼あるいは彼女は眼前の景色を見て何を思っているのか。背を向けていて表情がわからないだけに、なおさら人物の「思い」を想像したくなる。
「向こう側を見つめる人」と「途中で途切れていてその先が見えない道」、この二つには何か共通するものがあるのではないか。後者の場合、道とその「向こう側を見つめる人」は自分である。なぜなら、この写真集には人物が一人も写っていないからである。鑑賞者だけが道と向き合っている(実際には撮影者もいるのだが、撮影者の視点は鑑賞者のそれと重なっている)。
写真集そのものに戻ろう。撮影者のベルンハルト・M・シュミッドは驚くほど多くの国を回って「道」を撮っている。そこに写されたた道も様々だ。「北の国から」を思わせるような美しいお花畑を走る道、クラシックのCDのジャケットによくあるような紅葉した木々にはさまれた並木道、アメリカ映画によく出てくるような一面何もない平坦な土地を地平線の果てのバニシング・ポイントに向けて一直線に走っている道、風車の横を走っている道、アッバス・キアロスタミの映画を思い起こさせるような荒涼とした岩山をジグザグに登ってゆく道。舗装された道、わだちが残る地面が剥き出しの道。特に気に入ったのは、小高い丘の上にぽつんと一軒だけ石造りの建物が建っている写真だ。画面のほぼ3分の2は空である。家の横には木が2本立っている。この建物に向かって道(というよりわだちの跡)が、まるで下界とそこをつなぐ唯一の絆のように、曲がりくねって通っている。よくポスターなどにある図柄だが、前からこういう景色が好きだった。自分がそこにいるのを想像させるからである。手前から眺めるのではなく、自分がその世界に入り込んでしまう。想像力を掻き立てられるから好きなのである。
考えてみれば、「道」をテーマに写真集を作るというのは意表を突いている。都市の街路だけを撮ったものなら他にもあるかもしれない。しかし人里離れた田舎道だけを撮ったものは他にないのではないか。「道」という言葉の響きには、確かに何か親しみを感じさせるものがある。映画好きならば、フェリーニの『道』やユルマズ・ギュネイの『路』(トルコ映画)といった名作を連想する人もいるだろう。いずれも実に人間くさい映画だった。ところが、先に指摘したように、この写真集のどの写真にも人物は一人も写っていない。車や馬車も走っていない。ただ道だけがある。だが、それがかえっていい。確かに生活道路が持つ生活の香りや人間くささはここにはない。だが、人影のない道にもかかわらず、よくあるただきれいなだけの風景写真に終わっていない。思うに、単に風景を撮ったのではなく、「道」をテーマにとっているからだろう。
魯迅の『故郷』という短編小説の末尾に、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という言葉がある。この「道」とは「希望」のたとえだが、魯迅は、人々の意思が一本にまとまった時に未来への道が開かれるということを表現したかったのだろう。道はそれ自体に意味があるというよりも、むしろ町と町をつなぐ、人と人をつなぎ、物や文化を伝える役割にこそ本来の意味がある。道はどこかに通じるものなのである。舗装もされていない水たまりが残る道(表紙の写真の道)が魅力的に思えるのは、自然の開放感を感じるからだけではなく、やはりそこを人間が通り、人間が住むどこかの土地に通じているからだ。人物が描かれていないフリードリヒの絵を見ている場合でも、描かれた風景の外(手前)に向こうを向いた人物がいることを意識してしまうように、誰もいない風景の中に道があるだけで人間とのつながりが見えるのである(中国映画「山の郵便配達」に写された山道や畑のあぜ道に僕はこれを感じた)。だからこそ、その道の先にどんな世界があるのか知りたくなるのである。
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