銀馬将軍は来なかった(シルバースタリオン)
1991年 韓国映画 1993年公開
監督:チャン・ギルス
出演:イ・ヘスク、キム・ボヨン、ハン・ウニ、チョン・ムソン
ソン・チャンミン
痛切な映画だ。朝鮮戦争当時、ある小さな村に米軍がやってくる。子ども2人を抱えた若い母親オルレの家に夜米兵が忍び込んでオルレをレイプしていった。翌日から彼女は汚れたといって村八分にされ、誰も助けようとはしない。食うに困ったオルレは村の対岸に出来た娼婦街テキサス村で米兵に体を売る決意をした。そこで会った2人の娼婦だけは彼女に優しかった。やがて彼女たちは川向こう(つまり村がある側)の家を買い、そこを改装して自分たちの店を作った。その頃までにはオルレが娼婦になっていることを村中の人たちが知っていた。オルレの息子マンシギまでも子どもたちから差別された。
村人たちは何とかこの目障りな女たちを追い出そうとするが、娼婦たちは啖呵を切って一向に引き下がらない。言いたいことを言う娼婦たちが痛快だ。やがて夜娼婦の家を覗いていた村の子どもたちを追い払おうとして、マンシギが手製の銃(覗いていた子どもから奪ったものだ)を撃つ。発砲する場面は直接写されないが、どうやら銃が暴発したようだ。マンシギは手を怪我する。中にいた米兵が銃声を聞いて敵だと思い逃げる村の子どもを撃った。子どもは村まで逃げもどるがそこで死んだ。怒り狂った村の女たちが娼婦の家を襲い焼いてしまう。「汚い女たちは出て行け」とどなる村の女たちに向かって娼婦の一人が言い返す。「お前たちの方こそ汚いじゃないか。この人(オルレ)が困っている時に助けの手を差し伸べたものが一人でもいたか。」
オルレも仲間の娼婦たちと働くうちに強い意志を持ち始める。長老が村を出て行けと迫った時、たとえ家を焼かれても出てゆかない、なぜなら他に行くところがないからだ、と彼女は初めて逆らう。しかし彼女は村のしきたりを否定する言葉を持たない。村の共同体からはじき出されても、彼女の倫理観は村人のそれと同じ枠内にあるからだ。どうしてもっと言い返してやらないのかといらいらするほどである。象徴的なのは、彼女は自分の名前すらもっていないことだ。もちろん名前はあるが、普段はただ「マンシギのお母さん」と呼ばれているのだ。母親は息子ほどにも価値のない存在なのだ。彼女をオルレと名前で呼んだのは娼婦たちである。オルレと違ってこの娼婦2人は「言葉」を持っている。長老たちが追い出そうとしても、堂々と怒鳴り返す。それが出来るのは、彼女たちが村人たちの狭量な封建的倫理観や価値観から自由だからである。不安定ですさんだ生活ではあるが、自分たちの生活の論理で生きている。だから米兵に強姦され村人からつまはじきされている(「悪いのはレイプした米兵だろうが!」村の女どもにそう怒鳴ってやりたくなる)オルレに優しい言葉をかけられるのだ。
米軍が移動することになり、一緒にいた娼婦2人は米軍を追って去っていった。オルレは稼いだ金を元手に商売でもやることにし、村に残った。別れ際に娼婦の一人が言った「その方がいい。あんたは娼婦には向いていないから。」というせりふが印象的だ。しかし間もなく共産軍が村に迫ってきたので、村中が村を捨てて逃げ出した。長い避難者の列の中にオルレとマンシギもいた。
古い狭量な倫理観にしばられた共同体が、その倫理の枠から外れたものに対していかに残酷であるかがよく描かれている。「汚れた」若い母親を徹底して差別しようとする村人の無慈悲な仕打ちはぞっとするほど恐ろしい。下手なホラー物よりずっと恐怖を感じる。韓国映画を代表する傑作の一つに挙げていいだろう。
この作品の終わり方は決してペシミスティックではない。娼婦たちの存在もあるが、子供たちのために体を売ってでも生活費を稼ごうとしたオルレのたくましさがむしろ救いだ。最後に村から避難してゆくときに、息子のマンシギも母親に前は母さんのことを嫌いだったが今はそうではないと言う。
銀馬将軍とは村に伝わる伝説の英雄で、昔村が敵に襲われたとき天から銀馬にまたがった将軍が舞い降りて敵を追い払ったという。マンシギははじめこの言い伝えを信じていたが、この物語が終わる時点ではもう信じていなかった。彼らはもう誰かを頼って生きようとは思っていない。自分たちで生きる道を選んだのだ。
不幸なのは彼女たちだけではない。彼女たちは生き続けるだろう。去っていった娼婦仲間も釜山にいるからいつでも来なさいと言っていた。そこにはまだ人間的なつながりがあったのだ。
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