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2006年8月24日 (木)

イギリス小説を読む⑨ 『土曜の夜と日曜の朝』

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】 _
Alan Sillitoe(1928-  )
1 Saturday Night and Sunday Morning(1958)
 『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
2 Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
 『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)
3 The General(1960)            
 『将軍』(早川書房)
4 Key to the Door(1961)         
 『ドアの鍵』(集英社文庫)
5 The Ragman's Daughter(1963)      
 『屑屋の娘』(集英社文庫)
6 The Death of William Posters(1965)  
 『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
7 A Tree on Fire(1967)         
 『燃える木』(集英社)
8 Guzman Go Home(1968)         
 『グスマン帰れ』(集英社文庫)
9 A Start in Life(1970)
 『華麗なる門出』(集英社)
10 Travels in Nihilon(1971)
 『ニヒロンへの旅』(講談社)
11 Raw Marerial(1972)
 『素材』(集英社)
12 Men Women and Children(1973)
 『ノッティンガム物語』(集英社文庫)
13 The Flame of Life(1974)
 『見えない炎』(集英社)
14 The Second Chance and Other Stories(1981)
 『悪魔の暦』(集英社)
15 Out of the Whirlpool(1987)
 『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。「ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
 アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

 シリトーは旋盤工の息子。D.H.ロレンスも同じノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子とCut_bmgear04 恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

 『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

 作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

 アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

 アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

 アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにIsu4 はアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。

  彼の反抗は反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だと批評家たちからよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

 そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーという人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民の、したたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

 面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。

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イギリス小説を読む⑧ イギリスとファンタジーの伝統

(1)イギリス児童文学におけるファンタジーの系譜
W.M.サッカレー William Makepeace Thackeray(1811-63)
  『バラと指輪』The Rose and the Ring(1855)
チャールズ・ディケンズ Charles Dickens(1812-70)
  『クリスマス・キャロル』A Christmas Carol (1843)
ジョン・ラスキン John Ruskin(1819-1900)
  『黄金の川の王様』The King of. the Golden River or the Black Brothers(1851)
チャ-ルズ・キングズリ Charles Kingsley(1819-75)
  『水の子たち』The Water-Babies(1863)
トマス・ヒューズ Thomas Hughes(1822-96)
  『トム・ブラウンの学校生活』(1857)
ジョージ・マクドナルド George MacDonald(1824-1905)
  『ファンタステス』Phantastes; A Faerie Romance for Men and  women(1858)
  『北風のうしろの国』At the Back of the North Wind (1871)
  『リリス』Lilith (1895)    
  『黄金の鍵』The Golden Key (1871)
  『ファンタステス』 Phantastes (1858)
ルイス・キャロル Lewis Carroll(1832-98)
  『不思議の国のアリス』Alice's Adventures in Wonderland (1865)    
  『鏡の国のアリス』Through the Looking-Glass (1871)
フランシス・E・H・バーネット  Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)
  『秘密の花園』The Secret Garden(1909)
ロバート・L・スティーヴンソン  Robert L. Stevenson(1850-94)    
  『宝島』Treasure Island(1883)
オスカー・ワイルド Oscar Wilde(1854-1900)
  『幸福な王子』Happy Prince and Other Stories(1888)
ケネス・グレーアム  Kenneth Grahame(1859-1932)
  『たのしい川べ』The Wind in the Willows(1908) Artosiro150bbb
ジェームズ・バリー  James M.Barrie(1860-1937)
  『ピーター・パン』 Peter Pan in Ksensington Gardens(1906)
ラドヤード・キップリング Rudyard Kipling(1865-1936)
  『ジャングル・ブック』The Jungle Book(1894)
ビアトリクス・ポター  Beatrix Potter(1866-1943)
  『ピーター・ラビットのおはなし』(1901)
エリナー・ファージョン Eleanor Farjeon(1881-1965)
  『銀のシギ』The silver curlew(1953)
  『本たちの小部屋』The Little Bookroom(1955)
  『リンゴ畑のマーティン・ピピン』 Martin Pippin in the apple orchard
  『ムギと王さま』
  『ガラスのくつ』
A・A・ミルン  A.A.Milne(1882-1924)
  『熊のプーさん』Winnie-the-Pooh(1926)
ヒュー・ロフティング(1886-1947)
  『ドリトル先生物語』シリーズ
J・R・R・トールキン  J. R. R. Tolkien(1892-1973)
  『ホビットの冒険』The Hobbit(1949)
  『指輪物語』
       『旅の仲間』The Fellowship of the Ring(1954)
       『二つの塔』The Two Towers(1855)
       『王の帰還』The Return of the King(1955)
ルーシー・ボストン Lucy Boston(1892-1990)
  『グリーン・ノウの子どもたち』The Children of Green Knowe
  『グリーン・ノウの川』The River at Green Knowe
  『グリーン・ノウのお客さま』A Stranger at Green Knowe
C・S・ルイス  C.S. Lewis(1898-1963)
  「ナルニア国ものがたり」シリーズ(7巻)
    『ライオンと魔女』The Lion, the Witch and the Wardrobe(1950)
    『カスピアン王子のつのぶえ』Prince Caspian(1951)
メアリー・ノートン  Mary Norton(1903-1992)
  『床下の小人たち』The borrowers(1952)
  『野に出た小人たち』The Borrowers Afield(1955)
パメラ・L・トラヴァース  Pamela L. Travers(1906-  )
  『風にのってきたメアリー・ポピンズ』Mary Poppins(1934)
キャサリン・ストー Catherine Storr(1913-  )
  『マリアンヌの夢』 Marianne Dreams(1958)
ロアルド・ダール  Roald Dahl(1916-90)
  『魔女がいっぱい』
  『チョコレート工場の秘密』(1964)
フィリッパ・ピアス  A. Philippa Pearce(1920-  )
  『トムは真夜中の庭で』Tom's Midnight Garden(1958)
  『真夜中のパーティ』What the Neighbours Did and Other Stories(1959-72)
  『まぼろしの小さい犬』A Dog So Small(1962)
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ Diana Wynne Jones(1934-)
  『トニーノの歌う魔法』The Magicians of Caprona(1980)
  『9年目の魔法』Fire and Hemlock(1984)
  『魔法使いハウルと火の悪魔』Howl's Moving Castle(1986)
  『クリストファーの魔法の旅』The Lives of Christopher Chant(1988)
  『アブダラと空飛ぶ絨毯』Castle in the Air(1990)
アラン・ガーナー Alan Garner(1935-  ) Mjyokabe3_1
  『ゴムラスの月』The Moon of Gomrath(1963)
アンジェラ・カーター Angela Carter(1940-92)
  『魔法の玩具店』The Magic Toyshop(1967)
  『ラヴ』Love(1971)
  『血染めの部屋』The Bloody Chamber(1979)
  『夜ごとのサーカス』Nights at the Circus(1984)
  『ワイズ・チルドレン』Wise Children(1991)
フィリップ・プルマン(1946-)
  『黄金の羅針盤』Noethern Lights/The Golden Compass(1965)
   『神秘の短剣』 The Subtle Knife(1997)    
  『琥珀の望遠鏡』The Amber Spyglass(2000)
J・K・ローリング  J.K.Rowling
  『ハリー・ポッターと賢者の石』Harry Potter and the Philosopher's Stone(1997)
  『ハリー・ポッターと秘密の部屋』Harry Potter and the Chamber of Secrets    
  『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』Harry Potter and the Prizoner of Azkaban    
  『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』Harry Potter and the Goblet of Fire(2000)

(2)リアリズム系列の児童文学作家たち
イディス・ネズビット(1858-1924)
  『砂の妖精』Five Children and It(1902)
アーサー・ランサムArthur Ramssome(1884-1967)
  『ツバメ号とアマゾン号』Swallows and Amazons(1930)
  『ツバメの谷』
  『ヤマネコ号の冒険』
  『長い冬休み』Winter Holiday(1933)
ローズマリー・サトクリフ Rosemary Sutcliff(1920-92)
  『太陽の騎士』Worrior Scarlet(1958)
  『ともしびをかかげて』The Lantern Bearers(1959)
  『第9軍団の鷲』
  『銀の枝』The Silver Branch(1957)
  『王のしるし』The Mark of the Horse Lord(1965)
  『ケルトの白馬』
  『アーサー王と円卓の騎士』The Sword and the Circle(1981)
  『アーサー王と聖杯の物語』The Light Beyond the Forest(1979)
  『アーサー王最後の戦い』The Road to Camlann(1981)
ジョン・ロウ・タウンゼンド John Rowe Townsend(1922-  )
  『ぼくらのジャングル街』The Gumble's Yard(1961)
  『アーノルドのはげしい夏』The Intruder(1969)
ウィリアム・メイン William Mayne(1928-  )
  『砂』Sand(1964)
  『地に消える少年鼓手』Earthfasts(1966)
キャスリーン・ペイトン Kathleen M. Peyton(1929-  )
  『愛の旅だち』Flambards(1967)
  『雲のはて』The Edge of the Cloud(1969)
  『めぐりくる夏』Flambards in summer(1969)

(3)イギリスとファンタジー
1 ファンタジーの源流 ・イギリス:最初に小説を生んだ国
 →『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』は刊行後すぐに子供の本として書き直され、人気を博した。その意味では最初の子供向け創作童話を生み出した国だとも言える。
・イギリスの伝説:ロビン・フッド、アーサー王伝説
 →昔のイギリスの蒸気機関車にはアーサー王ゆかりの人物の名前がつけられてい 
   た。
  「サー・ランスロット号」「サー・パーシヴァル号」「サー・ケイ号」「アーサー王号」etc.
・ナーサリー・ライム(童謡):マザー・グース

2 昔話、フェアリー・テイル、ファンタジー
・ファンタジーはフェアリー・テイルから生まれ、フェアリー・テイルは昔話から生まれた。
・昔話、口承物語、おとぎ話、言い伝え、伝承、伝説
  →本来は子供のためのものではないが、専ら子供が読むものになった。
  →教訓が含まれているから
・昔話の収集:グリム兄弟
 昔話の創作:アンデルセン

3 子供の本の創作
・『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』が子供の本になったとき、前者の宗教に関する部分、後者の風刺的な面が大幅に削られた。
 →リアリスティックな冒険と夢の物語、空想的な冒険物語が生まれた。
 →大人向けの要素が削られ、単なる冒険物語になったとき子供の本になった。
 →わくわくする面白い物語を読むという読書本来の楽しさ
・物語から教訓臭さを取り除く →創作童話の発展

4 子供の発見 ・子供は17世紀に「発見」された。
・フィリッペ・アリエス「<子供>の誕生」(1960)
 →17世紀以降、人々の年齢意識や発達段階への関心が高まり、その結果、子供が大人とは違う存在であることに大人たちが気づくようになった。
 →「子供はその純真さ、優しさ、ひょうきんさのゆえに、大人にとって楽しさとくつろぎの源、いわば「愛らしさ」と呼び慣わされているようなものになっているのである。」
 →学校の発達、家庭の変化、子供の死亡率の低下
・W.ワーズワース:「子供は大人の親である」→子供時代を経ずして大人になることは誰にも出来ない。  

5 妖精
・妖精:別世界の超自然的な存在
→トールキン:妖精物語=妖精についての物語ではなく、妖精の国についての物語 すぐ身近にある世界、恐れと驚きを覚えさせる国、驚異の異世界 ・妖精は美しいどころかむしろ奇怪である。むしろ水木しげるが描く妖怪に近いと考えるべき。

6 ファンタジーの出現
・『不思議の国のアリス』:純粋に楽しみを目的にした最初の物語
   →教訓の排除、想像力の解放、ナンセンスの発見
・トールキン フェアリー・ストーリーは現実生活で起こってほしいことを扱う。そのほしいという望みを満たしたときフェアリー・ストーリーは成功したことになる。
 →an unsatisfied desireという表現は、C.S.ルイスも使っている。
 →人間は魚のように自由に深海を泳ぐことができない。鳥のようにかろやかに大空を飛行できない。人間以外の生き物と自由に話すことができない。限界があるからかえってそれを越えたいという願望をつのらせる。
・妖精の国のリアリティ、現在に出発点をもつ現代のファンタジー

7 なぜファンタジーはイギリスで圧倒的に多く産まれたのか
・ベッティーナ・ヒューリマン『ヨーロッパの子どもの本』(ちくま学芸文庫、1993)Hm1
 「イギリスの『ナンセンス』は...「不思議の国のアリス」やリアの詩や多くのナーサリー・ライムを生んだもので、イギリスの子どもに贈られた宝物である。この宝物によって本を読むイギリスの子どもには、どこの国の子どもも知らないようなまったく独特の世界がひらかれている。いまではくまのプーさん、ピーターラビット、ピーター・パン、ドリトル先生、メアリー・ポピンズなど、多くの人物がこの領域に集まっている。そしてほかのいかなる国も、これに匹敵するものを持ちあわせていない。」
・妖精が身近な存在だった。ケルトの伝統が息づいている。
  →『指輪物語』:ドワーフ、エルフ、トロル、大男、ゴブリン、竜
    創作はホビットとゴラムだけ
 →グリムには妖精は登場しない。アメリカの乾いた土地にも妖精は住めない。

(注)ケルト人とイギリス ブリテン島へのケルト人の侵入の大きな波は、少なくとも二つのものに区別して考えることが出来る。第一波は、今日のアイルランドとスコットランド地方に住む人々の祖先と見なされる、ゲール人ないしはゴイデル人の侵入であった。ついで第二波は、現在のウェールズ地方の住人の祖先、カムリ人およびブリトン人の侵入であった。これらのケルト人たちが先住の民であるイベリア人と交じり合って、現在のウェールズ人ができていったと考えられている。...各部族はそれぞれ独自の方言をもっていた。そして、ゴイデル人の言語ゴイデリックから、今日のアイルランド語、スコットランドのゲール語、そしてマン島語が発展してゆく。またブリトン人の言語ブリトニックから、現在のウェールズ語、コーンウォール語、そして南仏ブリタニー地方のブリトン語が発展していったといわれている。
   中野節子「風土とフェアリー・テイルズ(2)ウェールズとフェアリー・テイルズ」
   『児童文学世界』No.3(中教出版、1980年)

 →ファンタジーの源泉はケルト民族の豊かな想像力(幻想性が強い)
 →スコットランド出身の児童文学作家が多い
 →アイルランドには有名な作家は少ないが、民話の宝庫である。
 →ウェールズには中世物語集『マビノギ』Mabinogiがある。 アーサー王に関しては5編を収録
 →ファンタジーの最大の源泉である伝承の昔話が聞かれるのはほとんどゲール語である。
    ダブリンのユニヴァーシティ・カレッジの民俗学研究所(伝承物語の記録採集)
    エジンバラ大学のスコットランド研究所(伝承物語の研究)
 →アイルランドのナショナル・シンボルのうち二つが妖精である。
   ①植物のシャムロック、②楽器の竪琴、③バンシー、④レプラコーン
    河童と天狗が富士山や桜と並んでいるようなもの。
 →スコットランドやアイルランドの風土や地理的特性 どこから妖精が出てきてもおかしくない、さながらおとぎの国に踏み込んだような光景が多くある。また、高緯度で冬は夜が非常に長い。
 →薄明のケルトの妖域。

(4)おまけ:J.R.R. トールキンの『ホビット』
 『ホビット』の初版がイギリスで出版されたのは1937年のことである。若干の改定を加えた第2版がイギリスで出たのが1951年である。その続編という位置付けの『指輪物語』がイギリスで出たのが1954年から55にかけてである。『指輪物語』は日本でも大評判になったので知っている人も多いだろう。今年映画化作品も日本で公開されることになっている。『ホビット』の翻訳は岩波書店から出ていたが、1997年に原書房から「完全版」と銘打って新訳が出た。資料満載の豪華版である。特に各国の翻訳につけられた挿絵がふんだんに取り入れられているのがうれしい。

 物語は、ホビットのビルボ・バギンズが、ドワーフたちや魔法使いのガンダルフと繰り広げるさまざまな冒険を描いている。ホビットとは「背丈は低く人間の半分ぐらい、髭をはやした矮人(ドワーフ)よりも小柄です。髭はなく、とくにかわった魔法がつかえるというわけでもHalloween2 ありません。せいぜいが、すばやく目立たずに姿を消すことができるぐらいのものですが、こんなありふれた魔法でもけっこう役には立ちます。...ホビットの腹はだいたいつき出ています。はでな原色の洋服(たいてい緑か黄)を身にまとっていますが、靴をはくことはない。なぜなら生まれつき足の裏がなめし皮のように固くなっており、(巻き毛の)髪の毛とおなじような、こわくて暖かそうな栗色の毛が生えているからです」とあるように、トールキンが創造した空想上の存在である。その他、エルフ(妖精)、竜、トロル、ゴブリン、岩石巨人(「スター・ウォーズ」に出てきたような奴)、ゴクリ(ゴラム)、などの空想上の生き物が多数登場する。ただし人間や狼や鷲なども登場する。ホビットとドワーフと人間は共存しており、言葉が通じ合う。完全にトールキンが創造した架空の世界の中で物語が進行する。作者が作った地図も添えられていて、宮崎駿のマンガ版『風の谷のナウシカ』を連想させる。挿絵もトールキン本人が書いており、絵の才能をうかがわせる(新訳にはそのカラー写真が収録されている)。

<物語>
  ビルボの家にガンダルフと13人のドワーフたちが訪ねてきて、ビルボを冒険の旅に誘う。ドワーフの族長ソーリンの祖父の時代に、ドワーフたちは山で鉱山を掘り、黄金や宝石を見つけ富と名声を得た。しかし竜のスモーグが彼らを襲い、宝を独り占めにしてしまった。ソーリンはその先祖の財産を取り戻しに行くというのだ。初めは断ったビルボだが、彼の血にも伝説の英雄の血を引くトック家の血が流れていたため、ついに冒険の旅に出ることを承知する。

 彼らの旅は冒険の連続である。トロルに食われそうになったり、ゴブリンに追われたり、(そのゴブリンの穴で、ビルボは指にはめると姿が見えなくなる不思議な指輪を拾う)、ゴクリと謎なぞ合戦をしたり、狼に追われたり。闇の森に入ると、飢えに悩まされたあげくに巨大クモに襲われ、やっと逃げると今度はエルフに捕らえられる。

 エルフからも何とか脱出して森を突破し、ようやく竜のいる山に着く。火を吹く竜に手を焼くが竜は人間の町を襲ったときにバードという英雄に退治されてしまう。しかし街を竜に破壊された人間たちとエルフたちが共同で宝の分け前を手に入れるために山に向かうと、ドワーフの長ソーリンはそれを拒否する。危うく戦争になりかけたとき、ゴブリンと狼の大群が襲撃してくる。人間とエルフとドワーフたちは急遽手を組み、連合軍を組んでゴブリンに立ち向かう。激しい戦闘(後に「5軍の戦い」と呼ばれる)の末、ドワーフたちは何とか勝利をおさめる。ソーリンは戦闘で深手を負い、最後に改心して、宝をみんなに分けるよう言い残して死んだ。すべてかたがつき、ビルボはガンダルフと帰途に就く。

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2006年8月15日 (火)

帰省中に読んだ本

 12日から郷里の日立に帰省していた。帰省の前日に63年の日本映画「拝啓天皇陛下様」を観ていたが、レビューを書く時間がなかった。この記事はとりあえずのつなぎです。「拝啓天皇陛下様」のレビューは明日かあさってには書き上げる予定。

 行き帰りの電車と実家で2冊本を読んだ(12日に高校の同窓会に出席したほかは、家でゴロゴロして高校野球を見ている毎日だった)。1冊目はピーター・マースの『海底からのTecho_w2 生還』(光文社文庫)。なぜこれを選んだかは説明不要だろう。ドイツ映画「Uボート」を直前に観ていたからだ。あわてて出発したのでじっくり本を選んでいる時間がなく、文庫本の山の中からたまたま目に付いたのを選んだのがこの本だったというしだい。こちらは「Uボート」より数年前(第二次世界大戦勃発直前)のアメリカ海軍の話。アメリカ東海岸の海軍基地ポーツマスから出航したアメリカの新造潜水艦が潜航試験をした際に浸水して海底に沈んでしまった。深度243フィート(74メートル)の海底から生存者33名を全員救出した実話に基づくノンフィクションである。

 映画「Uボート」の場合は自力で何とか浮上できたが、こちらは潜航中になんとエンジンのメイン吸気バルブが開いていたという信じられない原因で沈んだので、船の後ろ半分が水浸しだから浮上は不可能。海上からの救出作戦が展開されることになる。これが想像以上の難作業だった。何しろ沈没した潜水艦から生存者を救助したというのは後にも先にもこのとき以外ない。ほとんど奇跡の救出劇だったのである。

 この本は大きく3つの部分から構成されている。潜水艦内の描写と海上からの救出作業、そして潜水艦の引き上げと原因の究明。この本がユニークなのは、これらメインのストーリーを構成する救出作業に絡めてスウェード・モンセンという非凡な才能を持った男の生涯を描いていることである。海軍中将まで上り詰めた男だが、軍人と言うよりは科学者あるいは発明家といったほうがいい人物だ。ジュール・ヴェルヌの『海底2万哩』にあこがれて海軍に入ったという変わった男。潜水艦乗組員の救助方法に人生のかなりの部分をかけた男。「モンセンの肺」という潜水の時に用いる酸素とヘリウムの混合気体を考え出した男で、これがなければ今日のスキューバ・ダイビングは実用化されなかっただろうといわれる画期的な発明だった。また、「レスキュー・チェンバー」とよばれる釣鐘型の救出装置を考え出した男でもある(ある理由で別の人物の名前が冠せられているが)。このモンセンの肺とレスキュー・チェンバーが実際の救出劇で大活躍する。このレスキュー・チェンバーを海上の船から吊り下ろし潜水艦のハッチに取り付け、潜水艦の乗組員を乗り移らせて海上に運び上げるという方法である。

 後はとにかく実際に読んでいただきたい。救出部分は息をもつがせぬ緊張感でぐいぐい引き付けられる。但し全体としてみれば、ノンフィクションものとしての出来は平均程度である。ジョン・クラカワーの『空へ』、ジョー・シンプソン著『死のクレバス』、アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』などの傑作と比べるとやはり見劣りすると言わざるをえない。全体に報告書的な記述がめだち、幾分退屈する部分があるからだ。それでも一気に読めるので一読に値すると思う。

 著者のピーター・マースは映画化された「バラキ」や「セルピコ」の原作者であるノンフィクション作家。これを読むまで知らなかった。翻訳者はなんと江畑謙介。あの独特の髪型でおなじみの軍事評論家。翻訳もやってたんですね。

 もう1冊は和田はつ子著『口中医桂助事件帖 花びら葵』(小学館文庫)。これは読もうと思って持っていったものではなく、実家で母親から読んでみてくれと渡されたもの。実は作者が僕の従兄弟の嫁さんなのである。実家に送られてきたそうだ。彼女のことは前にも聞いた事があったが、知らない名前だったのであまり気に留めていなかった。その時にはホラー小説のようなものを書いていると聞いたのだが、どうもこれは時代小説である。どうやら少し手を広げているらしい。読んでみたらこれも一気に読めた。それなりに面白い。

 タイプとしては山本一力の『損料屋喜八郎始末控え』に近い。最近このタイプの時代小説が増えている気がする。共通する特徴は特殊な職業の素人探偵を主役にしていることとミステリー仕立てだということ。山本一力の「損料屋」とは長屋住まいの庶民相手に鍋釜や小銭を貸す職業である。和田はつ子の主人公は江戸時代の歯医者「口中医」。テレビドラマでも家政婦やタクシー・ドライバーなどが探偵役で活躍している。今の流行なのだろう。もう1つ共通する特徴がある。どちらの主人公も表向きとは違う別の姿を持っているということ。しかしそれが何であるかは伏せておこう。『口中医桂助事件帖』はシリーズもので、これが3作目。他にも『藩医 宮坂涼庵』という時代小説がある。

 時代小説は今はやりで、書店にはたくさん並んでいる。かつては戦国武将もの、幕末ものが時代小説の主流だったが、最近は江戸の庶民を主人公にしたものが増えている。藤沢周平などは武家ものと庶民ものを描き分けている。僕の弟なども時代小説にはまっている。これからも当分流行は続くだろうから、その中で注目されるには他にない特徴を持つことが必要だろう。かといって、それまでなかった突飛な職業に就いている主人公を考え出せばいいという単純なものではない。飛びぬけた筆力も必要だし、江戸時代に関する深い知識も必要だ。『口中医桂助事件帖 花びら葵』では紋切り型のせりふがところどころ目だった。もっと書き込むことが必用なのかもしれない。

 帰りの電車では徳田秋声の『あらくれ』(講談社文芸文庫)を少し読んだ。イギリス文学のヒロインの系譜を自分なりに追っているので視野に入ってきた小説である。まだごく最初の部分しか読んでいないので感想は書かない。ただ、先日「浮雲」のレビューを書いたが、その成瀬巳喜男がなんと『あらくれ』を映画化していた。彼のフィルモグラフィーを見ていてわかったのだが、実に興味深い。原作を読み終えたら映画のほうも観てみよう。

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2006年1月30日 (月)

イギリス小説を読む⑧ 『夏の鳥かご』

<今回のテーマ>人形の家を出た女たち

(1)20世紀イギリスを代表する女性作家
Virginia Woolf(1882-1941)        『灯台へ』(新潮文庫)、『ダロウェイ夫人』(新潮文庫)
Katherine Mansfield(1888-1923) 『マンスフィールド短編集』(新潮社)
Jean Rhys(1890-1979)            『サルガッソーの広い海』(みすず書房)
Elizabeth Bowen(1899-1973)      『パリの家』(集英社文庫)
Daphne du Maurier(1907-  )      『レベッカ』(新潮社文庫)
Muriel Sarah Spark(1918-  )     『死を忘れるな』(白水社)
Doris Lessing(1919-  )            『一人の男と二人の女』(福武文庫)
Iris Murdoch(1919-  )            『鐘』(集英社文庫)
Anita Brookner(1928-  )           『秋のホテル』、『異国の秋』(晶文社)
Edna O'Brien(1932-  )             『カントリー・ガール』(集英社文庫)
Fay Weldon(1933-  )              『ジョアンナ・メイのクローンたち』(集英社)
Emma Tennant(1939-  )           『ペンバリー館』(筑摩書房)
Margaret Drabble(1939-  )       『碾臼』(河出文庫)、『夏の鳥かご』(新潮社)
Margaret Atwood(1939-  )        『浮かびあがる』(新水社)、『サバイバル』(御茶の水書房)
Susan Hill(1942-  )                 『その年の春に』(創流社)
Angela Carter(1940-92)            『血染めの部屋』(筑摩文庫)、『ワイズ・チルドレン』(早川文庫)

(2)マーガレット・ドラブル著作年表、および略歴
1963  A Summer Bird-Cage   『夏の鳥かご』(新潮社)
1964  The Garrick Year           『季節のない愛--ギャリックの年』(サンリオ)
1965  The Millstone        『碾臼』(河出文庫)
1967  Jerusalem the Golden   『黄金のイェルサレム』(河出書房新社)
1969  The Waterfall               『滝』(晶文社)
1972  The Needle's Eye           『針の眼』(新潮社)
1975  The Realms of Gold         『黄金の王国』(サンリオ)
1977  The Ice Age                 『氷河期』(早川書房)
1980  The Middle Ground
1987  The Radiant Waysedang3
1989  A Natural Curiosity
1991  The Gates of Ivory
1996  The Witch of Exmoor

(略歴)
  シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学のニューナム・コレッジで英文学を専攻し、最優秀で卒業した。ロイヤル・シェークスピア劇団の俳優であるクライブ・スイフトと結婚。『夏の鳥かご』で作家としてデビューした。自分とほぼ同年代の若い女性をヒロインにし、女性の自立、不倫、未婚の母などのテーマを描くのが得意。妹のアントニア・バイアットも作家で、現代のブロンテ姉妹と言われている。

(3)『夏の鳥かご』と現代的ヒロイン
  ヒロインのセアラ・ベネットはオックスフォードを優秀な成績で卒業した若い知的な女性である。物語はセアラが姉ルイーズの結婚式に出席するために、パリからイギリスに戻ってくるところから始まる。姉のルイーズは「くらくらするような美人」で、男にもてはやされているため、セアラはいつも引け目を感じている。姉の方もセアラのことなど眼中になく、二人の仲はよそよそしい関係である。

  特に物語の進行に筋らしい筋はない。物語は、姉の結婚式、披露宴、セアラのロンドンへの引っ越し、ジャーナリストと俳優の友人たちが開いたパーティ、姉の新居でのパーティ、姉とその愛人である俳優との逢い引きへの同伴、姉の結婚の破綻と告白、とエピソードの積み重ねだけで進行している。全体として会話が中心の展開となっている。セアラは観察や考察もするが、それも自分自身やごく身の回りのことに関心を向けることが多い。

  しかし何らかのテーマがないというわけではない。若い女性のヒロインと周りの人々との会話を通して、ヒロインの価値観と他の人々の価値観のぶつかりあいが浮かび上がってくるのである。そのヒロインを取り巻く人々の中でとりわけ重要なのは姉のルイーズである。ルイーズと彼女の世界を理解しようとすることが中心的テーマになっている。それはまたセアラ自身とその世界を理解することでもある。

  この小説の一つの特徴は女性特有の視点や会話が満ちあふれていることである。19世紀にも多くの女性作家が活躍していたが、その文体は基本的には男の文体で、考え方や行動も当時の社会的規範からそれほど大きくはみ出してはいなかった。一方、『夏の鳥かご』はさすがに20世紀の小説ということもあって、ヒロインの考え方や行動や話し方は現実の若い女性のそれに非常に近い。衣服や靴などに目が行く、相手や自分が口にしたことをいちいちあれこれと気にする、矛盾したり、本音とは裏腹のことを言ったりする。作者のドラブル自身この点を明確に表明している。  「ケンブリッジを卒業したとき、小説という形態は未来ではなく過去に属するものだと考えておりました。...ところが...ソール・ベローの『雨の王ヘンダーソン』...J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』...を読んでみたら、突然小説は20世紀に属するものなのだ、自分自身の声で語り、自分自身の声で書くことが可能なのだ、と思われました。」『女性小説の伝統』(1982)

  しかし、20世紀に入って女性の生き方はどれだけましになったのだろうか。『人形の家』のノラが家を出た後にたどる運命は、魯迅が予言したとおりこの20世紀のヒロインに当てはまるのか。この点についても検討していきたい。

<ヒロイン・セアラの性格分析>
  登場したときからセアラは人生の目標を見いだせないでいる。オックスフォード卒業後すぐにパリに行ったが、ただ暇つぶしに出掛けただけで、特に何をしたわけでもない。パリからイギリスに戻る汽車の中で、セアラは「仕事とか、真剣さとか、教育を受け過ぎて使命感を失った若い女性は自分をどう扱うべきかといった問題を」ずっと考え続けていた。せっかく優秀な成績で大学を出ても、彼女には人生の目的が見いだせていなかった。そこには人生のさまざまなやっかいな問題から遠ざかっていたいというヒロインの意識が現れていると言える。彼女は「わたしって、適応しないものが好きなのよ。...社会的な関わりのない人が好きなんだわ」とはっきり言う。彼女は親友のシモーヌが好きなのだが、それは彼女のような「無責任になりたい」からである。ここで言う「無責任」とはいろんな束縛から自由でいられるという意味だと思われる。セアラは自由にあこがれているのだ。しかし、彼女は決していいかげんな女性ではない。むしろ自分を「退屈な勉強家」だと卑下しているくらいである。にもかかわらず、セアラは「卒業後何をやるか考えていない」「自分が何をしたいのかわからない」と言うのである。彼女は大学卒業後結局BBCに勤めるが、そこでの様子は一切描かれない。仕事をする彼女の姿が全く描かれていないのである。まるで生活のためにとりあえずやっているだけの仕事であるかのように。そして、実際そうなのだ。「お勤めなんてひまつぶしのひとつだわ」と彼女は公言してはばからない。恐らく彼女のこの不安定な状態は、「人形の家」から飛び出したものの、まだ十分女性の社会的地位が固まっていないため、自分の生きがいを見いだすに至っていなかった当時の女性の現状の反映と言えるかもしれない。何をやりたいかは分からないが、古い価値観という束縛には縛られるのはいやだ。とにかく自由でいたい。この心理は今の女性でもある程度は共感できるのではないか。逆に言えば、今日でも1963年当時とさほど大きな違いはないということになる。

  一方姉のルイーズは「とびきりの美人」で「彼女が街を歩くと、みんなが振り替える」ほどである。しかし三つ年下の妹のことは全く相手にもしていない。8歳から13歳まではセアラは「ルイーズを追い回し、まめまめしく仕え、ほんの親しみのひとかけらでも恵んでもらおうと努めた時代もあった。」ルイーズが全寮制の学校に入った頃は、彼女が休暇で帰ってくる前から「毎日カレンダーの日付を斜線で消し」今か今かと待ち望んでいたのだが、いざ汽車が着いてみるとルイーズはセアラの存在を無視して両親にキスをしたのだった。13歳をすぎたころに、セアラは「自分の威厳を取り戻し、ついにはルイーズに背を向けてしまった」のである。今では互いに冷淡になっており、ほとんど会うこともない。だが、ルイーズの結婚後何度か彼女と会ったり、知り合いたちと話したりするうちに、実は自分はルイーズと似ているのだとセアラは気づかされたり、自分で気づいたりすることになる。ジョンには「きみは彼女に似ているね」「二人とも釘のように頑丈だ」と言われ、自分でもあるとき「二人とも真面目な人間なのだ」と気づく。姉自身からも「わたしたち肉食性だと思わない?わたしたち食べられるより食べる方がいい。」「わたしたちは同類なのよ、あなたもわたしも」とはっきり言われる。

art-pure2003b   似ているがゆえに互いに反発しあうということはよくあることだ。ましてや、ともに「肉食性」であればなおさら歩み寄れない。ルイーズに対するセアラの反発の根底には、姉の方が美人で、いつも自分の方が負ける、自分は「才知はあるが、美貌ではない」というコンプレックスがある。しかし、あるときダフニーというメガネをかけた醜いいとこのことを姉と二人で散々こき下ろした後で、セアラは[自分がかくも恵まれた身であることの栄光と後ろめたさを絶えず感じている」ことを意識する。肉体は天からの賜物である。「美しい肉体をもつ者は、この世を大いに利用するがいい」と考えるに至るのだ。このセアラの考えはほとんどルイーズのそれに近い。彼女はどうやらルイーズの後を追っているようだ。

  ではルイーズはどうなったのか。作品の一番最後のあたりで、ルイーズがドッレシングガウン一枚しか身につけていない格好でセアラのアパートに駆け込んでくる場面がある。実は金持ちで作家のスティーヴンと結婚したルイーズは、結婚後も公然と愛人のジョンと浮気を続けていたのだが、あるとき二人でシャワーを浴びているところに思いもかけず夫が帰って来たのである。セアラははじめて姉と腹を割って話をする。なぜジョンと結婚したのかとセアラが聞くと、ルイーズは「お金のためよ」と平然と答える。貧乏だけはしたくなかった、金持ちと結婚すれば貧乏することはないと考えたというのだ。かつて美人だったステラという友達の惨めな結婚生活を見て、自分はあんなふうにはなりたくないと思ったとも言う。そして泣き始める。初めて心の奥底を打ち明け会った二人はその後仲良くなり、互いに良い関係を保っている。後に、結婚したのは妹に追い越されまいとしたからだとルイーズは打ち明けている。その後ルイーズは夫とは別居し、愛人のジョンと同棲していることを読者に伝えて、小説は終わっている。

<セアラとルイーズ>
  セアラとルイーズは19世紀の小説にはまず登場し得ないキャラクターである。間違いなく20世紀のヒロインだ。1960年代に登場したセアラは古い価値観に反発する。「わたし自身は、食事を作ってもらったり床をのべてもらったりするような契約的な慰めに負ける自分をときどき軽蔑するのだけれど、ママはそういうことが悪いとは少しも思わない。ママは面倒を看てもらうのが好きなのは弱さの証拠だとは思わないし、それが当然だと思っている。」結婚式の当日にルイーズが「ヴァージンのまま結婚するのって、どんな気持ちだと思う?」とセアラに聞くと、セアラは「不潔な純白さっていうとこかしら」、「きっと屠殺場に曳かれて行く子羊みたいな感じかしら」と答える。これは19世紀の作家には絶対書けないせりふである。セアラの友達のギルも、夫にヤカンを火にかけろと言われて断ったのが離婚のきっかけだった。これも19世紀までなら考えられないことである。

  しかし、一方でセアラは古い価値観ももっている。結婚なんかいやだと言いながらも、結婚にはあこがれている。セアラにはオックスフォードで知り合ったフランシスという婚約者がいて、今はアメリカのハーバード大学にいるのだが、彼には忠誠を誓い浮気はしない、彼が帰って来たら結婚すると考えている。結婚式の時にルイーズが「大きな純白の百合」の花束をもっているのを見て、セアラはルイーズがひどくもろく見えると思った。「男は万事問題ない。彼らは明確に定義され、囲まれている。しかし、わたしたち女は、生きるために、来る者すべてにオープンで、生で接しなくてはならない。...すべての女が、敗北を運命づけられているのを感じた。」これは一瞬の感傷だったのかも知れないが、あのごうまんなルイーズにも弱さを感じたことは気の迷いだけとは言い切れないだろう。

  セアラは気持ちだけは強気である。彼女は、ギルは自分と比べると「もっと寛大で、率直で、自意識過剰でなくて、癖がない」と言っているが、とすれば、セアラはその逆だということになる。自意識過剰で、癖のあるセアラは斜に構えて世間を見ている。これは世間に対する攻撃姿勢であると同時に、世間から自由でいたいという防御の姿勢でもあろう。何と言っても自分の目標を見いだせないセアラは、大地に根を張っていない宙ぶらりんな存在なのである。ルイーズはそんな妹を「一番特権的で肉食的な人のひとりよ」と表現している。「特権的」という言葉は的を射ている。何と言っても、一流の大学を出られて、適当にBBCで働いていてもやって行ける身分なのだ。その気楽さが彼女の一見浮ついたように見える態度の根底にある。セアラはいとこのダフニーを口を極めてこき下ろすが(「あのひとを見てると、動物園の飼い馴らされたうすぎたない動物を思い出す」)、その一方で彼女は脅威になりそうだと感じてもいる。たとえ醜い女でも、真面目に努力しているダフニーはやはり彼女よりもはるかに堅実に生きているのである。その弱みがダフニーを脅威と感じさせるのである。そういう社会に根付いていない自分の存在を自覚しているからこそ、自由でいられるパリやイタリアへの憧れをつのらせるのである。

 『夏の鳥かご』で描かれている世界は、イギリスの中流階級の、饒舌だが、目的も価値観も見いだせないでいる世界なのである。主人公の二人の姉妹のみならず、他のカップルも離婚したり、浮気したり、貧困にあえいでいたりで、うまく行っている夫婦や恋人たちはほんのわずかしか登場しない。タイトルの「鳥かご」はジョン・ウェブスターの「それは夏の鳥かごのようなものだ。外の鳥は中に入ることをあきらめ、中の鳥は絶望して二度と外に出られないかと不安のあまり衰え果てるのだ」から取っている。「鳥かご」はドラブルの作品の場合、結婚あるいは女性の境遇を指していると思われる。「人形の家」を出ても、女たちはまだ鳥かごの中に入ったままなのである。

  自分はルイーズに似ているとセアラは自分でも気づくが、そのルイーズの結婚は失敗に終わった。これはセアラにとって不吉な予兆とも言える。セアラがその後どうなったかは描かれていない。フランシスと無事結婚できたのか、読者の想像にまかされている。しかしその読者にはもう一つ不吉な言葉が与えられている。シェイクスピアのソネットが作中引用されているが、その引用の最後は「腐った百合の花は、雑草よりはるかにいやな匂いがする」である。ルイーズが結婚式のときに持っていた花束は「大きな純白の百合」の花束だった。はたしてセアラは腐らない「純白の百合」の生き方を目指すのか、それともたくましい「雑草」の生き方目指すのか。「純白の百合」であれ「雑草」であれ、腐らずに生き続けるためには、何らかの生きる目標を見いだすことが必要だろう。満足な目標を見いだすためには、まず彼女の前に努力してつかみ取るに値する、女性にとって価値のある目標が存在しなければならない。それを生み出すのは時代である。セアラの模索は続くだろう。そして、その後も何千人何万人のセアラたちの迷いと模索は続いているのである。

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2006年1月29日 (日)

イギリス小説を読む⑦ 『土曜の夜と日曜の朝』

  このところ忙しくてなかなか映画を観られません。もうしばらくイギリス小説にお付き合いください。

今回のテーマ:工場労働者出身のヒーロー night2

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】
 Alan Sillitoe(1928-  )  
Saturday Night and Sunday Morning(1958) 
   『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
  『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)  
The General(1960)               『将軍』(早川書房)
Key to the Door(1961)              『ドアの鍵』(集英社文庫)  
The Ragman's Daughter(1963)        『屑屋の娘』(集英社文庫)
The Death of William Posters(1965)    『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
A Tree on Fire(1967)             『燃える木』(集英社)  
Guzman Go Home(1968)           『グスマン帰れ』(集英社文庫)  
A Start in Life(1970)              『華麗なる門出』(集英社)  
Travels in Nihilon(1971)            『ニヒロンへの旅』(講談社)  
Raw Marerial(1972)               『素材』(集英社)  
Men Women and Children(1973)       『ノッティンガム物語』(集英社文庫)  
The Flame of Life(1974)            『見えない炎』(集英社)  
The Second Chance and Other Stories(1981)  『悪魔の暦』(集英社)  
Out of the Whirlpool(1987)          『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
  アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

  シリトーはノッティンガムシャーの州都ノッティンガム出身。旋盤工の息子だが、D.H.ロレンスもノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子と恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には、中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

  なお、『土曜の夜と日曜の朝』は1960年にカレル・ライス監督により映画化され、こちらもイギリス映画の名作として知られる。もう1つの代表作『長距離ランナーの孤独』も1962年にトニー・リチャードソン監督により映画化されている。

<ストーリー>
  『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

ukflag2_hh_w   作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

  アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

  アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

  アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにはアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。批評家たちからは、反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だとよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

  そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーと言う人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民のしたたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

  面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。

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2006年1月28日 (土)

イギリス小説を読む⑥ 『エスター・ウォーターズ』その2

win2 <作者ジョージ・ムアについて>
  ジョージ・ムアは『エスター・ウォーターズ』の作者として英文学を学ぶものの間では知られているが、一般にはほとんど知られていない作家である。日本の英文学界でもジョージ・ムアを専門に研究しているという学者はまずいないだろう。『エスター・ウォーターズ』の翻訳も1988年にようやく出たばかりである。

  ジョージ・ムアはアイルランドの旧家の大地主の家に生まれた。最初は画家になるつもりだったが、フランスで過ごすうちに作家になろうと決心した。特にフランスの自然主義作家エミール・ゾラの影響を受け、自然主義の色彩の濃い作品を書いた。『エスター・ウォーターズ』にもその特徴が見られ、エスターというヒロインを通して、人生のありのままの姿が描かれている。当時の常識を逸脱した下層の女性をヒロインにし、そのなりふりかまわず生き抜こうと苦闘した人生を歯に衣を着せずに描いたため、不道徳だとのそしりを受け貸本屋から一時締め出されていた。

<エスター・ウォーターズ:英文学史上初めて登場した最下層出身のヒロイン>
  ジェイン・オースティンの描いた世界と比べると、エスターの世界は実に不安定な世界である。いつ貧困のどん底に突き落とされるか分からない世界、絶えず救貧院の陰が付きまとい、飢えと死の不安が付きまとっている世界である。読者もエスターの運命に絶えず不安を感じながら読み進まずにはいられない。たとえ幸福な時期があっても、この幸福はいつまで続くのかと不安に思わずにはいられないのだ。エスターの女中仲間だったマーガレットがいみじくも言った通り、「世の中はシーソーみたいなもので上がったり下がったり」なのである。この言葉こそエスターの浮き沈みの激しい人生を端的に表現している。いや、上流の人たちもこの点では例外ではない。隆盛を誇ったバーフィールド家も競馬で破滅してほとんど財産を失ってしまうのだから。

  エスターの生活が不安定なのは単に彼女が社会の最下層の出身だからというだけではない。結婚せずに子供をもうけたことが彼女の運命をさらに苛酷なものにさせている。彼女がウィリアムをはねつけたのは、彼女の頑固さと無知にも原因があり、さらには宗教的な信念からくるかたくなさもその一因になっている。その意味では彼女の側に非があったとも言えるが、作者の意図はエスターの性格を非難することではなく、そういうかたくなな娘を作った社会を批判することにあると思われる。字も読めないほど無学で貧しい娘が判断を誤ったとしても、彼女ばかりを責められまい。

  むしろ作品は、子供を抱えて必死に生きようとするエスターを冷たくあしらう世間に、読者の目を向けさせている。私生児を生んだというだけでふしだらな女と見なされ、ほとんどの家から仕事を断られてしまう。彼女の希望は子供だけなのだが、使用人の務めを果たすためには他人に子供を預け、離れて暮らさなければならない。自分が食べて行くだけでなく、子供の養育費も捻出しなければならない。この最悪の逆境にあって彼女を支えていたのは、何としても子供を一人前に育てなくてはいけないという思いだった。どんなことをしてでも自分は生き抜き、自分の身を削ってでも子供を育てるのだ、それまでは絶対に死ねないという決意、この決意があってこそ1日17時間の労働といった奴隷並の苛酷な労働にエスターは耐えられたのである。このたくましさ、しぶとさは、それまでのヒロイン像とは大きく掛け離れている。この決してくじけないしぶとさが、エスターというヒロインの最大の魅力である。

  エスターは現実的な女だった。生きるためには信仰よりも生活を優先した。競馬と賭け事を罪深いことだと感じながらも、「夫に従うのは妻の務め」と信じるエスターはあえて夫の仕事に口を出さない。最後まで信仰を失いはしなかったが、生活に追われてしばしば信仰を忘れかけていることもあった。信念よりも生活を優先させるこの現実的な考え方、この考clip-cathedral1 え方が彼女の活力の源である。作者はエスターにふれて「だがこのプロテスタンティズムの信仰を凌いで人間性があり、20歳という彼女の年齢が彼女の内部で脈打っていた」と書いているが、これは『ジェイン・エア』のヒロインと彼女がローウッド校で出会った薄幸の少女ヘレンを思い出させる。信仰心の篤いヘレンは不当ないじめに対しても聖書的な諦めの境地でじっと耐えている。しかしジェインは神の世界ではなく現実に生きる女性であり、不当なことには歯向かって行く。エスターはヘレン的信念と忍耐力を持ったジェインである。信仰を最後まで失わず、厳しい試練に耐える忍耐力を持ち、かつ現実と前向きに戦う力をもったヒロインだ。「夫に従うのは妻の務め」と信じる古いタイプの女であるエスターは、『余計ものの女たち』のローダ・ナンたちからはあざ笑われるだろうが、彼女には戦闘的なフェミニストも舌を巻くほどの力強さがある。

  エスターの現実的な面は金銭面にも現れている。彼女が常に気にする金銭の額は、ジェイン・オースティンの世界に出てくる何千、何万ポンドという額ではない。主にシリング(1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス)単位の額で、時にはほんの数ペンスしか手元に残っていなかったりする。『エスター・ウォーターズ』にはいやと言うほど金銭の額が出てくる