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カテゴリー「小説」の記事

2021年7月26日 (月)

小説を読む楽しみ

■小説(物語)との出会い(個人的メモワール)
・小説(物語)との出会いは小学校の5年生ごろだと思う。まったく勉強をしない僕を心配して、母親が小学館の『少年少女世界の名作文学』(当時480円:月ごとに配本される)の定期購読を始めたのである。厚さ5センチほどもある大部なシリーズ本で、世界文学全集の子供版である。内容も子供用にやさしく書きなおされており、子供にも楽しめる部分だけを収録していたと思われる。

 

・最初のうちは本なんて女が読むものと馬鹿にして読まなかったが、たまたま「みつばちマーヤの冒険」を読んでその面白さにはまってしまった。巣を襲撃してきたクマバチと巣を守ろうとするミツバチとのすさまじい戦いの場面に一気に引きこまれた。それ以来、ほかにも面白い物語があるかと次々に読み漁るようになり、いつの間にか次の号が配本されるのを楽しみに待つようになっていた。

 

・『少年少女世界の名作文学』以外の本も読むようになった。小学生のころ好きだったのはモーリス・ルブランの“怪盗ルパン”シリーズ、コナン・ドイルの“シャーロック・ホームズ”シリーズ、江戸川乱歩の“少年探偵団”シリーズ、そしてジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や『地底旅行』など。とにかく推理ものや冒険ものをわくわくしながら読みふけったものだ(『赤毛のアン』など女の子が主人公の物語も好きだった)。

 

・『十五少年漂流記』や『地底旅行』など何度読み返したかわからない。しばらくするとまた読みたくなり、読んでまた時間がたつとまた読みたくなる。夢中になって読みふけっていて、ふと気がつくといつの間にか夕方になって暗くなっており、顔を本にくっつけるようにして読んでいる自分に気がつくこともしばしばだった。

 

・中学生になるとSF小説をむさぼるように読みだした。創元文庫などを片っ端から買ってきては読み漁った。大好きなジュール・ヴェルヌも当時出ていた傑作集を全巻まとめて買ってきて読んだ。中三ごろにSF小説から推理小説に移行し、高校生になると推理小説から純文学に移っていった。当時何種類も出ていた世界文学全集をこれまた片っ端から読み漁った。トルストイの『戦争と平和』やメルヴィルの『白鯨』などの大長編を数カ月かけて読んだものだ。冬の寒い時は今のような暖房施設がなかったので布団に入って本を読んだ。片手で本を持ち、もう一方の手を布団に入れて温める。そうやって持つ手を交代しながら読んだものである。

 

高校2年生ごろから映画を見始め、学校から帰宅した後は映画と読書にほとんどの時間を費やしていた(音楽に興味を持ち、レコードを買いだしたのも高校生時代)。これまで一番映画を観たのは高校3年生の時。1年に300本以上観た。つまらない受験勉強など見向きもせず、映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ているという生活をしていた。

 

・高校生の時は外国文学一辺倒だったが、大学生になってからは日本文学も読み始めた。大学院生時代には児童文学にまで関心を広めた。

 

■小説を読む楽しみ
・あまり難しいことを言うつもりはない。僕にとって小説を読む面白さと映画を観る面白さとはそれほど違いはない。小説の読み方については様々な方法論があるが、楽しみ方も人によって様々あるだろう。しかし小説に親しむ一番の近道は物語を楽しむことである。高度な読みや深い読みは当面要らない。映画を楽しむように小説を楽しむことだ。だから入口は “ハリー・ポッター”シリーズでもいいし、『不思議の国のアリス』でもいいし、宮部みゆきでもスティーヴン・キングでもいい。あるいはNHKで「竜馬伝」が放送されていたので司馬遼太郎の大長編『竜馬がゆく』を読んでみた、という入り方でもいいだろう(これほど面白い時代小説はいまだに書かれていない)。子供のころから児童文学に親しんで、わくわくドキドキしながら本を読む経験を持っていればなおのこといいが、そういう経験がなくても文学に親しむことはできる。読んで面白いものから読み始めるのが一番。

 

・活字を読むのが苦手などと尻ごみすることはない。読み進んでいるうちに字は自然に覚えてしまう。時々辞書を引く習慣をつければなおいい。ただし、あまり頻繁に引いていると物語の展開を楽しめないので、どうしても気になる言葉だけを引くようにした方がいい。僕は小学校や中学校の国語の教科書に出てくる新出漢字で読めないものはなかった。すべて本を読んでいるうちに自然に覚えてしまった。最初のうちは細かいことにこだわらずに、とにかく筋を追うだけでもいい。この先はどうなるのか。そう思って読み進めるうちに本を読む楽しさにはまっているかもしれない。

 

・小説や物語を読み進む時に一つ意識してほしいことは、何がテーマ(主題)であるかということである。ほとんどの小説にはテーマがある。そのテーマにそって物語が展開されてゆく。そのテーマにはたいていの場合何らかの葛藤が含まれている。その葛藤に共感できた時、読者はひきこまれるようにして小説の世界に入り込んでゆくことになる。もちろん小説には様々な種類があり、これに当てはまらないものも多くあるが、多くの場合そこに何らかの読者をひきつけるものがあるから人は長い時間机に座って本を読むのである。

 

■小説を読むために
・テーマに含まれる葛藤は多くの場合時代や社会の制約を反映している。たとえば、江戸時代の侍や商人や農民を主人公にした小説の場合、彼らは現代の私たちとは違った制約を時代や社会から受けている。具体例をあげれば、藤沢周平の主人公は多くが下級武士である。下級武士であるがゆえに彼らは藩の命令で無理難題を押し付けられたりする。藩にとって都合の悪くなったものを消す刺客として選ばれたりする。何の恨みもない者を藩命で殺さねばならない羽目に陥り、主人公は苦悩する。その人間的葛藤に読者は共感するのである。彼の小説は決して勇ましい侍がばっさばっさと悪人を切り倒して成敗するようなたぐいの小説ではない(『用心棒日月抄』シリーズにはそれに近い面があるが)。むしろ下級武士の苦悩や悲哀に焦点が当てられている。

 

 しかしその葛藤は時代の制約からくるものであるゆえに、時代が変われば解決される問題である。したがってそこには文学作品が持つ普遍性はない。こう考えるのは間違いである。なぜなら人間は時空を超えて生きることはできないからだ。こんな不合理で理不尽な社会ではない、もっと自由な社会に住みたいとどんなに願っても、それはかなわない。タイムマシンに乗って21世紀の日本に逃げ込むことはできないのである。もし小説の最後がそんな終わり方になっていたら、あまりに安易すぎて説得力のある小説にはならない。逃れようにも逃れられない制約の中で苦悩するからこそ、その人間的葛藤、彼らのささやかだが平穏な生活や、その生活を無理やり奪われる怒りや悲しみや最後の凄絶な決断に説得力があるのである。

 

 当時の武士がどんな暮らしをし、何を考え、どんな苦悩を抱えていたかを実際に見てきた者は今の世に一人もいない。にもかかわらず私たちは藤沢周平の小説の主人公たちの葛藤に十分共感することができる。下級武士の苦悩に満ちた生き方を読むとき、私たちは会社の平社員、あるいは何らかの組織の中で下積みを強いられている者の悩みを連想するかもしれない。小説の主人公たちの苦悩が人間的なものであれば、たとえその苦悩を同時代人として共有しなくとも共感することが可能なのである。人間にはそれを理解できるだけの想像力がある。何よりいっさいの苦悩や葛藤を持たない人間などいないからだ。芸術作品の持つ普遍性とはむしろそこにあるのではないだろうか。だからこそ、時代も国も異なる18世紀のイギリスの小説や19世紀のロシアの小説、あるいは古代ギリシャの古典悲劇さえ私たちには理解できるのである。

 

・しかし人間の想像力には限界がある。たとえば生まれてから一度も見たことのない色を想像することができないように。視覚的なメディアである映画を例にとればより明確である。1926年に製作されたフリッツ・ラング監督の名作『メトロポリス』は未来都市を描いた映画だが、巨大なビルが立ち並ぶ未来都市の空間を何と複葉機(宮崎駿監督の『紅の豚』に出てくるような翼が上下に二つある飛行機)が飛んでいる。まだジェット機が登場していない時代ではせいぜい空を複葉機が飛びまわっている未来しか想像できなかったのである。

 

 このように想像力には限界がある。人間にできるのはこれまで人類が経験してきたことや積み重ねてきた知識を組み替え、新しいフィクションの世界を創造することだけである。小説や映画に出てくるエイリアンは人間に似ていたり何かの動物や昆虫に似ていたりする。『プレデター』や『アバター』に出てくるエイリアンは基本的に人間の形をしているし、それ以外のエイリアンも気味の悪い生き物を組み合わせて作っているにすぎない。『アバター』にふんだんに出てくる異星の動物や昆虫や植物はどれもイメージのもとになったものが何か見当がつく。空中に浮かんでいる「島」も地球上のどこかにあるような形で、違うのは空に浮いていることだけである。空中に浮かぶ島は、18世紀に書かれたジョナサン・スウィフト著『ガリヴァー旅行記』に出てくるラピュタのエピソードから発想を借りている。


 だがそこにまた可能性がある。現実との接点がある。つまり、想像力・創造力の源泉は現実なのである。私たちは現実を知るからこそ、過去に書かれた小説に描き込まれた「現実」に入り込むことができるのである。現実に対する知識が豊富なほど作品に対する理解も豊かになる。

 

 しかし「事実は小説より奇なり」と言われるように、しばしば現実にはフィクション以上に想像しがたいことが起こる。下手な小説よりノンフィクションやルポルタージュ作品の方がはるかに衝撃的で面白かったりするのである。J・シンプソン著『死のクレバス』(岩波現代文庫、映画『運命を分けたザイル』の原作)やジョン・クラカワー著『空へ』(文芸春秋社)などの山岳遭難を描いたノンフィクションは圧倒的な面白さだ。

 ドキュメンタリーやルポルタージュにフィクションの味付けをした傑作も紹介しておこう。アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』(新潮文庫)は、今からおよそ100年前、英国人探検家シャクルトンを隊長とする南極探検隊が氷の海に閉じ込められ(船はやがて沈没)、17ヶ月にわたって漂流した後、乗組員28名が一人も欠けることなく奇跡的な生還を果たした史実をフィクション化したものである。シャクルトン本人の手記をまとめた『南へ―エンデュアランス号漂流』も翻訳が出ているが、シャクルトンは物書きではないのでやはり面白さに欠ける。彼らが遭遇した、信じがたいような事実を基に練達のライターがフィクション化した『エンデュアランス号漂流』の方がはるかに面白い。どんな冒険物語もこれにはかなわない。読み始めたらやめられない面白さである。

 

 あるいはバフマン・ゴバディ監督によるイラン・イラク映画の傑作『亀も空を飛ぶ』では、クルド人の子供たちの想像を絶する現実が描かれている。その生活は悲惨であるが、同時に子どもたちのたくましさにも圧倒される。「何も知らない幼い子供たちと映画を撮ろうとした。イラクに旅した時に子供たちが丘の上でナッツを食べながら戦火を眺めていた。欧米の子供たちはポップコーンを食べながら映画を観るが、イラクでは現実の戦争を見る。」インタビューに答えた監督の言葉がこの映画の特質をよくあらわしている。まるで芋でも掘り出すように地雷を掘り出している子供たち。それはまさに彼らの「日常生活」だった。両手を失った子供は口で器用に地雷の信管を抜く。

 

・優れたドキュメンタリーやルポルタージュはフィクションを越える。80年代以来僕が持ち続けている確信だ。想像力(創造力)を生の現実が軽々と超えてしまう。そういう優れたドキュメンタリーやルポルタージュといくつも出会ってきた。ドキュメンタリーの持つ力はその具体性とリアリティである。単にある戦争で何万人の犠牲者が出たと書かれてもその犠牲者たちや遺族の苦しみや苦悩はリアルに伝わってこない。実際に経験した人の体験談の方が遥に説得力があり、肌を通して伝わってくる。想像を超えた現実の重み、それが様々な技法を駆使した創造を超えてしまう。その最も分かりやすい例があの9.11テロの圧倒的な映像と、3.11東日本大震災の時に流された津波の息を飲むほど凄まじい映像である。

 

・いや、現実がシンボリックな効果を生み出すことすらある。朝日新聞の記者だった井川一久がポル・ポト政権による民衆虐殺を取材した『このインドシナ-虐殺・難民・戦争』(合同出版)に次のような一節がある。井川は数々の虐殺現場を取材してきたが、ある虐殺現場の近くで彼はあるものを見た。そしてその場にへなへなとへたり込んでしまった。百戦錬磨の新聞記者から立ち上がれないほど力を奪ったのは血なまぐさいものでも、ぞっとするほど不気味なものでもなかった。それは普通なら平和とやすらぎを連想させるものだった。

 

 そういう刑務所のまわりに直径3、4メートルの窪地が無数にある。1ヵ所に30体から100体の死体を入れて土をかぶせたのだけれども、死体が腐って内部に空隙ができたために、かぶせた土が陥没したんですね。その土は血で赤黒く染まっている。 穴は犠牲者たちに自分で掘らせるわけです。それから彼らを後ろ手に縛りあげて穴の前にひざまずかせ、後頭部を鉄棒で一撃して殺して穴に蹴落とす。だから頭蓋骨をみると、たいてい後頭部が陥没している。穴の周辺には白骨や毛髪や衣類がおびただしく散らばっています。子どもの衣類も多い。縛られたままの白骨もある。犠牲者を拘束していた鉄の足枷や、殺害に使った鉄棒もころがっている。いちばん鬼気迫る感じがしたのは、ツオル・マリン村で小鳥の巣が人間の髪の毛でできているのを見たときです。このときは私も総身の力が抜けたような状態になって、その場に座り込んでしまいましたね。
井川一久編『このインドシナ』(1989、 連合出版)p.23

 

 彼が見つけたもの、それは小鳥の巣だった。すべて人間の髪の毛で作られていた真っ黒な鳥の巣。小さな鳥の巣の中に平和でほほえましいイメージと恐るべき虐殺のイメージが共存していた。生を育むイメージとむごたらしい死のイメージの一体化。散々吐き気を催す現場を見てきただけに、このコントラストは強烈だったのだろう。こんなところにまで虐殺の結果が及んでいたのか!

 

 この鳥の巣が持っていた力はある種のシンボリズム(象徴主義)的な力だと言っていいだろう。髪の毛が遺体を暗示するのは隠喩の一種である提喩(シネクドキ)の効果でもある。しかも、すべて人間の髪の毛で作られていたということは、遠くまで行かなくともすぐ手近に「材料」が豊富にあったことを意味している。一つの鳥の巣が持つめまいがするような意味の重なりと広がり。これらの強烈なコントラストと「効果」の重なりが一体となって、本来なら愛らしいはずの鳥の巣をすぐ近くにある人骨の山以上におぞましいものに変えてしまったのだ。

 

 しかしこれを単純にシンボリズムだと言ってしまうわけにはいかない。文学的シンボリズムはもっと曖昧で抽象的なものだ。この鳥の巣が強烈なインパクトを与えるのは、その前提に取材した人々が語った悲惨な事実、人骨の山などが積み重ねられているからである。事実の積み重ねにあるシンボリックな力が加えられた時、大きな飛躍が生まれる。そうとらえるべきだ。つまりこの効果はシンボリズムではなくリアリズムの延長としてとらえられるべきだと僕は思う。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」で描かれた有名な場面、揺りかごがオデッサの階段を転がり落ちてゆくシーンを連想してもいいだろう。リアリズムを現実の平板な反映だと考えるのは間違いである。リアリズムは現実をより効果的に描き出す努力を営々と積み重ねてきている。そして上に示したように、何より現実自体が平板ではないのである。9.11同時多発テロによって崩れ落ちたツイン・タワーもシンボリックな意味合いを帯びていたではないか。

 

<追記>
 これまた古い原稿の復活です。「イギリス小説を読む」シリーズと同じ時期に書かれたもので、文学へのイントロダクションとして書かれたものです。ただ、内容は小説一般について書いており、イギリス小説に限定していないので、「イギリス小説を読む」シリーズとは別の独立した記事として掲載します。

 

 

2020年12月 5日 (土)

イギリス小説を読む⑫ 『闇の奥』

ジョーゼフ・コンラッド『闇の奥』:帝国主義と文学

 19世紀末は「新しい女」が登場した時代であり、世紀末のアヴァンギャルド(前衛)芸術が生まれた時代であるとともに、帝国主義の時代でもあった。

【帝国の時代】
・E.J.ホブズボーム『帝国の時代 1875-1914』(みすず書房)より
 1875年から1914年にかけての時代は、新しい型の帝国主義を発展させたという理由からだけではなく、それよりずっと古めかしい理由から、帝国の時代と呼ぶことができよう。おそらくこの時代は、自らを公に「皇帝」と称したり、西欧の外交官が「皇帝」の称号にふさわしいと考えた国家元首の数が、近代世界史の中で一番多かった時代である。 われわれが論ずる時代は、かなり重要な意味で、明らかに新しい型の帝国の時代、植民地時代である。...1880年から1914年の間に...ヨーロッパとアメリカ大陸を除く世界の大半が、一握りの国々のうちのいずれかの公式の統治もしくは非公式な政治的支配の下に置かれる領土として、正式に分割された。一握りの国々とは主に、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、アメリカ合衆国、日本であった。

【帝国意識】
・北川勝彦、平田雅博編『帝国意識の解剖学』(1999年、世界思想社)より
<第1章 イギリス帝国主義と帝国意識(木畑洋一)>
 筆者が考える帝国意識とは、以下のようなものである。
 帝国意識とは、他民族に対する帝国主義支配を支え正当化する意識-心情であって、その中核をなしたのは、世界政治の中で力を有し地球上の他民族に対して強大な影響力を及ぼす帝国支配国に自分が属しているという意識であり、それは、自国に従属している民族への人種的差別感に基づく侮蔑感と自民族についての優越感とによって支えられていた。

1 帝国意識の構成要素
 帝国意識はさまざまな要素を含んでいたと考えられるが、その中心には民族的な差別意識が位置していた。民族的差別意識のそのまた核になるものが人種主義であった。
 異なる人種の間での優劣感覚を伴う差異意識の存在は、歴史上いたるところでみられたとしても、それが体系だった形をとったのはおおよそ18世紀の後半であったといってよい。イギリスにおける黒人差別の歴史について浩瀚な研究を著したフライアは、その頃までの人種偏見とそれ以降に展開を始めた人種主義の違いを、迷信とドグマの違いにたとえている。非合理的で漠然とした人種偏見にとって代わって(というよりも、そのような要素は依然として強く残るためそれに加えてと表現した方が適当だろう)、身体の各部の特徴など「科学的」に観察しうる差異を伴う人種の相違によって人間としての発展能力がはっきり違う「すぐれた」人種と「劣った」人種とが生み出されていると見る「科学的人種主義」が、この頃から唱えられはじめたのである。(27)
 人種主義に基づく、進歩-停滞、文明-野蛮、成熟-幼稚、成人-子どもといった対比が、帝国主義の言説のまさざまな局面で用いられたのである。(28)
 帝国主義の要素として次に指摘すべきは、大国主義的ナショナリズム、愛国主義である。大国国民としての愛国主義は、排他的・好戦的な愛国主義であるジンゴイズムに容易に転化し、戦争に際しては「国と国王のために」戦う姿勢を人々の間に広範に生み出していった。
 民族的優越感と大国主義的ナショナリズムが結び付いた所で、「帝国主義」は「文明化の使命」感を育んでいくことになる。優越した位置にある自分たちが、大国イギリスの庇護のもとにある植民地や勢力圏内の人々に、文明の恩恵を与えていき、彼らを文明の高みに、あるいはそれに近いところまで引き上げる営みを行っているのだ、という感覚である。「白人の責務」をうたった有名なキプリングの詩句であらわされるこの意識は、帝国支配の正当化の上で、 常に重要な役割を果たした。第一次世界大戦後、民族自決思想の登場に対抗する形で、植民地統治の理念として強調されるようになった「信託統治」の考え方(自立に必要な資質や条件が整っていない植民地住民について、自立しうる段階までの「進歩」を植民地統治によって保証していく責任が植民地統治国に課せられている、との考え方)も、この「文明化の使命」論の延長に他ならなかった。(30)
 
2 帝国意識を涵養した諸装置
 ジョージ・オーウェルが、「イギリス人は帝国について偽善的であるというが全くその通りである。労働者階級の場合、この偽善は帝国の存在を知らないという形をとる」と述べているのは、この点できわめて鋭い観察であったといえる。(31)
 キプリングの小説や詩、ヘンティの少年向け小説、大衆新聞『デイリー・メイル』の帝国報道などが、その代表である。文字印刷物の中でも、歴史や地理をはじめとする教科書は、学校教育の場で帝国意識を育む手段となった。このような教科書や、帝国賛美の訓辞などを媒介に、学校教育はその種々の局面で帝国意識浸透の場となっている。(32)
 
3 帝国意識の機能
 帝国意識の機能として今一つ重視したいのは、それが帝国主義国――ここではイギリス――の人々のナショナル・アイデンティティを凝固させ強化する上で大きな役割を果たした点である。...イングランドとは異質なエスニックな条件(アングロ・サクソン系を主体とするイングランドに対し、スコットランドやウェールズではケルト系の人々が住民の軸となってきた)と、自立した地域としての歴史的前提(ウェールズのイングランドとの合同は16世紀に起こり、スコットランドの合同は18世紀始めに起こった)を有するこういった地域の人々が、それぞれスコットランド人やウェールズ人としてのアイデンティティとならんでイギリス人としてのアイデンティティをも備えたのは、大きな帝国をかかえる強国として発展をとげる国家に自分たちも属しているという感覚が育まれたゆえであった。イギリス人のナショナル・アイデンティティについてすこぶる魅力的な研究を行っているリンダ・コリーは、プロテスタンティズムと対仏戦争という要因とともに、帝国の存在が18世紀から19世紀初めにイギリス人というアイデンティティを生み出していったと論じている。(35-6)
 帝国意識は帝国主義国内のエスニックなあるいは地域的な多様性からくる差異感覚を覆い隠す機能を有したが、それと同時に階級に関わりなく帝国主義国の国民に幅広く共有されることによって、国内の階級間、階層間の対立意識の緩和を助け、国内統合を支える機能ももっていた。...この点ではとりわけ労働者階級の中にも帝国意識が広がっていたことに特に着目する必要があろう。(37)
 
4 帝国意識の通時的変化
 19世紀前半から半ばにかけては、いわゆる「自由貿易帝国主義」の時代であるが、この頃...人々の間に広がっていったのは帝国意識であった。...
 帝国意識を涵養するためのさまざまな道具立ても、この時代にはそろってくる。たとえば、初等教育体制の整備、マスメディアの発達(『デイリー・メイル』など労働者階級が手軽に購入しうる安価な新聞が登場し、帝国意識の鼓吹によって販売部数を伸ばした)、万国博覧会の開催、等々である。王政の機能も、帝国意識との関連で新たに重視されるようになった。...「文明化の使命」論という帝国統治の論理が明確に押し出されるようになるのである。(44-5)
 第一次世界大戦は、帝国主義の時代の到達点であったと同時に脱植民地化の出発点としての性格も持っていた。とりわけ、イギリス帝国の柱ともいえるインドでは、第一次世界大戦以降、民族独立をめざす運動の著しい伸長がみられた。(45)
 広大な帝国保有と結びつくようなナショナル・アイデンティティの方も、第一次世界大戦後から若干の揺るぎをみせはじめた。帝国意識は脱植民地化を経過してもまだ残存している。1982年のフォークランド戦争に際しては、帝国意識のあらわな形での活性化が見られた。また民族・人種差別意識は、旧イギリス帝国内諸地域からの移民が1950年代後半以降大量に流入してくることによって、イギリスの国内で機能するようになってきた。(46-7)
 
<第2章 英国文学にみる帝国意識の生成と崩壊(小泉允雄)>
 特に1980年代から、この系譜の文学[インド・東南アジアもの]がliterature of imperialism(帝国主義についての文学)として英国、米国で注目され、その研究がさかんになっている。その背景には、帝国主義がたんに政治・経済にかかわる事象であるにとどまらず、人間の文化や意識の問題であるという認識が高まったことがあるのだろう。
 この系譜の文学の流れは時代とともにこのイメージがどう変わったかを私たちに示すだろう。先に憧れや恐怖と書いたが、おおまかにいって当初英国人にとってのインド・東南アジアのイメージ――大きくいってヨーロッパが描いた非ヨーロッパ世界の像――は、神秘、不可思議、冒険、奇蹟などの憧れの情緒に彩られていた。その神秘イメージは今日の文学にも残るものの、19世紀末からの帝国主義時代には、遅れた南の世界の停滞や汚濁という恐怖のイメージがそこに加わり、むしろそれが主流となる。同じように登場するヨーロッパ人の姿も変わる。当初はロビンソン・クルーソーのような冒険者が中心であった世界が、帝国主義時代に入ると、「遅れたもの」を導き、統治するというやっかいな使命を帯びたものたちの世界となる。そしてそれも末期に近づくと、この系譜の作品の登場人物は、帝国主義への疑念や批判をかくさない。かつて当然のこととして書かれた白人の矜持や差別意識はきびしく批判されたり笑われたりして、それは戦後から今日までのこの系譜の作家たちにも引き継がれる。(55)
 第三に、このインド・東南アジアものの系譜が描きつづけたのは、植民者たちが南の国で作っていた白人社会の姿である。(55)

【帝国主義の文学】
・帝国主義文学の代表作リスト
1901 Kim (Rudyard Kipling)
1902 Heart of Darkness (Joseph Conrad) 『闇の奥』(岩波文庫)
1904 Nostromo (Joseph Conrad) 『ノストロモ』(筑摩書房)
1924 A Passage to India (E.M.Forster) 『インドへの道』(筑摩書房)
1926 Casuarina Trees (Somerset Maugham) 『カジュアリーナ・トリー』(ちくま文庫)
1934 Burmese Days (Goerge Orwell) 『ビルマの日々』
1936 Shooting an Elephant (Goerge Orwell) 『象を撃つ』(平凡社)

【ジョーゼフ・コンラッド『闇の奥』】
(1)ジョーゼフ・コンラッド(1857-1924)著作年表
1896 An Outcast of the Islands 『文化果つるところ』(角川文庫)
1897 The Niggar of the‘Narcissus' 『ナーシサス号の黒人』(筑摩書房)
1900 Lord Jim 『ロード・ジム』(筑摩書房)
1902 Youth 『青春』(新潮文庫)
1902 Heart of Darkness 『闇の奥』(岩波文庫)
1902 Typhoon 『台風』(新潮文庫)
1904 Nostromo 『ノストロモ』(筑摩書房)
1907 The Secret Agent 『密偵』(河出書房)
1911 Under Western Eyes 『西欧の眼の下に』(集英社)
1915 Victory 『勝利』(中央公論社)
1917 The Shadow-Line 『陰影線』(中央公論社)

(2)ジョーゼフ・コンラッドの生涯
 コンラッドは1857年、当時ロシアの治政下にあったポーランドの由緒ある家柄に生まれた。彼の父は祖国独立の謀議に参加していたとの理由で北ロシアに流刑され、幼いコンラッドも父に同行したが、両親は次々に亡くなり、11歳で孤児になってしまった。17歳でマルセーユに出てフランス船に乗り組み、20歳あまりではじめて英国に行き、やがて英国船長の資格も取り、20代の終わりには英国に帰化した。彼の船員生活は35歳までの20年間続いたが、その間にアフリカ奥地のコンゴ河の上流まで行っている。コンラッドの作品の素材になったのはこの船乗り時代の経験である。その後健康を害したこともあり、作家に転じた。
 『ナーシサス号の黒人』、『青春』、『台風』などの作品で海洋小説作家という印象を持たれているが、『ノストロモ』、『密偵』、『西欧の眼の下で』のような政治小説が後に評価されるようになってきた。しかし、このところ「ポスト・コロニアリズム批評」などの影響もあり、彼の作品の帝国主義的側面に関心が向けられている。『闇の奥』はその焦点となる作品である。作品の大筋は実体験に基づいている。コンラッドは「コンゴ上流開拓会社」の汽船の船長になった。開発というと聞こえはいいが、実態は原住民から象牙を搾取している会社だったようだ。そこの奥地代理人のクラインというフランス人が重病になったので、コンラッドは遠征隊とともにコンゴ河をさかのぼってその男を引き取って来たのである。初めてアフリカの奥地を見たコンラッドは、孤独がもたらす人間性の荒廃と白人による搾取のすさまじさを見て人間性の深淵をのぞいた思いがする。

(3)『闇の奥』の世界
 フランシス・フォード・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(1979年)の下敷きになった作品として知られる。もっとも、映画の方はベトナム戦争が舞台になっているが、小説の方はコンゴが舞台である。映画はカーツ大佐を探す旅だが、小説は貿易商人クルツを探す旅である(ただし、カーツもクルツも元のつづりは同じKurtz で、日本語表記が違っているだけである)。一方はアメリカ帝国主義の野蛮さと退廃を描くが、他方はアフリカ大陸と大英帝国の闇を探る。川を船でさかのぼって奥地の闇へと入り込んで行く展開、そしてどちらの主人公も最後に「恐怖」とつぶやくのは同じである。
 『闇の奥』はロンドンのテムズ川で始まる。物語全体の枠組みは、『青春』や『ロード・ジム』にも出てくるマーロウという語り手が、同じ船に乗り合わせた他の乗客に語って聞かせた話という設定になっている。話にこれと行った筋の構成はなく、単にマーロウがクルツという男を救出するまでに出会ったエピソードやマーロウの想念や考察が連なっているだけである。
マーロウは象牙を輸出する会社に雇われ、その一番奥地の出張所主任クルツという男を救出する任務を申し付けられる。彼はとにかく優れた能力をもった人物らしいが、病気らしい。クルツを探す旅で出会ったものは何とも重苦しく、危険で、強欲で、野蛮で、荒廃した世界だった。原始林、生い茂った草むら、ざわつく木の葉、欲望まる出しの白人たち、崩れかかった小屋、獣のほえ声、現地人(訳では土人)の不気味な姿と恐ろしい叫び声、転がっている死体、杭に刺さった首、悲鳴のような船の汽笛、そして暗闇。
 マーロウたちは沈没船を引き上げて修理し、のろのろと河をさかのぼって行く。途中でクルツの話を聞くうちに、マーロウはある道徳的信念を持ってやってきたというクルツにしだいに引かれて行く。クルツは象牙に引きつけられてしまったようだ。一旦象牙を運んで河を下り始めたのだが、途中でまた引き返すと言い出した。「突如として本部に背き、交代になることを拒み、そしておそらくは家郷の思い出にさえ背いて、あの荒野の奥地、荒涼たる無人の出張所に」戻ってしまったのだ。マーロウはクルツに会うが、すぐにクルツは死んでしまう。最後に残した言葉は「恐怖」(訳では「地獄」)である。やがてフランスに戻ったマーロウはクルツの婚約者と会い、彼の遺品を渡す。

(4)作品からの引用 (岩波文庫版より)
<帝国主義にかかわる部分>
 冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たち――彼らはすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは松明を携えて、すべてこの流れ[注:テムズ川]を下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者。...人類の夢、英連邦の胚種、そして帝国の萌芽!(8)

 彼ら[征服者]の勝利は、ただ相手の弱さからくる偶然、それだけの話にすぎないのだ。ただ獲物のゆえに獲物を奪ったにすぎない。暴力による略奪であり、凶悪きわまる大規模な殺戮だ。そして奴らは、ただまっしぐらに、盲滅法それに飛び込んで行った――それでこそ暗黒と格闘するものにふさわしいのだ。この地上の征服とは何だ。たいていの場合、それは単に皮膚の色の異なった人間、僕らよりも多少低い鼻をしただけの人間から、むりに勝利を奪い取ることなんだ。よく見れば汚いことに決まっている。だが、それを償ってあまりあるものは、ただ観念だけだ。征服の背後にある一つの観念。...われわれがそれを仰ぎ、その前にひれ伏し、進んでいけにえを捧げる、そうしたある観念なんだ。(12)

 僕は子供の時分から、大変な地図気違いだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。...なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかった...すでに暗黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。(14-5)

[マーロウの伯母に別れのあいさつをしにいった時]
 なにしろその頃は、そうしたばかばかしい話が、いくらでも印刷になり、口の端にも上っていたので、このお偉い伯母ごなども、すっかりそうしたたわごとの波にもまれて、足元をさらわれていた形だった。言い草がいいねえ、「無知蒙昧な土民大衆を、その恐るべき生活状態から救い出す」とおっしゃったからねえ。(23-4)
 
 奴[クルツ]に言わせるとですねえ、出張所というものは、すべて将来の発展のために、いわば街道の灯台のようなものにならなくちゃいけない。商売の中心というだけじゃなくね、進んで文明、進歩、教化の中心にならなくちゃいけない、とそう言うんですよ。(65)

 捕らえられて繋がれた怪物を見ることには、僕らは慣れている。だが、ここでは解放された自由な怪物を見ることができるのだ。...彼らもまた人間だという――そのことこそが最悪の疑念だった。疑念はいつも徐々として頭を占める。彼らは唸り、飛び上がり、旋回し、そして凄まじい形相をする。――だが、僕らのもっとも愕然となるのは――僕らと同様――彼らもまた人間だということ、そして僕ら自身と、あの狂暴な叫びとの間には、遥かながらもはっきり血縁があるということを考えた時だった。(73)
 
[マーロウたちが乗っている船の船員である黒人の頭が岸にいる「土人」たちを見て]
 彼は「引っ捕らえろ、引っ捕らえろ。そいでおいらにくれよ、ね」と吐き出すように叫んだ。「君らに?いったいどうするというんだ、それを?」と、僕は聞き返した。「食べるだね」と、彼はズバリと答えた。(82-3)

[クルツが国際蛮習防止協会向けに書いた報告書]
 冒頭まず僕ら白人が、現在到達している文明の高さから考えて、「彼ら(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない、――我々はあたかも神の如き力をもって彼らに接するのである」云々...(102-3)
 
果たして僕らが彼をたずねて行くために失ったあの生命に値したか、そこまで断言するつもりはない。むしろ僕は、死んだ舵手のことをどれだけ悲しんだかしれない...
 多分諸君は、わからないと言うだろう、サハラ砂漠の砂一粒ほどの値もない蛮人一人の生命だ、それをそんなに悲しむなどとはね。だが、いいかね、あれでもとにかくすることはしたんだ、ちゃんと舵は取ってくれたんだからねえ。(104)

<クルツに関する部分>
 問題は、彼が恵まれた天才で、しかもその才能中にも最も著しいもの、いいかえれば彼の本質とでもいった感を与えたものは、彼の話術の才、彼の言葉――人々を幻惑し、啓蒙し、時には最も高邁な才能でもあれば、時にはまた最も下劣な天分でもあるもの、いわば人跡を許さぬ暗黒の奥地から流れ出る光の鼓動か、でなければ欺瞞の流れともいうべき表現能力だった。(96-7)

生身のクルツは半分イギリスで教育を受けた、そして――彼自身そう言ってくれたが――もともとは憐れみ深い人間だったらしい。母親は混血のイギリス人であり、父親も同じく混血のフランス人だった。いわばヨーロッパ全体が集まって彼を作り上げていたといってよい。(102)

 「いったいなにをしてるんだね?探検かね?それとも...」「もちろんそうですとも」と彼[奥地に住むロシア人]は答えた。それによると、彼はおびただしい村落や、それに湖水まで一つ発見したということだ...だが、もちろんたいていは象牙集めのためだったことはいうまでもない。...「じゃ、露骨に言ってしまえば、略奪だね?」と僕は言った。彼はうなずいた。...「じゃ、その部落民もクルツの手下だったんだね?」...「だって土人たちは、あの人を神様のように思っていたんですからね」と答えた。(115ー6)

 実際その後支配人は、クルツのやり方がこの地域を荒廃させてしまったのだと言った。...言えることは、クルツという男が、いろいろ彼の欲望を充たす上において、自制心というものを欠いていたこと、つまり、彼の中にはなにか足りないものがあった...荒野はすでに早くからそれを見抜いていた、そして彼の馬鹿げた侵入に対して、恐ろしい復讐を下していたのだった。(120)

 あの荒野の呪縛を、僕は破ってしまいたかったのだ。思うに、ただこの呪縛のみが、彼を駆り立ててあの森の奥へ、ジャングルへ、そしてあの篝火の炎、太鼓の鼓動、妖気迫る呪文の唱和の方へと走らせるのにちかいない。この呪縛のみが、不逞な彼の魂を欺いて、人間に許された野心のらちを踏み越えさせるのに違いない。(137)

 ただ彼の魂は常軌を逸していた。たった一人荒野に住んで、ただ自己の魂ばかり見つめているうちに、ああ、ついに常軌を逸してしまったのだった。...彼もまた彼自身と闘っていたのだ。...その魂自身を相手に盲目的な格闘をつづけているという魂の不可思議きわまる秘密を目の当たりにした。(138-9)

 一口でいえば、きびしい完全な絶望の表情を見てとった。...彼は低い声で叫んだ――二度叫んだ。...「地獄だ(horror)!地獄だ!」(144)
 マーロウの話は終わった。...沖合の空は黒雲が層々と積み重なり、世界の最果てにまでつづく静かな河の流れが、一面の雲空の下を黒々と流れ--末は遠く巨大な奥までつづいているように思えた。(162)

(5)『闇の奥』と帝国主義
 有名なコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズにもインド、オーストラリア、アフリカ、中南米などが言及されるが、ドイルにとってそれらの地域は犯罪の供給源であり、猛毒や蛮人などのイメージと結び付いて語られるのである。例えば、「まだらの紐」の犯人はインド産の毒蛇を使って殺人を犯すのである。また、『ジェーン・エア』に登場するロチェスターの狂った妻バーサが西インド諸島のジャマイカ出身であることを思い出してもよい。
 『闇の奥』はコンラッドが実際に体験したアフリカを描いたものだとよく言われる。またベルギーのコンゴ支配に対する暴露と告発の書であるとよく指摘される。しかし、正木恒夫の『植民地幻想』(みすず書房、1995年)によれば、コンゴ河流域はみすぼらしい出張所だけが点々とあるのではなく、実際には軍隊の駐屯所や伝導所、病院、警察、監獄などもあったという。ではなぜコンラッドはあのような描き方をしたのか。正木恒夫はこう説明する。

 流域開発の過小評価は、裏返せば、「未開」の強調にほかならないということである。そしてこの未開への憧れと反発、魅力と恐怖という両義的な感情こそ、『闇の奥』を支配する情念なのであった。(209)
 マーロウ(コンラッド)は自ら描き出した「原始」の像を、半ば恐れ半ば賛美する。その限りにおいて、『闇の奥』は、ヨーロッパ精神史を貫流する例の「気高き野蛮人」ないし「原始礼讚(primitivisum)」の伝統の中に位置づけることのできる作品である。(212)
 スタンレーの「暗黒」大陸とコンラッドの「闇」の奥。二人にとってアフリカは、闇のとばりに閉ざされている必要があった。この闇の領域は、スタンレーにはヨーロッパ文明の「光」を呼び込む口実を、コンラッドにはヨーロッパ的自我内面の闇を投射すべき格好の場所を、それぞれ与えてくれる。地図に残された最後の空白地帯アフリカの、その空白がスタンレーの探検によって埋められたまさにその瞬間、そこが「暗黒大陸」と呼ばれはじめる奇妙さは、これら二人の人物が体現するヨーロッパの必要をぬきにしては説明のつかないものだ。ようやく見えはじめたアフリカを、ヨーロッパは闇の奥に沈めてしまったのである。(218)

 つまり、『闇の奥』に描かれたアフリカは、ヨーロッパ人に都合がいいように改変されたアフリカだったと言うのだ。結局コンラッドの帝国主義/植民地主義批判は徹底したものとは呼べない。彼の意識の下に人種差別が潜んでいるからだ。彼の関心はむしろアフリカの原始社会の「闇の力の強さ」や「荒野の呪縛」といった不可解な力へと向けられている。これとクルツ自身の「象牙への欲望」が結び付いてクルツを破滅させたのである。クルツは「俺には大きな計画があったんだ」というが、結局それが何であったかは分からない。神秘的な「闇の力」が文明人とその欲望を飲み込んでいったわけだが、その「闇の力」とはマーロウやコンラッド自身あるいはヨーロッパ人の意識の中にある、「暗黒」や原始的野蛮さ、あるいはその裏返しの原始的生命力に対する恐怖と畏怖が象徴されたものかも知れない。アフリカの深い闇の中にコンラッド自身も半分飲み込まれていたのではないか。

【おまけ:ジョージ・オーウェル「象を撃つ」】
 ビルマ時代のオーウェルは普通の警察官であった。その経験を基に書かれた「象を撃つ」という短編の内容は単純である。
 ある日駐在所にいた主人公に一頭の家畜の象が暴れているとの知らせがあり、彼は駆けつけるが現場に来てみると、象はすでに発作が治まり、もう後は持ち主が戻るのを待っていればいい状態だった。しかしふと振り向くと、二千もの「黄色い顔の群れ」が、最新式のライフルを肩にした彼を遠巻きにして見守っていることに気がつく。彼らは主人公が象を撃つのを期待している。このまま引き上げれば彼は彼らに馬鹿にされる。しかし馬鹿にされることはできない。本人は象を撃ちたくはなかったのだが、群衆に押されるようにして、結局彼は象を撃つ。
 つまり「東洋にいるすべての白人の生活は、笑われまいとする苦闘の連続なので」あり、「白人たる者は『土民たち』の前ではおじけづいてはならない」、ゆえに彼は「馬鹿に見られたくないというだけの理由で」象を撃ったのである。この出来事を通じて彼は支配するものの「空しさ」と「虚ろさ」を発見する。「その出来事のおかげで私は、帝国主義の本性――専制政府を動かしている真の動機――を、これまで以上にはっきりと見定めることができた」のである。ではその「帝国主義の本性」とは何か。それは「白人が暴君と化すとき、彼は自らの自由を破壊するのだ」ということである。こうしてオーウェルは「象を撃つ」を通して「威張るものが腐る」という真理を発見したのである。オーウェルはいわば内部告発の力でもって、帝国意識を「威張るものが腐る」という視点から痛みを込めて書いたのである。 

 

<追記>
 「イギリス小説を読む」シリーズは20年前(まだブログを始める前)に入門者向けに書いた記事です。ブログには『土曜の夜と日曜の朝』まで9本載せていました。しかしフォルダーの奥深くまで分け入って昔書いた記事を探っていたら、まだブログに載せていない記事がいくつかありました。その中から『大いなる遺産』と『日陰者ジュード』という大物2本を掲載しましたが、もう1本『闇の奥』を載せることにしました。古い記事はこれで打ち止めです。

 

 

2020年11月 6日 (金)

イギリス小説を読む⑪ 『日陰者ジュード』

トマス・ハーディ『日陰者ジュード』:「新しい男と女」の悲劇

【1 トマス・ハーディ著作年表(主な作品のみ)】
1872 Under the Greenwood Tree 『緑樹の陰で』(千城)
1873 A Pair of Blue Eyes 『青い眼』(千城)
1874 Far From the Madding Crowd 『狂おしき群れをはなれて』(千城)
1878 The Return of the Native 『帰郷』(千城)
1886 The Mayor of Casterbridge  『キャスターブリッジの市長』(千城)
1887 The Woodlanders 『森に住む人たち』(千城)
1891 Tess of the D'Urbervilles 『ダーバビル家のテス』(新潮文庫、岩波文庫)
1895 Jude the Obscure 『日陰者ジュード』(岩波文庫、国書刊行会)

【2 『日陰者ジュード』:ストーリー】
<主人公ジュード・フォーレイ>
 ジュードは両親が亡くなったために、ドルシラ伯母の元で育てられている。彼は利発で、伯母が呆れるほどの本好きである。彼は優しい性格で、畑でカラスを追う仕事をしているうちに自分と同じ境遇のカラスに同情してしまい、追い払うのをやめて結局首になってしまう。また道を歩くときもミミズを踏まないように歩くジュードの描写がある。最も印象的なのは豚の解体をするシーンで、ジュードは豚がかわいそうになって一気に殺してしまう。そんな「やさしい心の愚か者」ジュードと「貧乏人だって生きなきゃなんないのよ」と怒る現実的な妻のアラベラが対比される。

・クライストミンスターへの憧れ
 フィロットソン先生がクライストミンスター(オックスフォードの作中名)へ行くのをジュードが見送るところから物語は始まる。フィロットソンには大学に入るという夢があった。ジュードもクライストミンスターへの憧れを募らせる。何度も遠くのクライストミンスターを眺めるシーンが出てくる。遠くから見るクライストミンスターの街はトパーズのように輝いていた。

・アラベラとの結婚
 ジュードが学問について夢想している最中に、アラベラに豚の肉片を投げ付けられる。それがきっかけでアラベラと付き合い出す。アラベラは肉感的な女性で、うぶなジュードを簡単にたぶらかしてしまう。ある時アラベラが妊娠したというので、ジュードは仕方なく彼女と結婚する。後に妊娠が間違いだと聞かされ腹を立てるが、まんまと引っ掛かった自分と世間の通念をいまいましく思うしかなかった。「一時の感情で、永遠の契約を裏づけたことに根本の間違いがあった。」結局夫婦仲は続かず、アラベラはオーストラリアに行ってしまう。残されたジュードはクライストミンスター行きを決心する。

・クライストミンスターへの幻滅
 クライストミンスターに着き、夜夢にまで見た憧れの街に出てみる。彼は古い建物の間を本で知った学識者たちの亡霊が飛び交っている様を空想しながら喜びに浸った。しかし、次の日見ると大学の様子は一変していた。夜見ると理想的だったものが、昼見ると長年の風雨で傷つき古びたものに見えた。そして、あこがれの地に実際にきてみて初めて、自分の前に大学の壁という厚いしきり壁が彼を遮り立ちはだかっていることに気づく。「たった一重の壁...しかし何という越えがたい壁だろうか!」結局ジュードのような貧しい人間の資力と天分では到底大学には入れないと思い知るのである。
 だが、一方で新しい認識に達する。場末の労働者がいなければ、高邁な思想家も生きては行けまい。ジュードは始めて庶民の現実に目を開く。彼らこそクライストミンスターの現実なのだ。ジュードは石工として身を立てることにし、仕事も見つかった。そして偶然いとこのスーを見かける。しかし自分のみすぼらしい格好に気後れして、声をかけられない。スーはとても上品で洗練されているように見えたからだ。

<ヒロインのスー・ブライドヘッド>
 スーも両親をなくし、クライストミンスターで意匠図案家の仕事をしていた。読書好きで、以前は教師をしていた。田舎の生まれだが、後にロンドンに移り、娘時代はクライストミンスターで過ごしたので、すっかり洗練されていた。
 ジュードは最初スーの写真を見て引かれ、実際に会ってからはしだいに彼女への関心が性的なものだと気づいてゆく。しかし彼は既婚者であり、いとこ同士で、しかも彼の血筋は結婚に向かないと伯母からいつも言われていたこともあって、自分の気持ちを抑えていた。しかしスーの方は男に対しては妙に距離を置く女性だった。スーは昔大学生と付き合っていた。大学生の方は彼女に愛人になって欲しかったのだが、彼女がそれにずっと抵抗していたので彼は心がずたずたになり死んでしまった。男に身をまかせないので、冷たい性格、性のない女だといわれるが、それは違うとスーはいう。操を心配することなく男性と付き合いたいのだと。
 しかし彼女の信念は必ずしも一貫したものではない。アラベラへの嫉妬心にかられて突飛な行動に出ることも多い。ある時ジュードはスーに自分は結婚していること、妻は生存していると打ち明けた。そのすぐ後スーはフィロットソンと結婚したのである。ジュードの教師だったフィロットソンは、結局大学へ入る夢を果たせず、今は小学校の校長をしていた。そのフィロットソンにジュードはスーを教師として推薦したのである。
 スーの一番の魅力は社会の因習に逆らい、自由に発言し行動できるところにある。ジュードは古いタイプの男だったが、彼はスーによって一つ一つ考えを改められて行ったのである。彼女はジュードがあこがれたクライストミンスターを痛烈に批判した。大学生よりもあそこの貧民たちの方こそありのままの人生を知っている。ジュードのような者こそが入れるためのクライストミンスターだったのだと。

・スーの結婚の破綻
 フィロットソンとの結婚は結局うまく行かなかった。スーは彼と暮らすことは拷問だと言う。セックスを求められるのが何よりもつらいと。自分が結婚したのは軽率だった。しかし他の人は服従しても、自分は跳ね返して行くのだと。
 スーはある時から押し入れで寝るようになる。スーは別居したいと持ち出す。既に好きでなくなっているのに、このように暮らすのは姦淫だ。結んだ契約は合法的には取り消せないが、道徳的にはできると。フィロットソンはついに別居に同意する。彼にはスーを理解できないが、意地の悪い人間ではない。彼はジュードに対するスーの愛情を理解していた。二人は瓜二つだ。そこには親和や共鳴といったものがあると。

・結婚を拒否するスー
 スーはジュードと出て行く。ジュードとスーの離婚訴訟もそれぞれ片付き、二人は晴れて自由の身になった。二人は同棲を始めたが、スーはジュードと一つの部屋に寝ることを拒否する。もう結婚してもいいだろうとジュードは誘うが、スーはイエスと言わない。そんなことをしたら却って愛が冷めるというのだ。そんなところへアラベラが訪ねてきて、話をしたいからぜひ来てほしいと言って去る。スーは絶対行くなと頼むが、ジュードは何週間も焦らされて来た君以上にアラベラの方が妻だとあてつける。そう言われてついにスーも折れる。二人は結婚することに決め、アラベラは放っておくことにする。二人は結婚の手続きをしに行くが、直前でスーの気が変わりまた引き返す。
 ある日アラベラから手紙が来て、実はジュードとの間に子供が一人いて、ジュードに引き取ってもらえないかと書いてきた。ジュードとスーは喜んで引き取ることにする。アラベラの子は子供の仮面を付けた老人だった。スーはその子にジュードの面影があるのを見てショックを受ける。
 子供がきたことによって二人は再び結婚の手続きをする決心をする。二人は役場まで行くがまたしても気がくじけてやめる。教会の前を通るとそこでも結婚式を上げているので覗いてみる。まるで取引の契約を取り交わすみたいだとスーは思う。

・二人を追い詰める世間の圧力、そして破局
 そのうち変な噂がたちだした。二人は「重苦しい圧迫的な一つの雰囲気」、「二人を押さえ付ける邪悪な影響力」を感じ始める。二人がやっと見つけた教会の銘文を修繕する仕事をしていると、それを見た女たちに当てつけがましく「本当の夫婦じゃないようよ」と当てこすりを言われた。結局ジュードはその仕事を断られ、さらに職人の協会の委員からも締め出され、いやでも町を出て行かざるを得なくなる。それから2~3年の間ジュードたちは各地を転々とした。その間に二人には二人の子供ができていた。
 ジュードとスーは最後にもう一度彼の「脇腹に刺さった刺のような街」クライストミンスターにやってくる。そこで宿を探しに行くが子連れであるため次々に断られ、ようやく一軒見つかった。翌朝スーが出掛けて戻ってくると、子供が多すぎることが苦労の原因だと思ったアラベラの子供がスーの子供二人を絞め殺し、自らも首を吊って死んでいた。スーは耐え難いほどのショックを受け、彼女の精神は崩壊してしまう。こうなったのは自分のせいだ、自然を有りのままに楽しもうとした報いとして、運命が自分達の背中を突き刺したのだと言い張る。「神」と戦っても無駄だと。ジュードは戦う相手は「人と無情な環境」だと説得するが、スーは自分にはもう戦う力が残ってないと答える。
 スーは自分はまだフィロットソンの妻だと思うと言い出す。ジュードの崇めていた因襲や形式的儀礼を批判していたスーはもういない。彼女は自分を軽率だったと反省し、自己否定こそもっと高尚な道だとまで言う。スーはジュードに再びフィロットソンと結婚すると告げる。

・スーとフィロットソンの再婚、ジュードとアラベラの再婚
 スーとフィロットソンは以前と同じように式を上げる。ジュードの伯母エドリン夫人は参列をあくまで拒んだ。エドリン夫人は「婚礼は取りも直さず葬式じゃ」と嘆く。スーは自分でもフィロットソンを愛していないことをジュードに認めていた。スーを迎えたフィロットソンがスーに口づけをしようとすると、スーの肌は引きつった。また客間の机の上にあった結婚許可証を一瞥したときにも、己の棺を見た死刑囚のような表情をして「あっ!」と叫んでしまう。
 スーが結婚した後、アラベラがまたジュードのもとに舞い戻ってくる。アラベラは、スーの結婚以来酒に溺れているジュードを酔わせ続けて、何日か後にジュードをうまくだますようにして結婚式を挙げてしまう。
 失意の中でジュードは二人の関係を振り返る。

 「僕たちはつらい不幸な事件に遭遇して、彼女の知性は崩壊し、彼女はぐるりと闇に向かってしまったんだ。...ずっと以前、僕たちが最善の状態にあったころ、二人の知性が明晰で、真理への愛が恐れを知らなかったころ、その頃のスーと僕にとって、時はまだ熟していなかったんだ。僕たちの考えは50年早すぎて、僕たちに役立つものになり得なかったんだ。だから僕たちの考えは反対にあって、それが彼女の中に反動を引き起こし、僕の身に無分別と破滅をもたらしたんだ。」

 クライストミンスターのお祝いの日。にぎやかな町中を歩いていたアラベラが家に戻るとジュードは誰にも看取られずに死んでいた。

【作品の読み方】
1 現代悲劇の視点から
 悲劇は、人間の到達したある特定の発展段階において、人間にとって解決不可能な状況が発生したときに起こる。18世紀と19世紀におけるそのような状況...とは、解放を求める女性たちの広がりつつある意識(それは国会議員の選挙などのような単なる形式的な解放のことではない)と、階級社会にとってはそのような自由を認めれば必ずその不可欠な部分を損なうことになるという状況であった。
 アーノルド・ケトル『イギリス小説序説』(研究社)

2 教養小説の視点から
 ひとりの人間の成長過程を描くという教養小説の基本的な形式は、言うまでもなく、個性的な人格として人間をとらえる視点なしには成立しえない。中世封建社会の終焉(あるいはその予感)と、近代的な個人的自我の自立が、不可欠の前提である。だが、自立した瞬間に、社会がひとつの外的世界と化し、その外的世界との軋轢をわが身に引きうけねばならなかったということこそは、近代的自我にとっての根本的な不幸だった。中世的共同体の桎梏から解き放たれたとき、<私>は、帰るべき<われわれ>の故郷と、調和的な生の基盤と舞台とを失ったのである。
 池田浩士『教養小説の崩壊』(現代書館)

3 「ニュー・ウーマン」小説の視点から
 新しい女性とは、それまで女性が基本的に目標としていたものを拒否する人々である。しかし必ずそのしっぺ返しがあり、彼女たちは皆考えを改めるか、死を迎える。
 スーを「フェミニスト運動の女」と呼ぶのは単純。彼女は何の圧力団体にも属さず、選挙権にも触れず、女性の全体状況については意識していない。この最後の点が彼女の限界の大きな原因。
(メリン・ウィリアムズ)

 『日陰者ジュード』は伝統的役割と人格からの解放を求めるヴィクトリア朝のヒロインの戦いのクライマックスをなす。新しい女の世代が求めてきた完全な自己認識と精神の自立の帰結なのだ。自由を求めるスーの熱烈な願望は性的自立という形で現れる。彼女はテスにはない知的な内面生活を持ったヒロイン。ハーディの唯一の知的ヒロインである。テスは認識のレベルではなく、感情のレベルで行動した。
 (ロイド・ファーナンド)

4 ヒロイン:スー・ブライドヘッド
 スーの魅力はまさに、彼女が何物にもとらわれずに行動するところにある。彼女の行動が一貫しないように見えるのは、それだけ因習的な縛りから自由であるからだ。むしろ、複雑で矛盾に満ちた彼女の性格は、型にはまった従来のヒロインたちよりもずっと現代的である。因習的なものを攻撃する彼女の矛先は、クライストミンスターのみならず、古い価値観にとらわれていたジュードにも向けられる。
 彼女の最も特異な点は結婚そのものに対する姿勢である。フィロットソンとはあっさり結婚するものの、ジュードとは二度も寸前まで行きながら結婚をためらう。この一貫しない態度が彼女の評価を分けている。スーを批判するものは彼女を「性をもたない女」「気まぐれな女」「最後にジュードを裏切った女」と呼ぶ。確かに、スーの限界が時として、ヴィクトリア朝時代の女性全般がもっていた限界というよりも、彼女自身の個人的性格からくる限界であるように見えるときがある。
 スーの弱さはしばしば感情的に行動してしまう所に見られるが、また彼女が理想主義者だったからでもある。理想主義者は不十分な現実を批判できるが、一方で現実の厳しい矛盾とぶつかったときには無力である。結婚や性関係を極度に恐れるのは彼女のもろさから来るものであるが、また女性を長い間苦しめてきた結婚制度という縛りから逃れたいという気持ちからもきている。どうしても結婚に踏み切れないスーの背後に女性たちがたどってきた苦い歴史をどれだけ読み込めるかが評価の分かれ目となる。
 スーが最後に180度考え方を変えてしまうのをどう考えるか。彼女を裏切り者と見なすのか。そう言い切るには彼女の最後の状態はむごすぎる。愛してもいない男のもとに帰り、顔を背けながら相手に抱かれているスーの姿はグロテスクなほどむごいものである。フィロットソンとの二度目の結婚の後、彼が死んだのではないかとスーが期待する場面がある。ここには夫が死ぬか自分が逃げ出すか、さもなければ夫を殺すかしなければ自分の苦しみから解放されない女性の縛り付けられた状態が表現されている。多くの扇情小説やニュー・ウーマン小説のヒロインたちも同じ願望をもったのだ。スーの最後のおぞましい姿はヴィクトリア時代の「家庭の天使」のぞっとするような裏面が描かれているのだ。ハーディが描きたかったのは女性が自由でない限り、男も決して自由ではないということではないだろうか。

5 現代悲劇としての『日陰者ジュード』
 ハーディの悲劇観は運命論に基づく観念的なものである。ジュードは50年後には自分たちのような存在や考え方が認められているだろうと言うが、ではその間の状況を変えてゆく要因は何か。ハーディは明確にはしていない。ジュードは民衆を発見するが、その民衆は未来を作る(変える)積極的な力をもつ存在として描かれてはいない。
 しかし、ジュードとスーの悲劇的状況はハーディ自身のペシミズムのみから生じたのではない、彼らが突き当たった矛盾が彼らの挫折を避けがたくするほど強力だったからでもある。彼らの突き当たった困難は彼ら個人の問題のレベルを超えていた。因習的な世界の中で自由であろうとすればするほど、彼らは自由を奪われていった。人間は時空を越えて生きることはできない。彼らはヴィクトリア時代の価値観からはみだしていたが、それでも彼らはまぎれもなくヴィクトリア時代に生き、悩み、苦しんでいる時代の子であった。『ジュード』をその多くの欠陥にもかかわらず、根底において支えていたもの、それはジュードとスーに対する作者の共感と彼らを悲劇に追いやった社会への批判的姿勢である。困難な状況に対する彼らの抵抗は敗北に終わったが、彼らが求めたものはまた多くの人々の潜在的願望であり、また彼らの抵抗の姿勢は未来につながっていた。現代の読者が彼らに共感を覚えるのはまさにその点である。
 『日陰者ジュード』の根底にある考え方は、「人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている」(『社会契約論』)というルソー的概念である。人間を縛る鎖は人間が作ったものだと、ルソーは断言した。彼らの足首につながれた鎖は同時代の多くの人びとの足首にもつながれていた。それはまた彼らの先人たちの足を固定していたのであり、現代に至っても完全にははずれていない。しかしジュードたちが気づくよりずっと早くから多くの人びとが自分の足首の鎖に気づき、断ち切ろうと努力し始めていた。今では既にボロボロになった鎖に付いている古い傷のいくつかはスーとジュードが付けたものなのだ。

 

<追記>
 「イギリス小説を読む」シリーズは20年前(まだブログを始める前)に入門者向けに書いた記事です。ブログには『土曜の夜と日曜の朝』まで9本載せていました。しかしフォルダーの奥深くまで分け入って昔書いた記事を探っていたら、『大いなる遺産』と『日陰者ジュード』という大物が2本残っていました。ずいぶん古い記事ですが、何かの役には立つかもしれないと思い掲載することにしました。

イギリス小説を読む⑩『大いなる遺産』

ジェントルマンへの憧れと幻滅 チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』

チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens:1812―1870) 著作年表
Sketches by ‘Boz '(1836) 『ボズの素描集』(国書刊行会)
The Pickwick Papers (1837) 『ピクウィック・クラブ』(ちくま文庫)
Oliver Twist (1838) 『オリヴァー・ツイスト』(ちくま/新潮文庫)
Nicholas Nickleby 1839) 『ニコラス・ニクルビー』(こびあん書房)
The Old Curiosity Shop (1841) 『骨董屋』(ちくま文庫)
Barnaby Rudge (1841) 『バーナビー・ラッジ』(集英社)
A Christmas Carol (1843) 『クリスマス・キャロル』(中編)(新潮文庫)
Martin Chuzzlewit (1849) 『マーティン・チャズルウィット』(ちくま文庫)
Dombey and son (1848) 『ドンビー父子』(こびあん書房)
David Copperfield (1849-50) 『デヴィッド・カパフィールド』(新潮/岩波文庫)
Bleak House (1853) 『荒涼館』(ちくま文庫)
Hard Times (1854) 『ハード・タイムズ』(英宝社)
Little Dorrit (1857) 『リトル・ドリット』(ちくま文庫)
A Tale of Two Cities (1859) 『二都物語』(新潮/岩波文庫)
Great Expectations (1861) 『大いなる遺産』(新潮/角川文庫)
Our Mutual Friend (1864 - 65) 『我らが共通の友』
The Mystery of Edwin Drood (1870)  『エドウィン・ドルードの謎』(創元文庫)

『大いなる遺産』:鍛冶屋とジェントルマン 二つの価値の葛藤
<全体の構成:3部からなる、第1部1~19章、第2部20~39章、第3部40~59章>

[第1段階]
 第1章~第3章にかけての冒頭場面:イギリス文学で最も優れた冒頭場面の一つ。クリスマス・イヴの前の日。教会の墓地や沼地は故郷のチャタムのイメージを書き込む。

・冒頭場面のイメージ
→墓地、水路標、絞首台、海賊、古い砲台、沼地、霧、監獄船、囚人、足かせ、恐怖

 ピップは脱獄した囚人に脅され、食料と足かせを切るためのヤスリを家から盗んでもってくる。囚人は食料を犬のようにむさぼり食う。彼はピップに感謝し、後に捕まった時自分が食料とヤスリを盗んだと言ってピップをかばう。

 ピップは姉のミセス・ジョーとその夫のジョーと暮らしている。ミセス・ジョーは猛烈に厳しい女性で、一方のジョーは鍛冶屋で気は優しいが力持ちタイプの男。

 ピップは大きくなったらジョーの弟子になることになっていた。そんなある日、ピップはミス・ハヴィシャムという変わり者のお金持ちの婦人の話し相手として、彼女の屋敷(サティス荘)へ行くことになる。(7章まで)

・次の8章は第1部の中で最も重要な章。ピップはここで彼の運命を決定的に変えてしまうような経験をする。ミス・ハヴィシャムの家は陰気な家で、窓はすべて締め切ってあった。ここでエステラという、ピップくらいの年齢だが、女王様のように高慢で美しい女性と出会う。ミス・ハヴィシャムは、全身白ずくめの婚礼衣装を着ているが、その白さは既に黄ばんでおり、体も骨と皮ばかりの女性だった。破れたハートをもった貴婦人。ミス・ハヴィシャムはエステラにピップとトランプをするように言う。ピップはさんざん馬鹿にされ屈辱を味わい、泣き出してしまう。

 この章が重要なのは、この苦い屈辱を受けた後、ピップの考えや価値観が根本的に変わってしまうから。彼はそれまでジョーと彼の職業(鍛冶屋)を誇りにし、いずれは自分もジョーのようになるんだと思っていたが、それが今ではすっかり下品で卑しいことのように思えてしまった。ここに『大いなる遺産』の主題である二つの価値をめぐる葛藤が、基本的に示されている。ジェイン・エアもエリザベス・ベネット(ジェーン・オースティン著『高慢と偏見』のヒロイン)もいろいろ迷った末ジェントルマンと結婚したが、ジェントルマンの価値そのものを根本から問うことはしなかった。

 ピップは散々辱めを受けながらも、美しくかつ高慢なエステラにひかれる。彼女の魅力が単にその美しさだけにあったのでないことは、「いやしい労働者の子供」「ざらざらした手」「厚いどた靴」といった表現に端的に示されている。ピップがエステラにひかれたのは、彼女がレディだったからである。ピップは自分がいかに下等であるか思い知らされて、屋敷を去る。ピップの人生に大きな変化を引き起こしたこの日以来、かつて神聖だと思っていた家庭や、独立するための道だと信じていた鍛冶場などは、みな粗野で下等なものになった。

 ピップは幼なじみのビディに、ジェントルマンになりたいと告白する。ビディは今のままの方が幸福だと思わないかと答える。ビディはジョーと並んで、『大いなる遺産』の肯定的価値を体現している人物である。「平凡な商売やかせぎの人物は、平凡な人間とまじわっていたほうが、えらいひとたちのところへ遊びに出かけるよりも、よくはないかな」(9章)というジョーの考え方は、ピップのジェントルマン志向の対局にある。要するに、自分の分を知り、分相応に堅実に生きる方がよいという考え方である。

 ピップはジョーやビディの価値観とエステラの価値観の間で何度も揺れ動く。時にはジョーとの生活こそが自分に幸福を与えてくれると思い、やさしく聡明なビディにひかれることもあるが、手の届かぬエステラへの憧れを忘れることもできなかった。

 ピップは契約を交わしジョーの年季奉公人(弟子)になるが、とてもジョーの職業を好きになれそうもないと思う。しかしピップはだんだん俗物になりながらも、絶えずその一方で、良心の痛みも感じている。もし小さかったころの半分でも鍛冶場が好きだったら、そのほうが自分のためにずっと良かっただろう、それならばビディと結婚したかも知れないと思ったりもする。

 そんなピップに18章で思わぬ転機が訪れる。ジャガーズという弁護士から、ピップが莫大な遺産を相続する見込みがあり(原題の”Great Expectations” は「大いなる遺産相続の見込み」という意味である)、ピップがジェントルマンとして教育されることをその財産の所有者が望んでいると聞かされる。夢にまで見たジェントルマンになれるのである。その遺産の持ち主の名は明かされなかったが、ピップはミス・ハヴィシャムに違いないと思う。ピップがジェントルマンになると聞いて周りの人達の態度がガラリと変わるのがこっけい(ディケンズの作品は基本的にユーモラスでコミカルな文体で書かれている)。19章でピップは「偉大なるものの世界」ロンドンへ向かう。ここで第1段階は終わる。

 →参考資料参照
  ・資料➀ 「ジェントルマン」の概念
  ・資料② 「家庭の天使」の概念

 

[第2段階]
 20章で描かれるロンドンは醜く、奇形で、薄汚い都会である。ジャガーズの事務所の近くにはニューゲート監獄があった。ピップはすっかりロンドンがいやになる。ロンドンに来るなり過去の恐怖(囚人との出会い)がよみがえる。

 弁護士ジャガーズとその書記であるウェミックという人物は、この汚れたロンドンという街に対して独特の対処法をもっている。この二人の人物造形は傑作。

 ピップはマシュー・ポケット氏のもとでジェントルマンとしての教育を受け、その息子のハーバートという青年と一緒に暮らす。ピップはぜいたくを覚え、借金をたくさん作る。ピップのジェントルマン教育の内容はあまりよく描かれていない。ディケンズは上流の生活を良く知らないので、うまく描けなかったとよく言われる。しかしピップがスノッブ(俗物)になって行く過程はよく描けている。

 ジョーがロンドンまで出て来ると手紙で知らされた時、ピップは金で何とかジョーと会うことを断れないかと考える。卑しい身分のジョーと会うのがいやだったのである。ジョーはピップを「サー」と呼び終始堅苦しかったが、ピップはそれが自分のせいだということが分からない。

 ジョーの存在は、今では、ヤスリや監獄、絞首台、脱獄囚などと同じ過去の汚点、ピップの心の古傷であった。これらはしばしば思わぬ所に現れ、過去の汚点と恐怖におびえるピップの心理をうまく描き出している。

 ミス・ハヴィシャムは昔ある男にだまされ、結婚式の当日結婚を破棄するという手紙をもらったことがやがてわかる。それ以来彼女は今のようになってしまったのだ。エステラは男性に対するミス・ハヴィシャムの復讐の道具だった。

 38章で、ミス・ハヴィシャムはエステラがあまりに冷酷なほど無関心なので非難すると、エステラは「このわたしは、あなたがお作りになったままの人間です」とやり返す。ミス・ハヴィシャムは愛情がほしいというが、エステラはあなたからもらっていない物を与えよと言われてもできないと冷たく答える。

・39章は第2部の終わりだが、この章は一つのカタストロフィ(崩壊)の始まりである。第2部で最も重要な章であり、作品全体の中でも極めて重要な章だ。ここでピップのジェントルマンになるという夢は崩壊する。

 ピップが23歳になったある嵐の晩、一人の男がピップを訪ねて来る。しばらく言葉を交わすうちに、彼は自分が食料とヤスリをもって行った例の囚人だということに気づく。さらにもっと大きな衝撃が彼を待っていた。彼こそがあの遺産の贈与者だったのだ!自分をジェントルマンに育てたのは囚人の金だった!失望と屈辱がピップを押し流す。

 囚人の男はオーストラリアに流され、そこで一生懸命働き、一財産作った。そしてこの男はイギリスに戻れば死刑だと知っていながら、昔ピップに受けた恩を返すために戻って来たのだ。しかしそれはピップにとって破滅を意味した。ここで第2段階は終わる。

 

[第3段階]
 ピップはこんな男と一緒にいることに不安を感じた。その男の名前はマグウィッチという。野卑な動作で食べ物をがつがつ食べる姿は、飢えた年寄り犬そっくりだとピップは思う。ジェントルマン教育を受けていたピップを密かに悩ましていた忌まわしい過去の汚点。最も忌み嫌っていたものと自分のジェントルマンの地位が結び付いていたのだ!一体彼はどんなことをしてきたのだろうと怪しみ、ピップはついに彼から逃げ出したいという衝動を覚える。結局ピップは彼をこのままニューゲート監獄の近くに置いておくよりも、何とか外国へ連れ出す方が自分のためにもよいと判断する。そしてその口実を見つけるために、マグウィッチの過去を聞き出そうとする。

 42章はマグウィッチの回想だが、ここは第3部で最も重要な章である。マグウィッチの一生は牢屋に入って牢屋を出、牢屋に入って牢屋を出というものだった。あるものは彼の頭を測ったという(当時悪人であるかないかは、頭の大きさで分かるという考えがあった)。「頭なんかよりわしの胃袋を測りゃよかったんだ。」あるとき彼はコンペイソンという男と知り合う。コンペイソンはパブリック・スクール出で、学問があった。悪知恵の働く男で、口もうまく、顔もこぎれいだった。二人が裁判にかけられた時、その判決は差別的なものだった。

 このようなひどい扱いを受けていた男が、ピップによって初めて親切を受けたのである。このマグウィッチの回想は『大いなる遺産』の中でも極めて印象的かつ重要な部分である。虐げられたものの悲惨な運命が実にリアルに描かれている。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』にはこのような世界は全く枠の外に置かれていた。シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』では少女時代のジェインに対する不当ないじめがリアルに描かれているが、社会の最下層の人間が焦点を当てられることはなかった。ディケンズのほとんどすべての作品に、社会の最下層で生きる人物たちが登場する。最下層の人間の非人間的な実態に芸術的な表現を与えたこと、これこそディケンズが作家として成し遂げた偉大な功績の一つである。しかも、ディケンズはコンペイソンという人物を配することによって、ここでも階級の問題を取り入れている。また、後にミス・ハヴィシャムをだました男とは、このコンペイソンだということが明らかになる。

 この告白の後マグウィッチに対するピップの意識は決定的に変わってしまう。今では心から彼のためを思って、彼を安全に海外へ逃がそうと考える。残念ながら、この後の部分はストーリーの展開(いかにマグウィッチを逃がすか)が中心になり、それまでの部分の力強さが必ずしも維持できていない。だが、ピップがマグウィッチに信頼を感じて行く過程は全体のテーマとも関連して重要である。

<この後の部分の主な内容>
・ミス・ハヴィシャムはあやまって服に火がつき火傷をして、それが原因で死んでしまう。
・第3部のクライマックスは54章、ピップたちが川を下って船にマグウィッチを乗せて海外へ逃がそうとする場面。しかし寸前のところでコンペイソンと警察が現れ、ボートは汽船と衝突してしまう。マグウィッチは大ケガをし、逮捕される。脱出に失敗したマグウィッチのとなりに腰掛けたピップはそこに恐ろしい囚人とは全く別の人間を見いだす。
・マグウィッチは死刑の判決を受けるが、死刑になる前に死ぬ。死に際にピップは “Dear Magwitch”と呼びかけた。
・マグウィッチの財産は没収された。ピップは故郷に帰ってビディと結婚しようと思うが、帰ってみると何とその日はビディとジョーの結婚式の日だった(ジョーの前妻であるピップの姉はすでに亡くなっていた)。ピップは鍛冶場を去り、イギリスを去る。
・ハーバートの会社に勤め、何年か後に彼の共同経営者になった。11年ぶりにジョーの家に行くとピップそっくりの男の子がいた。ピップはまだ独身である。その夜ピップはサティス荘へ行って、偶然エステラと出会う。彼女は不幸な結婚をしたが、2年前に夫が死んでいた。二人はいつまでも友達でいることを約束して一緒に屋敷を出る。

 

資料➀ 階級社会/ジェントルマン/ジェントリー
 村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』(ミネルヴァ書房:1980年)より

ジェントルマンとは、...第一義的に、イギリスに特有な有閑階級のことなのであって、19世紀の前半には、ジェントルマン、ノン・ジェントルマンの区別は、なおすぐれて支配、被支配の区別に対応するものであった。だが、ジェントルマンをジェントルマンたらしめるのは、支配という要素だけではない。おそらくより重要であったのはジェントルマンの教養で、この点でパブリック・スクールとオックスブリッジが大きな意味をもつ。(p.127)
 ジェントルマンになるためには、...ジェントリ=地主になるか、ジェントルマン教育コースに学ぶか(そしてその後、たいていはジェントルマンのプロフェッションにつく)のいずれかしか道はなかったことになる。ところが幸い、16世紀以来のイギリス社会は「開かれた貴族制」で、ここから中流階級のジェントリ=地主ないしジェントルマンをめざす社会移動の問題が生まれた。そしてこの問題が、なかんずく大きな史的意義を持ったのは、19世紀、わけてもジェントルマン化意識が、いうなれば大量現象として、中流階級のエートス[時代風潮]と化した19世紀中葉においてであった。(p.131)

※ジェントルマンに含まれるのは、貴族、ジェントリは言うまでもなく、国教会聖職者、法廷弁護士、内科医、上級 官吏、陸海軍士官などのプロフェッションにつくものである。

資料② 家庭の天使
 川本静子「清く正しく優しく--手引き書の中の<家庭の天使>像」
『英国文化の世紀3 女王陛下の時代』(研究社出版、1996年)所収

 ヴィクトリア時代の理想の女性像。良妻賢母の理想像の背後には、言うまでもなく、男は公領域(=職場)、女は私領域(=家庭)という性別分業がある。工業化の進展が家庭と職場の完全な分離をもたらしたなかで、男には生活の糧を得るために家の外で経済活動に従事することが、女には良き妻、賢い母として家庭を安らぎの場とすることが、それぞれ期待されていたのだ。つまり、家庭は激烈な生存競争の場たる職場からの避難所、安らぎと憩いの聖域として位置づけられ、女はそこで生存競争の闘いに傷ついて戻る男を迎え、その傷を癒し、男の魂を清める天使の役割を割りふられていたのである。ということは、男性領域たる職場と女性領域たる家庭が相携えて産業資本に基づく社会の歯車を円滑に回転させていたということであろう。<家庭の天使>とは、端的に言って、イギリス産業資本がその支配権確立の一環として制度化した「理想の女性」にほかならないのである。

 

<関連記事>
「オリバー・ツイスト」(2005) ロマン・ポランスキー監督

2020年8月13日 (木)

梁石日『血と骨』と映画版「血と骨」

 このところ家にいる時間が増えたせいで、ブログの更新頻度もぐっと上がってきています。かといって本格的な映画レビューを書くにはまだ早い。とてつもない集中力がいるので、そこまで復帰するにはまだまだ時間がかかるでしょう。そこで比較的楽なリストをあれこれ掲載して間を持たせているわけです。何かまだ使ってないネタはないかとパソコンのファイルや日記(フリーソフトの「そら日記」)や本棚を点検してみるといろいろ出てきます。例えば昔買った映画のパンフレット。と言っても個々の映画のパンフではなく、いろんな特集上映のパンフなどは情報満載です。中でも資料的価値が高いのは京橋のフィルムセンター(今は国立映画アーカイブという名称に替わったらしい)の特集パンフです。例えば「韓国映画――栄光の1960年代」なんてパンフが出てきて、こんなものいつ買ったんだと仰天しました。ざっと見ただけでもすごい資料がゴロゴロある。まさに宝の山。いずれじっくり目を通して、何らかの形でブログに反映したいと思っています。

 と言うことで、今回はだいぶ前に書いた文章ですが「血と骨」を掲載します。映画版についてはとっくに本ブログに掲載してあったつもりでしたが、いくら探してもない。そこで原作本の書評と映画版の短いレビューを併せて掲載します。以前『飢餓海峡』でやったのと同じやり方です。例によって長い文章で申し訳ありませんが、ツイッターのような短い文で一つの作品を論じきれるはずはないと思いますので、今後も時代に逆らって長い文章(リスト)を掲載してゆくつもりです。

 

梁石日著『血と骨』(幻冬舎文庫)
 『血と骨』を読み出したらむさぼるように読み耽った。下巻は2日間で読んでしまった。それほど面白かった。主人公金俊平のすさまじい存在感が圧倒的だ。妻の英姫のしたたかな存在感もかなりのもので、上巻はむしろ彼女の方が主人公だった気さえする。自己中心で家族のことなど一切顧みない俊平と、自分と子どもたちを何とか彼の暴力から守ろうとする英姫の関係が上巻のテーマだ。しかし下巻では俊平と英姫の関係は完全に断ち切れて、新しい妾が2人も現れる。そしてテーマは息子の成漢との親子の対立に移る。金俊平も最後は哀れである。さすがの彼も年には勝てない。突然歯が抜けて総入れ歯になり、老眼鏡をかけるようになる。ついに脳梗塞で下半身が麻痺してしまう。動けない金俊平はもう脅威ではない。愛人の定子に金を奪われ、散々殴られてもどうすることも出来ない。ついには北朝鮮に帰り3年後に死ぬ。

 日本文学にこれほど強烈な存在感を持った主人公がいただろうか。いや世界中を探してもいなかったように思う。ここまで徹底して自己中心的に人はなれない。しかもそれに暴力が加わると強烈だ。解説によると日本の純文学の世界ではほとんど話題にならなかったようだが、純文学の世界の狭さが逆にそのことから浮き彫りになる。(注)またその解説も的外れだと感じた。オイディプスを例に取り運命論を論じるが、金俊平に運命論は当てはめることは無理だ。英姫やその子どもたちは確かに俊平との出会いや血のつながりに運命を感じているが(英姫はいつもこれも運命だと自分に言い聞かせていた)、金俊平の自己中心性と暴力性は運命論とは関係ない。彼に運命があるとしたら、どんなに頑丈な人間も最後には老いて衰えてゆくということだが、それも当たり前のことであって運命論などと言うほどのことではない。彼の超絶性も論じているが、確かにそれはある。彼の際立った存在感は彼の人並みはずれた膂力と暴力性から来ている。しかしこの作品は徹底してリアリズムで書かれており、彼の人物形象に何らかの象徴性や観念を読み込むことは危険である。ただ乱暴で強いだけの主人公なら他にもたくさんいる。だが金俊平が際立っているのは家族に対する冷酷なまでの冷たい対応である。世間の常識を歯牙にもかけないその反社会性こそ彼の真骨頂である。最後まで金にしがみつき、他人を信用しない。子どもの学費すら出し渋る。怪物と呼ばれるゆえんだ。

 しかしそんな彼にも跡継ぎの男児をほしがるという気持ちはある。ひたすら男児にこだわる。もっとも、生まれたらすぐ関心を失ってしまうのだが。祖国が分断されたことにさえ関心を示さない男で、世間の常識というものからはおよそへだたった考え方をする彼にも、唯一世間が理解できるこだわりがあったのだ。だが、自分の跡継ぎを望むというのも、実は自己保存本能から発しているのではないか。死ぬまでは自分の金は決して手放さないが、死んだ後は男児に残す。そんな考えがあったのではないか。『血と骨』というタイトルもここからきている。「血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ」という朝鮮の巫女の歌から取られている言葉だ。だが、いくら妻や子どもを虐待しても血のつながりだけは断ち切れなかったという意味ではないだろう。俊平は愛情表現が下手なだけで、本当は子どもを愛しているということではない。「血と骨」は家父長制を象徴する言葉だが、反社会的な俊平でも家父長制的な血のつながり、いや、骨のつながりだけはさすがに重んじていたということではないだろう。物語の展開からはむしろ息子さえ自分の財産の一つだと彼は考えていたという方が当たっている気がする。どこまでも自己中心的な男なのだ。病気で足が立たなくなって哀れな状態になったときでも、泣き言は言うが、決して妻や子どもたちもこういう思いをしていたんだと思い至ることはない。家長たる自分を世話するのは当然なのに、誰も見向きもしないのはけしからんと思うばかりだ。

 彼とても完全に世間から隔絶しているわけではない。子どもを学校に行かせようとする。学費は出し渋るが。高信義とはなんとか友人関係を保っている。警察には抵抗しない。何よりも日本人には手を出さない。妾にした日本人には暴力を振るうが、それ以外の日本人には手を出さない。所詮、彼の力が及ぶ範囲は在日朝鮮人の間だけである。あちこちを放浪していた時期もあるが、基本的には在日朝鮮人社会の範囲の中で生きてきた。作者も世界大恐慌や第二次世界大戦などの歴史的大事件も、わずかに言及するだけであっさり通り過ぎてしまう。日本がどんなに揺れ動き変化しても、朝鮮人社会は昔と少しも変わらないのだ。ただ大人は老いてゆき、子どもがいつの間にか大人になってゆくだけである。街並に何の変化もなく、ただ古びて行くだけなのだ。作者は意識して年代を明記していない。世界大恐慌や第二次世界大戦などの言及で物語が1929年の世界大恐慌の少し前に始まり、70年代後半ごろに幕を閉じると大まかに推測できるだけである。そうしたのは俊平の意識に合わせているからだ。彼は字が読めないので新聞も読めない。世間の動きなどはほとんど知らない。ただ金儲けには敏感で勘が働き、戦後の混乱期に蒲鉾工場を立ち上げて大もうけする。金とセックス。彼は欲望に徹底して貪欲な人間だったのだ。

(注)
 昔はともかく、2000年前後から現在までに限ってみると、「芥川賞」を受賞した作品よりも「直木賞」受賞作品の方がはるかに面白い。もはや純文学などというものはごく限られた人たちだけが仲間内だけで楽しんでいる「オタク」の世界になってしまったと言って良いのではないか。読んでもいないのに批判するのもなんだが(何せ到底読む気になれないので)、名前も覚えないうちにほとんど消えて行っているように思うのは気のせいか?ごく一部生き残っている人は、おそらくもう「純文学」の世界からはみ出ている人たちではないか。直木賞の大衆作家よりも芥川賞の純文学作家の方が上だという苔が生えたような意識がいまだにあるが、これは全くの幻想だと断言したい。むしろ逆転しているというのが実感だ。現実世界から隔絶した世界に逃げ込み、頭の中ででひねり出した絵空事の世界。中上健次のような人はもうこの領域からは出てこないだろう。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「血と骨」(2004)  崔洋一監督
  出演: ビートたけし、鈴木京香、新井浩文、田畑智子、松重豊、オダギリジョー
     中村優子、唯野未歩子、濱田マリ、柏原収史、塩見三省、北村一輝、國村隼

 原作を先に読んでいるので、映画版はどうしても原作と比較してしまう。当然物足りない。なにより金俊平の超人的強靭さ、悪魔的凶暴さが出ていない。金俊平は2m近い大男である。ビートたけしはがっちりしてはいるが大男ではない。まあそれは仕方がない。そんな男捜して見つかるものでもない。たけしも頑張ってはいるが、何せ原作の主人公は他に類例を見ない怪物である。ヤクザさえも避けて通るという、そこにいるだけでぞっとする人物を生身の人間ではあらわせない。

 金俊平は原作者梁石日の実の父がモデルで、実際相当乱暴で家族のことなど歯牙にもかけない男だったようだ。小説ではその実父をさらにフィクションとして膨らませ、非人間的な怪物に仕立て上げている。体躯も凶暴性も拡大させている。それゆえ金俊平そのものの存在感が原作全体を通じて圧倒的に読者に迫ってくる。博打に明け暮れ、性欲が旺盛で、酒を飲んでは大暴れして家族に暴力を振るい、物を破壊する。何が彼をそうさせるのか。小説はそれを深く追求はしない。とにかくそういう男なのだ。金に目がなく、貸した金は脅してでも取り立てる。一方で必要な金でも出し渋る。徹底的に自己中心的で、己の欲望のままに振舞った男。それが金俊平だ。映画では朝鮮から日本に向かう船に乗っていた若いときの金俊平は紅顔の美青年になっている。俊平が再び北朝鮮に戻って死ぬ直前にまたその船の場面が出てくる。何がこの青年をこんな怪物に変えてしまったのかと問いかけているようだが、原作では若いときからとんでもない男だったのである。映画でも息子(オダギリジョー)が突然出現するが、朝鮮にいたとき既に息子を作っていたのだ。小説だからこそ描きえたこの怪物、それを映画で再現すること自体無理なのだ。

 映画ではどうしても演出効果を狙って乱暴なセックスや大喧嘩の場面をクローズアップするが、原作では暴力やセックス自体に(すさまじい描き方はされているが)焦点が当てられているわけではない。そうしてまで己の財産を守ろう、欲望を満たそうとするすさまじいまでの彼の執念、彼の内面から湧き出てくる抑えがたい黒い欲望にこそ焦点があてられている。文盲で字の読めない金俊平は時代の移り変わりなどまったく気にかけない。戦争も帰国問題もただ彼の上を通り過ぎてゆくだけだ。にもかかわらず金儲けにだけは異常に勘が働く。「血と骨」は徹頭徹尾自己保存本能と自己の欲望に従って生きた男の研究なのである。映画に描かれたのはただの暴力的でセックス狂いの男に過ぎない。

 もう一つ大きな不満は鈴木京香演じる妻の李英姫がまったく添え物にしかなっていないことだ。原作では前半の主人公はむしろ彼女だった。自分と子どもたちを何とか俊平の暴力から守りぬく英姫のしたたかな存在感は俊平に劣らず圧倒的だった。しかし映画ではほとんど脇役になっていた。彼女の演技をほめる人が多いが、どこを見てそう思うのかまったく理解しがたい。さらにもう一人原作者がモデルの正雄(新井浩文)の存在感がない。もっといい俳優はいなかったのか。「血と骨」というタイトルの持つ意味合いもほとんど追求されていない。

 まあ、ないものねだりをすればきりがない。映画化作品の場合原作のかなりの部分を切り捨てなければならない。原作との比較はやめて、純粋に映画としてみればかなり健闘した方だろう。当時の朝鮮人町の町並みや雰囲気は見事に再現されている。実物を知っているわけではないが、おそらくこんな感じだったろうと思わせるものはある。原作以上に韓国語が頻繁に使われている。実際はそうだったのだろう。小説の場合日本語で書かれているので韓国語は限定して使われている。美術部の努力は称賛していい。

 たけしも確かに熱演している。原作の主人公には及ばないものの(繰り返すがそもそも無理なのだ)映画に出てくる人物の中では際立った存在感がある。他の役者もそれなりにうまく演じているが、たけしと比べると陰が薄い。むしろこの映画の中でたけしと並んで存在感があったのは近所の無名の人たちだ。見事に再現された町並みもそこに住んでいる人たちがいなければただの物体だ。町には人があふれ、子供たちが走り回り、母親たちがあちこちで洗濯をしたり立ち話をしており、買い物籠を持った女性が忙しく通り過ぎてゆく。そこには生活があったのである。

 

2006年8月24日 (木)

イギリス小説を読む⑨ 『土曜の夜と日曜の朝』

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】 _
Alan Sillitoe(1928-  )
1 Saturday Night and Sunday Morning(1958)
 『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
2 Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
 『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)
3 The General(1960)            
 『将軍』(早川書房)
4 Key to the Door(1961)         
 『ドアの鍵』(集英社文庫)
5 The Ragman's Daughter(1963)      
 『屑屋の娘』(集英社文庫)
6 The Death of William Posters(1965)  
 『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
7 A Tree on Fire(1967)         
 『燃える木』(集英社)
8 Guzman Go Home(1968)         
 『グスマン帰れ』(集英社文庫)
9 A Start in Life(1970)
 『華麗なる門出』(集英社)
10 Travels in Nihilon(1971)
 『ニヒロンへの旅』(講談社)
11 Raw Marerial(1972)
 『素材』(集英社)
12 Men Women and Children(1973)
 『ノッティンガム物語』(集英社文庫)
13 The Flame of Life(1974)
 『見えない炎』(集英社)
14 The Second Chance and Other Stories(1981)
 『悪魔の暦』(集英社)
15 Out of the Whirlpool(1987)
 『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。「ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
 アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

 シリトーは旋盤工の息子。D.H.ロレンスも同じノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子とCut_bmgear04 恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

 『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

 作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

 アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

 アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

 アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにIsu4 はアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。

  彼の反抗は反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だと批評家たちからよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

 そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーという人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民の、したたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

 面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。

イギリス小説を読む⑧ イギリスとファンタジーの伝統

(1)イギリス児童文学におけるファンタジーの系譜
W.M.サッカレー William Makepeace Thackeray(1811-63)
  『バラと指輪』The Rose and the Ring(1855)
チャールズ・ディケンズ Charles Dickens(1812-70)
  『クリスマス・キャロル』A Christmas Carol (1843)
ジョン・ラスキン John Ruskin(1819-1900)
  『黄金の川の王様』The King of. the Golden River or the Black Brothers(1851)
チャ-ルズ・キングズリ Charles Kingsley(1819-75)
  『水の子たち』The Water-Babies(1863)
トマス・ヒューズ Thomas Hughes(1822-96)
  『トム・ブラウンの学校生活』(1857)
ジョージ・マクドナルド George MacDonald(1824-1905)
  『ファンタステス』Phantastes; A Faerie Romance for Men and  women(1858)
  『北風のうしろの国』At the Back of the North Wind (1871)
  『リリス』Lilith (1895)   
  『黄金の鍵』The Golden Key (1871)
  『ファンタステス』 Phantastes (1858)
ルイス・キャロル Lewis Carroll(1832-98)
  『不思議の国のアリス』Alice's Adventures in Wonderland (1865)   
  『鏡の国のアリス』Through the Looking-Glass (1871)
フランシス・E・H・バーネット  Frances Eliza Hodgson Burnett(1849-1924)
  『秘密の花園』The Secret Garden(1909)
ロバート・L・スティーヴンソン  Robert L. Stevenson(1850-94)    
  『宝島』Treasure Island(1883)
オスカー・ワイルド Oscar Wilde(1854-1900)
  『幸福な王子』Happy Prince and Other Stories(1888)
ケネス・グレーアム  Kenneth Grahame(1859-1932)
  『たのしい川べ』The Wind in the Willows(1908)Artosiro150bbb
ジェームズ・バリー  James M.Barrie(1860-1937)
  『ピーター・パン』 Peter Pan in Ksensington Gardens(1906)
ラドヤード・キップリング Rudyard Kipling(1865-1936)
  『ジャングル・ブック』The Jungle Book(1894)
ビアトリクス・ポター  Beatrix Potter(1866-1943)
  『ピーター・ラビットのおはなし』(1901)
エリナー・ファージョン Eleanor Farjeon(1881-1965)
  『銀のシギ』The silver curlew(1953)
  『本たちの小部屋』The Little Bookroom(1955)
  『リンゴ畑のマーティン・ピピン』 Martin Pippin in the apple orchard
  『ムギと王さま』
  『ガラスのくつ』
A・A・ミルン  A.A.Milne(1882-1924)
  『熊のプーさん』Winnie-the-Pooh(1926)
ヒュー・ロフティング(1886-1947)
  『ドリトル先生物語』シリーズ
J・R・R・トールキン  J. R. R. Tolkien(1892-1973)
  『ホビットの冒険』The Hobbit(1949)
  『指輪物語』
       『旅の仲間』The Fellowship of the Ring(1954)
       『二つの塔』The Two Towers(1855)
       『王の帰還』The Return of the King(1955)
ルーシー・ボストン Lucy Boston(1892-1990)
  『グリーン・ノウの子どもたち』The Children of Green Knowe
  『グリーン・ノウの川』The River at Green Knowe
  『グリーン・ノウのお客さま』A Stranger at Green Knowe
C・S・ルイス  C.S. Lewis(1898-1963)
  「ナルニア国ものがたり」シリーズ(7巻)
    『ライオンと魔女』The Lion, the Witch and the Wardrobe(1950)
   『カスピアン王子のつのぶえ』Prince Caspian(1951)
メアリー・ノートン  Mary Norton(1903-1992)
  『床下の小人たち』The borrowers(1952)
  『野に出た小人たち』The Borrowers Afield(1955)
パメラ・L・トラヴァース  Pamela L. Travers(1906-  )
  『風にのってきたメアリー・ポピンズ』Mary Poppins(1934)
ジョーン・G・ロビンソン Joan Gale Robinson(1910-88)
  『思い出のマーニー』 When Marnie Was There(1967)
キャサリン・ストー Catherine Storr(1913-  )
  『マリアンヌの夢』 Marianne Dreams(1958)
ロアルド・ダール  Roald Dahl(1916-90)
  『魔女がいっぱい』
  『チョコレート工場の秘密』(1964)
メアリー・スチュアート Mary Stewart(1916-2014)
  『小さな魔法のほうき』The Little Broomstick(1971)
フィリッパ・ピアス  A. Philippa Pearce(1920-  )
  『トムは真夜中の庭で』Tom's Midnight Garden(1958)
  『真夜中のパーティ』What the Neighbours Did and Other Stories(1959-72)
  『まぼろしの小さい犬』A Dog So Small(1962)
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ Diana Wynne Jones(1934-)
  『トニーノの歌う魔法』The Magicians of Caprona(1980)
  『9年目の魔法』Fire and Hemlock(1984)
  『魔法使いハウルと火の悪魔』Howl's Moving Castle(1986)
  『クリストファーの魔法の旅』The Lives of Christopher Chant(1988)
  『アブダラと空飛ぶ絨毯』Castle in the Air(1990)
アラン・ガーナー Alan Garner(1935-  )Mjyokabe3_1
  『ゴムラスの月』The Moon of Gomrath(1963)
アンジェラ・カーター Angela Carter(1940-92)
  『魔法の玩具店』The Magic Toyshop(1967)
  『ラヴ』Love(1971)
  『血染めの部屋』The Bloody Chamber(1979)
  『夜ごとのサーカス』Nights at the Circus(1984)
  『ワイズ・チルドレン』Wise Children(1991)
フィリップ・プルマン(1946-)
  『黄金の羅針盤』Noethern Lights/The Golden Compass(1965)
   『神秘の短剣』 The Subtle Knife(1997)    
  『琥珀の望遠鏡』The Amber Spyglass(2000)
J・K・ローリング  J.K.Rowling
  『ハリー・ポッターと賢者の石』Harry Potter and the Philosopher's Stone(1997)
  『ハリー・ポッターと秘密の部屋』Harry Potter and the Chamber of Secrets    
  『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』Harry Potter and the Prizoner of Azkaban    
  『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』Harry Potter and the Goblet of Fire(2000)
  『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』Harry Potter and the Order of the Phoenix
  『ハリー・ポッターと謎のプリンス』Harry Potter and the Half-Blood Prince(2005)
  『ハリー・ポッターと死の秘宝』Harry Potter and the Deathly Hallows (2007)
デボラ・インストール Deborah Install
  『ロボット・イン・ザ・ガーデン』A Robot in the Garden(2015)

(2)リアリズム系列の児童文学作家たち
イディス・ネズビット(1858-1924)
  『砂の妖精』Five Children and It(1902)
アーサー・ランサムArthur Ramssome(1884-1967)
  『ツバメ号とアマゾン号』Swallows and Amazons(1930)
  『ツバメの谷』
  『ヤマネコ号の冒険』
  『長い冬休み』Winter Holiday(1933)
ローズマリー・サトクリフ Rosemary Sutcliff(1920-92)
  『太陽の騎士』Worrior Scarlet(1958)
  『ともしびをかかげて』The Lantern Bearers(1959)
  『第9軍団の鷲』
  『銀の枝』The Silver Branch(1957)
  『王のしるし』The Mark of the Horse Lord(1965)
  『ケルトの白馬』
  『アーサー王と円卓の騎士』The Sword and the Circle(1981)
  『アーサー王と聖杯の物語』The Light Beyond the Forest(1979)
  『アーサー王最後の戦い』The Road to Camlann(1981)
ジョン・ロウ・タウンゼンド John Rowe Townsend(1922-  )
  『ぼくらのジャングル街』The Gumble's Yard(1961)
  『アーノルドのはげしい夏』The Intruder(1969)
ウィリアム・メイン William Mayne(1928-  )
  『砂』Sand(1964)
  『地に消える少年鼓手』Earthfasts(1966)
キャスリーン・ペイトン Kathleen M. Peyton(1929-  )
  『愛の旅だち』Flambards(1967)
  『雲のはて』The Edge of the Cloud(1969)
  『めぐりくる夏』Flambards in summer(1969)

 

(3)イギリスとファンタジー

【1 イギリス児童文学におけるファンタジーの系譜】
 →上記作品リスト参照

【2 なぜイギリスはファンタジー大国になったのか】
 「イギリスの『ナンセンス』は...「不思議の国のアリス」やリアの詩や多くのナーサリー・ライムを生んだもので、イギリスの子どもに贈られた宝物である。この宝物によって本を読むイギリスの子どもには、どこの国の子どもも知らないようなまったく独特の世界がひらかれている。いまではくまのプーさん、ピーターラビット、ピーター・パン、ドリトル先生、メアリー・ポピンズなど、多くの人物がこの領域に集まっている。そしてほかのいかなる国も、これに匹敵するものを持ちあわせていない。」
ベッティーナ・ヒューリマン『ヨーロッパの子どもの本』(ちくま学芸文庫、1993)より

1 イギリスの児童文学の源流(1) 伝説、ナーサリー・ライム
・イギリスの伝説:ロビン・フッド、アーサー王伝説
 →昔のイギリスの蒸気機関車にはアーサー王ゆかりの人物の名前がつけられていた。
  「サー・ランスロット号」「サー・パーシヴァル号」「サー・ケイ号」「アーサー王号」etc.
・ナーサリー・ライム(童謡):マザー・グース

2 イギリスの児童文学の源流(2) 昔話、フェアリー・テイル
・ファンタジーはフェアリー・テイルから生まれ、フェアリー・テイルは昔話から生まれた。
・昔話、口承物語、おとぎ話、言い伝え、伝承、伝説
  →本来は子供のためのものではないが、もっぱら子供が読むものになった。
  →教訓が含まれているから
・昔話の収集:グリム兄弟
 昔話の創作:アンデルセン

3 子供の本の創作
・最初の子供向け創作童話
 →ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)とジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726) はイギリスで最初に書かれた小説だが、刊行後すぐに子供向けに書き直されたものが出回り、人気を博した。
・『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』が子供の本になったとき、前者の宗教に関する部分、後者の風刺的な面が大幅に削られた。
 →島に漂流したロビンソンが難破船から引き揚げてきた物品の中で一番重要だったものは、聖書とそこに書かれていた聖句だった。「苦難の日に私に呼びかけなさい。そうすれば私はあなたを救い、あなたは私をたたえるだろう」。それくらい宗教的要素は重要であったが、児童向けの本に改作された際、『ロビンソン・クルーソー』から神の摂理に対するキリスト教的信仰などの表現や聖書からの引用が大部分削られてしまった。
 →『ガリヴァー旅行記』の狙いはイギリスとその時代のイギリスの政治を風刺することにあった。しかしそういう政治的部分はそぎ取られ、小人の国や巨人の国への冒険物語にされてしまった。なお、ガリバーは他にラピュタと、猿のように退化した人間ヤフーをフウイヌムという知的な馬が支配する国にもわたっている。ラピュタは極東にあり、近くの日本にも立ち寄っている。ガリバーは日本で「踏絵」を迫られるが断固拒否する。
・物語から教訓臭さを取り除く 創作童話の発展
 →大人向けの要素が削られ、単なる冒険物語になったとき子供の本になった。その時、リアリスティックな冒険と夢の物語、空想的な冒険物語が生まれた。
 →わくわくする面白い物語を読むという読書本来の楽しさ

4 子供の発見
・子供は17世紀に「発見」された。
・フィリッペ・アリエス「<子供>の誕生」(1960)
 →17世紀以降、人々の年齢意識や発達段階への関心が高まり、その結果、子供が大人とは違う存在であることに大人たちが気づくようになった。
 →「子供はその純真さ、優しさ、ひょうきんさのゆえに、大人にとって楽しさとくつろぎの源、いわば「愛らしさ」と呼び慣わされているようなものになっているのである。」
 →学校の発達、家庭の変化、子供の死亡率の低下
 
5 妖精
・妖精:別世界の超自然的な存在
 →トールキン:妖精物語=妖精についての物語ではなく、妖精の国についての物語
すぐ身近にある世界、恐れと驚きを覚えさせる国、驚異の異世界
・妖精は美しいどころかむしろ奇怪である。むしろ日本の妖怪、水木しげるの世界に近い。
 →『妖精 Who’s Who』や『妖精辞典』に載っている妖精のほとんどは妖怪のような姿
 →「ロード・オブ・ザ・リング」でエルフは人間よりも美しい存在として出てくるが、「ハリー・ポッター」シリーズに登場するハウスエルフのドビーは「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムに近い醜い姿をしている。
  「ハリー・ポッター」シリーズに出てくるトロルは怪物のような姿の巨人だが、ムーミンのように可愛らしいトロルもいる。
 →クリント・イーストウッド監督の映画に「チェンジリング」という作品がある。タイトルの“チェンジリング(取り替え子)”とはアイルランドの民話によく出てくる妖精の名前である。チェンジリングはさらわれた人間の赤ん坊の身代りに置いてゆかれる妖精であり、皺くちゃで不気味な姿であるとされている。

6 ファンタジーの出現
・『不思議の国のアリス』:純粋に楽しみを目的にした最初の物語
 →教訓の排除、想像力の解放、ナンセンスの発見
 →最初から子供の読者を想定した、いわゆる児童文学が成立したのは『不思議の国のアリス』の誕生以降である。多数の児童文学が書かれ始めるのは20世紀に入ってからである。
・G.K.チェスタートン
 →異端と思っていたものこそが正統である
 →おとぎ話は「完全に道理に敵っているもの」で、最も現実離れしていて、空想的なものがむしろ現実的なものだ。
 →正統の世界に立ち返るためには、不合理を捨て去り、人類の歴史の黎明期に存在し、子どものころには誰もが持っていた「驚嘆の感性」をよみがえらせる必要がある。(『正統とは何か』)
・トールキン
フェアリー・ストーリーは現実生活で起こってほしいことを扱う。そのほしいという望みを満たしたときフェアリー・ストーリーは成功したことになる。
 →an unsatisfied desireという表現は、C.S.ルイスも使っている。
  →人間は魚のように自由に深海を泳ぐことができない。鳥のようにかろやかに大空を飛行できない。人間以外の生き物と自由に話すことができない。限界があるからかえってそれを越えたいという願望をつのらせる。
・妖精の国のリアリティ、現在に出発点をもつ現代のファンタジー

7 なぜファンタジーはイギリスで圧倒的に多く産まれたのか
・妖精が身近な存在だった。ケルトの伝統が息づいている。
 →ファンタジーの源泉はケルト民族の豊かな想像力(幻想性が強い)
 →『指輪物語』:ドワーフ、エルフ、トロル、大男、ゴブリン、竜
創作はホビットとゴラムだけ  →ホビットは人間(ホモ)とウサギ(ラビット)の合成語
 →アイルランドのナショナル・シンボル4つのうち2つが妖精である。日本でいえば、河童と天狗が富士山や桜と並んでいるようなもの。
  ①植物のシャムロック、②楽器の竪琴、③バンシー、④レプラコーン
 →アイルランドには有名なファンタジー作家は少ないが、民話の宝庫である。
 →ウェールズには中世物語集『マビノギ』Mabinogiがある。 アーサー王に関しては5編を収録
 →ファンタジーの最大の源泉である伝承の昔話が聞かれるのはほとんどゲール語である。
    ダブリンのユニヴァーシティ・カレッジの民俗学研究所(伝承物語の記録採集)
    エジンバラ大学のスコットランド研究所(伝承物語の研究)
・スコットランドやアイルランドの風土や地理的特性 →薄明のケルトの妖域
どこから妖精が出てきてもおかしくない、さながらおとぎの国に踏み込んだような光景が多くある。また、高緯度で冬は夜が非常に長い。
→グリムには妖精は登場しない。アメリカの乾いた土地にも妖精は住めない。イギリス以外の児童文学やファンタジーで妖精が登場するものは少ない(魔女や魔法使いはよく出てくるが)。
  ローラ・インガルス・ワイルダー『大草原の小さな家』シリーズ(アメリカ)
  ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(1900(アメリカ)
  アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズ(アメリカ)
  アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』(1943) (フランス)
  ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』(1979)(ドイツ)
  トーベ・ヤンソン『ムーミン・シリーズ』(フィンランド) *ムーミンはトロルである
  アストリッド・リンドグレーン『長くつ下のピッピ』(スウェーデン)

8 ケルト人とイギリス
・ケルト人とは中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語派の民族である。
・ブリテン島のスコットランド、ウェールズ、コーンウォールそしてアイルランド、フランスのブルターニュ地方などにその民族と言語が現存している。
・ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器を持つケルト戦士集団によって征服されたとされるが、新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会が展開していた。
・西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマの支配を受け、この地方のケルト人はローマ化する。5世紀にゲルマン人がガリアに侵入すると、ローマ帝国はブリタニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入した。
・同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロ・サクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域である。
・当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。 初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。
・後にギリシア語やラテン語を参照にして、ケルト人独自のオーガム文字が生まれた。しかし後世に、ケルト人がキリスト教化すると、これはラテン文字に取って代わられた。
・キリスト教化したあとも、ケルト人独特の文化はまったく消滅したわけではない。現代でもウェールズやスコットランドやアイルランドには、イングランドとは異なる独自の文化がいくらか残っている。

<参考文献>
W.B.イェイツ『ケルトの薄明』(ちくま文庫)
W.B.イェイツ編『ケルト妖精物語』(ちくま文庫)
キャサリン・ブリッグズ『妖精 Who’s Who』(ちくま文庫)
      〃    『妖精辞典』(冨山房)
井村君江『妖精学入門』(講談社現代新書)
  〃 『ケルトの神話』(ちくま文庫)
J・R・R・トールキン『妖精物語について』(評論社)

(4)おまけ:J.R.R. トールキンの『ホビット』
 『ホビット』の初版がイギリスで出版されたのは1937年のことである。若干の改定を加えた第2版がイギリスで出たのが1951年である。その続編という位置付けの『指輪物語』がイギリスで出たのが1954年から55にかけてである。『指輪物語』は日本でも大評判になったので知っている人も多いだろう。今年映画化作品も日本で公開されることになっている。『ホビット』の翻訳は岩波書店から出ていたが、1997年に原書房から「完全版」と銘打って新訳が出た。資料満載の豪華版である。特に各国の翻訳につけられた挿絵がふんだんに取り入れられているのがうれしい。

 物語は、ホビットのビルボ・バギンズが、ドワーフたちや魔法使いのガンダルフと繰り広げるさまざまな冒険を描いている。ホビットとは「背丈は低く人間の半分ぐらい、髭をはやした矮人(ドワーフ)よりも小柄です。髭はなく、とくにかわった魔法がつかえるというわけでもHalloween2 ありません。せいぜいが、すばやく目立たずに姿を消すことができるぐらいのものですが、こんなありふれた魔法でもけっこう役には立ちます。...ホビットの腹はだいたいつき出ています。はでな原色の洋服(たいてい緑か黄)を身にまとっていますが、靴をはくことはない。なぜなら生まれつき足の裏がなめし皮のように固くなっており、(巻き毛の)髪の毛とおなじような、こわくて暖かそうな栗色の毛が生えているからです」とあるように、トールキンが創造した空想上の存在である。その他、エルフ(妖精)、竜、トロル、ゴブリン、岩石巨人(「スター・ウォーズ」に出てきたような奴)、ゴクリ(ゴラム)、などの空想上の生き物が多数登場する。ただし人間や狼や鷲なども登場する。ホビットとドワーフと人間は共存しており、言葉が通じ合う。完全にトールキンが創造した架空の世界の中で物語が進行する。作者が作った地図も添えられていて、宮崎駿のマンガ版『風の谷のナウシカ』を連想させる。挿絵もトールキン本人が書いており、絵の才能をうかがわせる(新訳にはそのカラー写真が収録されている)。

<物語>
  ビルボの家にガンダルフと13人のドワーフたちが訪ねてきて、ビルボを冒険の旅に誘う。ドワーフの族長ソーリンの祖父の時代に、ドワーフたちは山で鉱山を掘り、黄金や宝石を見つけ富と名声を得た。しかし竜のスモーグが彼らを襲い、宝を独り占めにしてしまった。ソーリンはその先祖の財産を取り戻しに行くというのだ。初めは断ったビルボだが、彼の血にも伝説の英雄の血を引くトック家の血が流れていたため、ついに冒険の旅に出ることを承知する。

 彼らの旅は冒険の連続である。トロルに食われそうになったり、ゴブリンに追われたり、(そのゴブリンの穴で、ビルボは指にはめると姿が見えなくなる不思議な指輪を拾う)、ゴクリと謎なぞ合戦をしたり、狼に追われたり。闇の森に入ると、飢えに悩まされたあげくに巨大クモに襲われ、やっと逃げると今度はエルフに捕らえられる。

 エルフからも何とか脱出して森を突破し、ようやく竜のいる山に着く。火を吹く竜に手を焼くが竜は人間の町を襲ったときにバードという英雄に退治されてしまう。しかし街を竜に破壊された人間たちとエルフたちが共同で宝の分け前を手に入れるために山に向かうと、ドワーフの長ソーリンはそれを拒否する。危うく戦争になりかけたとき、ゴブリンと狼の大群が襲撃してくる。人間とエルフとドワーフたちは急遽手を組み、連合軍を組んでゴブリンに立ち向かう。激しい戦闘(後に「5軍の戦い」と呼ばれる)の末、ドワーフたちは何とか勝利をおさめる。ソーリンは戦闘で深手を負い、最後に改心して、宝をみんなに分けるよう言い残して死んだ。すべてかたがつき、ビルボはガンダルフと帰途に就く。

 

2006年8月15日 (火)

帰省中に読んだ本

 12日から郷里の日立に帰省していた。帰省の前日に63年の日本映画「拝啓天皇陛下様」を観ていたが、レビューを書く時間がなかった。この記事はとりあえずのつなぎです。「拝啓天皇陛下様」のレビューは明日かあさってには書き上げる予定。

 行き帰りの電車と実家で2冊本を読んだ(12日に高校の同窓会に出席したほかは、家でゴロゴロして高校野球を見ている毎日だった)。1冊目はピーター・マースの『海底からのTecho_w2 生還』(光文社文庫)。なぜこれを選んだかは説明不要だろう。ドイツ映画「Uボート」を直前に観ていたからだ。あわてて出発したのでじっくり本を選んでいる時間がなく、文庫本の山の中からたまたま目に付いたのを選んだのがこの本だったというしだい。こちらは「Uボート」より数年前(第二次世界大戦勃発直前)のアメリカ海軍の話。アメリカ東海岸の海軍基地ポーツマスから出航したアメリカの新造潜水艦が潜航試験をした際に浸水して海底に沈んでしまった。深度243フィート(74メートル)の海底から生存者33名を全員救出した実話に基づくノンフィクションである。

 映画「Uボート」の場合は自力で何とか浮上できたが、こちらは潜航中になんとエンジンのメイン吸気バルブが開いていたという信じられない原因で沈んだので、船の後ろ半分が水浸しだから浮上は不可能。海上からの救出作戦が展開されることになる。これが想像以上の難作業だった。何しろ沈没した潜水艦から生存者を救助したというのは後にも先にもこのとき以外ない。ほとんど奇跡の救出劇だったのである。

 この本は大きく3つの部分から構成されている。潜水艦内の描写と海上からの救出作業、そして潜水艦の引き上げと原因の究明。この本がユニークなのは、これらメインのストーリーを構成する救出作業に絡めてスウェード・モンセンという非凡な才能を持った男の生涯を描いていることである。海軍中将まで上り詰めた男だが、軍人と言うよりは科学者あるいは発明家といったほうがいい人物だ。ジュール・ヴェルヌの『海底2万哩』にあこがれて海軍に入ったという変わった男。潜水艦乗組員の救助方法に人生のかなりの部分をかけた男。「モンセンの肺」という潜水の時に用いる酸素とヘリウムの混合気体を考え出した男で、これがなければ今日のスキューバ・ダイビングは実用化されなかっただろうといわれる画期的な発明だった。また、「レスキュー・チェンバー」とよばれる釣鐘型の救出装置を考え出した男でもある(ある理由で別の人物の名前が冠せられているが)。このモンセンの肺とレスキュー・チェンバーが実際の救出劇で大活躍する。このレスキュー・チェンバーを海上の船から吊り下ろし潜水艦のハッチに取り付け、潜水艦の乗組員を乗り移らせて海上に運び上げるという方法である。

 後はとにかく実際に読んでいただきたい。救出部分は息をもつがせぬ緊張感でぐいぐい引き付けられる。但し全体としてみれば、ノンフィクションものとしての出来は平均程度である。ジョン・クラカワーの『空へ』、ジョー・シンプソン著『死のクレバス』、アルフレッド・ランシング著『エンデュアランス号漂流』などの傑作と比べるとやはり見劣りすると言わざるをえない。全体に報告書的な記述がめだち、幾分退屈する部分があるからだ。それでも一気に読めるので一読に値すると思う。

 著者のピーター・マースは映画化された「バラキ」や「セルピコ」の原作者であるノンフィクション作家。これを読むまで知らなかった。翻訳者はなんと江畑謙介。あの独特の髪型でおなじみの軍事評論家。翻訳もやってたんですね。

 もう1冊は和田はつ子著『口中医桂助事件帖 花びら葵』(小学館文庫)。これは読もうと思って持っていったものではなく、実家で母親から読んでみてくれと渡されたもの。実は作者が僕の従兄弟の嫁さんなのである。実家に送られてきたそうだ。彼女のことは前にも聞いた事があったが、知らない名前だったのであまり気に留めていなかった。その時にはホラー小説のようなものを書いていると聞いたのだが、どうもこれは時代小説である。どうやら少し手を広げているらしい。読んでみたらこれも一気に読めた。それなりに面白い。

 タイプとしては山本一力の『損料屋喜八郎始末控え』に近い。最近このタイプの時代小説が増えている気がする。共通する特徴は特殊な職業の素人探偵を主役にしていることとミステリー仕立てだということ。山本一力の「損料屋」とは長屋住まいの庶民相手に鍋釜や小銭を貸す職業である。和田はつ子の主人公は江戸時代の歯医者「口中医」。テレビドラマでも家政婦やタクシー・ドライバーなどが探偵役で活躍している。今の流行なのだろう。もう1つ共通する特徴がある。どちらの主人公も表向きとは違う別の姿を持っているということ。しかしそれが何であるかは伏せておこう。『口中医桂助事件帖』はシリーズもので、これが3作目。他にも『藩医 宮坂涼庵』という時代小説がある。

 時代小説は今はやりで、書店にはたくさん並んでいる。かつては戦国武将もの、幕末ものが時代小説の主流だったが、最近は江戸の庶民を主人公にしたものが増えている。藤沢周平などは武家ものと庶民ものを描き分けている。僕の弟なども時代小説にはまっている。これからも当分流行は続くだろうから、その中で注目されるには他にない特徴を持つことが必要だろう。かといって、それまでなかった突飛な職業に就いている主人公を考え出せばいいという単純なものではない。飛びぬけた筆力も必要だし、江戸時代に関する深い知識も必要だ。『口中医桂助事件帖 花びら葵』では紋切り型のせりふがところどころ目だった。もっと書き込むことが必用なのかもしれない。

 帰りの電車では徳田秋声の『あらくれ』(講談社文芸文庫)を少し読んだ。イギリス文学のヒロインの系譜を自分なりに追っているので視野に入ってきた小説である。まだごく最初の部分しか読んでいないので感想は書かない。ただ、先日「浮雲」のレビューを書いたが、その成瀬巳喜男がなんと『あらくれ』を映画化していた。彼のフィルモグラフィーを見ていてわかったのだが、実に興味深い。原作を読み終えたら映画のほうも観てみよう。

2006年1月30日 (月)

イギリス小説を読む⑧ 『夏の鳥かご』

<今回のテーマ>人形の家を出た女たち

(1)20世紀イギリスを代表する女性作家
Virginia Woolf(1882-1941)        『灯台へ』(新潮文庫)、『ダロウェイ夫人』(新潮文庫)
Katherine Mansfield(1888-1923) 『マンスフィールド短編集』(新潮社)
Jean Rhys(1890-1979)            『サルガッソーの広い海』(みすず書房)
Elizabeth Bowen(1899-1973)      『パリの家』(集英社文庫)
Daphne du Maurier(1907-  )      『レベッカ』(新潮社文庫)
Muriel Sarah Spark(1918-  )     『死を忘れるな』(白水社)
Doris Lessing(1919-  )            『一人の男と二人の女』(福武文庫)
Iris Murdoch(1919-  )            『鐘』(集英社文庫)
Anita Brookner(1928-  )           『秋のホテル』、『異国の秋』(晶文社)
Edna O'Brien(1932-  )             『カントリー・ガール』(集英社文庫)
Fay Weldon(1933-  )              『ジョアンナ・メイのクローンたち』(集英社)
Emma Tennant(1939-  )           『ペンバリー館』(筑摩書房)
Margaret Drabble(1939-  )       『碾臼』(河出文庫)、『夏の鳥かご』(新潮社)
Margaret Atwood(1939-  )        『浮かびあがる』(新水社)、『サバイバル』(御茶の水書房)
Susan Hill(1942-  )                 『その年の春に』(創流社)
Angela Carter(1940-92)            『血染めの部屋』(筑摩文庫)、『ワイズ・チルドレン』(早川文庫)

(2)マーガレット・ドラブル著作年表、および略歴
1963  A Summer Bird-Cage   『夏の鳥かご』(新潮社)
1964  The Garrick Year           『季節のない愛--ギャリックの年』(サンリオ)
1965  The Millstone        『碾臼』(河出文庫)
1967  Jerusalem the Golden   『黄金のイェルサレム』(河出書房新社)
1969  The Waterfall               『滝』(晶文社)
1972  The Needle's Eye           『針の眼』(新潮社)
1975  The Realms of Gold         『黄金の王国』(サンリオ)
1977  The Ice Age                 『氷河期』(早川書房)
1980  The Middle Ground
1987  The Radiant Waysedang3
1989  A Natural Curiosity
1991  The Gates of Ivory
1996  The Witch of Exmoor

(略歴)
  シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学のニューナム・コレッジで英文学を専攻し、最優秀で卒業した。ロイヤル・シェークスピア劇団の俳優であるクライブ・スイフトと結婚。『夏の鳥かご』で作家としてデビューした。自分とほぼ同年代の若い女性をヒロインにし、女性の自立、不倫、未婚の母などのテーマを描くのが得意。妹のアントニア・バイアットも作家で、現代のブロンテ姉妹と言われている。

(3)『夏の鳥かご』と現代的ヒロイン
  ヒロインのセアラ・ベネットはオックスフォードを優秀な成績で卒業した若い知的な女性である。物語はセアラが姉ルイーズの結婚式に出席するために、パリからイギリスに戻ってくるところから始まる。姉のルイーズは「くらくらするような美人」で、男にもてはやされているため、セアラはいつも引け目を感じている。姉の方もセアラのことなど眼中になく、二人の仲はよそよそしい関係である。

  特に物語の進行に筋らしい筋はない。物語は、姉の結婚式、披露宴、セアラのロンドンへの引っ越し、ジャーナリストと俳優の友人たちが開いたパーティ、姉の新居でのパーティ、姉とその愛人である俳優との逢い引きへの同伴、姉の結婚の破綻と告白、とエピソードの積み重ねだけで進行している。全体として会話が中心の展開となっている。セアラは観察や考察もするが、それも自分自身やごく身の回りのことに関心を向けることが多い。

  しかし何らかのテーマがないというわけではない。若い女性のヒロインと周りの人々との会話を通して、ヒロインの価値観と他の人々の価値観のぶつかりあいが浮かび上がってくるのである。そのヒロインを取り巻く人々の中でとりわけ重要なのは姉のルイーズである。ルイーズと彼女の世界を理解しようとすることが中心的テーマになっている。それはまたセアラ自身とその世界を理解することでもある。

  この小説の一つの特徴は女性特有の視点や会話が満ちあふれていることである。19世紀にも多くの女性作家が活躍していたが、その文体は基本的には男の文体で、考え方や行動も当時の社会的規範からそれほど大きくはみ出してはいなかった。一方、『夏の鳥かご』はさすがに20世紀の小説ということもあって、ヒロインの考え方や行動や話し方は現実の若い女性のそれに非常に近い。衣服や靴などに目が行く、相手や自分が口にしたことをいちいちあれこれと気にする、矛盾したり、本音とは裏腹のことを言ったりする。作者のドラブル自身この点を明確に表明している。  「ケンブリッジを卒業したとき、小説という形態は未来ではなく過去に属するものだと考えておりました。...ところが...ソール・ベローの『雨の王ヘンダーソン』...J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』...を読んでみたら、突然小説は20世紀に属するものなのだ、自分自身の声で語り、自分自身の声で書くことが可能なのだ、と思われました。」『女性小説の伝統』(1982)

  しかし、20世紀に入って女性の生き方はどれだけましになったのだろうか。『人形の家』のノラが家を出た後にたどる運命は、魯迅が予言したとおりこの20世紀のヒロインに当てはまるのか。この点についても検討していきたい。

<ヒロイン・セアラの性格分析>
  登場したときからセアラは人生の目標を見いだせないでいる。オックスフォード卒業後すぐにパリに行ったが、ただ暇つぶしに出掛けただけで、特に何をしたわけでもない。パリからイギリスに戻る汽車の中で、セアラは「仕事とか、真剣さとか、教育を受け過ぎて使命感を失った若い女性は自分をどう扱うべきかといった問題を」ずっと考え続けていた。せっかく優秀な成績で大学を出ても、彼女には人生の目的が見いだせていなかった。そこには人生のさまざまなやっかいな問題から遠ざかっていたいというヒロインの意識が現れていると言える。彼女は「わたしって、適応しないものが好きなのよ。...社会的な関わりのない人が好きなんだわ」とはっきり言う。彼女は親友のシモーヌが好きなのだが、それは彼女のような「無責任になりたい」からである。ここで言う「無責任」とはいろんな束縛から自由でいられるという意味だと思われる。セアラは自由にあこがれているのだ。しかし、彼女は決していいかげんな女性ではない。むしろ自分を「退屈な勉強家」だと卑下しているくらいである。にもかかわらず、セアラは「卒業後何をやるか考えていない」「自分が何をしたいのかわからない」と言うのである。彼女は大学卒業後結局BBCに勤めるが、そこでの様子は一切描かれない。仕事をする彼女の姿が全く描かれていないのである。まるで生活のためにとりあえずやっているだけの仕事であるかのように。そして、実際そうなのだ。「お勤めなんてひまつぶしのひとつだわ」と彼女は公言してはばからない。恐らく彼女のこの不安定な状態は、「人形の家」から飛び出したものの、まだ十分女性の社会的地位が固まっていないため、自分の生きがいを見いだすに至っていなかった当時の女性の現状の反映と言えるかもしれない。何をやりたいかは分からないが、古い価値観という束縛には縛られるのはいやだ。とにかく自由でいたい。この心理は今の女性でもある程度は共感できるのではないか。逆に言えば、今日でも1963年当時とさほど大きな違いはないということになる。

  一方姉のルイーズは「とびきりの美人」で「彼女が街を歩くと、みんなが振り替える」ほどである。しかし三つ年下の妹のことは全く相手にもしていない。8歳から13歳まではセアラは「ルイーズを追い回し、まめまめしく仕え、ほんの親しみのひとかけらでも恵んでもらおうと努めた時代もあった。」ルイーズが全寮制の学校に入った頃は、彼女が休暇で帰ってくる前から「毎日カレンダーの日付を斜線で消し」今か今かと待ち望んでいたのだが、いざ汽車が着いてみるとルイーズはセアラの存在を無視して両親にキスをしたのだった。13歳をすぎたころに、セアラは「自分の威厳を取り戻し、ついにはルイーズに背を向けてしまった」のである。今では互いに冷淡になっており、ほとんど会うこともない。だが、ルイーズの結婚後何度か彼女と会ったり、知り合いたちと話したりするうちに、実は自分はルイーズと似ているのだとセアラは気づかされたり、自分で気づいたりすることになる。ジョンには「きみは彼女に似ているね」「二人とも釘のように頑丈だ」と言われ、自分でもあるとき「二人とも真面目な人間なのだ」と気づく。姉自身からも「わたしたち肉食性だと思わない?わたしたち食べられるより食べる方がいい。」「わたしたちは同類なのよ、あなたもわたしも」とはっきり言われる。

art-pure2003b   似ているがゆえに互いに反発しあうということはよくあることだ。ましてや、ともに「肉食性」であればなおさら歩み寄れない。ルイーズに対するセアラの反発の根底には、姉の方が美人で、いつも自分の方が負ける、自分は「才知はあるが、美貌ではない」というコンプレックスがある。しかし、あるときダフニーというメガネをかけた醜いいとこのことを姉と二人で散々こき下ろした後で、セアラは[自分がかくも恵まれた身であることの栄光と後ろめたさを絶えず感じている」ことを意識する。肉体は天からの賜物である。「美しい肉体をもつ者は、この世を大いに利用するがいい」と考えるに至るのだ。このセアラの考えはほとんどルイーズのそれに近い。彼女はどうやらルイーズの後を追っているようだ。

  ではルイーズはどうなったのか。作品の一番最後のあたりで、ルイーズがドッレシングガウン一枚しか身につけていない格好でセアラのアパートに駆け込んでくる場面がある。実は金持ちで作家のスティーヴンと結婚したルイーズは、結婚後も公然と愛人のジョンと浮気を続けていたのだが、あるとき二人でシャワーを浴びているところに思いもかけず夫が帰って来たのである。セアラははじめて姉と腹を割って話をする。なぜジョンと結婚したのかとセアラが聞くと、ルイーズは「お金のためよ」と平然と答える。貧乏だけはしたくなかった、金持ちと結婚すれば貧乏することはないと考えたというのだ。かつて美人だったステラという友達の惨めな結婚生活を見て、自分はあんなふうにはなりたくないと思ったとも言う。そして泣き始める。初めて心の奥底を打ち明け会った二人はその後仲良くなり、互いに良い関係を保っている。後に、結婚したのは妹に追い越されまいとしたからだとルイーズは打ち明けている。その後ルイーズは夫とは別居し、愛人のジョンと同棲していることを読者に伝えて、小説は終わっている。

<セアラとルイーズ>
  セアラとルイーズは19世紀の小説にはまず登場し得ないキャラクターである。間違いなく20世紀のヒロインだ。1960年代に登場したセアラは古い価値観に反発する。「わたし自身は、食事を作ってもらったり床をのべてもらったりするような契約的な慰めに負ける自分をときどき軽蔑するのだけれど、ママはそういうことが悪いとは少しも思わない。ママは面倒を看てもらうのが好きなのは弱さの証拠だとは思わないし、それが当然だと思っている。」結婚式の当日にルイーズが「ヴァージンのまま結婚するのって、どんな気持ちだと思う?」とセアラに聞くと、セアラは「不潔な純白さっていうとこかしら」、「きっと屠殺場に曳かれて行く子羊みたいな感じかしら」と答える。これは19世紀の作家には絶対書けないせりふである。セアラの友達のギルも、夫にヤカンを火にかけろと言われて断ったのが離婚のきっかけだった。これも19世紀までなら考えられないことである。

  しかし、一方でセアラは古い価値観ももっている。結婚なんかいやだと言いながらも、結婚にはあこがれている。セアラにはオックスフォードで知り合ったフランシスという婚約者がいて、今はアメリカのハーバード大学にいるのだが、彼には忠誠を誓い浮気はしない、彼が帰って来たら結婚すると考えている。結婚式の時にルイーズが「大きな純白の百合」の花束をもっているのを見て、セアラはルイーズがひどくもろく見えると思った。「男は万事問題ない。彼らは明確に定義され、囲まれている。しかし、わたしたち女は、生きるために、来る者すべてにオープンで、生で接しなくてはならない。...すべての女が、敗北を運命づけられているのを感じた。」これは一瞬の感傷だったのかも知れないが、あのごうまんなルイーズにも弱さを感じたことは気の迷いだけとは言い切れないだろう。

  セアラは気持ちだけは強気である。彼女は、ギルは自分と比べると「もっと寛大で、率直で、自意識過剰でなくて、癖がない」と言っているが、とすれば、セアラはその逆だということになる。自意識過剰で、癖のあるセアラは斜に構えて世間を見ている。これは世間に対する攻撃姿勢であると同時に、世間から自由でいたいという防御の姿勢でもあろう。何と言っても自分の目標を見いだせないセアラは、大地に根を張っていない宙ぶらりんな存在なのである。ルイーズはそんな妹を「一番特権的で肉食的な人のひとりよ」と表現している。「特権的」という言葉は的を射ている。何と言っても、一流の大学を出られて、適当にBBCで働いていてもやって行ける身分なのだ。その気楽さが彼女の一見浮ついたように見える態度の根底にある。セアラはいとこのダフニーを口を極めてこき下ろすが(「あのひとを見てると、動物園の飼い馴らされたうすぎたない動物を思い出す」)、その一方で彼女は脅威になりそうだと感じてもいる。たとえ醜い女でも、真面目に努力しているダフニーはやはり彼女よりもはるかに堅実に生きているのである。その弱みがダフニーを脅威と感じさせるのである。そういう社会に根付いていない自分の存在を自覚しているからこそ、自由でいられるパリやイタリアへの憧れをつのらせるのである。

 『夏の鳥かご』で描かれている世界は、イギリスの中流階級の、饒舌だが、目的も価値観も見いだせないでいる世界なのである。主人公の二人の姉妹のみならず、他のカップルも離婚したり、浮気したり、貧困にあえいでいたりで、うまく行っている夫婦や恋人たちはほんのわずかしか登場しない。タイトルの「鳥かご」はジョン・ウェブスターの「それは夏の鳥かごのようなものだ。外の鳥は中に入ることをあきらめ、中の鳥は絶望して二度と外に出られないかと不安のあまり衰え果てるのだ」から取っている。「鳥かご」はドラブルの作品の場合、結婚あるいは女性の境遇を指していると思われる。「人形の家」を出ても、女たちはまだ鳥かごの中に入ったままなのである。

  自分はルイーズに似ているとセアラは自分でも気づくが、そのルイーズの結婚は失敗に終わった。これはセアラにとって不吉な予兆とも言える。セアラがその後どうなったかは描かれていない。フランシスと無事結婚できたのか、読者の想像にまかされている。しかしその読者にはもう一つ不吉な言葉が与えられている。シェイクスピアのソネットが作中引用されているが、その引用の最後は「腐った百合の花は、雑草よりはるかにいやな匂いがする」である。ルイーズが結婚式のときに持っていた花束は「大きな純白の百合」の花束だった。はたしてセアラは腐らない「純白の百合」の生き方を目指すのか、それともたくましい「雑草」の生き方目指すのか。「純白の百合」であれ「雑草」であれ、腐らずに生き続けるためには、何らかの生きる目標を見いだすことが必要だろう。満足な目標を見いだすためには、まず彼女の前に努力してつかみ取るに値する、女性にとって価値のある目標が存在しなければならない。それを生み出すのは時代である。セアラの模索は続くだろう。そして、その後も何千人何万人のセアラたちの迷いと模索は続いているのである。

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2006年1月29日 (日)

イギリス小説を読む⑦ 『土曜の夜と日曜の朝』

  このところ忙しくてなかなか映画を観られません。もうしばらくイギリス小説にお付き合いください。

今回のテーマ:工場労働者出身のヒーロー night2

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】
 Alan Sillitoe(1928-  )  
Saturday Night and Sunday Morning(1958) 
   『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
  『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)  
The General(1960)               『将軍』(早川書房)
Key to the Door(1961)              『ドアの鍵』(集英社文庫)  
The Ragman's Daughter(1963)        『屑屋の娘』(集英社文庫)
The Death of William Posters(1965)    『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
A Tree on Fire(1967)             『燃える木』(集英社)  
Guzman Go Home(1968)           『グスマン帰れ』(集英社文庫)  
A Start in Life(1970)              『華麗なる門出』(集英社)  
Travels in Nihilon(1971)            『ニヒロンへの旅』(講談社)  
Raw Marerial(1972)               『素材』(集英社)  
Men Women and Children(1973)       『ノッティンガム物語』(集英社文庫)  
The Flame of Life(1974)            『見えない炎』(集英社)  
The Second Chance and Other Stories(1981)  『悪魔の暦』(集英社)  
Out of the Whirlpool(1987)          『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
  アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

  シリトーはノッティンガムシャーの州都ノッティンガム出身。旋盤工の息子だが、D.H.ロレンスもノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子と恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には、中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

  なお、『土曜の夜と日曜の朝』は1960年にカレル・ライス監督により映画化され、こちらもイギリス映画の名作として知られる。もう1つの代表作『長距離ランナーの孤独』も1962年にトニー・リチャードソン監督により映画化されている。

<ストーリー>
  『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

ukflag2_hh_w   作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

  アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

  アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

  アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにはアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。批評家たちからは、反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だとよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

  そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーと言う人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民のしたたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

  面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。