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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2007年12月21日 (金)

『路地の匂い 町の音』

谷根千との出会い
Photo_2   谷中・根津・千駄木、いわゆる「谷根千」に関心を持ったのはいつごろだろうか。森まゆみさんたちが地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊したのは1984年10月。まだミニコミ誌という言葉が一般に馴染みのなかった頃だ。僕がまだ東京にいた頃だが、東京にいる間にこのミニコミ誌を意識していたのかはっきりとは覚えていない。たぶん知ったのは90年代に入ってからだろう。1度だけ谷根千界隈を歩いたことがある。その時書店で雑誌『谷中・根津・千駄木』3冊(55号、58号、59号)と『谷中道中案内冊子 谷中すご六』(雑誌と同じサイズ・体裁)を買った。59号が99年10月15日発行なので、恐らく行ったのは99年だと思われる。わざわざ谷根千散策のために東京まで出かけて行ったとも思えないので、正月に帰省するついでに日暮里駅まで行き、谷中あたりを歩き回ったのだろう。

  もう8年前になるのか。谷根千界隈は期待したほど古い町並みが残ってはいなかった。狭い路地が続いてはいたが、建物は普通の住宅が多かった。確かにお寺は多かったが、全体としてそれほど情緒を感じさせる雰囲気ではなかったように記憶している。もちろんごく一部しか歩いていないので、そういう一角を見落としていた可能性は高い。ただ、夕やけだんだんから谷中銀座にかけては老舗の店が立ち並んでいて、独特の雰囲気だった。あのあたりは下町風で気に入った。江戸千代紙の「いせ辰」も良かった。今見ても新鮮なデザインが多く、大判の千代紙を額縁に入れて絵画のように壁に飾る人の気持ちも理解できる。下手な絵よりよほど素晴らしいインテリアになる。江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」にD坂として登場する団子坂にも行ってみた。思ったほどの急坂ではなかった。ここも普通の坂道だが、鴎外記念図書館などが途中にあって興味深かった。ただ有名な喫茶店「乱歩」にはややがっかり。アンティークなどが置いてあり、今はほとんどなくなってしまった昔懐かしいタイプの喫茶店ではある。しかし特に江戸川乱歩を感じさせるわけでもなし、ただ薄暗いだけじゃないか。そんな印象だった。他にも見て回りたいところはあったが時間がなくて回れなかった。根津神社や大名時計博物館には行ってみたかった。

お気に入り作家 森まゆみさん
  前ふりが長くなってしまった。『谷根千』の編集者の1人森まゆみさんの『路地の匂い 町の音』(旬報社)を昨日読み終わった。谷根千を知った頃から森さんにも興味を持ったと思う。読書ノートで調べてみたら、最初に買った彼女の本は『不思議の町根津』(ちくま文庫)で、98年2月8日に購入、99年10月23日に読了している。次に買ったのが『谷中スケッチブック』(ちくま文庫)。99年11月13日に購入し、99年12月22日読了。なるほど時期は合う。『谷中スケッチブック』を読んで、実際に行ってみたくなったのだろう。面白いことに読書ノートを見ていたら、ほぼ同じ時期になぎら健壱の『下町小僧』、『東京の江戸を遊ぶ』、『ぼくらは下町探検隊』など(いずれもちくま文庫)を読み漁っていた。他にも川本三郎など、東京のあちこちを歩き回った人たちの本も集中的に読んでいる。TV番組の「出没!アド街ック天国」にも夢中だった時期だ。東京から上田に来て10年ほどたったいた頃だが、やはり東京は離れていても気になる街だったのである。

  上記2冊の本を読んで以来彼女は僕のお気に入り作家になり(同じ年生まれという親近感もある)、その後も彼女の本を見つけしだい必ず買ってきた。調べてみたら10冊をゆうに超えていた。『明治東京畸人伝』(新潮文庫)、『明治快女伝』(文春文庫)、『谷根千の冒険』(ちくま学芸文庫)、『風々院風々風々居士』(筑摩書房)、『東京遺産』(岩波新書)、『一葉の四季』(岩波新書)、『昭和ジュークボックス』(旬報社)、『神田を歩く』(毎日新聞社)、『抱きしめる東京』(講談社文庫)、『とり戻そう東京の水と池』(岩波ブックレット)、『大正美人伝』(文春文庫)、『鴎外の坂』(新潮文庫)。

  これだけ彼女の本を持っていながら、実はつい最近まで『路地の匂い 町の音』という本の存在を知らなかった。98年9月発行だから出て10年ほどたっているのに、どうして今まで気づかなかったのか。たまたまアマゾンで検索して見つけたのである。彼女の本だからもちろんすぐ買う気になったのだが、なんと言ってもそのタイトルが魅力的だった。なんとも素晴らしいタイトルではないか。僕自身が路地裏探索が好きなので、このタイトルには強烈に引き付けられた。ブログに時間をとられて本を読む時間がなかなか取れないでいたのに、それまで読みかけていた本を中断して、家に届いた直後から読み始めた。

『路地の匂い 町の音』の魅力
  面白かった。まず短いエッセイを集めたものなので読みやすい。彼女がどんな考え方をする人で、普段どんな活動をしているのかもよく分かるので興味深かった。彼女の強みはそのバイタリティーだ。3人の子供を育てながら20年以上にわたって『谷根千』を発行し続けてきた。彼女の基本のスタイルは聞き書きである。谷根千界隈の古老や商店主、職人などに突撃取材。商売をしているところでは何度も今忙しいからと断られ、何度も出直す。ある石屋さんは文字通り石のように口が堅くて往生したそうだ。それでもめげない。とにかく行動派。ラディカルな視点で東京の街づくりを批判し、別の道を提案する。様々な運動にも積極的に参加して発言している。先日講演を聞いた鎌仲ひとみさんと同じ活力を持っている。とにかく最近は元気な女性が多い。この二人の話しを聞き、本を読み、つくづくそう思った。

Photo_3   彼女は大学でも教えているが、決して研究者タイプではない。超モダンな建物よりも、下町のざわついた商店街や裏通りが似合う人だ。「暮らしからにじみ出る」匂いや色や音に親しみや安らぎを感じる。そういうタイプの人だ。学者のような衒いは一切ない。むしろそれに反発を感じている。「人間のふだんの言語活動にない横文字が自明のように使われ、それが知ったかぶりの業界人の優越感をくすぐり、ふつうの人々を脅しつけている。」「高踏ではなく世の中のざわめきの中に芸術がある。・・・私たちの町そのものがアートではないか。」こういった表現に彼女の感性がよく出ている。彼女のそういうところに僕は引かれる。共感する。

  住民運動に積極的にかかわる積極性、行動力ばかりではない。その視線が常に上からではなく下からものを観ている。次の3つの引用文を読めばそれがよく分かるだろう。

  乳母車を押すテンポで、ヨチヨチ歩きの子どもの目の高さで町を歩いたとき、いろんなものが見えてきた。

  ヨチヨチ歩きの子どもとしゃがむと、路地の狭い空間はまるで拡大鏡を見るように、すみれ咲き、タンポポ咲き、ミミズ這い、ダンゴ虫のいる、ネコのケモノ道も見える小宇宙になる。

  「町を見る」のに書物から入るのはいちばん弊害が多く、いちばん楽しみが少ないのに、多くの郷土史家はなぜかお勉強から始めてしまう。

  子供の低い目線でものを見るというのは経済力のないもの、弱いものの立場でものを見るということであり、都庁舎のようなこれ見よがしに目を引くものではなく普段見落としがちなものに目を向けるということである。あるいは偉い地位についている人たちではなく、地道に努力している人たちに目を向けるということである。「お勉強から始めてしまう」という表現には本多勝一の「お勉強発表会」という彼独自の表現の響きが感じられる。ひょっとしたら彼の影響を受けているかもしれない。庶民の息吹も汗も泥も涙も感じられない本よりは、自分で町を歩き、人から直接話を聞くほうがどれだけ意味があるか知れない。彼女はそう考えている。だから偉い学者やインテリが書いた区史には「ふつうの人の生き死に、生活史もほとんど書かれていない」と不満を言えるのだ。彼女は質屋さんにもインタビューしている(これがまた面白い)。質屋に実際に入って主人の話を聞いてみたいと考える学者やインテリがどれだけいるだろうか。

  別に彼女が猛女だと言っているわけではない。写真を見るとぽっちゃりした普通のおばちゃんである。まあ確かに、聞き取り調査という手法をとっているので遠慮なんかしていられないというところはあるだろう。僕なんかよりはるかに押しが強そうだ。しかし彼女はふつうの人の、ふつうの町の風情や佇まいや住民間のつながりを、偉ぶって勿体つけた「高踏な」ものよりも高く評価する感性や価値観を持っている。その点がむしろ大事だ。彼女が谷根千に見出しているのはそういう価値だ。

  この町では「子どもが来たら飴玉一個でもやらなくちゃあ」というのがあって、帰りにはお土産もらってホクホクしてもどってくる。親以外にも町に子どもを受け止めてくれる場所がある、ということも大切なことだと思う。

  谷中や根津に古い家が多いのは、この辺りが東京では珍しく震災・戦災の被害が少なかったからである。・・・真の震災対策は建物の不燃化、堅牢化、道路の拡幅、緑地帯の設置ばかりにあるのではない。自分の判断で動ける人々を増やし、彼らが協力しあえる人間関係をつくることである。

  表面のきらびやかさよりも「見えないところに仕事がしてある」ことに感心するのも同じ感性だ。そういうところに住んでいるから子どもものびのび育つのだろう。「子どもは自由に遊ばせたい、遊ぶ力があるんですもの。」いまどき子どもの「遊ぶ力」に注目する大人がどれだけいるだろうか。こういう視点が欠如しがちだから彼女は役人や学者に批判的なのだ。

  役人が庁舎から出なくなると最悪だ。住民のニーズはつかめなくなり、用向きは住民を呼びつける発想になり、どこまでも「霞ヶ関の論理」や「新宿の論理」になってゆく。

  「上から下を見下ろしてみたい」というのは男性の発想みたいだ。私はこれを「天守閣の思想」と名づけた。・・・天守閣の思想はバブル期に数多くのビルを生んだ。

Hanabi3   新宿に天守閣のようにそびえる都庁を槍玉に挙げた「天守閣の思想」という文章からの引用だ。「霞ヶ関の論理」や「新宿の論理」という表現にも「殺す側の論理」、「殺される側の論理」という本多勝一の用語の響きが感じられる。しかし彼女はここで独自の表現を作り出した。「天守閣の思想」という表現は言い得て妙だ。いつか映画のレビューで引用してみよう。いいレビューを書くにはいい刺激を与えてくれる書物などとの出会いが必用だ。映画を観る視点と感性は映画以外のものとどれだけ多く出会っているかで研ぎ澄まされ方が違ってくると思う。急がば回れ。回り道や寄り道をすればするほどものの見方、考え方が豊かになる。最近いいレビューが書けなくなっているのはあまり本を読んでいないからだと、改めて自戒する。

  鎌仲ひとみさんはアクティヴィストという言葉が似合う人だが、森さんは活動派というよりも行動派という言葉が似合う気がする。聞き取り調査は外回りの営業以上に疲れるし気を使う仕事だろう。何度も怒鳴られたり邪魔にされたりしながらも決してめげない。この粘りと行動力が僕はうらやましい。

 このエッセイ集は久しぶりにエッセイを読む楽しみを味わわせてくれた。僕も写真日記などを書き始めているが、彼女のようなエッセイがなかなか書けない。この本を読んで、自分の足りないところをいやというほど再認識させられた。映画のレビューで偉そうなことを書いてはいるが、結局僕は机上の物書きに過ぎない。映画を見るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、デジカメを持って写真を撮りに行くのもすべて1人で行う行為。行く場所は違っても、結局書いているのは自分のことである。その枠から容易に出られない。そこに自分の限界を感じる。僕の写真に人が写っていないのが象徴的だ。僕のカメラは風景や人工物に向けられている。決して人には向けられない。仮に彼女の下で働くことになって、近所の商店の人の話を聴いて来いと言われたら、恐らく3日と持たずに逃げ出してしまうだろう。

 2、3度断られてもひるまない強さ。それは単に彼女が強いだけではなく、相手に対して敬意を感じているからできるのである。彼女の文章が面白いのは、相手の話を彼女が面白いと思って聴いているからである。単に町を歩くだけではなく、人と会い話を聞く。彼女の本の面白さはそういう彼女の行動力から生まれている。見たり聴いたりすることで関心が生まれる。関心を持って追求しているからいろんなものと出会う。おばちゃんも棒に当たる。『路地の匂い 町の音』には書評も何篇か収録されている。彼女が取り上げた本を僕は1冊も知らなかった。『澤の屋は外国人宿――下町・谷中の家族旅館奮闘記』、『浦安・海に抱かれた町――聞き書き 人と暮らし』、『エコロジー建築』、『これからの集合住宅づくり』、『肌寒き島国――「近代日本の夢」を歩く』、『町並み まちづくり物語』等々。彼女の紹介文を読むとどれも面白そうで、読んでみたくなる。僕の視野には全く入っていなかった本。関心のある分野の違いなどという問題ではない。彼女が行動しているからこそ目に入った本なのだろう。「本屋のない町は未来がない」などという言葉は彼女だから言えるのだ。考えてみれば、僕自身も「パニのベランダで伊丹十三を読みながら」というエッセイで、エッセイは「意志だけで書けるものではない。もっと非日常的な経験をたくさんしなければいけない。週末はもっと外出するようにしよう」と書いた覚えがある。写真日記を書き出してから行動はするようになった。しかし写真日記はただ行動の経過を書いているだけである。日記であってエッセイではない。行動しつつも、時に立ち止まって思考をめぐらしてみる必用がある。行動と思考。この両方がなければエッセイは書けないのだ。

最後に
  こういう時代だから『谷根千』のホームページもあるのではないかと思ってネットで調べてみたら、すぐ「谷根千ねっと」というページが見つかった。しかしその冒頭の記事を見て驚いた。ここ数年販売部数が7000部を割っているので、2年後の93号をもって廃刊する予定とある。わずか4人で切り回しているのではこれが限界なのだろうか。実に残念だ。しかしバイタリティーあふれる彼女たちのこと。また別のところで新たな活躍の場を見出すに違いない。

  帰省するついでにまた谷根千に行ってみよう。今度はしっかりデジカメを持って「取材」に行く。どこかで森さんに会えないかなあ。

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2007年1月 6日 (土)

正月は読書三昧

  年末にまた頑張ってレビューを書いてしまったので、正月は骨休み期間に。正月の1日と2日は実家で箱根駅伝を見るのが年中行事。三が日は全く映画を観ず、パソコンにも触らなかった。「無菌状態」のままひたすら読書。『風の影』と『本所しぐれ町物語』は前からちびちび読んでいた。ブログに時間をとられてまとまった時間が取れなかったのだが、やっとこの正月に読み終えた。『葉桜慕情』は昨年の正月に読んだ『花びら葵』に続く”口中医桂助事件帖”シリーズ第四弾。著者は従兄弟の奥さんで、今回は本人のサイン入り本をいただいた。『パイオニア・ウーマン』は帰りの電車の中で読んだ。まだ途中。

カルロス・ルイス・サフォン『風の影』上下、(集英社文庫)
  これは実に面白かった。ロバート・ゴダード風ゴシック・ロマン、あるいはドイツロマン派のE.T.A.ホフマン風幻想文学という評もあるが、僕は子供時代に読みふけった江戸川乱Cutwindow3_1 歩の少年探偵団シリーズを連想した。顔のない不気味な怪人、アルダヤ家の廃墟や地下の納骨堂などはまさにその世界。まあ、全体としては確かに『リオノーラの肖像』の頃のロバート・ゴダードに一番近いか。恋愛を絡めた伝奇ロマンといった小説である。ジャンルはともかく、昨年読んだ中ではこの本と『ダ・ヴィンチ・コード』がダントツで面白かった。

  スペイン映画というと内戦時代が何らかの形で関係しているものが多い。その後フランコの独裁が続いていただけに、中国の文革以上に大きな傷を残している。この小説も語りの現在時点は第二次大戦直後だが、内戦時代に殺された一人の小説家の謎をめぐってストーリーが展開する。謎自体は案外底が浅く、途中である程度見当がついてしまう部分もある。しかし二重三重に謎が絡まり、探ってゆくに連れて謎が謎を生み渦巻いてゆくという展開で、容易に全貌が明かされない。否応なく読者はその渦に引き込まれてしまう。

  謎の中心にいるのはフリアン・カラックスという小説家。タイトルの『風の影』というのはその作家が書いた小説の名前でもある。少年ダニエルが「忘れられた本の墓場」でたまたま『風の影』という本を手に入れたのが発端である。上巻は盲目の美少女クララに対する幼いダニエルの恋心が描かれたりして多少間延びする部分がある。しかしフリアン・カラックスに興味を持ったダニエルが彼のことを調べ始めるあたりからぐんぐん引き付けられる。

  全編を覆う暗い雰囲気が秀逸。舞台となったバルセロナを影と暗闇が常時覆っている。建物や施設などの道具立てと登場人物の造形がうまい。「忘れられた本の墓場」という摩訶不思議な場所、老人の掃き溜めのような陰気で妖気漂う養老院、フリアン・カラックスの本を探し出してすべて焼き払っている顔のない謎の男、いたるところに現われてはダニエルたちを脅してゆくフメロという刑事の不気味さ。ダニエルと一緒にフリアンの謎を探るフェルミンがキャラクターとして出色。悲惨で謎めいた過去を持つ男で体中にミミズ腫れなどの傷がある。陽気でおしゃべりな男でなかなか詩的な話もする。ダニエルの恋愛指南役的な役回りも。女性は美女ばかりだが、謎に満ちたヌリアが抜群の存在感である。調べてゆくほどにダニエルがフリアンと重なってくる展開も興味深い。読者は何重にも折り重なった謎の深みにはまり、最後の最後にやっと解放される。どことなく文学的深みも感じさせる傑作。

藤沢周平『本所しぐれ町物語』(新潮文庫)
  藤沢周平には『日暮れ竹河岸』、『霧の朝』、『海鳴り』、『時雨のあと』、『驟り雨』、『夜消える』、『橋ものがたり』など一連の市井物がある。『本所しぐれ町物語』は江戸の市井の人々を描いた連作長編。魅力的なタイトルだが、正直言っていまひとつ引き込まれなかった。途中で中断して『風の影』を読み始めたのはそのためである。最初の「鼬(いたち)の道」から違和感があった。上方に行ったきり音信不通になっていた弟がひょっこり呉服商の兄の元に戻ってきて、兄夫婦の生活に暗い影を落としてまた去ってゆく。それだけの話。だからなんだ?他にも浮気の話や泥棒の話しも出てくるが、どれも味わいが少ない。

  どこかそれまでの藤沢周平の作品と違う。どうも男はふらふらとしてだらしなく、女ばかりがしっかりしている。それはそれでいいのだが、話が面白くない。狂言回しの役を務める地獄耳の万平やまるで「おしん」を思わせるおきちなど素材としていいキャラクターも登場するのだが、話に味わいや深みがない。つまらないわけではないし、最後まで読めるのだが、どこかさらっとしすぎて面白みに欠ける。彼の市井物が持っているしっとりとした味わいがない。たぶんそれが一番の不満なのだろう。枯れて乾いた藤沢周平がそこにいる。

和田はつ子『葉桜慕情』(小学館文庫)
  こちらも連作長編。〈いしゃ・は・くち〉を開業している″口中医″藤屋桂助が活躍する江戸版シャーロック・ホームズ・シリーズ。悪の親玉″そちも悪よのう″岩田屋が次々と仕掛けてくる難事件を桂助の推理で見事に解決してゆく。しかし岩田屋そのものには手が出せない歯がゆさも最後に描かれる。事件も変化に富んでいて、推理にも無理がない。すいすいと読める。

  ひょうひょうとした桂助と彼にほのかな恋心を寄せる志保、自分も志保に惚れながらも志保の気持ちにさっぱり気づかない桂助に「じれってえ」思いをしながら手足となって桂助の捜査を助ける鋼次、いつものコンビが好調。特に求愛者が現われて揺れ動く志保の女心がよく描かれている。直情型の鋼次のせりふや独白はちょっと紋切り型過ぎるが、合いの手程度なのでそれほど気にはならない。

  一番気になったのは最後の第五話「直山柿」、全体のクライマックスとなる毒殺犯との対決部分が説得力を欠いていること。意外性を狙ったのだろうが、設定に無理がある。あんな無理な設定にする必然性が感じられない。山本一力の『大川わたり』の最後の展開もかなり強引だと感じたが、最後の詰めが甘いと全体の印象が悪くなってしまう。その点が残念だった。

  しかし見逃せないのは、その「直山柿」で面白い要素が導入されていることである。飢饉倉の役人を務める下倉藩士佐藤亀之助。彼の語った飢饉の時の農民の惨状は全編の中で際立った衝撃度を持つ。その話は桂助の「飢えを治せる医者など、この世にいないのですからね」、あるいは道順(志保の父)の「病はざまざまだが、亡くなってゆく人たちの数の多さからいえば、飢えが一番多い病かもしれぬ」という言葉とつながってゆく。だが残念ならがここでは充分展開されずに終わっている。亀之助の語った話はあまりにも重く衝撃的なために、結果的に作品の中で浮き上がってしまっている。ただ、この最後のエピソードは次回作につながってゆく気配なので、次の作品で全面的に展開されるのかもしれない。テーマ的に亀之助の言葉と響き合う内容を持つ『藩医宮坂涼庵』(未読)という本を新日本出版社から出している人なので、農民問題を正面から取り上げれば、白戸三平の『カムイ伝』に匹敵するとんでもない傑作を生むかもしれない。どんな内容になるのか楽しみだ(全然違う方向に行ってしまうかもしれないが)。

ジョアナ・ストラットン『パイオニア・ウーマン』(講談社学術文庫)
  国の歴史を読んで一番面白いのは恐らくアメリカと中国だろう。波乱万丈、歴史そのものが壮大なドラマである。アメリカで一番面白いのは開拓時代である。先住民たちの「豊Ride2 かな」暮らし、自然と共に生きてきた彼らがほとんど荒らさなかった自然の豊穣さと美しさ、開拓の苦労、様々な伝説や英雄譚やほら話(トール・テイル)、探検隊の冒険、奴隷制の問題、南北戦争、金鉱の発見とゴールドラッシュ、フロンティアの消滅と海外への進出、急激な工業化と摩天楼の出現、等々。西部劇でおなじみの保安官やカウボーイばかりが開拓時代のイメージではない。いや、カウボーイのイメージでさえ、現実は西部劇のイメージとは大幅に違う。例えば(これは現代の話だが)「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」でメキシコ人のカウボーイが出てきたし、「黒豹のバラード」では黒人のカウボーイが出てきたが、実は当時のカウボーイには黒人やメキシコ人あるいは日本人や中国人などが多数含まれていたのである。しかしハリウッド映画では彼らはみんな画面から排除され、勇ましく荒々しい白人だけが画面を占領していた。

  藤沢周平が平侍の日常を描いたように、少しも勇ましくない開拓者の日常をリアルに描いた名作がある。ローラ・インガルス・ワイルダーが書いた有名な『大草原の小さな家』シリーズである。このシリーズはどれも読み物としてすばらしいばかりではなく、実にリアルに開拓者の労働、自然の猛威、質素で考えられる限りの智恵を絞ったぎりぎりの生活、それでいて何もない中で楽しくたくましく生きようとしていた人々の暮らしを余すところなく描いている。NHKドラマのチープなイメージを持っている人も多いだろうが、これは紛れもない開拓者小説の金字塔である。当時の生活が眼に浮かぶように描き出されていて、下手な文学作品よりはるかに面白い。

  今回実際にその時代を生きた女性たちの手記をまとめた『パイオニア・ウーマン』を読んで、ローラ・インガルス・ワイルダーの小説がいかにリアルで正確だったかが改めて確認された。また、その手記そのものが実に面白く、興味が尽きない。上に書いたように、現実そのものがドラマだったのである。

  それらの手記は長い間屋根裏に眠っていた。それらを集めたのは著者の曽祖母ライラ・デイ・モンローだった。彼女自身1884年にカンザスに入植して、開拓時代の生活を経験した。「そこで出会った開拓地の女性の強さとしなやかな生き方に心を打たれ」、「開拓地の女性の生活を記録し、遺産を保存する」事業に取り掛かかったのである。最初の方に彼女の写真が掲載されているが、これは強烈に引き付けられる写真である。椅子に座って本を読んでいる姿を写しただけの写真だが、彼女の凛とした美しさに眼を奪われる。「美しさ」と言ったのは単に美人だという意味ではない。もちろん美人なのだが、そこにいるのはイギリスの19世紀の中上流婦人たち、「人形の家に住む家庭の天使」ではない。彼女の美しさは、人間のちっぽけさをいやというほど思い知らされる自然の猛威と耐えがたいほどの労働(家事や子育てだけではない)を潜り抜けてきた人だけが持つ強さとしなやかさを持った美しさなのである。今これだけのしっかりとした芯を持ち、かつ厳しさと優しさをあわせ持った女性はいない。そう思えてくる。1枚の写真がそれだけのことを語っている。彼女は何も自分では出来ない「人形妻」ではなく、まさに大地に生きた「開拓地のパイオニア・ウーマン」である。

  『パイオニア・ウーマン』はカンザス州に入植した約800人の女性の貴重な証言を集めたものである。著者の曾祖母が集め、祖母がタイプして索引と注を付けたが、彼女も仕事に追われその後出版されることなく屋根裏に埋もれていた。著者が偶然原稿を発見したことで現代によみがえったのである。著者の意図(それは著者の曾祖母の意図でもある)は次の言葉から窺うことができる。「概して歴史は・・・家庭でおこる種々雑多なことを手際よく処理した腹のすわった女性たちについてはまったく触れていないのです。」しかし厳しい開拓地の生活は女性たちの労働力や智恵、忍耐、そして優しさがなければ到底耐えがたく継続できなかったものである。その埋もれかけた女性たちの歴史を著者は文字通り掘り出してきたのである。

  当時の名もない女性たちの生の声は心を打つものがある。「人は都会で人間に触れ、荒野では神と触れ合います。」ほとんど身一つで開拓地に乗り込んだ女性たちの不安感は並大抵のものではなかった。「父が建てた、たった一間の芝土の家の前に、幌馬車から降り立った時の母の顔を忘れることが出来ません。生涯、なにごとにもしっかりと耐えた母でしたが、この時は、荒涼とした土地を声もなくじっと見つめた後、父の肩に身を投げかけて我を忘れたように泣きました。」しかし彼女たちはそれに耐えた。彼女たちも強かったが、そこにあったのはただ厳しいだけの生活ではなかったからだ。「苦労ばかりの生活に思えるでしょうが、けっこう充実した毎日でした。新しい土地を征服するときめき、素晴らしい自然、大草原の魅力などで胸がはちきれそうになって、不満なんてどこかに行ってしまったのです。低く連なる丘、なにもさえぎるもののない地平線、絶え間なく吹く風に流されてゆく雲。開拓精神は、いまだに家族中に引き継がれています。」

  時に自然が疲れを癒してはくれたが、それが過酷な労働であることに変わりはなかった。それでも彼女たちは畑仕事に、裁縫に、食事作りに、そして子育てに必死で働いた。なぜならそれは生きるがための戦いだったからである。「開拓民の女性にとって家庭とは、今までにない過酷な労働そのものだった。しかも、生き延びるための労働である。・・・気づいてみると、女性と男性の立場がほとんど平等になっていたのだった。」「暑い時期には、水は何より必用でした。一マイル先に泉があり、この水は冷たく、良質で臭いもありませんでした。母は二つのバケツを天秤棒で肩にかつぎ、十五年間毎日、水を運びました。」自然は容赦しない。時には一人で家を守る不安と寂しさに気が狂ってしまう女性もいた。それでも開拓は進んだ。よりよい生活を求めて彼女たちはたゆむことなく努力し続けたのである。

  「新しい土地を征服するときめき」という言葉には、活字になることを意識した「公式の」表現が感じられるが、同時に「マニフェスト・デスティニー」の響きも感じられる。アメリカの領土拡大は神が与えた「明白な使命」であるとする考え。彼らは征服者であった。原住民(ネイティヴ・アメリカン)を「征伐」し、やがては北米大陸を越え、米西戦争をへてプエルトリコ、グアム、フィリピンなどを手に入れ、さらにはハワイも領土にする。その精神は「世界の憲兵」を自認する現在にも引き継がれていると言える。彼女たちの誇らしげな声にそのおぼろげな響きを聞き取ることも可能だろう。

  映画を観る眼は映画だけによっては十全には養われない。このような文献、いや生の経験と接することによって、現実の中にドラマを見出し、平凡な生活の中に非凡な人生を感じ取り、日常生活の中に歴史を見て取る眼が養われるのである。是非おすすめしたい本である。

2005年8月30日 (火)

溝口健二「祇園囃子」

o_gi-31953年 大映京都
監督:溝口健二
原作:川口松太郎
出演:小暮美千代、若尾文子、河津清三郎、進藤英太郎
浪花千栄子

 若尾文子と小暮美千代主演だが、中心は小暮美千代だ。かつては羽振りがよかった親が落ちぶれたために、栄子(若尾文子)は舞妓になろうと決心する。栄子は女将の美代春(小暮美千代)の妹分の美代江としてデビューする。そこまでは順調だったが、2人はたまたま重大な取引を控えていたなじみ客から取引相手の世話を頼まれる。取引先の男は美代春にぞっこんだった。あるとき美代春と美代江はそのなじみ客に東京に招待される。しかしそれは宿に泊まり、例の取引先の客に体を与えよということだった。美代春はしぶしぶ取引先の男の部屋に行くが、その時美代江の部屋から悲鳴が上がる。二人を東京に招待したなじみ客が美代江に迫ったため、身を守ろうとして美代江が相手の舌を噛んだのである。それ以来美代春たちはお座敷の出入りを断られる。その客が裏から手を回したのか、次々に断りの電話が入る。仕事を干され、家の近くの路地でぼんやりしている美代江に舞妓仲間が近づいてきてがんばれと励ますシーンが印象的だ。

  しかし美代江が初めて座敷に出るときその衣装代を借りたこともあって、ついに美代春は例の客に体を許す。みやげ物をいっぱい手にして帰ってきた美代春に、そんなことまでしなければならないならもう舞妓は辞めると美代江が言い出す。そんな美代江の頬を一打ちして、美代春はつらいときこそ弱いものは支えあって生きてゆかなければならないと諭す。打って変わった様に明るい顔になった2人は並んで道を歩いてゆく。かつてのようにすれ違う女たちと明るい声で挨拶を交わしながら。これがラスト・シーンだ。

 男たちにいいように利用される女たちの弱い立場がよく描かれている。美代江と同じ時期に修行をしていた同じ舞妓の卵が、60を超えた男を旦那にしろと実の母親から言われていると美代江に悩みを打ち明ける場面も描かれている。と同時に、それを乗り越えてたくましく生きてゆく女の姿も描かれている。演技陣が実にしっかりしている。小暮美千代が発散する大人の女の魅力は藤原紀香など足元にも及ばない。若尾文子も(当時の)現代娘の奔放さをよく演じている。脇役陣がまたすごい。置屋のやり手婆役の浪花千栄子は、最初に登場した時からもう30年も前からその商売をしているように見えるからすごい。こういう役をやらせたら彼女の右に出る人はいない。すっかり落ちぶれた栄子の父親役進藤英太郎も、リューマチで右手が不自由になりろれつもよく回らない老人になりきっている。こういう役者が今どれだけいるだろうか。日本映画黄金時代の傑作群は、優れた監督だけではなく、世界に誇れる優秀な役者がいたからこそ作れたのだ。

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