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カテゴリー「エッセイ」の記事

2022年8月 8日 (月)

「出没!アド街ック天国」の魅力

 朝日新聞の2022年6月18日付の「テレビ時評」欄で「アド街」が紹介されていた。実はこの番組についてはだいぶ前に記事を書いてあったのだが、どうやらブログには載せていなかったらしい。どうして掲載しなかったのか理由は覚えていないが、一つ理由として考えられるのはいつのころからか上田では観られなくなったからということである。衛星放送に入っていれば観られたのかどうかわからないが、僕は衛星放送の契約はしていないので、地上波で放送していなければ観られないのである。

 それがなぜか今年に入って再び「出没!アド街ック天国」が長野放送で放送されるようになったのである。放送が始まって以来ずっと録画しているが、以前観ていた頃とはだいぶ変わっていた。まず司会の愛川欽也とアシスタントの女性アナウンサーがいなくなった。「あなたの街の宣伝本部長」愛川欽也は亡くなったので出ていないのは当然だが、進行役がいなくなったため、取り上げた街の「ベスト20」からいきなり始まる。これだって以前は「ベスト30」だったのが「ベスト20」に減っている。さらに、かつてはゲストトークの時間がたっぷりとってあったが、今は「ベスト20」紹介の合間にちょっとさしはさまれるだけ。「薬丸印の新名物」や最後に地域のコマーシャルを作るという楽しみもなくなっていた。以前の充実した番組と比べると何とも味気ない番組になっていた。何しろ10数年ぶりに観たのだから、ずっと観ていた人よりその激変ぶりを如実に感じるわけだ。その一方で変わらないものもある。女性コレクションのコーナーだ。しかも音楽も昔と一緒。これには逆にびっくりした。

 僕はあまり旅行をしないが、旅行番組は割と好きだ。実際に出かけるという面倒なことを省略して、家で美味しいところだけいただく。長野で冬季オリンピックが行われた時も一度も見に行かなかったし、行ってみたいとも思わなかった。わざわざ寒いところでしかも人垣の頭越しに遠くから見るよりも家のテレビでぬくぬくと温まりながらアップや解説も交えて観る方がずっと良い。大きなコンサート・ホールで聴くよりもCDでライヴ版を聞く方が楽だし、実際に聞きに行くなら小さなライブハウスの方が良い。東京にいたころは新宿の「ルイード」や渋谷の「エッグマン」などのライブハウスによく通った。すぐ間近で見られるのでもっぱら若い女性歌手ばかり選んで聞きに行っていた(というか見に行っていた)。

 閑話休題。ともかく旅行番組は結構好きだ。もうだいぶ昔だが「兼高かおる世界の旅」なんかもよく観ていた。今お気に入りの旅行番組、あるいは地域紹介番組は「出没!アド街ック天国」のほかに、「ブラタモリ」、「世界遺産」、「世界ふれあい街歩き」などである。この4つは番組としての水準は相当に高い。有名人が大騒ぎしながら行列ができる店や観光名所などを紹介する番組はどれもつまらない。「出没!アド街ック天国」は昔に比べたらずいぶんやせ細った感じではあるが、それでもまだ十分面白い。

 始まったころの「出没!アド街ック天国」がどんな感じだったかを最近見始めたばかりの人たちに紹介する意味もあると思うので、昔書いた文章をこの後に載せておきます。最初からずっと観てきた人たちには懐かしいかもしれません。

 

 

 最近はテレビを観ることも少なくなった。テレビをつけるのはDVDを観るためである事が多い。そんな状態でも毎週録画している(注:録画したものの大部分はVHSビデオだったので今は全部捨ててしまった)番組が1つだけある。「出没!アド街ック天国」である。

 「アド街ック天国」はいつ頃から始まった番組かはっきりとは分からないが、もう10年はたっているのではないか(注:上記朝日新聞の記事で1995年4月スタートと判明)。現在長野朝日放送で日曜日の12時から放送されている。ただ、残念なことにまだ完全なレギュラー番組にはなっていない。つまり、必ず毎週放送されるわけではなく、何か特別な番組が入るとそちらに差し替えられてしまうのだ。今の時期だと高校野球の地方大会の放送でこの2週間「アド街ック天国」はお休みである。要するにほとんど埋め草的扱いを受けているのだ。それどころか、毎年のように放送局や放送曜日が変わる。ひどいときにはまったく放送されなかった年もある。今年はほぼ毎週放送されているが、ただ放送される内容は東京12チャンネルより数週間遅れている。何年か前、お盆で実家に帰っていたときに「アド街」を見ていて、その1月後くらいに上田で同じ放送を見たことがある。実家で見たことはすっかり忘れていて、どうして見覚えがあるのだろうかとキツネにつままれたような気分になったことがあった。

 この番組は「地域密着型エンターテインメント」という極めて珍しいタイプの番組であり、番組構成と出演者の魅力という点で出色のスグレモノ番組である。番組の構成はいたって単純である。東京の諸地域(例えば千歳烏山、戸越銀座、本所吾妻橋、東浅草、自由が丘のような単位)や時には地方都市(例えば大阪新世界、横浜本牧、逗子など)を毎回取り上げ、その地域のシンボル的名所、その地域を代表する名店などのベスト30を紹介してゆき、最後に番組がその地域のコマーシャルを作るというものである。これだけでも楽しいのだが、司会の愛川欽也(自称「あなたの街の宣伝本部長」)と大江麻理子(初代は八塩圭子)、レギュラー・メンバーの薬丸裕英、峰竜太、毎回変わるその地域ゆかりのゲスト、そしてコメンテイターの山田五郎(初代は泉麻人)の間のやり取りが実に面白い。

 毎回同じパターンなのだが、少しも飽きないのはレギュラーとゲストの魅力を見事に引き出しているからである。特にレギュラー陣がいい。山田五郎には尊敬すら感じる。その知識の豊富さ、マニアックさ、発想の柔軟さがすごい。地域のコマーシャルを作る時にキーワードを皆で考え出すのだが、彼の発想は抜群である。横浜の「港未来」をテーマに取り上げたときは、港に群がる恋人たちが互いに見詰め合っている絵をバックに流れるキーワードが「港見ない」だった!薬丸君はいつも駄洒落路線だが、彼もすっかりこれにはお株を取られた感じだった。ゲストもまた多彩だ。特になぎら健壱がそのすっとぼけた持ち味を出していて実にいい。彼は準レギュラー的存在で、下町を取り上げたときには必ず出てくる。毎回最後の地域コマーシャルには彼自身が出演し、そのいずれもが傑作である。ギターの弾き語りで珍妙な歌を歌いながらその地域を歩き回るパターンが多いが、彼の人柄がうまく生かされていていつも感心する。いつか是非下町コマーシャル特集をやってほしい。ちょっとしたコーナーも充実していて、中でも「薬丸印の新名物」にはいつも笑わされる。レギュラーの薬丸裕英がテーマの地域に行ってそこの名物を探してきて紹介するのだが、いつもしょぼくてかえって面白いのである。時々掘り出し物があって感心することもある。

 このようにメンバーのやり取りが魅力なのだが、やはり何と言っても僕がこの番組に感じる一番の魅力は東京という街そのものの魅力である。東京以外の都市を取り上げることもあるが、ほとんどは東京の一角を取り上げている。東京という巨大な街のさまざまな地域を、拡大鏡を通してみたように微視的に取り上げている番組は他にない。いや雑誌などでもないだろう。雑誌の特集は取り上げる地域もテーマも限られている。普通の住宅街が取り上げられることはない。東京は人形町、経堂、谷中、王子、渋谷、日本橋、どこをとってもきわめて個性のある町で、それぞれに違った顔を持っている。それが東京の魅力である。東京を離れて長いが、まだまだ知らない東京がある。知っていると思っていた地域でも意外な顔があったりする。東京というメガシティの持つ多彩な顔、ここに一番惹かれるのだ。

 その地域の歴史や地名のいわれなども間単に紹介されている。ベスト30に選ばれるものも、最近のグルメブームの反映でレストラン等の食べ物屋が多く選ばれているきらいはあるが、誰でも知っている名所や有名な老舗などももれなく入っていて、極端な偏りがないところもいい。食べ物も、グルメ番組などで有名人やアナウンサーが食べに行って大仰に「うまい」などと叫んでいると、かえって本当かと疑いたくなるが、この番組では実際に行ったことのある出演者が「そうそう、あのタレが本当にうまいんだよねえ」などと言い合いながら進めてゆくので、その点いやみや宣伝臭がない。

 青年時代の12年間を過ごしたせいだろうか、いまだに東京には惹かれるものがある。なかなか実際に東京の街をゆっくりと歩いている時間は取れないのだが、東京の街歩きを主題にした本はよく読む。四方田犬彦の『月島物語』、なぎら健壱の『下町小僧』や『東京酒場漂流記』、『東京の江戸を遊ぶ』、『ぼくらは下町探検隊』、川本三郎の『私の東京万華鏡』や『私の東京町歩き』、森まゆみの『不思議の町根津』や『谷中スケッチブック』などのいわゆる「谷根千」ものなど、他にもいろいろ読んだ。また、東京の地名がついた小説にもなぜかひかれる所があって、つい何冊も買ってしまう。森田誠吾の『魚河岸ものがたり』(築地が舞台)と『銀座八邦亭』を読んだのもそのせいで、藤沢周平の『本所しぐれ町物語』は実在しない町だが、これも同じ関心から手を出したものである。買ったまま読んでいない本も多いのだが、これからも東京の地名のつく本を買い続けるだろう。

 「アド街ック天国」のビデオやDVDは出ないのだろうか。こういう番組こそDVDがほしい。つまらないドラマなど出すよりもっと教養系の番組をDVDにすべきだ。NHKの番組にはDVDにしてほしいものがたくさんある。海外でもBBC製作のものは出色の出来である。一部ビデオやDVDも出てはいるが、教養系のビデオやDVDは本数が少ないせいだろうが、値段が高い。でも、「アド街ック天国ベスト30」などというDVDがあったら高くても買いたい。せめてテレビで連日3日くらいかけてベスト版総集編でもやってくれないものか。
(2005年7月26日)

 

2022年7月24日 (日)

なぜ映画を早送りで観るのか

 稲田豊史著『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)という本が出ているらしい。まだ読んでいないし読む気もないが、書評によると「なぜ映画を早送りで観るのか」という問いの答えは、時間がない、早く結末が知りたい、タイムパフォーマンスが良い、LINEなどでの付き合いで話題に乗り遅れないようにしたい、などのようだ。確かにそうだろうとは思う。しかしこの問題にはもっとさかのぼって理由を探る必要があると思う。

 知っていること自体が価値だという考え方。番組のタイトルは忘れたが、日本人の数割しか知らないことを知っているかどうかを競う番組があった。「ハナターカダカ」というキャッチフレーズがそれを端的に表している。要するに、かつてクイズ番組が一世を風靡していた時のように、膨大だが細切れの「知識」をより多く持っていることが自慢の種になるという偏った価値観。こういう価値観が、例えば「早く結末が知りたい」、「話題に乗り遅れ」たくないという考え方の背後にある。

 僕は大学の受験勉強をほとんどしないで大学に入った人間である。受験勉強で「知識」を詰め込むより、優れた本を読み、優れた映画を観ることの方がはるかに有意義だと信じていたし、今でもその考え方は変わっていない。高校3年の時に三百数十本の映画を観た。映画を観ていなければ本を読んでおり、本を読んでいなければ映画を観ていた。おかげで五つの大学を受けてすべて不合格、かろうじてある大学に補欠合格で入学した。今ではできないが、当時は普通の学費の二倍払えば追加で入学を認めていたのである。

 入学後周りを見回しても優秀な同級生がいるとは思えなかった。一年と二年の時はほぼオールAだった。受験勉強の知識がいかに真の学力を測るうえで無意味であるか身をもって体験した。ある時、妹が徳川家の将軍一五代全員の名前を言えることに、それも順番まで間違えずに言えることに驚愕したことがある。自分にはとてもまねできないし、したいとも思わないことだったからだ。調べれば簡単にわかるような(特に今ならネットという便利なものがある)「知識」をなぜ暗記しなければならないのか、僕には全く理解できない。必要になったら調べればいいだけではないか。

 そういう受験勉強に踊らされてきた人たちは、ごく一部の人を除いて人が知らないことを知っていることに満足感を覚える感性を身につけてしまっている。そういう価値観を身に着けている人の一部は、例えば、重箱の隅をつつくようにして人の知らないことを掘り返してくることに喜びを見出す。すぐれた作品だが忘れ去られていた貴重な作品を発掘するに至ることはまれである。だから結局オタクになってゆく。

 こういう感性または価値観が、映画を早送りで観ることの背後に間違いなくある。ただ見たということだけで満足する。話題について行けることで満足する。その程度で話題についてゆけるのだとすれば、相当に底の浅い会話だということになる。逆にオタクのように重箱の隅をつつくような、あえて言わせてもらえば、どうでもいい知識を自慢げに披露する方向に向かう人もいるが、そういう人たちは作品全体を深く理解できていないことは言うまでもない。世間で言う「映画通」とはこういう半端な知識しかもっていない人を指していることが多く、そういう人たちはなるほどと感心するような映画評を書くことはできない。作品を味わい、深く分析することなどできないのだ。こういった人たちは、早送りではなく普通の速さで観ても大して理解度が深まるわけではない。

 こういう人たちが大量に生まれてきたことには日本の教育の仕方に問題があることは言うまでもない。考え分析することより、膨大だが断片的かつ浅薄な知識を覚えることに時間を費やす教育。そういう教育を長年受けてきた結果なのだ。ツイッターという短い文で何かを伝えたつもりになっているのも根は同じだ。長い文はかけないし、長い文を読む力も根気もない。物事を一面的で短絡的にしか見ないから、短い文で事足れりと思い込んでしまう。長さではなく、早いことをよしとする考え方もまた同じである。例えば映画を例にとれば、深い解釈や分析ができないから、人より早く新作を観ることに血道をあげる。全く内容のない紹介文を人より早くSNSなどに投稿して優越感を感じる。どうでもいいような細切れ「知識」を披露して「通」を気取るのも同じこと。それしかできないからそうするわけだ。

 こういう現状を考えてみれば、タモリの「ブラタモリ」は非常に優れた番組だと言える。ある街(町)を一般的な紹介の仕方とは全く違った角度から見直す。地理的、地質的、地形的な特質から街の歴史や成り立ちを見直してゆく。何でも知っているプロはだしのタモリの知識も、ただ断片的なものではない。彼はなぜこうなるのかを自分の言葉で説明できる。互いにつながりのない点のような知識の寄せ集めではなく、豊富な知識が線や面となってつながっている。だから成り立ちを説明できるし、推測もほとんど当たるのである(的中率の高さは驚異的だ)。「ブラタモリ」を観た後は、同じ街(町)が全く違って見える。

 僕の文章は総じて長いので、90%以上の人は滞在時間0秒か10秒以内に他に移ってしまう。僕の文章の内容がどうとかいう以前に、その長さと文字ばかりがずらっと並んでいるのを見た瞬間に拒否してしまう。ただ長いというだけで避けてしまう。こちらも読みたいと思う人に読んでもらえればいいので、それでも別に構わない。ただ面白いことに、毎年必ず閲覧数を稼ぎ、秒殺でよそへ行ってしまうのではなく、一応内容を観ていると思われる記事がいくつかある。とは言え、最後まで読み切っているわけではなく、使えそうだと判断した時点でコピーしては慣れてゆく場合がほとんどだと思われる(滞在時間から判断して)。

 どういう記事かというと、イギリス小説を取り上げた記事である。つまり授業のレポートを書く際の「資料」として使われているようなのだ。普段は0秒で去ってゆく人たちも、必要に迫られると仕方なく目を通す。読んでもらえるのはうれしいが、ただコピペして剽窃しているようなら困ったことだ。もっとも最近は手が込んできて、多少手を加えて引用元がすぐ分からないようにしていることが多いようだ。不特定多数の人に読んでほしいからブログに掲載しているのだが、ルール違反の盗用はいけない。こういうことがはびこるのも、自分の頭で考え、分析するのではなく、手っ取り早く結果を出せばいいという文化が生み出したことだ。このように、これまで述べてきたことはすべて根っこでつながっている。もちろんきっかけはレポートの素材探しだったとしても、面白そうなブログだと思って時々見に来てくれている人もいることはアクセス数の分析からわかります(当ブログへの入り口がイギリス小説を取り上げた記事である場合は、そのページをブックマークに入れたからだと判断できるので)。そういう方たちもひっくるめて批判しているわけではありません。

 人々の判断力、思考力を奪っているのは暗記中心の教育の在り方だけではなく、校則という縛りも手を貸していると思われる。全く正当な理由もなく理不尽な規則を一方的に押しつけ、生徒をがんじがらめにする。校則ではなく「拘束」と書き直したいくらいだ。しかも優等生ほどこれを素直に受け入れて、うまく立ち回る。知らぬ間に判断力、思考力を奪われ、規則に従うことが正しいことだと刷り込まれてゆく。いつの間にかその校則が本当に必要なのか疑う力を奪われている。文科省が作りたいのは何も疑わずただ上からの言いなりになる人間の育成なのかと疑ってみることもできない人間が大量に生産される。難しいことは偉い人に任せておけばいいという受け身的な考えが知らず知らずのうちにしみついてしまう。何度選挙をやっても自民党が勝つはずだ。どうしてそれが必要なのかを疑う、様々なことに疑問を持つ習慣が早い段階で摘み取られてゆく。上から言われたことをそつなくこなす人が出世する。そういう社会がこうして作られてゆく。

 不当に自由を奪う校則に何の疑問もなく従うメンタリティは、言われた通りにできないものを怒鳴りつけ、罵倒し、何でもいいから言われた通りにやれと押しつける人間を作り出す。黙って受け入れてきた人は、黙って受け入れることを他人に強要する。相手にわかりやすく、かつ筋の通った説得をする力を持たないからだ。おまけに本人もストレスを抱えているので(その人自身も会社のコマの一つに過ぎない)、なおさら叱り飛ばし、怒鳴りつけるしかない。物事を立ち止まってよく考えない人たちが先も見えずただうろたえるばかりの、効率一辺倒の息苦しい社会。自分で自分の首を絞めながら、他人の首も絞めている。負の歯車は回り続ける。これを止めるには、立ち止まってよく考え、何事にも疑問を持つことから始めなければならない。

 

2022年7月17日 (日)

「白い道」、東京の下町訛り

 まだ東京に住んでいた頃だから1980年代の初め頃だろうか。どこか東京の下町あたりで浅草へ行く道を聞いたことがある。誰か明らかに地元の人と思われそうな人がいないかと探していると、前からまるで沢村貞子のような感じの女性が歩いてきた。顔が似ているというのではない。その佇まいや服装からまるで沢村貞子がスクリーンから抜け出てきたような感じがしたのである。この人なら間違いなく地元の人だと確信して、道案内を乞うた。

 

 その人が言うには、そこの路地に入ってまっすぐ進むと白い道に出るので、そこを右だったか左だったかに行けばよいとのことだった。「白い道」というのがどういう道なのかよく理解できなかったが、とにかく言われた通りに歩いて行けばわかるだろうと考え、特に質問もせずお礼を言って別れた。

 

 路地に入り、道々「白い道」のことを考えていた。どうして道が白いのか。白い横断歩道がやたらとある道なのか、それとも何らかの理由で道を白く塗ってあるのだろうか。それにしても何で道を白く塗る必要がある?そんなことをあれこれ考えながら歩いているうちに、ふとある考えが浮かび、謎が解けた。

 

 実はすぐその半年くらい前だったか、朝日新聞の「天声人語」に東京の下町訛りのことが書いてあったのを思い出したのだ。東京にも訛りがあるのかと驚いたが、下町あたりでは「ひ」と「し」が逆になるというのだ。潮干狩りが「ヒオシガリ」に、彼岸と此岸が逆になる。ということは、あのおばさんは「広い道」と言っていたのだ。つまり細い路地を抜けると大通りに出ると説明していたのだとやっと理解できた。実際やがて大通りに出た。

 

 下町訛りがあることは知識として知ってはいたが、実際に聞いたのはこの時が最初で最後だった。あの時あのおばさんに道を聞いてよかった。あの時のおばさん、ありがとう。おかげで得難い経験ができました。ところで、都会の訛りと言えばロンドンの労働者の言葉コックニーも有名だ。この訛りの典型は「エイ」が「アイ」になること。テイプ(日本語表記ではテープ)がタイプに、「デイ」が「ダイ」になってしまう。(注)

 

 有名なエピソードは「マイ・フェア・レディ」に出てくるレックス・ハリソンがオードリー・ヘプバーンの訛りを矯正するシーン。彼はヘプバーンにThe rain in Spain stays mainly in the plain.という文を何度も発音させるが、何度試しても彼女は「ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン」と発音してしまうのが可笑しい。オーストラリアにも同じ訛りがある。この訛りを実際に経験したことがある。90年代にイギリス南部のブライトンにある語学学校で2週間ほど語学研修を受けたことがある。その時の先生の一人がこの訛りを話していた。最初のうちは慣れないので頭の中で「アイ」を「エイ」にいちいち変換していたが、帰るころには意識しなくても自然に入ってくるようになっていた。

 

 そういえば、小学生のころ、東北訛りの先生がいて「い」と「え」が逆になっていた。いや、「い」と「え」がほとんど同じになって区別がつきにくかったということだったかもしれない。いずれにせよ、生徒もそれが分かっているのでやはり頭の中で変換しながら聞いていたと思うが、ある時訛った結果全然別の単語になってしまい(上の「白い道」のような感じだ)、生徒全員がぽかんとしていたことがあった。先生もそれに気が付いていろいろ言いなおしてくれたのでやっと理解できた次第。それが何という言葉だったかは覚えていないが、これも懐かしい思い出だ。

 

 もちろん僕も茨城県出身なので当然茨城弁を話していた。イントネーションは直せるので、これには苦労した覚えはないが、アクセントだけはどうにもならない。何せ同音異義語をアクセントで区別するという習慣自体が存在しないのだ。川にかかる橋も、ご飯を食べるときの箸も、すみっこという意味の端もすべて同じアクセントになる。アクセントを意識するという習慣そのものが存在しないので、アクセントが合っているのかも違っているのかも分からない。聞き分けられないから発音もできない。ある時「古事記」と言ったつもりが、お前の発音では物乞いする「乞食」になると言われびっくりしたことがある。そもそもアクセントと僕が言うと、「悪戦苦闘」と聞こえるとまで言われた。直しようがないので、東京に来た最初のころから気にしないことにした。茨城県人は文脈で判断するので、お前らもそうしろというわけだ。おかげで、言葉で悩んだことはない。アクセントの間違いを指摘されたら、その時覚えればいい(指摘されないと分からない)。

 

 そういえば、方言を標準語だと思い込んでいる場合もある。もうだいぶ前だが、NHKの教育テレビ(今のEテレ)で方言の話をしていた。その中で茨城弁を取り上げていくつか例を挙げていた。それを観て初めて「青なじみ」が方言だとわかった。これはショックだった。標準語だと思っていたからだ。千葉県の船橋市出身の同僚に聞いたら、彼を同じように驚いていた。船橋でも「青なじみ」という言葉を使っていて、標準語だと思っていたのである。標準語の「青あざ」に当たる表現だが、今じゃ実家あたりでも使う人は少ないかもしれない。

 

 先にあげた「マイ・フェア・レディ」の例がそうだが、発音というのはなかなか治らないようだ。タイトルは忘れたがあるアルゼンチン映画でこんな場面があった。アメリカ人が自分の名前をソーントンだと紹介するのだが、相手のアルゼンチン人はトルトンとしか発音できない。何度直してもトルトンのまま。この場面が妙に可笑しかった。

 

 もちろん地域独特の発音や語彙があってしかるべきだ。どんどん方言がなくなってきている今ではむしろ方言を残す努力をしなければいけない状況になっている。方言や訛りは絶滅危惧種だ。東京の下町訛りは今でも残っているのだろうか。いや、言葉ばかりではない。全国どこに行っても同じような家が建ち、同じチェーン店があるというのも味気ない。


(注)
 イギリスのテレビ・ドラマの傑作「ニュー・トリックス~退職デカの事件簿」シリーズで、デニス・ウォーターマン演じるジェリー・スタンディングが話しているのはまさにこのむき出しのコクニーである。