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2020年11月15日 (日)

「ブレッドウィナー」をより深く理解するために

「ブレッドウィナー」(2017) アイルランド・カナダ・ルクセンブルク ★★★★☆
監督:ノラ・トゥーミー
原作:デボラ・エリス
脚本:アニータ・ドロン
声優:サーラ・チャウドリー、ソーマ・バティア、ラーラ・サディク、シャイスタ・ラティーフ、カワ・アダ
   アリ・バドシャー、ヌーリン・グラムガウス

 イスラエルのユニークなアニメ「戦場でワルツを」(2008、アリ・フォルマン監督)を観た時、ついにアニメ界にも社会派アニメ、あるいはリアリズム・アニメと呼べる作品が出現したと驚いたものだ。レバノン戦争をイスラエル側から描いたという点では実写版の「レバノン」(2009)と並ぶ傑作だ(こちらはキャメラが一貫して戦車の中から出ないという、これまたユニークな設定の映画で、まれにみる迫真力で迫ってくる)。「戦場でワルツを」はまさに画期的なアニメだったが、他に社会問題と真摯に向き合ったアニメがなかったわけではない。老夫婦を通じて核戦争による放射能汚染の恐怖を描いたイギリスの傑作「風が吹くとき」(1986、ジミー・T・ムラカミ監督)、人種問題を描いた「アズールとアスマール」(2006、ミッシェル・オスロ監督)、そして父を探して旅に出た少年が見たディストピアを描いたブラジル製アニメ「父を探して」(2013、アレ・アブレウ監督)など。認知症で養護老人施設に入れられた老人を描いたスペインの「しわ」(2011、イグナシオ・フェレーラス監督)のような作品もあった。これにタリバン支配下のアフガニスタンを描いた「ブレッドウィナー」(2017)が加わった。まだまだ数は少ないが、この流れは今後着実に広まってゆくだろう。

 アフガニスタン戦争とタリバンの暴虐。これも先日取り上げたイギリス映画「オフィシャル・シークレット」(2018、ギャヴィン・フッド監督)と同じ9.11後の混乱、テロリズムへの反撃を旗印に掲げたアメリカ主導の強引な侵略戦争がもたらした泥沼状態を描いたものである。タリバンの厳格な原理主義が国民生活を圧迫し、男手がいないため少女が男の子に扮して家族の生活を支えるというのは「アフガン零年」(2003、セディク・バルマク監督)と全く同じ設定だ。これは衝撃的な作品だった。タリバンの無法ぶりに体中から怒りが噴出す思いで観た。神の名を語りながら、人道にもとる非情な振る舞いを平気で行う。アメリカの侵略も非道だが、タリバンも許せない。女の子であることが発覚したマリナは宗教裁判にかけられ、無理やりある老人の嫁にされてしまう。マリナを演じた少女は親を亡くし物乞いをしていたという。人類に進歩はないのか。怒りと虚無感に襲われたものだ。

 しかしこの映画を観て、タリバンの暴虐ぶりをイスラム教そのものと結びつけるのは早計である。たとえばイランはかつてミニスカートの女性がいたほど開放的な国だった。それがホメイニ革命で一変したのである。イスラム原理主義がはびこり実に窮屈な国になってしまった。その変化の前と後を描いたのがイランのマルジャン・サトラビが描いた自伝的漫画「ペルセポリス」である(アニメ化されたがそちらは観ていないので、原作の漫画を取り上げた)。窮屈な現体制に反発して大学生のヒロインはバクーニンの無政府主義に共感するというのだから、どれほど硬直した考え方がまかり通っていたか分かろうというもの。

 イラン関連でさらに2本の映画を取り上げたい。一つは「ブレッドウィナー」と同じく女性が男装する「オフサイド・ガールズ」。男装すると言っても「ブレッドウィナー」とはだいぶ事情は違う。イランでは女性はサッカー場に入れない。しかし女性でも熱心なサッカーファンはいるわけで、あと1勝すればワールドカップ出場が決まるという大事な試合をどうしても会場で観たい女性たちは男に変装して会場にもぐりこもうとする。しかし入口で女性とバレてしまい、拘束されて会場横に臨時に作られた柵の中に押し込められる。柵と言っても簡単に乗り越えられるものなので、数人の兵士が見張りに付いている。女性たちはどうして女はサッカー場に入れないのかと兵士たちに食って掛かる。兵士たちはそういう風に定められているからだとか、汚い言葉が飛び交うので女性はいかない方が良いとしか答えられない。もともと合理的な理由などないのだ。納得しない女性たちに詰め寄られてたじたじとなる兵士たち。サッカー場から女性を締め出すというのは理不尽ではあるが、タリバンのような残虐さはない。

 ここで強調しておくが、原理主義者の硬直した頑迷さという点ではキリスト教も同じなのだ。アメリカ映画に「風の遺産」(1960、スタンリー・クレイマー監督)という知られざる名作がある。これはある教員が高校で進化論を教えたために逮捕され裁判沙汰になったという、アメリカの歴史上有名なスコープス裁判(俗に猿裁判と呼ばれる)を真正面から描いた映画だ。キリスト教原理主義者は聖書の真実――天地創造、処女降臨、復活――を本質的真実だと考える。したがって人間は猿から進化したとする進化論の考え方は神への冒涜だと主張して譲らない。実に骨太な法廷劇で、弁護士にスペンサー・トレイシー、検事にフレデリック・マーチという共にオスカーを2度ずつ受賞した名優を配し、さらに弁護側支持の新聞記者にジーン・ケリーを起用している。

 もう1本紹介したいイラン映画は「サイクリスト」、「パンと植木鉢」などで知られるモフセン・マフマルバフ監督がアフガン難民の問題に鋭く迫った「カンダハール」(2001)である。米国の同時多発テロ発生直前に撮られた作品だ。内戦を逃れてカナダへ移住したアフガニスタン人女性ジャーナリストのもとにタリバン政権の拠点であるカンダハールに残してきた妹から悲痛な現状を嘆き自殺をほのめかす手紙が届く。姉はなんとしてでも妹を助け出そうと決死の覚悟でアフガニスタンに潜入する。「ブレッドウィナー」同様、アフガニスタン以外の国が作ったアフガニスタンの現状を描く映画だ。当事者でない国で映画が製作されることに疑問を感じる向きもあるだろう。おそらくこの問題は森と木の例えと似ている。当事者には木は見えるが、生きるのに精いっぱいで森全体を見る余裕はない。一方岡目八目という言葉があるように、他国の人びとには外側から見ているので森全体は比較的とらえやすい。だが、その一方で一本、一本の木はなかなか見えにくい。だから、それぞれの作品があっていいのだ。むしろ様々な視点から描かれる作品があってしかるべきである。一つの観点だけで一国の状況がすべてが描けるはずはない。一面的で偏った視点からしか物事を見ないからヘイトスピーチが起こるのだ。

 「カンダハール」はアフガニスタンの現状をイラン人の観点から描いたという点で注目に値する。欧米諸国では、物質文化が爛熟し、個人的な欲求の追求に視点が向きがちで、自分を越えた大きな社会的政治的問題の所在に気づきにくくなっている。一方、新進諸国では、文化や人々の意識は別の成熟の仕方をたどった。人々は自分を取り巻く大きな社会的矛盾の中で自分の問題をとらえざるを得ない。テーマや状況の深刻さ、葛藤の質と重みが違ってくる。うめき声や叫びに満ちているが、その中から自分や社会のありようを見つめ直そうとする真摯な姿勢や問いかけが現れてくる。悲劇的な結末を迎える作品もあるが、多くは決して悲観的ではなく、人間がこんなことであっていいのかという根源的な問いかけがなされている。社会の重圧感を描くと同時に、それらを跳ね返そうとする意志、苦しくても明るさをなくさず生き続けようとする姿勢、現実を押し返そうとする躍動感なども描き出されている。これらの国々の映画にわれわれが共感するのはそのためだ。

 アメリカ映画のようなCGを駆使した映画も見せ場満載のジェットコースター・ムービーはない。むしろゆったりとしたテンポで淡々と綴られる「観覧車ムービー」が多い。しかしアメリカ映画にはない独特の味わいと深刻な問題意識がある。2000年代に入り、「アマンドラ!希望の歌」(2002)、「ホテル・ルワンダ」(2004)、「母たちの村」(2004)、「約束の旅路」(2005)、「ナイロビの蜂」(2005)、「ロード・オブ・ウォー」(2005)、「ブラッド・ダイヤモンド」(2006)、「輝く夜明けに向かって」(2006)、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」(2006)などアフリカ映画やアフリカを舞台にした映画が続々と作られてきたのは、以上のことと無関係ではないだろう。

 2005年ごろからドキュメンタリー映画が目立って増えてきており、しかも劇映画をしのぐ力作が少なくないこともこのことと無関係ではないだろう。いずれも現実の矛盾の裂け目からにじみ出てきたような作品群である。劇映画が触れようとしない現実に光を当て、劇映画以上に深く切り込んでゆくドキュメンタリー映画が着実に地位を確保しつつある。

 これに関してもう一つ指摘しておきたい。2003年に少数民族を描いた映画が3本公開された。1本はニュージーランドのマオリに伝わる伝説を主題にした映画「クジラの島の少女」(2003、ニキ・カーロ監督)だ。族長の娘に生まれ、また伝説の英雄パイケアの名を受け継ぎながら、女だというだけで伝統を受け継ぐことを拒否された少女が主人公である。女の子ゆえの差別にもめげずに因習に立ち向かってゆくパイケアの姿勢が共感を誘う。パイケアを演じたケイシャ・キャッスル=ヒューズの、じっと前を見つめる黒い瞳がなんとも魅力的だ。2本目はアボリジニの少女たちが隔離施設を抜け出し家族のもとに帰るまでを描いたオーストラリア映画「裸足の1500マイル」(2002、フィリップ・ノイス監督)である。ヒロインたちの逃走を支えていたのは民族が伝えてきた知恵であり、差別に屈しない民族の誇だった。白人たちの根深い人種差別意識も鋭く抉り出されている(有名な白豪主義はオーストラリア版アパルトヘイトと言って良い)。もう1本はイヌイット語でイヌイットを描いた最初の映画「氷海の伝説」(2001、ザカリアス・クヌク監督)である。上映時間が3時間近くに及ぶ氷上の人間ドラマ、一大叙事詩である。氷しかない世界だが、人間さえいればドラマは生まれるのだということを教えられる。このように少数民族を描いた優れた映画がそろって日本で公開された2003年という年は、記念すべき年といえるだろう。これまで世界映画市場に無縁だった国や地域や民族の人たちが、自分たちの言葉と様式で語り始めた。これらの声に真摯に耳を傾ければ、私たちの世界を見る視野もきっと広がるだろう。

 誤解を避けるために付け加えておくが、欧米先進諸国や日本の映画に優れたものがないと言いたいわけではない。例えば、女が男の格好をすると言うことを取り上げてみれば、古い映画では男装の麗人という形で描かれることがほとんどだった[例えば「モロッコ」(1930)のマレーネ・ディートリッヒ]。しかし近年はLGBTQ関連の映画が多く作られている(男が女装するケースが多いが)。例えば、「蜘蛛女のキス」(1985、ヘクトール・バベンコ監督)、ジュリアン・ジャロルド監督の「キンキー・ブーツ」(2005)、犬童一心監督の「メゾン・ド・ヒミコ」(2005)、「トランスアメリカ」(2005、ダンカン・タッカー監督)、あるいは先進国映画ではないがフィリピン映画「ダイ・ビューティフル」(2016、ジュン・ロブレス・ラナ監督)など。いずれもこの問題に真摯に向き合っている優れた映画である。「トランスアメリカ」は性転換手術を目前に控えた中年男性が、まだ若い頃付き合っていた女性との間に息子がいると知らされ、やむを得ない事情でその息子を引き取りにアメリカを横断する旅に出るという映画だ。その時父親はすでにブリーという女性名を名乗りおばさんの姿をしていた。ブリーは自分が父親であることを隠し、ただ青年を迎えに来た親切なおばさんと名乗った。彼(女)は息子との旅を通じて、自分が元は男であること、そして彼の父親であることという二つの秘密を息子と共有し、ともに乗り越えてゆくのである。「トランスアメリカ」というタイトルにはアメリカ横断という意味の他に「トランス・ジェンダー」という意味が込められている。さらに言えば、女性に性転換した中年男性を女優が演じているのである。二重のひねりが加えられている。

 系譜をたどるのはこの辺にして、作品の内容に少し触れておこう。「ブレッドウィナー」は映画館で観た。DVDで観た時のようにメモが取れないので、内容の細かいところはだいぶ忘れている(鑑賞日は10月27日)。そこで原作の翻訳を代わりに引用したりすることになるが、お許しいただきたい。映画の冒頭の辺り、街頭でパヴァーナとその父が座ってわずかばかりの物を売り、字の読めない人たちの代わりに手紙を代読(代筆もしているようだ)する商売をしている場面がある。ちなみに、代読屋といえば、中南米映画を代表する名作、ブラジル映画「セントラル・ステーション」(1998、ヴァルテル・サレス監督)が思い浮かぶ。こちらのヒロインは元教員で、字の書けない人の代わりに手紙を書く代筆屋である。このような職業が成り立つこと自体、どちらの国にも字の読み書きができない人が多数いることが暗示されている。

 また話が脱線してしまったので元に戻そう。座りながら二人はいろいろ話をしている。その中でアフガニスタンが長年外国の侵略にさらされてきたことが語られる。映画と同じではないだろうが、重要なことなので翻訳本から引用しておく。

 歴史、とくにアフガニスタンの歴史は、パヴァ―ナの大好きな科目だ。アフガニスタンには、古代からさまざまな民族がやって来た。四千年前にはペルシア人、その後アレキサンダー大王、ギリシャ人、アラブ人、トルコ人、イギリス人とつづき、最後にやってきたのがソ連だ。なかでも十四世紀、サマルカンドから攻めてきた征服者ティムールは、敵の頭を切り落とし、果物屋のメロンのように高く積み上げたという。これらの人びとはみな、パヴァーナの美しい国をうばおうとやってきた。そしてアフガン人は、それらを全部追い出したのだ!
 しかし今、この国はタリバン兵によって支配されている。かれらはアフガン人だが、生活についてとても厳しい規制を押し付けてくる。

 ここには決して外敵に屈しなかったアフガン人の民族的誇りが語られている。しかし皮肉なことに今国を支配しているのは内なる敵だった。ここにこの映画の重要な主題が描き出されている。自分たちの生活を脅かす者たちに決して屈しないというヒロインの誇りと、しかし抗いがたい暴虐で人々を押さえつけているタリバンの理不尽なまでの抑圧機構の恐怖である。パヴァーナの芯の強さはこの誇りを引き継いでいるが、もう一つ重要なのは両親の教養と物語る能力を受け継いでいることである。両親は英語を話し、父はイギリスの大学で勉強をした事もある。西洋の知識を持っていることがタリバンの押し付けてくる理不尽な抑圧に反発する原動力の一つになっている。もちろんイギリスは帝国主義者として乗り込んできたわけだが、イギリス人から学んだ知識がタリバンの論理に屈しない力を与えているとも考えられるのだ。

 また余談になるが、シャーロック・ホームズの盟友ワトソンは最初に登場した時アフガン帰りだと明記されている。彼はアフガンに軍医として従軍し、負傷してイギリスに送還されてきたのである。軍医であったとはいえ、彼も大英帝国による植民地政策の一翼を担っていたことは記憶しておくべきである。

 また「ブレッドウィナー」に戻ろう。アニメ版は最初の辺りは原作とほぼ重なっているが、4分の1も過ぎたあたりからだいぶ違ってくる。原作では墓場に爆弾が落ちて昔埋められた死者の骨が地面に突き出ているのをパヴァーナとショーツィアが掘り出す場面(それを仲買人に渡すと良い金になる)や、ぎっしりと人で埋まったサッカーの競技場で泥棒をした男たちの手をタリバン兵がこれ見よがしに切り落として見せる場面など、残虐な場面が描かれている。児童文学として書かれているせいか、「アフガン零年」を観た時ほどの衝撃や怒りを感じないが、アニメではカットされている。

 アニメでも描かれているが違う使いかたをされているのは手紙を読んでくれと頼んでくるタリバン兵 のエピソードだ(原作には「タリバン兵は、たいてい字が読めないんだから」という記述がある)。それは妻の叔母に当たる人が彼の妻あてに書いた古い手紙だった。手紙の内容を聞いた彼は涙をひとつぶ流す。彼の妻はすでに死んでいたのだ。涙を流したこのタリバン兵のことがしばらくパヴァーナの心に引っかかっている。タリバンにも自分たちと同じ感情があるのか。彼女が初めてそういう疑問を感じた場面である。原作では短いエピソードとして一度出て来るだけだが、このタリバン兵は映画では終盤近くでもう一度登場し、重要な役割を果たすことになる。

 アニメ版では原作のかなりの部分を割愛せざるを得なかったが、代わって取り入れたのは劇中劇のような形で描かれる物語である。パヴァーナが小さな弟に語って聞かせる物語だが、少年が象の怪物に奪われた種を取り戻そうとする冒険譚である。つまり、アニメはタリバン勢力による支配の恐怖を盛りだくさんに描くことではなく、物語の持つ力、言葉の力、自由に想像する力を描くことを選んだ。その物語の主人公は地雷を踏んで死んでしまった彼女の兄スレイマンである。この物語にはミッシェル・オスロ監督の「キリクと魔女」(1998)を思わせるプリミティヴな力がある。物語る能力はパヴァーナが父から受け継いだものである。それがまたパヴァーナを通じて弟に受け継がれてゆく。そしてこの物語が時につらい現実にめげそうになるパヴァーナに力を与えているのだ。

 突然だがここで2本の映画を紹介したい。「ココシリ」「エレジー」である。チベットカモシカの密猟を食い止めようと奮闘する山岳パトロール隊を描いた中国映画「ココシリ」(2004、ルー・チュ-アン監督)が山岳パトロール隊側から見た映画だとすれば、密輸グループの悲惨な末路を描いたトルコ映画「エレジー」(1971、ユルマズ・ギュネイ監督)は密輸団側から描いた映画だと言える。生きんがために密輸に手を染める「悪党」たち。しかしどこか憎めない。彼らとて生きていかなければならない。「人間性を失うギリギリのところまで追い詰められ」、生活のために一線を越えた男たち。そこにはイラン映画「酔っ払った馬の時間」(2000、バフマン・ゴバディ監督)に描かれた、イランとイラクの国境地帯で密輸をして生活を立てているクルド族の人々と重なるものがある。あるいは、アメリカ映画「ロード・オブ・ウォー」(2005、アンドリュー・ニコル監督)で不時着した飛行機があっという間に村人たちによって解体され、使えるものはすべて持ち去られるシーンを思い浮かべてもいい(「骨」だけになった飛行機の残骸は「ココシリ」に出てくる骨だけになったカモシカの死骸を連想させる)。ここではむしろ虐げられた貧しい人たちの「たくましい生活力」が肯定的に描かれている。

 この文脈でとらえ直せば、「ブレッドウィナー」は「人間性を失うギリギリのところまで追い詰められ」、生活のために一線を越えた女の子が男に成りすまして家族の生活を支える映画だと言い換えても良いだろう。この映画が観客に与えるインパクトは根本的にはこの極限状態とその中で生きるために大きな決意をした女の子のひたむきに生きようとする活力から来ていると言っていい。衝撃度は「アフガン零年」に劣るが、ファンタジー的要素を残しながらリアリズムを追求したアニメとして「ブレッドウィナー」は長く記憶するに値する作品だと思う。

 原作のデボラ・エリス著『生きのびるために』(さ・え・ら書房)については多くの人が紹介しているので省略する。ここでは「ブレッドウィナー」を制作したアイルランドのアニメスタジオ“カートゥーン・サルーン”について簡単に触れておきたい。「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」(2014)を観たのは2017年だった。翌2018年には「ブレンダンとケルズの秘密」(2009)を観た。三部作の最終作「ウルフウォーカー」(2020)はつい先日、11月11日に観た。三部作の中では何といっても最初に観た「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」の印象が強い。初めて観るケルト系アニメ。アイルランドのケルト系音楽は大好きで数百枚持っているが(「ゴブリンのこれがおすすめ38」を参照)、アイルランドのアニメを観るのは初めてだった。その魅力は何といってもあの独特のケルト的意匠だ。「イギリス小説を読む⑧ イギリスとファンタジーの伝統」で書いたが、イギリスが世界一のファンタジー大国になったのはケルト文化の影響が大きいと思っている。アイルランド、スコットランド、ウェールズ、アーサー王伝説が色濃く残っているイングランドのコーンウォール地方(アーサー王はアングロ・サクソン系ではなくケルト人である)、フランスのブルターニュ地方などにケルト文化が残っている。アイリッシュ・トラッド/ケルト・ミュージックでいえばスペインやカナダの一部にも伝統が残っている。イギリスのファンタジーによく登場する妖精(日本の妖怪に近い)はケルト文化の深い影響を受けている。ケルトの深い森には妖精たちがいつひょいっと姿を現しても不思議でない雰囲気が漂っているのだ。

 もう一つ特筆すべきなのはあの独特のケルト文様である(ケルト十字架の形も独特だ)。あの幾何学的で複雑な文様。他のどこにもない全く独自の物で、いくら眺めても飽きない。このケルト独特の意匠と並ぶのは他にロシアの衣装(意匠)くらいしか思い浮かばない(『ビリービンとロシア絵本の黄金時代』、東京美術をぜひ参照してほしい)。ソ連の古典的アニメ「雪の女王」や「森は生きている」などにもその片鱗が表れている。“カートゥーン・サルーン”は今後どんな作品を生んでゆくのだろうか。19世紀の末にイェーツなどを中心にアイルランド文芸復興運動がおこるが、同時に民話や神話や伝説の掘り起こしと記録を進める運動も起こった。つまり素材は豊富にあるわけだ。これらの素材にどう新しい命を吹き込むのか、あるいは「ブレッドウィナー」のように新しい世界を開拓してゆくのか。これからが楽しみだ。

 最後にもう一度原作に戻ろう。原作のラストはパヴァーナとショーツィアとの別れの場面。2人は20年後の春分の日に再開することを誓い合う。パヴァーナが「どこで?」と聞くとショーツィアは「パリのエッフェル塔のてっぺんよ!」と答える。ショーツィアと別れた後、パヴァーナは一人思いにふける。「二十年。その二十年の間に、いったいなにが待ち受けているのだろう。自分は、まだアフガニスタンにいるだろうか?この国に平和がやってきて、自分は学校にかよい、仕事を持ち、結婚することができるだろうか?」原作が出版されたのは2000年だ。その時は予想もしていなかっただろうが、翌年の9月11日にアメリカであの同時多発テロが起きる。10月には対テロ戦争と称してアメリカなどによるアフガニスタンへの空爆が始まる。以後アフガン紛争はもつれにもつれて、いまだに終結を見ない。そのような状況のもと、2019年の12月に映画版「ブレッドウィナー」が日本で公開された。僕が見たのは2020年である。つまり今年がその20年後なのだ。この20年の間に、パヴァーナが願った事柄のうち一体どれだけが実現されたのだろうか。正直あの二人がパリのエッフェル塔のてっぺんで出会えるとは思えないのが悲しい。そう想いを馳せた時、この現実の重みがわれわれの肩にずっしりと食い込んでくる。

【おまけ 2010年以降のおすすめアニメ】
「ウルフウォーカー」(2020)トム・ムーア、ロス・スチュワート監督、アイルランド・他
「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(2019)片渕須直監督、日本
「ディリリとパリの時間旅行」(2018)ミッシェル・オスロ監督、仏・独・ベルギー
「ペンギン・ハイウェイ」(2018)石田祐康監督、日本
「ブレッドウィナー」(2017)ノラ・トゥーミー監督、アイルランド・カナダ・ルクセンブルク
「メアリと魔女の花」(2017)米林宏昌監督、日本
「夜明け告げるルーのうた」(2017)湯浅政明監督、日本
「リメンバー・ミー」(2017)リー・アンクリッチ監督、アメリカ
「エセルとアーネスト ふたりの物語」(2016)ロジャー・メインウッド監督、英・他
「この世界の片隅に」(2016)片渕須直監督、日本
「アヴリルと奇妙な世界」(2015)クリスティアン・デマール、他監督、仏・ベルギー・加
「ロング・ウェイ・ノース地球のてっぺん」(2015)レミ・シャイエ監督、仏・デンマーク
「思い出のマーニー」(2014)米林宏昌監督、日本
「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」(2014)トム・ムーア監督、アイルランド、他
「かぐや姫の物語」(2013)高畑勲監督、日本
「父を探して」(2013)アレ・アブレウ監督、ブラジル
「しわ」(2011)イグナシオ・フェレーラス監督、スペイン
「メリダとおそろしの森」(2012)マーク・アンドリュース、他監督、米
「おおかみこどもの雨と雪」(2012)細田守監督、日本
「夜のとばりの物語 ―醒めない夢―」(2011)ミッシェル・オスロ監督、フランス
「夜のとばりの物語」(2010)ミッシェル・オスロ監督、フランス

 

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