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2020年8月13日 (木)

梁石日『血と骨』と映画版「血と骨」

 このところ家にいる時間が増えたせいで、ブログの更新頻度もぐっと上がってきています。かといって本格的な映画レビューを書くにはまだ早い。とてつもない集中力がいるので、そこまで復帰するにはまだまだ時間がかかるでしょう。そこで比較的楽なリストをあれこれ掲載して間を持たせているわけです。何かまだ使ってないネタはないかとパソコンのファイルや日記(フリーソフトの「そら日記」)や本棚を点検してみるといろいろ出てきます。例えば昔買った映画のパンフレット。と言っても個々の映画のパンフではなく、いろんな特集上映のパンフなどは情報満載です。中でも資料的価値が高いのは京橋のフィルムセンター(今は国立映画アーカイブという名称に替わったらしい)の特集パンフです。例えば「韓国映画――栄光の1960年代」なんてパンフが出てきて、こんなものいつ買ったんだと仰天しました。ざっと見ただけでもすごい資料がゴロゴロある。まさに宝の山。いずれじっくり目を通して、何らかの形でブログに反映したいと思っています。

 と言うことで、今回はだいぶ前に書いた文章ですが「血と骨」を掲載します。映画版についてはとっくに本ブログに掲載してあったつもりでしたが、いくら探してもない。そこで原作本の書評と映画版の短いレビューを併せて掲載します。以前『飢餓海峡』でやったのと同じやり方です。例によって長い文章で申し訳ありませんが、ツイッターのような短い文で一つの作品を論じきれるはずはないと思いますので、今後も時代に逆らって長い文章(リスト)を掲載してゆくつもりです。

 

梁石日著『血と骨』(幻冬舎文庫)
 『血と骨』を読み出したらむさぼるように読み耽った。下巻は2日間で読んでしまった。それほど面白かった。主人公金俊平のすさまじい存在感が圧倒的だ。妻の英姫のしたたかな存在感もかなりのもので、上巻はむしろ彼女の方が主人公だった気さえする。自己中心で家族のことなど一切顧みない俊平と、自分と子どもたちを何とか彼の暴力から守ろうとする英姫の関係が上巻のテーマだ。しかし下巻では俊平と英姫の関係は完全に断ち切れて、新しい妾が2人も現れる。そしてテーマは息子の成漢との親子の対立に移る。金俊平も最後は哀れである。さすがの彼も年には勝てない。突然歯が抜けて総入れ歯になり、老眼鏡をかけるようになる。ついに脳梗塞で下半身が麻痺してしまう。動けない金俊平はもう脅威ではない。愛人の定子に金を奪われ、散々殴られてもどうすることも出来ない。ついには北朝鮮に帰り3年後に死ぬ。

 日本文学にこれほど強烈な存在感を持った主人公がいただろうか。いや世界中を探してもいなかったように思う。ここまで徹底して自己中心的に人はなれない。しかもそれに暴力が加わると強烈だ。解説によると日本の純文学の世界ではほとんど話題にならなかったようだが、純文学の世界の狭さが逆にそのことから浮き彫りになる。(注)またその解説も的外れだと感じた。オイディプスを例に取り運命論を論じるが、金俊平に運命論は当てはめることは無理だ。英姫やその子どもたちは確かに俊平との出会いや血のつながりに運命を感じているが(英姫はいつもこれも運命だと自分に言い聞かせていた)、金俊平の自己中心性と暴力性は運命論とは関係ない。彼に運命があるとしたら、どんなに頑丈な人間も最後には老いて衰えてゆくということだが、それも当たり前のことであって運命論などと言うほどのことではない。彼の超絶性も論じているが、確かにそれはある。彼の際立った存在感は彼の人並みはずれた膂力と暴力性から来ている。しかしこの作品は徹底してリアリズムで書かれており、彼の人物形象に何らかの象徴性や観念を読み込むことは危険である。ただ乱暴で強いだけの主人公なら他にもたくさんいる。だが金俊平が際立っているのは家族に対する冷酷なまでの冷たい対応である。世間の常識を歯牙にもかけないその反社会性こそ彼の真骨頂である。最後まで金にしがみつき、他人を信用しない。子どもの学費すら出し渋る。怪物と呼ばれるゆえんだ。

 しかしそんな彼にも跡継ぎの男児をほしがるという気持ちはある。ひたすら男児にこだわる。もっとも、生まれたらすぐ関心を失ってしまうのだが。祖国が分断されたことにさえ関心を示さない男で、世間の常識というものからはおよそへだたった考え方をする彼にも、唯一世間が理解できるこだわりがあったのだ。だが、自分の跡継ぎを望むというのも、実は自己保存本能から発しているのではないか。死ぬまでは自分の金は決して手放さないが、死んだ後は男児に残す。そんな考えがあったのではないか。『血と骨』というタイトルもここからきている。「血は母より受け継ぎ、骨は父より受け継ぐ」という朝鮮の巫女の歌から取られている言葉だ。だが、いくら妻や子どもを虐待しても血のつながりだけは断ち切れなかったという意味ではないだろう。俊平は愛情表現が下手なだけで、本当は子どもを愛しているということではない。「血と骨」は家父長制を象徴する言葉だが、反社会的な俊平でも家父長制的な血のつながり、いや、骨のつながりだけはさすがに重んじていたということではないだろう。物語の展開からはむしろ息子さえ自分の財産の一つだと彼は考えていたという方が当たっている気がする。どこまでも自己中心的な男なのだ。病気で足が立たなくなって哀れな状態になったときでも、泣き言は言うが、決して妻や子どもたちもこういう思いをしていたんだと思い至ることはない。家長たる自分を世話するのは当然なのに、誰も見向きもしないのはけしからんと思うばかりだ。

 彼とても完全に世間から隔絶しているわけではない。子どもを学校に行かせようとする。学費は出し渋るが。高信義とはなんとか友人関係を保っている。警察には抵抗しない。何よりも日本人には手を出さない。妾にした日本人には暴力を振るうが、それ以外の日本人には手を出さない。所詮、彼の力が及ぶ範囲は在日朝鮮人の間だけである。あちこちを放浪していた時期もあるが、基本的には在日朝鮮人社会の範囲の中で生きてきた。作者も世界大恐慌や第二次世界大戦などの歴史的大事件も、わずかに言及するだけであっさり通り過ぎてしまう。日本がどんなに揺れ動き変化しても、朝鮮人社会は昔と少しも変わらないのだ。ただ大人は老いてゆき、子どもがいつの間にか大人になってゆくだけである。街並に何の変化もなく、ただ古びて行くだけなのだ。作者は意識して年代を明記していない。世界大恐慌や第二次世界大戦などの言及で物語が1929年の世界大恐慌の少し前に始まり、70年代後半ごろに幕を閉じると大まかに推測できるだけである。そうしたのは俊平の意識に合わせているからだ。彼は字が読めないので新聞も読めない。世間の動きなどはほとんど知らない。ただ金儲けには敏感で勘が働き、戦後の混乱期に蒲鉾工場を立ち上げて大もうけする。金とセックス。彼は欲望に徹底して貪欲な人間だったのだ。

(注)
 昔はともかく、2000年前後から現在までに限ってみると、「芥川賞」を受賞した作品よりも「直木賞」受賞作品の方がはるかに面白い。もはや純文学などというものはごく限られた人たちだけが仲間内だけで楽しんでいる「オタク」の世界になってしまったと言って良いのではないか。読んでもいないのに批判するのもなんだが(何せ到底読む気になれないので)、名前も覚えないうちにほとんど消えて行っているように思うのは気のせいか?ごく一部生き残っている人は、おそらくもう「純文学」の世界からはみ出ている人たちではないか。直木賞の大衆作家よりも芥川賞の純文学作家の方が上だという苔が生えたような意識がいまだにあるが、これは全くの幻想だと断言したい。むしろ逆転しているというのが実感だ。現実世界から隔絶した世界に逃げ込み、頭の中ででひねり出した絵空事の世界。中上健次のような人はもうこの領域からは出てこないだろう。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「血と骨」(2004)  崔洋一監督
  出演: ビートたけし、鈴木京香、新井浩文、田畑智子、松重豊、オダギリジョー
     中村優子、唯野未歩子、濱田マリ、柏原収史、塩見三省、北村一輝、國村隼

 原作を先に読んでいるので、映画版はどうしても原作と比較してしまう。当然物足りない。なにより金俊平の超人的強靭さ、悪魔的凶暴さが出ていない。金俊平は2m近い大男である。ビートたけしはがっちりしてはいるが大男ではない。まあそれは仕方がない。そんな男捜して見つかるものでもない。たけしも頑張ってはいるが、何せ原作の主人公は他に類例を見ない怪物である。ヤクザさえも避けて通るという、そこにいるだけでぞっとする人物を生身の人間ではあらわせない。

 金俊平は原作者梁石日の実の父がモデルで、実際相当乱暴で家族のことなど歯牙にもかけない男だったようだ。小説ではその実父をさらにフィクションとして膨らませ、非人間的な怪物に仕立て上げている。体躯も凶暴性も拡大させている。それゆえ金俊平そのものの存在感が原作全体を通じて圧倒的に読者に迫ってくる。博打に明け暮れ、性欲が旺盛で、酒を飲んでは大暴れして家族に暴力を振るい、物を破壊する。何が彼をそうさせるのか。小説はそれを深く追求はしない。とにかくそういう男なのだ。金に目がなく、貸した金は脅してでも取り立てる。一方で必要な金でも出し渋る。徹底的に自己中心的で、己の欲望のままに振舞った男。それが金俊平だ。映画では朝鮮から日本に向かう船に乗っていた若いときの金俊平は紅顔の美青年になっている。俊平が再び北朝鮮に戻って死ぬ直前にまたその船の場面が出てくる。何がこの青年をこんな怪物に変えてしまったのかと問いかけているようだが、原作では若いときからとんでもない男だったのである。映画でも息子(オダギリジョー)が突然出現するが、朝鮮にいたとき既に息子を作っていたのだ。小説だからこそ描きえたこの怪物、それを映画で再現すること自体無理なのだ。

 映画ではどうしても演出効果を狙って乱暴なセックスや大喧嘩の場面をクローズアップするが、原作では暴力やセックス自体に(すさまじい描き方はされているが)焦点が当てられているわけではない。そうしてまで己の財産を守ろう、欲望を満たそうとするすさまじいまでの彼の執念、彼の内面から湧き出てくる抑えがたい黒い欲望にこそ焦点があてられている。文盲で字の読めない金俊平は時代の移り変わりなどまったく気にかけない。戦争も帰国問題もただ彼の上を通り過ぎてゆくだけだ。にもかかわらず金儲けにだけは異常に勘が働く。「血と骨」は徹頭徹尾自己保存本能と自己の欲望に従って生きた男の研究なのである。映画に描かれたのはただの暴力的でセックス狂いの男に過ぎない。

 もう一つ大きな不満は鈴木京香演じる妻の李英姫がまったく添え物にしかなっていないことだ。原作では前半の主人公はむしろ彼女だった。自分と子どもたちを何とか俊平の暴力から守りぬく英姫のしたたかな存在感は俊平に劣らず圧倒的だった。しかし映画ではほとんど脇役になっていた。彼女の演技をほめる人が多いが、どこを見てそう思うのかまったく理解しがたい。さらにもう一人原作者がモデルの正雄(新井浩文)の存在感がない。もっといい俳優はいなかったのか。「血と骨」というタイトルの持つ意味合いもほとんど追求されていない。

 まあ、ないものねだりをすればきりがない。映画化作品の場合原作のかなりの部分を切り捨てなければならない。原作との比較はやめて、純粋に映画としてみればかなり健闘した方だろう。当時の朝鮮人町の町並みや雰囲気は見事に再現されている。実物を知っているわけではないが、おそらくこんな感じだったろうと思わせるものはある。原作以上に韓国語が頻繁に使われている。実際はそうだったのだろう。小説の場合日本語で書かれているので韓国語は限定して使われている。美術部の努力は称賛していい。

 たけしも確かに熱演している。原作の主人公には及ばないものの(繰り返すがそもそも無理なのだ)映画に出てくる人物の中では際立った存在感がある。他の役者もそれなりにうまく演じているが、たけしと比べると陰が薄い。むしろこの映画の中でたけしと並んで存在感があったのは近所の無名の人たちだ。見事に再現された町並みもそこに住んでいる人たちがいなければただの物体だ。町には人があふれ、子供たちが走り回り、母親たちがあちこちで洗濯をしたり立ち話をしており、買い物籠を持った女性が忙しく通り過ぎてゆく。そこには生活があったのである。

 

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