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2010年2月7日 - 2010年2月13日

2010年2月11日 (木)

先月観た映画(09年12月)

「戦場のレクイエム」(07、フォン・シャオガン監督、中国)★★★★★
「懺悔」(84、テンギズ・アブラゼ監督、ソ連)★★★★
「路上のソリスト」(09、ジョー・ライト監督、アメリカ)★★★★
「スラムドッグ$ミリオネア」(08、ダニー・ボイル監督、英・米)★★★★
「天使と悪魔」(09、ロン・ハワード監督、アメリカ)★★★★
「青燕」(05、ユン・ジョンチャン監督、韓国)★★★☆

 またまた「先々月」観た映画になってしまいました。12月に観た映画の短評を今頃載せるのも気が引けますが仕方がない。だいたいもうだいぶ内容も忘れている。観た直後にメモを残しておけばいいのですが、それすらも今は面倒くさい。ああ、また愚痴が出てしまった。反省。1月分は記憶があせないうちにすぐ載せよう。

 「戦場のレクイエム」に関しては別にレビューを載せています。「青燕」についても「エキストラ出演した『青燕』のDVDがでました!」という記事を書いています。そちらを参照してください。

「路上のソリスト」
 「プライドと偏見」、「つぐない」のジョー・ライト監督作品。画家と音楽家の違いはあるが、ドキュメンタリー映画「ミリキタニの猫」を思わせる作品である。あるいはこちらもドキュメンタリーだが「未来を写した子供たち」にも通じるものがある。世間に知られず、埋もれている人々。ある人物がたまたまそういった人たちと知り合い、その才能に注目し、やがては何とかその境遇から救い出そうと行動を起こす。これが上の3つの作品に共通する要素だ。

 この映画を支えているのは何といってもジェイミー・フォックスの存在である。「Ray/レイ」は未見だが、「ドリームガールズ」や「ジャーヘッド」でもいい味を出していた。いろんな役091123 ができそうだが、ミュージシャンが今のところあたり役か。かつてのヒッピーのような格好をして、ゴミ清掃カートをごろごろ転がしながら移動する姿。音楽を演奏する時の、ものに憑かれたような集中力と恍惚感。ホームレスの天才音楽家ナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)は実に特異で珍妙な男だ。コミュニケーションを取るのも容易ではない。なにせ早口でよく意味の分からないことを一方的にぶつぶつとしゃべるのだ。しかしその才能の豊かさにLAタイムズの記者スティーヴ・ロペス(ロバート・ダウニー・Jr)はたちまち引き付けられてしまう。

 これだけの才能を持ちながら、なぜナサニエルはホームレスになってしまったのか。スティーヴとナサニエルの心の触れ合いを描きながら、同時にナサニエルの過去をあぶり出してゆく展開。さらにロサンジェルスの下層社会の実像をナサニエルを通して描きこみ、同時に新聞記者であるスティーヴの苦悩と葛藤(ナサニエルは最初取材の対象であったが、やがて友情を感じる存在になる、その距離の取り方の難しさ)も描いてゆく。

 さまざまな要素を取り入れながらスティーヴとナサニエルの関係を中心に描いてゆく。期待以上にいい映画だと思ったが、残念ながら「ミリキタニの猫」や「未来を写した子供たち」には及ばなかった。おそらくスティーヴに比重をかけすぎ、その分ナサニエルという人物の掘り下げが浅くなってしまったのではないか。「ミリキタニの猫」と「未来を写した子供たち」も「観察する側」がかなり映画の中に入り込んでいるが、そのことがむしろ「対象」により深く切り込み、より問題の困難さに迫ることにつながっている。深くかかわることによって「対象」という冷たい響きの存在から深い絆によって結ばれた生身の存在に変わってゆく。もちろん「路上のソリスト」もそういう展開にはなっているのだが、2本の優れたドキュメンタリー作品に比べると深みに欠ける気がする。「ミリキタニの猫」と「未来を写した子供たち」では「観察する側」が監督を兼ねているが、「路上のソリスト」では「対象」であるナサニエルも観察するスティーヴもともに出演者であり、監督はまた別にいる。その分より間接的な描き方になっていると言うことも出来るかも知れない。

 「扉をたたく人」との比較も有益だろう。観る前はどちらも同じような映画だろうと思っていた。心の隙間を抱えた男が、見知らぬミュージシャンと知り合い、次第に心を通わせてゆく。そういう展開だろうと思っていた。「路上のソリスト」は確かにそういう展開の作品だった。しかし「扉をたたく人」は途中から予想もしない展開になってゆく。9.11後のアメリカを覆っている不信感と不安感と疑念が痛いほどリアルに描かれている。「扉をたたく人」が描いた世界は「路上のソリスト」より遥かに深刻なアメリカの現実だった。個人の善意の限界、それを阻む社会の厚い壁。「扉をたたく人」と比べると、「路上のソリスト」は何ともストレートな作品に思える。「ミリキタニの猫」や「未来を写した子供たち」も「扉をたたく人」に比べればストレートな展開だが、「ミリキタニの猫」には第二次大戦中日系人が敵国人として受けた深い傷が根底にあり、「未来を写した子供たち」の子供たちは常に社会的矛盾の中で描かれている。「路上のソリスト」は結局個人の善意の範囲を超えられなかった。しかしそれでも凡百の作品に埋もれなかったのはジェイミー・フォックスの熱演があったからである。

「懺悔」
 「懺悔」が作られた1984年頃は三百人劇場での特集をはじめ結構日本でソ連映画を観る機会があった。ちなみに84年は4月から5月にかけて三百人劇場で「ソビエト映画の全貌PART2」という特集上映があった。87年にも4月から5月にかけて「ソビエト映画の全貌‘87」が開催された。その時の目玉は長いことソ連で上映禁止になっていた「道中の点検」。おそらく「懺悔」の評判を聞いたのはその頃ではないか。新聞でも取り上げられたと思う。「道中の点検」が上映されたのだから、「懺悔」もいずれ近いうちに観られるようになるだろう、当時はそう思っていた。しかし実際は08年末に岩波ホールで公開されるまで20年近く待たされることになった。

 当然期待して観た。しかし期待値が高かっただけに期待したほどではなかったというのが正直な感想。ただ確かに問題作ではある。最初の20分くらいまでは「これは大はずれか」と危惧したが、さすがに後半はぐいぐい惹き付けるものがあった。ただどうしても物足りないという気持ちが残る。もっとリアリズムに徹した作品かと思っていたのでややがっかりした面はあるが、理不尽さが通ってしまう社会の怖さは伝わってくる。しかしあの独裁者の描き方には疑問もある。シュールな感じの演出も疑問だ。危機感や恐怖感がかえって薄らいでしまう。どこか現実味の薄いフィクションのような感じで、リアリティに欠けると感じた。

 もちろんリアリズムでなければこの映画のテーマを描けないというわけではない。小型スターリンのような市長ヴァルランによる不当で苛烈な弾圧。その弾圧で両親を失った女性がヴァルランの遺体を3度も墓から掘り返す。裁判で被告の女性が過去のいきさつを語り始める。つまり主題はスターリニズム批判である。

 そういう主題であれば、弾圧の実態をつぶさに描き出す手法が普通取られる。しかしあまりに悲惨な現実を、その苛酷な現実から目をそらさずにかつシュールな演出やユーモアの味付けをして描き出す手法もある。ボスニア紛争をシュールに笑い飛ばしたエミール・クストリッツァ監督の「ライフ・イズ・ミラクル」、ナチ占領下でユダヤ人をかくまった一家の緊張の日々をユーモアを交えて描いたチェコ映画の傑作「この素晴らしき世界」、ボスニア紛争をユーモアを交えて描いた「ビューティフル・ピープル」。あるいはチャップリンの「独裁者」のように、独裁者を徹底的に風刺してこき下ろすやり方もある。

 「懺悔」もシュールでユーモラスであり、風刺もされている。そういう手法を用いた結果、ヴァルランという何とも個性的で、つかみどころがなく、悪人か善人か判別し難い摩訶不思議な人物像が出来上がった。その意味では確かに強烈な個性を持ったキャラクターである。独裁者らしい残虐さや冷酷さなどほとんど感じられない。マサラ・ムービーよろしく突然歌いだしたりする破天荒さ。

 ありきたりの独裁者像にしたくなかったという意図は理解できる。粛清される人々を連行して行くのはナチスやゲシュタポのように姿を見ただけでぞっとするような連中ではなく、鎧兜を身にまとった中世の騎士のような輩をあえて登場させている。これも風刺としてみれば091004_15 分からないではない。しかしこれらの演出が積み重なって得られるのは強烈な個性はあるが、しかしグルジアのあるいは旧ソ連のある時期の歴史に深く関与した人物という面が薄れてします。彼のもとで呻吟した人々の苦しみや悲しみも同様である。これでは在職中に汚職をした市長やセクハラで職を追われた市町でも何でもいいことになってしまう。そこが問題なのだ。

 テンギズ・アブラゼ監督は幻想的で不合理な作品を意図したようだ。確かにいわれのない弾圧は不合理だが、この映画はその不合理さを描くのではなく、ヴァルランという人物の支離滅裂さを描いている。だからこの映画は焦点が定まらず、変な独裁者が出てきて面白かったという作品になってしまっている。どうやら歴史的事実を具体的に描くと主題が矮小化されてしまうという、昔からある誤った理解に彼はからめとられているようだ。それは全くの誤解だ。具体的に描かれているからこそ50年も100年もあるいはもっと前の出来事や物語でも今読んであるいは観て理解し、共感し、その世界に入り込むことができるのである。過去の作品が持つ普遍性とはそういうことだ。寓意化や抽象化から生まれるのは普遍性ではなく一般化である。人は時空を超えて生きることはできない。人間の悲劇は人間が時間と空間に縛られているからこそ生じるのだ。「懺悔」はその具体性が弱いためにドラマ性が弱まってしまった。

 もちろんフィクションは自分が置かれている状況から逃れたいという人間の願望を描くことができる。それはフィクションの持つ重要な機能だ。ファンタジーのような、現実味は薄いがそれはそれとして想像の世界を楽しむというタイプの作品もある。しかし「懺悔」は一方でグルジアの人々が経験した過酷な現実も描いている。いや、主題からしてそれを描かずには成り立たない。ヴァルランがあっけらかんとして言う「暗闇の中でも猫を見つけられる たとえ猫がいなくても」という言葉は、実はぞっとする言葉である。猫を不穏分子と置き換えればよく分かるだろう。そんなものは実際にはいなくてもいくらでも作りだせるというのだ。にもかかわらず、そんな市長の死を心から悼むたくさんの市民がいる。これも怖い話だ。

 あるいはラストの印象深い会話。一人の老婆がニノに道を尋ねる。「この道は聖母教会へ通じていますか。この道では教会へ行けないのですか。」ニノ「ここはヴァルラム通り。教会へは通じてないわ。」老婆「教会に通じない道が何の役に立つのですか。」この街は神に見放された街だ。宗教的な表現だが、それが言わんとしていることはよく理解できる。寓意的な表現でもうまく使えば大きな効果を発揮する。しかしその根底にはリアルなドラマがなくてはならない。

 要するに「懺悔」は中途半端な作品なのだ。映画の芯になる葛藤がリアルに描かれていない。たぐいまれな独裁者を創造し、印象に残る場面をいくつも作り上げたが、結局はその摩訶不思議で支離滅裂な世界を楽しむ作品になっているのではないだろうか。

 もちろんあまりストレートに体制批判をできないという時代の制約もあったのかもしれない。いずれにしても、当時のソ連は抽象的ではあれこういう作品が作られる状況になっていたということである。ゴルバチョフ政権が誕生したのはこの作品が製作された翌年の1985年である。

「スラムドッグ$ミリオネア」
  ダニー・ボイル監督作品は「シャロウ・グレイブ」、「トレインスポッティング」、「ザ・ビーチ」、「ストランペット」、「ヴァキューミング」、「28日後…」、「ミリオンズ」と観てきた。「スラムドッグ$ミリオネア」は作品系譜としては「ミリオンズ」に近い作品だと言えるだろう。 スリリングな展開だが基本的にはご都合主義のラブ・ロマンスという枠をそれほど出てはいないと感じた。クイズの答えはスラムの生活の中で学んだという設定は面白いが、クイズの問題がすべてたまたま彼の知っていること重なるというのはあまりに都合よくできすぎている。インドのスラム街での生活もそれほど過酷だとは感じられなかった。

 脚本のサイモン・ボーフォイは「マイ・スウィート・シェフィールド」や「シャンプー台の向こうに」の脚本を書いた人。警部役のイルファン・カーンはどこかで見たことがあると思いつつ観ていたが、後で調べてみたら「その名にちなんで」や「ダージリン急行」に出ていた人だった。

  サッチャーが首相を務めていた重苦しい80年代が過ぎ、90年代に入ってイギリス映画は一気に花開いた。一時の停滞を抜けだし、さまざまなタイプの作品が次々に登場した。090608_16 特徴的なのは文芸映画、アート系映画などの昔から得意だったジャンルに加えて、貧困・失業・ストを描いた映画や犯罪や薬中・アル中を描いた映画がたくさん作られるようになったことだ。イギリスを福祉国家からアメリカのような、食うか食われるかの競争国家に変えてしまったサッチャー政権の生々しい傷跡が映画の中で描かれるようになった。

  一方その反動でハッピー・エンドの成功物語が作られるようになった。「ブラス!」、「フル・モンティ」、「リトル・ヴォイス」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「シーズン・チケット」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「キンキー・ブーツ」等々。しかし2000年代に入ってからは、この手のハッピーな映画よりはケン・ローチ作品に代表されるような現実を厳しく見つめた作品が主流になる。

  ダニー・ボイル監督の作品でいえば「シャロウ・グレイブ」、「トレインスポッティング」、「ストランペット」、「ヴァキューミング」あたりが後者の系統(アメリカに渡って撮った「普通じゃない」、「ザ・ビーチ」、「28日後」はいずれも凡作)。元々リトル・アメリカと化したイギリス社会の底辺でもがく人物たちを疾走感たっぷりに描く作風で出発した人だ。

 「ミリオンズ」は主人公の男の子がたまたま大量のポンド札が入った袋を手に入れるが、奪った金を横取りされた間抜けな強盗に追われるというドタバタ調の展開になり、最後はファンタジーの様に終わる。「スラムドッグ$ミリオネア」はインドのスラム街の悲惨な現実を描くという点では従来の路線の延長線上にある作品だが、同時に愛とお金を手に入れる成功物語でもある。貧困・犯罪ものと成功物語を統合したような作品が生まれたことになる。その意味では興味深い作品だ。しかし残念ながらケン・ローチ作品のような深みには欠ける(この作品のみならず、最初から一貫してそうだった)。

 このところいかにもイギリス映画らしい彼の屈折した持ち味が薄らいできているように思う。ねじれにねじれながら疾走する彼の持ち味で現実にもっと深く食い込んだら傑作が生まれるかもしれない。

「天使と悪魔」
  「ダ・ヴィンチ・コード」と同じような作り。展開が速すぎて話についてゆくのが大変だというのも前作と同じ。ただ、今回は原作を先に読んでいないので映画として楽しめた。内容については特に言うことはない。とにかく楽しめばいい映画なのだから。

 ただ、あのあわただしく展開するテンポの速さは考えものだ。もっと謎解きをじっくり楽しむ展開にした方がいいと思う。『ビッグコミックオリジナル』に連載された「イリヤッド 入矢堂見聞録」(東周斎雅楽原作・魚戸おさむ画)は面白かったなあ。謎の大陸アトランティスの探索が主題だが、謎の暗殺集団である「山の老人」が出てきたり、テンプル騎士団、アガメムノン、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、秦の始皇帝の墳墓、さらにはシュリーマンやナチスまで絡んでくる。その壮大さと荒唐無稽さがたまらない。星野之宣の『ヤマタイカ』や『宗像教授伝奇考』も大好きだ。

 もっと謎を謎として楽しむ映画があってしかるべきだ。調べれば調べるほど謎が深まる。そういう展開がいい。しかし「天使と悪魔」のテーマではそこまでの広がりはない。そうだ、誰か「イリヤッド 入矢堂見聞録」を映画化してくれないかなあ。「ロード・オブ・ザ・リング」の向こうを張って三部作にするというのはどうか。どうせ作るならそれぐらい壮大な映画を作ってみてよ。

戦場のレクイエム

2007年 中国 2009年1月公開
評価:★★★★★
監督:フォン・シャオガン
脚本:リュウ・ホン
撮影:リュイ・ユエ
出演:チャン・ハンユー、ドン・チャオ、ユエン・ウェンカン、タン・ヤン     
    リャオ・ファン、ワン・バオキアン、フー・ジュン、レン・クァン

 まず、フォン・シャオガン監督(馮小剛、1958年北京生まれ)のことから始めよう。最初に観た彼の映画は「ハッピー・フューネラル」 (2001)。03年の公開だが、中古で買ったDVDで05年に観た。ここまでやるかとあきれるほどにハチャメチャなコメディである。それまでに数十本の中国映画を観ていたが、中国映画というと人間ドラマをじっくり描くというイ100108_42_2 メージだった。初めて観た中国のコメディ映画はチャン・イーモウ監督の「キープ・クール」。04年に観ている。これも非常によくできたコメディだった。ねじれにねじれた状況をとことん突き詰めて笑いをとるというタイプで、実に新鮮だった。この映画を観て日本製コメディ映画のレベルの低さを改めて思い知らされた。この2本の映画を観て以来、中国のコメディ映画というと僕の中ではこの2本のイメージがどうしても付きまとってしまうほどである。

 フォン・シャオガン監督がかかわった映画で次に観たのが「わが家の犬は世界一」 (2002)。フォン・シャオガンは製作総指揮を務めている。中国の庶民生活をあきれるほど赤裸々に、リアルに描いた人情喜劇である。そして3本目に観たのがこの「戦場のレクイエム」 (2007)。この映画を観て改めてフォン・シャオガン監督に関心を持ち、他にどんな映画を撮っているか調べた。そしてアマゾンで手に入れて次に観たのが「イノセントワールド 天下無賊」 (2004)である。「女帝(エンペラー)」 は「LOVERS」タイプの映画らしいので、端から観る気はない。参考までに彼のフィルモグラフィーをあげておこう。初期の作品はほとんど日本未公開だが、一部映画祭などで短期上映されたことがあるようだ。未公開作品は二重かぎかっこを付け、原題を示してある。

フォン・シャオガン監督フィルモグラフィー
 「戦場のレクイエム」 (2007)
 「女帝(エンペラー)」 (2006)
 「イノセントワールド 天下無賊」 (2004)  
 『手機』(2003) 「わが家の犬は世界一」 (2002) 製作総指揮 
 「ハッピー・フューネラル」 (2001)
 『一声嘆息』(2000)
 「ミレニアム・ラブ」 (1999)
 「遥かなる想い」 (1998)
 「夢の請負人」 (1997)
 『天生胆小』(1994)
 『大撒把』(1992)
 『遭遇激情』 (1990)

 * * * * * * * * * * * * *

 『戦場のレクイエム』は前半と後半ではかなり趣が異なる。国共内戦でもっとも熾烈とされた淮海(わいかい)の戦いを描いた前半部分は、スピルバーグの「プライベート・ライアン」や韓国の「ブラザーフッド」、あるいはアメリカのテレビドラマの傑作「バンド・オブ・ブラザーズ」を思わせるリアルな戦闘場面が展開される。ところが後半はガラッと打って変わって「蟻の兵隊」(2006、池谷薫監督、ドキュメンタリー映画)のような展開になってゆく。前半と後半の境目の部分(朝鮮戦争の部分)は切り替わった最初のうちやや戸惑うが、違和感なく後半へとつながってゆく。こういうタイプの映画はかつてなかった。そういう意味でユニークな映画である。

 前半の戦闘シーンは「ブラザーフッド」を撮った韓国の技術スタッフの協力を得て撮影されたものである。なるほどだからあれほどリアルな戦闘場面が描けたのかと納得するが、ただそのリアリティはヴァーチャルなリアリティだということを付け加えておくべきだろう。当時の解放軍があれほど洗練された戦闘技術を持っていたとは思えない。ましてや振り向きざまに撃った弾が敵にあたるなど現実にはまずあり得ない(同じことを他の人も指摘していた)。つまり、格好良すぎる。あのリアリティは現実の国共内戦を基にしているのではなく、アメリカの戦争映画を基にして作られていることを認識しておくべきだ。あくまでヴァーチャルなリアリティなのである。

  冒頭の市街戦場面はスタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」を思わせるが、その戦闘で軍規違反(捕虜の射殺)を犯した人民解放軍のグー・ズーティ連隊長と第9連隊はリウ・ゾーシュイ団長から旧炭鉱の防衛を命じられる。「旧炭鉱を正午まで守りきれ。集合ラッパを合図に随時撤収。」最前線に送られたグー・ズーティ連隊長と47名の兵士たちは、結局撤退する味方を前線に残って援護する捨石の役割を負わされた。次から次へと押し寄せる圧倒的な数の敵に中隊はグー中隊長を除いて全滅してしまう。

 この戦闘場面を観て韓国映画の傑作「帰らざる海兵」(1963、イ・マニ監督)を思い出した。この映画でも陽動作戦のおとりの役割をさせられた部隊は3人を除いて全滅する。後から後からまるで地から湧いてくるような中国軍(朝鮮戦争が舞台、ここでは中国軍は敵である)の数に圧倒される。40年以上も前の映画だが、その迫力は今観てもかなりのものだ。アメリカで映画の技術を学んできた韓国の若い映画人が90年代に次々と国際的水準の作品を作り始めたことはよく知られている。しかし韓国はずっと前からアメリカや日本から映画について学んでいたことが「帰らざる海兵」や「誤発弾」(1961、ユ・ヒョンモク監督)を観ればよくわかる(韓国映画の最高傑作とかつて言われた「誤発弾」を観ていて、しばしば日本映画を観ているような錯覚に陥ったものだ)。

 話を「戦場のレクイエム」に戻そう。この前半部分は単に戦闘場面の凄絶さ、リアルさだけに注目すべきではない。後半の部分のテーマとつながるある重要な場面が描かれる。グーは敵の砲弾を受けて一時的に耳が聞こえなくなってしまう。戦闘のあいまに小隊長の100108_45 ジアオが「集合ラッパを聞いた」と言い出す。だがグーには聞こえていなかった。耳が聞こえなくなっていたために聞こえなかったのか、それとも全滅が必至のこの状況から逃れたいための虚言か。隊員の意見は分かれる。迷った末、グーは突撃を命ずる。戦闘アクションを別にして、ドラマとしてみればこの場面が前半の山場だった。

 突撃か撤退か。ソ連映画の傑作「道中の点検」でパルチザンたちが迫られた決断(ドイツ軍の軍用列車が走っている橋を爆破しようとしていた時、ちょうどその下を味方の捕虜を乗せたはしけが通りかかった、爆破すべきか否か)を思わせる緊張の場面だった。あの時ラッパは鳴ったのか。自分がラッパを聞き逃したために兵をむざむざ全滅させてしまったのか。一人だけ生き残ったグーの心をこの疑問が苛んでいたに違いない。

 グーの心を悩ます問題がもう一つあった。激戦地准河(わいが)の戦闘で戦死した47名の兵士が全員失踪者扱いされているという問題である。そんなはずはない。彼らはみんなあの戦場で戦って死んだのだ。戦死者たちが敵の手に渡らないよう遺体を洞窟の中に集めたはずだ。突撃の時にワン指導員の手によって爆破させたあの洞窟のあたりに兵士たちは今も眠っているはずだ。

 ここから「戦場のレクイエム」は「蟻の兵隊」のような展開になってゆく。「蟻の兵隊」は、日本政府から逃亡兵とみなされ戦後補償を拒み続けられている元日本兵が、当時の真相を掘り起こすために中国に向かい様々な人と出会う様子を描いたドキュメンタリーである。実はここで「戦場のレクイエム」との重要な接点がある。なんと彼らは終戦後も中国に残留させられ、中国国民党系の軍閥と合流して、戦後なお4年間も共産党軍と戦っていたのである。

 主人公の奥村さんたちは、自分たちは「逃亡兵」ではなく、軍の命令によって残留させられたのだと主張する。「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」その真相を明らかにするために彼らは中国に向かったのである。同様に、グーも勇敢に戦って死んでいった部下たちが「行方不明」扱いにされていることを許せなかった。無名戦士の墓を見て「生まれて名前を貰って生きてきたのに、無名として死んでいくのか」とうめく彼の姿にはその無念さがにじみ出ていた。

 奥村さん同様、彼も行動を起こす。一人黙々と元炭坑があったあたりを掘り続ける。やがて遺体が見つかり彼らは名誉を回復される。そしてあの長年彼を悩ませていたラッパの件も最後に真相が明らかになる。

 前半と後半を全く違うタッチにするというのは大胆な試みだが、結果的にそれによって人間ドラマとして深みが増したといえる。さすがは中国映画、アメリカ映画のようにヴァーチャルな戦争場面を楽しむ映画にとどまらず、また韓国の「ブラザーフッド」のようなべたべたした人間関係にならずに、人間ドラマを骨太に描き通した。

 グーの部下たちは最後に革命烈士として認められ、勲章が与えられる。それだけを取り上げると結局兵士たちを英雄として描きたかったと思えるかもしれない。しかしグーがたった一人で地面を掘り続けていたのは名誉欲のためでなかったことは明らかだ。彼を突き動かしていたのは、部下たちは「行方不明」者ではなく確かに戦場で戦って戦死したことを証明したい、そして無名のままの彼らに名前を回復してやりたいという思いだったに違いない。われわれはそこに共感するのである。

 無名戦士の墓というのは考えてみれば残酷である。彼らの一人として名前を持たない者などいない。どこの誰かもわからないまま打ち捨てられ、忘れられていった兵士たち。確かにグーの関心は自分と生死をともにした部下たちに集中しているが、彼らの名前を回復してやりたいという思いで行動する彼の姿を通して、われわれは戦場でむなしく倒れていったすべての兵士たちへと思いをつなぐことができる。

 最後に、グー・ズーティを演じたチャン・ハンユーについて一言。彼の演じたグー・ズーティは実に精悍だった。最初から最後まで彼の存在感が映画を引き締めていた。初めて観た気がしたが、実は「イノセントワールド 天下無賊」などフォン・シャオガン監督作品の常連だという。「戦場のレクイエム」が初めての主演作である。今後の活躍が楽しみだ。

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