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2009年2月1日 - 2009年2月7日

2009年2月 6日 (金)

先月観た映画(09年1月)

「胡同の理髪師」(ハスチョロー監督、中国)★★★★☆
「アクメッド王子の冒険」(26、ロッテ・ライニガー監督、ドイツ)★★★★☆
「アメリカン・ギャングスター」(リドリー・スコット監督、米)★★★★☆
「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督、米)★★★★☆
「やわらかい手」(サム・ガルバルスキ監督、イギリス・他)★★★★☆
「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督、ルーマニア)★★★★
「さらば友よ」(68、ジャン・エルマン監督、フランス)★★★★
「HERO」(鈴木雅之監督、日本)★★★☆

 1月に観た映画の数は8本とまあまあだったが、実に充実していた。満点こそなかったが力作ぞろい。「胡同の理髪師」は久々にレビューを書いたのでそちらを参照してください。それにしても、本格的レビューを書いたのは8月13日の「延安の娘」以来。なんと半年振り。なかなかうまく書けず苦労しました。

「アクメッド王子の冒険」

Peter01l  「アクメッド王子の冒険」は世界最初の長編アニメ(66分)。とても80年前のアニメとは思えない滑らかで自然な動きと、なんと言っても切り絵の芸術的センスに圧倒される。色と音楽は後から付け加えたものと思われるが、黒い影絵部分と彩色を施した背景との組み合わせの鮮やかさはミッシェル・オスロ監督の「アズールとアスマール」と比べても見劣りしない。というよりも、ミッシェル・オスロ監督自身1999年に影絵の手法を使った「プリンス&プリンセス」を作っているくらいだから、かなりロッテ・ライニガーを意識しているのかもしれない。それはともかく、歴史的意義のみならず作品の出来からしても、これまで観たアニメのベスト10に入れてもいい特上の作品である。

 内容は「アラビアン・ナイト」をモチーフにした冒険物語である。ドイツはイギリスのようにケルト文化を引き継いでいないので妖精物語の伝統はない(有名なファンタジーや児童文学のほとんどはイギリスで生まれたものである)。グリム童話に魔女は登場するが(有名な魔女の集会、ワルプルギスの夜という伝承もある)、妖精は出てこない。そこで「アラビアン・ナイト」に目をつけたのだろう。悪い魔法使いとその宿敵の魔女、王子と王女、空とぶ馬とアラジンの魔法のランプ、大コウモリと様々な形の魔物たち。典型的なファンタジーで、波乱万丈のストーリーはテンポよく展開してゆく。善と悪のはっきりした単純なストーリーとテーマではあるが、とにかく芸術的といっていい切り絵の見事さが観客を引き付けて離さない。ちょっとしたところにも様々な飾り付けを施す細かい装飾とその意匠の見事なこと。背景も一色でベタ塗りするのではなく、すかしのように薄く景色や文様を配置している。色彩もグラデーションを多用しているが、決してあざとくはない。

 アニメなのだからストーリー展開の荒さなど細かなところは気にせず、しばし夢の世界に浸ればいい。DVDの映像特典「アート・オブ・ロッテ・ライニガー」(31分)も必見。僕は「アクメッド王子の冒険」のみを収録したDVDを入手したが、DVD3枚組みの「ロッテ・ライニガーDVDコレクション」には短編作品も収録されている。ああ、これも欲しい。

「アメリカン・ギャングスター」

 「エイリアン」と並ぶリドリー・スコットの代表作と呼べる作品に仕上がった。もう1本挙げるとすれば「マッチスティック・メン」か。「ブレードランナー」や「グラディエーター」より好きだ。

 「アメリカン・ギャングスター」の魅力はなんと言ってもデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウの対決。ともに力演だ。面白いのは正義漢のイメージが固着したデンゼル・ワシントンにあえて実在の麻薬王を演じさせたこと。悪役だが、そこはデンゼル・ワシントンが演じているだけに見るからに悪党という役柄ではない。スーツをびしっと着こなし、見かけや立ち居振る舞いはまるで紳士である。家族思いで教会にも通っている。しかし一方で容赦なく人を撃つ冷酷さもある。そういう役作りが功を奏している。「レイヤー・ケーキ」でダニエル・クレイグが演じた役柄、一見普通のサラリーマン風麻薬のディーラー(彼の座右の銘「ゴールデン・ルール」が可笑しい)にどこか通じるものがある。やくざな商売だが、二人ともはそれをビジネスとして割り切っている所は共通する。あるいは「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジとも共通する部分がある。ニコラス・ケイジは自分では人を殺しはしないが、それでいて人殺しの道具(武器)を何の矛盾も感じずに売っている。ダニエル・クレイグもニコラス・ケイジもサラリーマンのようにビジネスライクに「商売」を行っているが、「アメリカン・ギャングスター」のデンゼル・ワシントンはビジネスライクに「商売」を行ないつつ、場合によっては人も平気で殺す。それでいて「紳士」でもあるという点がおもしろいのだ。その意味では「殺人狂時代」でチャップリンが演じたムッシュ・ベルドゥにも通じるキャラクターだ。

 一方の刑事リッチー・ロバーツに扮するラッセル・クロウは警官の汚職がはびこる時代に一切裏金を受け取らない潔癖な男だ。あまりに潔癖すぎて周囲から疎まれ孤立している。しかし私生活では優等生とはいえない。元妻と子供の養育権をめぐって係争中なのである。職場でも家庭でも疎まれているが有能な刑事。女にもてもてのタフガイというタイプはとうに消え去り、今はこういう陰のある多少へタレ気味のキャラクターが映画でも小説でもよく登場する。そういう意味ではユニークではないし、デンゼル・ワシントンに比べればキャラクターとしての強烈さでは劣る。しかし、地道に捜査し、じりじりとデンゼル・ワシントンに迫ってゆくしつこさと執拗さがなかなか出色だ。

 あまりストーリーは詳しく書けないが、ベトナム戦争と絡んだ麻薬の密輸方が面白いし時代を感じさせる。ギャング物としては「インファナル・アフェア」以来の秀作だと思った。

<ラッセル・クロウ マイ・ベスト5>
 「L.A.コンフィデンシャル」
 「インサイダー」
 「ビューティフル・マインド」
 「シンデレラ・マン」
 「アメリカン・ギャングスター」

<デンゼル・ワシントン マイ・ベスト10>
 「遠い夜明け」
 「グローリー」
 「モ’・ベター・ブルース」
 「マルコムX」
 「フィラデルフィア」
 「クリムゾン・タイド」
 「天使の贈り物」
 「ザ・ハリケーン」
 「インサイド・マン」
 「アメリカン・ギャングスター」

「ダークナイト」
 「ダークナイト」はバットマンの映画というよりはジョーカーの映画である。それほどにヒース・レジャー演じるジョーカーに凄みがある。実際バットマンは彼の前ではかすんでいるとすら感じる。

 バットマン・シリーズはこれまであまり真面目に観たことはなかった。しかし「バットマンビギンズ」以降の新生バットマン・シリーズはずっと気になっていた。「バットマンビギンズ」はまだ見ていないが、どうやらそのあたりから単なる活劇からシリアスなドラマに変わったようだ。もはや正義の味方が活躍するアクション物の枠を超え、ダークな世界観の追求という新たな道に突き進んでいったと見るべきだろう。タイトルにバットマンがついていないことは実に暗示的だ。

Cliplo4   「ダークナイト」のテーマは文字通り悪の追求である。「ダークナイト」というタイトルには「闇の騎士」という意味と、つづりは違うが、「暗い夜」という意味の両方がかけてあるかもしれない。画面を常に闇が支配しているダークな映像。カラー映画だが、白黒で撮った「シン・シティ」を思わせる雰囲気が全編に漂っている。しかも光と闇は、「アクメッド王子の冒険」の影絵とその背景のようにくっきりと分かれているのではなく、互いに溶け合い微妙な陰影が重なり合っている。 「闇の騎士」はバットマンを指しているようでいて、ジョーカーを指している様にも思えてくる。いい例が新たなヒーローかと思えた新任の地方検事ハービー・デントである。彼は「光の騎士」から「トゥー・フェイス」に転落してゆく。光と闇の両方の顔を持った男。もはやかつてのようなヒーローは存在しえなくたってきている。その変化の兆しは「スパイダーマン2」やアニメの「Mr.インクレディブル」にも表れていた。「ダークナイト」のバットマンも悩めるヒーローである。

 もちろん、「悪の追求」というテーマが最も追求されているのは悪、ないし闇の側だ。颯爽と現われ悪を倒すヒーロー像が廃れたように、悪の側も見るからに悪党という単純な人物像や不当な扱いを受けて復讐鬼と化した人物などのステレオタイプを脱して、「アメリカン・ギャングスター」のデンゼル・ワシントンのようなタイプが描かれるようになってくる。究極の悪を描く。これは実に魅力的なテーマだ。かつて岩崎昶がナチスを超える悪のイメージはいまだ作られていないとどこかで書いていた。「ガッチャマン」に出てくるギャラクターの首領ベルク・カッツェにもナチスの影響が濃厚に漂っていた。確かにナチスは今でも根源的悪のイメージとして超えがたい存在である。

 しかし、冷酷さと恐怖が常に付きまとっているナチスが一方のタイプだとすれば、もう一つのタイプに「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジや「殺人狂時代」のムッシュ・ベルドゥがいる。「ロード・オブ・ウォー」のニコラス・ケイジは、もともと持っていた人間性や人間的悩みを捨て去り、ひたすらビジネスライクに武器を売りつける武器商人である。ビジネス・スーツをびしっと着こなした死の商人。チャップリン演じるムッシュ・ベルドゥは家庭を愛するよき夫でありながら、何人もの女たちを顔色一つ変えずに冷酷に殺してきた。逮捕された後も、「M」のピーター・ローレのように狂気を帯びた様相でまくし立てたりはしない。平然と「一人殺せば犯罪だが、百万人殺せば英雄だ」という有名なせりふを吐いて、薄笑いを浮かべながら泰然自若として死んで行った。最後のせりふはナチスを暗黙の内に示している。ここにもナチスの影があるが、ムッシュ・ベルドゥという人物像は悪の深淵に深く潜む不気味な存在として闇の輝きを放っている。

 そこに究極の悪として新たに登場してきたのがジョーカーである。彼は金にも関心がなく、バットマンを倒すことが究極の目的でもない。ただひたすら無秩序を愛し、人々に死と恐怖をもたらすことに快感を覚える男だ。もはや歪んでねじれた人格とか破壊された人格とかいう次元ではなく、もっと抽象的な何かを体現した存在、つまり悪ないし悪意そのものと化している。悪ないし悪意そのものであること自体が彼の存在意義なのである。ジョーカー自体はターミネーターのような人並みはずれた強さを持っているわけではなく、強大な組織を持っているわけでもない。バットマンに殴られれば壁まで吹っ飛んでゆく普通の人間に過ぎない。しかし彼の行くところ悪が広まり、死人が生まれる。

 悪そのものの出現、二つの顔を持つニュー・ヒーロー、悩めるバットマン。ベクトルは正義から悪へと大きく振れている。夜の闇に響くジョーカーの高笑いはいつまでも消え去ることはない。彼が死んだのかどうかもはっきりしないのだ。究極の悪の新しいタイプを生み出したこと、「ダークナイト」の価値はそこにあるといっていい。

「やわらかい手」
  「やわらかい手」は久々に見たイギリス映画。イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・ルクセンブルクの合作映画だが、舞台と俳優はイギリスなのでイギリス映画として扱っていいだろう。イギリス映画は7~80年代の低迷期を脱して、90年代以来アメリカ、中国両横綱に続く大関の位置に定着しているだけにさすがに出来はいい。主演はなんとマリアンヌ・フェイスフル。まだ引退していなかったの!1946年生まれということだから今年で63歳になる。Dsc03367 僕にとってマリアンヌ・フェイスフルといえば歌手というイメージが強い。この原稿を書く際にあわててレコード棚から唯一持っているレコードを引っ張り出して、「やわらかい手」のチラシと一緒に写真を撮った。光が反射するのでうまく撮れなかったが、若い頃の彼女がいかに可憐だったか分かるだろう。日本題が「妖精の歌」となっているのには笑ってしまうが、そう付けたくなる気持ちも分かる。しかしその後数々のスキャンダルにまみれ、容貌がすっかり変わってしまった。波乱の人生を歩んだ人である。アイドルから滑り落ちて以降のアルバムは深みがあっていいらしいが、僕は聴いたことがない。

 60年代にいくつかの映画に出演したが、観たかどうかも覚えていない。僕の中ではただのかわい子ちゃん歌手として記憶の片隅に忘れ去られていた人である。それが調べてみると意外にも90年代以降結構映画に出演している。「豚が飛ぶとき」、「パリ・ジュテーム」など気になりつつ見逃していた映画に出演していた。

 前置きはこのくらいにしておこう。重病の孫を救おうと、たまたま見かけたセックスショップ「セクシー・ワールド」の“接客”の仕事を始めた平凡な主婦マギー(マリアンヌ・フェイスフル)が、その滑らかな手の感触ですっかり売れっ子になってしまうというストーリーだ。そのセックスショップの「売り」が日本から学んだものだというのには苦笑い。

 よくもまあ思いついたなという設定とそこはかとなく滑稽な展開はいかにもイギリス映画らしいひねりが効いていて感心する。「ヘンダーソン夫人の贈り物」、「キンキー・ブーツ」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「ケミカル51」、「ヴァキューミング」、「ウェイクアップ!ネッド」、「フル・モンティ」、「ウェールズの山」など、この手の映画を作らせたらイギリスは世界のトップレベルだ。さすがは「モンティ・パイソン」やイーリング・コメディを産んだ国である。

 最近よく出かけるマギーをしつこく追い回す知り合いのおばちゃんたちに「仕事」がばれてしまうのではないかとハラハラさせたり、職業病の「テニス肘」ならぬ「ペニス肘」を患って腕を肩から吊ったり、セックスショップのオーナーと微妙な関係になったりと飽きさせないストーリー展開。最後は息子に真相を知られて親子断絶の危機に。息子には怒鳴りつけられ、仲良しおばちゃんグループから縁を切られる。しかし、孫のためにすべてを投げ捨て一歩前に踏み出していたマギーはそれでもめげない。おばちゃん仲間に投げ返した啖呵にはすっかり溜飲が下がった。単に面白おかしい滑稽譚ではなく、一人の初老の女性が自分の新しい可能性を見出し、文字通り「手に」職をもち自立してゆくプロセスを描いている映画にもなっている所に大きな価値がある。滑稽でありながらどこか悲哀感があり(卑猥感はあまりない)、最後にはほんのりロマンスの可能性も示される。「カレンダー・ガールズ」のような突き抜けた女性が描かれているのである。

 それにしても、マリアンヌ・フェイスフルはすっかりおばちゃんになっていた。もうまるで別人。しかしその彼女をヒロインにしてこれだけ優れた作品を作ってしまうとは立派である。サム・ガルバルスキ監督については、ドイツ生まれという以外に詳しいことは分からない。英語のサイトを見ても何も見つからない。謎の人物だ。

「4ヶ月、3週と2日」
  「4ヶ月、3週と2日」はほぼワンシーンワンショットで撮影された作品で、ドキュメンタリーを観るような感覚の映画だ。自分もその場にいるような感覚を覚える、実にリアルな映画だが、その分限定された空間を描いており、チャウシェスク政権下のルーマニアという時代設定がいまひとつ描ききれてはいない。中絶は非合法で密かに中絶をするものが多かったというだけなら、1950年のイギリスを描いた「ヴェラ・ドレイク」だって同じだ。「ヴェラ・ドレイク」はやはり限定された空間を描いているが、より社会的な関連性と広がりがある。そういう意味で映画としては「ヴェラ・ドレイク」の方が出来は上だと思う。

 しかし「4ヶ月、3週と2日」の生々しい感覚も捨てがたいものがある。大学生のオティリアが寮のルームメイトであるガビツァの妊娠中絶手術の手助けをするために奔走する様を描いている。寮の中でのなんでもない会話から始まり、最初は何が起こるのかわからないまま、とにかく観客はオティリアの行動についてゆくことになる。何のためにオティリアはホテルを予約しているのか、ある場所で落ち合った怪しげな男は一体誰なのか、しばらくは事情が分からないままに観客はオティリアの行動を追って行く。

 やがてあるホテルの一室でガビツァの堕胎手術を受けることになっていることが分かってくる。散々走り回って手術代を借りるがそれでもまだ足りない。もぐりの医者との交渉。手術代を安くする代わりに男が要求した代償。「手術」を施す手順のリアルな描写。カチャカチャという器具の金属音。恋人から金を借りた手前、その家で開かれるパーティーへの出席を断れず、術後のガビツァを一人ホテルに残して恋人の家ですごす退屈な時間、すっかりオティリアに任せきりで自分では何にもしないガビツァ。

 次第につのってゆくオティリアの苛立ちが観客には手に取るように分かる。いや、一緒に体験したといってもいい。その臨場感、どうしようもなく状況に振り回される無力感と苛立ちの共有。この映画の説得力はそこにある。「ヴェラ・ドレイク」同様「中絶の是非」を問う作品ではない。しかし、繰り返すが、その臨場感と引き換えに、社会的矛盾の広がりと深さを犠牲にした。そういう物足りなさも残る映画だ。タイトルの「4ヶ月、3週と2日」とは、カビツァが中絶する日までの妊娠期間を表している。

 既に充分長くなってしまったので、残念ながら「さらば友よ」と「HERO」については割愛します。

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2009年2月 3日 (火)

胡同の理髪師

2006年 中国 2008年2月公開
評価:★★★★☆
監督:ハスチョロー
製作:リー・シュイホー
脚本:ラン・ピン
美術:ジン・ヤン
撮影監督:ハイ・タオ
出演:チン・クイ、チャン・ヤオシン、ワン・ホンタオ、ワン・シャン、 マ・ジンロン
    トン・ジョンチ、ユウ・リピン、ソン・グァ、シュ・フェジー

  実に淡々とした映画である。主人公は93歳の老理髪師で、その他の主な登場人物もほとんどが老人ばかり。全体にドキュメンタリーを思わせる作りだ。自然音のみで効果音を使っていない。どこにも派手さはないが、深く重たい手ごたえを感じさせる。

  中国映画は庶民の生活実感や人間の情感をじっくりと描くのを得意としてきた。この映画もその例に漏れない。なおかつ、この映画には時代の流れ、世代間のギャップ、人間関係の軋みなども描きこまれている。しかし決して複雑な映画ではない。主題は明確だ。ハスチョロー監督はこの映画の主題について、「人間なら誰もが直面する死をテーマに、精一杯生き、静かな臨終のときを迎えるためにはどのような心積もりで日々生きていけばよいかを描こうと決めた」とあるインタビューで語っている。

Ataiwan076   新しいものと古いものの対比が様々に形を変えて暗示されている。何度も映し出される入れ歯と古い時計。時計は毎日5分遅れる。老人仲間でマージャンをするシーンも何度か出てくるが、その話題の中心は知人の死や立ち退きについてである。消え去りつつある古い世代と北京オリンピックを機会に取り壊しが予定されている四合院や胡同のある古い町並み(チン老人の家に書かれた解体を意味する「拆」という文字が象徴的だ)とが並行して描かれている。チン老人の常連客の一人、モツ屋を営むチャンの息子の言葉が時代の変化を明確に表現している。「時代とともにわしらも変わらないと。古臭い習慣や思い込みは改めないとね。」チャンの孫は店も継がず、画家を志している。

  時代の変化を示すものとしてテレビがうまく使われている。マージャンにいそしむ老人たちの横でテレビが水着のファッションショーを映している(誰一人見向きもしない)。またチン老人が常連客ミーの家へ行く場面では、テレビが2008年の北京オリンピックの話題を流している。一方でチン老人が遺影に使う写真を撮る気になって人民服を買いに行っても、今では誰も着ない人民服など店に置いてない。

  しかし、この映画が観客に深い感銘を与えるのは、主人公のチン老人がただ時代に押し流されて漂流するのではなく、かたくななまでに自分の生き方にこだわり、決して時代に押し流されることなく自分の生き方を貫こうとしているからである。いずれ遠からず消え去ってゆく世代だが、最後まで輝きを失わない。その毅然とした生き方にわれわれは共感するのである。それは映画の最初のエピソードから暗示されている。チン老人はいつも5分遅れる古い時計を修理に持って行く。しかし時計屋の主人は、まだ充分動いているので壊れてから修理しましょうと言う。骨董のような時計だ、動くだけでも大したものだと。明らかにこの古時計はチン老人と重ねあわされている。動く限りは現役だという気概。たとえ止まってもまた修理して動かそう。

  だが、そんなチン老人でもいずれ訪れる死を意識しないわけには行かない。知り合いも次々に亡くなってゆく。マージャンをするたびに誰かの死が話題になる。常連客ミー老人のところに散髪に行くと彼は亡くなっていた(皮肉にも壁にかかっている写真が遺影に見える)。それでも、チン老人の死との向き合い方は「明日の朝目覚めるのだろうかと考えながら眠りにつくんだよ」と言ったマージャン仲間とは明らかに違う。「年を取ると誰もが死を恐れ、生に執着し、不眠になるが私は違う。恐れないし、執着もない。」死を恐れるのではなく、死を受け入れる。いつ死ぬのかと心配するのではなく、彼の意識は死に方にある。有名人も金持ちも人生は一度きりだ。いつ倒れたとしても、こざっぱり、きれいに逝きたい。常に身奇麗にして、死を迎えたい。死から顔を背けるのではなく、死と向き合っている。倒れるまで現役でいたい。そんな信念と心の余裕があるからこの映画の随所にユーモラスな描写が現れるのである。

Ataiwan075   人の世話になるのではなく、自分のやり方で死を迎えたい。チン老人は葬儀屋に電話して葬儀の手順を聞く。その後のエピソードが重要である。葬儀屋が500字で略歴をまとめろと言っていた。チン老人は自ら自分の経歴を語り、ラジカセに録音する。しかし彼の語りは500字をはるかに越えてしまう。一人の人間の人生は到底500字で語り尽くせるものではない。経歴だけ並べても、彼の生きてきた人生、彼が人生の節々で経験してきた悩み、迷い、苦しみ、悲しみ、喜びなどはほとんどこぼれ落ちてしまう。彼がテープに収めようとしたのは自分の生きてきた証だった。死ではなく生を語ったのだ。

  以前日本映画の佳作「青空のゆくえ」のレビューで次のように書いた。「一本の草や木を抜けば、その下から意外に複雑に広がった根が出てくる。同じように人間も社会に根を張って生きている。大地に収まっているときには見えないが、意外に深く広く根を張っていることが分かる。この映画は、一人の男子生徒がアメリカに引っ越す前に、自分の根の張り方を確認し、思い残したことを整理してゆく過程を描いている。」

  「胡同の理髪師」はやがて死を迎えようとしているチン老人が、死を迎える前に自分の生きてきた人生を、「青空のゆくえ」の主人公である中学生よりはるかに深く広く張った根を確認し、自ら死を迎える準備をしてゆく過程を描いていると言っていい。93年もの人生を刻み込んだ彼の顔のなんと風格のあることか。これほど深みのある風貌を持った人物はそうはいない。遺影用に撮った写真が気に入らなかったチン老人は、常連客の孫(画家の卵)に肖像画を描いてもらう。絵が完成した時、代金を払おうとするチン老人に対し、若い画家は逆にモデル代を払って帰る。こんな素晴らしいモデルには滅多に出会えないと言って。

  地下に深く広く張った根の1本1本は知り合いや地域との絆である。その根に栄養を与え続けてきたのが胡同である。北京の胡同、それはまさに生活の匂いのする路地である。それはどこか日本の下町と人情を連想させる世界だ。しかし人情は豊かな社会ではなく貧しくつましい社会と結びついていることを忘れてはいけない。「警察日記」のレビューに次のように書いた。

  「まだ日本が貧しかった頃の話だ。子供二人を捨てた母親、夫がいなくなり食い詰めて万引きや無銭飲食をする子連れの母親、病気の母親と幼い弟たちのために身売りする娘、こそ泥。警察署の厄介になるのはそんな人間ばかり。凶悪犯罪はない。貧しさゆえに犯した罪。警察官は怒鳴ったり諭したりするが、捨て子を親身になって世話したり、金に困って犯したちょっとした罪などは見逃してやる。親に捨てられた2人の子供が別々の家に預けられ、姉の方がまだ赤ん坊の弟を心配して夜訪ねてゆくところなどは泣かされる。人情物は、困った立場のものに同情できる共通の感情的基盤があって始めて成り立つ。かつての日本にはそれがあったのだ。」

  森まゆみさんも『抱きしめる、東京』(講談社文庫)でこう書いている。「テレビのレポーターなどが″下町ですねえ、人情ですねえ″などと連発しているその付き合いも、非歴史的に形成されたものではない。貧しいゆえの相互扶助が根底にあったのだ。・・・人情の根底に貧困がある。」

  貧しいがゆえに互いに支えあって生きてきた社会。そういう基盤の上でこそ人情が生まれる。そういったメンタリティを破壊していったのがバブル景気だった。にわかに大金をつかんだ人間はすべてを金銭ずくで判断するようになる。森まゆみさんのフィールドである谷根千でも地上げにあって歯が抜けたように古い建物が消えていった。ほとんど同じことがオリンピック前の胡同で起ころうとしていたのである。

Phto0070   『抱きしめる、東京』に引用されているある住民の言葉はその変化を実に的確に表現している。「情報ってのは情けで報いると書くでしょ。昔は、うちみたいな貧乏人の子沢山な家には、魚屋なんてアラを山盛りとっといて、どう、って安く売ってくれた。タダじゃプライドが傷つくから、安く売るんだ。お邸には切身を高く売りつけといてね。お邸の奥様も出入りの職人の親父に子ども服のお下がりをどっさりくれた。情報ってのは、人の暮らし向きのことを知ってて、さりげなく気をつかうことでしょう。地上げもそうだが、いまは人を出し抜いて、一山当てることを情報っていうんじゃないの。」

  サングラスをかけフォルクスワーゲンからさっそうと胡同に降り立ったチャン老人(チン老人の常連客の一人)の息子などはまさに「一山当て」た組だ。チャン老人の髪を切りに来たチン老人に対して実に冷たい態度をとり続けたその嫁などは、雑巾の一つも出入りの職人の親父にくれそうもない。一方、チン老人たちのマージャンは「情けで報いる」情報をやり取りする場だ。歩けない常連客がいれば三輪自転車に乗って出張サービスに出かける。胡同の取り壊しは個人ばかりか、そういう社会の絆もずたずたに切り崩してしまう。歯が抜けたようになるといった次元ではない、こと中国ともなれば、地域丸ごと解体され新しいビル群が代わりに鎮座することになる。

  「鉄の扉でつきあいのない高層マンションの方が、かえって火が出たら危ないんじゃないの?消防士もオートロックのボタンを押すわけ?」「泥棒だァ、というと桜木町ではみなピシャッと窓を閉める。関係したくないわけ。で谷中の人はどこだどこだとみな家を飛び出す。」隣町ながら、山の手の邸町風の上野桜木町と庶民的な谷中とは、かくも違うらしい。(『抱きしめる、東京』)

  胡同が消えた後、そこは上野桜木町のような社会になって行くのだろう。しかし、同じく胡同を舞台にした「胡同のひまわり」では主人公の老人が廃墟となった建物に座り込んで考え事をしているシーンが出てくるが、「胡同の理髪師」ではまだ胡同のある古い町並みは壊されていない。その違いは重要である。「胡同の理髪師」は死に向かってカウントダウンする映画ではない。胡同もチン老人も映画の最後まで生き続けるのだ。途中2度彼がこのまま起き上がらないのではないかと冷や冷やさせる場面が出てくるが、2度とも彼は起き上がった。

  われわれの記憶に最後に残る彼の姿は、廃墟となった建物に力なく座り込む姿ではなく、自転車に乗って路地の先に消えてゆく彼の姿だ。荷台にはついに止まってしまった古時計がのせてある。彼はもう一度時計を動かそうとしているのだ。せっかくカセットテープに録音した彼の経歴も、猫がじゃれついてテープを切って台無しにしてしまった。しかしチン老人は特にがっかりする風でもない。もはや過去にも彼はこだわっていない。明日もまた朝6時に起き夜9時に床に就くまで同じ手順とリズムで生活して行くだろう。身だしなみを整え、しゃんとして振る舞い、「いい加減な仕事はするな」と誰かを叱りつけているだろう。新しい日をまた生きるだけ。死ぬまで胡同の理髪師は現役なのである。

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