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2009年11月1日 - 2009年11月7日

2009年11月 7日 (土)

映画の日に「劔岳 点の記」と「火天の城」を観てきました

 11月1日は映画の日。久々に映画館(電気館)へ行ってきた。映画館で映画を観るのは今年になって初めて。この時とばかりに「劔岳 点の記」と「火天の城」の2本を続けて観た。今週末はうえだ城下町映画祭。何本か観たい映画があるので、ついでに1日券を買った。今週もまた映画館で映画が観られるぞ。

「劔岳 点の記」
 さて、1本目に観た「劔岳 点の記」は実に立派な作品だった。かつてこれほどすぐれた山岳映画は日本で作られたことはなかったのではないか。外国でも山岳映画と呼べるものは少ない。すぐに思いつくのは「運命を分けたザイル」くらいしかない。いや、山岳映画というジャンルにこだわらなくても、「劔岳 点の記」は日本映画史上に残る傑作だと思った。何より、人間ドラマが実にしっかりしていた。わざとらしい泣かせの演出やこれ見よがしのスペクタクル・シーンなどは一切用いていない。山の美しさ、山の怖さが共に映し出されている。セットではなく実際に劔岳(2999m)・立山連峰各所でロケを行って撮った映像のすごさが際立つ。陸軍の陸地測量部と山岳会のライバル意識がたがいに山の仲間としての意識に変わってゆく過程も実に自然に描かれていた。

 この映画に関してぜひ強調しておかなければならないことがある。陸地測量部(今の「国土地理院」)と山岳会の初登頂争いをドラマチックに盛り上げてやろうという色気を一切見せなかったことである。この映画が優れた作品になったのはまさにその点にあると言っても過言ではない。陸軍測量手の柴崎芳太郎(浅野忠信)たちが挑んだのはあくまで彼らの作業を阻む山の険しさや自然の厳しさであって山岳会のメンバーたちとの競争ではない。そそり立つ岩壁、ごつごつした岩肌がむき出しの切り立った尾根、雪崩、吹雪、ブリザード、今にも崩れそうな雪庇、隠れ潜むクレヴァス。劔岳への登頂路すら見つけられない。映画が描いたのはそれらの困難を乗り越えて任務を遂行する測量隊の苦闘である。

 軍の上層部から下された何としても山岳会の先を越して初登頂を成し遂げよという厳命にもかかわらず、彼らが打ち込んだのは測量に必要な20数か所という地点に資材や機材を運びあげ、測量用やぐらを立て標石を埋め込み測量するという、彼らの本来の作業を遂行することであった。劔岳に登頂しその測量をすることはその作業の最終目標であり、山岳会との初登頂争いは軍の上層部やマスコミなどが勝手に騒ぎ立てていたことにすぎない。彼らはそのように行動し、映画はそのように描いた。そこが素晴らしいのだ。

 初登頂争いの劇的な展開を期待してこの映画を観ることは、映画の中に登場したあの新聞記者と同じレベルでこの映画を観ることに他ならない。彼らが目指したのは「道を作ること」であって、山岳会に先んじることではない。もちろんできればそうしたいとは思っていたはずだが、それが第一の目標ではなかった。だからこそあの新聞記者は皮肉な目で描かれているのである。この皮肉な視点がいかに適切であるかは、映画ジャーナリズムなどの「劔岳 点の記」の宣伝の仕方を見ればよくわかるだろう。まさにどちらが先に劔岳の頂上に到達するかの争いを描いた映画であるかのように宣伝しているではないか。今も昔もマスコミの在り方は変わらないことがよくわかる。測量隊が頂上で見つけたぼろぼろの錫杖の頭と槍の穂先は彼らの努力をむなしくさせるものというよりも、初登頂争いというマスコミ的見方をあざ笑うものとして描かれているとみるべきだろう。もし、一番乗りを最高目標にしていたのなら、錫杖の頭と槍の穂先をこっそり持ち帰って自分たちが最初に劔岳を征服したことを誇示することもできたはずだ。三角点の確保という最終目的からすれば、彼らよりも先に誰かが登っていたかどうかはどうでもいいことなのである。

  そもそも「征服」という考え方も彼らには無縁だったと思われる。それにこだわっていたのはむしろ山岳会のメンバーやマスコミだった。決して無理をせず、犠牲者を出さずに仕事を遂行する。そこにドラマチックな展開などない。浅野忠信の無表情な表情が示しているのは、淡々と任務を遂行する技術者の姿勢だ。彼らは軍のもとで働いているが、いわゆる軍人ではなく、嘱託のような身分の技師たちなのである。国防上の目的で地図を作るというよりは、地図を作ることそれ自体が彼らの目標だった。軍の思惑とは別の次元で彼らは行動していた。彼らは国防のためというよりは、「道を作る」ために行動したのだ。われわれはそこに共感するのである。山岳会のメンバーたちもそれを理解できたからこそ、「我々は登るのが目的だが、あなたがたは登ってからが仕事だ」と彼らの姿勢と行動に敬意を示したのだ。

  何度か画面に映し出される、書棚に並ぶ膨大な数の点の記。彼ら(そして彼らの先輩たち)の業績が真に刻み込まれているのはその中であり、「初登頂」という栄冠にあるのではない。無名の人たちによって延々と綴られてきた記録の集積。柴崎芳太郎たちの業績はその新たな1ページにすぎず、いずれ無名のまま記録の一つとして膨大な記録の中に埋もれてゆく運命にある。それだけのことにすぎない。そしてそれだけのことに彼らは命がけで挑む価値と意義、そして誇りを見出していたのである。「何をやったのかが大事なのではない。何のためにそれをやったかが大事なのだ」という先輩技師古田(役所広司)の言葉もこのような文脈で理解すべきである。

 山岳会のメンバーたちが測量隊に敬意を率直に示したように、測量隊のメンバーも同じ険しく厳しい山に挑んだ山岳会のメンバーたちに「仲間」としての共感を示した。互いに手旗信号を用いて意志を送り合うラストの場面は唯一いかにも感動を盛り上げてやろうという作為を感じて正直白けてしまったが、エンドロールでスタッフやキャストを一切の肩書なしで「仲間たち」としてのみ表記した点には深い共感を覚えた。

  監督の木村大作は黒澤映画の撮影助手として「隠し砦の三悪人」 (1958)、「悪い奴ほどよく眠る」(1960)、「用心棒」(1961)、「椿三十郎」(1962)、「どですかでん」(1970)等の作品にかかわった人である。70年代から撮影監督として数多くの作品を撮ってきた。僕が観たのは「火宅の人」 (1986)、「駅 STATION」 (1981)、「 日本沈没」 (1973)の3本だけで、残念ながら代表作とされる「八甲田山」(1977)、「復活の日」 (1980)、「居酒屋兆冶」(1983)、「華の乱」(1988)などは観ていない。最近の作品では「憑神(つきがみ)」 (2007)、「単騎、千里を走る。」 (2005)、「鉄道員(ぽっぽや)」 (1999)、「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」 (1996)、「わが愛の譜 滝廉太郎物語」 (1993)など、それなりに話題になった作品を手掛けている。

 主演は浅野忠信。「青春デンデケデケデケ」以来「劔岳 点の記」まで7本の作品を観た。「茶の味」で注目し、「サッドヴァケイション」も悪くなかったが、やはり「劔岳 点の記」が図抜けている。彼の代表作の一つになるだろう。

「火天の城」
 続いて観た「火天の城」は「劔岳 点の記」に比べると従来のお定まりの映画作法に則った作品で、大分見劣りした。泣かせの演出や型どおりの人間の描き方が何か所も目についた。特に岡部又右衛門(西田敏行)の娘凛(福田沙紀)や敵の送りこんだ暗殺者うね(水野美紀)の描き方などはテレビドラマ並みのレベル。福田沙紀を前面に押し出した売り方にも、美男美女さえ出しておけば観客は集まるだろうという志の低さが如実に表れている。西田敏行が頑張っていただけに演出の低レベルさが残念だった。

  ただ、築城に当たる群衆の描き方、恐らくCGによる山の上に巨大な城が築かれてゆく映像などはかなりの迫力だった。合戦シーンを売り物にしない時代劇というコンセプトも悪くない。

「劔岳 点の記」(2008年、日本)★★★★★
監督:木村大作、原作:新田次郎、脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正
出演:浅野忠信、香川照之、松田龍平、モロ師岡、蛍雪次郎、仁科貴、蟹江一平    
   仲村トオル、宮崎あおい、小澤征悦、鈴木砂羽、笹野高史、夏八木勲、役所広司

「火天の城」(2009年、日本)★★★☆
監督:田中光敏、原作:山本兼一、脚本:横田与志、撮影:浜田毅、美術:吉田孝
出演:西田敏行、福田沙紀、椎名桔平、大竹しのぶ、寺島進、山本太郎    
   石田卓也、上田耕一、ペ・ジョンミョン、熊谷真実、水野美紀    
   西岡徳馬、渡辺いっけい、河本準一、田口浩正、緒形直人、夏八木勲

2009年11月 1日 (日)

先月観た映画(09年9月)

「チェンジリング」(08、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)★★★★★
「ヤング@ハート」(07、スティーヴン・ウォーカー監督、イギリス)★★★★★
「グラン・トリノ」(08、クリント・イーストウッド監督、アメリカ)★★★★★
「ホルテンさんのはじめての冒険」(07、ベント・ハーメル監督、ノルウェー)★★★★☆
「ワルキューレ」(08、ブライアン・シンガー監督、アメリカ・ドイツ)★★★★☆
「ここに幸あり」(06、オタール・イオセリアーニ監督、仏・伊・露)★★★★
「画家と庭師とカンパーニュ」(07、ジャン・ベッケル監督、仏)★★★★
「レッドクリフ Part II」(09、ジョン・ウー監督、アメリカ・中国・他)★★★★

091010_69  このところなかなか集中して映画レビューに取り掛かる時間が取れません。事実上休止状態が続いていました。この「先月観た映画(09年9月)」もタッチの差で「先々月観た映画」になってしまいました(涙)。

 先月観た映画は上記の8本。数としてはまあまあでしょうか。しかし内容は充実していました。満点を付けた映画が3本もあります。うち2本はクリント・イーストウッド監督作品。「ミリオンダラー・ベイビー」以降はまさに破竹の勢い。どれも高水準の作品ばかり。「ヤング@ハート」はレビューを書きましたのでそちらを参照してください。

 ほかも4つ星半(ここまでは傑作レベル)が2本、4つ星(佳作)が3本。8本すべてが4つ星以上ですから相当充実していたと言っていいでしょう。「チェンジリング」、「グラン・トリノ」、「ホルテンさんのはじめての冒険」あたりはなんとか本格レビューを書きたいと思っていたのですが、もうだいぶ時間がたってしまい記憶も褪せてきていますので断念せざるをえません。いつか観直す機会があればレビューを書くかもしれません。

* * * * * * * * * * * * *

「チェンジリング」
 クリント・イーストウッド。数々のスターを輩出したハリウッドでもこれほど長い間第一線で活躍し続けている人物は珍しいだろう。なにしろ彼は僕が子供のころ既にスターだったのだ。

 これは「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューを書いた時の書き出しである。僕が小学生のころ既にクリント・イーストウッドはTV西部劇「ローハイド」のヒーローだったのである。これほど長い間第一線で活躍している映画人は他にいない。小学生以来だからクリント・イーストウッドとはもう40年以上の付き合いになる。 「ローハイド」の後はマカロニ・ウエスタン時代(「荒野の用心棒」はこの時代の代表作)が続く。そして言わずと知れた「ダーティーハリー」シリーズ。これで一気にスターから大スターになった。それから後は「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューをもう一度引用しよう。

 その後しばらく80年代ぐらいまでは「ダーティーハリー」シリーズの印象が強く、ややマンネリの印象を持っていた。88年の「バード」でジャズの世界を描き、方向転換をした感じを受けた。監督業にも手を出していると意識し始めたのもこの頃か。実は既に71年の「恐怖のメロディ」から監督をやっていたのだが、まだこの頃までは俳優のイメージが強かった。本格的に監督になったと感じたのは92年の「許されざる者」あたりからだが、「マディソン郡の橋」(95年)、「スペース・カウボーイ」(2000年)、「ミスティック・リバー」(03年)とどれも作品としては今一だった。この頃はだいぶ枯れてきて、俳優としては昔とはまた別の味が出てきてよかったのだが、監督としてはまだたいしたことはないという認識だった。それがやっと「ミリオンダラー・ベイビー」で花開いた。  

 「ミリオンダラー・ベイビー」以降は平均してどれもすぐれた作品ばかり。低迷気味だった80年代を除いて、60、70、90、2000年代とそれぞれの時代に代表作があると言うのはすごいことだ。しかも晩年に入り傑作を連発するというのはこれまた世界でも稀有なことである。参考までに、クリント・イーストウッドの代表作品(主演と監督を両方含めて)を挙げておこう。

「グラン・トリノ」 (2008)
「チェンジリング」 (2008)
「父親たちの星条旗」 (2006)
「硫黄島からの手紙」 (2006)
「ミリオンダラー・ベイビー」 (2004
「スペース カウボーイ」 (2000)
「ザ・シークレット・サービス」 (1993)
「バード」 (1988)
「アルカトラズからの脱出」 (1979)
「ガントレット」 (1977)
「ダーティハリー」 (1971)
「夕陽のガンマン」 (1965)
「荒野の用心棒」 (1964)

 「チェンジリング」はまず何より1920年代におけるロサンゼルス市警の横暴で腐敗しきった実態に衝撃を受ける作品である。その意味で「ボーダータウン 報道されない殺人者」や「闇の子供たち」などの作品と共通するものがある。しかし映画としての出来栄え、その完成度はその2作をかなり上回る。「ボーダータウン」と「闇の子供たち」は衝撃的な事実を示すことに力点を置きすぎたためドラマの部分が弱かった。不自然な描写があったり、劇的な展開を作ろうとしてハリウッド調になってしまったりしていた。

  「チェンジリング」はヒロインであるクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の人間的葛藤に焦点を当てているため、人間ドラマとして他の2作よりも深められている。警察の信じられないような実態をリアルに描くこととクリスティンの葛藤とが常に結び付けて描かれている。その点が前述の2作と「チェンジリング」の違いであり、「チェンジリング」の作品としての完成度が前2作を上回っている理由である。 

091029_44   警察のそもそもの大失態は発見された子供が間違いなくウォルターであると確認するのを怠ったことである。普通ならまず母親に間違いなく自分の子供であるか確認させ、その上で行方不明の子供が発見されたと公表するはずである。では、なぜそうしたなかったのか。当時ロサンゼルス市警は汚職まみれの上に、銃撃隊という影の組織があって気に入らない連中を射殺しているとマスコミや市民から批判されていた。行方不明の子供を発見した「快挙」は警察の名誉を挽回する絶好の機会だった。だから前もって確認もせず、汽車から降りてきた「息子」と母親の感動の再会シーンをマスコミに取材させ、警察の手柄を大々的にアピールしようと目論んだのである。

 しかしその子は全くの別人だった。J・J・ジョーンズ警部(ジェフリー・ドノヴァン)はあわてただろうが、ここまでマスコミをあおりたてた挙げ句に、「人違いでした」とは絶対に言えない。警察の面目丸つぶれである。アピールどころか大失態だ。そこでとにかく母親のクリスティンを無理やり説き伏せて、母と子の感動の再会場面をでっちあげてしまった。そうなった以上もう後には引けない。「あれは自分の子ではない」というクリスティンの訴えをとことん否定するしかない。事件の真相や子供を失った母親の悲しみなど見て見ぬふり、警察の体面を保つことにだけ躍起になる。こうしてJ・J・ジョーンズ警部とロサンゼルス市警は坂道を転がり落ちていった。

  あくまで発見された子は息子ではないと主張するクリスティンをJ・J・ジョーンズ警部は口封じのために精神病院に放りこんでしまう。そんななりふり構わぬ人権無視がなぜできたか。そこには権力を笠に着た警察のおごりと首までどっぷり汚職につかった感覚の麻痺があった。 

  クリスティンも決して警察に盾突いたわけではない。最後まで警察を頼りとして、本当の息子を探してくれて何度も頼みに行った。彼女の行動が感動を与えるのは、最後まで息子の生存を信じ行動を続けたからである。

 やがて、意外な方面からウォルターも巻き込まれたと思われる連続殺人事件の犯人が浮かび上がり逮捕される。その後、同時並行して行われる殺人犯の裁判とロサンゼルス市警の腐敗をただす公聴会、連続殺人犯の死刑執行とその前日のクリスティンとの面会。次々とめまぐるしく展開してゆく。サスペンス的な緊張感は最後まで持続する。最後まで組織対個人、個人の無力さと権力を持った組織の横暴さというテーマを追求しているところは立派である。同時に、常にクリスティンの内的葛藤に焦点を当てていたことがこの作品を単なる告発ものに終わらせていない。どうして子供を一人っきりにしたのか。こういうときの母親はまず自分を責めてしまう。その気持ちが切ない。偽物の「息子」が発見されて以降はどこかで生きているに違いない息子を何としてでも探し出そうと必死に警察に食い下がる。その一途な思いが観る者をどんどん引っ張ってゆく。

  しかし連続殺人犯ゴードン・ノースコット(ジェイソン・バトラー・ハーナー)の裁判以降は彼の犠牲者の中に息子が含まれていたのかどうかという疑問が彼女の心にのしかかる。自分の息子はどこかで生きているという気持ちが揺らぎ、言を左右するゴードン・ノースコットの態度にクリスティンの心は翻弄され、かき乱される。

 結局息子はゴードン・ノースコットの手にかかって殺されたのかどうか最後まで分からない。観客は不安で落ち着かない気持ちのまま映画は終わる。ウォルターの誘拐事件とゴードン・ノースコットによる連続児童誘拐殺人事件を並行して描くことによって、映画はゴードン・ノースコット事件の犠牲者の中にウォルターも含まれていると暗示しているように思われる。しかし一方でクリスティンは犠牲者の中にウォルターも含まれていたという明確な証拠がないため、息子はどこかで生きているという気持ちを変えない。

 このラストは、ここに至っても息子の死を認めようとしないクリスティンの狂信的な思い込みに皮肉な視線を向けているようにも思える。しかしイーストウッドの意図はそこにあったのではないだろう。最後まで息子の生存を信じ続けた母親の姿を冷静に見つめ続けたと考えるべきではないか。

「グラン・トリノ」
 この映画は「ダーティハリー」、「夕陽のガンマン」、「荒野の用心棒」といったイーストウッドに切り離しがたくまとわりついているイメージを下敷きにしている映画である。隣に住むモン族の少年タオを不良グループから救うために立ち上がる朝鮮戦争帰還兵コワルスキー。正義の男が立ち上がり、タオやその姉のスーを何度か町の不良グループから救う。一度は銃を使って脅した。

 典型的なヒーロー映画のパターンだ。しかしこの映画はお約束のパターンを踏みながらも、一方でそのパターンを崩してゆく。コワルスキーは雄々しいヒーローどころか長年勤めたフォードの工場を引退した孤独な老人にすぎない。バタバタと敵を倒す超人的な力はない。新しく近所に住み着いた外国の移民たちには強い偏見を持っている偏屈なオヤジだ(妻にも先立たれ、いつの間にか近所に知り合いもいなくなっていた)。

091004_15  老人にしてはシャキッとしてはいるが、西部劇のヒーローのような精悍さはもちろんない。朝鮮戦争に従軍した経験は彼を殺人マシーンに変えたのではなく、むしろ朝鮮で若い敵兵を殺したことが生涯消えないトラウマになっている。「生より死に詳しい」と牧師に言われるほどだ。このように人物設定をヒーロー物のパターンからことごとくひっくり返してみせる。それでいて観客は無意識のうちにコワルスキーがダーティハリーのように悪党どもをやっつけてくれることを今かいまかと待ち望んでいる。そして最後まで「グラン・トリノ」はその期待を引き延ばし、かつ裏切る。そういう作りになっている。

  つまり、「グラン・トリノ」はヒーロー物のパターンを下地にしたアンチ・ヒーロー映画なのである。単にイーストウッドが年をとったというだけではない。時代が単純なヒーロー像を求めなくなってきたのである。暴力で悪を倒す時代は終わった(その手の映画はまだまだ作られてはいるが)。その意味でこの映画を「ポスト9.11映画」の枠内に入れることは可能だろう。

 イーストウッド中心の映画だが、タオの姉のスーがうまく描かれている。不良仲間に引きずられている弟のことを嘆いて言うセリフがいい。「男は女より順応性がないから。女の子は大学、男の子は刑務所。」男が腕力にものを言わせて肩で風を切って歩く時代はとうに過ぎてしまった。コワルスキーはまさに消えゆくヒーローの最後の世代なのだ。

 優れた映画だが、偏屈なコワルスキーがあまりにも簡単にタオやスーに親近感を持ってしまうあたりは物足りない。その分「チェンジリング」よりやや劣ると感じたが、大甘で満点をつけた。

「ホルテンさんのはじめての冒険」
 スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク、そしてアイスランド。1970年代までは北欧の映画と言えばスウェーデンのイングマル・ベルイマン監督とデンマークのカール・ドライエル監督くらいしか思い浮かばなかった。80年代以降になってやっとこの二人の巨匠以外の映画が少しずつ入ってくるようになった。特に2000年以降になって増えてきている。まだまだ日本ではなじみの少ない国々だが少しずつ知られるようになってきた。ただ、このところの不況のあおりでミニ・シアター系がどこも苦戦しているという。ほとんどミニ・シアター系で公開されるこれらの国の映画がまた遠のくことがなければいいが。

 さて、「ホルテンさんのはじめての冒険」は「キッチン・ストーリー」で知られるベント・ハーメル監督の作品。当然期待して観たが、その期待は裏切られなかった。いかにも北欧らしいゆったりとしたペースの映画。とぼけた味わいも健在だ。しかし「ホルテンさんのはじめての冒険」の場合は「キッチン・ストーリー」よりもっとシュールな味わいになっている。なじみのレストランでビールを飲んでいるといきなりシェフが逮捕されるエピソード。観客はあっけにとられるが、ホルテンさんは全く動じない。一体何がどうなっているんだと観客がキツネにつままれた思いでいる間にさっさと場面は切り替わってしまう。何とも不思議で新鮮な感覚。その乾いた演出が妙に可笑しい。さらに可笑しいのは、寒い夜に凍った坂道にさしかかったホルテンが転ばないように柱につかまって動けないでいる横を、一人の男が道路に座った姿勢で坂道を滑り降りてゆくシーン。何ともシュールな場面だった。こういった妙に滑稽なシーンがあちこちに短く差しはさまれる。

  シュールな場面が一番集中するのは空港でのエピソード。ホルテンは空港で働くフローという男を探しに行くが、すれ違いが続いてなかなか会えない。ホルテンはあちこち右往左往するが、そんな中彼が直立した姿勢でちゃっかりカートに乗せてもらって移動している短いカットが2、3度さしはさまれる。これには笑ってしまった。かと思うと麻薬など持っていないのに機械が反応し麻薬の売人と間違われ、別室に連れていかれると手にゴム手袋をはめながら空港の係官が近づいてくる。しかし次のシーンでは何事もなかったかのように相変わらずフローを探すホルテンの姿が映される。何があってもあわてず、表情一つ変えない。21世紀のバスター・キートンとでもいいたくなるこの人物造形。この監督のユーモアのセンスは実に独特だ。

091030_135  こういったシュールな演出がピリッと効いて、しかも作品全体の流れとうまくマッチしている。なぜならホルテンが経験した数日間は彼の人生の中で最も非日常的な数日間だったからだ。それまで真面目一方の鉄道員として働いてきたホルテンはついに定年退職の日を迎えた。仲間に祝ってもらい、さらに飲み会に付き合わされる。しかし煙草を買いに行ったために一人遅れて同僚のアパート(そこが飲み会の会場だった)に入ろうとすると、正面玄関で暗証番号を押してもドアが開かない。そのまま家に帰っていれば彼は翌日いつものように最後の日を迎えられただろう。しかし行き掛かり上何とか友人のアパートへ行こうとした。たまたまそのビルは工事中で、ホルテンは工事の足場を上ってゆく。最上階の1階下で行き止まり。たまたま開いていたドアから入ると、子供に呼び止められる。

  このドアを開けた時からホルテンはそれまでの長い人生で一度も経験したことがなかった非日常的でシュールな世界に入り込んでしまう。「ホルテンさんのはじめての冒険」は鉄道のことしか知らず、(おそらく)家族もなく潤いに欠ける人生を歩んできた男が、初めて「鉄道の軌道」からそれて新たな世界へ踏み込んだ数日間を描いている。

 新しい人生に一歩踏み出したとたんそれまで真剣に見つめようとしていなかった自分の人生の裏側や自分が見落としていた世間が見えてくる。スキー・ジャンパーだった母を持ちながらスキーから逃げていた自分。自分がいなくてもいつも通り電車は運行されているという現実。シッセネールという不思議な人物との出会い。その会ったばかりのシッセネールの突然の死。使い慣れたパイプの紛失。仕方なく新しいのを買おうと馴染みのパイプ屋へ行けば、いつも応対してくれた主人は亡くなっていた。「死も人生の一部ですわ」というパイプ屋の奥さんの言葉。人生の翳りが定年を迎えたホルテンを包んでゆく。

 さまざまな出来事が走馬灯のように通り過ぎてゆき、わずか数日間にさまざまなことを経験した。最後にホルテンは新しい人生に向けて「飛ぶ」ことを決意する。彼の背中を押したのはシッセネールの言葉だった。「人生は手遅ればかりだ、違うか。逆に言えば何にでも間に合う。」母はスキージャンプをやっていたが、自分は勇気がなくてやらなかったとホルテンが言うのを受けて、シッセネールが言った言葉だ。

 シッセネールのスキー板をはいてジャンプ台から滑り降りたホルテンの先には一人の女性が待っていた。ホルテンが「飛んだ」直後にトンネルを抜けた列車がまばゆいばかりの白銀の世界に出てゆく映像が映し出される。人生における重要なターニング・ポイントを前向きに乗り越えてゆく展開に共感を覚えた。

「ワルキューレ」
  ナチスに抵抗し反逆者として有罪判決を受けた旧軍人たちの存在は、ドイツの最後のタブーとされてきた。彼らは判決の見直しをされないまま、戦後の64年間にわたり「犯罪者」として扱われてきた。それがようやく今年の9月7日に、ドイツ連邦議会(下院)の本会議で「国家反逆者」として言い渡された有罪判決を一律に取り消す「包括的名誉回復法案」が成立した。長い間忘れられていたナチス裁判による犠牲者の名誉がようやく回復されたのである。トム・クルーズ主演の「ワルキューレ」も採択を促す世論を喚起したと言われている。ラストの字幕に出る「自由と正義と名誉のために抵抗し命を犠牲にした者はなにも恥じることはない」というベルリン抵抗運動記念碑からの引用は、彼らが実際に名誉回復されたことと重ね合わせてみるとなおさら感慨深いものがある。

 ドイツではなくアメリカとドイツの制作なのが気になったが、期待以上の力作だった。全編に緊張感が絶えることなく漲っている。失敗すると分かっていても、ハラハラして見守ってしまう。見事な演出だった。久々に見たトム・クルーズはなかなか精悍で、役柄の重さにつぶされることなく最後まで演じ切った。ただサスペンスに力を入れているために、なぜこれだけ多くの人たちがヒトラー暗殺に加担したのかが十分描かれてはいないと感じた。

 最後に印象に残ったケネス・ブラナーのセリフを一つ引用しておこう。「神は”10人の高潔な人間がいればソドムは滅ぼさぬ”と言った。今のドイツにはたった一人いればいい。」

「ここに幸あり」
 最初に観たオタール・イオセリアーニの作品は「落葉」。82年に岩波ホールで観ている。まだ故郷グルジアにいたころに作った作品である。次に観たのが「月曜日に乾杯!」。これは2004年に観た。「ここに幸あり」は3本目に観た作品である。DVD-BOX「オタール・イオセリアーニ・コレクション」(「群盗、第七章」、「蝶採り」、「歌うつぐみがおりました」、「四月」を収録)は何年か前に手に入れたが、まだ観ていない(どういうわけか、BOXで買うとなかなか観る気にならない)。

  「ここに幸あり」はメル・ブルックスの「逆転人生」やジャック・ニコルソン主演の「アバウト・シュミット」を連想させる映画だが、そこはオタール・イオセリアーニ、彼らしい淡々とした映画に仕上げている。あまりに淡々としていて物足りないくらいだ。それでも最後まで観ていると次第に主人公たちに共感してくるようになるからさすがだ。「月曜日に乾杯!」の短評の最後に「小津とはまた違った日常の描き方の文法を発明している」と書いたが、その独特の映画文法はこの作品でも健在である。

091004_3   突然大臣の職を追われた主人公のヴァンサン。何もかも失いホームレスに。しかし捨てる神あれば拾う神あり。彼は新しい人間関係を少しずつ作り上げてゆく。考えてみれば「ホルテンさんのはじめての冒険」によく似た映画なのだ。いかにもヨーロッパ映画らしい作品のタッチも「逆転人生」や「アバウト・シュミット」といったアメリカ映画よりも、やはり「ホルテンさんのはじめての冒険」に近い。ヨーロッパ映画を見る楽しみとは、アメリカやアジアの映画とは違う個性的なスタイルとタッチを味わう楽しみである。

 内容はもうほとんど忘れてしまったのでこれ以上詳しくは書けないが、セリフが少ない分映像が印象的である。部分的にいろいろな場面を覚えている。そういう映画だ。

「画家と庭師とカンパーニュ」
  驚いたことに「ビフォア・サンセット」のようにほとんど二人だけで延々と会話をしている映画だった。よく見ると原題は「ジャルダンとの対話」となっていた。なるほど。地味だが滋味がある映画だった。ジャルダン(庭師)役のジャン=ピエール・ダルッサンがうまい。「サン・ジャックへの道」で酒びたりで一文無しのクロードを演じた人だ。ヨーロッパにはこういう飄々としたいい役者がいる。

 中年の画家とその屋敷の庭を手入れするために雇われた庭師。登場するのはほとんどこの二人だけ。男二人の友情を描く。そう聞いただけでほぼどんな話か想像が付いてしまう映画だ。確かにそうなのだが、最後まで楽しませる不思議な魅力がある。ダニエル・オートゥイユとジャン=ピエール・ダルッサンというベテラン俳優二人の力で最後まで観客を引っ張ってしまう。フランス版人情劇とでも呼ぶべき映画だが、日本の人情劇とは違って実にさばさばしている。

 ジャン・ベッケル監督作品は「クリクリのいた夏」、「ピエロの赤い鼻」に続いて3作目。これまでのところ「ピエロの赤い鼻」が一番いい出来だと思う。父親のジャック・ベッケル(フランス映画黄金時代を築き上げた巨匠の一人)とはだいぶ作風が異なるが、平均していい作品を作り続けている。新作が楽しみな監督の一人だ。

「レッドクリフ Part II」
  相変わらずのハリウッド調大作映画の作りながら、前篇よりはずっと出来はいいと感じた。諸葛孔明もやっと天才軍師らしさを発揮し始めた。トニー・レオンは後篇でも出色の存在感。また敵役の曹操も単純な悪人という描き方ではなく、侮りがたい才能と人望を持った人物として描かれているところがいい。曹操を演じたチャン・フォンイーも憎々しげでいてどこか人間的奥行きも感じさせてしまう素晴らしい役者だった。

 まあとにかく楽しめばいいという映画だが、尚香や周瑜の妻が単身敵の中に乗り込むあたりの演出には疑問を感じた。尚香が男装して敵に紛れ込みながら怪しまれないという設定は相当無理がある。周瑜の妻が自ら曹操の元に赴き攻撃の時期を遅らせるというエピソードはそれよりはましだが、夫のために身を投げ出す妻という描き方や緊張感の盛り上げ方がいかにもハリウッド調で型どおりすぎた。

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