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2009年5月31日 - 2009年6月6日

2009年6月 4日 (木)

この自由な世界で

2007年 イギリス・イタリア・ドイツ・スペイン 2008年8月公開
評価:★★★★★
原題:It’s a Free World
監督:ケン・ローチ
配給:シネカノン
製作:レベッカ・オブライエン
脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:ナイジェル・ウィロウビー
編集:ジョナサン・モリス
出演:カーストン・ウェアリング、ジュリエット・エリス、レズワフ・ジュリック
    ジョー・シフリート、コリン・コフリン、レイモンド・マーンズ
    フランク・ギルフーリー、デヴィッド・ドイル

<はじめに>
  5月の最終週に観た3本の映画はいずれも傑作だった。「おくりびと」、「ウォーリー」そして「この自由な世界で」。最初は3本とも本格レビューを書くつもりだったが、思うように時間が取れないので「ウォーリー」はシリーズ「先月観た映画(09年5月)」の短評で済ますことになりそうだ。

  「この自由な世界で」は昨年公開された映画の中で初めて満点をつけた作品。ケン・ローチ作品なので期待して観たが、その期待は裏切られなかった。僕にとってイギリス映画と中国映画は特別な位置にある。中国映画は80年代に文芸座で「中国映画祭」を観て衝撃を受けて以来、すっかりその魅力に取り付かれている。忙しくなってからも可能な限り作品を観てレビューを書くようにしている。一方、イギリス映画に強い関心を向ける理由は単純。大学と大学院でイギリス文学(特にディケンズとハーディ)を専攻したからである。映画に限らず、イギリスに関すること全般に今でも関心を向けている。

090509_41   そのイギリス映画の中でも、僕の中で特別重要な位置を占めているのがケン・ローチ監督作品である。最初に観たのが「カルラの歌」(98年10月)。次に観たのが「ケス」(99年2月)。次いで「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(00年3月)。このあたりまではそれほどすごい監督とは感じなかった。ケン・ローチがマイク・リーと並んで現代イギリス映画界の2大巨匠だと思うようになったのは「リフ・ラフ」(00年10月)と「レディバード・レディバード」(01年3月)を観てからである。とりわけ「レディバード・レディバード」の衝撃は大きかった。体中から怒りが噴出す思いで観た。その後2本のオムニバス映画(どちらもケン・ローチが担当した部分は飛びぬけて優れていた)をはさんで観た「SWEET SIXTEEN」、「やさしくキスをして」、「麦の穂をゆらす風」そして「この自由な世界で」はいずれも傑作だった。

  今やケン・ローチ監督は僕が一番注目している監督である。「この自由な世界で」を観てレビューを書き出したとき、ケン・ローチ監督について本腰を入れて研究してみたいと思った。まだ観ていない作品のうち、「ナビゲーター ある鉄道員の物語」、「ブレッド&ローズ」、「夜空に星のあるように」の3本はすでにDVDを持っている。これらもいずれ観てレビューを書きたい。すでに観ている作品も、レビューを書いていないものは観直してレビューを書きたい。余力があれば監督論も書いてみたい。そうなるとイギリス映画史や現代イギリス史も視野に入れなければならない。また、ケン・ローチの作品のうち「この自由な世界で」も含めて9本の脚本を書いてきた(「カルラの歌」以降「ナビゲーター ある鉄道員の物語」を除くすべての作品)ポール・ラヴァティについても調べなくてはならないだろう。ほとんどライフワークに近い、大変な作業になる。まあ、ゴールは遥か彼方だが、目標があったほうが励みになるだろう。とりあえずは作品評を1本ずつ書き上げてゆくことにしよう。

【ケン・ローチ監督フィルモグラフィー+マイ評価】
 「この自由な世界で」 (2007) ★★★★★
 「麦の穂をゆらす風」 (2006) ★★★★★
 「明日へのチケット」 (2005) ★★★★☆(ケン・ローチ担当分)
 「やさしくキスをして」(2004) ★★★★☆
 「セプテンバー11」 (2002) ★★★★☆(ケン・ローチ担当分)
 「SWEET SIXTEEN」 (2002) ★★★★☆
 「ナビゲーター ある鉄道員の物語」 (2001)
 「ブレッド&ローズ」 (2000)
 「マイ・ネーム・イズ・ジョー」 (1998) ★★★☆
 「カルラの歌」(1996) ★★★★
 「大地と自由」(1995)
 「レディバード・レディバード」(1994) ★★★★★
 「リフ・ラフ」(1991) ★★★★☆
 「ブラック・アジェンダ/隠された真相 (1990)<未>
 「ケス」(1969)  ★★★★
 「夜空に星のあるように」 (1968)

 * * * * * * * * * * * * 

  この映画を論ずるには、まずヒロインであるアンジー(キルストン・ウェアリング)という人物について考察することから始めるのが良いだろう。脚本を書いたポール・ラヴァティは、公式サイトに納められたインタビューで彼女について次のように語っている。「アンジーについて最初から気に入っている点は、彼女が矛盾だらけだということ。そのほうが人間らしいと思う。」アンジーが「矛盾だらけ」の人物だという指摘は重要だが、その前に「そのほうが人間らしいと思う」という発言の意味を考えてみよう。これは同じく公式サイトのインタビューでケン・ローチ監督が語っていることと呼応している。彼は「もっと極端な物語にすることもできたと思いますが」という質問に対して次のように答えている。

 

  あまり極端な人物設定にすると、観客は最初の 1~2分でその人物を受けつけなくなってしまいます。「ああ納得がいく…もし彼女がやらなくても誰かがやることだ…競争の激しい業界なんだから、競争心は強くなくては…チャンスを掴むためにはタフな人間でなくては…」という具合に彼女の論理に入り込み、最後にはその理屈がいかにひどいものかに気づくわけです。

 

  つまり最初から極端な悪女として描いたのではアンジーが抱えている矛盾が描けなくなってしまう。資本主義社会の矛盾を描くことに狙いがあるのに、単なる個人の性格・資質の問題に矮小化されてしまう。フィクションにおける登場人物としても、ハリウッド映画のような型どおりの単純化されたキャラクターになってしまう。それでは矛盾に満ちた、生きた人物像が描けなくなる。そう言っているのだ。

080216_8_2   もともとアンジーには仕事の才能もあり、不法滞在のイラン人一家を放っておけず家に連れてきて、仕事まで紹介するような優しいところもある。仕事を首になったのも、尻を触ったセクハラ上司をはねつけたからだ。職を失い、一人息子ジェイミー(ジョー・シフリート)を抱えて何とか生計を立てようと必死で努力する。友人ローズ(ジュリエット・エリス)と組んでなんとか自分たちで職業紹介所(というと聞こえはいいが、平たく言えば日雇いの斡旋所)を立ち上げる。最初のうちは正規のビザを持っている労働者だけに仕事を斡旋していた。しかし多額のローンを抱え、自分たちの事務所も持ちたいという一心で、移民労働者たちからピンはねを始める。もう少しだけ儲けたらやめる、あともう少しだけ。しかし不法滞在の移民に仕事を斡旋することに踏み切ってから、彼女は坂道を転がり落ち始める。痛い目にもあうが、そのことで彼女は反省して足を洗うどころか、悪辣な稼業により深く手を染めてゆくことになる。ラストで登場する彼女の冷酷な目つき、移民希望者を吟味するあのハゲタカのような目つき。彼女はぞっとするほどの変貌を遂げていた。

  より自分の才能を発揮できる仕事をしたい、仕事と才能に見合った正当な報酬を得たい、何とか自分たちで作った会社を軌道に乗せたい、いつか両親に預けた一人息子を引き取り一緒に暮らしたい。そのためにはもう少し上に這い上がりたい。そういう思いでがむしゃらに突き進む彼女に、少なくともある時点までは、観客を共感させなくてはならない。彼女の願望には人間的に共感できる要素がなくてはならない。彼女が変貌してゆく過程の各段階で彼女が選択した道は「なるほど無理もない」と観る者を納得させるものでなければならない。その選択が彼女自身と彼女の周囲に新たな矛盾をもたらすものであるにもかかわらず。「そのほうが人間らしいと思う」とポール・ラヴァティが言ったのはそういう意味だろう。

 アンジーを見るからに悪党という人物像ではなく、いくつもの矛盾を抱え、葛藤しながら、当初自分が思い描いた方向とは違った方向へ否応なく突き進んでゆかざるを得ない人物として描いたからこそ、「この自由な世界で」は傑作になりえたのだ。職業斡旋所の場面で始まり、職業斡旋所の場面で終わる。しかしその間にアンジーはまったく違う人物になっていた。もっと安定した生活をしたい、息子と幸せに暮らしたいというささやかな願いを実現しようと必死になっていた女性は、ラストではハゲタカの様な目をした、儲けのためには手段を選ばない闇の斡旋業者になっていた。冒頭の場面と同じような場面で終わるだけに、その乖離の大きさに観客はたじろぐ。

 この終わり方が重要である。「この自由な世界で」のアンジーは、「ロード・オブ・ウォー」の主人公ユーリー・オルロフ(ニコラス・ケイジ)と同じなのだ。ユーリーは武器商人でありながら、眠っている息子のベッドでおもちゃの銃を見つけた時は、そっと取り上げてゴミ箱に捨てるような男だった。それが最後には片手を失った女の子に「手はまた生えてくる?」と聞かれても何の感慨も抱かない冷酷な死の商人に変貌している。

080518_28  アンジーとユーリー・オルロフ。この二人の人物造形が優れているのは、最後まで彼らを道徳的に改心させなかった点にある。並みの映画なら、そうしていただろう。それまでの自分を改め、最後はめでたしめでたしで終わる。作者が勝手に道徳的裁断を下し、「勧善懲悪」(poetical justice)で丸く収めてしまうという安易な結末にはしなかった。二人とも挫折もせず、改心もせず、ひたすら己の欲望を追求し続けるままで終わる。そのおぞましいが、しかし否定しがたい「現実」と観客は最後に向き合わざるを得ない。そして映画が終わった後に、何が彼女をそうさせたのかという問題を観客に突きつけてくるのだ。妥協をせず、そこまで押し通したところにケン・ローチの非凡さがある。

 アンジーは何度も困難にぶつかり、矛盾と葛藤を抱え、そのたびに選択を迫られた。その選択は彼女自身がしたものである。彼女の自由意志で。しかしよく考えてみると、常に彼女の背中を押していたものがある事に気づく。それは少しでも上に這い上がりたいという欲求だ。共同経営者のローズのような選択もできただろう。あるいは父親ジェフ(コリン・コフリン)の忠告に従うこともできた。しかしそのつど彼女は他人を踏みつけてでものし上がる道を選んだ。彼女の前には、そしてローズやアンジーの父親の前にも、資本主義の自由競争原理という道が敷かれていたのだ。その道を進むか、その道から外れるか、選択の余地は残されてはいるが、しかれた道そのものをなくすことはできない。それは厳然と常にそこにあるのだ。そしてアンジーにはそれが輝かしい未来に続く道、自由へと続く道に見えたのである。アンジーは自分でもそれと気づかぬまま、敷かれた道に沿ってがむしゃらに突き進んでいたのである。他人の忠告を振り切ってその路線をたどって行き着いた姿、それがラストのアンジーの姿である。少しでも上に這い上がりたいともがいているうちに、知らず知らず彼女は資本主義の冷徹な論理に絡め取られていたのである。

  今よりももっといい生活がしたい、もっと幸せになりたい。それ自体は誰でも持っている自然な願望である。だがそう思ったとたんに、自分がさまざまな個人的・社会的条件によってがんじがらめにされていることに気づく。シングル・マザーであるということ自体が社会の中ではきわめて不利な条件である。 それでも何とか少しでも上に這い上がりたい、そのためにはちょっとした不正に手を出しても良いだろう、自分の事務所が持てるようになるまでなら・・・。仕事が軌道に乗るまでだから・・・。そのちょっとした心の隙に芽生えたわずかなエゴイズムを資本主義という怪物は見逃さず、すかさず食い込んでくる。 ささやかな願望がいつしかどす黒い強欲に変わっていた。その変貌のリアルさ。それがあまりにリアルであるからこそ観客はたじろぎたくなるような居心地の悪さを感じるわけだ。

  食うか食われるかの自由競争原理の下でもがき苦しみ、踏みつけられる側から踏みつける側に這い上がったアンジー(もちろん這い上がっても、這い上がっても、彼女の上にはまた彼女を踏みつける連中がいるわけだが)。先のインタビューで、ケン・ローチはアンジーのことを次のように評している。「彼女は今の時代の精神性を非常によく表した存在でもある。数年後にはビジネスウーマン・オブ・ザ・イヤーになりそうな人物ですね。」あるいは、もっと端的に彼女を揶揄してこうも言っている。「『サッチャーの反革命』の申し子がアンジーです。」

  80年代はまるまるサッチャーの時代だった。その後何代か首相が変わり、保守党から労働党に変わったが、サッチャーが敷いたレールはいまだにイギリス社会を根本において規定している。「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会のスローガンはとうに消えうせ、競争原理の下で国民が汲々とするリトル・アメリカになってしまった。経済は上向きになったものの格差は広がるばかり。薬中やアル中が蔓延し、「トレインスポッティング」や「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「レイヤー・ケーキ」などの映画がアメリカの真似をした絵空事どころか、リアリティをもって迫ってくる社会になってしまった。

  少しでも上に這い上がりたいともがき続けたアンジー。さまざまな段階で彼女は自分の自由意志で次のステップを選択した。彼女がその果てにつかんだ自由。端的に言えば、それは搾取する自由だった。いつの間にか彼女は踏みつけられる側から踏みつける側に回っていた。「何をしても自由な世界なのよ。」儲けるためなら手段を選ばない。そんな放縦な自由は一方で多くの不自由を生む。なぜなら利潤は搾取することから生まれるからだ。資本主義は人間のエゴイズムを食って成長する。

  トレーラーハウスで暮らす移民たちを警察に通報して強引に立ち退かせようとしたアンジーに向かって、共同経営者のローズはこう問い詰めた。「私を見て。アンジー私を見て。何をしても自由なの?」この問いに少し迷いながらアンジーは「たぶん違うわ」と答えた。この段階ではまだそう言うだけの良心はあった(皮肉なことに、立ち退かされる運命の移民たちの中には、かつて彼女が世話したイラン人家族もいたのだ)。しかし最後にはそれすらなくしてしまう。最後のウクライナの場面で、イギリスで働けるとうれしそうに微笑んでいる女性が写される。通訳が彼女の言葉をアンジーに伝えている。「子供を二人残して働きに出るそうで、この虹が幸せを運んでくれると。」虹はアンジーの会社のシンボルマークである。希望を胸に無邪気に微笑む女性。イギリスでどんな過酷な運命が彼女を待っているのか。そう案じずにはいられない。向かい側で彼女を見つめるアンジーの鋭い目には哀れみのかけらもうかがえない。彼女は今や他人の夢をむさぼり食って生き延びているのだ。

081225_25   英語に次のようなことわざがある。”Devil take the hindmost.”(遅れたやつは鬼に食われろ。)これこそまさに自由市場主義の冷徹な論理である。マルクスはさらに的確な表現を用いている。「大洪水よ、わが亡き後に来たれ!これがすべての資本のスローガンである。」この論理が多くの人間を突き動かしてきた。「貧乏暮らしはもう飽きた。浮かび上がりたい。見上げてばかりではなく、見下ろしたいんだ。」これは「男の闘い」(1969、マーティン・リット監督)で、劣悪な労働条件に抗議して抵抗運動を続ける炭鉱労働者の中に資本家側から送り込まれたスパイ(リチャード・ハリス)が言ったせりふだ。同じアイルランド移民である炭鉱労働者たちを裏切ってまでスパイになろうとする彼の背後には強烈な上昇志向があった。この映画もまた最後に勝ち残るのは炭鉱労働者の首魁ショーン・コネリーではなくスパイであるリチャード・ハリスの方である。中国映画「ココシリ」(2006、ルー・チュ-アン監督)ではチベットカモシカを乱獲する密猟者たちと彼らをとことん追跡する民間パトロール隊との死闘がすさまじいばかりの迫力で描かれるが、ここでもまた最後に生き残るのは密猟者たちだった。

 大企業が自ら生き残るために大量に派遣労働者や従業員を解雇している日本でも、この冷徹な論理は貫徹している。「この世のたががはずれてしまった。」(『ハムレット』)いつまでこんなことを続けるのか?すべて自由市場に任せておけばいいという路線はすでにアメリカで破綻している。その後の混乱の中からオバマ大統領が登場した。今後アメリカは、日本は、そして世界はどのような方向へ進むのか。

  ポール・ラヴァティはインタビューでこう言っている。「僕たちが映画のなかで見せようとしているのは、自身の行動には何かしらの結果がつきまとうということなんだ。」アンジーが失ったものは良心だけではない。おそらく家族も失ってしまった。そしてかすかな愛情を感じていたカロル(レズワフ・ジュリック)も。彼女はより自由になったのか?その後彼女はどうなってゆくのか?5年後、アンジーはどんな暮らしをしているのだろう。ポーランドから来た若者カロルは5年後も「この国は嘘だらけだ」と言っているのだろうか。そしてウクライナからイギリスに渡ったあの女性は?

 個々人の運命は誰にも予想できない。しかしこれだけはいえる。5年後も、20年後も、アンジーを誘い込んだあの一見輝いて見える「自由への道」は消えずに残っていると。そしてその道の先には・・・断崖が待ち受けているのかも知れない。

2009年6月 1日 (月)

おくりびと

2008 日本 2008年9月公開
評価:★★★★☆
監督:滝田洋二郎
脚本:小山薫堂
撮影監督:浜田毅
美術:小川富美夫
音楽:久石譲
出演:本木雅弘、山崎努、広末涼子、余貴美子、吉行和子、笹野高史
    杉本哲太、峰岸徹、山田辰夫、橘ユキコ

<はじめに>
 滝田洋二郎監督の作品は「僕らはみんな生きている」(1993)に続いて2本目。調べてみるとポルノ映画からスタートした人のようで、80年代半ばまでもっぱらポルノ映画を監督していた。86年の「コミック雑誌なんかいらない」が最初の一般映画。その後「木村家の人びと」、「病院へ行こう」、「僕らはみんな生きている」、「眠らない街 新宿鮫」、「陰陽師」、「壬生義士伝」など、次々に話題作を作ってきた。

070728  いずれも名前は知っていたが「僕らはみんな生きている」以外はなかなか手が出ない監督だった。「僕らはみんな生きている」も真田広之主演なのでたまたま観てみた作品である。出来は悪くなかったが(『キネマ旬報』ベストテン5位)、傑作といえる出来ではない。93年という年は全く不作の年だった。90年代の日本映画は70、80年代のどん底から徐々に上向きになってきていた時期で、黒澤明、新藤兼人、熊井啓、今村昌平、黒木和雄、神山征二郎、小栗康平、市川準、山田洋次、伊丹十三、高畑勲、宮崎駿、崔洋一、原田眞人、黒沢清などの前の世代に交じって、中原俊、周防正行、阪本順治、岩井俊二、河瀬直美、三池崇史、井筒和幸などの新しい才能が台頭してきた時期である。日本映画が本格的に息を吹き返し、製作本数のみならず質的にも優れたものを少なからず生み出し始めるのは「たそがれ清兵衛」、「刑務所の中」、「OUT」、「阿弥陀堂だより」、「突入せよ!『あさま山荘』事件」などが登場した2002年以降である(一方でしょうもない駄作が多数作られてはいるが)。

 「博士の愛した数式」、「フラガール」、「かもめ食堂」、「武士の一分」、「紙屋悦子の青春」、「嫌われ松子の一生」、「THE有頂天ホテル」、「雪に願うこと」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ヨコハマメリー」などが公開された2006年に頂点に達し、その後もやや下降気味ながら勢いを保っている。90年代の作品で観たものは限られているが、次にマイ・ベスト15を挙げておく。

■90年代日本映画マイ・ベスト15
 中原俊「櫻の園」(90)
 篠田正浩「少年時代」(90)
 山田洋次「息子」(91)
 岡本喜八「大誘拐」(91)
 大林宣彦「ふたり」(91)
 中原俊「12人の優しい日本人」(91)
 周防正行「シコふんじゃった」(92)
 宮崎駿「紅の豚」(92)
 新藤兼人「午後の遺言状」(95)
 岩井俊二「Love Letter」(95)
 周防正行「Shall we ダンス?」(96)
 宮崎駿「もののけ姫」(97)
 三谷幸喜「ラヂオの時間」(97)
 平山秀幸「愛を乞うひと」(98)
 原田眞人「金融腐食列島〔呪縛〕」(99)

 さて、「おくりびと」は間違いなく滝田洋二郎監督を代表する作品になるだろう。ポルノ映画から出発してついにここまで到達した。彼の才能がやっと全面開花したということだろう。これだけの才能を持っているにもかかわらず、最初はポルノ映画しか撮れなかった。70・80年代の日本映画界はそういう状況だったのである。

 「おくりびと」の主演は本木雅弘と山崎努。本木雅弘は周防正行の「ファンシイダンス」(1989)と「シコふんじゃった」(1992)で主演し、俳優としてただならぬ才能を見せつけた。こんなに才能のあるヤツだったかと当時驚いたものである。その後に観た「トキワ荘の青春」(1996)と「中国の鳥人」(1998)は作品自体がいまひとつだった。2000年代に入ってさっぱり映画では見かけなくなった。せいぜい「伊右衛門」のCMで見る程度。あれだけの才能が惜しいと思っていたところへ「おくりびと」が出現した。やっぱり彼は俳優として非凡な才能を持っている。「おくりびと」を観て、改めてそう確信した。

 一方の山崎努は滝田洋二郎監督の「僕らはみんな生きている」にも出演していた。今や日本映画界の長老とも言うべき名優だ。最初に映画で彼を観たのは恐らく黒澤明監督の「天国と地獄」 (1963)だろう。いつも丘の上の邸宅を暗く鬱屈した目で眺めていた誘拐犯人の役。暗く落ち窪んだ目が薄気味悪くぎらついていた。実に不気味で強烈な存在感だった。僕の中では、この役柄が彼のイメージとしてしばらく固着していたほどだ。「悪の階段」 (1965)でも悪党の役で、これがまた恐ろしいほどはまっていた。翳りのある暗い表情、どこか底知れない暗闇と冷酷さを内に秘めた不気味さ、そんな役柄がやたらと似合っていた。

080302_4  なぜか70年代には出演作に恵まれなかったが、80年代には伊丹十三監督作品に次々と出演した。この頃には飄々とした持ち味を発揮するようになっていた。2000年代に入ってもその活躍は止まらない。貫禄がありながら飄々とした持ち味を失わない。そんな得がたい役者になっている。いんちき広告でカモを釣っておいて、平然とした顔で広告は「安らかな旅立ちのお手伝い」の誤植だとうそぶく。それでいて彼が執り行う納棺の所作には一部の隙もなく、本木雅弘がほれ込んでしまうほど見事なものであった。かといって仕事人間であるはずもなく、フグの白子を食べながらあの苦々しい顔で「うまいんだなこれが、困った事に。」などというせりふをさりげなく吐く。いい加減な奴なんだか、いい人なんだかよく分からない。飄々とした立ち居振る舞い、巧まざるユーモア。まさに至芸である。彼の作品についてもマイ・ベスト10を挙げておこう。

■山崎努 マイ・ベスト10
 「おくりびと」 (2008)
 「刑務所の中」 (2002)
 「GO」(2001)
 「僕らはみんな生きている」 (1992)
 「マルサの女」 (1987)
 「タンポポ」 (1985)
 「お葬式」 (1984)
 「悪の階段」 (1965)
 「赤ひげ」 (1965)
 「天国と地獄」 (1963)
   次点「クライマーズ・ハイ」 (2008)

* * * * * * * * * * * * * *

 上で指摘したように、「おくりびと」の魅力はこの二人の主要登場人物の圧倒的な存在感にかなり依存している。とりわけ、誰もが指摘するように、二人が行う「納棺」の儀式の美しさは観る者をひきつけて離さない。思わず食い入るように見とれてしまう。一連の所作が実に美しいのだ。流れるような動作の手際のよさ、手つきの美しさ。名人が行う茶道の点前を見ているようだ。小林大悟(本木雅弘)の表情も美しい。いや、表情や手つきだけではない。一連の所作に死者への敬意が込められていることが観客に伝わってくるから美しいと感じるのだ。しかもこの儀式は遺族の目の前で行われている。われわれ観客もまたその場に居合わせていると思わせるほどリアリティを感じる。それには「現実の音」も大いに貢献している。シュシュという絹ずれの音がどんな効果音よりもリアルにその場にいるような臨場感を伝えているのだ。「武士の一分」の決闘シーンでわれわれが耳にした、刀が触れ合うときの背筋がぞくぞくするような金属音、その金属音に匹敵するリアリティがあった。

 この「納棺の儀」を見たことがある人はほとんどいないと思われる。どうやら現在では滅多に執り行われることのない古式にのっとった儀式らしい。なるほど、こんな風に行われるのか。見たことのない古風な儀式を見る喜び、その喜びを味わうこともこの映画の魅力である。しかし、そこにこの映画の重要なテーマの一つが絡んでいることを見逃してはいけない。観たことがないのはそれが古風なものだからというだけではない。納棺師という職業自体が「見えない職業」、あるいは表立って「見せられない職業」だからこそ、われわれは見た事がないのだ。死者に触れるという仕事柄、“穢れ”というイメージが付きまとい、それゆえに差別される職業なのである。われわれの知らないどこかでそれは秘かに執り行われ、遺体がわれわれの目の前に現れるときには既に棺に入っているのである。

 葬儀には欠かせないものでありながら、誰もやりたがらない仕事。それが納棺師の仕事である。映画の冒頭で小林大悟が「納棺の儀」を執り行っている場面が出てくる。しかし、彼がNKエージェントに就職して最初の仕事に連れて行かれたとき、そこで出会ったのは死後二週間経過した老女の遺体だった。まさに「臭い、汚い、気持ち悪い」の3K職場だった。そういう現実がいやというほど観客に突きつけられる。そういう職業だけに「見えない職業」だったのである。

090206_27  「おくりびと」は単に珍しい仕事の内幕を見せてくれたという類の映画ではない。職業差別という生々しい現実と正面から向き合った映画なのである。この映画の最大の意義はそこにある。タブーに挑んだ映画なのだ。その最初の仕事の帰り、大悟はバス内で女子高生から「何か臭う」と言われ、あわてて途中下車し銭湯に飛び込む。何かに取り憑かれたように体から死臭を洗い落とそうとする彼の姿には「汚れてしまった」、その汚れを他人に気づかれてしまったという戸惑いと恥ずかしさがあった。もちろん、彼が洗い落とそうとしたのは死臭だけではない。大悟は死臭と一緒に世間の差別的視線をも洗い落とそうと必死になっていたのだ。夜な夜な夢遊病者のように眠りながら歩き回り、まだ手から血のにおいが消えない、血のしみが消えないと、深いため息をついているマクベス夫人が、手に付いた血(これは幻覚だが)と同時に殺人を犯した罪意識をも洗い落とそうとしていたように(マクベス自身も「大海原の水すべてを使えば、この手についた血を落とせるのか?いいや、それどころか、俺の手は、広大な海を血の色で染め、海の緑を赤一色にするだろう。」と嘆いている)。帰宅後、妻の体を抱きしめる。まるでその体から「生」の息吹を吸い取ろうとするかのように。このシーンは秀逸だった。

 実際、世間の冷たい視線と態度は容赦なく彼の心に突き刺さる。友人の山下(杉本哲太)からは「もっとましな仕事さ就けや」と忠告され、ある喪主からは「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」と怒鳴られる。「あの人みたいな仕事」と指差されることもあった。ついには、妻の美香(広末涼子)からも「汚らわしい」と言われてしまう。

 「おくりびと」が描いたのは、そういう世間の冷たい視線に押しつぶされそうになりながらも、迷いつつ葛藤しつつも大悟が自分の職業に誇りを持つに至るプロセスである。われわれがこの映画に共感するのはまさにその点である。

 彼の認識を変える上で、NKエージェントの社長である佐々木(山崎努)の存在が大きかった。この一見いい加減そうな人物は実におおらかな人柄だった。彼は仕事上の知識や技術面で大悟を指導しただけではない。死との向き合い方を教えていた。フグの白子をむしゃむしゃと食べながら言った彼のせりふは実に暗示的だ。「生き物は遺体を食って生きる。これも遺体だろ。どうせ食うなら美味しいほうがいい。うまいんだなこれが、困った事に。」この「困った事に」というところがなんとも滑稽に響くが、この言葉は「おめぇら死んだ人間で食ってるくせに」という心無い言葉に対置されている。人は生きるために食ってゆかねばならない。食うために就いた職業がたまたま人の死とかかわる職業だったに過ぎない。納棺師は生きるための手段。自分の生業で金を稼ぎ、その金でうまいものを食らう。それでいいんだ。妻にも逃げられ、くよくよしていた大悟には、世間の冷たい視線など歯牙にもかけない、このあっけらかんとした社長の姿が不思議であり、うらやましくも見えただろう。「一旦その職に就いたのなら自分の職に誇りを持て」などという直接的表現よりもはるかに説得力がある。死とかかわりながら、旺盛な食欲を持ち、旺盛に生を享受する。佐々木と違い大悟はまじめ一方の男だが、佐々木のこだわりのなさに彼もいつしか引き付けられてゆく。

 迷い続ける大悟を支え、その迷いを振り払う手助けをした人は他にもいる。彼がとっさに飛び込んだ銭湯にかかわる人たちだ。銭湯はNKエージェントと並ぶ、「おくりびと」の人間関係のもうひとつの中心である。銭湯の経営者である山下ツヤ子(吉行和子)、その息子で大悟の友人である山下、そして銭湯の常連客銭湯の常連客平田(笹野高史)。

 美人だと思ったら「あれ」が付いていた青年、幼い娘を残して亡くなった母親、沢山のキスマークで送り出されたじいさん、最後の旅立ちにルーズソックスをはいていったばあさん。大悟たちはいろんな遺体を納棺したが、その人たちの人生は垣間見ただけである。遺体はそこにある物体に過ぎない。丁寧に扱いはするが、遺族や友人たちと同じ気持ちにはなれない。しかし親しくしていた銭湯のおばちゃんの納棺の儀式が描かれることで、遺体に人生が取り戻された。単なる物体ではなく、確かに生きてきた記憶が込められた。その意味で銭湯のおばちゃんの存在は重要であり、また必要だった。遺体は単なる魂の抜け殻ではなく、死ぬ直前まで確かに生きていたのだ。彼女は身をもって大悟と観客にそのことを教えた。そしておそらく、銭湯のおばちゃんを送り出した時、大悟は体を清めるための銭湯を必要としなくなったのだ。そのとき大悟は一人前の納棺師になった。

090509_39  銭湯の常連客である平田もまた「見えない」職業に就いている人だった。そのことは銭湯のおばちゃん山下ツヤ子の火葬のときに明らかになる。その時まで誰も彼の職業を知らなかったのは故なきことではない。彼もまた人に自分の職業を話しづらい仕事をしていたのだ。その彼の言葉がまた味わい深い。「死は門である」と言うのだ。「この人たちは、三途の川を渡るのではなく、門をくぐって行くわけです。私は門番としてたくさんの人をおくって来たんですよ。」この言葉には「おくりびと」の原案となった青木新門著『納棺夫日記』に対するオマージュが感じられる。この本はまだ読んでいないが、あるサイトによると、その中に「死者にとっては、さわやかな風の世界からすきとおった世界へ往くだけである。そこには死もないから<往生>という」という文章があるようだ。「死は門である」という言葉は青木新門の世界観に通じるものがある。

 青木新門の『納棺夫日記』は独特の宗教観を持っているようだ。映画はそこまで立ち入っていない。日本人の死生観に関しても深く踏み込んでいるとはいえない。だが、それは必ずしもマイナスとはいえない。死生観や宗教的考察に下手に踏み込んでいたずらに難解な作品になってしまったかも知れない。うまく取り込むのは難しいし、下手に踏み込めば消化不良になってしまう。その是非はともかく、少なくとも、分かりやすくすっきりまとめたことが商業的成功につながったとはいえるだろう。ユーモアの味付けをしたことも評価していい。

 むしろ疑問を感じるのは最後のクライマックスである。大悟が父親を納棺する場面。彼が子供の時に家庭を捨て出て行った父を大悟はずっと憎んでいた。当然最初は遺体の引き取りすら拒否していたが、同僚の上村(余貴美子)の説得で引き取ることを決意する。この結末にいたるまでに、顔の見えない父親の姿が何度も映され、父親が残していった“石文“が伏線として何度も挿入される。大悟は父親の遺体が握っていた石を発見し、父親の真意を知る。また、一度は実家に帰っていた妻も葬儀社の人に「夫は納棺師なんです」ときっぱりと言いきるところまで変わっていた。

 伏線的に扱われていた大悟の父親と妻のエピソードがこの大団円でひとつに結びつく。そういう展開になっている。だが、はっきり言って、この部分が一番弱い。最後にお決まりの泣かせの路線に逃げてしまった。そう感じるひとつの理由は、妻の心境の変化を十分描きこめていないからである。しばらく夫から離れている間に気持ちに変化があったらしいと暗示するにとどまっている。つまり、彼女がどのように考え方を変えたのかが何も描かれていないのだ(子供ができたというだけでは説得力がない)。演じる広末涼子の力量も他の出演者と比べると大きな隔たりがあると感じる。どうも一人だけ浮いている感じだ。だから「夫は納棺師なんです」という決め台詞も胸に迫ってこない。

 父親のエピソードについては、むしろない方が良かった。ただただ観客を泣かせるためだけに無理やり作られたものである。仮に父親を納棺することになったにしても、それは大悟の成長過程の一通過点として描くほうが良かったのではないか。父親が息子に石を贈るエピソードはイギリス映画の傑作「Dearフランキー」でも描かれている。フランキーにとって父からもらった平らな石は何物にも代えがたい宝であった。しかし映画のラストで、彼は大事にしていたその石を水きり遊びに使う。その石は今までになく何度も水の上をはねた。そこにフランキーの成長が描かれていた。もう思い出の石は必要ない。同時に彼はもはや父親からの手紙(実は母親が代わりに書いていた)も必要としなくなっていた。

 大悟も何らかの形で父親の記憶に決着をつけ、先に進むべきだった。その方が安易なお涙頂戴路線に走るよりずっと良かった。

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