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2008年2月17日 - 2008年2月23日

2008年2月23日 (土)

ヘンダーソン夫人の贈り物

2005年 イギリス 2006年12月公開
評価:★★★★☆
原題:MRS. HENDERSON PRESENTS
監督:スティーヴン・フリアーズ
製作:ノーマ・ヘイマン
脚本:マーティン・シャーマン
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ジョージ・フェントン
出演:ジュディ・デンチ、ボブ・ホスキンス、ウィル・ヤング、ケリー・ライリー
    セルマ・バーロウ、クリストファー・ゲスト、アンナ・ブリュースター
    ロザリンド・ヘルステッド、サラ・ソルマーニ、ナタリア・テナ
    トーマス・アレン、ラルフ・ノセック、マシュー・ハート

 この種のコメディを作らせたらイギリスは滅法うまい。「キンキー・ブーツ」、「シャンプー台の向こうに」、「カレンダー・ガールズ」、「ヴァキューミング」、「フル・モンティ」、「ウェイクアップ!ネッド」、「ウェールズの山」、等々。さすがイーリング・コメディ、モンティ・パイソン、Mr. ビーン、そして「ウォレスとグルミット」シリーズを生んだ国だ。チャップリンだってイギリス生まれだ。イギリスのコメディはアメリカものと違って洗練されていて、独特のユーモアに富んでいる。

8931  監督のスティーヴン・フリアーズは「マイ・ビューティフル・ランドレット」 (1985)で衝撃的に登場した。「エレファント・マン」、「シャイニング」、「炎のランナー」、「英国式庭園殺人事件」、「インドへの道」、「眺めのいい部屋」、「ミッション」、「遠い夜明け」、「ワールド・アパート」、「ヘンリー五世」などと共に80年代イギリス映画を代表する作品となった。70年代のイギリス映画は低迷期で80年代からやや上向きになってきた。ようやく90年代になって「ブラス!」、「フルモンティ」、「リトル・ダンサー」、「トレインスポッティング」などのヒット作や「リフ・ラフ」、「秘密と嘘」、「レディバード・レディバード」、「エリザベス」、「ビューティフル・ピープル」、「ぼくの国、パパの国」などの傑作を生み、イギリス映画は復活するのである。復調期の80年代において、90年代の飛躍を準備したといわれるのが「炎のランナー」と「マイ・ビューティフル・ランドレット」の成功なのである。しかし、その後のスティーヴン・フリアーズ監督は正直言って「マイ・ビューティフル・ランドレット」を超えられずにいた。「危険な関係」や「ハイロー・カントリー」などの佳作はあったがいまひとつ力を発揮できずにいた。やっとこの「ヘンダーソン夫人の贈り物」と「クィーン」で再び本来の力を発揮したと言っていいだろう。

 「ヘンダーソン夫人の贈り物」の第一の魅力は何といってもジュディ・デンチとボブ・ホスキンスの丁々発止のやり取りである。名優2人の演技をたっぷり楽しめる。デイム・ジュディ・デンチ。類まれなる才能を持った大女優である。彼女については「ラヴェンダーの咲く庭で」のレビューでも触れたが、ここでも少し触れておきたい。彼女が映画界に進出したのはだいぶ遅く、80年代半ばである。それまではもっぱら舞台で活躍していた。早くから彼女の天賦の才能は開花し、早くも60年代半ばには英国の最も優れたシェイクスピア役者と言われていた。映画界への進出が遅かったのは、映画向きの顔ではないと思われていたかららしい。といっても決して美人でなかったということではない。若い頃は結構美人だった。Judi Denchで画像検索すると舞台俳優時代の貴重な白黒写真がいくつか見つかる。若い頃の彼女は歴史劇が似合うきりりとした顔立ちだったことが分かるだろう。

 イギリスは多くの名優を輩出した。チャールズ・ロートン、ローレンス・オリビエ、ジョン・ギールグッド、デヴィッド・ニーヴン、アレック・ギネス、レックス・ハリスン、ローレンス・ハーヴェイ、マイケル・レッドグレーヴ、ジェームズ・メイスン、ラルフ・リチャードソン、トレヴァー・ハワード、ピーター・オトゥール、ダーク・ボガード、ジョン・ミルズ、リチャード・バートン、スタンリー・ベイカー、マイケル・ケイン、アンソニー・ホプキンス、ショーン・コネリー、ベン・キングズレー、いやはやきりがない。比較的最近の人たちを除いてもこの通りだ。

 ところが女優となると美人女優はたくさんいるが、名女優と呼べる人は意外なほど少ない。ヴァネッサ・レッドグレーヴ、マギー・スミス、ジュディ・デンチ、ヘレン・ミレンの4大女優、だいぶ年代が下がって中堅ではエマ・トンプソンが代表か。この5人はさすがにすごい。しかしほかに名前を挙げようとすればためらいを感じる。いかに女優が演技力よりも美しさを求められているかがよく分かる。

 さて相手役のボブ・ホスキンス。彼はどうしても「モナリザ」(86)の印象が強い。どうもほかに代表作が見当たらない。7本しか観ていないので見落としているのも多いが、「未来世紀ブラジル」を除いて傑作と呼べる作品にはほとんど出ていない。しかし堂々とジュディ・デンチと渡り合った「ヘンダーソン夫人の贈り物」は「モナリザ」と並ぶ彼の代表作になるだろう。

Sinnkirou1  この2人の出会いがいい。しかし、その前に出会う前の状況から書かなければならない。ローラ・ヘンダーソン(ジュディ・デンチ)の夫はどうやらインドで財を成した富豪らしいことが会話から間接的に分かる。その夫の葬式から映画は始まる。葬式では気丈に耐えていたが、1人湖にボートを浮かべ涙を流すヘンダーソン夫人(ほかのボートが近づいてくるとはっとして泣くのをやめるところも彼女らしい)。やがて悲しみも癒えた頃、退屈がそれに取って代わる。そんな彼女にあれこれとアドバイスを与える友人のレディ・コンウェイ(セルマ・バーロウ)が愉快だ。このいかにも人が良さそうな上流婦人を演じているセルマ・バーロウは英国テレビドラマの人気女優である。50~60年代は舞台で活躍するが、70年以降はTVが主な活躍舞台になる。TVのメロドラマ「Coronation Street」(「BFI選定英国テレビ番組ベスト100」の40位にランクされた名作ドラマ)のメイヴィス・ウィルトン役、シットコム「dinnerladies」のドリー・ベルフィールド役で知られる。ボブ・ホスキンスとのやり取りに目が行きがちだが、この能天気でおせっかいで微塵も悪気のないアドバイザーの存在を忘れてはいけない。

 レディ・コンウェイの勧めで上流婦人のたしなみたる刺繍と慈善活動を始めるが長続きしない。元々そんな枠組みに収まらない性格なのだ。何てったって男性の目の前で「○ッシー」なんて平気で口にして相手をのけぞらせてしまうのだから、当時の上流婦人としては相当型破りである。刺繍と慈善活動の失敗は短いエピソードだが、彼女の「レディのたしなみくそ食らえ」的破天荒な性格とその後のびっくりするような展開へそれとなく導く下地になっている。うまい展開だ。

 そんなある日、たまたま「ウィンドミル」という閉鎖中の劇場を見つけ、やっと金と暇の使い道を見出す。その劇場をぽんと買って、さっそく改装させる。買ったのはいいが、何をどうやって始めればいいのか全く考えていなかったというのが彼女らしくて可笑しい。ここでボブ・ホスキンスが舞台に登場する。またまたレディ・コンウェイの勧めでヴィヴィアン・ヴァンダム(ボブ・ホスキンス)というやり手の男を支配人として雇うことになったのである。ところが遠慮などという奥ゆかしいものをもたないヘンダーソン夫人は彼をユダヤ人だろうとあけすけに言ってすっかりヴァンダムを怒らせてしまう(図星だった上に、言い方が横柄だったからだ)。ここから何かにつけて衝突する2人の確執が始まる。

 衝突の原因は単純。責任者としてすべて自分で仕切りたいヴァンダムにオーナーである夫人が横槍をしきりに入れてくるという図式だ。がみがみ怒鳴り散らすヴァンダムと子どもみたいに思いつきや自分の好みで首を突っ込むオーナーは何事につけ衝突する始末。ところが夫人の方はそんなヴァンダムに惹かれるところがあった。ヴァンダムに奥さんがいることが分かって、ヘンダーソン夫人は急に不機嫌になってしまう。妻に対する無礼な態度に腹を立てたヴァンダムとまた大喧嘩。それを見ていたレディ・コンウェイのせりふがいい。「まるで長年の夫婦みたい。」これには笑ってしまった。そういえば何の映画だったか、近所に住んでいる男女が本当に夫婦か疑っていた隣人が、その2人が喧嘩しているのを見て間違いなく夫婦だと納得するという滑稽な場面があった。

 あるとき散々言い合った挙句、腹を立てたヘンダーソン夫人がもう二度と劇場には来ないと啖呵をきってしまう。しかし何にでも口を出さないと気がすまないこのおせっかいオーナーは、(これまた「マタ・ハリになればいいのよ」というレディ・コンウェイのアドバイスで)あの手この手で劇場に潜入してくる。あるときは怪しい中国人に変装し(あの顔は傑作)、あるときは白くまの着ぐるみをまとって。

 あのジュディ・デンチがこんなお茶目な婆さんになりきってしまうのだからすごい。「プライドと偏見」で威圧感辺りを払う暴君のごときレディ・キャサリンとして登場した人と同じ人物とはとても思えない。「ラヴェンダーの咲く庭で」で孫ほどの男性に恋してしまう繊細な老女を演じ、「アイリス」でボケが進んだ晩年のアイリス・マードックになり、知られざる傑作「Queen Victoria 至上の愛」では、馬番のジョン・ブラウンに恋してしまうヴィクトリア女王に扮している(英語のタイトルは「ミセス・ブラウン」)。まさに変幻自在。大女優たるゆえんだ。

 一方のヴァンダムもさるもの。レビューを1日に4回上演するノンストップ・ショーという驚天動地の企画を打ち出し大当たりをとる。連日満員御礼となる。出し物のレビューも洒落た物で今観ても充分楽しめる(できるだけ当時のレビューを再現したらしい)。悪ガキどもがステージにネズミを放って踊り子たちがパニックになったらかえって受けたのに目をつけ、すかさずまねしてネズミを用意させるあたりはなかなかしたたか者だ。着々と演出を進めながらも、隙を見ては忍び込んでくるヘンダーソン夫人をつまみ出したり、横車を押してくる夫人に顔を真っ赤にして反論したりと大車輪の活躍。大女優を向こうに回して、この真面目一方ながらなかなかしたたかな劇場人を演じるボブ・ホスキンスの存在感も大変なものだ。

 最初は順調に行っていた劇場も、ほかの劇場がまねしだしたとたん客足が引いていった。そこでオーナーたるヘンダーソン夫人がひねり出した新企画が何とヌード・レビュー!まさに常識に捕らわれない夫人の本領発揮である。さすがのヴァンダムも最初は反対するが、一度言い出したら聞かない彼女は、検閲官のクロマー卿(クリストファー・ゲスト)も説得して実現させてしまう。絵画のヌードが許されるのなら、舞台で裸になっても動かなければいいだろうと言いくるめてしまったのだ。

 クロマー卿とのやり取りが傑作だ。時代設定は1937年だが、ヴィクトリア朝(1837-1901)が終わって30年以上たってもヴィクトリアニズムと言われるお上品な伝統は未だ根強く残っていた。ヌードのどこがいけないのよと迫るヘンダーソン夫人とアタフタするばかりのクロマー卿の対比がこの時代の倫理観をそれとなく浮き上がらせ、また夫人がいかに型破りであったかを雄弁に描き出している。女性性器を表す言葉をうまく口に出せなくて哀れなほどまごつくクロマー卿に向って、夫人があっさりと「○ッシー」と言ってのけるところが痛快だ。

 前代未聞のヌード・レビューを最初に見た観客たちの反応がこれまた面白い。この頃はまだ上流の客が主体だった。上演の後のどう反応したらいいのか戸惑っている観客たちの様子がリアルだ。最初に拍手したのは検閲官のクロマー卿だった(これはお墨付きの合図だった)。踊り子たちは見事に額縁に納まって静止していたのである。これは日本で言う「額縁ショー」である。額縁に囲まれているのはヌードを描いた絵画に見立てているのである。

 これがまた連日客が詰め掛けるほどの大当たりになる。この映画の二つ目の楽しみはこのヌード・レビューである。ミュージカル映画といえばアメリカ映画の十八番だが、「ヘンダーソン夫人の贈り物」のレビューもアメリカに劣らない見事なものだ。踊りと歌は決してヌードの添え物ではない。踊り子たちは見事にはじけて飛びまわっている。カラフルな出し物もアイデア満載で引き付けられる。楽曲もなかなか楽しい。節々で額縁の中にライトが当てられ裸の女性が浮かび上がる仕掛けだが、これも決して下品な感じではなく、ショーとうまくマッチしていて違和感がない。

 順調に行っていたウィンドミル劇場だったが、時代の影が次第に忍び寄ってくる。戦争の影である。最初に出し物が変わってゆく。戦争を題材にしたレビューになるのだ。踊り子たちはヘルメットを被り軍服を着て踊っている。観客層も一変し、ほとんどが若い兵士になる。このあたりから暗いトーンが映画を覆い始める。しかしレビューの質は落ちない。中でも印象的なのは、フランス国歌の成り立ちを描く出し物。恐らくフランスがナチスに蹂躙されている時期だったのだろう。劇場に響く「ラ・マルセイエーズ」のメロディーに感動する観客。ヘンダーソン夫人も劇場の隅で涙を流していた。

Sdfai209_2  この点が重要だ。この劇場はただ単に金儲けのために存在していたのではない。連日の空襲に打ち沈む国民を励ましていたのである。ここにもう一つの魅力がある。ヘンダーソン夫人がレビューに魅せられたのも、そこにはヴィクトリアニズムの厳しい倫理観に縛られた「家庭の天使」には決して体験することができない生き生きとした世界が広がっていたからだ。人々を縛る枠組みを取っ払った時初めて見えてくる生身の人間の息遣い。刺繍などに明け暮れていては決して知ることのなかったのびのびとした世界がそこにあったのだ。同じ頃、「贅沢は敵」と華美なものを極力排除しようとしていた日本人と比べてみれば、イギリス社会の懐の深さがよく理解できるだろう。ヴィクトリアニズムの残滓がまだはびこってはいたが、イギリスには伝統を破るものでも受け入れるおおらかさと余裕がまだあったのだ。苦しい時ほど人は息抜きを求める。だから観客が集まってくる。

  もう一つの魅力とは戦時中にもかかわらず劇場を閉鎖せずに頑張った彼らの心意気である。「戦いは兵器だけでするのではない。大空襲で街や家がいくら焼かれ、友や顔見知りが死んだとしてもショーは続けるつもりだ。幕は下ろさず、劇場の扉も閉ざさない。」ヴァンダムが踊り子たちに言った言葉がそれをよく表している。踊り子たちも負けてはいない。劇場の近くに爆弾が落ち一時騒然となったとき、主演のモーリーンは「くたばれ」とばかり中指を突き出した。映画の後半は暗いトーンになるが同時にまた感動的でもある。ナチス占領下でも映画を作り続けたフランス映画人の気概にも通じるものを感じるからだ。実際、フランス映画「レセ・パセ」で描かれたように、マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」や「悪魔が夜来る」といった名作は占領下で作られたのである。「悪魔が夜来る」のラストで主人公の2人は悪魔によって石にされてしまう。しかしそれでも彼らの心臓はドクンドクンと脈を打つのをやめなかった。フランス人の抵抗精神を表したこのラストシーンは何度観ても感動的だ。

 劇場の屋上から空襲下のロンドンを見つめるヘンダーソン夫人は第1次大戦で死んだ息子を思い出していたのだろう。その息子への思いが彼女にヌード・レビューを思い立たせたのである。彼女がその思いを打ち明ける場面がこの映画のクライマックスである。戦時中であったため、彼女たちにはまた別の枠組みが押し付けられた。劇場には人が集まるので閉鎖を命じられたのだ(爆撃を受けたとき被害が大きくなる)。劇場を開けろと騒ぐ兵士たちと何としても劇場を開かせまいとする政府の役人たちの前で夫人は演説する。

 息子の遺品を整理していた時ヌード写真が出てきた。その時彼女は思った。「うちの子は本物の女性の裸を一度も見ないで死んだと。あまりにせつない人生だと思いました。戦争で息子を失った母親の正直な思いとすれば、あれは犬死です。・・・私の思いは一つ。せめて若者へ”贈り物”がしたい。若者が命を捧げるならば喜びを捧げるのがわれわれの務めと。その場を与えたい。」

  「ヘンダーソン夫人の贈り物」という邦題はこの演説からとられている。本物の女性の裸を見て死ねば犬死ではないのかという疑問もないではないが、むしろ戦場に赴く兵士たちを励ましたいという彼女の気持ちを受け止めるべきだろう。喜びこそが暗い時代を撃つ武器なのだ。 ラスト・シーンも洒落ている。屋上でヘンダーソン夫人とヴァンダムが踊るシーンだ。「あなたは困った人だが憎めない。」「あなたも困った人だわね。」仲良く踊りながらも、「踊りが下手だわ」、「いやそんなことはない」と言い合っている。最後まで言い合いをしているところがいい。

  軽妙洒脱、この2人の俳優を表現するにはこの言葉がぴったりだ。ずけずけとものを言い、きかん気で強い意思を持ち、常識に捕らわれず自由な発想をする。かと思えば小娘のように好奇心にあふれ、お茶目な一面も持つヘンダーソン夫人。優秀なプロデューサーかつ支配人として次々にアイデアあふれる出し物を繰り出し、裸になるのを不安がる女の子たちには「これは絵画と同じ芸術なのだよ」とやさしく諭すこともできるヴァンダム。自ら全裸になってまでしり込みする彼女たちの背中を押す。自分の仕事には妥協を許さず、オーナーの口出しにも全力で対抗する。いつもフルチン、いやフル回転で仕事をしている印象だが、容れるべきは容れるおおらかさもある。2人の名優が演じたこの2人の登場人物は、屋上で踊る二人の姿と共に長く記憶に残ることだろう。

  ウィンドミル劇場はロンドンのグレイト・ウィンドミル・ストリートにあった。17世紀末ごろまでそこに風車小屋(windmill)があったらしい。それでピカデリーからその風車小屋までの道がグレイト・ウィンドミル・ストリートと名づけられたのである(ピカデリー劇場とアポロ劇場の間の通り)。ローラ・ヘンダーソンは1944年に82歳で亡くなった。ウィンドミル劇場はその後も続いたが、1964年にその歴史が閉じられる。その後コンプトン・シネマ・グループに売却されウィンドミル・シネマに改装されたが(もともとヘンダーソン夫人が買い取る前も映画館だった)、現在はまたウィンドミル劇場という名前に戻りヌード劇場になっている。

<付記>
 大修館書店の『ロンドン辞典』にGreat Windmill StreetとWindmill Theatreの記述があります。また「BFI選定英国テレビ番組ベスト100」については、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「イギリス映画の世界」コーナーで紹介しています。100番組すべてのタイトルを載せてあります。

 

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2008年2月22日 (金)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(08年3月)

【新作映画】
2月23日公開
 「いつか眠りにつく前に」(ラホス・コルタイ監督、米・独)
 「窯焚KAMATAKI」(クロード・ガニオン監督、加・日)
3月1日公開
 「ライラの冒険 黄金の羅針盤」(クリス・ウエイツ監督、米・英)
 「地上5センチの恋心」(エリック・エマニュエル・シュミット監督、ベルギー)
 「4ヶ月、3週と2日」(クリスティアン・ムンジウ監督、ルーマニア)
 「明日への遺言」(小泉尭史監督、日本)
 「ガチ☆ボーイ」(小泉徳宏監督、日本)
3月7日公開
 「ジャンパー」(ダグ・リーマン監督、アメリカ)
3月8日公開
 「黒い土の少女」(チョン・スイル監督、韓国)
 「バンテージ・ポイント」(ピート・トラビス監督、アメリカ)
 「アメリカを売った男」(ビリー・レイ監督、アメリカ)
 「ダージリン急行」(ウエス・アンダーソン監督、アメリカ)
 「プライスレス 素敵な恋の見つけ方」(ピエール・サルバドーリ監督、仏)
 「花影」(河合勇人監督、日本)
3月14日公開
 「魔法にかけられて」(ケヴィン・リマ監督、アメリカ)
3月15日公開
 「ノーカントリー」(ジョエル&イーサン・コーエン監督、米)
 「ジェリーフィッシュ」(シーラ・ゲフェン監督、仏・イスラエル)
 「ビルマ、パコダの影で」(アイリーヌ・マーティ監督、スイス)
 「犬と私の10の約束」(本木克英監督、日本)
3月22日公開
 「Sweet Rain 死神の精度」(筧昌也監督、日本)

【新作DVD】
2月22日
 「デス・プルーフinグラインドハウス」(クエンティン・タランティーノ監督、米)
 「ローグ・アサシン」(フィリップ・G・アトウエル監督、アメリカ)
 「キャンディ」(ニール・アームフィールド監督、オーストラリア)
3月5日
 「鳳凰 わが愛」(ジヌ・チェヌ監督、中国・日本)
3月7日
 「ボーン・アルティメイタム」(ポール・グリーングラス監督、米・独)
 「ブレイブ・ワン」(ニール・ジョーダン監督、米・豪)
 「ウェイトレス おいしい人生のつくりかた」(エイドリアン・シェリー監督、米)
 「遠くの空へ消えた」(行定勲監督、日本)
3月19日
 「タロットカード殺人事件」(ウディ・アレン監督、英・米)
 「花蓮の夏」(レスト・チェン監督、台湾)
 「TOKKO特攻」(リサ・モリモト監督、米・日)
 「めがね」(荻上直子監督、日本)
 「クワイエットルームにようこそ」(松尾スズキ、日本)
3月20日
 「クローズド・ノート」(行定勲監督、日本)
3月21日
 「恋とスフレと娘とわたし」(マイケル・レーマン監督、米)
3月26日
 「パンズ・ラビリンス」(ギレルモ・デル・トロ監督、メキシコ・他)
 「サルバドールの朝」(マヌエル・ウエルガ監督、スペイン)
3月28日
 「ヒロシマナガサキ」(スティーブン・オカザキ監督、米)
 「夕凪の街 桜の国」(佐々部清監督、日本)
 「カルラのリスト」(マルセル・シュブバッハ監督、スイス)
4月4日
 「シッコ」(マイケル・ムーア監督、アメリカ)
 「ヘアスプレー」(アダム・シャンクマン監督、英・米)
4月11日
 「ベオウルフ 呪われし勇者」(ロバート・ゼミキス監督、アメリカ)

【旧作DVD】
2月23日
 「ヴェロニカ・フォスのあこがれ」(82、ライナー・B・ファスビンダー監督、西独)
 「ファウスト」(26、フリードリヒ・W・ムルナウ監督、独)
 「ブルー・ガーディニア」(53、フリッツ・ラング監督、米)
 「私の20世紀」(89、イルディコ・エニエディ監督、ハンガリー・西独・キューバ)
2月25日
 「三文オペラ」(31、G.W.パプスト監督、ドイツ)
3月7日
 「死神の谷(死滅の谷)」(21、フリッツ・ラング監督、ドイツ)
3月19日
 「ブロードウェイのダニー・ローズ」(84、ウディ・アレン監督、米)
3月25日
 「忘れられた人々」(50、ルイス・ブニュエル監督、メキシコ)

Bench014   劇場新作では「第9回Golden Tomato Awards発表」で紹介した「ノーカントリー」がいよいよ登場。監督はコーエン兄弟、トミー・リー・ジョーンズに「海を飛ぶ夢」のハビエル・バルデムが絡むときては大いに興味をそそられる。

 新作DVDは久々に充実している。「デス・プルーフinグラインドハウス」、「タロットカード殺人事件」、「ボーン・アルティメイタム」、「めがね」、「パンズ・ラビリンス」、「ヒロシマナガサキ」、「夕凪の街 桜の国」、「シッコ」、「ヘアスプレー」と注目作がひしめく。

 それに対して旧作DVDの方は寂しい。唯一頑張っているのはドイツ映画の古典の掘り起こし作業。これは貴重だ。ただ値段があまりに高すぎるのが残念。

<追記>
 何と月末にブニュエルの名作「忘れられた人々」が出る。力強いリアリズムで描かれた必見の作品。ぜひ観てほしい。

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2008年2月18日 (月)

トランシルヴァニア

2006年 フランス 2007年8月公開
評価:★★★★☆
監督・脚本・音楽:トニー・ガトリフ
オリジナル音楽:トニー・ガトリフ、デルフィーヌ・マントゥレ
音楽:エマニュエル・ガレ、フィリップ・ウェルシュ、ジェローム・ブール
撮影:セリーヌ・ボゾン
出演:アーシア・アルジェント、ビロル・ユーネル、アミラ・カサール
    アレクサンドラ・ボジャール 、マルコ・カストルディ、ベアタ・バーリャ

 「トランシルヴァニア」のストーリーを簡単にまとめると次のようになる。お腹の中にいる子どもの父親にもう愛していないと拒否された女が、絶望と焦燥の末に新しい愛を見出し出産する。どこにでも転がっているような話だ。トニー・ガトリフ監督はこのありふれたテーマを全く独自のスタイルと演出でユニークな作品に仕立て上げた。改めて言われないとそんなありふれたシチュエーションだったと気づかないほど変容されている。

Violin_2  「トランシルヴァニア」を取り上げる場合、そのユニークさをきちんと説明しなければならない。映画の基本的形式はロード・ムービーである。考えてみれば「流浪の民ロマ」を描く上でロード・ムービーはまさにふさわしい形式だ。しかし「トランシルヴァニア」の主人公2人、ジンガリナ(アーシア・アルジェント)もチャンガロ(ビロル・ユーネル)もロマではない。にもかかわらずジンガリナは途中から服装も生き方もロマのようになってゆく。チャンガロはいつも車で移動し、ロマのように野宿しながら村から村へさすらう生活をしている(「なぜホテルが嫌いなの?」「壁に囲まれていると不安だから」という会話に注目!)。この2人が出会い、流浪の旅をする。そういう展開になっている。音楽も伝統的なロマの音楽そのものではなく、現地の民俗音楽をベースにしてトニー・ガトリフ監督自身が創作したオリジナル曲なのである。ロマでないものにロマの生き方をさせる。ロマの生き方は「ガッジョ・ディーロ」や「僕のスウィング」の観察され共感されるものから、体の中に取り込まれ自分と一体のものに変わっている。自ら追い続けてきたテーマをさらに押し進めようと試みているのだ。

  ここで「トランシルヴァニア」と「娼婦とクジラ」との共通点を指摘しておくことは大いに示唆を与えるだろう。「娼婦とクジラ」はマジック・リアリズムとでも呼ぶべき手法を駆使し、「トランシルヴァニア」はドキュメンタリーのようなタッチを使いながら巧みに民族的、土着的要素を織り込んでいる。片やタンゴがふんだんに使われ、片やロマの音楽を中心にした民俗音楽があふれかえっている。そして共にむせ返るような情熱的愛が、時に哀愁を帯び時に情熱的に吼え猛る音楽に乗って画面からはじけだす勢いで語られるのだ。しばしばパッションとなってほとばしる感情表現の起伏の激しさこそ「トランシルヴァニア」の特徴である。映像的には、一例を挙げれば、登場する女たちの髪が常に乱れていることに表れている。

  さらに「トランシルヴァニア」にはエミール・クストリッツァの「ライフ・イズ・ミラクル」の世界とも近い要素がある。車の上で絡み合っている男女の後ろでゴミをあさっているクマ、「自転車に乗るロマの女を初めて見た」、あるいは「75歳にして男のように戦う女を初めて見た」と素朴に驚く老人。ユーモアのセンスがどこか共通している。いろんな要素が混入されているのもクストリッツァ的だ。それは人物の性格付けによく表れている。手に人間の目を描き、腹に天使の刺青を入れ、10本の指全部似に指輪をはめた若い女ジンガリナは、一方で占い師に占ってもらったり悪魔祓いの儀式を受けたりする。チャンガロはその悪魔払い師に「ペテン師め」と言って料金を踏み倒して逃げ去るような男だが、大怪我をしたときにはアフリカで買ったという傷を治す力を持った隕石で体をなでたりしている。あるいは、突如「黒いオルフェ」のような狂騒的カーニバルが出てきたりする。行方の定まらない何でもありの迷走的ロード・ムービーなのである。

Gita1   しかし一見行き当たりばったりの旅に見えて実は一貫して追求されているテーマがある。ジンガリナはフランスから恋人(かつお腹の中の子どもの父親)のミランを探してトランシルヴァニアまでやってくる。しかしジンガリナに対するミランの愛情と情熱はとうに冷めていた。ショックを受け、1日中踊り狂い荒れ狂うジンガリナ。「うんざりよ、幸せになりたい」と言って泣く。一緒についてきた友達のマリー(アミラ・カサール)はフランスへ帰ろうとジンガリナを促す。しかし彼女は帰らなかった。「なぜ心が惹かれるの」というこだわりがジンガリナにはあったからだ。彼女は一体何に心を惹かれていたのか。映画はそれを描いている。

 「なぜ心が惹かれるの」という言葉はもう一つ別の言葉と重なり合っている。ジンガリナがチャンガロと交わした言葉だ。チャンガロはなぜこんな村にいるとジンガリナに聞かれて「金(きん)」と答えた。彼は住民から小道具などを安く買い叩いて故買商に売り払う商売をしている。逆に彼からここで「何を探してる」と聞かれたジンガリナは、「愛よ」と答えている。彼女が追い求めていたのはミランではなかった。むしろ彼が身につけていたロマの「匂い」であったのだろう。彼女が追い求めていた愛と、彼女が心を惹かれていたロマの文化がここで結びつく。

 ジンガリナの愛を捜し求める旅は、自らロマのようになり、またロマのように自由に暮らしているチャンガロと出会い、母になる不安を克服して子どもを授かることで終わる。一方、ジンガリナを道端で拾った時「世界は愛に満ちている」と言ったチャンガロは、一方で人間嫌いで金だけを愛するとうそぶいていた。その彼もジンガリナと出会うことで愛を知るのである。旅の途中で2人はそれぞれ生まれ変わるための重要な儀式を通過する。ジンガリナの場合は言うまでもなく悪魔祓いの儀式である。

 ミランの裏切りを知った後ジンガリナは荒れ狂った。狂ったように踊りまわり、踊りながら次々と皿を割る。グラスを割りながら踊るダンスは結婚式のパーティなどの場面で映画にもよく出てくる。そういえば、何の映画だったか盛り上がった客たちが派手にグラスを床にたたきつけて割る横で、店の主人がガチャガチャチーンと損害をレジに打ち込んでゆくユーモラスなシーンがあった。それはともかく、「トランシルヴァニア」のこの場面はジンガリナの心中の嵐を間接的に描いている。その後外に飛び出してカーニバルの渦に飛び込む。独特の民族衣装と天狗のように赤く長い鼻をした怪物のような仮装で踊りまくる人々。これも同じ間接的感情表現である。音楽と踊りは何度も重要な場面で効果的に使われている。

 チャンガロの車に拾われた時も途中で突然降りてしまう。「悪魔が」体の中にいると叫びながら林の落ち葉の中でのた打ち回る。彼女の体の中に棲みついた「悪魔」とは愛の喪失から来る絶望感だけではなく、腹の中にいる子供だったと考えられる。彼女が恋人を失ったと同時に子どもは父親を失ったのである。日に日に大きくなる「悪魔」が自分の体内にいる不安。その不安は悪魔祓いをした後でも危機的場面で表出する。陣痛で苦しみながら「ミランお腹に何を入れたのよ」と叫んだとき、出産の手伝いをする村の女たちを「魔女みたい」と怖がったとき、「悪魔」がよみがえりかけた。しかし彼女はそれを乗り越えた。今度は悪魔祓い師の手を借りずに。悪魔祓いの儀式の後ジンガリナはロマの衣装を着て現われる。明らかに精神の切り替えがあったのだ。あの儀式で払われたのは悪魔ではない。それまでの彼女の価値観と生き方なのである。

Ku_005_2  チャンガロが通過した儀式はより自虐的だった。ジンガリナが無事子どもを出産した後、恐らく彼は自分の役目は終わったと考えてジンガリナから去ろうとしたのだ。しかしその一方で去りがたい思いが彼の中にあった。チャンガロの内心の動揺を示す場面がある。村の女たちが出産の手助けをしている横でチャンガロはタバコに火をつける。しかし緊張のあまりタバコの反対側に火をつけていることに気づかない。出産に際して見守る以外何もできない男たちを描くごくありふれた描写にも思える。しかし、ひょっとしたら彼の胸の内には生まれ来る子は自分の子ではない、ジンガリナの気持ちが自分からそれてゆくのではないかという不安もあったのではないか。だから彼は出産の後立ち去ったのだ。

  彼には自分の気持ちを整理するために儀式が必要だった。楽師たちを雇って、荒野でビールを飲みながら音楽に合わせて踊るチャンガロ。彼は頭にスカーフをかぶり頭でビール瓶を割る。自分で自分の頬をたたく。近くに立っている木の幹にジンガリナの手にあったのと同じ目の形が彫ってある。これはジンガリナへの思いを断ち切ろうとする儀式だったのだろう。だが、彼の自暴自棄的行為にあきれて楽士たちは演奏をやめてしまう。「音楽は生きるためのものだ、苦しむためじゃない。」そう言って彼らは夕暮れの中去っていった。

  チャンガロは音楽によって目を覚ました。自分を取り戻した。チャンガロは酒場で酒を飲んでいた時、ふと目に入ったギターを弾く熊の人形を買う。やっとジンガリナと、さらには彼女の子どもと向き合う気持ちになったのだ。しかしジンガリナを預けた家に戻ると、子どもを連れて出て行ったと言われる。ロマと一緒だったと。ようやく探し当てたジンガリナは赤ん坊を抱いてベッドに寝ていた。目覚めてにっこりと笑うジンガリナ。その表情は安らぎに満ちていた。音楽が流れ、エンドロールへ。

  叫び声と泣き声と怒鳴り声に満ちた映画だが、最後に映し出されるジンガリナの聖母のような微笑に救いがある。彼女自身はロマではないが、生まれた子はロマの血を引いている。実の父は逃げてしまったが、新しい「父」になりうる男はロマのように自由に生きている男だった。彼女を引き付けてやまなかったロマの生活にやっと入り込むことができた。彼女の微笑みはそれを表している。

 冒頭に示したようなテーマがあるにはあるが、それは同じロード・ムービーでも「サン・ジャックへの道」のような明確な枠組みをなしてはいない。すべてのエピソードが結末へと結びついているという描き方ではない。行き当たりばったりで、暗喩に満ち、ストーリーのつながりよりも一つひとつのエピソードが際立っている。たまねぎやトマトを手でつぶして作ったチャンガロの料理のように、ごつごつとした手触りの映画だ。言葉以上に感情が表面に湧き出している映画だ。しかしどろどろはしていない。渦巻いているのは暗い情念ではなく熱いパッションだからである。そしてこの映画の土着的、風土的パッションを描くのにもっとも適した音楽がロマの音楽を中心とする民族音楽だったのだ(ミランがミュージシャンであったことを忘れてはいけない)。

 ロマの音楽に最初に心引かれたのは、恐らくほとんどの人がそうだろうが、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いた時だ。あの哀愁と情熱にあふれた楽曲には聞く者の心をかきむしるほどの魅力があった。取り澄ましたようなクラシック音楽と違って感情が音の固まりになって降りかかってくるような音楽。同じくロマ音楽に影響を受けたリストの「ハンガリー狂詩曲」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」も起伏に富んだ楽曲である。その後ジャズを聴くようになってジャンゴ・ラインハルトを知り、さらにだいぶ遅れてタラフ・ドゥ・ハイドゥークスやビレリ・ラグレーンを知った。そして映画ではトニー・ガトリフ監督の作品と出会ったのである。

 トニー・ガトリフ監督の作品は常に音楽と一体である。「トランシルヴァニア」は映画の中で演奏される音楽同様、見る者の心と感情をかきむしる映画だ。激しい音楽に乗ってむき出しの激情が表出される。それでいい。ロマの音楽は言葉だったのである。文字をもたなかった流浪の人々は、自分たちの民族の歴史、自分たちが経験してきた悲しみや喜びなどを言葉ではなく歌や踊りに刻みつけてきたのだ。

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