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2008年1月27日 - 2008年2月2日

2008年1月28日 (月)

約束の旅路

2005年 フランス 2007年3月公開
評価:★★★★☆
原題:Va,vis et deviens
監督・原案・脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ
共同脚本:アラン=ミシェル・ブラン
音楽:アルマンド・アマール
撮影:レミー・シェヴラン
美術:アイタン・レヴィ
出演:ヤエル・アベカシス 、ロシュディ・ゼム 、モシェ・アガザイ 、モシェ・アベベ
    シラク・M・サバハ 、イツァーク・エドガー 、ロニ・ハダー 、ラミ・ダノン
   ミミ・アボネッシュ・カガダァ、マスキィ・シュリブゥ・シーバン

Itmt01  先日レビューを載せた「ボルベール」に続いてまた母親の強さと深い愛情を描いた秀作と出合った。主人公は息子なのだが、その息子を守り育てた3人の母親(実母、偽母、義母)の愛情深く力強い存在と息子の実母への強い思いがなければ成立しない映画だった。「約束の旅路」の主たる舞台はイスラエルだが、この映画はまたこのところ盛んに作られているアフリカ関連映画の系譜にも属する作品である。アフリカと何らかの関連を持つ映画は2000年代に入ってから一気に数が増えた。「名もなきアフリカの地で」(02)、「アマンドラ!希望の歌」(02)、「ホテル・ルワンダ」(04) 、「母たちの村」(04) 、「ダーウィンの悪夢」(04) 、「ロード・オブ・ウォー」(05)、「ナイロビの蜂」(05)、「ルワンダの涙」(05)、「ツォツィ」(05)、「エマニュエルの贈り物」(05)、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」(06)、「輝く夜明けに向かって」(06)、「ブラッド・ダイヤモンド」(06)等々。社会的・政治的・文化的矛盾が激烈な形で表出している地域なので、作り物の映画などはるかに凌ぐリアルな作品、深刻な心理的葛藤を伴った人間ドラマが描けるからである。

 ストーリーの大きな枠組みは「母をたずねて三千里」的メロドラマである。1984年の干ばつでスーダンの難民キャンプに逃れてきた母と子。そのキャンプにはたまたまエチオピアからイスラエルへ行こうとしていたユダヤ教徒の一団がいた。その一団をイスラエルへ飛行機で移送救出するという「モーセ作戦」が展開されていたのである。主人公の母親は、自分の息子をたまたま難民キャンプで息子をなくしたユダヤ人女性の子どもにしたて、せめて息子だけでも助けたいという思いで息子をイスラエルに送る。母親と離れ離れになった主人公は、養父母に育てられながらも実母への思いをもち続け、最後にやっと実母と再会する。これが大まかなストーリーである。邦題の「約束」とは、原題の「行きなさい。生きて何かになりなさい」という母親の言葉を守って主人公が医者になったこと、あるいは母との再会を果たすこと(主人公の妻サラはラスト近くで彼に「一つだけ約束して」と言ったが、それは実母を必ず探し出すという約束だったのではないか)を示していると同時に、約束の地エルサレムを表してもいるだろう。

 「約束の地」エルサレムとのつながりが重要である。メロドラマ的枠組みを持ちながら、この作品がいかにその枠組みを突き破り、単なるメロドラマに収まらない優れた人間ドラマになりえたかを考える上で大きなヒントを与えてくれるからだ。グレゴリー・ナヴァ監督の名作「エル・ノルテ 約束の地」(83)やアンジェイ・ワイダ監督の「約束の土地」(75)のように、「約束の地」という言葉はその「約束」が裏切られるという意味を込めて使われることが多い。キリスト教徒であることを隠しユダヤ人に成りすました主人公はシュロモと名づけられ、秘密を抱えて苦悩する。彼がイスラエルで体験した苦難はそれだけではない。彼らファラシャ(黒いユダヤ人)たちはイスラエルで露骨な人種差別に遭遇するのである。長い間差別を受けてきたユダヤ人が一方で黒人を差別している。そういう実態が描き出されている。あまつさえ、エチオピアのユダヤ人たちは本当のユダヤ人なのかという論議すら浮かび上がってくる。実母と遠く離れて暮らし、自己のアイデンティティーに悩み、愛情を注いでくれる養父母たちに嘘をついていることで葛藤し、人種差別に苦しむ。シュロモが体験したイスラエルでの生活は苦難に満ちていた。

 「約束の旅路」が他のアフリカ関連映画とは違うユニークな作品になっているのは、主人公のシュロモに複雑なアイデンティティを持たせているからである。それは例えば言葉にも表れている。シュロモはヘブライ語、フランス語、エチオピアのアムハラ語を話す(ただしアムハラ語の読み書きはできない)。イスラエルが主たる舞台だが、イスラエルが主題ではない。イスラエルの背後には常にアフリカがあった。ユダヤ人は迫害を受けながら聖地エルサレムを思ったが、シュロムはそのエルサレムで自分の故郷エチオピアとスーダンに残された母を思った。イスラエルに暮らす非ユダヤ人という独特のシチュエーションを設定したのは、主人公を現実の様々な矛盾と困難の中で描きたかったからである。

Reath1  子ども時代のシュロモの心の中を占めていたのはスーダンに残された母への思いとキリスト教徒でありながらユダヤ人を装うことから生じる葛藤である。母と別れたばかりであり、しかも子どもであるだけに母への思いは強い。シュロモは食事を口にせず、夜中に施設を抜け出してしまう。歩いてアフリカまで帰ろうとしたのである。やがて自ら左派だと認めるハラリ夫妻に引き取られるが、その後も食事を取ろうとしない。パンを食べずに捨ててしまう。学校の帰りにシュロモが靴を脱いで裸足で大地を踏みしめながら歩く場面やベッドから出て床に寝る場面などがあるので、最初は食べ物が口に合わないのだろうと観客は感じる。しかし彼が食べないのは成長することを拒んでいるためだった。窓辺で外の半月を見上げながらつぶやく(「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の有名な場面を連想させられる)シュロモの言葉には胸を締め付けられる。「僕は変わりたくない。ママは僕が見分けられる?」自分が大きくなってしまっては、母と再会した時自分だと見分けられなくなってしまうのではないか。彼が食事を拒否する真意はそこにあった。学校で母の日にみんなで母の絵を描くが、シュロモだけ絵が描けないといういかにもメロドラマ的な場面よりもはるかに強烈に訴えてくる場面だ。裸足で歩こうとしたり床で寝たりするのも、単に新しい習慣に馴染めないだけではなく、難民キャンプにいる母親と同じ状態に自分をおきたかったのかも知れない。

 エルサレムの嘆きの壁での台詞も印象的だ。壁一面に詰め込まれた願い事の紙を見て、シェロモは「願い事だらけ、エルサレムの人は不幸なの?」と聞く。必ずしもイスラエルに対する皮肉が込められているわけではないだろう。シュロモ自身が悩み事を持ち、母に会いたいという強い願望を持ち続けているからこそ生じた「誤解」なのだ。

 シュロモにはいくつもの願い事があった。彼は1階に住むシルバーマンさんみたいになりたいと思う。「ある朝目覚めたら白人になっている。本当のユダヤ教徒のようになってる。」本当のユダヤ教徒のようになることは可能だが、白人になることは不可能である。シュロモが初めて学校に行った時、前の席の女の子がシュロモの手を触って自分の手を見た。指が黒くなっていないか確かめようとしたのだ。子どもの間ではまだそんな好奇心程度で済むが、大人たちの目は偏見で歪んでいた。白人の親たちはシュロモがいたのでは成績が下がるし伝染病がうつる危険性があるから彼を転校させてほしいと苦情を言ってきた。これに激しく抗議したのは義母のヤエル(ヤエル・アベカシス)だった。このシーンは素晴らしい。彼女は激しい怒りをあらわにし、「この子は世界一美しい子よ!」と叫んでシュロモに何度もキスをする。

 このときの彼女の態度は実に立派だった。恐らくシュロモを一番支えてきたのは彼女だったろう。彼女に関して一つ非常に重要なことがある。彼女と夫のヨラム(ロシュディ・ゼム)がシュロモを引き取りに現われた時のことである。最初にこの2人を見たとき、これは2週間もすればシュロモを突っ返してくるだろうと感じた。それほどこの二人のニコニコした親しげな態度は白々しく思えたのである。結果的にこの2人は素晴らしい両親になった。それにもかかわらず最初この2人が到底いい両親にはなれそうもないと見えたのは、それまでにわれわれがアフリカでの過酷な現実を見てきているからである。アフリカとイスラエルの間に大きな隔たりがある(単に地理的な距離を言っているのではない)と感じるから、真心を込めてシュロモに接しようとしていたに違いない二人の態度が白々しく映るのだ。

  冒頭に映し出される、死んだ子どもを抱えて呆然とする母親の姿。目は宙をさまよっている。難民キャンプには同じようなうつろな目をした人や不安げな表情の人たちが身を寄せ合うようにして集まっていた。子どもをなくした女性ハナにシュロモを預けた彼の母親。自分の体の一部を引きちぎられる思いだったろう。このハナという女性が実に立派だった。彼女は単に実母と義母となるヤエルの間をつないだというだけの存在ではない。自分の子どもを亡くした後だけに彼女はシュロモの母親の必死の思いを十分理解していた。彼女は実の母親に代わってシュロモを守った。ユダヤ人になりきること、秘密を絶対に守ること、そうしないとエチオピアに送り返されると何度も彼に言い聞かせる。切羽詰った状況のために実の母がやりたくでもできなかったことを、彼女は代わりに立派に果たした。そしてこう言い添える。「スーダンにいる本当のお母さんのことも忘れないで。いつか必ず会えるわ。」そのハナもイスラエル入国後ほどなくして病で亡くなってしまう。「母親」としてシュロモを守ってやれた期間は短かったが、彼女の言葉は幼かったシュロモの不安におびえる心を後ろからしっかりと支えていたに違いない。こういうぎりぎりのところで必死で生きてきた人たちの姿を見てきたからこそ、見るからに裕福そうで幸せそうなハラリ夫妻の笑顔がうわべだけのものではないかと感じてしまうのである。それだけアフリカの現状が過酷だったということだ。

 実際、ハラリ夫妻がシュロモを引き取ったのには政治的な思惑があった。夫のヨラムは将来の兵士を育てるために男の子をほしがった。ヤエルも左翼的政治信条からかわいそうな子どもを引き取ることにした。彼らは自分たちが左翼支持者であること、したがってあまり信心深くないことを率直にシュロモに話した。しかしそれは政治的信条から発した行為で、必ずしも深い愛情からではなかった。だから最初の内はギクシャクする。われわれがこの映画で経験するのは政治的信条から発したものが真の深い愛情に代わってゆくプロセスである。

 シュロモを転校させよという圧力が加えられたように、黒いユダヤ人を引き取るということはハラリ一家もまた人種差別の矢面に立つということである。彼らはそれを承知の上でシュロモを引き取った。そして偏見や差別に正面から立ち向かい、それらを跳ね返してきた。その過程において彼らとシュロモの絆は深められていったのである。

Sdglass0507  シュロモたち黒いユダヤ人の置かれた不安定な立場をファラシュの指導者の1人ケス・アムーラが端的に語っている。「エチオピアではユダヤ人だと非難され、ここでは似非だと非難される。エチオピアではわれわれは“魔術師”と呼ばれ、この国では“クシー”つまり黒人と呼ばれる。この国の政府に訴えたい。大勢のユダヤ人がエチオピアやスーダンに残っている。子供だけがここにいて両親はまだアフリカに残っている。」家族と引き離されている上に、エチオピアにいてもイスラエルにいても身の置き所がない人々(「パッチギ!」「タッチ・オブ・スパイス」にも同じような台詞が出てくる)。シュロモがケス・アムーラに言った「ケス、僕の祖国はどこ?」という言葉がなんとも悲痛だ。

 シュロモはむき出しの差別にも遭遇する。彼が愛したサラの父親はポーランド系のユダヤ人。シュロモを毛嫌いし、娘から引き離そうとする。シュロモは真剣にサラを愛しているが、愛しているからこそ本当はユダヤ人ではないという秘密が養父母だけではなくサラとの間にも入り込んできて彼をさいなむ。ついに彼は警察署で自分は本当のユダヤ人ではないと告白するが、逆に励まされてしまう。その警察官はルーマニアから来た人で、彼自身も差別を受けてきたのだろう。また偏見に満ちた白人どもがエチオピアのユダヤ人は本当のユダヤ人ではないといってシュロモをいじめているのだと勘違いしてしまうのだ。「君の同胞は月に12人も自殺している。われわれの過ちだ。」このシーンはどこかユーモラスで作品が重苦しくなるのを和らげている。しかしその時将来何になると聞かれて、シュロモは答えられなかった。これもまたシュロモの抱える大きな重荷だった。「生きて何者かになりなさい」という母の言葉は10年たってもシュロモの頭から離れることはなかったのだ。

 自分の祖国はどこか、自分は何者になればいいのか。シュロモの苦悩はアイデンティティを模索する苦悩だった。自分は何者になればいいのか、それは彼自身が引き受けなければならない課題だった。この映画はシュロモの成長の物語でもある。彼は何度も迷いながらも、彼を支えてくれた人々から多くを学んで成長していった。その1人がケス・アムーラである。アムハラ語が書けないシュロモは彼に頼んでスーダンの難民キャンプにいる実母への手紙を書いてもらっていた。その関係を通じて彼から多くを学んだ。もう1人はキブツにいるシュロムを訪ねてきた養祖父である。「土地は分かち合うべきだよ。太陽や日かげのように。互いに愛が学べるように。」アラブ人との対立が激しさを増す中、シュロモは対立ではなく共存の考え方を学んだ。彼が医師を目指す決心をしたのは恐らくこの老人の影響だろう。

 しかし一番身近にいて、もっとも彼を支えていたのは義母のヤエルである。シュロモが医者の勉強をするためにフランスに行く時、空港でヤエルはシュロモを養子に取るとき夫に反対したと打ち明ける。「後悔していない。彼のおかげで(あなたと)家族になれたの。」去りかねているシュロモに彼女が言った「行きなさい、行って」という言葉は実母がシュロモを手放すときに言った言葉と重なる。この時点で既にヤエルは本当の母親のような存在になっていたのだ。自分は本当のユダヤ人ではないとシュロモから打ち明けられて、ショックのあまりシュロモを拒否したサラを説得したのもヤエルだった。シュロモの元に戻ってきたサラが言った「大勢のお母さんに愛されてるのね」という言葉はこの映画の中でもっとも感動的な言葉である。

 シュロモは3人の母親によって育てられ、成長して医者になった。国境なき医師団の一員としてスーダンで働いている時ついに彼は実母と再会する。搾り出すような大きな叫び声を発した母。シュロモが母を慕っていただけではない。母もシュロモのことを1日たりとも忘れていなかったのだろう。だから最後に声をあげて泣く、いや叫ぶのは母親なのである。母から母へのリレー。彼女たちは子どもの体を愛情という衣に包んで次の母親に渡したのだ。

 シュロモの長い旅はアフリカで始まりアフリカで終わる。難民キャンプにいるアフリカ人たちにとって「生きる」とは「死なないでいる」という意味でしかなかった。どう生きるかという選択肢は最初から奪われている。可能性が2つ以上なければそもそも「選択」は成り立たない。ただ死なないでいること、彼らにとっての「生」とはそれだけでしかなかった。それは「死」と隣り合わせの「生」だった。

Akari1   中国映画の名作「芙蓉鎮」でチン・シューティエンはユーインにささやいた。「生き抜け。ブタのように生き抜け。牛馬となっても生き抜け。」シュロモの実母は生きろと言っただけではなく、生き抜いて何者かになれと言った。母は別れ際に息子に大きな課題を与えたのだ。「芙蓉鎮」の場合、こんな理不尽な暴虐がいつまでも続くはずはない、いつか必ず中国は変わる、それまでどんなことをしてでも生き延びろという意味が込められていた。シュロモの実の母親は、息子には自分よりもっと人間らしく生きてほしいという願いを込めて送り出した。だからあえて息子に重い課題を負わせたのだろう。母は息子に「死なないでいる」生ではなく、本当の意味で生きろといったのだ。生きるとは選択することである。自分で自分の生きる道を選び取ることである。困難に出会いながらもそれを乗り越え、成長して何者かになる。迷うからこそ人は成長できる。自分は何になればいいのか、迷い続けた末にシュロモは人の役に立つ仕事に就こうと考えたのである。彼の苦悩の背後にはいつも母の言葉があった。体は離れていても、母はいつも彼と一緒にいたのだ。シュロモにとって「約束の地」とはエルサレムではなく、アフリカだったのだ。

 初期ボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」に印象的なせりふがある。メイヴィス・ステイプルズが「人と呼ばれるのにどれだけの道を歩まねばならないのか」という「風に吹かれて」の中の有名な歌詞に対して言った言葉だ。「(白人の彼に)なぜこれが書けるの?私の父の経験そのものよ。人間扱いされなかった父のね。」彼女はディランの詩の本質的意味を正確にとらえていた。「風に吹かれて」の歌詞をじっくり味わうことはシュロモの長い旅を理解するうえで大きな示唆を与えてくれるだろう。
How many roads must a man walk down
before you call him a man ?

Yes 'n' how many years can some people exist
before they're allowed to be free? 

Yes 'n' how many ears must one man have
before he can hear people cry?

Yes 'n' how many deaths will it take till he knows
that too many people have died?

<付録>
エキプ・ド・シネマ上映作品マイ・ベスト30
*印がついているものは岩波ホールで観たもの。
77年から89年の12年間に岩波ホールで45本観た。

「大地のうた」3部作*(サタジット・レイ監督)
「大いなる幻影」(37、ジャン・ルノワール監督)
「自由の幻想」(74、ルイス・ブニュエル監督)
「ピロスマニ」(69、ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督)
「家族の肖像」*(74、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「奇跡」(55、カール・ドライヤー監督)
「木靴の木」*(78、エルマンノ・オルミ監督)
「旅芸人の記憶」*(75、テオ・アンゲロプロス監督)
「山猫」*(63、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「歌っているのはだれ?」*(80、スロボダン・シャン監督)
「ファニーとアレクサンドル」*(82、イングマール・ベルイマン監督)
「マルチニックの少年」*(83、ユーザン・パルシー監督)
「パパは、出張中!」*(85、エミール・クストリッツァ監督)
「オフィシャル・ストーリー」*(85、ルイス・プエンソ監督)
「芙蓉鎮」*(87、シェ・チン監督)
「八月の鯨」*(87、リンゼイ・アンダーソン監督)
「コルチャック先生」(90、アンジェイ・ワイダ監督)
「森の中の淑女たち」(90、シンシア・スコット監督)
「フィオナの海」(94、ジョン・セイルズ監督)
「パーフェクト・サークル」(97、アデミル・ケノヴィッチ監督)
「宋家の三姉妹」(97、メイベル・チャン監督)
「パッション・フィッシュ」(92、ジョン・セイルズ監督)
「山の郵便配達」(99、フォ・ジェンチイ監督)
「おばあちゃんの家」(02、イ・ジョンヒャン監督)
「父と暮らせば」(04、黒木和雄監督)
「酔画仙」(02、イム・グォンテク監督)
「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ監督)
「母たちの村」(04、ウスマン・センベーヌ監督)
「紙屋悦子の青春」(06、黒木和雄監督)
「約束の旅路」(05、ラデュ・ミヘイレアニュ監督)

■こちらもおすすめ
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「トロイアの女」*(71、マイケル・カコヤニス監督)
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「遠い雷鳴」*(73、サタジット・レイ監督)
「だれのものでもないチェレ」(76、ラースロー・ラノーディ監督)
「女の叫び」*(78、ジュールス・ダッシン監督)
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「アレクサンダー大王」*(80、テオ・アンゲロプロス監督)
「無人の野」*(80、グエン・ホン・セン監督)
「ゲームの規則」(39、ジャン・ルノワール監督)
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「乳泉村の子」(91、シェ・チン監督)
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「夕映えの道」(01、ルネ・フェレ監督)
「美しい夏キリシマ」(03、黒木和雄監督)
「上海家族」(02、ポン・シャオレン監督)

■気になる未見作品
「狂った一頁」(26、衣笠貞之助監督)
「十字路」(28、衣笠貞之助監督)
「素晴らしき放浪者」(32、ジャン・ルノワール監督)
「希望の樹」(77、テンギズ・アブラーゼ監督)
「ジプシーのとき」(89、エミール・クストリッツァ監督)
「達磨はなぜ東へ行ったのか」(89、ペ・ヨンギュン監督)
「鷲の指輪」(92、アンジェイ・ワイダ監督)
「聖週間」(95、アンジェイ・ワイダ監督)
「阿片戦争」(97、シェ・チン監督)
「パン・タデウシュ物語」(92、アンジェイ・ワイダ監督)
「元始、女性は太陽であった」(01、羽田澄子監督)
「死者の書」(05、川本喜八郎監督)

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