最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

お気に入りブログ

« 2008年6月22日 - 2008年6月28日 | トップページ | 2008年7月6日 - 2008年7月12日 »

2008年6月29日 - 2008年7月5日

2008年7月 4日 (金)

先月観た映画(08年6月)

「ONCE ダブリンの街角で」(ジョン・カーニー監督、アイルランド)★★★★☆
「迷子の警察音楽隊」(エラン・コリリン監督、イスラエル・仏)★★★★☆
「探偵物語」(ウィリアム・ワイラー監督、米)★★★★
「シッコ」(マイケル・ムーア監督、アメリカ)★★★★
「その名にちなんで」(ミーラー・ナーイル監督、印・米)★★★☆
「中国の植物学者の娘たち」(ダイ・シージエ監督、仏・カナダ)★★★☆
「ナショナル・トレジャー2」(ジョン・タートルトーブ監督、米)★★★☆
「グッド・シェパード」(ロバート・デ・ニーロ監督、米)★★★☆

Omotenasi2  先月は何かと忙しくて8本しか観られなかった。1ヶ月に映画を2桁観るのはこんなに大変なものか。それ以上に情けないのはこの中で本格レビューを書いたのは「迷子の警察音楽隊」だけだということ。「ONCE ダブリンの街角で」もレビューを書くつもりだが、こう忙しくなるととりあえず本数稼ぎで観る映画が増えて、最初からレビューを書くつもりで観る映画は限られてしまう。

 まあ、ぼやきはこれくらいにして、「迷子の警察音楽隊」、「ONCE ダブリンの街角で」、「中国の植物学者の娘たち」については関連記事をお読みください。

「探偵物語」
 35年ぶりに観直したウィリアム・ワイラー監督の「探偵物語」はさすがの出来。舞台はほとんど警察署内に限られ、重厚な人間ドラマが展開される。まるで舞台劇のようだ。と思ったら、やはりニューヨーク21分署の刑事たちの一日を描いたシドニー・キングスレーの舞台劇の映画化だった。

 とにかく異色の刑事ものである。何しろ舞台劇が原作で舞台は警察署内に限られているのだから、犯人捜査や逮捕劇、犯人との駆け引き、派手な撃ち合いなどは一切出てこない。アクションやスリルで魅せるのではなく人間ドラマにした。映画は正義感が強く異常なほど悪人を憎む刑事ジム・マクラウド(カーク・ダグラス)に焦点を当て、犯罪あるいは犯罪者をどう捉えるのか、正義とは何かという問題を提起する。同僚の刑事も異常なほど犯罪者を憎む彼を見かねて「風が吹いたら曲がれ。そうしないと折れる。」と忠告するが、彼は自分の信念にかたくななまでに固執する。

 ドラマが進むにつれて彼のかたくなな態度は父親に対する激しい憎しみからきていることが分かってくる。マクラウドのかたくなさははついに最愛の妻メアリー(エレノア・パーカー)との間にも亀裂を生み出してしまう。彼の元を去る妻が彼に投げかけた「あなたはお父さんと同じよ」という言葉が彼の胸に突き刺さる。

 今観直してみるとマクラウドの性格描写に多少生硬さを感じる。しかしそれを補うものがある。警察署内の雰囲気が今の感覚で観ると奇妙に思えるほど自由なのだ。勾留されたItam4 容疑者たちが絶えず刑事たちの周りをうろうろしている。万引きで捕まった女(リー・グラント)は夜の簡易裁判を待つ間の退屈を紛らわすために何かと刑事たちや他の容疑者にちょっかいを出したりしている。手錠もされていないから自由に歩き回っている。他にも店の金をつかい込んだ青年アーサー(クレイグ・ヒル)と彼を心配して駆けつけてきたスーザン(キャシー・オドネル)、2人組宝石強盗チャーリー(ジョセフ・ワイズマン)とルイス(マイケル・ストロング)などを配して話にふくらみを持たせ、かつ様々な人間像を交錯させてマクラウドの視点を相対化している。さすがは巨匠ウィリアム・ワイラー、堂々たる演出である。ただし「探偵物語」というタイトルはいただけない。原題の“DETECTIVE STORY”をそのまま使うのなら「刑事物語」とすべきだった。

 「孔雀夫人」、「黒蘭の女」、「嵐ヶ丘」、「我らの生涯の最良の年」、「ローマの休日」、「必死の逃亡者」、「友情ある説得」、「大いなる西部」、「ベン・ハー」、「噂の二人」、「コレクター」、等々。彼の代表作を並べてみると実に壮観だ。これだけ平均して優れた作品を生み出してきた監督も世界にそうはいないだろう。

「グッド・シェパード」と「ナショナル・トレジャー2」
 「グッド・シェパード」は静かで暗い映画だ。想像していたのとは全く違うので戸惑った。悪くはないが、良いとも言い難い。観てからまだ10日ほどしかたっていないのに、正直ほとんど内容を思えていない。どうも焦点が定まっていない印象を受けた。内幕ものとしてもサスペンスものとしても中途半端だ。CIAに対するデ・ニーロの姿勢も曖昧な感じを受けた。たぶんその辺が物足りないのだろう。

 「ナショナル・トレジャー2」は典型的なジェットコースター・ムービー。文句なしに楽しめる。謎があっさり解決してしまうのは物足りないが、そんなことを考える間もなく次々に新しい展開になる。しかし1作目に比べるとどうしても無理やり作ったという感が否めない。もちろん1作目だってそうなのだが、荒唐無稽さが意外な結びつきを生み、なるほどそう来たかとうならせるものがあった。「ダ・ヴィンチ・コード」に近い魅力があったと言えばいいか。ところが2作目の「リンカーン暗殺者の日記」は謎自体のスケールが小さく、言ってみれば楽屋落ち的なところがあったように思う。どうせやるならはったりは大きく、「ダ・ヴィンチ・コード」や東周斎雅楽原作、魚戸おさむ画『イリヤッド-入矢堂見聞録』や星野之宣の『ヤマタイカ』くらい稀有壮大にやって欲しい。

 余談だが、ニコラス・ケイジの母親役にヘレン・ミレンが扮していた。しかしどういうわけか、エンディング・ロールを見るまでずっとメリル・ストリープだと思っていた(汗)。この二人似てたかな?

「その名にちなんで」
Bench014  「その名にちなんで」は家族の絆を描いたなかなかいい映画だった。アメリカに住むインド人移民を描いた作品はまだまだ少ないので貴重な作品である。主人公はかなりアメリカ文化に馴染んでいるが、節目節目の儀式では伝統的な民族儀式が描かれており、その点には好感を覚えた。ただ、肝心なゴーゴリの名前のいわれにいまひとつ納得がいかなかったのが残念だ。ゴーゴリの「外套」を握りしめていたことが、列車事故で彼が助かったこととどう結びつくのかよく理解できなかった。

 フリーソフト「映画日記」に「その名にちなんで」のデータを記入していてびっくりした。何とミーラー・ナーイル監督の作品を観るのは2本目だった。「サラーム・ボンベイ」も彼の監督作品だったことにその時初めて気づいた。まあ無理もない。「サラーム・ボンベイ」は観たこと自体すっかり忘れていたのだから。

「シッコ」
 「シッコ」は期待以上に面白かった。アメリカの保険と医療の実態は本当にひどい。日本の政府が医療制度をアメリカ型に近づけようとしているのは明らかだから、これは決して他人事ではない。マイケル・ムーア監督の手法はいつも通りアメリカと他の国を比較することでアメリカの異常さを強調している。「ボウリング・フォー・コロンバイン」ではカナダとアメリカを比較して見せたが、「シッコ」ではイギリスやキューバなどと比較している。中でもグアンタナモに行った後キューバに立ち寄るシークエンスが面白い。アメリカより遥に充実した制度と設備にアメリカ人たちが感激して泣くシーンは圧巻だった。絵に描いたような対比のさせ方だが、確かにインパクトはある。

 しかし、イギリスのNHSの病院へ行ってその充実振りにわざとらしく驚いて見せる演出はいやみだと思った。そんなことは先刻承知の上だったに違いないのだから。91年に「ロジャー&ミー」をビデオで観た時にはその斬新な映画つくりに感心したものだ。それっきり消えてしまったかと思っていたら「ボウリング・フォー・コロンバイン」で大ブレイク。しかし作品的にはこれが頂点だったと思う。「華氏911」と「シッコ」は衝撃度において「ボウリング・フォー・コロンバイン」にかなわない。そろそろ芸風を変える時じゃないかな、ムーア先生。

2008年7月 1日 (火)

迷子の警察音楽隊

2007年 イスラエル・フランス 2007年12月公開 87分
評価:★★★★☆
監督・脚本:エラン・コリリン
撮影:シャイ・ゴールドマン
美術:エイタン・レヴィ
音楽:ハビブ・シェハデ・ハンナ
衣装:ドロン・アシュケナジ
出演:サッソン・ガーベイ 、 ロニ・エルカベッツ 、 サーレフ・バクリ
    カリファ・ナトゥール、イマド・ジャバリン、ターラク・コプティ
    ヒシャム・コウリー、フランソワ・ケル、エヤド・シェティ
    シュロミ・アヴラハム、ルビ・モスコヴィッチ、ウリ・ガブリエル
    ヒラ・サージョン・フィッシャー、アフヴァ・ケレン

Bench3  イスラエルの風景が何とも独特だ。道と街灯以外何もない光景。道はあっても車はほとんど通らない。見渡す限り何もない。「パリ・テキサス」などアメリカ映画にも似た場面がよく出てくるが、もっと寂れて、寂寥感が漂っている。エジプトの警察音楽隊「アレキサンドリア警察楽団」の団長トゥフィーク(サッソン・ガーベイ)が寂れた食堂の女主人ディナ(ロニ・エルカベッツ)にアラブ文化センターの場所を聞くと、彼女は「センターも何も、文化なんてない」とそっけなく答える。この場面が秀逸だ。片言の英語しか話せず、取り付く島もない相手の対応に戸惑うトゥフィーク。警官の威厳を失うまいとしつつも、情けなさ漂う彼の表情が傑作だ。

  前半部分の笑いは、ペタハ・ティクヴァという地名をベイト・ティクヴァと間違えたために異国の地で迷子になってしまったという滑稽な状況が下地になっている。停まっていたバンが走り去るとその陰に隠れていた楽団員一行が現われ、何がどうなったのか分からんといった様子で呆然と横一列に佇んでいる冒頭のシーン。誰も迎えに来ないので、通じない言葉に苦労しながら自力で目的地に向かうことにする。ところがベイト・ティクヴァに着いてみると文化センターがあるのはペタハ・ティクヴァだといわれる。見渡す限り何もないところで一同呆然と立ち尽くす。思わず笑ってしまうこの情けなくも滑稽な導入場面が実に秀逸だ。

  そんな中で何とか威厳を保とうとして虚しい奮闘を続ける団長トゥフィークの言動がまた別種の笑いを引き起こす。バスがなくなりホテルもないので、楽団一行はディナとたまたま彼女の店でたむろしていた客のイツィクの家に泊めてもらうことになる(一部の団員はディナの店に泊まる)。その時の彼のせりふが何とも大仰だ。「われわれはエジプトを代表している。そのことを肝に銘じて行動するように。ぜひ見事に任務を全うし、わが楽団の偉大さを示そうではないか。アレキサンドリア警察楽団の名誉にかけて健闘を祈る。」これから決死の覚悟で凶悪犯逮捕に向うわけではない、たかが他人の家に泊めてもらうだけなのにこのせりふ。トゥフィークに扮したサッソン・ガーベイ(フィリップ・ノワレ似)が何ともいい味を出している。

  一体自分たちはこれからどうなるのか、無事アラブ文化センターに着いて任務を全うできるのか。やたらと大仰な言葉と厳粛な彼の表情の裏に彼の不安と焦りが読み取れる。しかも、その不安とあせりは二重だった。迷子になっただけではなく、彼ら音楽隊は解散の危機にあったのである。こんな失態を演じたことが分かれば、そうでなくとも削られている予算が来年つくかどうかわからない。彼の憂い顔の背後にはそんな不安もあるわけだ。だからこそ不安を振り払うように、必要以上に団員を奮い立たせているのである。同時に音楽隊といえども警察官だという思いもあるだろうし、トゥフィーク本人の生真面目な性格もある。

  舞台は1990年代のイスラエルである。1948年のイスラエル建国以来、イスラエルとそれを取り囲むアラブ諸国とは何度も紛争を繰り返してきた。世界の火薬庫と言われ、いまだに火種は完全に消えていない地域。アフリカ大陸の北東部に位置するエジプトとアラビア半島の付け根にあるイスラエルは地続きである。宗教も言葉も共有しないこの2つの国家は1979年3月に平和条約を結ぶまでに4度の戦争を経験してきた。90年代という時期は紛争が絶えなかった2つの国家間につかの間訪れた「平和な」時期だったのである。

  とんでもない田舎町ベイト・ティクバに迷い込んだアレキサンドリア警察楽団が最初に経験したのは言葉が通じない不自由さである。アラビア語とヘブライ語では意思を通じ合えない。そこでお互い片言の英語で会話することになる。困っている彼らに食堂の女主人ディ001 ナが一夜の宿を提供する。どこかアレクサンドル・ロゴシュキン監督のロシア映画「ククーシュカ ラップランドの妖精」と似た設定だ。「ククーシュカ ラップランドの妖精」はフィンランド人兵士とロシア人兵士がラップランド人アンニの家に迷い込み、3人で互いに言葉が分からないまま生活することになる。戦争の臭いを持ち込み、いつまでも敵対し続ける兵士たち(第二次大戦当時フィンランドはドイツ側に付いた、したがってソ連とは敵同士である)を大地の母のようなアンニが包み込んで行く。そういう映画だ。そう考えると、「迷子の警察音楽隊」は「ククーシュカ ラップランドの妖精」ばかりか「トンマッコルへようこそ」や「ノー・マンズ・ランド」、さらには泥沼のボスニア戦争を間接的に描いた「ビューティフル・ピープル」にも通じる主題を持っていることが分かる。一見単純なように見える映画だが、この映画の単純さは複雑なものを潜り抜けた単純さなのである。

  もちろん「迷子の警察音楽隊」は戦争状態の時期を描いてはいないが、束の間の「平和」な時期は内部に火種を抱えたまま危ういバランスの上に成り立っていることを考えればそうかけ離れているともいえない。「ククーシュカ」では対立を乗り越え平和地帯を守るためにはアンニの持つ超自然的な力が必要だった。一方、平穏な時期を描いた「迷子の警察音楽隊」ではより等身大のアンニが登場する。それがディナだ。彼女もまた男を癒し包み込む存在だが、大地の母アンニのような力はない。彼女自身が内部に孤独感を抱えているのである。

  ディナはアンニほどではないがやはり象徴的役割を持った女性だ。アンニの住むラップランドはこの世のものとも思えないほど美しい場所ではあるが、同時に寒々とした荒地で自然の厳しさを感じさせる土地である。トゥフィークたちが迷い込んだ小さな町ベイト・ティクバも何もない乾ききった荒地だ。しかし、ラップランドのような美しさは持たない。代わりに別の象徴的力を持たされている。ベイト・ティクバは「希望の家」という意味なのである。その「希望の家」で一晩過ごした音楽隊は、翌朝「希望を開く」町ペタハ・ティクバへ向かう。この2つの町が選ばれたのは決して偶然ではない。明らかに象徴的な意味が込められている。この映画は何も描かれていないようでいて、実はいろんなことがそれとなく埋め込まれているのである。

  迷子のトゥフィークたち警察音楽隊は「ククーシュカ ラップランドの妖精」の二人の兵士のように長くその地に留まるわけではない。一晩滞在するだけだ。だが短い滞在の間にいくつもの出会いと発見がある。イスラエルの庶民生活との出会いと意外な共通点の発見だ。それはわれわれ観客にとっての出会いと発見でもある。誰でも知っている国ではあるが、その国の日常生活をほとんど知らない国の一つである。「約束の旅路」(これも同じアフリカとイスラエルをつなぐ映画だった)で差別されてきたユダヤ人の国イスラエルにも人種差別があることを知った。主人公のシュロモを育てた養父母は左派の市民だったが、「迷子の警察音楽隊」ではごく普通の庶民の生活を垣間見ることになる。

  警察音楽隊のメンバーは8人だが、映画はディナの家に泊まった団長のトゥフィークと色男のカーレド(サーレフ・バクリ)、そしてイツィクの家に泊まった3人の中で特にシモン(カリファ・ナトゥール)に焦点をあてる。同時にイスラエル側のディナとイツィクの家族がクローズアップされることになる。面白い工夫だと思うのは、夫と離婚して寂しく暮らしていたディナの心をときめかせるのが色男のカーレドではなくお堅い団長のトゥフィークの方であり、妙に女慣れしたカーレドはパピ(ディナの店の常連客)に恋愛指南をするという設定になっていることだ。

  カーレドたちのエピソードは滑稽味を帯び、トゥフィークとディナのエピソードは人生の陰りを漂わせる。そして予期しない闖入者が舞い込んだイツィク一家のエピソードでは、ちっとも話が弾まない息苦しさが描かれる。イツィクが1年近く失業中であることも分かる。そして一番重要なことは、いつまでも未完成だったシモンの協奏曲がイツィクの示唆によって一歩完成に近づいたことが暗示されていることである。

3p27   カーレドとパピのエピソードは前半の滑稽味を引き継いでいる。パピの仲間の車で町に遊びに出かけたカーレドたち。途中で女の子を二人拾いスケート場へ。パピの友人は美人の女の子とうまくいっているが、パピはもう1人の女の子が気に入らない。ついには女の子が泣きだしてしまい、見かねたカーレドが恋愛指南を始める。泣いている女の子に白いハンカチを渡すパピ、そして酒の小瓶を渡す(すべてカーレドの指示)。パピが何でもカーレドの真似をするシーンが妙に可笑しい。3人横に並んでカーレドがパピの膝に手を置くと、パピは女の子の膝に手を置く。カーレドがパピの背中に手を回すとパピは女の子の背中に手を回す。そしてキス(これは自分の意思)。3人を正面から撮っているので「師匠と弟子」の動きが手に取るように分かる。うまい演出だった。

  トゥフィークとディナのエピソードはこの映画の中心となるエピソードである。ディナの家に招かれたトゥフィークとカーレドは最初なかなか落ち着かない。間が持たないのでカーレドが「静かな町だね」と言うと、ディナはあっさり「死んでるわ」と答える。美人で気が強そうなディナは登場した時から観客をひきつけてしまう。低いしゃがれ声だが、場末の安食堂にはよく似合う。ずけずけものを言うタイプに見えるが、それでも行き場のない音楽隊のメンバーを泊めてやる親切心はある。まだ30代くらいで、夫と別れて1人暮らし。活気のない小さな町で自分の若さをもてあましている。そういうキャラクター設定がいい。

  ディナは町に出ようとトゥフィークを誘う。ジーンズをはいていた彼女が赤いワンピースに着替えるとぐっと女らしくなり、色香が漂いだす。ドレスなどしばらく着ていなかったに違いない。活気のない町に舞い込んだ珍客はディナやイツィクの代わり映えしない日常に小さな波紋を起こしたのである。二人は車で夜の町に出ていろんな話をする。夜がふけてくるにつれて滑稽味が後退し、人生の陰影が濃くなってくる。トゥフィークは妻を3年前になくしたことを打ち明ける。息子をきつく叱りすぎたために息子が自殺。そして妻も死んだと。

  二人の会話からいろんなイスラエル事情が見えてくる。ディナは小さい頃よくテレビでやっていたエジプト映画が好きだと言う。そしてオマー・シャリフやファテン・ハママの名前を挙げる。「あんな悲恋に恋してた。今夜は映画の再現みたい。」というディナの言葉はトゥフィークへの誘いの言葉なのだが、それ以上にイスラエルで結構エジプト映画が見られていたという事実が興味深い。

Haikyotohana   ディナはエジプトの音楽もある程度知っていることが会話から分かる。彼女が「なんで警察の楽隊がウム・クルスーム(エジプトの偉大な歌手)を演奏するの?」と聞く場面がある。イスラエルには意外にエジプト文化が入り込んでいるようだ。イスラエル建国後には周辺のアラブ諸国からアラブ系ユダヤ人が大量に入り込んできた。彼らは一緒にアラブやイスラム文化もイスラエルに持ち込んだだろう。主流派ではないが、イスラエルは内部にアラブ系住民を抱えているのである。実際、エジプトの警察音楽隊を演じているのは、エジプトの俳優たちではなくイスラエルに住むアラブ系の俳優たちだった。

 音楽が彼らの共通の話題になる。なぜ警察音楽隊が古いアラブの音楽を演奏するのかという先ほどの問に、トゥフィークは「なぜ人に魂が必要なのかと聞くのと同じだ」と答える。彼にとって音楽は魂のような存在なのだ。そして音楽はイツィクの家でも重要な役割を果たしていた。シモンたちもイツィクの家族も互いに居心地の悪い思いをしていたが、イツィクの父親がバイオリンで「サマータイム」を引き出すとみんなが歌い始める。音楽によって氷が融け出していった。

  ディナの家でもまた音楽が絡む印象的な場面がある。3人が夜の町から戻った後、カーレドはチェット・ベイカーを好きかとディナに尋ね、トランペットで「マイ・ファニー・バレンタイン」をしっとりと演奏する。「マイ・ファニー・バレンタイン」はカーレドが女性を口説く時にいつも使う曲だ。どうやら彼はディナに気があったらしい(夜中ディナとベッドインするのはカーレドのほうである)。

  「サマータイム」と「マイ・ファニー・バレンタイン」。アメリカのスタンダード曲が実にうまく使われている。中東紛争にはアメリカが大きく関与しているが、互いの母国語が通じない2つの国民の間をつないだのは英語とアメリカのスタンダード曲だという皮肉。良くも悪くもアメリカの影が中東全体を覆っている。まあ、ここは言葉の壁を越える音楽の力が強調されていると取るほうがいいかもしれないが。

  最後に、音楽が関係しているもう一つの重要な点を指摘して終わろう。先ほど触れたシモンが長年温めている未完成の協奏曲である。これが完成しないのは最後の部分がどうしても書けないからだ。悩めるシモンに重要な示唆を与えたのはイツィクのアドバイスと赤ん坊の寝顔だった。悲しくもなく楽しくもなく深い静けさだけがある、赤ん坊の寝顔を観ながらイツィクはそう示唆した。赤ちゃん用のオルゴールが流れ、それを口ずさむイツィク。

  トゥフィークやカーレドほど焦点を当てられてはいないが、シモンの協奏曲はこの映画全体のテーマに関わる重要な意味を帯びている。なぜならこの映画自体がそれぞれ国も言葉も文化も違う、さらには個性も違う人々が織り成す協奏曲(狂想曲的面も含んだ)だったと言えるからである。そう考えてみると、なぜシモンの曲が完成しないのか理解できる。

  一夜明けた翌日の朝、8人の音楽隊はディナの店の前に勢ぞろいする。ディナはトゥフィークに行き先を書いた紙を渡す。彼女はトゥフィークに手を差し出そうとするが、また戻してしまう。「グッド・バイ・マダム。」別れはあっさりとしていた。何もない道が映り、突然マイクで歌っているトゥフィークの顔が大写しになる。あっさりした終わり方は「ONCE ダブリンの街角で」と似ている。ハリウッド映画のように恋が成就してハッピーエンド、という展開にはならない。 たった1日の出会いと別れ。思い出だけが残る。そんな終り方だが、それだけではない。この映画にはやはり余韻がある。最後にもう一度映し出された何もない道。何もない道だが、その道の先は必ず人につながっている。そんなことを感じさせてくれる映画なのだ。 

 人と人のつながり。シモンの協奏曲はアラブとイスラエルの平和共存の象徴なのだ。この地に真の平和が訪れた時、その時こそシモンの協奏曲は完成するのである。そして忘れてはならない。その協奏曲はシモンとイツィクのコラボレーションが生み出したものであることを。そして曲の最後は安らかに眠る赤ん坊の寝顔のように、深く静かに終わるだろうということを。

人気blogランキングへ

« 2008年6月22日 - 2008年6月28日 | トップページ | 2008年7月6日 - 2008年7月12日 »

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ