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2008年6月1日 - 2008年6月7日

2008年6月 7日 (土)

「中国の植物学者の娘たち」を観ました

Huiwto01  ダイ・シージエ監督の作品を観るのはこれが2本目。最初に観た「小さな中国のお針子」(02)には新鮮な感動を覚えた。文革時代を背景にした恋愛ロマンスだが、僕はヒロインが字を覚え、小説を読めるようになることが重要だと思った。隠れて字を教えるというテーマはNHKの名作ドラマ「大地の子」や「サン・ジャックへの道」でも描かれている。文字を学ぶことを通して物語を知ることは、自分が直接経験できる世界を超えた新しい世界、まだ見ぬ広い世界を知ることである。また、新しい自分の可能性を知ることでもある。だから「小さなお針子」は村を出て行ったのだ。恋愛のテーマよりもこのことこそ、作者が一番言いたかったことではないかと思った。このことはダイ・シージエ監督が海外に住み、海外資本で映画を作っていることと無関係ではないかもしれない。

 「小さな中国のお針子」はフランス資本で作られた。「中国の植物学者の娘たち」はフランス・カナダ資本である。最近は製作に数カ国が名を連ねることが珍しくない。映画のスタッフの国籍と映画の舞台と製作資本がずれることもしばしばある。どの国の映画かを決めるのはスタッフではなくどこが資金を出したかによって決まる。だから中国人が監督していても「中国の植物学者の娘たち」はフランス・カナダ映画扱いになる。それはモンゴル出身のビャンバスレン・ダバー監督がメガホンを撮り、モンゴルで撮影した「天空の草原のナンサ」がドイツ映画扱いとなるのと同じである。なお、カナダが製作に名を連ねていることが多いが、カナダは人口が少ないために映画を製作しても制作費を回収することが困難なのである。そこで他の国の映画に資金を出して製作に加わることや、他の国と共同で製作することが多くなるのである。カナダ映画として作られたものには例えば「森の中の淑女たち」、「大いなる河の流れ」、「氷海の伝説」、「スウィート・ヒアアフター」、「キューブ」、「みなさん、さようなら。」、「大いなる休暇」などがあるが、あまり多いとは言えない。

  「中国の植物学者の娘たち」は中国ではいまだにタブーである同性愛を描いた点で注目されている。「ブロークバック・マウンテン」を撮った台湾出身のアン・リー監督は、93年にやはり同性愛を扱った「ウェディング・バンケット」を作っている。「ウェディング・バンケット」の場合、同性愛のテーマは親子の関係という映画のより大きな主題の中に組み込まれており、全体としては親子の絆をめぐる人間ドラマになっていた。一方「中国の植物学者の娘たち」はむしろヒロイン二人(アンとミン)の関係を官能的に描くことに力をいれている。アンと父親の植物学者との関係も描かれてはいるが、その関係のあり方は「ウェディング・バンケット」よりはるかに単純で図式的ある。そしてヒロインたちと同じくらい大きな比重を占めているのは美しい自然環境である。舞台となった植物園、その植物園がある湖に浮かぶ小島、冒頭とラストでとりわけ印象的に映し出される幻想的な水辺。

 何度か島の外の場面が差し挟まれるが、ほとんど植物園の中で物語は展開する。主な登場人物は4人だけ。主たる舞台が湖中の小島にある植物園という閉ざされた空間である点、この世のものとは思えないほど美しい環境に包まれているという点で、キム・ギドクの「春夏秋冬そして春」を連想させるものがある。ただ「中国の植物学者の娘たち」では情念よりも情感や官能性が強調されている。

 道ならぬヒロイン2人の愛は悲劇的結末を迎えることになるが、社会派ドラマという作りではない。つまり、人工的に作り上げた桃源郷のような舞台で繰り広げられる官能的な恋愛ドラマ、一言でいえばそういう映画である。リアリティもドラマ性も「小さな中国のお針子」に比べればずっと希薄である。「小さな中国のお針子」はフランス製作ではあるが、実質的に中国映画と言えるほど時代と場所に密着してドラマが展開されていた。「中国の植物学者の娘たち」は、画面に映る風景はアジア的風景だが(撮影はベトナムで行われた)、そこで展開されるのはどこかヨーロッパ的な感覚を持ったドラマである。舞台になった小島がシャングリラと名づけられていたとしても特に違和感を覚えない。

 こういう人工的な作りを物足りないと感じるか、官能的で陶酔的な画面に魅力を感じるかで評価は分かれるだろう。見終わったときはそれなりに満足感を覚えるが、後でいろいろ考えてみると欠点も目立つという映画である。ヒロインを演じる二人の女優(ミレーヌ・ジャンパノワ、リー・シャオラン)はともに魅力的である。まあ、あまりうるさいことを言わず、人工甘味料をたっぷりと振りかけた料理(隠し味で媚薬が少し混ぜてある)をおいしくいただけば良いということだろう。


「中国の植物学者の娘たち」(05年、カナダ、フランス)
  監督:ダイ・シージエ
  出演:ミレーヌ・ジャンパノワ、リー・シャオラン、リン・トンフー
  評価:★★★☆

2008年6月 4日 (水)

先月観た映画(08年5月)

「長江哀歌」(ジャ・ジャンクー監督、中国) ★★★★★
「オフサイド・ガールズ」(ジャファル・パナヒ監督、イラン)★★★★
「ヒロシマナガサキ」(スティーブン・オカザキ監督、アメリカ)★★★★
「タロットカード殺人事件」(ウディ・アレン監督、イギリス) ★★★★
「過去を逃れて」(1947、ジャック・ターナー監督、米) ★★★★
「淑女は何を忘れたか」(1937、小津安二郎監督、日本) ★★★☆
  (1~5月の合計52本)

Sand_5  5月は6本しか映画を観ていなかった。自分でも「えっ、これだけ?」と驚いたほど少ない。家に帰ってくると疲れ切っていて、レビューを書くどころか映画を観る気力もない日が確かに多かったかもしれない。 「長江哀歌」と「オフサイド・ガールズ」、および「ヒロシマナガサキ」についてはそれぞれのレビューと短評を参照してください。「ヒロシマナガサキ」は本格レビューを書きたいのですが、なかなか時間が許しません。

 「タロットカード殺人事件」はそこそこ楽しめた。しかし、「マッチポイント」もそうだが、どうも最近のウディ・アレンの映画は観終わってしばらくたつと内容を思い出せない。後に残らないのが問題だ。ウディ・アレンはいつもの調子だが、スカーレット・ヨハンソンがいまひとつ物足りない。ヒュー・ジャックマンも悪くはないが、何かが足りない感じ。「ブロードウェイと銃弾」、「世界中がアイ・ラヴ・ユー」、「マンハッタン殺人ミステリー」の頃の輝きが戻ってこないものか。

 「過去を逃れて」はフィルム・ノワールの代表作の一つ。さすがに出来は悪くない。ずいぶん久しぶりに観たロバート・ミッチャムがクールなタフガイを演じていい味を出している。まだスターになる前のカーク・ダグラスも登場シーンは少ないながら存在感を示している。ファム・ファタール役のジェーン・グリアは当時の典型的な美人タイプ。無難に演じているが毒気が足りない。  平穏に暮らしている男にある日彼の過去を知っている男が尋ねてくる。そこから話は現在と過去の回想が入り混じり、複雑な展開になる。ダークなライティングが効果的だ。一般にはあまり知られていないが、ノワールが好きな人にはぜひ一見をすすめたい。

 ある上映会で観た「淑女は何を忘れたか」は小津の初期の作品。正直言って出来は良くない。初めて観たと思っていたが、後で調べてみたら87年にパモス青芸館で観ていた。観ていたことすら忘れていた作品。設定は悪くない。当時としてはかなりの豪邸に住んでいる大学教授の斉藤達雄はいつもの飄々とした演技を見せている。何かと口うるさい妻役が栗島すみ子(サイレント時代からの名女優である)。あの独特のメガネ顔がぴりぴりした女性役に合っている。彼女の親友が飯田蝶子と吉川満子。この3人の会話が実に面白い。

 そんなちょい上流家庭に栗島すみ子の姪である桑野通子が京都からやって来る。これがかなりのじゃじゃ馬で、たちまち平穏な一家に波風が立ち始める。うるさい女房に頭が上がらない斉藤達雄がゴルフに行くといって実は桑野通子と酒を飲んでいるというシーンが滑稽だ。その嘘が後でばれて・・・。これだけ味のある俳優をそろえて、話の設定と展開もコメディとしては悪くないし、愉快なシーンもいくつかあるのだが、全体としてみるとあまり面白くない。「落第はしたけれど」や「大学は出たけれど」などもそれほど笑えない。小津はコメディの名手とも言われるが、いかにも作ったコメディ作品よりはほんのりコミカルな味をまぶした「生まれてはみたけれど」、「出来ごころ」、「長屋紳士録」あたりの方が僕は好きだ。

2008年6月 1日 (日)

オフサイド・ガールズ

2006年 イラン 2007年9月公開
評価:★★★★
監督・製作・脚本・編集:ジャファル・パナヒ
出演:シマ・モバラク・シャヒ、サファル・サマンダール、シャイヤステ・イラニ
    M.キェラバディ、イダ・サデギ、ゴルナズ・ファルマニ、マフナズ・ザビヒ
    ナザニン・セディクジャザデ

Kaidan  久々のイラン映画。「亀も空を飛ぶ」を観てからもう9ヶ月近くたつ。イラン映画を盛んに観ていたのは90年代から04年くらいまでだ。その後一部の映画祭を除いて急激に観る機会がなくなってしまった。イラン映画は社会的なものからエンターテインメントまで年間80本くらい作られているとジャファル・パナヒ監督はあるインタビューで言っているので、イラン映画の製作数自体が少なくなっているわけではなさそうだ。では、質が落ちているのか?当局による検閲や規制は相変わらず厳しいらしい。あれやこれやの根回しで「イランの映画監督は、撮影前に80%のエネルギーを使っている気がします」と監督もぼやいている。「オフサイド・ガールズ」も今のところ国内での公開の見通しは立っていないようだ。しかしこれまでもそういう条件の下で少なくない数の傑作が作られてきた。イランにしろ、中国にしろ、厳しい条件下に置かれながらも映画人たちはしたたかに行動し、優れた映画を作ってきたのだ。そう考えれば、公開数が減ったのはもっぱら日本側の事情かもしれない。

  監督のジャファル・パナヒはデビュー作「白い風船」で日本でも知られるようになった。この映画はずっと観たいと思っているのだが未だに観る機会を得ていない。初めて観た彼の作品は「チャドルと生きる」。03年8月7日に観ている。オムニバス風にイランの女性たちの生き難さを描いた作品。小品という印象だが、タイトルが示すように、社会の因習と戒律によってがんじがらめにされているイランの女性の苦悩に満ちた人生が、ほんの半日の間に交錯する様子が鮮烈に描かれていた。

  「オフサイド・ガールズ」は一転してコメディ調の風刺映画である。観る前はなんとなくブータン映画「ザ・カップ 夢のアンテナ」のような展開かと思っていた。こちらは、どうしてもサッカーのワールドカップをテレビで観たい一心で涙ぐましい努力をする小坊主たちを描いたコメディだ。笑いの中にヒューマンな温かみが込められたなかなかの佳作である。

  「オフサイド・ガールズ」は同じような笑いとヒューマンな要素を持ちながらも、そこはジャファル・パナヒ監督、イラン社会の息苦しさを描いた風刺映画になっていた。修行中の小坊主たちがテレビでのサッカー観戦を禁じられるというのならまだ理解できるが、イランでは女性がサッカーの試合を男性と同席して競技場で観ること自体が禁じられている。79年のホメイニ革命(何て懐かしい言葉だ!)によってイスラム原理主義者がイランの親米政権を打倒して以来、イランは厳格なイスラム原理主義によって統制される窮屈な国になってしまった。ホメイニ師が登場した直後にはイラン・イラク戦争が勃発する(1980年から88年まで続いたこの長い戦争は当時「いらいら戦争」とも呼ばれていた)。宗教の戒律に戦時統制が加わる。ホメイニ革命前のイランは西欧化が進んだ国でミニスカートの女性さえ見られるほどだったのに、79年を期に一変してしまったわけだ。

  とりわけ自由を制限されたのは女性たちだ。旧弊な戒律に支配され、いやでもチャドルと共に生きる生活を強要される。したがって、そういう現状を風刺している「オフサイド・ガールズ」は「ザ・カップ 夢のアンテナ」だけではなく、「母たちの村」や「ベッカムに恋して」にも通じる要素を併せ持っているのである。

  映画は、男装してサッカー場にもぐりこもうとする女性たちの姿で始まり、彼女たちが次々につかまって競技場横にある柵の中に閉じ込められるという展開になってゆく。何とかして監視の兵士たちの手をすり抜けてサッカーの試合を生で観たいと説得したり懇願したり突っかかったりする女性たちと、そうさせまいとする兵士たちのやり取りが中心になるという予想外の展開になってゆく。

  重要なのは、決して兵士たちが冷酷で高圧的な人間には描かれていないことだ。彼らも命令で仕方なくやっている。女性たちの気持ちも理解できるが、見逃せば罰せられるのは自分たちだという板ばさみ状態。臨時の拘置所の責任を負かされている兵士のボヤキがそのあたりの事情をよく表している。お前らのような女がいるからこうして動員されている。そうでなければ今頃は田舎で家畜の世話をしていたはずだと。女たちばかりか、兵士たちもある意味で犠牲者だという視点。そういう描き方になっていることを見逃すべきではない。

  一見本物の男に見える女性がなぜ女は駄目なのかとしつこく責任者の兵士に食い下がる場面が重要だ。日本人の女性は観客席で一緒に応援していたじゃないかと。兵士は、それは日本人だからだ。日本人の女は汚い言葉を理解できないと苦しい説明をせざるを得ない。男と女は同席できない。つまるところそれ以上の説明は兵士にも出来ないわけだ。男顔の女性は、映画館は女性も同席できるじゃないかとなおも食い下がる。それはまた話が違うと兵士。

Reath2   兵士は追い詰められ、たじたじとなっている。女性たちの主張を上回る説得力のある答えは最後まで提出されることはない。その点は「母たちの村」と同じだ。要するに、行動や判断の根底にある価値基準そのものに疑問が投げかけられたため、とにかくそれが決まりだという以上に何も言えないのである。兵士たちの戸惑いは、自分たちがそれまで当然だと思っていた前提を彼女たちが共有していないことから来る戸惑いなのである。彼女たちの要求は兵士たちの行動規範に小さな穴を開けた。

  マシャディという兵士がトイレに行きたいと言う女性に仕方なく付き添ってゆくエピソードが秀逸だ。彼は女性が顔を見られないようにポスターをお面代わりに被せる。彼は真面目に考えてそうさせたのだが、それが何とも滑稽に思える。また、道々彼女が語った話も滑稽だ。彼女は女子サッカーチームに属しているという。そこは逆に男子禁制である。男性の監督は競技場に入れないので携帯電話で指示をするというのだから、ほとんどシュールな域に達している。

  トイレに着いてからのエピソードも可笑しい。マシャディはトイレに入っている男たちを全員出してから女を入れようと四苦八苦する。何人か出てゆくそばからまた別の男たちがトイレに入ってくる。入れろ、入れないの大騒ぎ。ついにはその隙に女性は横をすり抜けて逃げてしまう。彼はただただ、女性と男性を画然と分けるという「当然の社会的規範」に従って行動しただけなのである。汚い言葉や絵が一面に落書きされている男性トイレに入る女性に、「読むな!目をつぶって入れ!」と彼が声をかけるのも同じ規範に沿った行動である。彼自身には微塵も悪意はない。

  トイレに行って用を足すという至極当たり前の、ごく自然な行為が不自然で滑稽でシュールにさえ思えてくる。サッカー競技場には女性が入れないという前提になっているので、そもそも女子トイレが設置されていないからである。そこからねじれが生じ、男子トイレに女性を連れてゆくという「不自然」な展開になってしまったわけだ。付き添った兵士は彼なりに女性に対して思いやりを示しているのである。しかし彼らの置かれた特殊な事情を周りの男たちが理解していないために、混乱が生じてしまう。兵士は矛盾の溝にはまり込んでしまった。説得しようにもその場に女性がいるとは言えない。あせればあせるほど事態は混乱を招き、ついには女性に逃げられてしまう。ひとりの兵士がもがきあたふたする姿を通して、イランにおける社会的規範や宗教的戒律がいかに硬直した融通のきかないものであるかを浮かび上がらせる。秀逸なエピソードだった。

  その点は他の兵士たちも同じなのだ。もし自分個人で判断することが許されるならしきりに懇願する女性たちを競技場に入れていただろう。半分は面倒な奴らをやっかい払いしたい気持ちからかもしれないが。問題が兵士個人にあるのではないことは明らかだ。問題は彼らが当然と受け止めてきた社会の規範が基本的に男性優位のダブル・スタンダードに基づいており、その二重基準は男たちが汚い言葉を吐くことを許容するが、女性たちが競技場で男と同席してサッカーを観戦することは認めないということにある。もちろん、個人的には男の格好をしてバスに紛れ込んでいる女性を見逃してやる者もいる。しかし、一方で女だと気づくと、とんでもない値段でチケットを売りつける者もいる(しかもポスターまで無理やり高値で買わせている)。

  女性たちも何も社会の規範をひっくり返そうとまで考えているわけではない。観たいのだから観せてくれ、ただそれだけの要求をしているだけなのだ。兵士たちが個人的な悪意から意地悪をしているのではないことは彼女たちも承知している。だから一旦トイレから脱走した女性も、ある程度満足したところで自分から柵の中に戻ってきたのだ。「なぜ戻ってきたの?」と他の女性に聞かれた彼女は「彼の家畜がかわいそうだから」と責任者の兵士を指して答えた。その兵士は思わず顔を背ける。それまで彼は女性を逃がしてしまったマシャディと責任問題でずっと言い合っていたのだ。

  男たちは女性が汚い言葉と接しないように必死に奮闘するが、その考え方の裏側にある女性はか弱いもので男が守ってやらなくてはならない、あるいは常に清純であるべきだという前提を軽々と彼女たちは乗り越え、自分の意思で行動した。彼女たちも別に兵士個人が憎いわけではない。守るべき女性から示された思いやりに兵士は戸惑い、顔を背けた。彼はバスで彼女たちを護送する時に、せめてラジオで試合の経過を聞かせてほしいという彼女たちの要求を入れて、必死で壊れたアンテナを手で支えようとした。融通の利かない戒律は男たちも束縛している。

  女性たちのバイタリティーとそれに気圧されつつも何とか任務を果たそうと奮闘する兵士たちの苦渋、そういう描き方になっているところが一番の魅力だ。女性が自由でない限り、男性もまた自由ではない。多くの優れた女性映画同様、この映画もまたそういう観点と姿勢がつらぬかれている。エンターテイメントの味付けをしながらも(爆竹を持った若い男が愉快、一体あの花火はどこに隠し持っていたんだ?)イラン女性の不自由さを描く視点は最後までぶれていない。

<付記>
 当初「『オフサイド・ガールズ』を観ました」というタイトルで載せていましたが、加筆してレビューに格上げしました。

<おまけ>
■イラン映画マイ・ベストテン
 「友だちのうちはどこ?」(87、アッバス・キアロスタミ)
 「桜桃の味」(97、アッバス・キアロスタミ)
 「運動靴と赤い金魚」(97、マジッド・マジディ)
 「風が吹くまま」(99、アッバス・キアロスタミ)
 「太陽は、ぼくの瞳」(99、マジッド・マジディ)
 「酔っぱらった馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ)
 「少女の髪どめ」(01、マジッド・マジディ)
 「カンダハール」(01、モフセン・マフマルバフ)
 「一票のラブレター」(02、ババク・パヤミ)
 「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ)

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