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2008年1月6日 - 2008年1月12日

2008年1月12日 (土)

しゃべれども しゃべれども

2007年 日本 2007年5月公開
評価:★★★★
監督:平山秀幸
原作:佐藤多佳子
プロデューサー:渡辺敦、小川信司
エグゼクティブ・プロデューサー:豊島雅郎、奥田誠治、他
脚本:奥寺佐渡子
撮影:藤澤順一
音楽:安川午朗
落語監修・指導:林家三三、古今亭菊朗
出演:国分太一、香里奈、 森永悠希 、八千草薫、伊東四朗、松重豊、占部房子
    建蔵、日向とめ吉、山本浩司、下元史朗

 平山秀幸監督はこれまで「愛を乞う人」(1998年)、「学校の怪談4」(1999年)、「OUT」(2002年)と観てきたので、本作で4作目になる。さすがに平均して優れた作品を作っている(「学校の怪談4」は意外な佳作だった)。

Turitourou1  タイトルを観た感じではテレビドラマ並の軽い作品かと思ったが、どうして立派な作品である。噺家の卵が苦労して上達するという型通りの作品かと思っていたが、その卵が素人に落語を教えることによって彼自身も噺家として成長するというひねりが加えられていた。

 落語という地味な題材を持ってきたところにこの映画の一番の特異性と価値がある。80年代の漫才ブームを経て現在のお笑いブームに至る時の流れの中で、落語は常に片隅に追いやられていた。奇抜さばかりを追い求め、無理やり笑わせる今のお笑いの風潮にじっくり話芸を聞かせる落語の世界をぶつけてくるには当然現状への批判があるだろう。言葉と笑いがあふれかえっている一方で人間関係に悩み、うまくコミュニケーションを取れないでいる人たちの数も増えている。「しゃべれども しゃべれども」が描いたのは、不器用な生き方しかできない人たちが身を寄せ合い人間関係を作り上げてゆくことによって自分たちの枠を乗り越えてゆく過程である。

 言葉だけが問題なのではない。落語それ自体がうまくなれば良いということでもない(三つ葉の場合はこれが目標だが)。不器用な生き方しかできない人たちが共に同じ苦労をすることを通じて自分の生き方を見つけてゆくことが主題なのである。その意味では「深呼吸の必要」(香里奈の映画初出演作)に通じる作品である。「深呼吸の必要」は自分を見つめなおし、自分を変えたいと思う人たちが沖縄のサトウキビ刈りのバイトに集まってくる映画だ。共に観終わった後に同じような爽やかさを感じるのは、同じ主題を扱っているからである。

 香里奈やTOKIOの国分太一というアイドルを起用しながらありきたりのアイドル映画にしなかったことがこの映画を成功させている。国分太一にはあえて古典落語にこだわる落語家の卵、今昔亭三つ葉を演じさせ、香里奈には十河五月という他人とうまく接することができないためにいつも無愛想で怒っているような顔の女性を演じさせた。「今昔亭」という名前も暗示的である。舞台となるのも華やかな都心ではなく下町である。都電、路地、蕎麦屋、隅田川と遊覧船、ほおずき市などの下町風景が効果的に取り込まれている。

 ひょんなことから始めることになった落語教室に集まったのは、仏頂面の十河五月、関058244 西からの転校生で関西弁のために学校でいじめられている村林優(森永悠希)、元野球選手で今は解説者をやっているが、話すのが苦手という湯河原(松重豊)の3人。これらの「弟子」に落語を教えている三つ葉もまだ二つ目で、なかなか客の心をつかめず焦っている。かくして3人の、いや「師匠」である三つ葉も含めた4人の苦闘が始まる。年齢も性別も性格も違う3人の弟子たち。当然最初はギクシャクしている。それが村林優に湯河原が野球を教えたり、三つ葉と五月が急接近したりと次第に人間関係が深まってゆく。このあたりの展開は仲の悪い3人兄弟が共に聖地を目指す「サン・ジャックへの道」に通じる。落語がうまくなるに連れてそれぞれが自分の殻を脱ぎ捨ててゆき、絆も深まってゆく。とことん落語がうまくなる必要はない、不器用なりに自分を表現できるようになることが大切なのだ。

 下町情緒をたっぷり盛り込んだ人情話。単純だがしっかりとした作りで好感が持てる。出演者がまたいい。主演の国分太一には感心した。TOKIOには何の関心もなかったので、初めて観た感じがする。相当に練習をつんだと思われる落語もなかなかのものだったが、立ち居振る舞いからして落語家の雰囲気が漂っていたのは立派だ。途中で演じる「火焔太鼓」とラスト近くの一門会で演じる「火焔太鼓」では明らかに違っていた。映画の中に役者としての彼自身の成長を見た思いがした。和製クリストファー・ウォーケン松重豊はその渋い顔でさすがの存在感を示していたが、せっかくの彼の持ち味がストーリー展開の中でいまひとつ活かせていないのが残念。彼にも活躍の場を与えてほしかった(飲み屋で毒舌はいてるだけじゃねえ)。そう言えば、そもそも彼が「落語教室」に参加するのもかなり無理な設定のように思えた。

 三つ葉の師匠今昔亭小三文を演じた伊東四朗はさすがの貫禄。60年代に一世を風靡した「てんぷくトリオ」時代には三波伸介の影に隠れてそれほど才能があると思わなかったが、90年代以降は渋さと軽さを併せ持った役者として大活躍。今や日本の名優の一人といっていい。三つ葉の母親役を演じた八千草薫がこれまたいい。脇役ながら漫才映画らしく状況に応じてボケと突っ込みを共にやっている。こんな彼女を観たのは初めてだ。「門前の小僧習わぬ経を覚える」を地で行って、いつの間にか落語を覚えて「自分の方が上手いじゃない!」と独り言を言うところは実に可笑しい。香里奈の「火焔太鼓」はうまくない。しかし「深呼吸の必要」といい、この映画といい、彼女は案外地味な映画が似合うのかもしれない。

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2007年に観た主な映画

Kagaribiyuki1   2007年に観た映画は116本。このうち久々に観直した作品を除くと、初めて観た作品は105本でした。この中から4つ星半以上の得点をつけたものを挙げておきます。

 満点をつけたものではやはり古典的名作が多くを占めます。観直したい作品は山ほどあるのですが、新作に追われて思うに任せません。まあ、気長にやります。

  こうやってまとめてみると、日本、中国、台湾、韓国などアジア映画が多いのに驚きます。イラン映画を含め、80年代以降もっとも水準が上がったのはこの地域でしょう。それ以外では、やはり英米仏の映画大国が多くを占めます。アフリカ、中南米、北欧、東欧、旧ソ連圏、オセアニアの作品が少ないのは残念です。これらの地域の作品は意識的に観るようにしていますが、まだまだ公開数が少ない。ただ、昨年の後半に公開された中にはこれらの地域の作品が多数含まれているので、今年の前半はDVDでしっかり観ておこうと思っています。

★★★★★
「M」(31、フリッツ・ラング監督)
「亀も空を飛ぶ」(04、バフマン・ゴバディ監督)
「心の香り」(92、スン・チョウ監督)
「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(06、ロバート・アルトマン監督)
「世界最速のインディアン」(05、ロジャー・ドナルドソン監督)
「それでもボクはやってない」(07、周防正行監督)
「母たちの村」(04、ウスマン・センベーヌ監督)
「100人の子供たちが列車を待っている」(88、イグナシオ・アグエロ監督)
「芙蓉鎮」(87、シェ・チン監督)
「ボルベール」(06、ペドロ・アルモドバル監督)
「麦の穂をゆらす風」(06、ケン・ローチ監督)
「夫婦善哉」(55、豊田四郎監督)
「山猫」(63、ルキノ・ヴィスコンティ監督)

★★★★☆
「いぬ」(63、ジャン=ピエール・メルヴィル)
「王と鳥」(80、ポール・グリモー監督)
「王の男」(06、イ・ジュニク監督)
「男の闘い」(69、マーティン・リット監督)
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(07、山崎貴監督)
「隠された記憶」(05、ミヒャエル・ハネケ監督)
「影の軍隊」(69、ジャン=ピエール・メルヴィル)
「紙屋悦子の青春」(06、黒木和雄監督)
「キンキー・ブーツ」(05、ジュリアン・ジャロルド監督)
「クィーン」(06、スティーヴン・フリアーズ監督)
「グエムル 漢江の怪物」(06、ポン・ジュノ監督)
「孔雀 我が家の風景」(05、クー・チャンウェイ監督)
「恋人たちの食卓」(94、アン・リー監督)
「サン・ジャックへの道」(05、コリーヌ・セロー監督)
「16ブロック」(06、リチャード・ドナー監督)
「仁義」(70、ジャン=ピエール・メルヴィル)
「ダイ・ハード4.0」(07、レン・ワイズマン監督)
「天上の恋人」(02、ジャン・チンミン監督)
「父親たちの星条旗」(06、クリント・イーストウッド監督)
「トランスアメリカ」(06、ダンカン・タッカー監督)
「ドリームガールズ」(06、ビル・コンドン監督)
「トンマッコルへようこそ」(05、パク・クァンヒョン監督)
「長い散歩」(06、奥田瑛二監督)
「春にして君を想う」(91、フリドリック・トール・フリドリクソン監督)
「ブラックブック」(06、ポール・バーホーベン監督)
「ブロークン・フラワーズ」(05、ジム・ジャームッシュ監督)
「ぼくの国、パパの国」(99、ダミアン・オドネル監督)
「ボビー」(06、エミリオ・エステベス監督)
「ボーン・アイデンティティ」(02、ダグ・リーマン監督)
「ボーン・スプレマシー」(04、ポール・グリーングラス監督)
「マッチポイント」(05、ウディ・アレン監督)
「めがね」(07、荻上直子監督)
「夕凪の街 桜の国」(07、佐々部清監督)
「雪に願うこと」(05、根岸吉太郎監督)
「酔いどれ天使」(48、黒澤明監督)
「リストランテの夜」(96、スタンリー・トゥッチ、キャンベル・スコット監督)
「六ヶ所村ラプソディー」(06、鎌仲ひとみ監督)

2007年に公開された主な作品

Mozu1  あちこちのブログで2007年公開映画のベストテンが出始めています。僕はまだ30数本しか観ていない状態ですので、とてもベストテンどころではありません。そこで、とりあえず「これから観たい&おすすめ映画・DVD」シリーズでリストアップした作品を整理してみました。評価点もつけてあります。かなり量が多いので本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」にのみ掲載してありますので、興味がありましたら参照してください。

 今年に入って「しゃべれども しゃべれども」、「レミーのおいしいレストラン」、「フランシスコの2人の息子」、「約束の旅路」の4本を観ました。いずれも優れた作品で、特に「約束の旅路」は深い感銘を覚える傑作でした。

 未見作品では「アズールとアスマール」、「アフター・ウェディング」、「雲南の少女ルオマの初恋」、「エディット・ピアフ 愛の賛歌」、「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」、「呉清源 極みの棋譜」、「それでも生きる子供たちへ」、「中国の植物学者の娘たち」、「長江哀歌」、「トランシルヴァニア」、「パンズ・ラビリンス」、「ヒロシマナガサキ」、「ボーン・アルティメイタム」、「迷子の警察音楽隊」、「ミリキタニの猫」、「キサラギ」あたりに強く心を惹かれます。ああ、DVDが待ち遠しい。

2008年1月 7日 (月)

ボルベール<帰郷>

2006年 スペイン 2007年6月公開
評価:★★★★★
監督、脚本:ペドロ・アルモドバル
原題:VOLVER
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ペネロペ・クルス、カルメン・マウラ、ロラ・ドゥエニャス
    ブランカ・ポルティージョ 、チュス・ランプレアヴェ、ヨアンナ・コボ
    アントニオ・デ・ラ・トレ

 僕の知り合いが大学院の試験を受けた時「悲劇について900字以内で説明せよ」というような問題が出たらしい。ところがよほど緊張していたのか、彼は「900字」を「9字」と勘違いしてしまった。かつて誰も遭遇したことのないこの難問に、彼は悶死せんばかりに苦しみもだえたことだろう。七転八倒した揚句、彼は次のように答えた。「人が死ぬ。」

Crossregr  「人が死ぬ」という答えはなかなかに暗示的である。人生を全うした上での大往生という人もいるだろうから人の死がすべて悲劇的とは言えないが、悲劇に人の死がつきものだとは言えそうだ。では、殺人の場合はどうか。フィクションの場合、これは描き方次第ということになるだろう。描きようによって悲劇にも、サスペンスにも、喜劇にすらなる。おそらく問題は対象からの距離の取り方にあるだろう。上の話も、彼が陥った状況こそ悲劇的だったと言えないこともないが、傍から見れば笑い話である(本人には申し訳ないが)。スリラーの名手ヒッチコックはひとりの人間の死に周りがあたふたする「ハリーの災難」という喜劇を作った。自分の行為が彼の死因になったかも知れないと思い込んだ人々がそれぞれの思惑で行動する様を、映画は皮肉でユーモラスな目で距離を置いて描いてゆく。それぞれの人物は真剣に悩んでいるのだが、傍から見るとそれが滑稽に思えるわけだ。

 「ボルベール」にも2件の殺人が出てくる(1件は話だけだが)。しかし映画はサスペンス的な色調を帯びながらも、決して深刻にも悲劇的にもならない。ストーリー展開の軸になるのは娘による父親殺しである。ライムンダ(ペネロペ・クルス)の夫パコ(アントニオ・デ・ラ・トレ)は失業中でアルコールにおぼれていた。彼は血が通っていない娘のパウラ(ヨアンナ・コボ)に手を出し、もみ合った末娘に殺されてしまう。ライムンダは警察に通報せず自分で死体の処理をし、たまたま空いていた隣のレストランの大きな冷凍庫に死体を隠す。

 この辺の展開は平山秀幸監督の「OUT」(原作は桐野夏生)を思わせる。興味深いのはどちらも事態を明るく乗り切ってゆくことである。「OUT」は殺人というとんでもない状況をきっかけに、潤いのない生活からの「出口」を求めたパート主婦4人の逃避行を描く。原作は暗く重苦しいタッチのようだが、映画の語り口はコミカルでシュールである。死体をバラバラに解体する場面などはまるで弁当の盛り付けでもするように嬉々として興じている。だらしない男たちの付けが全部女性に回ってくるという展開も「ボルベール」と同じだ。映画版「OUT」は原作の重苦しさを振り払い、迫り来る恐怖を乗り越えて牢獄のような日常生活とその閉塞感から抜け出してゆく女性たちのバイタリティを描いた。夢以外何も持たずにアラスカに向けて旅立った彼女たちには悲壮感ではなく、むしろ開放感や爽快感があった。彼女たちは逃げているのではなく夢に向かっていたのである。もちろん彼女たちは現実から「跳躍」したのであって、現実を変えたわけではない。彼女たちに必ずしも未来は約束されてはいない。ファンタジーに逃げてしまった弱点はあるが、それでも人生はそれぞれ自分で掴み取るものだというメッセージは十分届いた。

 「ボルベール」も殺人を重苦しくは描かない。殺人を犯したことに対して主人公たちに『罪と罰』のような葛藤はない。むしろあっさりと処理している。だから悲劇的な展開にはならない。もちろんほとんど女性ばかりの登場人物にはそれぞれ悩みや人に明かせない秘密がある。しかしそれは殺人を犯したことに対してではなく、母と娘、父と娘などの関係に対する苦悩である。彼女たちは苦悩している。しかしその苦悩に真っ向から迫るのではなく、その後の彼女たちの大胆な行動や思わぬ話の展開に焦点を当てている。話が暗く重くならないのは、ファンタジー的要素やコミカルな要素をまぶしているからだけではない。彼女たちが望まずして背負った運命あるいは業に翻弄されるのではなく、その状況を自ら前向きに切り開いていったからなのだ。この映画の芯にあるのは女性の活力や生命力に対する賛美と、人生に対するポジティヴな視線である。

 彼女たちの突貫精神はまさにドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの故郷にふさわしい(映画の舞台はラ・マンチャである)。しかし「ボルベール」で果敢に突き進むのは男ではなく女たちである。しかも彼女たちはドン・キホーテのように妄想に取りつかれてはいない。この映画が業に縛り付けられたり運命論に陥ったりしないのは、災いのもとは常に男であるという単純明快な考えがあるからだ。敵が明確に見えている。男はみな不実でだらし無く、女はみなたくましくしたたかだ。

  「ボルベール(回帰、帰還)」というタイトルは親子のきずなの再生というテーマと結びつCrystal0601191いている。回帰とはこの場合回復である。放蕩息子ならぬ放蕩親父は永遠に帰還せず、帰ってくるのは母親である。この映画で強調されているのは単なる女ではなく母の力である。ペネロペ・クルスの色気は女らしさよりも「母」としての包容力と活力、そして生命力を象徴するものとして描かれている。だから胸の豊満さをしつこく映し、付け尻をしてヴォリューム感を出しているのだ。どっしりとした存在感が強調されているのである。「怒りの葡萄」のジェーン・ダーウェル、「ベリッシマ」のアンナ・マニャーニ、そして「ふたりの女」のソフィア・ローレンなど、肝っ玉母ちゃんのイメージを持たされているのである。ライムンダの母イレーネ(カルメン・マウラ)がアグスティナの家でヴィスコンティの「ベリッシマ」を観て満足そうに笑うシーンが暗示的だ。

 娘パウラの傷をいやすのは母であるライムンダであり、ライムンダの傷をいやすのはその母であるイレーネである。母親は「ククーシュカ ラップランドの妖精」のククーシュカのような治癒力を持つ存在として登場する。イレーネの傷をいやすのは娘のライムンダだが、ライムンダは娘パウラを生んで母親になったからこそ自分の母親を理解できるようになったのだ。母親たちの生命力が前向きに描かれている。だからキム・ギドクの様な世界にはならないのである。

  親子2代にわたってレイプの被害にあうが(1件は未遂)、それは「春夏秋冬そして春」の様な永遠の業の輪廻にからめとられてはいない。ライムンダと違って娘のパウラの場合は 逆に父親を刺殺してしまう。そのことによって円環構造は断ち切られているのである。殺人、死体、幽霊が描かれるが「死」がテーマではない。テーマは「生」であり「親子(母娘)の絆」である。横溝正史の世界のような家族の陰惨な過去が絡んでいるにもかかわらず、おどろおどろしくならないのはそのためだ。なぜなら葛藤の質が違うからだ。「業」や「運命」などといった抽象的なものが葛藤の中心にあるのではなく、レイプや浮気などによって男から受けた体と精神への打撃が彼女たちの葛藤を生んでいるのである。彼女たちはそれを耐えるだけではなく、それに立ち向かった。男から逃げるのではなく、男を積極的に排除したのだ。男を「排除」しても彼女たちにはほとんど罪という認識すらない。自業自得だと言わんばかりだ。男たちの死はそのだらしなさと不道徳の報い。ライムンダが夫は私に愛想を尽かして家を出て行ったと、夫の不在を近所の人たちに説明した。妻に飽きたら男は黙って出てゆく。夫は出て行ったと説明されて誰も疑わない。男はその程度の存在として描かれている。アゴスティナは失踪した母をいつまでも探そうとするが、パコのことはだれも探さない。そのスパッとした割り切りかた、からっとした潔さがかえって爽快だ。この映画で家族という場合、それは女系の家族なのである。

 ただ、パウラによる父親殺しが引き起こすサスペンス、イレーネの幽霊が登場するミステリーじみた雰囲気がこの作品にいい味付けになっている。現在の底に暗く淀んでいる不可解な過去、何重もの底がある謎の深さ、カルロス・ルイス サフォン著『風の影』(集英社文庫)を思わせるこの謎めいた雰囲気が実に効果的なのだ。このサスペンスと謎が観客を作品の内奥にまで引きずりこんでゆくドライブとなっている。

 パコの死体を処理している最中に電話がかかってきたり、人が訪ねてきたりする。そのたびに画面に緊張が走る。ヒッチコックばりにサスペンスを盛り上げる。これが実に効果的だ。そうかと思うと、たまたま空いていた隣のレストランの冷凍庫に死体を詰めて一時保管しておいたら、近所で撮影をしていた映画クルーに営業中と誤解され、30人分のランチを作るはめに。近所の主婦たちに応援を頼んで頑張って作ったら、これが大評判になってしまう。価値があるものを生み出すのはいつも女たちなのである。こんな滑稽な展開もそつなく織り交ぜている。大盛況の店内のすぐ隣に死体があるにもかかわらず、ライムンダは全くあわてる様子もない。戦争を笑い飛ばした「ライフ・イズ・ミラクル」さながら、笑いの中にたくましく生きる力の輝きが描き出されている。

 「ボルベール」は「リトル・ミス・サンシャイン」「サン・ジャックへの道」「アメリカ、家族のいる風景」「クラッシュ」「ランド・オブ・プレンティ」に通じる家族再生のドラマだが、もっと生臭く土着的な雰囲気を持っている。「幽霊」の出現はその雰囲気の中で可能になっていTuki1 るのだ。映画の冒頭、ライムンダが娘のパウラと姉のソーレと一緒に母の墓参りに来ている。その時ライムンダの伯母パウラ(チュス・ランプレアヴェ)の隣人アグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)も墓の手入れをしていた。それは何とアグスティナ自身の墓である。生前に墓を買い、自分で自分の墓の手入れをするのはその地方の習慣だとライムンダは娘に教えている。さらに地元の女性たちの会話の中で死者を目にするのはよくあることだという話が出てくる。あるいは、叔母がボケてる、私のことが分からなかったとソーレが言うのに対して、ライムンダは「風のせいよ。東風が人の気を変にするの」と答えたりしている。こういう雰囲気を作っておいて、ソーレが叔母の家で亡くなったはずの母と出くわすというとんでもない出来事がおこるのだ。死者が目の前に現れるというシュールな場面が違和感なく受け入れられるのはこのようにその土地の風土や風習をうまく取り込んでいるからである。この風土なら幽霊が出ても不思議ではない。どこか民話的なおおらかさがあるのだ。これが「ボルベール」にファンタジーの要素を付け加えている。なにせオナラの臭いも個性的な土地柄なのだ。

  夫殺しや父殺しが描かれながら、大して罪の意識を持たず、法的追求など埒外に置かれていても不自然に感じないのは、この民話的枠組みがあるからなのだ。「ボルベール」は寓意を込められた寓話的作品なのである。女性を賛美したプロパガンダ映画なのである。寓話やプロパガンダ作品は単純で硬直したものになりがちだが、この作品がその弊を免れているのは女たちの活力が枠組みを突き破るほどの輝きを持っているからであり、ブリューゲルの絵のように単純化された中に生活の実感や風土色が色濃く反映されているからである。スペインとフランドルという風土の違いはあるが、ブリューゲルの絵画と重ね合わせてこの映画を観てみるといろんな発見があるだろう。色彩の豊かさ、地方色や風土色、生活の中で生き生きと活動している人々、町の匂い生活の匂い人間の臭いが横溢している。人間の生臭さが一見単純な絵の中に凝縮されている。

 「ボルベール」に描かれた人間の生臭さの焦点はまさにこの臭い(「匂い」ではない)である。ソーレは最初に母の幽霊と出合った時それを信じられなかった。だからその出会いを自分の胸にしまいこんでしまった。その彼女が母の存在を確信するのは伯母の家にあったエアロバイクのハンドルについていた母の臭いである。ライムンダに至ってはトイレで「ママのオナラの臭い」を嗅いで母の存在を知るのだ。「北の国から」にも、留守の間に訪ねてきた母親が畳んでおいた洗濯物を手に取った蛍が「母さんの匂い」とつぶやく感動的な場面があった。「ボルベール」の場合はもっと笑いを誘うシーンになっているが、このやけに現実的な生臭さが幽霊を人間に引き戻すきっかけになっている。

 色もあふれている。「ボルベール」には赤のイメージが横溢している。ライムンダの服の色や流された血の色など。赤は情熱と活力と血を表している。ただし、この場合の血は殺Snow_01 人のみならず血縁のイメージとも結びついている。血縁はさらに連帯感に結びつく。イレーネもライムンダも互いを理解できずにいた時は苦悩や孤独にさいなまれていた。ライムンダはイレーネに「ママが必要なの。ママのいない日々はつらかった」と言い、イレーネも孫のパウラに「ママは私を嫌ってるの。娘に愛されない母親はとてもつらいのよ」と打ち明けている。「なぜ戻ってきたの」というパウラの問いに祖母は「孤独だったから」と答えている。イレーネもライムンダも一人で重荷を背負って生きていたのだ。バイタリティに溢れる女たちも一人では苦悩を抱え、それを押し隠すしかできない。絆が必要だった。和解がそれを取り戻させた。映画のラストに写される夜中のベンチで寄り添う母娘の姿が実に感動的だ。それぞれが抱えていた苦悩を打ち明けあい、それを共有することで絆は一層強まった。ライムンダが「ボルベール」というタンゴを歌う場面もこの映画のハイライトのひとつである。ライムンダが母から教わった歌だが、それ以上に愛する人の帰りを願う歌をおそらくイレーネは自分のこととして受け止めたのだろう。車の中で歌を聴きながら涙を流す。

 ライムンダが歌ったのは映画クルーたちの打ち上げの時だが、そのレストランでライムンダを手伝ったのは近所の女たちだった。彼女たちはパコの死体をレストランから運び出すときにもライムンダに手を貸した(「どうせ私たち、共犯なんだから」というセリフが暗示的だ)。ライムンダは決して一人ではなかった。映画が進むにつれて連帯の輪は広がっていたのである。一方のイレーネも、ただ息をひそめて隠れ忍んでいたのではなく、ボケた姉の世話をしていたのだ。その姉が死んだあとも今度は癌にかかったアゴスティナの世話をする。イレーネがテレビで「ピノキオ」を観ている場面がある。ピノキオの話は人形が苦難を乗り越えて人間の少年になる話である。イレーネも苦難を乗り越えて幽霊から生きた人間になった。いや母親になった。彼女はライムンダの過酷な体験を聞いて、なぜ娘が自分から離れていったのか、なぜ夫がベネズエラへ行ったのか初めて理解したのだ。娘が苦悩していた時自分が母としての役割を果たせなかったから娘が離れていったのだ。一人では背負いきれない重荷も二人で背負えば耐えられる。

  ライムンダがパコに何をしたのかなど色々話したいことがあると言った時、イレーネは「言わないでライムンダ。泣きそうになるから。幽霊は泣かないのよ」と言って娘を押しとどめた。そう言いながら娘を送り出した後で涙を流すのだ。「亀も空を飛ぶ」の少女アグリンは背負っている重荷に耐えかねて自殺した。「亀も空を飛ぶ」は優れた作品で、これも一つの表現方法である。だが、アルモドバル監督はむしろ重荷を背負ってなお力強く生きる女性たちを描いた。生きているからこそ涙を流す。今の涙が乾いても、また別の涙を流すだろう。生きていれば悲しみとも出会わざるを得ない。これからも幾たびとなく涙を流すだろう。そして人は涙を流すたびに強くなってゆくのだ。

<付録>
【スペイン映画マイ・ベスト10】
「ボルベール<帰郷>」(2006)  ペドロ・アルモドバル監督
「海を飛ぶ夢」(2004) アレハンドロ・アメナーバル監督
「キャロルの初恋」(2002) イマノル・ウリベ監督
「靴に恋して」(2002) ラモン・サラサール監督
「トーク・トゥ・ハー」(2002) ペドロ・アルモドバル監督
「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999)  ペドロ・アルモドバル監督
「カルメン」(1983) カルロス・サウラ監督
「エル・スール」(1983) ヴィクトル・エリセ監督
「黄昏の恋」(1982) ホセ・ルイス・ガルシ監督
「ミツバチのささやき」(1973) ヴィクトル・エリセ監督

■こちらもおすすめ
「死ぬまでにしたい10のこと」(2002) イザベル・コヘット監督
「蝶の舌」(1999) ホセ・ルイス・クエルダ監督
「戒厳令下チリ潜入記」(1988) ミゲル・リティン監督
「ベルナルダ・アルバの家」(1987) マリオ・カムス監督
「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1987) ペドロ・アルモドバル監督
「バレンチナ物語」(1983) アントニオ・ホセ・ベタンコール監督
「血の婚礼」(1981)  カルロス・サウラ監督
「クエンカ事件」(1979) ピラール・ミロー監督
「汚れなき悪戯」(1955) ラディスラオ・ヴァホダ監督

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