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2008年4月27日 - 2008年5月3日

2008年5月 3日 (土)

先月観た映画(08年4月)

「子供たちの王様」(チェン・カイコー監督、中国)★★★★★
「パンズ・ラビリンス」(ギレルモ・デル・トロ監督、スペイン・他)★★★★★
「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(オリヴィエ・ダアン監督)★★★★☆
「アスファルト・ジャングル」(50、ジョン・ヒューストン監督、米)★★★★
「サッド・ヴァケイション」(青山真治監督、日本)★★★☆
「フライトプラン」(ロベルト・シュヴェンケ監督、米)★★★☆
「デビルズ・バックボーン」(ギレルモ・デル・トロ監督、スペイン)★★★☆
「魔笛」(ケネス・ブラナー監督、イギリス)★★★
「パーフェクト・ストレンジャー」(ジェームズ・フォーリー監督、米) ★★☆

 4月は忙しかった。映画の鑑賞数もぐっと減ってしまった。「子供たちの王様」「パンズ・ラビリンス」「エディット・ピアフ 愛の讃歌」についてはそれぞれのレビューを参照してください。「子供たちの王様」は映画の会で鑑賞。個人的には3度目の鑑賞でした。
 「アスファルト・ジャングル」を最初に観たのは73年11月。実に35年ぶりの鑑賞。当時個人的につけていた「月間ベストテン」の2位に選んだ作品。本館HPに当時の「月間ベストテン」(つけていたのは1972年9月から1974年12月まで)リストを掲載した時に、名前の挙がっていた作品を廉価版DVDでいくつか購入したのです。その中から選んでみたのがこの映画。レビューを書こうと思いつつ未だ手がつけられずにいます。

「アスファルト・ジャングル」
Sky_window  ストーリーの展開はジュールス・ダッシンの「男の争い」やジャン=ピエール・メルヴィルの「仁義」に似ている。強盗には成功するが、結局最後はみんな捕まるか殺される。「男の争い」や「仁義」には劣るものの、映画の出来としてはなかなかのものだ。
 この映画をフィルム・ノワールに入れるかどうかは人によるが(フィルム・ノワールの定義自体が未だに未確定のままだ)、犯罪というものに対する考え方に関していくつか示唆に富むせりふがある。悪徳弁護士のエマリックが、犯罪者が怖いという妻に言った言葉。「彼らも別に変わった人間ではない。犯罪とは人間の努力の裏面に過ぎない(left-handed form of human endeavor)。」犯罪は人間の本性の一面である。人間の行動の明と暗は切り離しがたく結びついており、しばしば境界があやふやになると言いたげだ。
 ラスト近くで警察のコミッショナーが記者のインタビューに答えている言葉もこれに呼応している。腐敗した警官は100人に1人だ。99人は日夜町を守っている。「よくもわるくも警察がいなければどうなる。戦いは終り、ジャングルが勝ち、猛獣のみが横行し始める。」善と悪は互いにせめぎ合っており、善(警察を指している)の側が戦いをやめればたちまち悪がのさばると。映画は出所したばかりのドックがノミ屋のコビーに50万ドルのもうけ仕事を持ちかけるところから始まる。はじめから悪は悪として登場する。当然の前提として描かれ何の疑問も差し挟まれない。強盗団が壊滅するのは水も漏らさぬ計画に偶然の要素が入り込んできたからだ。ドック「何時間もかけて細部まで計算しつくした。それがだ、警報装置が理由もなく鳴り始め、暴発した弾がルイに命中、能無しパトロールまで私のバッグに目を付けた。こんな偶然には打つ手がない。」
 昨今の暗い事件の報道を見れば、犯罪が人間の性に深く食い込んだ抜きがたい要素であることは簡単に否定できない。警察のコミッショナーの宣言にもかかわらず、警察までもが腐敗していると聞いて今更驚くものはいないだろう。しかし単に犯罪を人間の性だというだけでは単純すぎる。なぜ犯罪が生まれるのかをどこまで深く追求しているかが問われねばならない。
 その点で面白いのがディックス(スターリング・ヘイドン)という人物である。コミッショナーは彼こそが一番のワルだと記者会見で断言したが、人間的陰影が一番描かれているのはディックスなのである。彼の先祖はアメリカに初めてサラブレッドを輸入した人物である。大きな牧場を持っていたが全部失った。それ以来強盗で金を稼いではレースにつぎ込んでいるという落ちぶれ男。彼は手に入れた金で故郷の牧場を買い戻そうと思っていた。ラストで瀕死のディックスは故郷の牧場にたどり着く。そのまま牧場で倒れ、仰向けに横たわる。虚しさが後を引くラストだ。
 ただこれとて深い人間監察というわけではない。単純化を防ぐちょっとした工夫というに留まる。スターリング・ヘイドンも今観ると大根だ。エマリックを演じたルイス・カルハーンやドック役のサム・ジャッフェには及ばない。エマリックとドックの人物像をもっと掘り下げ、ディックスにもっとうまい役者を当てていれば文句なしの傑作になっていただろう。

「サッド・ヴァケイション」
 キネ旬のベストテンで4位にはいった作品だが、僕はこの手の作品は評価しない。いわゆる評論家連中が誉めそやすタイプの映画だ。浅野忠信、オダギリジョー、宮崎あおい、石田えり、中村嘉葎雄、板谷由夏と豪華な顔ぶれ。間宮運送という小さな運送会社がストーリーの中心にあり、その会社の社長である間宮(中村嘉葎雄)はいろんな傷を持った人々を受け入れる心の広い人物として描かれている。しかし話の展開はそれぞれの心の傷に焦点を当てる。
 一見温かみのある小さなコミュニティの裏側にはひりひりする心の傷や満たされない思いが充満しているという描き方。それはそれでいいのだが、どうも人間描写が薄っぺらなのだ。冒頭に出てくる中国からの密航者のエピソードがその典型で、単なる背景として描かれるだけである。せっかくオダギリジョーを起用しながら全く彼の存在は活かされていない。一癖ある流れ者たちの吹き溜まりという設定なのだが、それぞれの人物像の掘り下げが浅すぎる。
 この種の映画は結局社会と人間の関係を掘り下げない。社会は単なる背景に遠のき、つまるところ人間個人の感情や情念を描くに留まる。人間の内面を掘り下げることが重要だという考えなのだろうが、その際に安易に人間の社会性を切り離してしまう。だから薄っぺらな映画が出来上がる。これは先進国の映画にほぼ共通した傾向で、上滑りした中空で遊んでいるだけである。アフリカを舞台にした映画やイラン映画、あるいはボスニア紛争を描いた映画などに比べると、どうしても底の浅さが露呈してしまう。主人公である浅野忠信の心の迷いを描く執拗さには異様な迫力があるのだが、どこかやくざな視点が入り込んでいて(時々浅野忠信の顔が白竜そっくりになる)空回りしてしまう。そのあたりが残念だ。

「デビルズ・バックボーン」
 「パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロ作品だということで観た映画。「パンズ・ラビリンス」と同じスペイン内戦時代を描いているというので多少の期待をしていたが、残念ながらスペイン内戦はほとんど関係ない。舞台はある孤児院をほとんど出ない。だからどこであってもいつの時代であってもいいようなものだ。作品としては純粋なホラーというよりはホラー・サスペンスといったところか。人間の怨念やゾンビのようなものが出てこないことには好感を持ったが、サスペンスとしてはありきたり。謎めいた孤児院の雰囲気はよく出来ていて、リンボの水に浸けられた「悪魔の背骨」を持った赤ん坊の死骸も不気味だ。

「魔笛」
 ケネス・ブラナー監督作品なので借りてみたが、正直がっかりした。第一回東京国際映画祭で観たフランチェスコ・ロージの「カルメン」同様本格的なオペラで、初めから終りまで朗々たる歌を聞かされたのではもううんざりである。どうも僕にはオペラは合わない。せりふを全部歌で言うというのはどうしても違和感がある。まだるっこくて仕方がない。古いミュージカル映画が好きでないのも同じ理由だ。
Haikyotohana  ただ、冒頭の導入部分、演奏がなり続ける中、大平原に幾筋もの塹壕が掘られている光景をキャメラが映し出すシーンには迫力があった。複葉機が空を飛びまわるシーンも恐らくCGだろうがなかなかリアルだった。あるいは中ほどで、巨大な墓地が映し出されるシーンも圧巻だった。演説するザラストロの姿からキャメラが引いて行くと、画面手前に墓標が延々と続いている。さらに引くと全く緑のない荒れ果てた茶色の台地が続く。むき出しの土と枯れ木しかない。これらのシーンは見せるのだが、どうも間延びした演出で面白みに欠ける。

 テレビで鑑賞した「フライトプラン」はサスペンス映画としては水準程度の出来か。「パーフェクト・ストレンジャー」にいたってはもうすっかり内容を忘れている。あらすじを読んでも思い出せない。その程度の作品だということだろう。

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2008年4月28日 (月)

エディット・ピアフ 愛の讃歌

2007年 フランス・チェコ・イギリス 2007年9月公開
評価:★★★★☆
監督:オリヴィエ・ダアン
制作:アラン・ゴールドマン
脚本:オリヴィエ・アダン、イザベル・ソベルマン
撮影:永田鉄男
衣装デザイン:マリット・アレン
編集:リシャール・マリジ
音楽:クリストファー・ガニング
出演:マリオン・コティヤール、ジェラール・ドパルデュー、シルヴィー・テステュー
    パスカル・グレゴリー、エマニュエル・セニエ、クロチルド・クロー
   ジャン=ピエール・マルタンス、マルク・バルベ、カトリーヌ・アレグレ
   ジャン=ポール・ルーヴ、マノン・シュヴァリエ、カロリーヌ・シロル

Akari1  僕は映画を観ている間は内容の理解に関心を向けているので、劇中で使われている音楽に注意を向けることは滅多にない。5、6千枚のCDを持っているのにサントラ盤が1桁程度しかないのは恐らくそのためだ。持っているサントラ盤で今ぱっと思いつくのは「嫌われ松子の一生」、「僕のスウィング」、「ドリームガールズ」、そしてコンピレーション盤が1枚くらい。曲単位で鮮烈に印象に残っているのは(最近のものにしぼって言えば)「ロード・オブ・ウォー」で使われたジェフ・バックリィの「ハレルヤ」、「やさしくキスをして」で使われたビリー・ホリデイの「奇妙な果実」、そして「靴に恋して」と「モディリアーニ 真実の愛」で使われた「バラ色の人生」である。

 エディット・ピアフ(1915-1963)。彼女のことを知らなくても「愛の讃歌」と「バラ色の人生」を知らない人はいないだろう。2曲とも発表後半世紀以上たった今聴いても全く色あせない名曲である。「愛の讃歌」が日本では一番有名だが、僕が一番すきなのは「バラ色の人生」だ。何度聞いても感動してしまう。シャルル・トレネの「ラ・メール」、イヴ・モンタンの「枯葉」、シャルル・アズナブールの「ラ・ボエーム」、「想い出の瞳」、「帰り来ぬ青春」、「遠い想い出」、コラ・ヴォケールの「さくらんぼの実る頃」、ジルベール・ベコーの「そして今は」、エンリコ・マシアスの「恋心」などと並んで、ピアフの「愛の讃歌」と「バラ色の人生」はシャンソンの名曲として僕の心の中に刻みつけられている。

 歌手にはいろいろなタイプがあり、声が一番の魅力である歌手もいるが、およそ美声からは程遠い人もいる。ロック界でいえば、例えば、ニール・ヤング。およそまともな歌手になれそうもない特異な声だが、60年代半ばの「バッファロー・スプリングフィールド」から「CSN&Y」を経て、いまだに第1線で活躍しているのは驚異的だ。衰えを知らず、90年代以降のアルバムはほとんどすべてが傑作と言っていい。あるいはルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」はどうだ。数え切れないほどの美声歌手や歌のうまい歌手がカバーしたが、あの独特のだみ声で歌ったルイ・アームストロングの歌を超えるものが一つでもあっただろうか?だみ声といえばトム・ウェイツの歌も味わい深い。もっとも彼の場合は歌手としてよりも作曲家としての才能の方が上だと思うが。

 ピアフも決して美声ではない。小さな体から声を搾り出すようにして歌う。彼女の代表曲はピアフのことを何も知らずに聴いても素晴らしいが、彼女の凄絶な人生と重ね合わせて聞いた時その感動はさらに深まる。「エディット・ピアフ 愛の讃歌」で歌われるピアフの曲がどれも輝いているのは、それらの曲がどれも彼女の人生のドラマと重ね合わされているからだ。ラストのオランピア劇場で歌われる「水に流して(私は後悔しない)」の感動は、単にCDで聞いただけでは決して得られないほど深い。これほど歌に人生がにじみ出ている歌手は他にそうはいない。

* * * * * * * * * *

Fs5  「エディット・ピアフ 愛の讃歌」は晩年のピアフが公演中に倒れるシーンから始まる。そのすぐ後に時代は一気に1918年に飛ぶ。しばらくピアフの少女時代を映したかと思うと、またすぐ1959年のニューヨークに飛ぶ。口紅を塗っている大人のピアフ。背後の壁にはビリー・ホリデイのポスターが貼ってある(この二人の大歌手は奇しくも同年生まれである)。このように時代がせわしないほど交錯する。そのために映画が分かりにくくなっているという指摘は少なくない。もっとじっくりと彼女の人生を映し出して欲しかった。そう感じた人も多いだろう。僕自身もカットバックを多用しすぎだと感じている。しかし、そう感じる人たちも含めて、この映画は観る価値のある映画だと認めている。逆から考えてみるといい。頭の中が混乱するほど彼女の人生をバラバラに組み替えても、波乱に富んだピアフの人生が、歌うことの喜びと苦渋に満ちた悲しみが、なおかつ強烈に観客に伝わってくるのだと。それほど彼女の人生は壮絶だったのだ。時間の切り方がどうの、演出の仕方がどうの、マリオン・コティヤールのなりきりぶりがどうのと言う前に、この映画の根源的魅力・説得力はピアフが歩んだ人生そのものの壮絶さにあることをまず確認しておく必用がある。彼女の人生のすさまじさが観客を圧倒するのだ。

 そこに描かれたのは大文字の「人生」ではない。すなわち、「あなたにとって人生とは?」と聞かれたときの抽象的な「人生」ではなく、パリの裏路地の壁の汚れやしみ、街の雑踏や街に立ち込める臭い、その中でうらぶれた歌を歌う母親(クロチルド・クロー)の姿であり、それを気にも留めずに行過ぎる人々の姿であり、母の近くでうずくまるように座っていたときの寂しさと空腹感である。あるいは、娼婦たちが笑いさざめき泣き叫ぶ娼館での生活であり、彼女たちの肌のぬくもりであり、実母以上に愛情を込めてピアフを見守っていたティティーヌ(エマニュエル・セニエ)との身を引き裂かれるような悲しい別れであり、その記憶が伴う痛みである。あるいは、初めて舞台に立つピアフ(マリオン・コティヤール)を押しつぶしそうになった不安と重圧であり、その舞台で味わった歓喜と解放感、肌で感じた聴衆の熱い反応であり、マルセル(ジャン=ピエール・マルタンス)と共に過ごした幸せな時間とその突然の終結がもたらした胸がつぶれるような悲しみと絶望感であり、生涯の友となったマレーネ・ディートリッヒ(カロリーヌ・シロヌ)にかけられた温かい言葉に小娘のように感動したことである。抽象的な人生ではなく、紛れもなくピアフが体験した一つひとつの出来事が具体的に再現されているからこそ感動的なのだ。

 ドイツ占領時代の活躍やイヴ・モンタンらとの多彩な恋愛が描かれていないことに不満を感じるよりも、むしろ140分かけてもなお描き尽せなかったピアフの人生の豊かさにこそ思いを馳せるべきだ。頂点もどん底も味わった。いつまでも癒えぬ心の傷とそれを紛らすために過剰に摂取したモルヒネや麻薬やアルコールで身も心もボロボロになった晩年の姿。最後まで何かを求め続けてのた打ち回るようにして生きてきた人生。彼女の人生は大事なものを次々に失う人生だった。どんなに名声を得ても、その心の空隙を埋められなかった。それでも歌うことをやめず、最後の最後に本当に求めていた歌と出会い、病み衰え老婆のように老け込んだ体を押して舞台に立った。

Photo  映画はその舞台に立つピアフを何度も映し出すが、舞台の上で実際に曲を歌うシーンはラストで「水に流して(私は後悔しない)」を歌うシーンだけである。ここにこの映画のはっきりとした演出意図が表れている。恋愛のエピソードをマルセル1人にしぼったように、歌も「愛の讃歌」や「バラ色の人生」を軽く流し、あえてラストの「水に流して」をクライマックスにしたのである。この映画が焦点を当てているのはピアフの絶頂期ではなく、人生の最晩年である。ピアフ自身が「これこそ私が待ち望んでいた曲よ、私の曲よ。私の人生そのものだわ」と呼んだ「水に流して(私は後悔しない)」を引っさげてオランピア劇場に出演したピアフにスポットライトを当てたのだ。「もし人生をもう一度やり直すとしたら」とインタビューで聞かれたピアフは「同じ人生を歩む」と答えた。“いいえ、私は何も後悔していない。私は代償を払った。清算した。忘れた。過去なんてどうでもいい。私はまたゼロから出発する”と歌ったピアフ最後の大ヒット曲「水に流して(私は後悔しない)」こそ、彼女の人生を締めくくるにふさわしい歌だった。満足に立つことも出来ないほどボロボロになっても“私は何も後悔していない”と見事に歌い上げてショーを成功させたところにピアフの真髄がある。映画はそう描いている。

 伝記映画であるにもかかわらず、時系列順にエピソードを並べなかったのは晩年のピアフの視点から過去を振り返っているからである。ラスト近くで死を迎えつつあるピアフの姿が映される。カットバックが多用されるのは死の床に横たわるピアフが過去を思い出すという設定になっているからだろう。しかしその過去は順風満帆からはおよそほど遠いものだった。舞台の大喝采は長く続かない。次々に不幸が彼女を襲う。40代にして老婆のようになり、髪はチリチリで前かがみでよたよた歩くピアフの姿が容赦なく映し出される。

 「昔のことを思い出そうとしても思い出せないの。」最後にピアフの記憶に残った思い出は少女時代だった。パリの路地裏に立ち、売春宿で育った記憶。薄汚いパリの裏路地を這いずり回るようにして生きていた子供時代。最後に去来するのはその思い出だ。1918年当時のパリの路地裏を再現した美術は本当に見事だった。この点は強調しておくべきである。あの薄汚れた路地裏。しみだらけの壁。人々のみすぼらしい服装。ロマン・ポランスキーの「オリバー・ツイスト」で再現された19世紀のロンドンも見事だったが、あれでもまだきれい過ぎた。20世紀初頭の下層社会を視覚的にこれほどリアルに描いた例を他に知らない。

 少女時代の不幸な生い立ちがピアフに一生付きまとった。満足に食事も取れなかっただろう。慢性的な栄養不足で虚弱体質に育ってしまった。身長142cmという、日本人から見ても小柄な体だったのは明らかに栄養不足のせいである。角膜炎を患い危うく失明しそうになったのも不十分な食事のせいだろう。幸い角膜炎は治ったが、ピアフは「聖テレーズ、目を見えるようにして下さい」と一生懸命に祈ったおかげだと信じる。それ以後、ピアフは聖テレーズの十字架を決して手放さなかった。舞台に立つ前には必ず十字を切ったという。

 しかし少女時代は決して不幸のどん底ではなかった。母親のアネッタが娘を置いてどこかへ行ってしまったために、エディットは父ルイ(ジャン=ポール・ルーヴ)の実母の営む娼館へ預けられる。ここでの生活はエディットの人格形成に大きな影響を与えたに違いない。母を失ったエディットはここで実母以上に母親らしい娼婦たちと出会ったのである。様々な事情の果てに娼婦にまで身を落とした女たち。しかし彼女たちは決して自堕落でも無慈悲な女たちでもなかった。「銀馬将軍は来なかった」や「キムチを売る女」で描かれた娼婦たちが決して絵空事ではなかったことがこの娼館でのエピソードで分かる。幼いエディットは彼女たちに優しさと悲しさを、社会の残酷さを、そして何よりも社会の最底辺に突き落とされながら必死で生きようとするたくましさを見たのである。パリの路地裏での生活とノルマンディーの娼館での生活、これらの経験がどれほどピアフの人生と彼女の歌に大きな影響を与えたことか。これらの経験があったからこそピアフはピアフになったのである。最後の最後までピアフは「路地裏の歌手」という言葉が似合う歌手だった。

Ht1  決して居心地がいいばかりではなかったはずの娼館から父親に連れ去られるシーンがなぜあれほど悲痛なのか。単に慣れ親しんだ人たちから引き離されるのが辛かったというだけでは充分な説明にならない。一番辛かったのはティティーヌとの別れだったに違いない。ティティーヌにしても実の娘を奪い取られる思いだったろう。ティティーヌとの別れが悲痛なのは唯一手元にあった愛情をもぎ取られてしまうからである。ピアフの歌のテーマはほとんど常に愛であった。愛こそ両親の愛を充分得られなかった幼い時から彼女が常に求め続けていたものなのである。歌、愛、人生、この三つは常にピアフの中で一体だった。そしてピアフにとっての愛は常にその愛を無残に奪われる悲しみと背中合わせだったのだ。

  この映画はピアフの名曲をたっぷりと味わう映画ではない。ピアフの人生のエピソードを網羅的に紹介する映画でもない。ピアフという歌手と彼女の歌がどのように生まれ、彼女の歌にどのような思いが込められていたかを描く映画である。そこにアメリカ映画との決定的な違いがある。アメリカ映画なら「愛の讃歌」や「バラ色の人生」を何度も流しただろう。クライマックスにこの2曲を舞台で歌うシーンをもってきて、さらにこの歌が生まれるきっかけとなった恋愛をたっぷりと描いただろう。

 しかしこの映画はとことんその逆を行く。たとえばミュージック・ホールでの初舞台のシーン。不安のあまりエディットは部屋に閉じこもる。ようやく説得されて舞台に上がり、歌い始める。そこからはわざと歌声を消している。代わりにBGMを流す。その初舞台が成功だったことは、次第に自信に満ちた表情に変わってゆくピアフと歌に反応し始める観客の映像に語らせている。最後の拍手だけ実際の音が入る。

  「バラ色の人生」はマルセルをピアフが恋する女の目で見つめ、「一生の男だわ」とつぶやく後に流れてくる。しかしピアフはすぐ歌い終わりテーブルについてしまう。そのすぐ後にマレーネ・ディートリッヒと初めて出会う印象的な場面が続く(大スターの出現にピアフはすっかり上がってしまい、立ち上がるときイスを引っ掛ける)。あの名曲があっさり使われている。「愛の讃歌」はマルセルの死を聞いてピアフが泣き叫ぶ後に流れる。半狂乱になって部屋を飛び出すとそこはステージだったという劇的な展開になってはいるが、曲そのものはBGMのような扱いですぐ途切れてしまう。こういう演出はドラマチックな盛り上げを得意とするアメリカ映画にはまず出来ない。実にフランス映画らしいひねった作りだ。

  恋に傷つきながら、恋なしでは生きられないピアフ。恋こそが彼女と彼女の歌の源泉だった。イヴ・モンタンとの恋が「ラヴィアン・ローズ」を生み、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンとの恋が「愛の讃歌」を生んだ。ピアフの人生は決してバラ色一色ではなかった。しかしそれでも彼女は生まれ変わってもまた同じ人生を生きたいと断言できた。苦しみや悲しみなしに彼女の歌は生まれなかった。ステージの上で咲いた華麗なバラ。しかし地面の下にはいくつもの悲しみと絶望感と孤独感が埋まっている。それも含めて彼女の人生だった。

  ピアフに扮したマリオン・コティヤールの演技が素晴らしかった。「ビッグ・フィッシュ」や「ロング・エンゲージメント」にも出ていたらしいが、全く記憶に残っていない。この映画は彼女を語る上で欠かすことのできない作品になるだろう。最後にラスト近くで描かれる若い女性記者とピアフのインタビューを引用して終わろう。
  「女性へのアドバイスをいただけますか?」
  「愛しなさい。」
  「若い人へ。」
  「愛しなさい」
  「子供には?」
  「愛しなさい。」

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