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2008年4月13日 - 2008年4月19日

2008年4月18日 (金)

「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を観ました

 ミュージシャンの伝記映画というと昔から傑作が多い。ちなみに70年代以降に絞ってマイ・ベスト10を挙げれば以下のようになろうか。

「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(2007)
「風の前奏曲」(2004、ソーン・シラパバンレーン)
「ビヨンドtheシー」(2004、ボビー・ダーリン) 
「五線譜のラブレター」(2004、コール・ポーター) 
「永遠のマリア・カラス」(2002) 
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」(1998)
「シャイン」(1995、デヴィッド・ヘルフゴット) 
「アマデウス」(1984、モーツァルト) 
「歌え!ロレッタ愛のために」(1980、ロレッタ・リン)
「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」(1976)

  エディト・ピアフ。フランスが誇る偉大なシャンソン歌手。しかし僕が彼女のCDを買ったのはほんの1、2年くらい前だ。もちろん「愛の讃歌」や「バラ色の人生」は昔から名曲だと思っていた。しかしビリー・ホリデイ同様(この2人が同い年だということを「エディット・ピアフ 愛の讃歌」で初めて知った)何か古臭い気がしてさほど聞きたいとは思っていなかったのである。

Sdcamoon402   初めてシャンソンのレコードを買ったのはもう30年以上前。高校生の時だった。そのころカンツォーネが好きで、その関連でシャンソンの2枚組みレコードを買ったのだ。シャルル・アズナブールの来日ライブ盤も持っていた。シャンソンやカンツォーネは今でこそCD店の片隅にしか置かれていないが、70年代頃まではまだ結構ファンがいたものだ。アダモやクロード・チアリはよくテレビに出ていたし、エンリコ・マシアス、ジルベール・ベコー、イヴ・モンタンなどは日本でも有名だった。60年代半ばから70年代にかけてポップス路線のシルヴィー・ヴァルタンとミシェル・ポルナレフがヒットを連発していた。

  80年代前半はFMラジオから膨大な量のエア・チェック(懐かしい用語だ)をしていた。その頃はもうシャンソンのレコードは買わなかったが、カセットテープ(これも懐かしい)にはしばしば録音していた。コラ・ヴォケール、イヴェット・ジロー、シャルル・トレネ、ダミア、リュシエンヌ・ドリール、ジュリエット・グレコ、バルバラ、渋いところでジョルジュ・ムスタキ(当時はコアなファンがいた)、等々。ポップス・ロック系ではフランソワーズ・アルディ、フランス・ギャル、ジョニー・アリデイ、ミレイユ・マチュー、ナナ・ムスクーリ(アンジェラ・アキが出てきた時ナナ・ムスクーリにあまりにも似ているので、彼女の娘ではないかと思ったのは僕だけじゃないはず)。 CD時代になってからはめっきりフランスの音楽を聴かなくなった。せいぜい買ったのはミレーヌ・ファルメール、ララ・ファビアン、リアーヌ・フォリー、ブリジット・フォンテーヌ、パトリシア・カース、エンゾ・エンゾ、カーラ・ブルーニ、ヴァネッサ・パラディ程度。この中ではパトリシア・カースがダントツでいい。最近新譜を見かけなくなったのは残念だ。

  しかしエディット・ピアフのCDは何度も手に取りながらつい最近まで買うことはなかった。そして実際に聞いてみても「愛の讃歌」と「バラ色の人生」以外はあまりに古臭くて何がいいのか分からなかったというのが本当のところだ。ただし、1曲だけ素晴らしい曲があった。それが「エディット・ピアフ 愛の讃歌」の最後で歌われる「水に流して(私は後悔しない)」だった。この曲には2つの有名曲に匹敵する輝きを感じた。

  もちろんフランス語なので意味は分からずに聞いていたが、映画のラストで歌われたときにはその歌詞からピアフの様々な思いが読み取れて涙があふれ出た。あえて「愛の讃歌」と「バラ色の人生」を前面に出さずにさらっと流し、ラストのクライマックスに「水に流して(私は後悔しない)」を持ってきた演出は見事に成功していたと思う。

Glassbig01    ビリー・ホリデイとエディット・ピアフ。奇しくも同じ年に生まれ、同じように苦難に満ちた壮絶な人生を送った二人の大歌手。それぞれの伝記映画「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」と「エディット・ピアフ 愛の讃歌」の出来が雲泥の差になったのは、「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」がビリー・ホリデイの人生をあまりにきれいに描きすぎたからである。少女時代の悲惨な環境や40歳代のピアフがまるで老婆のようになってしまう晩年を容赦なく描き出した後者に比べると、前者のビリーは美しすぎ、人種差別や麻薬・アルコール依存症でのた打ち回った彼女の人生が身に迫るほどは描かれていない。

  ピアフの人生は大事なものを失い続ける人生だった。どんなに名声を得ても彼女の心にぽっかりと開いた空隙を埋めることはできなかった。薄汚いパリの路地裏を這いずり回るようにして生きていた少女時代、死の床で彼女の脳裏に去来するのはその思い出だった。頑固なまでに自分を押し通し、内部から瓦解するように崩れ落ちていった人生。人生の明と暗をこれほど冷徹に描き、なおかつ切なさとはかなさを伝え得ており、かつセンチメンタルになることを回避しえている映画は他になかなか思い当たらない。

  「サン・ジャックへの道」、「約束の旅路」、「アズールとアスマール」、「トランシルヴァニア」そして「エディット・ピアフ 愛の讃歌」。昨年公開のフランス映画は実に充実していたことが分かる。ひょっとしたら今フランス映画は新しい黄金時代を迎えつつあるのかもしれない。

<追記>
 「エディット・ピアフ 愛の賛歌」のレビューはこちらからどうぞ。

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2008年4月13日 (日)

パンズ・ラビリンス

2006年 メキシコ・スペイン・アメリカ 2007年10月公開
評価:★★★★★
原題:EL LABERINTO DEL FAUNO
監督、脚本、製作:ギレルモ・デル・トロ
撮影監督:ギレルモ・ナバロ
美術:エウヘニオ・カバレロ
音楽:ハビエル・ナバレテ
出演:イバナ・バケロ、セルジ・ロペス、マリベル・ベルドゥ、ダグ・ジョーンズ
    アリアドナ・ヒル、アレックス・アングロ、ロジャー・カサメジャー
   フレデリコ・ルピ、マヌエル・ソロ

Butterfly_scho  このレビューの「前書き」にあたる「『パンズ・ラビリンス』を観ました」という記事で、この映画が内戦の悲痛な現実や「内戦の影」を描く一連のスペイン映画の系統に属するものであることを強調した。ダーク・ファンタジーという呼び方ではファンタジーの系統に入ってしまうからだ。もちろん、この作品はリアリズムとファンタジーがまれに見るほど見事に結合した作品であって、ファンタジーの要素を過小評価するつもりはない。そのことはこの映画からファンタジー部分を抜いて、リアリズム部分だけで作られた場合を想像してみれば分かる。山に立てこもって抵抗を続けるゲリラとフランコ軍との戦いを描いただけではどう考えても物足りない。

 この作品におけるリアリズム部分とファンタジー部分は表裏一体のものである。その二つが結びつき、絡み合うことで、単純に二つを足しただけ以上の効果が発揮されている。「パンズ・ラビリンス」を批評する時、この2つの部分の関係とその組み合わせから得られる効果がどんなものであるかを解明する必要がある。

 二つの部分が対比的に使われていることは明らかである。現実の世界で展開される残虐な行為と嘘や苦痛のない地下の国の対比。ファンタジーの世界は過酷な現実から逃れるためにオフェーリアが作り上げた仮構の世界。優しい父と母のいるやすらぎの世界。ファンタジーの世界と対比されることによって、暴力でもって殺しあう現実世界の愚かさが批判されている。

 「嘘や苦痛のない地下の国」という設定は確かに批判力を持っている。それは一種の理想の世界であり、理想主義は理想とは程遠い現実を批判する力を持つ。しかし、同時にそれは空想的だという限界ももつ。もし単純な対比だけであれば、この映画はこれほど優れたものにはならなかっただろう。この二つの世界は対比的であると同時にまた並行世界でもあった。オフェリアが「逃避」した地下の世界は恐ろしい怪物の住むぞっとする世界でもあり、彼女はその中で3つの試練を課されるのだ。決して安楽な世界ではない。どこに逃げても過酷な現実が彼女を追ってくる。「パンズ・ラビリンス」においては現実世界もファンタジー世界も、どちらも過酷な世界なのである。地上も地下も、迷宮の中も外も「約束の地」ではなかった。それが「パンズ・ラビリンス」の冷厳な現実である。ファンタジーの世界は決して甘い夢の世界ではなく、むしろ悪夢の世界だった。アニメ「ニモ」(1989)のような“ナイトメアランド”と“スランバーランド”の単純な色分けではない。「パンズ・ラビリンス」の世界ではまどろみ(スランバー)の中でも悪夢を見るのだ。

Saba3  主人公の少女オフェーリア(イバナ・バケロ)が死すべき運命であることは彼女の名前そのものが既にして暗示していた。『ハムレット』のオフィーリアは溺死するのである。ラビリンスの中の妖精たちも1998年のイギリス映画「フェアリーテイル」に出てくるような羽の生えた天使のごとき妖精ではない。それに近いものも出ては来るが、それさえも最初はナナフシの姿をしていた。オフェーリアが「妖精はこんな姿よ」と本の挿絵を見せたためにナナフシはそれに合わせて変化したのである。それは彼女の願望の写し絵に過ぎなかった。ラビリンスのほとんどすべての住人は恐ろしい、あるいはおぞましい姿をした怪物や化け物だった。それはまさに「ロード・オブ・ザ・リング」の竜、トロル、ゴブリン、オーク、ゴラムなどが出てくる世界である。そもそも妖精とはほとんど日本の妖怪に近いもので、キャサリン・ブリッグズの有名な『妖精事典』や『妖精 Who’s Who』を見てもそのほとんどが日本人には妖怪にしか思えない存在である。竜、トロル、ゴブリン、オークなども分類上は妖精なのだ。

 「パンズ・ラビリンス」ではこれにギリシャ神話のパン(ダグ・ジョーンズ)やヨーロッパに古くから伝わるマンドラゴラ、ジャバ・ザ・ハットの親戚のような巨大なガマガエル、さらにペイルマンと呼ばれる独創的な怪物まで加わる。まさに妖怪やおぞましい怪物のオンパレード。地底王国の使いであるパンでさえも本当に信じられるのか疑わしく思えてくる。オフェーリアを除けばファンタジーに付き物のかわいいキャラクターなどは出てこない。その分オフェーリアのかわいらしさが際立つのだが(オフェーリア役のイバナ・バケロはまさに第2のアナ・トレントだ)。

 結末も当然ハッピーエンドではない。この映画は、その意味でダーク・ファンタジーと言うよりもアンチ・ファンタジーである。ファンタジーの中にも容赦なく現実が入り込んでくる。暴力と恐怖は現実の世界だけではなく、オフェリアが逃げ込んだファンタジーの世界にもあふれている。そして彼女が出会う3つの試練もまた現実の世界の戦いに呼応している。泥だらけになって巨大で醜い敵と戦い、敵の誘惑と戦い(レジスタンスに裏切りは付き物だ、また天井の穴から危機一髪脱出するのは「影の軍隊」を想起させる)、自己犠牲を払う。

  現実もファンタジーの中もオフェーリアにとっては試練の場だった。この点が重要だ。彼女はただ逃避したのではなく、自ら試練に立ち向かった。それは王女になるためというよりも王国を復活させるためだったのではないか。現実世界でも大人たちは過酷な試練にさらされていた。オフェーリアの母カルメン(アリアドナ・ヒル)は夫が戦死し、自分と娘が生きるためフランコ軍のヴィダル大尉(セルジ・ロペス)と再婚した。彼女は「ボルベール」に出てくる母親像とは全く違う。ヴィダル大尉にすがって生きることしかできない。本が好きで想像力豊かな娘と違って母親は物語の力などあっさり否定する。生きるためにはたとえ残虐な男でも力のあるものに頼る。これもまた現実である。

  しかしオフェーリアには実母に変わる存在がいた。ヴィダル大尉の身の回りの世話をしているメルセデス(マリベル・ベルドゥ)だ。弟は反政府ゲリラの一員で、彼女も秘かにゲリラを支援している。実母のカルメンと違って、彼女はオフェーリアが語る妖精の話に耳を傾ける。そして自分も子供の時には妖精が見えたと話す。その上で大人になった今は見えないと付け加えるのだ。メルセデスは大人になったオフェーリアなのである。この映画は1944年という歴史のある時点を描いているが、実は内戦からフランコの独裁時代、そして独裁が終りスペインに民主主義が戻るまでの長い歴史が象徴的に描きこまれているのである。この点はまた後に触れる。

Key_mb3  オフェーリアと重なるのはファシスト軍との勝ち目のない闘いという試練に立ち向かっているゲリラたちやその協力者であるメルセデスだけではない。カルメンの看病をしているファレーロ医師(アレックス・アングロ)もオフェーリアと重なってくる。彼は捕まって拷問を受けているゲリラの一人に薬を打ち安楽死させる(口封じでもある)。それを見抜いたヴィダル大尉が問い詰める。「従う方があんたのためなのに。わからん、なぜそうしなかった。」医師「何の疑問も抱かずひたすら従うなんて心のない人間にしか出来ないことだ。」去って行くフェレイロ医師を大尉が後ろから撃つ。オフェーリアも義父の大尉を父とは認めず、彼の言葉に何度も逆らった。握手のため大尉が手を差し出した時、オフェーリアは左手を差し出す。右手が本を持っていてふさがっていたからだが、わざわざ持ち替えることをしなかった。ファレーロ医師がメルセデスに何かを手渡したのを目撃した時も、それを誰にも話さなかった。彼女は自分で判断し行動したのである。

 現実の世界を支配しているのは冷酷無比なヴィダル大尉である。無実の農民親子を撃ち殺した時も少しも動揺を見せない。捕らえられたゲリラに彼が拷問を加えるシーンでは薄ら寒い空気が画面に満ちる。彼の行くところ残虐なシーンがついて回る。彼自身が口を切られ、それを自分で縫い合わせるシーンなどは下手なホラー映画以上に不気味である。彼はまさに「死」であった。オフェーリアにとっても、メルセデスにとっても、フェレイロ医師にとっても、ゲリラたちにとっても、そして大尉に庇護されているカルメンでさえも、生きること自体が苦しみだった。オフェーリアが幻想世界を自分で作り出したのも無理はない。オフェーリアの幻想の世界はその意味で現実が生み出したものなのである。

 しかしこの映画はその幻想世界を単なる逃避的で無力な世界だとは描かなかった。むしろ想像力は創造力であり、未来を生み出すものとして暗示されている。メルセデスやフェレイロ医師やゲリラの戦士たちも未来を思い描くからこそ希望を持ち続けられるのだ。

  オフェーリアは弟を生かすために自分の命を失った。そのように選択することによって彼女は王女として「魔法の王国」に戻ることができた。その王国はどこにあるのか?ここでファンタジーはもう1回転する。冒頭に出てくる魔法の国の物語が重要な意味を帯びてくる。人間の世界にあこがれていた地下の国のお姫さまは、地上に憧れある日地上に出る。しかし日の光を浴びてお姫様はすべての記憶をなくし、そして死んだ。しかし父王はいつか姫の魂が他の肉体に乗り移り、別の時代に戻ってくると信じていた。

  「魔法の王国」とは民主主義を回復したスペインなのである。長い間地下に潜んでいた時代の王国とはフランコ独裁政権下のスペインであった。ファシストによる独裁はオフェーリアが死んだ後も75年まで続くのだ。「弟よ、あなたの外の世界は、決して平和じゃないわ。」オフェーリアが母のお腹の中にいる弟に言った言葉は、1944年にだけ当てはまるのではない。手のひらに目玉をつけた怪物ペイルマンはまさに独裁政権の監視の「目」を象徴している。

 しかし、その独裁政治もいつかは終わる。人々は苦しみつつも未来を思い続けた。想像力が生きる力を生む。スペインに再び民主主義が戻った時、彼女の「王国」は地上に帰ってくるのだ。「ゲルニカ」のように。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし。」彼女は死して未来の種を生んだのである。その芽はメルセデスの子守唄を聞いて育ったのだ。

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