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2008年3月23日 - 2008年3月29日

2008年3月27日 (木)

キムチを売る女

2005年 韓国・中国 2007年1月公開
評価:★★★★☆
原題:芒種
監督、脚本:チャン・リュル
プロデューサー:チェ・ドゥヨン
撮影:ユ・ヨンホン
美術:チャン・ヘ
出演:リュ・ヒョンヒ 、 キム・パク 、 ジュ・グァンヒョン 、 ワン・トンフィ

Photo  「キムチを売る女」は中国の朝鮮族を主人公にした恐らく最初の映画である。その意味では「小さな中国のお針子」「天上の恋人」、「雲南の少女 ルオマの初恋」(興味深いことにこの3作はいずれも2002年製作である)、「ココシリ」などの系統に属する作品である。しかし、それほど民族色が強いわけではない。この映画の特色は極端に少ないせりふ、生活音以外の効果音を極力排し、カメラを固定し淡々と主人公の行動を映し出すスタイルである。感情表現を抑え、劇的な出来事も直接的には描かない。チャン・リュル監督がロベール・ブレッソンを意識していたというのも確かにうなずける乾いたタッチである。

 主な登場人物は4人。舞台となる寂れた町もどこなのか特定されていない。その町も荒涼として人気がない。ごく限られた人間関係しか描かれず、それも一切劇的な描き方をしない。キャメラはひたすらなめるように登場人物たちを映し出すが、感情移入を意図的に遮断するかのように終始突き放して冷徹な目で観察する。底冷えのする場面が続く。

 ヒロインのスンヒ(リュ・ヒョンヒ)が荷台付きの自転車にキムチをのせて売り歩く同じような場面を執拗に繰り返し描くあたりは、「いつか読書する日」「ウィスキー」を連想させる。人気のない土地、限られた範囲の閉じられた空間を舞台にしているところ、人間関係が希薄でセックスによってのみ男女が結びついている関係はキム・ギドクの作品を思わせる。

 このような作品なので、一見すると明確なテーマを持たないように思える。しかし、映画を観終えた後に確かな手ごたえのようなものが残るのは何故か。薄っぺらなアート・フィルムを観た時とは違う、何か重たい塊が心に残る。映画の中の何がそうさせるのか。マノエル・デ・オリヴェイラ監督の「家路」のような、何が起こるでもない日常の一コマを淡々と描き突然終わってしまう作品とはやはり違う。「キムチを売る女」にはもっと生活のざらついたものがある。「キムチを売る女」にはダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」に似た、絶望的な状況を乗り越えて生きようとする息吹が感じられる。ラストでスンヒが踏み出した青々とした草原は、イギリス映画「ボクと空と麦畑」のラストで描かれる黄金色の麦畑と重なる(もっとも、こちらはあまりに暗くて好きになれないが)。

 そう、「キムチを売る女」にはやはり明確なテーマがある。それは生きることそのものである。すべてが抑制された画面の中で、なおかつヒロインの生きようとする意欲が固い壁の割れ目からにじみ出てくる。「キムチを売る女」が基本的にどのような作品であるかを考察する際に、もっとも比較するにふさわしい作品は韓国映画の名作「銀馬将軍は来なかった」と社会の最底辺の女性をヒロインにした最初のイギリス小説『エスター・ウォーターズ』だろう。

 エスターはあるお屋敷で女中として働いていた時に、同じ屋敷に雇われている男の子供を妊娠してしまう。エスターは屋敷を追われ、女手一つで自分と息子を養わなければならなくなった。19世紀のイギリスで未婚の母であるということは、社会でもっとも弱い立場に置かれることを意味する。彼女は1日17時間の労働といった奴隷並の苛酷な労働に耐えた。非人間的な状況の中で彼女が生き抜けたのは、どんなことをしてでも、自分の身を削ってでも子供を育てるのだ、それまでは絶対に死ねないという固い決意があったからである。作者のジョージ・ムアは彼女の人生をこう表現している。「それはまことに壮烈な戦いだった。下層の者、私生児である者にむかって文明が結集させるすべての勢力を敵にまわして子供の命を守ろうとする母親の戦いだった。(中略)三か月職にあぶれてしまえば、自分もまた路上にさまよう身となるだろう。花売り、マッチ売り、それとも・・・。」

Tree  「それとも・・・」の後には言うまでもなく「娼婦」という言葉が続くはずだ。確かに一歩間違えばエスターはそこまで転落しかねなかった。彼女がもがき苦しみ、のた打ち回るようにして生きた世界とは、いつ貧困のどん底に突き落とされるか分からない世界、絶えず救貧院の陰が付きまとい、飢えと死の不安が付きまとっている世界である。最後には身を売るしかない世界なのだ。だからこの小説にはいやと言うほど金銭の額が出てくる。それもジェイン・オースティンの小説に出てくる何千、何万ポンドという額ではない。主にシリング(1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス)単位の額で、時にはほんの数ペンスしか手元に残っていなかったりする。エスターにとっての金は、ギリギリ生活してゆくための、自分と息子を生きながらえさせるための生活資金だったのである。

 『エスター・ウォーターズ』と「キムチを売る女」を比較してみると、多くの共通点があることが分かるだろう。エスターもスンヒも自分ひとりで子供を育てている(スンヒの夫は殺人を犯して服役しているらしいが、夫が罪を犯したのは貧しかったからである)。スンヒと息子のチャンホ(キム・パク)が住む2軒長屋の隣に娼婦たちが暮らしていることは実に象徴的である。スンヒはまさに娼婦たちと紙一重の生活をしていたのだ。

 娼婦たちとの共通点はタイトルにも暗示されている。原題の「芒種」とは「種まきの季節」を意味する。娼婦たちの1人が街角で芒種の広告を見て、自分もそろそろ田舎に帰って畑の手伝いをしたいとふと漏らす場面がある。この言葉は「僕たちいつ(前の家に)帰るの?」と母親に聞いたチャンホの言葉と重なるのだ。「芒種」という言葉は「帰郷」という意味を帯びてここでは使われている。娼婦たちもスンヒ親子も故郷に帰るに帰れない人々なのである。そしてそれはまた同時に、スンヒの帰る場所はどこかという疑問も投げかけている。

 具体的な金額が何度も出てくるという点も共通している。白菜キムチ7元。没収された荷台付き自転車を買い戻した金額80元。チャンホに買ってあげた鯉のぼりのような凧15元、等々。キムチの売り上げなど大した額ではない(しかも無許可営業である)。それでも必死で働いてきたから何とか最低限の生活を維持できていたのである。

 スンヒには3人の男たちが近寄ってくる。しかし皆下心を持っていた。同じ朝鮮族であるキム(ジュ・グァンヒョン)。彼には頭の上がらない女房がいた。スンヒはそのたまった不満の捌け口だったのだろう。教習所の食堂で働く男(彼も家族持ち)はキムチを仕入れてくれるようスンヒに頼む一方で「見返り」を求めてきた。警官のワン (ワン・トンフィ)は金持ちの娘らしい婚約者がいるが、愛情はさほど感じていないらしい。冒頭の場面で「いつもの奴」と言ってキムチを買っていったことから見て、だいぶ前からスンヒに気があったようだ。キムの女房がスンヒを娼婦だと訴えたために(暗示的だ)彼女は一時拘束されるが、その際同僚がいなくなった隙にワンは彼女をレイプしている。

 皮肉なことにスンヒとチャンホに心から親切に接してくれたのは隣に住む娼婦の1人だった。露天商の営業許可証を取ってくれた女性係官とも一時親しくなるが、朝鮮舞踏を教える場面が一度しか描かれないところから見ると、その後付き合いは長続きしなかったと考えるべきだろう。「テレビ以外で朝鮮族を見るのは初めてよ」と係官が言っているように、ちょっとした興味から朝鮮舞踏を教えて欲しいと言っただけだったのだろう。

Teien  それに比べると、娼婦の1人が野菜を洗っているスンヒの横にビールを持って座り、「スンヒさん、許可がもらえたのね。おめでとう。」と言う場面は心がこもっていた。この娼婦こそ田舎に帰って畑の手伝いをしたいと漏らした人物である。4人の中でも一番苦労している。やくざのような男に殴られたり、他の仲間が次々と客の車やバイクに乗って去ってゆくのに一人だけ売れ残ってしまう。一番美人で笑顔を絶やさないが、一番不幸なのだ。ついでに言えば、ビールで乾杯している2人を見て他の娼婦が言った言葉も印象的だ。「私たちの営業許可はいつもらえるんだろうね。」「バカ言わないで、もらえるわけないでしょ。こんな仕事になんか。」

 この娼婦はチャンホとも親しく言葉を交わしている。家の前の水道のところでキュウリを食べている彼女の横にチャンホがやってきて座る。互いにキュウリをかじっている二人の間には親密な空気が流れていた。その時チャンホが「なぜニワトリと呼ばれているの?」と質問する。彼女はそういうひどい扱いをされていたのである。「ニワトリは偉いのよ。オスは朝起こしてくれるし、メスは卵を産む。肉もおいしいわよ。あんたは鶏肉嫌い?」怒ることもなく、恥ずかしげにするでもなく彼女が答えた言葉は、この作品の中でも特に印象に残るせりふの一つである。(内心はどうあれ)非人間的な扱いをされながら、なおポジティヴに考えようとする彼女の姿勢に深い共感を覚えずにはいられない。

 「キムチを売る女」が「銀馬将軍は来なかった」と共通点を持つのはまさにこの点である。ヒロインのオルレは朝鮮戦争のさなか米軍兵士にレイプされ、汚れたといって村八分にされてしまう。食うに困ったオルレはついに米兵相手の娼婦に身を落とす。そんな彼女に優しくしてくれたのは2人の娼婦仲間だったのである。ここにも一人の息子を抱えて、逆境にもめげずたくましく生き抜いた母親がいた。「汚い女たちは出て行け」と力ずくで娼婦たちを村から追い出そうとする村の女たちに向かって、娼婦の一人が「お前たちの方こそ汚いじゃないか。この人(オルレ)が困っている時に助けの手を差し伸べたものが一人でもいたか」と言い返す場面は実に痛快だった。困っているオルレに救いの手を差し伸べたのが娼婦たちであったということは意味深長である。実はそれまではオルレに名前はなかった(もちろん比喩的な意味で)。ただ「マンシギのお母さん」としか呼ばれていなかったのだ。初めて彼女をオルレと名前で呼んだのは彼女たちだった。同じように、それまで一切名前が出てこなかったキムチ売りの女に「スンヒさん」と呼びかけたのも隣に住む上記の娼婦だったのである。

 「キムチを売る女」のスンヒは決して怒鳴ることもなく、涙を見せるシーンも描かれない。もっとも、「見返り」を求めてきた教習所の男には一発お見舞いしたようだが(そういう場面は徹底して観客に見せないので悲鳴が聞こえるだけである)。しかし、どんなに感情を表出する場面を画面から締め出しても、淡々とした無表情な画面の奥から孤独感や悲しみや喪失感が伝わってくる。この映画はそういう映画なのだ。演出の技法にばかり気をとられてこの点を見逃すべきではない。感情移入を求めるような場面を極力締め出しながら、客観描写を積み上げることで状況のみならず感情や感覚、言葉にならない思いを描こうと試みているのである。

 『エスター・ウォーターズ』のエスターにしろ、「銀馬将軍は来なかった」のオルレにしろ、「キムチを売る女」のスンヒにしろ、彼女たちを支えていたのは子供だった。自分はどうなっても子どもだけは何としても不幸な思いはさせたくない、その思いが彼女たちをたくましくした。しかし「キムチを売る女」はヒロインにさらなるむごい試練を与えた。事故で息子のチャンホを失ってしまうのである。同じ朝鮮族であるキムに裏切られたスンヒは、息子に覚えさせていたハングルの文字を書いた紙を破り捨ててしまう。隣の娼婦たちも警察に連行されてしまった。その上に心の支えだった息子まで奪われてしまう。スンヒは絶望の淵に立たされた。彼女の周りにはもう誰もいない。かくも絶望的状況だったからこそ、チャン・リュル監督はあえて感情の表出を避けて淡々と描いたのである。「亀も空を飛ぶ」のような作品にすることも可能だが、むしろ抑えに抑えてそれでも悲しみや喪失感やかすかな希望が立ち上ってくるような演出を選んだ。

 直接感情を描かずに行動を描くという演出なので、自暴自棄になったスンヒを描くために思い切った行動を彼女にさせている。ワンの結婚式に届けたキムチの中にスンヒは殺鼠剤を混入させたのだ。無表情で式場から出てくるスンヒとすれ違いに救急車が何台もすっ飛んでくる。心の中のささくれとざわめきを表現するように、式場の庭にある噴水が盛大に吹き上げる。

 無差別の復讐。韓国映画の「復讐者に憐れみを」「サマリア」が頭をよぎる。感情の噴出の仕方がどこか似ている(描き方は全く違うが)。もしここで映画が終わっていたならば、この作品に対する評価はもっと下がっていただろう。しかしこの後に印象的なエンディングが用意されていた。家を出て線路脇をすたすた歩くスンヒ。手はだらりと両脇にたらしたままだ。終始彼女はキャメラに背を向けている。列車が走ってくる。飛び込むのか?一瞬緊張が走る。しかし、線路の前でスンヒは立ち止まり、列車は走り去る。スンヒは線路を越え、その先の駅舎を通り抜け、広い緑の草原に歩み入る。エンドロール(文字はハングル)が流れる。音楽は流れず、足音だけがいつまでも響く。最後に汽笛が小さく遠くで鳴る。

 このエンディングは何を表しているのか。死か。この世に身の置き所をなくしたスンヒはどこへともなく消え去ってゆくのか。それとも歩み続ける決然とした足取りは何らかの生きる希望を表現しているのか。彼女はどこへ向うのか。曖昧な終わり方である。しかし曖昧な分このラストに希望を読み込む余地が残された。彼女は線路に飛び込まなかった。それを乗り越えて、彼女を閉じ込めていた世界から歩み出ようとした。

 最後のシーンでスンヒがスカートをはいていたことが暗示的だ。それまで彼女は自分の魅力を押し隠すようにいつも地味なパンツをはいていた。恐らく彼女は娼婦になろうと決意したのだ。だが、それは身を落とすことではない。彼女は既にどん底にいた。そうではなく、「銀馬将軍は来なかった」に登場する娼婦たちのようにたくましく生きる決意をしたのだ。銀馬将軍とは村に伝わる伝説の英雄で、昔村が敵に襲われたとき天から銀馬にまたがった将軍が舞い降りて敵を追い払ったという。しかし、オルレの場合もスンヒの場合も銀馬将軍は現われなかった。それでも2人は生き続けた。2人とも最後には銀馬将軍を必要としなくなっていたのだ。自分自身の力で生きる決意をしたのである。少なくとも、そう解釈することは可能だ。

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