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2008年3月2日 - 2008年3月8日

2008年3月 5日 (水)

見知らぬ女からの手紙

2004年 中国 2005年2月公開
評価:★★★★
原題:一个陌生女人的来信
原作:シュテファン・ツヴァイク著「未知の女からの手紙」(『女の二十四時間』所収)
監督・製作・脚本:シュー・ジンレイ
撮影:リー・ピンビン
美術:ツァオ・ジューピン
音楽:久保田修、リン・ハイ
出演:シュー・ジンレイ、ジャン・ウェン、リウ・イエ、ホワン・ジュエ

Ataiwan076_2  中国には珍しい大悲恋もの。2000年の「初恋のきた道」以降恋愛ものは増えてきたような気がする。「藍色愛情」、「小さな中国のお針子」、「春の惑い」(古典的名作「小城之春」のリメイク版)、「たまゆらの女」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」、「緑茶」、「ジャスミンの花開く」等々。韓国映画に比べればはるかに少ないが、「初恋のきた道」、「小さな中国のお針子」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」などは韓国映画でもこれに匹敵する作品は少ない。公開本数は韓国映画にはるかに及ばないが、作品の質はまだまだ中国映画の方が上である。

 「見知らぬ女からの手紙」は2004年の第17回東京国際映画祭に出品された作品。一応一部で劇場公開もされたようだが、ほとんど話題にもならなかったのではないか。それが今年になって突然DVDが出た。全くノーマークだった作品である。知人の勧めで観てみたが、確かによくできている。

 絵に書いたような悲恋もので、恐らく女性の方が男性より支持する人が多いだろう。特に序盤、ヒロインの少女時代が素晴らしい。20歳ほども年が違う男性に対する少女のほのかな憧れが切なくまたみずみずしく描かれている。少女が大人になって以降はやや設定に無理が感じられる。ストーリーの展開はリアリティと説得力に欠ける。しかしそれでも観終わった時に上質のロマンス映画を観たという印象が残るのは、大人のヒロインを演じたシュー・ジンレイが魅力的だからだ。実際、序盤を除く部分の魅力はほとんど彼女の魅力だといっても過言ではない。

 「スパイシー・ラブスープ」、「ウォ・アイ・ニー」に続いてシュー・ジンレイを観るのは3本目。「スパイシー・ラブスープ」は中国映画の新しい世代の到来を感じさせた秀作だったが、5話からなるオムニバスなのでシュー・ジンレイの活躍の場はそれほど多くなかった。「ウォ・アイ・ニー」はとんでもない怪作。夫婦喧嘩を延々見せられる壮絶な怒鳴り合い映画。観終わった後げんなりした。異様な迫力があったのは確かだが、さっぱりわけが分からん。シュー・ジンレイは美人だと思ったが、作品がこれじゃ記憶に残る映画ではない。一転して「見知らぬ女からの手紙」では一度も怒鳴ることはなく、彼女の可憐さと華麗さをたっぷり堪能できる。眼福の映画だ。監督としてはこれが2作目で、新人監督としては悪くない出来だ。「夢想照進現実」という3作目も2006年に完成させている(未公開)。

 相手役は何とジャン・ウェン。とてもこの美女が愛する男には見えないのが難点だが、彼は「緑茶」でもシュー・ジンレイと並ぶ「中国四大若手女優」の1人ヴィッキー・チャオの相手役を務めている。中国ではもてるタイプなのだろうか?まあ、いずれにせよ、ここでは新聞社に務めるプレイボーイの作家として登場する。ダンスホールなどに入り浸り、とっかえひっかえ美女をはべらせている。相手がこんな男では、そもそも恋の成就はおぼつかない。

 原作はシュテファン・ツヴァイクの短編小説。1948年の映画「忘れじの面影」はその最初の映画化作品である。ジョーン・フォンティーン、ルイ・ジュールダン主演、監督は恋愛映画の名手マックス・オフュルス。「輪舞 ラ・ロンド」(50年)、「たそがれの女心」(53年)、「歴史は女で作られる」(55年)などで知られる。

* * * * * * * * * * *

 映画は新聞社勤務の作家シイ(ジャン・ウェン)に突然見知らぬ女から手紙が舞い込むところから始まる。1948年の暮れ、舞台は北京。その長い手紙には一方的に彼を愛していた女性の心情が連綿と書かれていた。手紙の最初には昨日息子が亡くなった、もうあなたしかいないと書かれていた。さらにこう続く。「私の人生はずっとあなたのものでした。あなたは何も知らないまま。・・・あなたが手紙を受け取ったときは、私はもうこの世には存在しません。・・・一つだけお願いがあります。これから私が話すことを信じて欲しいのです。」

 非常に心惹かれる出だしである。これだけ彼女が愛していながら、相手がそれに全く気づかないとは一体どんな状況だったのか。なぜ彼女は死ななければならないのか。そこから彼女の手紙を再現する形で、過去から現在までの二人の関係が描かれてゆく。

 時代は一気に1930年までさかのぼる。北京のある四合院が舞台。四合院とは中国の伝統的家屋建築で、中庭を囲んで建物がロの字型に並んでいると考えればいいだろう。本来は全体で一つの世帯なのだが、何せ広いので何世帯かに分かれて居住していることも多いようだ。この映画の場合も共同住宅になっている。ヒロイン(リウ・イエ)はその一角に住む貧しい教師の妻の娘である。その別の一角が空き家になり、新しい借主として新聞社勤務の作家が入居することになった。「それがあなたでした。」

Ataiwan075   ヒロインの少女(後半で「ミス・ジアン」と呼ばれる場面が出てくるが、最後まで正確な名前は出てこない)は運び込まれてきた大量の荷物の中にたくさんの本があるのを見つける。多くは外国の本だった。家の中にほとんど何もない貧しい暮らしの少女には、運び込まれてきた荷物や書物が眩しく見えたことだろう。その時点で既に少女はどんな人物が引っ越してくるのか強い関心を持っていたに違いない。作家の男(ジャン・ウェン)は後からやってきたが、少女は門のところで男とたまたまぶつかってしまう。男は”Sorry”と英語で謝った。初めて見た男は裕福そうなインテリタイプだった。「その瞬間私はあなたに恋をした。・・・その瞬間から私の心の中にはあなたしかいなくなった。」そのとき少女は10代前半、男は30代か。15歳から20歳は年が離れていただろう。何が彼女の心をひきつけたのかは分からないが、恐らく(同じ四合院の中に住んではいるが)自分たちとは全く違う世界に住む異質な男に引かれたのだろう。

  しかし男の裕福さに引かれたわけではないようだ。彼女は手紙の中でそれを「何の見返りも求めない無償の愛」だと言っている。実際見返りを求めようもない。明らかに身分違いなのだ。年齢も違う。女とすら思われていない。だから少女の「愛」は一方的なものになった。いつも遠くから彼の姿をのぞいているだけだ。作家が仕事をしているのを見て、突然文字の学習に力を入れだして母親を驚かせたりする。手が届かないがゆえの純粋な想い。それは「愛」というよりは「憧れ」に近いものだったろう。

  少女は彼女なりに大胆な手段も用いた。下男が干していた布団をしまう手伝いをして、まんまと作家の家の中に入ってしまうのだ。少しでも彼に近づきたい、彼の生活をわずかでも覗いてみたい。初めて作家の部屋に入った彼女は彼の匂いをかいだ。「あなたのタバコのにおいがした。」少女は彼の本や家具や西洋の人形などに手を触れてみる。家の中の作り、家具などは明らかに少女の家と違う。恐らく彼が入った建物は「正房」と呼ばれる家長が住んでいた建物で、彼女が住んでいる建物は「廂房」と呼ばれる家長を除いた家族に充てられていた建物だったのだろう。同じ中庭を共有しながらも、彼の住んでいる建物の扉の中に一歩入るとそこは別世界だったのである。それまで見たこともないような外国語の本や贅沢な調度品。一つひとつ彼女は手で触れてみる。彼が触れたものに自分も触れてみる。ただそれだけのことが彼女には無上にうれしかった。「私の少女時代の最も幸せなひと時だった。」

  少女時代のクライマックスは別れの場面である。その日は突然訪れた。彼女の知らないところで彼女の縁談がまとまったのだ。相手はちょっとした財産もある男。山東でお嬢さんとして暮らせるよと母親はうれしそうに話す。しかし彼女にとってそれは死の宣告と同じだった。「もうあなたに会えない、そう思うと人生が終わったような気がした。」山東に発つ前の晩、いたたまれなくなった彼女は部屋を出て作家の家まで行く。ノッカーを軽く鳴らすが、誰も出てこない。彼女にできるのはただ待つことだけ。だいぶたってから作家が女の人と外に出てきた。少女は物陰で涙を流す。

 この序盤部分が素晴らしいのは報われない愛を描いていたからだ。見返りはなくとも一途に彼を思う切ない気持ちが素直に伝わってくる。詳しい説明などなくとも理解できる。彼女は男自身だけではなく、彼が身にまとっていた彼女とは異質な世界のきらびやかさに引かれていたのだろう。それまではくすんでいたであろう彼女の人生に彼は鮮やかな色を塗りこんだのである。

 彼女がつかの間享受した人生の輝きは山東へ引っ越すことで突然断ち切られてしまった。時間は一気に6年後に飛び、彼女のナレーションが入る。「大勢の人に囲まれた孤独ほど寂しいものはない。山東での6年間私は痛いほど孤独だった。考えるのはいつもあなたのことばかり。あなたを待ち続けた日々を繰り返し思い返していた。あの1年だけが少女時代のすべてだった。」彼女の人生から突然また色が失われてしまった。暗く鬱屈した日々。「あの1年だけが少女時代のすべてだった」というせりふが何とも痛切だ。20年近く生きてきて唯一輝いていた時期。男の姿を観ているだけで幸せを感じていた。そのささやかな幸せはもろくもしぼんでしまった。

 ここまでは素晴らしい出来だったと思う。ここまでで終わらせておけば見事に完結した短編映画になっただろう。しかし実際にはここまではまだ序盤であって、その後のシュー・ジンレイが大人になったヒロインとして登場してくる部分が大部分を占めている。これ以降は映画のトーンが変わってくる。画面にみなぎっていた少女の切ないまでの想いはシュー・ジンレイの大人の女としての魅力に切り替わって行く。残念ながらこの部分が序盤に比べると弱い。無理やりくっつけた後日談のようになっている。

Lamp3s  序盤部分が説得力を持っていたのは男が手の届かない存在だったからであり、ヒロインがまだ世間知らずの少女だったからである。しかし少女が大人になったとたんあっさりと男に手が届いてしまうのである。ヒロインは男への思いを断ち切ることができず、ついには北京女子師範に合格し大学生として北京に戻ってくる。生まれ育った四合院の近くに住んで、窓から道を通る作家を眺めている。スケート靴を履いた女性を連れた作家が彼女を追い越していったこともある。そのときもまた男は”Sorry”と言った。互いに人力車に乗って出くわした時に作家は彼女に興味を示した。このあたりでこの作家が女をとっかえひっかえしている節操のない男だということが分かってくる。奇妙なのは彼女がそれをなんら気に留めていないことだ。

  抗日デモに参加していた彼女が警官隊に襲われて逃げ惑っている時に、たまたま近くで取材していた作家に助けられる。無事難を逃れた2人は一緒に食事をした後、彼の家で抱き合う。彼女は「ずっと待ち望んできた瞬間がここに。とうとうこうしてあなたに抱かれている。これが私の夢。ついに現実となった。覚めても決して消えることのない夢」と語っているが、男にとっては彼の前を通り過ぎていった何人もの女の1人に過ぎなかった。女は自分が誰であるかを打ち明けようともしない。男は「どこかで会ってる?」と聞くが、なぜか女は否定する。それでいて女はうれしそうだ。

  この映画のドラマ的展開の基盤は序盤で描かれた少女の切ない想いにある。子どもたちが手を伸ばして月や星をつかもうとするように、手の届かない存在にひそかな憧れを持っていた少女。久しぶりに作家の家に入り、立派な装丁の本や外国の人形など、作家の家の中の懐かしいものに手を触れるときの彼女は本当にうれしそうだ。ここは印象的な場面だ。なぜなら少女時代と直接的につながっているからである。

  しかしこの幸せも長続きはしなかった。男が取材に行ってしまったからだ。「戻ったら連絡する」と言い残したが、2ヶ月たっても連絡はなかった。さらに8年後、彼女はまた男と出会う。彼女は高級娼婦として軍の将校に囲われていた。どんどん話は非現実的になってゆく。「奥様」と呼ばれ、毎日遊び暮らしている。いつの間にか作家と同じような場所に出入りし、共通の友人さえあった。作家と出会ったのはダンスホールである。この時も男は彼女のことを忘れている。しかしまた彼女に関心を示す。男がかけた言葉に「誰とでも付き合うの」と女は答え、再び彼女は作家と抱き合う。「プライドなんてどうでもいい。誘われれば応じる。あなたの魅力には逆らえない。10年たっても何一つ変わっていなかった。あなたに誘われればたとえ墓の中にいようと、よみがえってついて行く。」

  浮気者の作家にとって彼女はしばらく離れていれば忘れてしまう程度の存在だったのである(男がこれほど完全に女のことを忘れてしまうというのも不自然だが)。その程度の男なのだが、なぜか女は少女の頃と同じ気持ちで彼を見ているのだ。そこが理解しがたい。6年の月日は何も女の意識を変えなかったのか。少女の頃はいざ知らず、大人になっても男を見る目は成長していないのか。少女の頃の想いがまるで冷凍保存されたように変わらずに続いている。恋愛は理屈で割り切れないところもあるが、敢えて理屈をつければ、恐らく彼女は作家本人に対してではなく、無条件に彼にあこがれていた頃の自分にいつまでもあこがれていたのかも知れない。しかし、そう説明をつけたところでリアリティが感じられないことに変わりはない。

  監督・脚本のシュー・ジンレイとしてはそれほど彼女の想いは強かったのだと言いたいのだろう。しかし、それだけ強い想いを持っていながら女は男に結婚を迫るわけでもない。実は男が去った時彼女は妊娠していた。「私はあなたを永遠に自分のものにした。自分のお腹にあなたの命を宿し、その成長を見守ることができるのだ。そう思うととても幸せだった。あなたは私のものだ。」しかしそう言うわりには子供のことはほとんど描かれない(男が現われたとたん彼女の意識は子供から男に向いてしまう)。しかも子供がいることを男に伝えようともしない。「あなたの負担になりたくなかった。ただ私の存在に気づき、愛して欲しかった。他の女性たちとは一線を画したかった。でも、あなたは私に気づく事無く、私のことを忘れ去った。」相手の負担になりたくないと思う一方で、他の女たちよりも自分を愛して欲しいと願う。この矛盾した心理を理解する鍵は「何の見返りも求めない無償の愛」という前述の言葉だろう。しかし彼女は既に彼と体を交え子供すらもうけている。男に手が届きようのない少女の頃だったら「無償の愛」も理解できるが、その後の展開にはどうもしっくり来ないというのが正直な印象だ。

S_g_2  しかしこれだけ疑問だらけの展開であるにもかかわらずシュー・ジンレイが画面に出ているだけでそれなりに魅せてしまうのだからすごい。この点では確かに理屈を超えている。ただ、シュー・ジンレイがどんなに頑張っても少女時代の輝きを超えられなかった。それは監督としての彼女自身も分っていたのかも知れない。ラストでもう一度少女が出てくるのだ。最後にまた現在に戻り、手紙を読んでいる作家が映る。彼は家のドアを開けて、最初に女と出合った門のほうを見る。その門の隙間からこちらを覗いていたのは少女の顔だった。「男人的一夜 女人的一生」(男にとっては一夜の事でも、女は一生想い続ける)というサブタイトルは、せめて学生時代で物語が終わっていれば本当に胸に響いただろう。

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2008年3月 3日 (月)

不思議の町祢津

 今日は前回に引き続いて祢津(ねつ)探索に行くことにした。国道18号線から浅間サンラインに出て小諸方面に向う。新屋の信号で左折する予定だった。ところがその信号を見落としてしまった。あれ、こんな先だったかなと思い引き返そうかと思ったとき新家の信号が見えてきた。やれやれここだったかと安心して左折した。本来はここで気づくべきだった。実はサンラインには「新屋」と「新家」というよく似た名前の信号があったのだ。もう何十回となく走っているのに今まで気づかなかったなんて!

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 しかし、何が幸いするか分からないものだ。この勘違いが意外な発見に導いてくれた。山道を登りながらやはりここは違うと気づいて途中から引き返してきたのだが、そのときに信じられないものを見た。「あれ、今確かに人がいたよな。」いるはずのないところに人が見えたのだ。しかも、かがんでいるあの姿勢はひょっとして?あわてて道端の通行の邪魔にならないところに車を停めて、デジカメを持って飛び出した。坂道を少し戻ると左手にため池がある。帰宅後地図で確認したところ、どうやら天池という名前らしい。

 池は何と完全に凍結していた。氷の上に雪が積もって全体が真っ白に見える。その池の氷の上で人が釣りをしていた。この時期になるとよくテレビで見かける風景ではある。氷上のあちこちに小さなテントを設営して、氷に穴を開けて魚を釣る。ワカサギ釣りだ。それと同じ光景をこんなところで見かけようとは。釣っているのはワカサギだろうか?わざわざ放流したのか?いずれにせよ、こんな光景は初めて見た。そもそもいくら寒いといっても塩田辺りのため池では人が上に乗れるほど厚くは氷が張らないだろう。上田の標高は400メートルだが、この辺は500メートル以上あるかもしれない。

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 いやはや、怪我の功名とでも言おうか。道を間違えたおかげで面白い写真が撮れた。ほくほくしながら車に戻り、また道を引き返す。今度は間違いなく「新屋」で曲がった。坂を上ってゆくと左側に大きな案内地図があった。クマイチさんが言っていたのはこれだったか。看板の下を曲がって祢津公民館の駐車場に車を停めた。前回来たときにこの公民館の写真を撮っていたが、裏側から入ってきたので入り口にあるこの大看板には気づかなかった。それにしてもこの狭い地域に公民館が3つもあるなんて。やっぱり祢津は只者ではない。

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 さっそく地図に従って八間石を見に行く。根津小学校の近くにあるようだ。八間石とは長さがおよそ八間(15m)ある巨岩。昔所沢川で土石流が発生した時その勢いて500m下まで押し流されてきたのである。小学校を過ぎてさらに少し歩くと右側にそれらしき岩が見えてくる。所沢川に掛かる塩沢橋のところで右に入ると川のすぐそばに八間石があった。世界一の一枚岩、オーストラリアの「へそ」エアーズ・ロックに比べれば桁違いに小さいが、こんなものが上流から押し流されてきたのかと驚くには充分な大きさである。

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 また看板のところに引き返す。途中「巫女の墓」があるはずだが、見つからなかった。石碑は一つあったがどうも違うようだ。ところが後でよくその写真を見たら、その背景に大きな石碑がもう一つ写っていた。あるいはこれがそうだったのかもしれない。

 次に長命寺に行った。看板からまっすぐ坂を登った突き当たりだ。お寺の前に青と緑の中間のような色の帽子を被ったお地蔵さんがあった。よく見かける赤い帽子もかわいいがこの色もなかなかいい。お寺の横に六地蔵が並んで立っていた。これがまた何ともかわいい。こちらは黄色やら緑やらカラフルな帽子を被っていなさる。横にその由来が書いてあって分かりやすい。門の中には入らずに、横手を回って寺の裏手に出た。散歩道がついており、お姫尊と巨石があるらしい。道は左に続いているのでそのままゆけば西町の歌舞伎舞台(前回東町の歌舞伎舞台を撮ったので、今回はこちらを撮るのが主たる目的)の方に行くだろうと見当を付けて、散歩道に踏み込んだ。

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 最初はのぼりできつい。息が切れるころに天辺に出る。そこからは緩やかな下り。下り切ってやっと舗装道路に出たが、お姫尊と巨石がどこにあるのかわからなかった。途中から何も案内板がない。通り過ぎてしまったのか、この先にあるのか。舗装道路との合流点に「水神宮」と書かれた鳥居があるが、これもそれらしきお宮は見当たらない。舗装道路をさらに登ったところにあるのかも知れないが、そこまで行ってみる気はないので道を下った。

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 道々両側を見ながら歩いているといろんなものが見つかる。石を組んで作った窯の様なものがあった。炭焼き窯だろうか。上から煙が出ている。次に「宮ノ入のカヤ」と書かれた看板が目に入る。カヤ葺き屋根のカヤだが、不思議なことにそれらしき木が見当たらない。高さ35mもある「わが国でも有数の巨樹」と書いてあるが、看板の近くにあるのはせいぜい2m程度の木だけ。切ってしまって看板だけ残っているのか?それにしては切り株も見当たらない。う~ん、まさに不思議の町。誰も歩いていないので尋ねてみる事もできない。

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 その看板のすぐ下に実は「祢津氏居館跡」があったのだが、これも見落とした。もう少し坂を下ると歌舞伎舞台が見えてきた。読み通り、長命寺裏の散歩道は祢津建事神社の上に出るようになっていたわけだ。西町の歌舞伎舞台は東町のそれと形も大きさもほぼ同じだった。こちらも雨戸が閉まっているので中は見えない。脇の説明書きによると歌舞伎はごく近年まで村の人たちによって演じられたとある。例祭や秋の豊年祝など村人たちの生活と密着していたというのはすごい。豊かな町だったに違いない。実際、町中を歩き回ってみると、どっしりとした大きな岩などを配した立派な日本庭園を持った家が多い。

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 歌舞伎舞台と祢津建事神社の写真をふんだんに撮ってまた先へ行く。しかし面白い町だ。家がまばらなところは本当に田舎の風景だし、路地などはどこか懐かしさすら漂っている。古い建物や時には廃屋と思われる建物が随分たくさん残っているのだが、感じるのは貧しさではなく豊かさである。小さな祠や道祖神などが町のいたるところにある。板塀の前、庭の一角、面白いのは家の土台の石組みの中に組み込まれていた夫婦道祖神。こんなものは初めて見た。元々そうなっていたのか、家を建て替えるときに近くにあったものを石垣にはめ込んだのか。いずれにせよ、文字通り生活の中に歴史が違和感なく溶け込んでいる。その自然な佇まいが素晴らしい。

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 もう一つ、真田東部線沿いを歩いていたとき不思議なものを発見した。四角い土台の上に半球体が乗っている。球体の一部は縦に切れ込みが入っている。見たところ天文台だ。誰か天体観測が好きな人が、趣味が高じて自分で天文台を作ってしまったのか?

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 いや、参りました。本当に不思議がいっぱい。不思議の町祢津、またいつか来てみよう。東京の「谷根千」に感動した人はぜひこちらの祢津にも来てみるべきですね。

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<付記>
 別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」を作ってから、写真日記や旅行記は基本的にそちらに載せるようにしています。しかし今回は広く「祢津」を知ってほしいと思ったのでこちらのブログにも載せることにしました。
 別館ブログの方には今回の記事と対になる「祢津の山に異界を見る」という記事も載っています。どうかあわせてお読みになってください。また東京の根津を訪れた時の写真日記「谷根千そぞろ歩き」、「谷根千そぞろ歩き その2」も載せてあります。

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2008年3月 2日 (日)

「アース」を観てきました

2007年、ドイツ・イギリス、2008年1月公開
監督:アラステア・フォザーギル 、マーク・リンフィールド
評価:★★★★

 1日は映画の日。映画の日が土日と重なる機会は少ないので、逃してはならないと思って電気館で記録映画「アース」を観てきました。

Artiruka05200wa   「WATARIDORI」、「皇帝ペンギン」、「ディープ・ブルー」、そして「アース」。「ディープ・ブルー」から4年を経て、再びそのスタッフが「プラネットアース」というより広い視点から、さらに地球温暖化問題という視点を盛り込んで、新たなネイチャー・ドキュメンタリー映画を届けてくれた。前にも書いたが、僕はこの種のドキュメンタリーが好きだ。テレビの番組でも見かけたらまず最後まで観てしまう。「シルクロード」、「世界わが心の旅」、「世界遺産」などのシリーズ、あるいは動植物や昆虫などの生態を描いた番組。まだ見ぬ街やふだん身近に見ることのない生き物の世界に否応なく魅せられてしまう。中でも、イギリスBBC製作のドキュメンタリー番組はどれも質が高く必見である。映画も上記の他に、ジャック=イヴ・クストー監督の「沈黙の世界」(56年)を始め、「アトランティス」(91年、リュック・ベッソン監督)、「地球交響曲」(92年、龍村仁監督)、「地球交響曲第二番」(95年、龍村仁監督)、「不都合な真実」(06年、デイビス・グッゲンハイム監督)などのドキュメンタリーを観てきた。

 日常生活では決して見られない驚異の世界。遠い異国の街や深海や極地の氷の世界などに人が魅せられてしまうのは日常性からの脱出という願望があるからだろう。どんなに移動手段が発達しても日々の生活は一定の地域内に限定されている。それでも、異国の街は旅行に出かければ一応見ることは可能である。しかし、深海や高山や極地の世界は、月から見た地球の映像同様、一般の人には直接目にすることがまずできない世界だ。ほとんどの人にとって、そういった場所は記録映像でしか見ることができないのである。人を容易に寄せ付けないこれらの場所は映像関係の技術や機材の発達があって初めて記録できるようになった。だから人々は画面に引きつけられてしまうのだ。

 最近よくテレビで「驚異の映像」が流されるが、宇宙全体から見れば小さな点にしか過ぎない地球も、そこに住む小さな人間にとってはそれ自体が宇宙といってもいいくらい巨大である。誰もがそのごく一部しか見ていない。地球上にはまだまだ未知の世界、信じられないような光景がいくらでもあるのだ。げに、ドキュメンタリー映像を観ることは未知との遭遇なのである。しかし、「アース」はただ自然の驚異に目を瞠っていればいい映画ではない。映像に人間は一人も映っていない。だが常にその映像の背後に人間の活動が影を落としているのだ。「アース」はみて驚き、かつ考えさせられる映画なのである。

Photo  イギリスの映画史を見ると数多くの古典的ドキュメンタリー作品に出会う(去年有名な「エヴェレスト征服」がDVDになった)。その伝統は世界に名高いBBCのドキュメンタリー番組に脈々と受け継がれている。映像プロデューサー、自然誌学者、動物学者であるデヴィッド・アッテンボロー(俳優・監督として有名なリチャード・アッテンボローの弟である)に案内されて次々に展開される驚くべき映像を眺めた人も多いだろう。「アース」の監督アラステア・フォザーギルとマーク・リンフィールドは共にBBCで数多くの番組を作ってきた人たちである。BBCはJIS規格以上に信頼と安心の印。そのベテラン2人が最新の機器を駆使して撮ったのだから悪かろうはずはない。

 とにかく壮大な企画だ。北極から南極へと進む地球縦断の旅(何と奈良県吉野山の桜の開花も出てくる)。ノルウェーの北方に位置する島コン・カールス・ランドでホッキョクグマの親子を撮り(撮影クルーの立ち入りが許可されたのはこれが初めてだそうである)、同じくノルウェーのスヴァールバルでほとんど体重を支えられないほど薄くなった流氷上を進むホッキョクグマをヘリで空撮し、カナダのノースウェスト・テリトリーではオオカミたちがカリブーの群れに襲い掛かる一部始終を撮り、ボツワナのチョベ国立公園でライオンの群れによるゾウ狩りを撮った(超高感度カメラによる夜間撮影が驚くほど鮮明だ)。

 記憶に残る印象的な場面がたくさんある。冬眠から覚め穴の外に出てきたホッキョクグマの小熊たちがおっかなびっくりで雪の急斜面を降りたり登ったりするかわいいしぐさ、流氷が余りに薄くて何度も足が氷を突き破ってしまい、最後には流氷の間を泳いで行くホッキョクグマのオス。画面の端から端まで広がるタイガの針葉樹林、世界一の高峰ヒマラヤを命がけで越えてゆく渡り鳥(アネハヅル)たちの姿、巨大な象に襲いかかるライオンの群れ、水を求めて乾いた大地を延々と移動する象たちの過酷な旅(「皇帝ペンギン」を連想させられる)、群れからはぐれた象の親子を襲う猛烈な砂嵐、オットセイを口にくわえて水面を高々とジャンプする巨大なホオジロザメ、大洋を悠々と泳ぎ回るザトウクジラの親子。チーターに追われ必死で逃げるガゼルの子どもの映像には思わず「走れ!逃げろ!」と心中で叫んでいた。初めて見る鳥も出てくる。パプアニューギニアの熱帯雨林に住むカタカケフウチョウの求愛行動は実にユニークだ。羽飾りをぱっと広げると鏡餅に目と口を描いたようなユーモラスな形に早や変わりする。

 おやおや、ほとんど全部挙げているではないか。まあ、映画館の大画面で観る映像は見慣れた光景でも大迫力の魅力ある映像に変えてしまう。人間を除く様々な生き物が登場するが、主役はやはり地球だ。必死で生きる生き物たちを観ていると、生き物たちばかりではなく地球自体が生きていると感じてくる。雪を割って芽が出てきて、木々に緑の葉がつき、花が咲き、花と葉が散り、色とりどりだった山がやがて茶色に変わり、雪に覆われてゆく。四季の移り変わりを一気に早回しで観ると、生きている地球の息遣いが聞こえてきそうだ。

 冒頭に出てくるナレーション(英語版はパトリック・スチュワート、日本語版は渡辺謙)が印象的だ。地球の地軸が傾いているからこそ地球には四季のうつろい、寒暖の差、そして生命が生み出されることになったのだと。地軸が傾いているから、生命が生息するための完ぺきな条件がそろったのだ。しかしその絶妙のバランスを人間の活動が壊しかけている。地球温暖化が深刻度を増している。北極の氷が融け始め、氷の上ではなく海を泳いで獲物を探すホッキョクグマ。下手すると溺れてしまう。やっとセイウチの群れを見つけたときには体重が半分に減っていた。やせ細り空腹状態で倒せる相手ではない。最後の力を振り絞って襲い掛かるも、振り切られる。力尽きセイウチの群れの間に倒れこむホッキョクグマの姿に、壊れゆく地球の姿が象徴されている。温暖化で氷が融けてゆく。水の惑星地球が水に溺れようとしている。46億歳の地球が病み衰えようとしている。「まだ遅くない」、最後のメッセージが重くのしかかってくる。

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先月観た映画(08年2月)

「トランシルヴァニア」(06、トニー・ガトリフ監督、フランス)★★★★☆
「ヘンダーソン夫人の贈り物」(05、スティーヴン・フリアーズ監督、英)★★★★☆
「わが町」(56、川島雄三監督、日本)★★★★
「黒い十人の女」(61、市川崑監督、日本)★★★★
「見知らぬ女からの手紙」(04、シュー・ジンレイ監督、中国)★★★★
「キサラギ」(07、佐藤祐市監督、日本)★★★★
「街のあかり」(06、アキ・カウリスマキ監督)★★★★
「イカとクジラ」(05、ノア・ボーンバッハ監督、アメリカ)★★★★
「トランスフォーマー」(07、マイケル・ベイ監督、アメリカ)★★★☆
「オーシャンズ13」(07、スティーブン・ソダーバーグ監督、米)★★★

 先月観た映画は10本。中ではやはりレビューを書いた「トランシルヴァニア」と「ヘンダーソン夫人の贈り物」が特に良かった。

3p025_2  もう1本レビューを今準備中なのは中国映画「見知らぬ女からの手紙」。2004年の東京国際映画祭で上映され、一部で公開されたがほとんど話題にはならなかったと思う。しかし、これは中国映画では珍しい悲恋もの。シュテファン・ツヴァイク原作の短編「未知の女からの手紙」の2度目の映画化。最初の映画化は有名なマックス・オフュルス監督の「忘れじの面影」。主演と監督を兼ねたシュー・ジンレイの魅力満載。後半の展開にはやや疑問があるが、前半の少女時代の描き方は秀逸だった。

 市川崑監督の訃報を聞いてレンタル店で借りてきたのが「黒い十人の女」。有名な作品だけあって見応えたっぷり。山本富士子、岸恵子、岸田今日子は凄みがあった。中村玉緒が丸ぽちゃの顔だったのが可笑しい。宮城まり子がなんとなく不気味な役柄。船越英二は情けない男の役。男はだらしがなく、女は強いという図式。「浮雲」や「夫婦善哉」、あるいは最近のスペイン映画「ボルベール」などの図式と同じだ。いつの時代も強い男と弱い女という図式とその逆の図式は常に裏腹の関係として存在していたようだ。

 川島雄三監督の「わが町」は「無法松の一生」のようなタイプの作品。これが滅法面白かった。青年から老年までを1人で演じた辰巳柳太郎が驚くほどうまい。舞台で鍛えただけあってすごい役者だ。しかしこれだけの作品が『キネマ旬報』ベストテンで1点も入らなかったとは。それほど当時の日本映画が充実していたということか。

 話題の「キサラギ」は短い映画だが、息をもつかせぬどんでん返しの連続。次々に意外な事実が判明してゆく展開が見事。実に考え抜かれた脚本で、その点では「運命じゃない人」と同じタイプの映画だ。ただ、最後に如月ミキの生前の映像を流したのはいただけない。所詮はオタクの映画なのねという印象が残ってしまった。作品としては「運命じゃない人」の方が魅力的だ(こちらは美女も出てくるしね)。

 久々のアキ・カウリスマキ作品「街のあかり」は「過去のない男」に比べて不満が残った。あそこまでいたぶられてほとんど救いがないんじゃねえ。それにしても、弱き者、不運な者に対するこの人の視線は本当に独特だ。そこには温かみもあるが、まるで昆虫観察のような突き放した冷徹なところもある。とことん個人に執着して社会的広がりを描こうとはしない。人間関係は描かれるが即物的な描き方だ。その辺が評価の分かれるところだろう。

 「イカとクジラ」は「リトル・ミス・サンシャイン」と似た感じの映画だが、家族は最後まで崩壊したままだ。その意味で「街のあかり」に近い「現実味」がある。夫婦それぞれのいやらしい部分をこれでもかとばかり抉り出してゆく。ただ全体にコメディ調のトーンが被せられているので気が滅入るような後味の悪さはない。良くも悪くもアメリカの実像の一面をあぶりだした映画だろう。

 「トランスフォーマー」はそこそこ楽しめた。CGを駆使したとことんお遊びの世界。手塚が描いた人間の心を持ったロボットなどというヒューマンな味わいはない。まあ、それはそれとして楽しめばいい。「オーシャンズ13」はスタイリッシュな切れのいい演出といえば聞こえはいいが、味わいの薄い映画だった。これだけ有名俳優を多数起用しながら、なんら人間的ドラマが描かれない。

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