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2008年4月

2008年4月28日 (月)

エディット・ピアフ 愛の讃歌

2007年 フランス・チェコ・イギリス 2007年9月公開
評価:★★★★☆
監督:オリヴィエ・ダアン
制作:アラン・ゴールドマン
脚本:オリヴィエ・アダン、イザベル・ソベルマン
撮影:永田鉄男
衣装デザイン:マリット・アレン
編集:リシャール・マリジ
音楽:クリストファー・ガニング
出演:マリオン・コティヤール、ジェラール・ドパルデュー、シルヴィー・テステュー
    パスカル・グレゴリー、エマニュエル・セニエ、クロチルド・クロー
   ジャン=ピエール・マルタンス、マルク・バルベ、カトリーヌ・アレグレ
   ジャン=ポール・ルーヴ、マノン・シュヴァリエ、カロリーヌ・シロル

Akari1  僕は映画を観ている間は内容の理解に関心を向けているので、劇中で使われている音楽に注意を向けることは滅多にない。5、6千枚のCDを持っているのにサントラ盤が1桁程度しかないのは恐らくそのためだ。持っているサントラ盤で今ぱっと思いつくのは「嫌われ松子の一生」、「僕のスウィング」、「ドリームガールズ」、そしてコンピレーション盤が1枚くらい。曲単位で鮮烈に印象に残っているのは(最近のものにしぼって言えば)「ロード・オブ・ウォー」で使われたジェフ・バックリィの「ハレルヤ」、「やさしくキスをして」で使われたビリー・ホリデイの「奇妙な果実」、そして「靴に恋して」と「モディリアーニ 真実の愛」で使われた「バラ色の人生」である。

 エディット・ピアフ(1915-1963)。彼女のことを知らなくても「愛の讃歌」と「バラ色の人生」を知らない人はいないだろう。2曲とも発表後半世紀以上たった今聴いても全く色あせない名曲である。「愛の讃歌」が日本では一番有名だが、僕が一番すきなのは「バラ色の人生」だ。何度聞いても感動してしまう。シャルル・トレネの「ラ・メール」、イヴ・モンタンの「枯葉」、シャルル・アズナブールの「ラ・ボエーム」、「想い出の瞳」、「帰り来ぬ青春」、「遠い想い出」、コラ・ヴォケールの「さくらんぼの実る頃」、ジルベール・ベコーの「そして今は」、エンリコ・マシアスの「恋心」などと並んで、ピアフの「愛の讃歌」と「バラ色の人生」はシャンソンの名曲として僕の心の中に刻みつけられている。

 歌手にはいろいろなタイプがあり、声が一番の魅力である歌手もいるが、およそ美声からは程遠い人もいる。ロック界でいえば、例えば、ニール・ヤング。およそまともな歌手になれそうもない特異な声だが、60年代半ばの「バッファロー・スプリングフィールド」から「CSN&Y」を経て、いまだに第1線で活躍しているのは驚異的だ。衰えを知らず、90年代以降のアルバムはほとんどすべてが傑作と言っていい。あるいはルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」はどうだ。数え切れないほどの美声歌手や歌のうまい歌手がカバーしたが、あの独特のだみ声で歌ったルイ・アームストロングの歌を超えるものが一つでもあっただろうか?だみ声といえばトム・ウェイツの歌も味わい深い。もっとも彼の場合は歌手としてよりも作曲家としての才能の方が上だと思うが。

 ピアフも決して美声ではない。小さな体から声を搾り出すようにして歌う。彼女の代表曲はピアフのことを何も知らずに聴いても素晴らしいが、彼女の凄絶な人生と重ね合わせて聞いた時その感動はさらに深まる。「エディット・ピアフ 愛の讃歌」で歌われるピアフの曲がどれも輝いているのは、それらの曲がどれも彼女の人生のドラマと重ね合わされているからだ。ラストのオランピア劇場で歌われる「水に流して(私は後悔しない)」の感動は、単にCDで聞いただけでは決して得られないほど深い。これほど歌に人生がにじみ出ている歌手は他にそうはいない。

* * * * * * * * * *

Fs5  「エディット・ピアフ 愛の讃歌」は晩年のピアフが公演中に倒れるシーンから始まる。そのすぐ後に時代は一気に1918年に飛ぶ。しばらくピアフの少女時代を映したかと思うと、またすぐ1959年のニューヨークに飛ぶ。口紅を塗っている大人のピアフ。背後の壁にはビリー・ホリデイのポスターが貼ってある(この二人の大歌手は奇しくも同年生まれである)。このように時代がせわしないほど交錯する。そのために映画が分かりにくくなっているという指摘は少なくない。もっとじっくりと彼女の人生を映し出して欲しかった。そう感じた人も多いだろう。僕自身もカットバックを多用しすぎだと感じている。しかし、そう感じる人たちも含めて、この映画は観る価値のある映画だと認めている。逆から考えてみるといい。頭の中が混乱するほど彼女の人生をバラバラに組み替えても、波乱に富んだピアフの人生が、歌うことの喜びと苦渋に満ちた悲しみが、なおかつ強烈に観客に伝わってくるのだと。それほど彼女の人生は壮絶だったのだ。時間の切り方がどうの、演出の仕方がどうの、マリオン・コティヤールのなりきりぶりがどうのと言う前に、この映画の根源的魅力・説得力はピアフが歩んだ人生そのものの壮絶さにあることをまず確認しておく必用がある。彼女の人生のすさまじさが観客を圧倒するのだ。

 そこに描かれたのは大文字の「人生」ではない。すなわち、「あなたにとって人生とは?」と聞かれたときの抽象的な「人生」ではなく、パリの裏路地の壁の汚れやしみ、街の雑踏や街に立ち込める臭い、その中でうらぶれた歌を歌う母親(クロチルド・クロー)の姿であり、それを気にも留めずに行過ぎる人々の姿であり、母の近くでうずくまるように座っていたときの寂しさと空腹感である。あるいは、娼婦たちが笑いさざめき泣き叫ぶ娼館での生活であり、彼女たちの肌のぬくもりであり、実母以上に愛情を込めてピアフを見守っていたティティーヌ(エマニュエル・セニエ)との身を引き裂かれるような悲しい別れであり、その記憶が伴う痛みである。あるいは、初めて舞台に立つピアフ(マリオン・コティヤール)を押しつぶしそうになった不安と重圧であり、その舞台で味わった歓喜と解放感、肌で感じた聴衆の熱い反応であり、マルセル(ジャン=ピエール・マルタンス)と共に過ごした幸せな時間とその突然の終結がもたらした胸がつぶれるような悲しみと絶望感であり、生涯の友となったマレーネ・ディートリッヒ(カロリーヌ・シロヌ)にかけられた温かい言葉に小娘のように感動したことである。抽象的な人生ではなく、紛れもなくピアフが体験した一つひとつの出来事が具体的に再現されているからこそ感動的なのだ。

 ドイツ占領時代の活躍やイヴ・モンタンらとの多彩な恋愛が描かれていないことに不満を感じるよりも、むしろ140分かけてもなお描き尽せなかったピアフの人生の豊かさにこそ思いを馳せるべきだ。頂点もどん底も味わった。いつまでも癒えぬ心の傷とそれを紛らすために過剰に摂取したモルヒネや麻薬やアルコールで身も心もボロボロになった晩年の姿。最後まで何かを求め続けてのた打ち回るようにして生きてきた人生。彼女の人生は大事なものを次々に失う人生だった。どんなに名声を得ても、その心の空隙を埋められなかった。それでも歌うことをやめず、最後の最後に本当に求めていた歌と出会い、病み衰え老婆のように老け込んだ体を押して舞台に立った。

Photo  映画はその舞台に立つピアフを何度も映し出すが、舞台の上で実際に曲を歌うシーンはラストで「水に流して(私は後悔しない)」を歌うシーンだけである。ここにこの映画のはっきりとした演出意図が表れている。恋愛のエピソードをマルセル1人にしぼったように、歌も「愛の讃歌」や「バラ色の人生」を軽く流し、あえてラストの「水に流して」をクライマックスにしたのである。この映画が焦点を当てているのはピアフの絶頂期ではなく、人生の最晩年である。ピアフ自身が「これこそ私が待ち望んでいた曲よ、私の曲よ。私の人生そのものだわ」と呼んだ「水に流して(私は後悔しない)」を引っさげてオランピア劇場に出演したピアフにスポットライトを当てたのだ。「もし人生をもう一度やり直すとしたら」とインタビューで聞かれたピアフは「同じ人生を歩む」と答えた。“いいえ、私は何も後悔していない。私は代償を払った。清算した。忘れた。過去なんてどうでもいい。私はまたゼロから出発する”と歌ったピアフ最後の大ヒット曲「水に流して(私は後悔しない)」こそ、彼女の人生を締めくくるにふさわしい歌だった。満足に立つことも出来ないほどボロボロになっても“私は何も後悔していない”と見事に歌い上げてショーを成功させたところにピアフの真髄がある。映画はそう描いている。

 伝記映画であるにもかかわらず、時系列順にエピソードを並べなかったのは晩年のピアフの視点から過去を振り返っているからである。ラスト近くで死を迎えつつあるピアフの姿が映される。カットバックが多用されるのは死の床に横たわるピアフが過去を思い出すという設定になっているからだろう。しかしその過去は順風満帆からはおよそほど遠いものだった。舞台の大喝采は長く続かない。次々に不幸が彼女を襲う。40代にして老婆のようになり、髪はチリチリで前かがみでよたよた歩くピアフの姿が容赦なく映し出される。

 「昔のことを思い出そうとしても思い出せないの。」最後にピアフの記憶に残った思い出は少女時代だった。パリの路地裏に立ち、売春宿で育った記憶。薄汚いパリの裏路地を這いずり回るようにして生きていた子供時代。最後に去来するのはその思い出だ。1918年当時のパリの路地裏を再現した美術は本当に見事だった。この点は強調しておくべきである。あの薄汚れた路地裏。しみだらけの壁。人々のみすぼらしい服装。ロマン・ポランスキーの「オリバー・ツイスト」で再現された19世紀のロンドンも見事だったが、あれでもまだきれい過ぎた。20世紀初頭の下層社会を視覚的にこれほどリアルに描いた例を他に知らない。

 少女時代の不幸な生い立ちがピアフに一生付きまとった。満足に食事も取れなかっただろう。慢性的な栄養不足で虚弱体質に育ってしまった。身長142cmという、日本人から見ても小柄な体だったのは明らかに栄養不足のせいである。角膜炎を患い危うく失明しそうになったのも不十分な食事のせいだろう。幸い角膜炎は治ったが、ピアフは「聖テレーズ、目を見えるようにして下さい」と一生懸命に祈ったおかげだと信じる。それ以後、ピアフは聖テレーズの十字架を決して手放さなかった。舞台に立つ前には必ず十字を切ったという。

 しかし少女時代は決して不幸のどん底ではなかった。母親のアネッタが娘を置いてどこかへ行ってしまったために、エディットは父ルイ(ジャン=ポール・ルーヴ)の実母の営む娼館へ預けられる。ここでの生活はエディットの人格形成に大きな影響を与えたに違いない。母を失ったエディットはここで実母以上に母親らしい娼婦たちと出会ったのである。様々な事情の果てに娼婦にまで身を落とした女たち。しかし彼女たちは決して自堕落でも無慈悲な女たちでもなかった。「銀馬将軍は来なかった」や「キムチを売る女」で描かれた娼婦たちが決して絵空事ではなかったことがこの娼館でのエピソードで分かる。幼いエディットは彼女たちに優しさと悲しさを、社会の残酷さを、そして何よりも社会の最底辺に突き落とされながら必死で生きようとするたくましさを見たのである。パリの路地裏での生活とノルマンディーの娼館での生活、これらの経験がどれほどピアフの人生と彼女の歌に大きな影響を与えたことか。これらの経験があったからこそピアフはピアフになったのである。最後の最後までピアフは「路地裏の歌手」という言葉が似合う歌手だった。

Ht1  決して居心地がいいばかりではなかったはずの娼館から父親に連れ去られるシーンがなぜあれほど悲痛なのか。単に慣れ親しんだ人たちから引き離されるのが辛かったというだけでは充分な説明にならない。一番辛かったのはティティーヌとの別れだったに違いない。ティティーヌにしても実の娘を奪い取られる思いだったろう。ティティーヌとの別れが悲痛なのは唯一手元にあった愛情をもぎ取られてしまうからである。ピアフの歌のテーマはほとんど常に愛であった。愛こそ両親の愛を充分得られなかった幼い時から彼女が常に求め続けていたものなのである。歌、愛、人生、この三つは常にピアフの中で一体だった。そしてピアフにとっての愛は常にその愛を無残に奪われる悲しみと背中合わせだったのだ。

  この映画はピアフの名曲をたっぷりと味わう映画ではない。ピアフの人生のエピソードを網羅的に紹介する映画でもない。ピアフという歌手と彼女の歌がどのように生まれ、彼女の歌にどのような思いが込められていたかを描く映画である。そこにアメリカ映画との決定的な違いがある。アメリカ映画なら「愛の讃歌」や「バラ色の人生」を何度も流しただろう。クライマックスにこの2曲を舞台で歌うシーンをもってきて、さらにこの歌が生まれるきっかけとなった恋愛をたっぷりと描いただろう。

 しかしこの映画はとことんその逆を行く。たとえばミュージック・ホールでの初舞台のシーン。不安のあまりエディットは部屋に閉じこもる。ようやく説得されて舞台に上がり、歌い始める。そこからはわざと歌声を消している。代わりにBGMを流す。その初舞台が成功だったことは、次第に自信に満ちた表情に変わってゆくピアフと歌に反応し始める観客の映像に語らせている。最後の拍手だけ実際の音が入る。

  「バラ色の人生」はマルセルをピアフが恋する女の目で見つめ、「一生の男だわ」とつぶやく後に流れてくる。しかしピアフはすぐ歌い終わりテーブルについてしまう。そのすぐ後にマレーネ・ディートリッヒと初めて出会う印象的な場面が続く(大スターの出現にピアフはすっかり上がってしまい、立ち上がるときイスを引っ掛ける)。あの名曲があっさり使われている。「愛の讃歌」はマルセルの死を聞いてピアフが泣き叫ぶ後に流れる。半狂乱になって部屋を飛び出すとそこはステージだったという劇的な展開になってはいるが、曲そのものはBGMのような扱いですぐ途切れてしまう。こういう演出はドラマチックな盛り上げを得意とするアメリカ映画にはまず出来ない。実にフランス映画らしいひねった作りだ。

  恋に傷つきながら、恋なしでは生きられないピアフ。恋こそが彼女と彼女の歌の源泉だった。イヴ・モンタンとの恋が「ラヴィアン・ローズ」を生み、プロ・ボクシングの世界チャンピオンだったマルセル・セルダンとの恋が「愛の讃歌」を生んだ。ピアフの人生は決してバラ色一色ではなかった。しかしそれでも彼女は生まれ変わってもまた同じ人生を生きたいと断言できた。苦しみや悲しみなしに彼女の歌は生まれなかった。ステージの上で咲いた華麗なバラ。しかし地面の下にはいくつもの悲しみと絶望感と孤独感が埋まっている。それも含めて彼女の人生だった。

  ピアフに扮したマリオン・コティヤールの演技が素晴らしかった。「ビッグ・フィッシュ」や「ロング・エンゲージメント」にも出ていたらしいが、全く記憶に残っていない。この映画は彼女を語る上で欠かすことのできない作品になるだろう。最後にラスト近くで描かれる若い女性記者とピアフのインタビューを引用して終わろう。
  「女性へのアドバイスをいただけますか?」
  「愛しなさい。」
  「若い人へ。」
  「愛しなさい」
  「子供には?」
  「愛しなさい。」

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2008年4月21日 (月)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(08年5月)

【新作映画】
4月19日公開
 「ラフマニノフ ある愛の調べ」(パーヴェル・ルンギン監督、ロシア)
 「チェスト!」(雑賀俊郎監督、日本)
4月26日公開
 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(ポール・トーマス・アンダーソン監督、米)
 「アイム・ノット・ゼア」(トッド・ヘインズ監督、米・独)
 「モンテーニュ通りのカフェ」(ダニエル・トンプソン監督、フランス)
 「愛おしき隣人」(ロイ・アンダーソン監督、スウェーデン・他)
 「さよなら。いつかわかること」(ジェームズ・C・ストラウス監督、米)
 「砂時計」(佐藤信介監督、日本)
 「あの空をおぼえてる」(富樫森監督、日本)
 「パーク アンド ラブホテル」(熊坂出監督、日本)
5月1日公開
 「相棒~劇場版」(和泉聖治監督、日本)
5月10日公開
 「最高の人生の見つけ方」(ロブ・ライナー監督、アメリカ)
 「ハンティング・パーティ」(リチャード・シェパード監督、米・他)
 「ミスト」(フランク・ダボラン監督、アメリカ)
 「光州5・18」(キム・ジフン監督、韓国)
5月17日
 「マンデラの名もなき看守」(ビレ・アウグスト監督、独・仏・南ア・他)
 「オーケストラの向こう側」(ダニエル・アンカー監督、アメリカ)

【新作DVD】
4月23日
 「厨房で逢いましょう」(ミヒャエル・ホーフマン監督、独・スイス)
 「ボビーZ」(ジョン・ハーツフェルド監督、米・独)
 「ナルコ!」(ジル・ルルーシュ監督、フランス)
 「北極のナヌー」(アダム・ラベッチ、他監督、アメリカ)
 「転々」(三木聡監督、日本)
4月25日
 「ディスタービア」(D.J.カルーソ監督、アメリカ)
 「レディ・チャタレー」(パスカル・フェラン監督、ベルギー・仏・英)
 「2days トゥー・デイズ」(ジョン・ハツフェルド監督、アメリカ)
 「バンディダス」(ヨアヒム・ローニング、他監督、メキシコ・米・仏)
 「モン族の少女パオの物語」(ゴー・クアン・ハーイ監督、ベトナム)
 「モンゴリアン・ピンポン」(ニン・ハオ監督、中国)
 「アクターズ・スタジオ ジョニー・デップ」
 「風のダドゥ~いのちのひびき」(中田新一監督、日本)
4月26日
 「水没の前に」(リ・イーファン監督、中国)
5月8日
 「ヴィーナス」(ロジャー・ミッチェル監督、イギリス)
5月15日
 「グッド・シェパード」(ロバート・デ・ニーロ監督、アメリカ)
5月21日
 「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(山崎貴監督、日本)
 「僕のビアノコンチェルト」(フレディ・M・ムーラー監督、スイス)
5月23日
 「ONCE ダブリンの街角で」(ジョン・カーニー監督、アイルランド)
 「チャプター27」(J.P.シェファー監督、米・加)
 「俺たちフィギュアスケーター」(ウィル・スペック、他監督、米)
5月30日
 「題名のない子守唄」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督、伊・仏)
6月4日
 「ユゴ 大統領有故」(イム・サンス監督、韓国)
6月6日
 「サラエボの花」(セスミラ・ジュバニッチ監督、ボスニア・ヘルツェゴビナ)
 「4分間のピアニスト」(クリス・クラウス監督、ドイツ)
6月11日
 「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」(ティム・バートン監督、米)
6月13日
 「迷子の警察音楽隊」(エラン・コリリン監督、イスラエル・仏・米)

【旧作DVD】
4月25日
 「地の果てを行く」(35、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、フランス)
 「清水宏監督作品 第一集 山あいの風景」
   収録作品:「有りがとうさん」、「按摩と女」、「簪」
4月26日
 「わが故郷の歌」(02、バフマン・ゴバディ監督、イラン)
 「風が踊る」(81、ホウ・シャオシェン監督、台湾)
 「ステキな彼女」(80、ホウ・シャオシェン監督、台湾)
 「タブウ」(31、F.W.ムルナウ監督、アメリカ)
 「タンゴ ガルデルの亡命」(85、フェルナンド・E・ソラナス監督、アルゼンチン)
4月30日
 「シシリーの黒い霧」(62、フランチェスコ・ロージ監督、イタリア)
5月23日
 「カメレオンマン」(83、ウディ・アレン監督、アメリカ)
6月11日
 「ハムレット」(96、ケネス・ブラナー監督、英・米)
 「リオ・ブラボー」(59、ハワード・ホークス監督、アメリカ)
6月12日
 「ジェームズ・スチュワート ウエスタン・コレクション」
   収録作品:「砂塵」、「ウィンチェスター銃73」、「怒りの河」、「遠い国」他、全7作

 先月の貧弱ぶりから一転、この充実ぶりはどうだ。あれは嵐の前の静けさだったのか。劇場新作では「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」、「モンテーニュ通りのカフェ」、「最高の人生の見つけ方」、「マンデラの名もなき看守」あたりに期待。

Glass1  新作DVDの充実ぶりがすごい。第9回Golden Tomato AwardsのLimited Release部門で1位にランクされた「ONCE ダブリンの街角で」がついに出る。6月になるが「迷子の警察音楽隊」も早く観たい。話題のシリーズ第2作「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は1作目よりも出来がいいと思った。「グッド・シェパード」、「ヴィーナス」、「厨房で逢いましょう」、「ディスタービア」、「モン族の少女パオの物語」、「モンゴリアン・ピンポン」、「サラエボの花」、「ユゴ 大統領有故」あたりに期待。「レディ・チャタレー」は93年のケン・ラッセル版を超えられたのか?

 なんといってもうれしいのは旧作DVD。ついにフランチェスコ・ロージ作品が出る!「シシリーの黒い霧」。一貫してマフィアを批判してきた監督の初期の代表作。「都会を動かす手」と「黒い砂漠」もぜひ出して欲しい。マフィアものではないが2大傑作「エボリ」と「真実の瞬間」は何としてもDVD化を。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「地の果てを行く」もうれしい。あの凄絶なラストシーン(たった一人の生き残り兵を前に点呼を取る、「はい」は1回だけ、後は「戦死であります」が延々と続く)をもう一度みたい。

 「風の中の子供」、「みかへりの搭」、「蜂の巣の子供たち」などで知られる清水宏監督のBOXにはびっくり。あまり知られていない作品ばかりだが、この後代表作もBOXになるのだろうか、気になる。フェルナンド・E・ソラナス監督の「タンゴ ガルデルの亡命」は「タンゴ ピアソラ×ソラナス DVD-BOX」に入っていたもの。その中で一番欲しい「ラテン・アメリカ 光と影の詩」はいつ単品で発売されるのか。早く出して欲しい。ホウ・シャオシェンの初期作品が2本発掘された。出来はわからないがレンタル店で見つけたら借りてみるべきだろう。掘り出し物かもしれない。

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2008年4月18日 (金)

「エディット・ピアフ 愛の讃歌」を観ました

 ミュージシャンの伝記映画というと昔から傑作が多い。ちなみに70年代以降に絞ってマイ・ベスト10を挙げれば以下のようになろうか。

「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(2007)
「風の前奏曲」(2004、ソーン・シラパバンレーン)
「ビヨンドtheシー」(2004、ボビー・ダーリン) 
「五線譜のラブレター」(2004、コール・ポーター) 
「永遠のマリア・カラス」(2002) 
「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」(1998)
「シャイン」(1995、デヴィッド・ヘルフゴット) 
「アマデウス」(1984、モーツァルト) 
「歌え!ロレッタ愛のために」(1980、ロレッタ・リン)
「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」(1976)

  エディト・ピアフ。フランスが誇る偉大なシャンソン歌手。しかし僕が彼女のCDを買ったのはほんの1、2年くらい前だ。もちろん「愛の讃歌」や「バラ色の人生」は昔から名曲だと思っていた。しかしビリー・ホリデイ同様(この2人が同い年だということを「エディット・ピアフ 愛の讃歌」で初めて知った)何か古臭い気がしてさほど聞きたいとは思っていなかったのである。

Sdcamoon402   初めてシャンソンのレコードを買ったのはもう30年以上前。高校生の時だった。そのころカンツォーネが好きで、その関連でシャンソンの2枚組みレコードを買ったのだ。シャルル・アズナブールの来日ライブ盤も持っていた。シャンソンやカンツォーネは今でこそCD店の片隅にしか置かれていないが、70年代頃まではまだ結構ファンがいたものだ。アダモやクロード・チアリはよくテレビに出ていたし、エンリコ・マシアス、ジルベール・ベコー、イヴ・モンタンなどは日本でも有名だった。60年代半ばから70年代にかけてポップス路線のシルヴィー・ヴァルタンとミシェル・ポルナレフがヒットを連発していた。

  80年代前半はFMラジオから膨大な量のエア・チェック(懐かしい用語だ)をしていた。その頃はもうシャンソンのレコードは買わなかったが、カセットテープ(これも懐かしい)にはしばしば録音していた。コラ・ヴォケール、イヴェット・ジロー、シャルル・トレネ、ダミア、リュシエンヌ・ドリール、ジュリエット・グレコ、バルバラ、渋いところでジョルジュ・ムスタキ(当時はコアなファンがいた)、等々。ポップス・ロック系ではフランソワーズ・アルディ、フランス・ギャル、ジョニー・アリデイ、ミレイユ・マチュー、ナナ・ムスクーリ(アンジェラ・アキが出てきた時ナナ・ムスクーリにあまりにも似ているので、彼女の娘ではないかと思ったのは僕だけじゃないはず)。 CD時代になってからはめっきりフランスの音楽を聴かなくなった。せいぜい買ったのはミレーヌ・ファルメール、ララ・ファビアン、リアーヌ・フォリー、ブリジット・フォンテーヌ、パトリシア・カース、エンゾ・エンゾ、カーラ・ブルーニ、ヴァネッサ・パラディ程度。この中ではパトリシア・カースがダントツでいい。最近新譜を見かけなくなったのは残念だ。

  しかしエディット・ピアフのCDは何度も手に取りながらつい最近まで買うことはなかった。そして実際に聞いてみても「愛の讃歌」と「バラ色の人生」以外はあまりに古臭くて何がいいのか分からなかったというのが本当のところだ。ただし、1曲だけ素晴らしい曲があった。それが「エディット・ピアフ 愛の讃歌」の最後で歌われる「水に流して(私は後悔しない)」だった。この曲には2つの有名曲に匹敵する輝きを感じた。

  もちろんフランス語なので意味は分からずに聞いていたが、映画のラストで歌われたときにはその歌詞からピアフの様々な思いが読み取れて涙があふれ出た。あえて「愛の讃歌」と「バラ色の人生」を前面に出さずにさらっと流し、ラストのクライマックスに「水に流して(私は後悔しない)」を持ってきた演出は見事に成功していたと思う。

Glassbig01    ビリー・ホリデイとエディット・ピアフ。奇しくも同じ年に生まれ、同じように苦難に満ちた壮絶な人生を送った二人の大歌手。それぞれの伝記映画「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」と「エディット・ピアフ 愛の讃歌」の出来が雲泥の差になったのは、「ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実」がビリー・ホリデイの人生をあまりにきれいに描きすぎたからである。少女時代の悲惨な環境や40歳代のピアフがまるで老婆のようになってしまう晩年を容赦なく描き出した後者に比べると、前者のビリーは美しすぎ、人種差別や麻薬・アルコール依存症でのた打ち回った彼女の人生が身に迫るほどは描かれていない。

  ピアフの人生は大事なものを失い続ける人生だった。どんなに名声を得ても彼女の心にぽっかりと開いた空隙を埋めることはできなかった。薄汚いパリの路地裏を這いずり回るようにして生きていた少女時代、死の床で彼女の脳裏に去来するのはその思い出だった。頑固なまでに自分を押し通し、内部から瓦解するように崩れ落ちていった人生。人生の明と暗をこれほど冷徹に描き、なおかつ切なさとはかなさを伝え得ており、かつセンチメンタルになることを回避しえている映画は他になかなか思い当たらない。

  「サン・ジャックへの道」、「約束の旅路」、「アズールとアスマール」、「トランシルヴァニア」そして「エディット・ピアフ 愛の讃歌」。昨年公開のフランス映画は実に充実していたことが分かる。ひょっとしたら今フランス映画は新しい黄金時代を迎えつつあるのかもしれない。

<追記>
 「エディット・ピアフ 愛の賛歌」のレビューはこちらからどうぞ。

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2008年4月13日 (日)

パンズ・ラビリンス

2006年 メキシコ・スペイン・アメリカ 2007年10月公開
評価:★★★★★
原題:EL LABERINTO DEL FAUNO
監督、脚本、製作:ギレルモ・デル・トロ
撮影監督:ギレルモ・ナバロ
美術:エウヘニオ・カバレロ
音楽:ハビエル・ナバレテ
出演:イバナ・バケロ、セルジ・ロペス、マリベル・ベルドゥ、ダグ・ジョーンズ
    アリアドナ・ヒル、アレックス・アングロ、ロジャー・カサメジャー
   フレデリコ・ルピ、マヌエル・ソロ

Butterfly_scho  このレビューの「前書き」にあたる「『パンズ・ラビリンス』を観ました」という記事で、この映画が内戦の悲痛な現実や「内戦の影」を描く一連のスペイン映画の系統に属するものであることを強調した。ダーク・ファンタジーという呼び方ではファンタジーの系統に入ってしまうからだ。もちろん、この作品はリアリズムとファンタジーがまれに見るほど見事に結合した作品であって、ファンタジーの要素を過小評価するつもりはない。そのことはこの映画からファンタジー部分を抜いて、リアリズム部分だけで作られた場合を想像してみれば分かる。山に立てこもって抵抗を続けるゲリラとフランコ軍との戦いを描いただけではどう考えても物足りない。

 この作品におけるリアリズム部分とファンタジー部分は表裏一体のものである。その二つが結びつき、絡み合うことで、単純に二つを足しただけ以上の効果が発揮されている。「パンズ・ラビリンス」を批評する時、この2つの部分の関係とその組み合わせから得られる効果がどんなものであるかを解明する必要がある。

 二つの部分が対比的に使われていることは明らかである。現実の世界で展開される残虐な行為と嘘や苦痛のない地下の国の対比。ファンタジーの世界は過酷な現実から逃れるためにオフェーリアが作り上げた仮構の世界。優しい父と母のいるやすらぎの世界。ファンタジーの世界と対比されることによって、暴力でもって殺しあう現実世界の愚かさが批判されている。

 「嘘や苦痛のない地下の国」という設定は確かに批判力を持っている。それは一種の理想の世界であり、理想主義は理想とは程遠い現実を批判する力を持つ。しかし、同時にそれは空想的だという限界ももつ。もし単純な対比だけであれば、この映画はこれほど優れたものにはならなかっただろう。この二つの世界は対比的であると同時にまた並行世界でもあった。オフェリアが「逃避」した地下の世界は恐ろしい怪物の住むぞっとする世界でもあり、彼女はその中で3つの試練を課されるのだ。決して安楽な世界ではない。どこに逃げても過酷な現実が彼女を追ってくる。「パンズ・ラビリンス」においては現実世界もファンタジー世界も、どちらも過酷な世界なのである。地上も地下も、迷宮の中も外も「約束の地」ではなかった。それが「パンズ・ラビリンス」の冷厳な現実である。ファンタジーの世界は決して甘い夢の世界ではなく、むしろ悪夢の世界だった。アニメ「ニモ」(1989)のような“ナイトメアランド”と“スランバーランド”の単純な色分けではない。「パンズ・ラビリンス」の世界ではまどろみ(スランバー)の中でも悪夢を見るのだ。

Saba3  主人公の少女オフェーリア(イバナ・バケロ)が死すべき運命であることは彼女の名前そのものが既にして暗示していた。『ハムレット』のオフィーリアは溺死するのである。ラビリンスの中の妖精たちも1998年のイギリス映画「フェアリーテイル」に出てくるような羽の生えた天使のごとき妖精ではない。それに近いものも出ては来るが、それさえも最初はナナフシの姿をしていた。オフェーリアが「妖精はこんな姿よ」と本の挿絵を見せたためにナナフシはそれに合わせて変化したのである。それは彼女の願望の写し絵に過ぎなかった。ラビリンスのほとんどすべての住人は恐ろしい、あるいはおぞましい姿をした怪物や化け物だった。それはまさに「ロード・オブ・ザ・リング」の竜、トロル、ゴブリン、オーク、ゴラムなどが出てくる世界である。そもそも妖精とはほとんど日本の妖怪に近いもので、キャサリン・ブリッグズの有名な『妖精事典』や『妖精 Who’s Who』を見てもそのほとんどが日本人には妖怪にしか思えない存在である。竜、トロル、ゴブリン、オークなども分類上は妖精なのだ。

 「パンズ・ラビリンス」ではこれにギリシャ神話のパン(ダグ・ジョーンズ)やヨーロッパに古くから伝わるマンドラゴラ、ジャバ・ザ・ハットの親戚のような巨大なガマガエル、さらにペイルマンと呼ばれる独創的な怪物まで加わる。まさに妖怪やおぞましい怪物のオンパレード。地底王国の使いであるパンでさえも本当に信じられるのか疑わしく思えてくる。オフェーリアを除けばファンタジーに付き物のかわいいキャラクターなどは出てこない。その分オフェーリアのかわいらしさが際立つのだが(オフェーリア役のイバナ・バケロはまさに第2のアナ・トレントだ)。

 結末も当然ハッピーエンドではない。この映画は、その意味でダーク・ファンタジーと言うよりもアンチ・ファンタジーである。ファンタジーの中にも容赦なく現実が入り込んでくる。暴力と恐怖は現実の世界だけではなく、オフェリアが逃げ込んだファンタジーの世界にもあふれている。そして彼女が出会う3つの試練もまた現実の世界の戦いに呼応している。泥だらけになって巨大で醜い敵と戦い、敵の誘惑と戦い(レジスタンスに裏切りは付き物だ、また天井の穴から危機一髪脱出するのは「影の軍隊」を想起させる)、自己犠牲を払う。

  現実もファンタジーの中もオフェーリアにとっては試練の場だった。この点が重要だ。彼女はただ逃避したのではなく、自ら試練に立ち向かった。それは王女になるためというよりも王国を復活させるためだったのではないか。現実世界でも大人たちは過酷な試練にさらされていた。オフェーリアの母カルメン(アリアドナ・ヒル)は夫が戦死し、自分と娘が生きるためフランコ軍のヴィダル大尉(セルジ・ロペス)と再婚した。彼女は「ボルベール」に出てくる母親像とは全く違う。ヴィダル大尉にすがって生きることしかできない。本が好きで想像力豊かな娘と違って母親は物語の力などあっさり否定する。生きるためにはたとえ残虐な男でも力のあるものに頼る。これもまた現実である。

  しかしオフェーリアには実母に変わる存在がいた。ヴィダル大尉の身の回りの世話をしているメルセデス(マリベル・ベルドゥ)だ。弟は反政府ゲリラの一員で、彼女も秘かにゲリラを支援している。実母のカルメンと違って、彼女はオフェーリアが語る妖精の話に耳を傾ける。そして自分も子供の時には妖精が見えたと話す。その上で大人になった今は見えないと付け加えるのだ。メルセデスは大人になったオフェーリアなのである。この映画は1944年という歴史のある時点を描いているが、実は内戦からフランコの独裁時代、そして独裁が終りスペインに民主主義が戻るまでの長い歴史が象徴的に描きこまれているのである。この点はまた後に触れる。

Key_mb3  オフェーリアと重なるのはファシスト軍との勝ち目のない闘いという試練に立ち向かっているゲリラたちやその協力者であるメルセデスだけではない。カルメンの看病をしているファレーロ医師(アレックス・アングロ)もオフェーリアと重なってくる。彼は捕まって拷問を受けているゲリラの一人に薬を打ち安楽死させる(口封じでもある)。それを見抜いたヴィダル大尉が問い詰める。「従う方があんたのためなのに。わからん、なぜそうしなかった。」医師「何の疑問も抱かずひたすら従うなんて心のない人間にしか出来ないことだ。」去って行くフェレイロ医師を大尉が後ろから撃つ。オフェーリアも義父の大尉を父とは認めず、彼の言葉に何度も逆らった。握手のため大尉が手を差し出した時、オフェーリアは左手を差し出す。右手が本を持っていてふさがっていたからだが、わざわざ持ち替えることをしなかった。ファレーロ医師がメルセデスに何かを手渡したのを目撃した時も、それを誰にも話さなかった。彼女は自分で判断し行動したのである。

 現実の世界を支配しているのは冷酷無比なヴィダル大尉である。無実の農民親子を撃ち殺した時も少しも動揺を見せない。捕らえられたゲリラに彼が拷問を加えるシーンでは薄ら寒い空気が画面に満ちる。彼の行くところ残虐なシーンがついて回る。彼自身が口を切られ、それを自分で縫い合わせるシーンなどは下手なホラー映画以上に不気味である。彼はまさに「死」であった。オフェーリアにとっても、メルセデスにとっても、フェレイロ医師にとっても、ゲリラたちにとっても、そして大尉に庇護されているカルメンでさえも、生きること自体が苦しみだった。オフェーリアが幻想世界を自分で作り出したのも無理はない。オフェーリアの幻想の世界はその意味で現実が生み出したものなのである。

 しかしこの映画はその幻想世界を単なる逃避的で無力な世界だとは描かなかった。むしろ想像力は創造力であり、未来を生み出すものとして暗示されている。メルセデスやフェレイロ医師やゲリラの戦士たちも未来を思い描くからこそ希望を持ち続けられるのだ。

  オフェーリアは弟を生かすために自分の命を失った。そのように選択することによって彼女は王女として「魔法の王国」に戻ることができた。その王国はどこにあるのか?ここでファンタジーはもう1回転する。冒頭に出てくる魔法の国の物語が重要な意味を帯びてくる。人間の世界にあこがれていた地下の国のお姫さまは、地上に憧れある日地上に出る。しかし日の光を浴びてお姫様はすべての記憶をなくし、そして死んだ。しかし父王はいつか姫の魂が他の肉体に乗り移り、別の時代に戻ってくると信じていた。

  「魔法の王国」とは民主主義を回復したスペインなのである。長い間地下に潜んでいた時代の王国とはフランコ独裁政権下のスペインであった。ファシストによる独裁はオフェーリアが死んだ後も75年まで続くのだ。「弟よ、あなたの外の世界は、決して平和じゃないわ。」オフェーリアが母のお腹の中にいる弟に言った言葉は、1944年にだけ当てはまるのではない。手のひらに目玉をつけた怪物ペイルマンはまさに独裁政権の監視の「目」を象徴している。

 しかし、その独裁政治もいつかは終わる。人々は苦しみつつも未来を思い続けた。想像力が生きる力を生む。スペインに再び民主主義が戻った時、彼女の「王国」は地上に帰ってくるのだ。「ゲルニカ」のように。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし。」彼女は死して未来の種を生んだのである。その芽はメルセデスの子守唄を聞いて育ったのだ。

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2008年4月 9日 (水)

「パンズ・ラビリンス」を観ました

Huymgm01_2  これは期待にたがわぬ傑作だった。一見「ロード・オブ・ザ・リング」のようなファンタジー映画に思えるが、むしろテリー・ギリアム監督の「ローズ・イン・タイドランド」のようなダーク・ファンタジーに近い。しかしこの映画にファンタジーに対する皮肉な視線はない。この映画の特異性は、独裁政権下の抵抗運動を描くシリアスなリアリズムと地下の魔法の王国を治める王女様が少女の姿を借りてよみがえるという典型的なファンタジーがいささかの違和感もなく結びついている点にある。本当にダークなのはファンタジーの世界ではなく現実の世界の方なのである。その点をはっきりと認識しておくべきだ。その意味で「パンズ・ラビリンス」は内戦の悲痛な現実や「内戦の影」を描く作品の系統に属するのである。

 時代は1944年。既に内戦(1936-39)は終り、フランコとファランヘ党による独裁政治が始まっていた。ファシズムがスペインを支配していた時期なのである。反政府ゲリラたち(人民戦線側の生き残りと思われる)は山に立てこもり抵抗を続けていた。彼らを掃討するためにヴィダル大尉率いる軍隊が派遣される。リアリズム部分はヴィダル大尉の残虐な行為とそれに抵抗するゲリラたちとの戦闘、秘かにゲリラを支援する村人たちの抵抗を描く。これはまさにレジスタンス映画である。

 フランコの独裁は彼が死ぬ75年まで続いた。その間のスペイン映画の歴史は検閲との戦いの歴史であった。その厳しい条件下にあって、ルイス・ガルシア・ベルランガ、ファン・アントニオ・バルデム、カルロス・サウラ、ルイス・ブニュエルなどの巨匠たちが少なくない傑作を生み出していたことは特筆に価する。しかしスペイン映画が真の充実期を迎えるのは言うまでもなく独裁者フランコの死後である。まるで封印を解かれたごとく、次々とスペイン映画は傑作を生み出し、世界各国の映画祭で賞を取った。

 スペイン映画ルネッサンスと言うべき70年代後半から80年代前半にかけて作られた作品には「内戦の影」を引きずっているものが多かった。内戦によって引き裂かれた世代を描いた「黄昏の恋」(ホセ・ルイス・ガルシ監督、アカデミー賞を受賞した最初のスペイン映画)や「エル・スール」(ビクトル・エリセ監督)、「バレンチナ物語」(アントニオ・ベタンコル監督)などがその代表作である。内戦時にファランヘ党員により銃殺され、独裁政権下では口にすることもはばかられたフェデリコ・ガルシア・ロルカ原作の「ベルナルダ・アルバの家」(マリオ・カムス監督)や「血の婚礼」(カルロス・サウラ監督)も映画化されるようになった。「ベルナルダ・アルバの家」の重苦しい抑圧的な雰囲気は明らかにフランコ時代とオーバーラップしている。

 ピカソはその遺言の中でスペインに再び真の民主主義が確立されるまで「ゲルニカ」をスペインに引き渡してはならないと言い残した。その「ゲルニカ」がスペインに返還されたのは1981年である。「ゲルニカ」の帰還と相前後してスペイン映画に黄金時代が到来したのである。

 80年代後半以降はペドロ・アルモドバルやアレハンドロ・アメナバールなど新しい世代が台頭してきて、スペイン映画の質も大きく変化してくる。しかしそんな中でも、「蝶の舌」(ホセ・ルイス・クエルダ監督)や「キャロルの初恋」(イマノル・ウリベ監督、知られざる傑作!)などが作られている。30年以上続いたフランコの独裁時代は、スペイン人にとって、中国人にとっての文革時代以上に悪夢の時代だったのである。

Rashinban1  監督のギレルモ・デル・トロはメキシコ人だが、2001年の「デビルズ・バックボーン」(未見)でもスペイン内戦の傷痕を描いている。僕は「パンズ・ラビリンス」以外では「ミミック」しか見ていないが、スペイン内戦を主題にしたこの2作が彼のもっとも評価されている作品のようだ。彼がなぜスペイン内戦を二度も描いているのかは分からない。彼にスペイン人の血が流れているのかも知れないが、インターネットで調べても彼の両親についてほとんど全く情報が見つからないので確認ができない。しかしビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」に何らかの影響を受けているのかもしれない。ギレルモ・デル・トロ監督はあるインタビューで、自分は「モンスター」に惹かれると言っている。「ミツバチのささやき」もモンスターに少女が惹かれる映画である。時代も1940年頃のスペインで近い。

 彼はまた別のインタビューでアーサー・マッケン(『パンの大神』の著者)、ロード・ダンセイニ、クラーク・アシュトン・スミス、H.P.ラヴクラフト、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに影響を受けたといっている。妖精物語、怪奇小説、マジック・リアリズム。昆虫やモンスターや暗がり、時計仕掛け、産まれなかった者への偏愛はどうやら彼の個人的嗜好や性癖から来るらしい。互いに深い関連を持った2本の兄妹映画(監督は「デビルズ・バックボーン」を”the brother movie”「 パンズ・ラビリンス」を”the sister movie”と呼んでいる)におけるスペイン内戦は、しかし、単なる恐怖を生み出す恐ろしい舞台装置として持ち出されているのだろうか。この点は十分吟味してみる価値がある。

 最近のニュースによると、ギレルモ・デル・トロ監督はトールキン原作の「ホビットの冒険」を撮ることになるようだ。イギリス・ファンタジーの金字塔『指輪物語』の原型となった作品を彼がどのように映画化するのか。本当に楽しみだ。

<付記>
 この作品については近い内に本格レビューを書きます。なお、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「miscellany」コーナーに「スペイン映画作品年表」を掲載しました。タイトルが並んでいるだけのそっけないリストですが、何かの参考にしていただければ幸いです。

「パンズ・ラビリンス」のレビュー

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2008年4月 2日 (水)

先月観た映画(08年3月)

「アズールとアスマール」(06、ミッシェル・オスロ監督、仏)★★★★★
「キムチを売る女」(05、チャン・リュル監督、中国・韓国)★★★★☆
「ふくろうの河」(62、ロベール・アンリコ監督)★★★★☆
「最前線物語」(80、サミュエル・フラー監督、アメリカ)★★★★☆
「ボーン・アルティメイタム」(07、ポール・グリーングラス監督、米)★★★★☆
「記憶の扉」(94、ジュゼッペ・トルナトーレ監督)★★★★
「川本喜八郎作品集」(川本喜八郎監督、日本・他)★★★★
「アース」(07、アラステア・フォザーギル、他、監督、英・独)★★★★
「サイドカーに犬」(07、根岸吉太郎監督、日本)★★★★
「そして、デブノーの森へ」(04、ロベルト・アンドゥ監督、仏・他)★★★★
「アーサーとミニモイの不思議な国」(06、リュック・ベッソン監督、仏)★★★★
「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」(06、クラーク・ジョンソン監督、米)★★★★
「さらば、ベルリン」(06、スティーヴン・ソダーバーグ監督、米)★★★☆
「アイ・スパイ」(02、ベティ・トーマス、米)★★★☆
「ハリウッドランド」(06、アレン・コールター監督)★★☆
「たとえ世界が終わっても」(07、野口照夫監督、日本)★★☆

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「最前線物語」
 「最前線物語」はサミュエル・フラー監督作品だけに、一味違う戦争映画だった。主演のリー・マーヴィンも50代後半なのでさすがに全盛期だった60年代の精悍さはないが、代わって渋さが増した。第一次大戦で生き残ったベテランの軍曹という設定がいい。内容はTVドラマの傑作「バンド・オブ・ブラザーズ」によく似ている。新兵をしごき上げる場面はあまりないが、戦地を転々とし、ノルマンディー上陸作戦を経てユダヤ人のゲットー解放まで描く点も似ている。最初に登場する4人の新兵がやがてベテラン兵に成長して最後まで生き残り、未熟な補充兵がどんどん死んでゆくという展開も同じだ。「バンド・オブ・ブラザーズ」もユダヤ人の強制収容所を発見する第9話が一つのクライマックスになっているが、「最前線物語」も最後に印象的な場面が用意されている。リー・マーヴィンがユダヤ人の子供を世話し、きれいな川のほとりで一緒にすごし、肩車して帰る場面だ。戦闘シーンばかり続いた後だけにほっとする場面である。しかしそのすぐ後に、その子供は彼の肩の上で死んだというナレーションが入る。さらに、第一次大戦のときも第二次大戦のときも、終戦になった後でリー・マーヴィンが敵兵を殺す場面が出てくる。単にアメリカ兵を勇ましく描いただけでないところに好感を持った。

「ボーン・アルティメイタム」
 既にレビューや短評を書いているものは省略します。「ボーン・アルティメイタム」は大いに楽しめた。ボーン・シリーズは「ダイ・ハード」シリーズと並ぶ最強のシリーズの一つ。アメリカ映画が長年培ってきた映画つくりの粋を集めた傑作。しかし、数ある他のアクション物とどこが違うのかを説明するのは難しい。恐らく人間が持てる限界ぎりぎりの能力を持ったヒーローを描いているということではないか。これを越えるとサイボーグやロボットや宇宙人などの領域に入ってしまい、リアリティがその分減る。一方007と同じ不死身キャラでありながら、悠々と危機を脱出する余裕を持たせていない。また、シュワルツェネッガーのような筋肉マンタイプでもない。通常の人間の能力をはるかに超える力を持ちつつも見かけは普通の人間で、いつもぎりぎりのところまで追い詰められる。いつもへろへろになってぼやきながら奮闘するマクレーンと常に冷静さを失わないボーンという違いはあっても、スーパーマンではなく人間くささを失わないところが共通の魅力なのかもしれない。

「そして、デブノーの森へ」
 「そして、デブノーの森へ」は最初こそつまらない映画を観てしまったかと不安になったが、途中からサスペンス調になってきてぐいぐい引きつけられた。ただ、観終わってしばらくたつともう内容が思い出せない。謎の女アナ・ムグラリスの真の狙いは何かというサスペンス仕立てと彼女がやたらと脱ぎまくるサービスに流されて、人間ドラマが浅くなっていると言わざるを得ない。ただ、昔懐かしいフランス映画の香りがあってその点は捨てがたい。ロベルト・アンドゥ監督はフェデリコ・フェリーニやフランチェスコ・ロージといったイタリア映画の巨匠の下で映画作りを学んだというから、今後が期待できそうだ。

「さらばベルリン」
 「さらば、ベルリン」はかなり評判が悪いが、僕はそれほど悪くないと思った。「シン・シティ」ほどではないが、あえて白黒にした効果が出ていると思う。やはりノワールは白黒画面が似合う。謎の女ケイト・ブランシェットの秘密が最後の最後まで分からないという展開がいい。ただ、長大な原作を無理に縮めたため分かりにくくなっていたことは確か。「カサブランカ」や「第三の男」と比較してもあまり意味はない。白黒画面のノワール的雰囲気を楽しめばそれでいい。そう思って観ればさほど悪い出来ではない。

「サイドカーに犬」
 「サイドカーに犬」は思ったより良かった。DVDのジャケットを見ててっきり田中麗奈が主演だと思っていたら、竹内結子が主演だった(汗)。僕は彼女がテレビのCMに出始めた頃は大好きだった。ただ、彼女のドラマも映画もほとんど観ていない。映画は「春の雪」に続いてこれが2本目だ。情けないメロドラマだった「春の雪」よりこちらの方が格段にいい。彼女には珍Teablueしい(?)少しがさつで蓮っ葉な女の役。でも根は優しい。いかにも彼女向きの役柄にしなかったことが成功の一番の理由だといえる。彼女はある男の愛人らしいのだが、家を出て行ったその男の妻の代わりに、男の娘の世話にやってくる。いきなり家に現われるのだが、名前はヨーコとしか言わない。家に住み着くのではなく、毎日自転車で通ってくるところがいい。女の子としだいに心を通わせてゆく過程が自然だ。映画は大人になった女の子(ミムラ)が20年前を回想するという作りになっていて、ヨーコさんがその後どうなったのか分からないのも何か胸にチクリと残っていい。「ALWAYS三丁目の夕日」が描いた50年代ではなく80年代を描いているので、30代くらいの世代にはむしろノスタルジーが掻き立てられるだろう。監督は根岸吉太郎。「雪に願うこと」にはやや劣ると思ったが、彼はこういうストレートなストーリーをいやみなく作れる才能がある。日本映画界の中では貴重な存在だ。

「ザ・センチネル」その他
 「ザ・センチネル 陰謀の星条旗」はなかなかよくできた映画で、最後まで引き込まれた。シークレット・サービス内の裏切り者が最後のあたりまで分からない。マイケル・ダグラスが容疑者扱いされながら犯人を追い詰める展開。ありがちな設定なのに飽きさせない。キーファー・サザーランドが出演しているせいか、TVドラマ「24」のような味わいである。スピーディな展開で緊張感が続く。「24」の映画版を観ているようなものだと思えばいい。「24」はだんだん荒唐無稽になってきたので第2シーズンまで観てやめてしまったが、時限を切られた緊張感の中でハラハラドキドキのアクションが次から次へと展開するという一つのスタイルを完成させたといえる。ただ、「24」も「ザ・センチネル」もアメリカ的価値観の中ですべて展開していることは否めない。

 たまたまテレビで観た「アイ・スパイ」は久々のエディ・マーフィ主演映画。いかにも彼にぴったりの役柄。まさに十八番で悪かろうはずはない。話の展開は何てことないが、エディ・マーフィとオーウェン・ウィルソンのでこぼこコンビが面白い。こういうコミカルな役柄を演じさせるとエディ・マーフィは天下一品だ。内容を云々する必要はない。お気楽コメディなんだから、楽しんで観られればそれでいい。

 ちっとも楽しめなかったのは「ハリウッドランド」。TV版「スーパーマン」シリーズの主演俳優ジョージ・リーブスの死の真相を追うミステリーという触れ込みだが、ミステリーとしてもハリウッドの内幕物としても見るところがない。ジョージ・リーブスの悲劇的人生がうまく描けているわけでもない。どうも中途半端で見所がない。エイドリアン・ブロディ、ベン・アフレック、ボブ・ホスキンス、ダイアン・レインなど役者をそろえているにもかかわらず、そしてそれぞれいい味を出しているにもかかわらず、肝心なドラマが弱かった。

 「たとえ世界が終わっても」は上田でロケをした映画なので観てみた。最近よく名前を聞くようになった新人女優芦名星、さらに一部で人気の大森南朋、安田顕の共演。着想はなかなかユニークだ。自殺サイトを通じて集まってきた自殺志願者たち。しかしいざと言うときになるとアレコレと遣り残したことがあると言い出してなかなか実行に移せない。しかも自殺サイトを運営していた男は集まってきた自殺志願者を立ち直らせようとしている男だった。面白い思い付きではあるが、どうも最近の底の浅い小説に似たお手軽映画だ。ドタバタ喜劇とお涙頂戴がごちゃ混ぜになったような作り。わざとらしい演技をさせているのも鼻につく。そもそもなんでヒロインの芦名星が自殺したがるのかさっぱり伝わってこない。芦名星は確かに美人だが、さっぱり魅力を感じない。作る側の安易な姿勢に不満ばかりが残る。

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