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2008年3月

2008年3月31日 (月)

「記憶の扉」と「ふくろうの河」を観ました

Tatatemy133   昨日本館ホームページ「緑の森のゴブリン」に「1972~73 月間ベストテン」と「1974 月間ベストテン」という記事を載せました。1972年9月から1974年12月まで手書きの古い映画記録ノートにテレビで観た映画のベストテンをつけていたのです。作品、監督、主演男女優、助演男女優の6項目ごとにベストテンを選んでいました。もう30年以上も前のことでもあり、タイトルを見てもどんな映画だったか全く覚えていないもの、観たことを忘れてまだ観ていないと思い込んでいたものなどが結構ありました。

 そこで、ベストテンの上位に入っているほとんど忘れている作品を手に入れようと昨日の日曜日にあちこちの中古店などに出かけました。500円DVDに結構入っているかと思ったのですが、そのシリーズに入っていない方が圧倒的に多いことが分かりました。500円以外のものも含めて入手できたのは5本のみ。同じ作品ばかり繰り返し発売して、本当に欲しいものはなかなか出ない。何とかして欲しいものです。

 ところが思わぬ副産物がありました。「ヨーロッパ名画DVDコレクション」シリーズに入っている「記憶の扉」と「ふくろうの河」を見つけたのです。今年に入って最大の収穫でした。さっそく家で2本とも鑑賞。結果は言うまでもありません。2本とも期待通りの優れた映画でした。

 * * * * * * * * * *

 「記憶の扉」(1994)はジュゼッペ・トルナトーレ監督作品。オムニバス「夜ごとの夢」と傑作「明日を夢見て」の間に作られた作品である。実に不可解で謎めいたミステリー作品。なんとも不思議な雰囲気。まるで幽霊屋敷か廃屋のような警察署。最初から最後まで雨が降り続き(ラストでやっと降り止む)、陰鬱でうっとうしい雰囲気が全編に漂っている。びしょぬれの男、雨漏りがする警察署での尋問。雨がメインのイメージを作っている。

 登場人物は作家のオノフと名乗る男とレオナルド・ダ・ヴィンチと名乗る警察署長、そしてその部下の数人の警官たちだけ。冒頭拳銃から弾が発射され誰かが殺されたらしい。容疑者のオノフが取調べを受けるが、そもそも誰が殺されたのかもなかなか明らかにされない。オノフの記憶には欠落がある。その欠落した部分を暗示するように時々はさまれるフラッシュバックの映像。何がなんだか分からないままに、夜明けを迎え、オノフは「ではよい旅を」と見送られて護送車に乗せられる。キツネにつままれたような終り方。後でよくよく考えてやっと納得がゆく。なるほど、そういうことか。ヨーロッパ映画でしか作れない、独特の裏寂れたような建物と雰囲気。得がたい作品だ。

Fukurou1s_2   ロベール・アンリコ監督の「ふくろうの河」(1962)はずっと観たいと思っていた作品。観て初めて分かったが、これは何とアンブローズ・ビアスの『生のさなかにも』が原作だった(岩波文庫からも『いのちの半ばに』というタイトルで出ているが、こちらは抄訳なので翻訳を入手するなら完訳版の創元推理文庫をおすすめする)。この長い間幻の作品だった映画に関しては情報が少なく、誤解もあるので最初に整理しておきたい。何か短編集『生のさなかにも』所収の「アウル・クリーク橋の一事件」だけが原作になっているような誤解が広まっているが、それは3部作の第3話の原作に過ぎない。『生のさなかにも』は15の短編からなる「兵士の物語」と11の短編からなる「市民の物語」の2部構成になっている。映画「ふくろうの河」はその「兵士の物語」から3つの短編を選んで映画化したものなのだ。第1話の原作は「ものまね鳥」、第2話が「チカモーガ」、第3話が「アウル・クリーク橋の一事件」なのである。

 このような混乱が生じたのはこれまで第3話の部分しか公開されていなかったからである。63年に日本で公開されているが、キネマ旬報のベストテンでは選外である。この傑作にどうして1点も入らないのかと不思議に思っていたが、恐らく短編として上映されたからだろう。その後もこの第3話だけが『ミステリー・ゾーン』のエピソードの1つとして放送されたり、一部で上映されたりしていたため、「アウル・クリーク橋の一事件」が3部作全体の原作だと勘違いされてきたのではないか。

 僕は大学の英文科を出たが、アンブローズ・ビアスはアメリカ文学史で必ず習う作家である。英文科を出ていれば、少なくとも名前ぐらいは知っているはずだ。たださしたる大作家というわけではない。短編の名手で、南北戦争を題材にした短編集『生のさなかにも』はその代表作の一つ。ただ一般には『悪魔の辞典』を書いた人だと言ったほうが通りはいいだろう。

 「ふくろうの河」というタイトルは不思議な響きがあるが、原作が「アウル・クリーク橋の一事件」だと分かれば納得がゆく。自然描写の類まれなる美しさと、その中で命を失ってゆく人間のはかなさ、戦争のおぞましさ、皮肉な運命が見事に表現されている。第2話で少年が走り回る楽園のように美しい自然と、その後に遭遇する悪夢のような光景(戦場で傷ついた無数の兵士たちが地面を這い回っている)。この対比的な展開が作品全体のパターンを象徴している。どうしてこれまで完全版が出なかったのかと不思議に思うほどの傑作だ。

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2008年3月27日 (木)

キムチを売る女

2005年 韓国・中国 2007年1月公開
評価:★★★★☆
原題:芒種
監督、脚本:チャン・リュル
プロデューサー:チェ・ドゥヨン
撮影:ユ・ヨンホン
美術:チャン・ヘ
出演:リュ・ヒョンヒ 、 キム・パク 、 ジュ・グァンヒョン 、 ワン・トンフィ

Photo  「キムチを売る女」は中国の朝鮮族を主人公にした恐らく最初の映画である。その意味では「小さな中国のお針子」「天上の恋人」、「雲南の少女 ルオマの初恋」(興味深いことにこの3作はいずれも2002年製作である)、「ココシリ」などの系統に属する作品である。しかし、それほど民族色が強いわけではない。この映画の特色は極端に少ないせりふ、生活音以外の効果音を極力排し、カメラを固定し淡々と主人公の行動を映し出すスタイルである。感情表現を抑え、劇的な出来事も直接的には描かない。チャン・リュル監督がロベール・ブレッソンを意識していたというのも確かにうなずける乾いたタッチである。

 主な登場人物は4人。舞台となる寂れた町もどこなのか特定されていない。その町も荒涼として人気がない。ごく限られた人間関係しか描かれず、それも一切劇的な描き方をしない。キャメラはひたすらなめるように登場人物たちを映し出すが、感情移入を意図的に遮断するかのように終始突き放して冷徹な目で観察する。底冷えのする場面が続く。

 ヒロインのスンヒ(リュ・ヒョンヒ)が荷台付きの自転車にキムチをのせて売り歩く同じような場面を執拗に繰り返し描くあたりは、「いつか読書する日」「ウィスキー」を連想させる。人気のない土地、限られた範囲の閉じられた空間を舞台にしているところ、人間関係が希薄でセックスによってのみ男女が結びついている関係はキム・ギドクの作品を思わせる。

 このような作品なので、一見すると明確なテーマを持たないように思える。しかし、映画を観終えた後に確かな手ごたえのようなものが残るのは何故か。薄っぺらなアート・フィルムを観た時とは違う、何か重たい塊が心に残る。映画の中の何がそうさせるのか。マノエル・デ・オリヴェイラ監督の「家路」のような、何が起こるでもない日常の一コマを淡々と描き突然終わってしまう作品とはやはり違う。「キムチを売る女」にはもっと生活のざらついたものがある。「キムチを売る女」にはダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」に似た、絶望的な状況を乗り越えて生きようとする息吹が感じられる。ラストでスンヒが踏み出した青々とした草原は、イギリス映画「ボクと空と麦畑」のラストで描かれる黄金色の麦畑と重なる(もっとも、こちらはあまりに暗くて好きになれないが)。

 そう、「キムチを売る女」にはやはり明確なテーマがある。それは生きることそのものである。すべてが抑制された画面の中で、なおかつヒロインの生きようとする意欲が固い壁の割れ目からにじみ出てくる。「キムチを売る女」が基本的にどのような作品であるかを考察する際に、もっとも比較するにふさわしい作品は韓国映画の名作「銀馬将軍は来なかった」と社会の最底辺の女性をヒロインにした最初のイギリス小説『エスター・ウォーターズ』だろう。

 エスターはあるお屋敷で女中として働いていた時に、同じ屋敷に雇われている男の子供を妊娠してしまう。エスターは屋敷を追われ、女手一つで自分と息子を養わなければならなくなった。19世紀のイギリスで未婚の母であるということは、社会でもっとも弱い立場に置かれることを意味する。彼女は1日17時間の労働といった奴隷並の苛酷な労働に耐えた。非人間的な状況の中で彼女が生き抜けたのは、どんなことをしてでも、自分の身を削ってでも子供を育てるのだ、それまでは絶対に死ねないという固い決意があったからである。作者のジョージ・ムアは彼女の人生をこう表現している。「それはまことに壮烈な戦いだった。下層の者、私生児である者にむかって文明が結集させるすべての勢力を敵にまわして子供の命を守ろうとする母親の戦いだった。(中略)三か月職にあぶれてしまえば、自分もまた路上にさまよう身となるだろう。花売り、マッチ売り、それとも・・・。」

Tree  「それとも・・・」の後には言うまでもなく「娼婦」という言葉が続くはずだ。確かに一歩間違えばエスターはそこまで転落しかねなかった。彼女がもがき苦しみ、のた打ち回るようにして生きた世界とは、いつ貧困のどん底に突き落とされるか分からない世界、絶えず救貧院の陰が付きまとい、飢えと死の不安が付きまとっている世界である。最後には身を売るしかない世界なのだ。だからこの小説にはいやと言うほど金銭の額が出てくる。それもジェイン・オースティンの小説に出てくる何千、何万ポンドという額ではない。主にシリング(1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス)単位の額で、時にはほんの数ペンスしか手元に残っていなかったりする。エスターにとっての金は、ギリギリ生活してゆくための、自分と息子を生きながらえさせるための生活資金だったのである。

 『エスター・ウォーターズ』と「キムチを売る女」を比較してみると、多くの共通点があることが分かるだろう。エスターもスンヒも自分ひとりで子供を育てている(スンヒの夫は殺人を犯して服役しているらしいが、夫が罪を犯したのは貧しかったからである)。スンヒと息子のチャンホ(キム・パク)が住む2軒長屋の隣に娼婦たちが暮らしていることは実に象徴的である。スンヒはまさに娼婦たちと紙一重の生活をしていたのだ。

 娼婦たちとの共通点はタイトルにも暗示されている。原題の「芒種」とは「種まきの季節」を意味する。娼婦たちの1人が街角で芒種の広告を見て、自分もそろそろ田舎に帰って畑の手伝いをしたいとふと漏らす場面がある。この言葉は「僕たちいつ(前の家に)帰るの?」と母親に聞いたチャンホの言葉と重なるのだ。「芒種」という言葉は「帰郷」という意味を帯びてここでは使われている。娼婦たちもスンヒ親子も故郷に帰るに帰れない人々なのである。そしてそれはまた同時に、スンヒの帰る場所はどこかという疑問も投げかけている。

 具体的な金額が何度も出てくるという点も共通している。白菜キムチ7元。没収された荷台付き自転車を買い戻した金額80元。チャンホに買ってあげた鯉のぼりのような凧15元、等々。キムチの売り上げなど大した額ではない(しかも無許可営業である)。それでも必死で働いてきたから何とか最低限の生活を維持できていたのである。

 スンヒには3人の男たちが近寄ってくる。しかし皆下心を持っていた。同じ朝鮮族であるキム(ジュ・グァンヒョン)。彼には頭の上がらない女房がいた。スンヒはそのたまった不満の捌け口だったのだろう。教習所の食堂で働く男(彼も家族持ち)はキムチを仕入れてくれるようスンヒに頼む一方で「見返り」を求めてきた。警官のワン (ワン・トンフィ)は金持ちの娘らしい婚約者がいるが、愛情はさほど感じていないらしい。冒頭の場面で「いつもの奴」と言ってキムチを買っていったことから見て、だいぶ前からスンヒに気があったようだ。キムの女房がスンヒを娼婦だと訴えたために(暗示的だ)彼女は一時拘束されるが、その際同僚がいなくなった隙にワンは彼女をレイプしている。

 皮肉なことにスンヒとチャンホに心から親切に接してくれたのは隣に住む娼婦の1人だった。露天商の営業許可証を取ってくれた女性係官とも一時親しくなるが、朝鮮舞踏を教える場面が一度しか描かれないところから見ると、その後付き合いは長続きしなかったと考えるべきだろう。「テレビ以外で朝鮮族を見るのは初めてよ」と係官が言っているように、ちょっとした興味から朝鮮舞踏を教えて欲しいと言っただけだったのだろう。

Teien  それに比べると、娼婦の1人が野菜を洗っているスンヒの横にビールを持って座り、「スンヒさん、許可がもらえたのね。おめでとう。」と言う場面は心がこもっていた。この娼婦こそ田舎に帰って畑の手伝いをしたいと漏らした人物である。4人の中でも一番苦労している。やくざのような男に殴られたり、他の仲間が次々と客の車やバイクに乗って去ってゆくのに一人だけ売れ残ってしまう。一番美人で笑顔を絶やさないが、一番不幸なのだ。ついでに言えば、ビールで乾杯している2人を見て他の娼婦が言った言葉も印象的だ。「私たちの営業許可はいつもらえるんだろうね。」「バカ言わないで、もらえるわけないでしょ。こんな仕事になんか。」

 この娼婦はチャンホとも親しく言葉を交わしている。家の前の水道のところでキュウリを食べている彼女の横にチャンホがやってきて座る。互いにキュウリをかじっている二人の間には親密な空気が流れていた。その時チャンホが「なぜニワトリと呼ばれているの?」と質問する。彼女はそういうひどい扱いをされていたのである。「ニワトリは偉いのよ。オスは朝起こしてくれるし、メスは卵を産む。肉もおいしいわよ。あんたは鶏肉嫌い?」怒ることもなく、恥ずかしげにするでもなく彼女が答えた言葉は、この作品の中でも特に印象に残るせりふの一つである。(内心はどうあれ)非人間的な扱いをされながら、なおポジティヴに考えようとする彼女の姿勢に深い共感を覚えずにはいられない。

 「キムチを売る女」が「銀馬将軍は来なかった」と共通点を持つのはまさにこの点である。ヒロインのオルレは朝鮮戦争のさなか米軍兵士にレイプされ、汚れたといって村八分にされてしまう。食うに困ったオルレはついに米兵相手の娼婦に身を落とす。そんな彼女に優しくしてくれたのは2人の娼婦仲間だったのである。ここにも一人の息子を抱えて、逆境にもめげずたくましく生き抜いた母親がいた。「汚い女たちは出て行け」と力ずくで娼婦たちを村から追い出そうとする村の女たちに向かって、娼婦の一人が「お前たちの方こそ汚いじゃないか。この人(オルレ)が困っている時に助けの手を差し伸べたものが一人でもいたか」と言い返す場面は実に痛快だった。困っているオルレに救いの手を差し伸べたのが娼婦たちであったということは意味深長である。実はそれまではオルレに名前はなかった(もちろん比喩的な意味で)。ただ「マンシギのお母さん」としか呼ばれていなかったのだ。初めて彼女をオルレと名前で呼んだのは彼女たちだった。同じように、それまで一切名前が出てこなかったキムチ売りの女に「スンヒさん」と呼びかけたのも隣に住む上記の娼婦だったのである。

 「キムチを売る女」のスンヒは決して怒鳴ることもなく、涙を見せるシーンも描かれない。もっとも、「見返り」を求めてきた教習所の男には一発お見舞いしたようだが(そういう場面は徹底して観客に見せないので悲鳴が聞こえるだけである)。しかし、どんなに感情を表出する場面を画面から締め出しても、淡々とした無表情な画面の奥から孤独感や悲しみや喪失感が伝わってくる。この映画はそういう映画なのだ。演出の技法にばかり気をとられてこの点を見逃すべきではない。感情移入を求めるような場面を極力締め出しながら、客観描写を積み上げることで状況のみならず感情や感覚、言葉にならない思いを描こうと試みているのである。

 『エスター・ウォーターズ』のエスターにしろ、「銀馬将軍は来なかった」のオルレにしろ、「キムチを売る女」のスンヒにしろ、彼女たちを支えていたのは子供だった。自分はどうなっても子どもだけは何としても不幸な思いはさせたくない、その思いが彼女たちをたくましくした。しかし「キムチを売る女」はヒロインにさらなるむごい試練を与えた。事故で息子のチャンホを失ってしまうのである。同じ朝鮮族であるキムに裏切られたスンヒは、息子に覚えさせていたハングルの文字を書いた紙を破り捨ててしまう。隣の娼婦たちも警察に連行されてしまった。その上に心の支えだった息子まで奪われてしまう。スンヒは絶望の淵に立たされた。彼女の周りにはもう誰もいない。かくも絶望的状況だったからこそ、チャン・リュル監督はあえて感情の表出を避けて淡々と描いたのである。「亀も空を飛ぶ」のような作品にすることも可能だが、むしろ抑えに抑えてそれでも悲しみや喪失感やかすかな希望が立ち上ってくるような演出を選んだ。

 直接感情を描かずに行動を描くという演出なので、自暴自棄になったスンヒを描くために思い切った行動を彼女にさせている。ワンの結婚式に届けたキムチの中にスンヒは殺鼠剤を混入させたのだ。無表情で式場から出てくるスンヒとすれ違いに救急車が何台もすっ飛んでくる。心の中のささくれとざわめきを表現するように、式場の庭にある噴水が盛大に吹き上げる。

 無差別の復讐。韓国映画の「復讐者に憐れみを」「サマリア」が頭をよぎる。感情の噴出の仕方がどこか似ている(描き方は全く違うが)。もしここで映画が終わっていたならば、この作品に対する評価はもっと下がっていただろう。しかしこの後に印象的なエンディングが用意されていた。家を出て線路脇をすたすた歩くスンヒ。手はだらりと両脇にたらしたままだ。終始彼女はキャメラに背を向けている。列車が走ってくる。飛び込むのか?一瞬緊張が走る。しかし、線路の前でスンヒは立ち止まり、列車は走り去る。スンヒは線路を越え、その先の駅舎を通り抜け、広い緑の草原に歩み入る。エンドロール(文字はハングル)が流れる。音楽は流れず、足音だけがいつまでも響く。最後に汽笛が小さく遠くで鳴る。

 このエンディングは何を表しているのか。死か。この世に身の置き所をなくしたスンヒはどこへともなく消え去ってゆくのか。それとも歩み続ける決然とした足取りは何らかの生きる希望を表現しているのか。彼女はどこへ向うのか。曖昧な終わり方である。しかし曖昧な分このラストに希望を読み込む余地が残された。彼女は線路に飛び込まなかった。それを乗り越えて、彼女を閉じ込めていた世界から歩み出ようとした。

 最後のシーンでスンヒがスカートをはいていたことが暗示的だ。それまで彼女は自分の魅力を押し隠すようにいつも地味なパンツをはいていた。恐らく彼女は娼婦になろうと決意したのだ。だが、それは身を落とすことではない。彼女は既にどん底にいた。そうではなく、「銀馬将軍は来なかった」に登場する娼婦たちのようにたくましく生きる決意をしたのだ。銀馬将軍とは村に伝わる伝説の英雄で、昔村が敵に襲われたとき天から銀馬にまたがった将軍が舞い降りて敵を追い払ったという。しかし、オルレの場合もスンヒの場合も銀馬将軍は現われなかった。それでも2人は生き続けた。2人とも最後には銀馬将軍を必要としなくなっていたのだ。自分自身の力で生きる決意をしたのである。少なくとも、そう解釈することは可能だ。

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2008年3月21日 (金)

アズールとアスマール

2006年 フランス 2007年7月公開
評価:★★★★★
監督・原作・脚本・台詞・デザイン:ミッシェル・オスロ
エグゼクティブ・プロデューサー:エーヴ・マシュエル
音楽:ガブリエル・ヤレド
背景:アンヌ=リズ・ルルドレ・コレール
プロデューサー:クリストフ・ロシニョン
声の出演:シリル・ムラリ、カリム・ムリバ、ヒアム・アバス
       パトリック・ティムジット、ファトマ=ベン・ケリル
       ラヤン・マジュブ、アブデルセレム=ベン・アマル

Alice3b  フランスのアニメ映画と言われて思いつくものは少ない。「王と鳥」(「やぶにらみの暴君」)、「ベルヴィル・ランデブー」とミッシェル・オスロ監督の諸作品くらいだ。アメリカ、日本、チェコ、旧ソ連などのアニメ大国と比べると寂しい限りだが、さすがフランス映画、いずれもすこぶる個性的である。ミッシェル・オスロ監督は宮崎駿、川本喜八郎、イジィ・トルンカ、ニック・パーク、ティム・バートンなどと並んで好きなアニメ作家である。

 「アズールとアスマール」はアフリカを舞台にしたプリミティブな魅力の「キリクと魔女」とはだいぶ違った印象を与える。アフリカとアラビアというエキゾチックな地域を舞台にしているという点では共通するものがあるが、アフリカの民話のような世界から『アラビアン・ナイト』の御伽噺の世界へ移行し、さらに異人種や異文化間の融和・相互理解といったテーマを込めている。鮮やかな原色を使った色使いはさらにその鮮烈さを増し、平面的な画風を残しつつも人物の顔には立体的な処理を施している。

 人種問題のテーマは単純で明確である。それは最初から強調されている。冒頭で乳母が2人の子供に平等に乳を与え子守唄を歌って聞かせる場面が象徴的だ。2人の子どもの肌の色と目の色が違うのである。白い肌と青い目を持つアズールと褐色の肌に黒い瞳を持つアスマール。一方は領主の子で他方は乳母の息子である。仲はいいのだがよく言い争いもする。

 このテーマは2人の会話によってさらに浮かび上がってくる。アズールが上等な服を着て現われると、2人はふざけあいながら馬車の下にもぐりこむ。アスマール「お前の(服)格好悪い。」アズール「僕が一番格好いい。」「格好いいのは洋服だ。」「でも僕の目は青いよ。」「醜いね。」「まるで天使さ。」「お前が天使?ぼくの国の方がいい。」「行ったこともないくせに。」「母さんはそういったもん。」「そんなの嘘だ!」「言った。」「言ってない。」「お前の国はここだ。ここで生まれたんだ。」「ぼくの国じゃない。」

 2人が泥まみれになって取っ組み合う、あの印象的な場面が描かれるのはこの直後である。全身泥まみれになってしまえば、どちらがアズールなのか父親にも分からない。先日の「アニメ三昧」という記事で書いたように、シドニー・ポラック監督の「インディアン狩り」にもそっくりな場面が出てくる。肌の色の違いなどなんら本質的な違いではないと言っているのである。もっと後にもほぼ同じ趣旨のせりふが出てくる。ジェナヌ(冒頭の乳母)の元に血の付いた鳩が戻ってくる場面である。下女がアズールとアスマールのどっちの血かと聞こうとすると、ジェナヌが「知るもんですか、血の色は同じです」と怒鳴る場面だ。

 フランス人だろうがアラビア人だろうが、領主の子だろうが乳母の子だろうが血の色は同じ。ここにマイケル・ラドフォード監督の「ヴェニスの商人」の強烈なせりふを重ねてみるといい。「ユダヤ人には目がないか?手がないのか?内臓や体つき、感覚、感情、情熱、食べ物が違うか?刃物で傷つかないか?同じ病気にかからず同じ薬で治らないか?同じ季節の暑さ寒さがキリスト教徒と違うか?針で刺しても血が出ないか?」

Unicorn  かつてフランスの植民地だったアルジェリア問題とそれに対する罪意識を描いた「隠された記憶」を連想してもいい。「アズールとアスマール」は主人公2人が青年になり、共にジンの妖精(乳母が繰り返し語って聞かせた話に出てくる)を救いだす旅に出るという話である。仲のいい幼馴染だった2人が、やがて対立するようになり、共に旅を続けるうちに互いを許しあいまた友情を取り戻す。この話の展開はまさにベルナルド・ベルトルッチ監督の「1900年」とそっくりだ。同じ1900年に生まれた二人の幼馴染、農園主の息子アルフレード(ロバート・デ・ニーロ)と小作人の息子オルモ(ジェラール・ドパルデュー)がたどった数奇な運命を描く歴史的名作である。

 もちろん「アズールとアスマール」のテーマはこの大作(上映時間は5時間を越える)に比べればはるかに単純である。話の展開も容易に先が読めてしまう。むしろ金子みすずの「みんな違ってみんないい」と比べた方がいい気もするが、それを単なる味付け程度だと考えてしまうわけにはゆかない。この映画に関してほとんどすべての人が評価するのは絵の美しさである。イスラム圏の国々独特の模様・文様と様式、エキゾティシズム、絵の細密さ、強烈な色使い(教会のドームが半分崩れて、内壁に描かれているマホメットの巨大な顔が外から見える構図は秀逸だった)。しかしそれはテーマを超えた魅力でも、テーマと別次元の魅力でもない。異文化への強烈な関心、単なるエキゾティズムを超えた異文化に対する共感と賞賛、これは上記の人種差別のテーマと切り離しがたく結びついているのだ。決して対等な関係にない異人種や異民族に対する共感と連帯は異文化に対する共感や賞賛と不即不離の関係にある。テーマはお決まりの紋切り型で単純だが、絵は美しいというとらえ方ではこの作品を十分理解したことにはならない。全編を覆うあの独特の文化を持った世界に入り込むこと自体、テーマに引き込まれてゆくことなのである。 

 「アズールとアスマール」の画面にあふれる豊かな模様や意匠、色彩や生活描写(衣装や建物の様式も含めて)が持つ意味は「トランシルヴァニア」における音楽が持つ意味と同じなのだ。どちらも作品にただエキゾティックな味付けやインパクトを与えるだけの添え物ではない。どちらも作品の魅力やテーマと分かちがたく結びついているのである。「トランシルヴァニア」がロマに対する偏見を覆したように、「アズールとアスマール」もアフリカやイスラム圏に対する貧しく埃っぽく汚いといった偏見を拭い去ってゆく。テーマは単純だが絵は美しいと思った時点で既に術中にはまっているのである。

 「アズールとアスマール」では様々な逆転や対比が組み込まれている。アズールの国では青い目を持つものは天使で、黒い目の乳母とその息子のアスマールはその僕である。領主の子アズールは「家名に恥じぬよう」ダンス、剣、乗馬、ラテン語を父に無理やり習わされる。いずれも上流階級のたしなみである。アスマールは遠くからそれを眺めるだけ(もっとも上達はアスマールの方が早い)。ところがアスマールの国に行くと逆に青い目を持ったものは不吉だと差別される。乗っていた船が難破し文無しになったアズールに対し、アスマールの母(かつての乳母)は大金持ちになっている。フランスで乳母をしていた時ジェナヌには名前がなかった(もちろん比喩的な意味で)。ただ「乳母」、「アラビア女」と呼ばれているだけだ。海の向こうの国に来て初めて彼女がジェナヌという名前だと分かる。名前がないということは人格そのものを認められていなかったということだ。

Tukiusa2  そのジェナヌは青い目のアズールを見ても驚かない。2つの世界を見てきたから他人よりも倍世間を見てきたと彼女は言う。二つの世界、2つの文化を等価として見る視点、これは監督自身の視点と重なる。ミッシェル・オスロ監督はコート・ダジュール生まれ。普段はアフリカに住み、休暇になるとフランスのニースに戻るという生活をしているという。(たとえ目の色や肌の色は異なろうとも)「血の色は同じです」と言ったのはジェナヌだったことをもう一度思い出しておこう。乳母をしていたときも二人の子供に等分に乳とおやつを与え、フランス語とアラビア語で語りかけていた。青い目をあがめるのも忌み嫌うのも共に偏見であることを彼女は知っていた。彼女はこの作品の中心軸にいる人物なのである。

 だが、アズールとアスマールとジェナヌ、この3人だけでは話は単純になりすぎる。そこでクラプーという「旅の仲間」が登場するのである。この男も20年前にジンの妖精を救いに来たのだ。しかし妖精がとらわれている地底王国へ行くのに必用な3つの鍵が手に入らないために、乞食のような格好をしてその国に住んでいるのである。何事につけ不満を漏らし、ブブーという不快な音を出す(不愉快だが道案内人として必要な人物という意味では「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムのような存在だ)。マスタードもない、鐘もない、木靴もないと、「ないもの」をやたらと探し出す名人。赤・黄・青などの色があふれる染色職人の町を通った時には「灰色さえない」と言い出すからやっかいだ。

 このクラプーという人物とシャムスサバ姫(好奇心が旺盛でおしゃまな女の子)は「シュレック」などのアメリカ・アニメを意識したキャラクターである。クラプーはおしゃべりなロバのドンキーに相当し、子供のシャムスサバ姫はフィオナ姫に当たる。「シュレック」は従来のディズニー・アニメのお決まりのパターンをひっくり返してみせた映画である。その意味で「シュレック」的2人の脇役は価値観を逆転してゆくこの映画にふさわしいともいえる。クラプーは終始黒メガネをかけ、自分の目の色は黒だと言っているが、実は青い目を持っていた。一方、海の向こうの国にやってきたばかりのアズールは「青い目」だと差別され、それなら目を閉じてしまえば目の色が分からないと盲人に成りすます。彼が目を閉じたのは「こんな汚い国なんかいやだ!」という気持ちもあった。クラプーは目に見えるものにアレコレ不満をいい、アズールは汚いものを見ることを拒否する。共に青い目を隠していたように、この二人の態度には共通するものがあった。

 面白いことに妖精がとらわれている場所に行くために必要な鍵を見つけたのは目の見えるクラプーではなく、目の見えない振りをしていたアズールなのである。目が見えていても偏見で曇っていては真実が見えない。そう言いたいのだ。一方、アズールは何も見えなくなったのではなく、肌の色や目の色などの表面的なもので判断することをやめたから必要なものが見つけられた、そう暗示している。目の見えないアズールがかつての乳母を見つけたのは大富豪ジェナヌの屋敷から漏れてきた声が乳母の声だと即座に判断できたからである。

 クラプーの黒メガネは不快な外界を遮断する防御壁だった。しかし、不満ばかり漏らしている態度とは裏腹に、彼もまた迷い込んだ異国の魅力にとらえられていた。「それでもこの国が好きだ、この街で暮らしていかなくてはならない。」彼が自分の国に帰らなかったのはジンの妖精を救い出すという夢を諦めきれなかったからだけではない。

 もうひとり重要な役割を果たしているシャムスサバ姫は登場するなり大活躍する。まず、美しいお姫様ではなくまだ小さな子供だったことで観客を驚かせる。次に大掛かりな天体観測装置を手足のように操ってみせる。この軽快な動きはアメリカ・アニメさながらだ。しかし一番印象的なのは彼女が王宮を抜け出す夜の場面。これは明らかに「ローマの休日」へのオマージュである。宮殿から出たことのない姫は本物の土、木、猫、ホタルに驚く。夜空を背景に、木に登って夜景を眺める二人の場面は「プリンス&プリンセス」で駆使した切り絵の技術が生かされてとりわけ美しい。

 この木登りの場面から展開が大きく変わる。二人はたまたま木の上から悪徳商人ウアルが部下を集めているところを見てしまう。二人はウアルたちに見つかってしまい、部下たちに追われるはめになる。この場は何とかおとり作戦で姫を無事に宮殿へ戻すことができた。しかしここからジンの妖精をめぐる追いつ追われつのめまぐるしい活劇へと転調する。

Sdcutmo317  ところがここからはアメリカ製アニメとはっきり違う展開になる。アメリカ映画ならそこからが見せ場になるわけだが、「アズールとアスマール」ではアズールたちの前に立ちふさがる様々な障害は拍子抜けするほどあっさりクリアされてしまうのだ。つまり手に汗握るサスペンスや驚天動地の罠が仕掛けられている大スペクタクルなどにこの映画の主眼はないのだ。インディ・ジョーンズ・シリーズや「ナショナル・トレジャー」などのアメリカ映画的展開を一通りなぞって見せはするが、アクションよりもむしろ真紅のライオンやサイムールの鳥などといった怪物、あるいは地底王国の摩訶不思議な造形に心を奪われる。やはり絵と想像力が魅力なのである。

 ジンの妖精はあっさり救い出される。残る問題はアズールとアスマールのどちらが王子になるかという問題である。2人は互いに譲り合い、結局二組のカップルが生まれる。英雄的活躍ではなく、心が離れていた二人の幼馴染の友情が取り戻されることに重点が置かれている。

 アメリカ映画やアニメをうまく取り込み、かつ真似に終わるのではなく独自の作品を作り上げた。テーマの展開は単純だといわざるを得ないが、子供も見ることを前提に作られたアニメとしては立派な出来だ。大人の目からは不満もあるが、扱いにくいテーマを見事にアニメの中に組み入れていることに敬意を評して、大甘だが、満点を献上したい。

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2008年3月19日 (水)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(08年4月)

【新作映画】
3月22日公開
 「88ミニッツ FBI異常犯罪分析医ジャック・グラム」(ジョン・アブネット、米独)
 「パレスチナ1948 NAKBA」(広河隆一監督、日本)
3月29日公開
 「悲しみが乾くまで」(スサンネ・ビア監督、英・米)
4月5日公開
 「モンゴル」(セルゲイ・ボドロフ監督、独・ロシア・モンゴル・カザフスタン)
 「ファヴェーラの丘」(ジェフ・ジンバリスト監督、ブラジル・米)
 「ランジェ公爵夫人」(ジャック・リベット監督・フランス・イタリア)
 「船、山にのぼる」(本田孝義監督、日本)
 「うた魂」(田中誠監督、日本)
4月12日公開
 「フィクサー」(トニー・ギルロイ監督、アメリカ)
 「つぐない」(ジョー・ライト監督、英・仏)
 「王妃の紋章」(チャン・イーモウ監督、中国)
 「ブラックサイト」(グレゴリー・ホブリット監督、アメリカ)
 「今夜、列車は走る」(ニコラス・トゥオッツォ監督、アルゼンチン)
 「ジェイン・オースティンの読書会」((ロビン・スウィコード監督、米)
4月18日公開
 「大いなる陰謀」(ロバート・レッドフォード監督、米)

【新作DVD】
3月21日
 「NHKスペシャル 新シルクロード 激動の大地をゆく DVD-BOX」
3月28日
 「アクターズ・スタジオ DVD-BOX②」
 「ディス・イズ・ボサノヴァ」(パウロ・チアゴ監督、音楽)
4月4日
 「シッコ」(マイケル・ムーア監督、アメリカ)
 「ヘアスプレー」(アダム・シャンクマン監督、英・米)
 「ナンバー44」(ジョエル・シャマッカー監督、米)
4月11日
 「ベオウルフ 呪われし勇者」(ロバート・ゼミキス監督、アメリカ)
 「勇者たちの戦場」(アーウィン・ウインクラー監督、米・モロッコ)
 「オリヲン座からの招待状」(三枝健起監督、日本)
4月23日
 「転々」(三木聡監督、日本)
4月25日
 「長江哀歌(エレジー)」(ジャ・ジャンクー監督、中国)
 「中国の植物学者の娘たち」(ダイ・シージエ監督、仏・カナダ)
 「殯(もがり)の森」(河瀬直美監督、日本・フランス)
5月16日
 「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(山崎貴監督、日本)

【旧作DVD】
3月29日
 「何が彼女をそうさせたか」(29、鈴木重吉監督、日本)

 今月は全体に寂しいラインナップになった。劇場新作では「第9回Golden Tomato Awards」でロマンス部門の3位に入った「ジェイン・オースティンの読書会」、ロバート・レッドフォードとメリル・ストリープが組んだ「大いなる陰謀」、ゴールデン・グローブ賞受賞の「つぐない」、ドキュメンタリー「パレスチナ1948 NAKBA」あたりが注目作か。

Cherry02  新作DVDでは「長江哀歌(エレジー)」と「中国の植物学者の娘たち」を早く観たい。昨年は他にも「呉清源 極みの棋譜」、「キムチを売る女」、「孔雀 わが家の風景」、「雲南の少女ルオマの初恋」など、中国映画に注目作が多かった。「シッコ」、「ヘアスプレー」、「殯(もがり)の森」も楽しみ。他にぱっとしたものがないので映画以外のものも拾ってきたが、「NHKスペシャル 新シルクロード 激動の大地をゆく」、「アクターズ・スタジオ②」はおすすめ。特に前者は放送時に観たが、下手な映画よりよほど優れている。音楽もの「ディス・イズ・ボサノヴァ」も興味深い。

 旧作DVDは悲惨。めぼしいものがほとんどない。唯一挙げた「何が彼女をそうさせたか」は1930年の『キネマ旬報』ベストテンで1位に選ばれた作品。傾向映画の代表作の一つとして有名な作品だが、長らくフィルムが失われていた。それがロシアで発見され、2000年に大阪映像フェスティバルで上映された。そしてついにDVDの発売が決定。日本映画史に名前を残す作品として一度は観ておきたい。

2008年3月13日 (木)

アニメ三昧

 この間長編アニメ2本(「アーサーとミニモイの不思議な国」、「アズールとアスマール」)と短編アニメ集「川本喜八郎作品集」を観た。いずれも楽しめたが、特に川本喜八郎の短編「道成寺」、「火宅」、「不射之射」、そしてミッシェル・オスロ監督の「アズールとアスマール」は傑作だった。

Alice4  ミッシェル・オスロ監督作品を観るのは「キリクと魔女」に続いて2本目。「アズールとアスマール」があまりに素晴らしかったので、この2本の前に作られた影絵アニメ「プリンス&プリンセス」(99)も早く観たくなった(DVDを買って2、3年たつのにまだ観ていない)。鮮明で豊かな色彩、強烈なエキゾティシズムに加えて、「アズールとアスマール」では単純な形ながら人種差別問題が盛り込まれている。後半は主人公たちがジンの妖精を救出するため旅に出る展開になるが、彼らの前に立ちふさがる様々な障害はあっさりクリアされてしまう。インディ・ジョーンズ・シリーズや「ナショナル・トレジャー」などのアメリカ映画ならそこが見せ場になるわけだが、「アズールとアスマール」の主眼がそこにないことはこのことからも分かる。白い肌に青い目のアズールと浅黒い肌に黒い目のアスマール、この二人をめぐるドラマがメインなのである。これはレビューを書きたいので、詳しくはそちらに譲るとして、ここでは「ホテル・ルワンダ」のレビューから引用するだけにとどめる。

 シドニー・ポラック監督の「インディアン狩り」(67)という映画がある。バート・ランカスターと黒人俳優オシー・デイヴィス主演の映画で(タイトル通り インディアンも絡んでいる)、映画の出来としては傑作というほどではないが、ラスト近くに極めて印象的な場面が出てくる。黒人のオシー・デイヴィスと白人の無法者が格闘している。近くに立っているバート・ランカスターが悪党のほうを撃とうとするがなかなか撃てない。なぜなら二人の見分けがつかないからだ。 二人は泥水に浸かり泥まみれになって転げまわっている。泥で顔も肌の色も見分けがつかないのだ。結局バート・ランカスターは何とか悪党をしとめるのだが、この場面が象徴していることは明確だろう。泥で覆われてしまえば黒人も白人も見分けがつかない。肌の色などはなんら人間の本質的な違いではない、そう言っているのだ。

 「川本喜八郎作品集」は初期作品から90年の作品まで10作品を収録している(うち1本は全長版と再編集版を収録)。初期の2つの短編はさすがにまだ完成度は低い。人形アニメ「花折り」は動きもぎこちなく、無駄な繰り返しが多い。せりふがほとんどなく、理解しがたいところも多い。アヴァンギャルドな「犬儒戯画」は勢いこそあるものの空回り。師の飯沢匡が「何を言いたいのか分からない」と言ったのも無理はない。3作目の「旅」あたりからぐんと水準が上がり、引き込まれる。アヴァンギャルドな作風だが、こちらはそれを魅力にするテクニックを身につけつつある。

 「詩人の生涯」はいわばプロレタリア・アニメ。動く絵コンテといった白黒の素朴で朴訥なタッチがプロパガンダ的内容とマッチしている。白黒画面とそこから浮き出すような赤いジャケツのコントラストが見事。このあたりまでは自分独自の作風を模索している段階。手探りしながらアニメーションにふさわしい表現力をどんどん高めている。

 独自のスタイルを切り開いたのは有名な人形アニメ「道成寺」あたりからだろう。さすがに傑作である。人形が実に魅力的だ。人形の表情、動きがほぼ完成の域に達している。ただし、まだせりふやナレーションはほとんど用いられていない。それでもストーリーが十分理解できるようになっている。

 「火宅」はさらに傑作だ。この作品集の最高傑作だと感じた。なんと言っても観世銕之丞の語りと武満徹の音楽が見事だった。ストーリー・脚本もよく練られている。ナレーションが入るとストーリーがスムーズに動き出す。初期の作品はせりふがないため不自然で無駄な動作の繰り返しが多かった。その分展開も悠長になっていた。

Sdcutmo313  「不射之射」も「火宅」に並ぶ傑作。橋爪功のナレーションは観世銕之丞にこそ及ばないが、いくつも声を変えて一人で演じていてこれまた見事。中国の話を題材にし、中国で製作したことも特筆されるべきだ。主人公は弓の名手。修行を積み、ついには弓を用いずに的を落とす技を会得する。「真の弓は射ることなし」、これが主人公の到達した境地である。死ぬ直前には弓の名も使い方も完全に忘れていた。煙のごとく静かに世を去った。空には弓形の虹がかかっている。反戦の意図も込められているようだ。スポ根ものや「ドラゴンボール」の原点のような話で、日本人にはすんなり理解できる。

 「いばら姫またはねむり姫」は、何とチェコのトルンカ・スタジオで製作したもの。川本喜八郎はかつてイジィ・トルンカに師事している。原作・ナレーションは岸田今日子。人形はチェコのスタッフが作っている。背景などやはりチェコのスタッフの手が加わるとさすがにリアリティーがある。岸田今日子のナレーションは意外に普通だった。その分物足りない。ストーリーもいまひとつか。でも人形の魅力とチェコアニメの雰囲気はうまく取り入れられていて捨てがたい。

 ナレーションを用いだしてからは格段に作品の完成度が上がった。「火宅」のナレーションはそれ自体がもはや芸であり、魅力だったといっても過言ではない。せりふを用いずナレーションで通すというのは師のイジィ・トルンカが人形アニメの名作「真夏の夜の夢」で用いた手法。21年前に観た時には驚嘆したものだ。約半世紀前の作品だが、今観ても色あせていないはずだ。トルンカの「真夏の夜の夢」と川本喜八郎の「死者の書」はどちらもDVDを持っているのでいつかレビューを書いてみたい。

 「アーサーとミニモイの不思議な国」はリュック・ベッソン監督のアメリカ作品だが、彼らしさもフランスらしさもほとんどない。しかし普通のアメリカのアニメだと思って観れば充分楽しめる。決して悪い出来ではない。「アズールとアスマール」や川本喜八郎の作品に比べたらユニークさのかけらもないが、この手のアニメは楽しめばいいのさ。そうそう、久々に観たミア・ファーローが出色。この人はアニメ・キャラ以上にアニメ的だ。

「アズールとアスマール」(06、ミッシェル・オスロ監督、仏)★★★★★
「川本喜八郎作品集」(68-90、川本喜八郎監督、日本・他)★★★★
「アーサーとミニモイの不思議な国」(06、リュック・ベッソン監督、仏)★★★★

2008年3月 5日 (水)

見知らぬ女からの手紙

2004年 中国 2005年2月公開
評価:★★★★
原題:一个陌生女人的来信
原作:シュテファン・ツヴァイク著「未知の女からの手紙」(『女の二十四時間』所収)
監督・製作・脚本:シュー・ジンレイ
撮影:リー・ピンビン
美術:ツァオ・ジューピン
音楽:久保田修、リン・ハイ
出演:シュー・ジンレイ、ジャン・ウェン、リウ・イエ、ホワン・ジュエ

Ataiwan076_2  中国には珍しい大悲恋もの。2000年の「初恋のきた道」以降恋愛ものは増えてきたような気がする。「藍色愛情」、「小さな中国のお針子」、「春の惑い」(古典的名作「小城之春」のリメイク版)、「たまゆらの女」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」、「緑茶」、「ジャスミンの花開く」等々。韓国映画に比べればはるかに少ないが、「初恋のきた道」、「小さな中国のお針子」、「ションヤンの酒家」、「天上の恋人」などは韓国映画でもこれに匹敵する作品は少ない。公開本数は韓国映画にはるかに及ばないが、作品の質はまだまだ中国映画の方が上である。

 「見知らぬ女からの手紙」は2004年の第17回東京国際映画祭に出品された作品。一応一部で劇場公開もされたようだが、ほとんど話題にもならなかったのではないか。それが今年になって突然DVDが出た。全くノーマークだった作品である。知人の勧めで観てみたが、確かによくできている。

 絵に書いたような悲恋もので、恐らく女性の方が男性より支持する人が多いだろう。特に序盤、ヒロインの少女時代が素晴らしい。20歳ほども年が違う男性に対する少女のほのかな憧れが切なくまたみずみずしく描かれている。少女が大人になって以降はやや設定に無理が感じられる。ストーリーの展開はリアリティと説得力に欠ける。しかしそれでも観終わった時に上質のロマンス映画を観たという印象が残るのは、大人のヒロインを演じたシュー・ジンレイが魅力的だからだ。実際、序盤を除く部分の魅力はほとんど彼女の魅力だといっても過言ではない。

 「スパイシー・ラブスープ」、「ウォ・アイ・ニー」に続いてシュー・ジンレイを観るのは3本目。「スパイシー・ラブスープ」は中国映画の新しい世代の到来を感じさせた秀作だったが、5話からなるオムニバスなのでシュー・ジンレイの活躍の場はそれほど多くなかった。「ウォ・アイ・ニー」はとんでもない怪作。夫婦喧嘩を延々見せられる壮絶な怒鳴り合い映画。観終わった後げんなりした。異様な迫力があったのは確かだが、さっぱりわけが分からん。シュー・ジンレイは美人だと思ったが、作品がこれじゃ記憶に残る映画ではない。一転して「見知らぬ女からの手紙」では一度も怒鳴ることはなく、彼女の可憐さと華麗さをたっぷり堪能できる。眼福の映画だ。監督としてはこれが2作目で、新人監督としては悪くない出来だ。「夢想照進現実」という3作目も2006年に完成させている(未公開)。

 相手役は何とジャン・ウェン。とてもこの美女が愛する男には見えないのが難点だが、彼は「緑茶」でもシュー・ジンレイと並ぶ「中国四大若手女優」の1人ヴィッキー・チャオの相手役を務めている。中国ではもてるタイプなのだろうか?まあ、いずれにせよ、ここでは新聞社に務めるプレイボーイの作家として登場する。ダンスホールなどに入り浸り、とっかえひっかえ美女をはべらせている。相手がこんな男では、そもそも恋の成就はおぼつかない。

 原作はシュテファン・ツヴァイクの短編小説。1948年の映画「忘れじの面影」はその最初の映画化作品である。ジョーン・フォンティーン、ルイ・ジュールダン主演、監督は恋愛映画の名手マックス・オフュルス。「輪舞 ラ・ロンド」(50年)、「たそがれの女心」(53年)、「歴史は女で作られる」(55年)などで知られる。

* * * * * * * * * * *

 映画は新聞社勤務の作家シイ(ジャン・ウェン)に突然見知らぬ女から手紙が舞い込むところから始まる。1948年の暮れ、舞台は北京。その長い手紙には一方的に彼を愛していた女性の心情が連綿と書かれていた。手紙の最初には昨日息子が亡くなった、もうあなたしかいないと書かれていた。さらにこう続く。「私の人生はずっとあなたのものでした。あなたは何も知らないまま。・・・あなたが手紙を受け取ったときは、私はもうこの世には存在しません。・・・一つだけお願いがあります。これから私が話すことを信じて欲しいのです。」

 非常に心惹かれる出だしである。これだけ彼女が愛していながら、相手がそれに全く気づかないとは一体どんな状況だったのか。なぜ彼女は死ななければならないのか。そこから彼女の手紙を再現する形で、過去から現在までの二人の関係が描かれてゆく。

 時代は一気に1930年までさかのぼる。北京のある四合院が舞台。四合院とは中国の伝統的家屋建築で、中庭を囲んで建物がロの字型に並んでいると考えればいいだろう。本来は全体で一つの世帯なのだが、何せ広いので何世帯かに分かれて居住していることも多いようだ。この映画の場合も共同住宅になっている。ヒロイン(リウ・イエ)はその一角に住む貧しい教師の妻の娘である。その別の一角が空き家になり、新しい借主として新聞社勤務の作家が入居することになった。「それがあなたでした。」

Ataiwan075   ヒロインの少女(後半で「ミス・ジアン」と呼ばれる場面が出てくるが、最後まで正確な名前は出てこない)は運び込まれてきた大量の荷物の中にたくさんの本があるのを見つける。多くは外国の本だった。家の中にほとんど何もない貧しい暮らしの少女には、運び込まれてきた荷物や書物が眩しく見えたことだろう。その時点で既に少女はどんな人物が引っ越してくるのか強い関心を持っていたに違いない。作家の男(ジャン・ウェン)は後からやってきたが、少女は門のところで男とたまたまぶつかってしまう。男は”Sorry”と英語で謝った。初めて見た男は裕福そうなインテリタイプだった。「その瞬間私はあなたに恋をした。・・・その瞬間から私の心の中にはあなたしかいなくなった。」そのとき少女は10代前半、男は30代か。15歳から20歳は年が離れていただろう。何が彼女の心をひきつけたのかは分からないが、恐らく(同じ四合院の中に住んではいるが)自分たちとは全く違う世界に住む異質な男に引かれたのだろう。

  しかし男の裕福さに引かれたわけではないようだ。彼女は手紙の中でそれを「何の見返りも求めない無償の愛」だと言っている。実際見返りを求めようもない。明らかに身分違いなのだ。年齢も違う。女とすら思われていない。だから少女の「愛」は一方的なものになった。いつも遠くから彼の姿をのぞいているだけだ。作家が仕事をしているのを見て、突然文字の学習に力を入れだして母親を驚かせたりする。手が届かないがゆえの純粋な想い。それは「愛」というよりは「憧れ」に近いものだったろう。

  少女は彼女なりに大胆な手段も用いた。下男が干していた布団をしまう手伝いをして、まんまと作家の家の中に入ってしまうのだ。少しでも彼に近づきたい、彼の生活をわずかでも覗いてみたい。初めて作家の部屋に入った彼女は彼の匂いをかいだ。「あなたのタバコのにおいがした。」少女は彼の本や家具や西洋の人形などに手を触れてみる。家の中の作り、家具などは明らかに少女の家と違う。恐らく彼が入った建物は「正房」と呼ばれる家長が住んでいた建物で、彼女が住んでいる建物は「廂房」と呼ばれる家長を除いた家族に充てられていた建物だったのだろう。同じ中庭を共有しながらも、彼の住んでいる建物の扉の中に一歩入るとそこは別世界だったのである。それまで見たこともないような外国語の本や贅沢な調度品。一つひとつ彼女は手で触れてみる。彼が触れたものに自分も触れてみる。ただそれだけのことが彼女には無上にうれしかった。「私の少女時代の最も幸せなひと時だった。」

  少女時代のクライマックスは別れの場面である。その日は突然訪れた。彼女の知らないところで彼女の縁談がまとまったのだ。相手はちょっとした財産もある男。山東でお嬢さんとして暮らせるよと母親はうれしそうに話す。しかし彼女にとってそれは死の宣告と同じだった。「もうあなたに会えない、そう思うと人生が終わったような気がした。」山東に発つ前の晩、いたたまれなくなった彼女は部屋を出て作家の家まで行く。ノッカーを軽く鳴らすが、誰も出てこない。彼女にできるのはただ待つことだけ。だいぶたってから作家が女の人と外に出てきた。少女は物陰で涙を流す。

 この序盤部分が素晴らしいのは報われない愛を描いていたからだ。見返りはなくとも一途に彼を思う切ない気持ちが素直に伝わってくる。詳しい説明などなくとも理解できる。彼女は男自身だけではなく、彼が身にまとっていた彼女とは異質な世界のきらびやかさに引かれていたのだろう。それまではくすんでいたであろう彼女の人生に彼は鮮やかな色を塗りこんだのである。

 彼女がつかの間享受した人生の輝きは山東へ引っ越すことで突然断ち切られてしまった。時間は一気に6年後に飛び、彼女のナレーションが入る。「大勢の人に囲まれた孤独ほど寂しいものはない。山東での6年間私は痛いほど孤独だった。考えるのはいつもあなたのことばかり。あなたを待ち続けた日々を繰り返し思い返していた。あの1年だけが少女時代のすべてだった。」彼女の人生から突然また色が失われてしまった。暗く鬱屈した日々。「あの1年だけが少女時代のすべてだった」というせりふが何とも痛切だ。20年近く生きてきて唯一輝いていた時期。男の姿を観ているだけで幸せを感じていた。そのささやかな幸せはもろくもしぼんでしまった。

 ここまでは素晴らしい出来だったと思う。ここまでで終わらせておけば見事に完結した短編映画になっただろう。しかし実際にはここまではまだ序盤であって、その後のシュー・ジンレイが大人になったヒロインとして登場してくる部分が大部分を占めている。これ以降は映画のトーンが変わってくる。画面にみなぎっていた少女の切ないまでの想いはシュー・ジンレイの大人の女としての魅力に切り替わって行く。残念ながらこの部分が序盤に比べると弱い。無理やりくっつけた後日談のようになっている。

Lamp3s  序盤部分が説得力を持っていたのは男が手の届かない存在だったからであり、ヒロインがまだ世間知らずの少女だったからである。しかし少女が大人になったとたんあっさりと男に手が届いてしまうのである。ヒロインは男への思いを断ち切ることができず、ついには北京女子師範に合格し大学生として北京に戻ってくる。生まれ育った四合院の近くに住んで、窓から道を通る作家を眺めている。スケート靴を履いた女性を連れた作家が彼女を追い越していったこともある。そのときもまた男は”Sorry”と言った。互いに人力車に乗って出くわした時に作家は彼女に興味を示した。このあたりでこの作家が女をとっかえひっかえしている節操のない男だということが分かってくる。奇妙なのは彼女がそれをなんら気に留めていないことだ。

  抗日デモに参加していた彼女が警官隊に襲われて逃げ惑っている時に、たまたま近くで取材していた作家に助けられる。無事難を逃れた2人は一緒に食事をした後、彼の家で抱き合う。彼女は「ずっと待ち望んできた瞬間がここに。とうとうこうしてあなたに抱かれている。これが私の夢。ついに現実となった。覚めても決して消えることのない夢」と語っているが、男にとっては彼の前を通り過ぎていった何人もの女の1人に過ぎなかった。女は自分が誰であるかを打ち明けようともしない。男は「どこかで会ってる?」と聞くが、なぜか女は否定する。それでいて女はうれしそうだ。

  この映画のドラマ的展開の基盤は序盤で描かれた少女の切ない想いにある。子どもたちが手を伸ばして月や星をつかもうとするように、手の届かない存在にひそかな憧れを持っていた少女。久しぶりに作家の家に入り、立派な装丁の本や外国の人形など、作家の家の中の懐かしいものに手を触れるときの彼女は本当にうれしそうだ。ここは印象的な場面だ。なぜなら少女時代と直接的につながっているからである。

  しかしこの幸せも長続きはしなかった。男が取材に行ってしまったからだ。「戻ったら連絡する」と言い残したが、2ヶ月たっても連絡はなかった。さらに8年後、彼女はまた男と出会う。彼女は高級娼婦として軍の将校に囲われていた。どんどん話は非現実的になってゆく。「奥様」と呼ばれ、毎日遊び暮らしている。いつの間にか作家と同じような場所に出入りし、共通の友人さえあった。作家と出会ったのはダンスホールである。この時も男は彼女のことを忘れている。しかしまた彼女に関心を示す。男がかけた言葉に「誰とでも付き合うの」と女は答え、再び彼女は作家と抱き合う。「プライドなんてどうでもいい。誘われれば応じる。あなたの魅力には逆らえない。10年たっても何一つ変わっていなかった。あなたに誘われればたとえ墓の中にいようと、よみがえってついて行く。」

  浮気者の作家にとって彼女はしばらく離れていれば忘れてしまう程度の存在だったのである(男がこれほど完全に女のことを忘れてしまうというのも不自然だが)。その程度の男なのだが、なぜか女は少女の頃と同じ気持ちで彼を見ているのだ。そこが理解しがたい。6年の月日は何も女の意識を変えなかったのか。少女の頃はいざ知らず、大人になっても男を見る目は成長していないのか。少女の頃の想いがまるで冷凍保存されたように変わらずに続いている。恋愛は理屈で割り切れないところもあるが、敢えて理屈をつければ、恐らく彼女は作家本人に対してではなく、無条件に彼にあこがれていた頃の自分にいつまでもあこがれていたのかも知れない。しかし、そう説明をつけたところでリアリティが感じられないことに変わりはない。

  監督・脚本のシュー・ジンレイとしてはそれほど彼女の想いは強かったのだと言いたいのだろう。しかし、それだけ強い想いを持っていながら女は男に結婚を迫るわけでもない。実は男が去った時彼女は妊娠していた。「私はあなたを永遠に自分のものにした。自分のお腹にあなたの命を宿し、その成長を見守ることができるのだ。そう思うととても幸せだった。あなたは私のものだ。」しかしそう言うわりには子供のことはほとんど描かれない(男が現われたとたん彼女の意識は子供から男に向いてしまう)。しかも子供がいることを男に伝えようともしない。「あなたの負担になりたくなかった。ただ私の存在に気づき、愛して欲しかった。他の女性たちとは一線を画したかった。でも、あなたは私に気づく事無く、私のことを忘れ去った。」相手の負担になりたくないと思う一方で、他の女たちよりも自分を愛して欲しいと願う。この矛盾した心理を理解する鍵は「何の見返りも求めない無償の愛」という前述の言葉だろう。しかし彼女は既に彼と体を交え子供すらもうけている。男に手が届きようのない少女の頃だったら「無償の愛」も理解できるが、その後の展開にはどうもしっくり来ないというのが正直な印象だ。

S_g_2  しかしこれだけ疑問だらけの展開であるにもかかわらずシュー・ジンレイが画面に出ているだけでそれなりに魅せてしまうのだからすごい。この点では確かに理屈を超えている。ただ、シュー・ジンレイがどんなに頑張っても少女時代の輝きを超えられなかった。それは監督としての彼女自身も分っていたのかも知れない。ラストでもう一度少女が出てくるのだ。最後にまた現在に戻り、手紙を読んでいる作家が映る。彼は家のドアを開けて、最初に女と出合った門のほうを見る。その門の隙間からこちらを覗いていたのは少女の顔だった。「男人的一夜 女人的一生」(男にとっては一夜の事でも、女は一生想い続ける)というサブタイトルは、せめて学生時代で物語が終わっていれば本当に胸に響いただろう。

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2008年3月 3日 (月)

不思議の町祢津

 今日は前回に引き続いて祢津(ねつ)探索に行くことにした。国道18号線から浅間サンラインに出て小諸方面に向う。新屋の信号で左折する予定だった。ところがその信号を見落としてしまった。あれ、こんな先だったかなと思い引き返そうかと思ったとき新家の信号が見えてきた。やれやれここだったかと安心して左折した。本来はここで気づくべきだった。実はサンラインには「新屋」と「新家」というよく似た名前の信号があったのだ。もう何十回となく走っているのに今まで気づかなかったなんて!

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 しかし、何が幸いするか分からないものだ。この勘違いが意外な発見に導いてくれた。山道を登りながらやはりここは違うと気づいて途中から引き返してきたのだが、そのときに信じられないものを見た。「あれ、今確かに人がいたよな。」いるはずのないところに人が見えたのだ。しかも、かがんでいるあの姿勢はひょっとして?あわてて道端の通行の邪魔にならないところに車を停めて、デジカメを持って飛び出した。坂道を少し戻ると左手にため池がある。帰宅後地図で確認したところ、どうやら天池という名前らしい。

 池は何と完全に凍結していた。氷の上に雪が積もって全体が真っ白に見える。その池の氷の上で人が釣りをしていた。この時期になるとよくテレビで見かける風景ではある。氷上のあちこちに小さなテントを設営して、氷に穴を開けて魚を釣る。ワカサギ釣りだ。それと同じ光景をこんなところで見かけようとは。釣っているのはワカサギだろうか?わざわざ放流したのか?いずれにせよ、こんな光景は初めて見た。そもそもいくら寒いといっても塩田辺りのため池では人が上に乗れるほど厚くは氷が張らないだろう。上田の標高は400メートルだが、この辺は500メートル以上あるかもしれない。

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 いやはや、怪我の功名とでも言おうか。道を間違えたおかげで面白い写真が撮れた。ほくほくしながら車に戻り、また道を引き返す。今度は間違いなく「新屋」で曲がった。坂を上ってゆくと左側に大きな案内地図があった。クマイチさんが言っていたのはこれだったか。看板の下を曲がって祢津公民館の駐車場に車を停めた。前回来たときにこの公民館の写真を撮っていたが、裏側から入ってきたので入り口にあるこの大看板には気づかなかった。それにしてもこの狭い地域に公民館が3つもあるなんて。やっぱり祢津は只者ではない。

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 さっそく地図に従って八間石を見に行く。根津小学校の近くにあるようだ。八間石とは長さがおよそ八間(15m)ある巨岩。昔所沢川で土石流が発生した時その勢いて500m下まで押し流されてきたのである。小学校を過ぎてさらに少し歩くと右側にそれらしき岩が見えてくる。所沢川に掛かる塩沢橋のところで右に入ると川のすぐそばに八間石があった。世界一の一枚岩、オーストラリアの「へそ」エアーズ・ロックに比べれば桁違いに小さいが、こんなものが上流から押し流されてきたのかと驚くには充分な大きさである。

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 また看板のところに引き返す。途中「巫女の墓」があるはずだが、見つからなかった。石碑は一つあったがどうも違うようだ。ところが後でよくその写真を見たら、その背景に大きな石碑がもう一つ写っていた。あるいはこれがそうだったのかもしれない。

 次に長命寺に行った。看板からまっすぐ坂を登った突き当たりだ。お寺の前に青と緑の中間のような色の帽子を被ったお地蔵さんがあった。よく見かける赤い帽子もかわいいがこの色もなかなかいい。お寺の横に六地蔵が並んで立っていた。これがまた何ともかわいい。こちらは黄色やら緑やらカラフルな帽子を被っていなさる。横にその由来が書いてあって分かりやすい。門の中には入らずに、横手を回って寺の裏手に出た。散歩道がついており、お姫尊と巨石があるらしい。道は左に続いているのでそのままゆけば西町の歌舞伎舞台(前回東町の歌舞伎舞台を撮ったので、今回はこちらを撮るのが主たる目的)の方に行くだろうと見当を付けて、散歩道に踏み込んだ。

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 最初はのぼりできつい。息が切れるころに天辺に出る。そこからは緩やかな下り。下り切ってやっと舗装道路に出たが、お姫尊と巨石がどこにあるのかわからなかった。途中から何も案内板がない。通り過ぎてしまったのか、この先にあるのか。舗装道路との合流点に「水神宮」と書かれた鳥居があるが、これもそれらしきお宮は見当たらない。舗装道路をさらに登ったところにあるのかも知れないが、そこまで行ってみる気はないので道を下った。

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 道々両側を見ながら歩いているといろんなものが見つかる。石を組んで作った窯の様なものがあった。炭焼き窯だろうか。上から煙が出ている。次に「宮ノ入のカヤ」と書かれた看板が目に入る。カヤ葺き屋根のカヤだが、不思議なことにそれらしき木が見当たらない。高さ35mもある「わが国でも有数の巨樹」と書いてあるが、看板の近くにあるのはせいぜい2m程度の木だけ。切ってしまって看板だけ残っているのか?それにしては切り株も見当たらない。う~ん、まさに不思議の町。誰も歩いていないので尋ねてみる事もできない。

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 その看板のすぐ下に実は「祢津氏居館跡」があったのだが、これも見落とした。もう少し坂を下ると歌舞伎舞台が見えてきた。読み通り、長命寺裏の散歩道は祢津建事神社の上に出るようになっていたわけだ。西町の歌舞伎舞台は東町のそれと形も大きさもほぼ同じだった。こちらも雨戸が閉まっているので中は見えない。脇の説明書きによると歌舞伎はごく近年まで村の人たちによって演じられたとある。例祭や秋の豊年祝など村人たちの生活と密着していたというのはすごい。豊かな町だったに違いない。実際、町中を歩き回ってみると、どっしりとした大きな岩などを配した立派な日本庭園を持った家が多い。

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 歌舞伎舞台と祢津建事神社の写真をふんだんに撮ってまた先へ行く。しかし面白い町だ。家がまばらなところは本当に田舎の風景だし、路地などはどこか懐かしさすら漂っている。古い建物や時には廃屋と思われる建物が随分たくさん残っているのだが、感じるのは貧しさではなく豊かさである。小さな祠や道祖神などが町のいたるところにある。板塀の前、庭の一角、面白いのは家の土台の石組みの中に組み込まれていた夫婦道祖神。こんなものは初めて見た。元々そうなっていたのか、家を建て替えるときに近くにあったものを石垣にはめ込んだのか。いずれにせよ、文字通り生活の中に歴史が違和感なく溶け込んでいる。その自然な佇まいが素晴らしい。

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 もう一つ、真田東部線沿いを歩いていたとき不思議なものを発見した。四角い土台の上に半球体が乗っている。球体の一部は縦に切れ込みが入っている。見たところ天文台だ。誰か天体観測が好きな人が、趣味が高じて自分で天文台を作ってしまったのか?

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 いや、参りました。本当に不思議がいっぱい。不思議の町祢津、またいつか来てみよう。東京の「谷根千」に感動した人はぜひこちらの祢津にも来てみるべきですね。

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<付記>
 別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」を作ってから、写真日記や旅行記は基本的にそちらに載せるようにしています。しかし今回は広く「祢津」を知ってほしいと思ったのでこちらのブログにも載せることにしました。
 別館ブログの方には今回の記事と対になる「祢津の山に異界を見る」という記事も載っています。どうかあわせてお読みになってください。また東京の根津を訪れた時の写真日記「谷根千そぞろ歩き」、「谷根千そぞろ歩き その2」も載せてあります。

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2008年3月 2日 (日)

「アース」を観てきました

2007年、ドイツ・イギリス、2008年1月公開
監督:アラステア・フォザーギル 、マーク・リンフィールド
評価:★★★★

 1日は映画の日。映画の日が土日と重なる機会は少ないので、逃してはならないと思って電気館で記録映画「アース」を観てきました。

Artiruka05200wa   「WATARIDORI」、「皇帝ペンギン」、「ディープ・ブルー」、そして「アース」。「ディープ・ブルー」から4年を経て、再びそのスタッフが「プラネットアース」というより広い視点から、さらに地球温暖化問題という視点を盛り込んで、新たなネイチャー・ドキュメンタリー映画を届けてくれた。前にも書いたが、僕はこの種のドキュメンタリーが好きだ。テレビの番組でも見かけたらまず最後まで観てしまう。「シルクロード」、「世界わが心の旅」、「世界遺産」などのシリーズ、あるいは動植物や昆虫などの生態を描いた番組。まだ見ぬ街やふだん身近に見ることのない生き物の世界に否応なく魅せられてしまう。中でも、イギリスBBC製作のドキュメンタリー番組はどれも質が高く必見である。映画も上記の他に、ジャック=イヴ・クストー監督の「沈黙の世界」(56年)を始め、「アトランティス」(91年、リュック・ベッソン監督)、「地球交響曲」(92年、龍村仁監督)、「地球交響曲第二番」(95年、龍村仁監督)、「不都合な真実」(06年、デイビス・グッゲンハイム監督)などのドキュメンタリーを観てきた。

 日常生活では決して見られない驚異の世界。遠い異国の街や深海や極地の氷の世界などに人が魅せられてしまうのは日常性からの脱出という願望があるからだろう。どんなに移動手段が発達しても日々の生活は一定の地域内に限定されている。それでも、異国の街は旅行に出かければ一応見ることは可能である。しかし、深海や高山や極地の世界は、月から見た地球の映像同様、一般の人には直接目にすることがまずできない世界だ。ほとんどの人にとって、そういった場所は記録映像でしか見ることができないのである。人を容易に寄せ付けないこれらの場所は映像関係の技術や機材の発達があって初めて記録できるようになった。だから人々は画面に引きつけられてしまうのだ。

 最近よくテレビで「驚異の映像」が流されるが、宇宙全体から見れば小さな点にしか過ぎない地球も、そこに住む小さな人間にとってはそれ自体が宇宙といってもいいくらい巨大である。誰もがそのごく一部しか見ていない。地球上にはまだまだ未知の世界、信じられないような光景がいくらでもあるのだ。げに、ドキュメンタリー映像を観ることは未知との遭遇なのである。しかし、「アース」はただ自然の驚異に目を瞠っていればいい映画ではない。映像に人間は一人も映っていない。だが常にその映像の背後に人間の活動が影を落としているのだ。「アース」はみて驚き、かつ考えさせられる映画なのである。

Photo  イギリスの映画史を見ると数多くの古典的ドキュメンタリー作品に出会う(去年有名な「エヴェレスト征服」がDVDになった)。その伝統は世界に名高いBBCのドキュメンタリー番組に脈々と受け継がれている。映像プロデューサー、自然誌学者、動物学者であるデヴィッド・アッテンボロー(俳優・監督として有名なリチャード・アッテンボローの弟である)に案内されて次々に展開される驚くべき映像を眺めた人も多いだろう。「アース」の監督アラステア・フォザーギルとマーク・リンフィールドは共にBBCで数多くの番組を作ってきた人たちである。BBCはJIS規格以上に信頼と安心の印。そのベテラン2人が最新の機器を駆使して撮ったのだから悪かろうはずはない。

 とにかく壮大な企画だ。北極から南極へと進む地球縦断の旅(何と奈良県吉野山の桜の開花も出てくる)。ノルウェーの北方に位置する島コン・カールス・ランドでホッキョクグマの親子を撮り(撮影クルーの立ち入りが許可されたのはこれが初めてだそうである)、同じくノルウェーのスヴァールバルでほとんど体重を支えられないほど薄くなった流氷上を進むホッキョクグマをヘリで空撮し、カナダのノースウェスト・テリトリーではオオカミたちがカリブーの群れに襲い掛かる一部始終を撮り、ボツワナのチョベ国立公園でライオンの群れによるゾウ狩りを撮った(超高感度カメラによる夜間撮影が驚くほど鮮明だ)。

 記憶に残る印象的な場面がたくさんある。冬眠から覚め穴の外に出てきたホッキョクグマの小熊たちがおっかなびっくりで雪の急斜面を降りたり登ったりするかわいいしぐさ、流氷が余りに薄くて何度も足が氷を突き破ってしまい、最後には流氷の間を泳いで行くホッキョクグマのオス。画面の端から端まで広がるタイガの針葉樹林、世界一の高峰ヒマラヤを命がけで越えてゆく渡り鳥(アネハヅル)たちの姿、巨大な象に襲いかかるライオンの群れ、水を求めて乾いた大地を延々と移動する象たちの過酷な旅(「皇帝ペンギン」を連想させられる)、群れからはぐれた象の親子を襲う猛烈な砂嵐、オットセイを口にくわえて水面を高々とジャンプする巨大なホオジロザメ、大洋を悠々と泳ぎ回るザトウクジラの親子。チーターに追われ必死で逃げるガゼルの子どもの映像には思わず「走れ!逃げろ!」と心中で叫んでいた。初めて見る鳥も出てくる。パプアニューギニアの熱帯雨林に住むカタカケフウチョウの求愛行動は実にユニークだ。羽飾りをぱっと広げると鏡餅に目と口を描いたようなユーモラスな形に早や変わりする。

 おやおや、ほとんど全部挙げているではないか。まあ、映画館の大画面で観る映像は見慣れた光景でも大迫力の魅力ある映像に変えてしまう。人間を除く様々な生き物が登場するが、主役はやはり地球だ。必死で生きる生き物たちを観ていると、生き物たちばかりではなく地球自体が生きていると感じてくる。雪を割って芽が出てきて、木々に緑の葉がつき、花が咲き、花と葉が散り、色とりどりだった山がやがて茶色に変わり、雪に覆われてゆく。四季の移り変わりを一気に早回しで観ると、生きている地球の息遣いが聞こえてきそうだ。

 冒頭に出てくるナレーション(英語版はパトリック・スチュワート、日本語版は渡辺謙)が印象的だ。地球の地軸が傾いているからこそ地球には四季のうつろい、寒暖の差、そして生命が生み出されることになったのだと。地軸が傾いているから、生命が生息するための完ぺきな条件がそろったのだ。しかしその絶妙のバランスを人間の活動が壊しかけている。地球温暖化が深刻度を増している。北極の氷が融け始め、氷の上ではなく海を泳いで獲物を探すホッキョクグマ。下手すると溺れてしまう。やっとセイウチの群れを見つけたときには体重が半分に減っていた。やせ細り空腹状態で倒せる相手ではない。最後の力を振り絞って襲い掛かるも、振り切られる。力尽きセイウチの群れの間に倒れこむホッキョクグマの姿に、壊れゆく地球の姿が象徴されている。温暖化で氷が融けてゆく。水の惑星地球が水に溺れようとしている。46億歳の地球が病み衰えようとしている。「まだ遅くない」、最後のメッセージが重くのしかかってくる。

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先月観た映画(08年2月)

「トランシルヴァニア」(06、トニー・ガトリフ監督、フランス)★★★★☆
「ヘンダーソン夫人の贈り物」(05、スティーヴン・フリアーズ監督、英)★★★★☆
「わが町」(56、川島雄三監督、日本)★★★★
「黒い十人の女」(61、市川崑監督、日本)★★★★
「見知らぬ女からの手紙」(04、シュー・ジンレイ監督、中国)★★★★
「キサラギ」(07、佐藤祐市監督、日本)★★★★
「街のあかり」(06、アキ・カウリスマキ監督)★★★★
「イカとクジラ」(05、ノア・ボーンバッハ監督、アメリカ)★★★★
「トランスフォーマー」(07、マイケル・ベイ監督、アメリカ)★★★☆
「オーシャンズ13」(07、スティーブン・ソダーバーグ監督、米)★★★

 先月観た映画は10本。中ではやはりレビューを書いた「トランシルヴァニア」と「ヘンダーソン夫人の贈り物」が特に良かった。

3p025_2  もう1本レビューを今準備中なのは中国映画「見知らぬ女からの手紙」。2004年の東京国際映画祭で上映され、一部で公開されたがほとんど話題にはならなかったと思う。しかし、これは中国映画では珍しい悲恋もの。シュテファン・ツヴァイク原作の短編「未知の女からの手紙」の2度目の映画化。最初の映画化は有名なマックス・オフュルス監督の「忘れじの面影」。主演と監督を兼ねたシュー・ジンレイの魅力満載。後半の展開にはやや疑問があるが、前半の少女時代の描き方は秀逸だった。

 市川崑監督の訃報を聞いてレンタル店で借りてきたのが「黒い十人の女」。有名な作品だけあって見応えたっぷり。山本富士子、岸恵子、岸田今日子は凄みがあった。中村玉緒が丸ぽちゃの顔だったのが可笑しい。宮城まり子がなんとなく不気味な役柄。船越英二は情けない男の役。男はだらしがなく、女は強いという図式。「浮雲」や「夫婦善哉」、あるいは最近のスペイン映画「ボルベール」などの図式と同じだ。いつの時代も強い男と弱い女という図式とその逆の図式は常に裏腹の関係として存在していたようだ。

 川島雄三監督の「わが町」は「無法松の一生」のようなタイプの作品。これが滅法面白かった。青年から老年までを1人で演じた辰巳柳太郎が驚くほどうまい。舞台で鍛えただけあってすごい役者だ。しかしこれだけの作品が『キネマ旬報』ベストテンで1点も入らなかったとは。それほど当時の日本映画が充実していたということか。

 話題の「キサラギ」は短い映画だが、息をもつかせぬどんでん返しの連続。次々に意外な事実が判明してゆく展開が見事。実に考え抜かれた脚本で、その点では「運命じゃない人」と同じタイプの映画だ。ただ、最後に如月ミキの生前の映像を流したのはいただけない。所詮はオタクの映画なのねという印象が残ってしまった。作品としては「運命じゃない人」の方が魅力的だ(こちらは美女も出てくるしね)。

 久々のアキ・カウリスマキ作品「街のあかり」は「過去のない男」に比べて不満が残った。あそこまでいたぶられてほとんど救いがないんじゃねえ。それにしても、弱き者、不運な者に対するこの人の視線は本当に独特だ。そこには温かみもあるが、まるで昆虫観察のような突き放した冷徹なところもある。とことん個人に執着して社会的広がりを描こうとはしない。人間関係は描かれるが即物的な描き方だ。その辺が評価の分かれるところだろう。

 「イカとクジラ」は「リトル・ミス・サンシャイン」と似た感じの映画だが、家族は最後まで崩壊したままだ。その意味で「街のあかり」に近い「現実味」がある。夫婦それぞれのいやらしい部分をこれでもかとばかり抉り出してゆく。ただ全体にコメディ調のトーンが被せられているので気が滅入るような後味の悪さはない。良くも悪くもアメリカの実像の一面をあぶりだした映画だろう。

 「トランスフォーマー」はそこそこ楽しめた。CGを駆使したとことんお遊びの世界。手塚が描いた人間の心を持ったロボットなどというヒューマンな味わいはない。まあ、それはそれとして楽しめばいい。「オーシャンズ13」はスタイリッシュな切れのいい演出といえば聞こえはいいが、味わいの薄い映画だった。これだけ有名俳優を多数起用しながら、なんら人間的ドラマが描かれない。

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