最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

« 2007年2月18日 - 2007年2月24日 | トップページ | 2007年3月4日 - 2007年3月10日 »

2007年2月25日 - 2007年3月3日

2007年3月 3日 (土)

タイヨウのうた

2006年 日本 2006年6月公開
評価:★★★★
監督:小泉徳宏
原作・脚本:坂東賢治、「タイヨウのうた」(ソニー・マガジンズ)
撮影:中山 光一
主題歌:「Good-bye days」(作詞・作曲:YUI)
出演:YUI、塚本高史、岸谷五朗、麻木久仁子、通山愛里、山崎一、ふせえり

  『キネマ旬報』のベストテンでは1点も入らず選外だったが、決して悪くない映画だ。主人Seascene_2 公は2人の高校生。しかし若者を主人公にした日本映画にありがちなちゃらちゃらした軽薄さはない。前向きに生きてゆこうとするヒロインをしっかりと描いており、その点に好感が持てる。映画のタイプとしては韓国のラブ・ロマンスに近い味わい。この映画の魅力のかなりの部分はヒロインを演じたYUIの魅力である。その点では村川絵梨主演の「ロード88」と同じ。難病ものという点も共通している。韓国映画タッチで、難病もの、けなげで可愛いヒロインとくれば、当然泣かせようという演出も目立つ。しかし心配したほど過剰ではない。ただし、話の展開はこれまた当然ながら先が読めてしまうストレートなタイプ。不治の病にかかった可愛い女の子がいて、つかの間の美しい恋愛をする。太陽の光にあたれないXP(色素性乾皮症)という難病である。だから夜しか外出できない。公園で1人ギターを片手に歌を歌う。

  紫外線をカットするスクリーンをたらした窓から彼女はいつも男の子を見ていた。その男の子とついに出会い、踏み切りでいきなり後ろから突き飛ばし自己紹介をする。二度目の出会いはバス停。そこから二人は急速に接近して行くが、病気のことを知られてしまい彼女は一旦男の子を思い切ろうとする。しかし両親の計らいで再び出会う。そして1枚のCDを残して彼女は死んでゆく。

  まさに絵に描いたようなストーリー展開である。海が出てくるのもお決まりのパターンだ。途中手が麻痺してギターが弾けなくなってしまう。しかしギターが弾けなくても歌は歌える。彼女は歌を録音することを決意する。この展開も読めてしまうが、悪くはない。歌は主演のYUI自身が歌っているようだが、高音が苦しそう。しかし高音はどこか元ちとせを思わせる声になり悪くはない。歌も特別うまくはない。主人公が作詞作曲した設定の歌"Good-bye Days”(実際にYUIの作詞作曲)も耳に残るほどではないが、切ない雰囲気はよく出ており悪くはない。

  色々物足りないところがある映画だ。それでも主演したYUIのもっている魅力には抗いがたいものがある。福岡出身のシンガーソングライターで、TVドラマ「不機嫌なジーン」の主題歌を歌っていたそうだ。TVドラマを全く観ないので知らなかった。このところ日本映画には将来有望な若手女優が多数出てきたが、彼女もその1人に入れていいだろう。女優も続けるのなら、今度は歌を歌わない映画で演技をしっかり磨いてほしい。磨けば光る才能を持っていると思う。

  脇役では岸谷五朗がさすがの存在感。最初に知ったのはかつての人気TV番組「イカ天」に三宅裕司の補助司会のような役割で出てきたとき。89年ごろか。彼が役者として一流であると思ったのは「北の国から2002 遺言」で内田有紀の父親役を演じた時。あのド迫力の演技はすさまじかった。映画は今のところいい作品に出ていないが、いずれ彼の才能を最大限に引き出せる監督とめぐり合えるだろう。

  このところレベルが急速に上がってきた日本映画だが、ラブ・ロマンスでは韓国映画に大きく水をあけられている。しかしいつか「八月のクリスマス」、「イルマーレ」、「猟奇的な彼女」、「永遠の片想い」クラスの作品が生まれるだろう。期待したい。

*  *  *  *  *  
  「紙屋悦子の青春」のレビューに時間がかかっているので、先に「タイヨウのうた」の短評を載せた。日曜か月曜には何とか書き上げたい。昨日観た「トンマッコルへようこそ」は期待以上の傑作だった。後半は予想もしない展開。最後の戦闘場面は長く記憶に残るだろう。やや軽めだった前半がもっと引き締まっていれば満点をつけていたと思う。やはり韓国映画のレベルは高い。「うつせみ」、「弓」、「王の男」なども気になる。

  「トンマッコル」を返しに行ったら蔦屋書店にツァイ・ミンリャンの作品がまとめて置いてあった。レンタルは無理だろうと諦めていたのでうれしかった。さっそく借りようと思ったらみんなレンタル中なので、同時に出ていたチェン・ウェンタン監督の「深海」を借りてきた。それはいいのだが、うう~む、手元のDVDがなかなか観られない。

 「トンマッコルへようこそ」★★★★☆

2007年3月 2日 (金)

隠された記憶

2005年 フランス・オーストリア・ドイツ・イタリア 2006年4月公開
評価:★★★★☆
原題:Caché
監督:ミヒャエル・ハネケ
脚本:ミヒャエル・ハネケ
出演:ダニエル・オートゥイユ、ジュリエット・ビノシュ、アニー・ジラルド
   モーリス・ベニシュー、レスター・マクドンスキ、ベルナール・ル・コク
   ワリッド・アフキ、ダビエル・デュヴァル、ナタリー・リシャール

  ミヒャエル・ハネケの映画は初めて観る。何の予備知識もなく観た。『キネマ旬報』で比較Rimg00271 的上位に入っていたので一応観ておこうと思っただけだ。彼がどんな作風の監督なのかも全く知らなかった。「衝撃のラストシーン」などと宣伝されていたことも全く知らなかった。それが却って良かったのかもしれない。「ロスト・ハイウェイ」のようなサスペンス映画のぞくぞくする面白さとフランスにおけるアルジェリア問題という社会的テーマの両方を楽しむことが出来た。

  ブログを書く段になってこの映画やミヒャエル・ハネケのことをあちこちのブログなどで調べてみた。「芸術映画」を気取るタイプの監督だろうという予想はしていたが、どうやら予想通りの作風のようだ。これこそ人間の本質だとばかりに、人間の奥底に潜むおぞましい「残忍さ」、「悪」をこれでもかと抉り出して見せるタイプの映画。正直言って、僕はこういう一部のインテリだけが評価するタイプの映画は好きではない。しかし「隠された記憶」は結構面白かった。この映画だけには他の作品のような不快感はないと言っている人もいるので、たまたま彼の作品の中でも観やすいものに当たったようだ。

  「隠された記憶」はデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」そっくりの状況から始まる。主人公はテレビ局の人気キャスターであるジョルジュ・ローラン(ダニエル・オートゥイユ)。ある時彼の家に何者かがローラン家を正面から撮影したビデオを送りつけてくる。画面を固定してただ同じ場所を延々と写しているだけのビデオ。誰が何のためにこんなものを送りつけてきたのか?まさしくデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」である。「ロスト・ハイウェイ」の場合は次に寝室で眠る主人公と妻の姿が映ったビデオが送られてくる。得体の知れない何者かが自分の家の中にまで忍び込んできている恐怖。サスペンス映画としてはこれ以上ないくらいぞくぞくする導入部分だった。

  冒頭部分だけではなく全体的にもよく似ている面がある。全編に謎めいて不気味な雰囲気が漂っており、随所に意味ありげな場面がちりばめられているところ。どこまでが妄想世界でどこまでが現実世界なのか判然とせず、謎が謎のまま最後まで残るところ。「ロスト・ハイウェイ」は不気味な白塗りのミステリー・マンが登場するあたりから現実にはありえない不条理で非現実的な世界に突入してゆく。「ストレイト・ストーリー」は別にして、彼のサスペンス物としてはこれが最高作だろう。

  ミステリー・マンこそ登場しないが、上記の説明は「隠された記憶」にもほぼ当てはまる。どちらも同じように謎は解明されないが、そのことが意図するところはだいぶ違う。どちらも謎解きそのものに重きは置かれていないが、リンチの場合、おそらく、謎めいた雰囲気そのものを作り上げることに狙いがあると思われる。説明のつく謎は謎ではない、リンチにはそういう思いがあるのだろう。だから超常現象のようなものを持ち込んで訳の分からないまま終わらせてしまう。

  「隠された記憶」の場合は違う狙いがある。犯人探しに意味がないのは単なる個人の犯Stmichel7 罪にとどめていないからである。登場人物の誰かが犯人である可能性は少ない。誰を想定しても矛盾に突き当たるように巧妙に仕組まれている。ビデオは現実の物理的存在というよりもジョルジュの意識が覆い隠していた過去の記憶を抉り出し、彼の罪悪感を生み出させるための装置である。「去年の夏、お前が何をしたか知っているぞ」と書かれた「ラスト・サマー」の脅迫文のようなものだが、その脅迫文はある意味で主人公だけではなく観客全員に突きつけられている。したがって特定の犯人は必要ない。個人の恨みではなく、フランスの植民地政策そのもの、アルジェリア人に対する差別意識そのもの、いやそれだけではない、ひいては誰の中にも隠されている罪意識そのものを明るみに引きずり出すための手段なのだから。隠された過去、それにまつわる罪悪感を引きずり出す魔の手。だからジョルジュがすぐ前を通ってもビデオカメラに気づかないわけだし、開けた時にはなかったドアの下に突然ビデオが現われたりするのである。

  特定の犯人などいないし、犯人探しが主眼ではない。だから確たる手がかりとなるものなどなく、すべてはほのめかしばかりである。難解なのではなく、意図的にほのめかしに留めているのである。ジョルジュの意識を追い詰めること、そうすることによって彼が隠蔽していた過去の記憶を抉り出し、そのことについて彼に語らせることが狙いである。フランスからの独立戦争を描いた名作「アルジェの戦い」を見せても彼に罪悪感を与えはしないだろう。インテリの彼はいい映画だと言うかもしれないが、アルジェリア問題を自分にひきつけて考えはしないだろう。あれを観てあなたに罪悪感はないかと問われれば、昔の話だ、俺には関係ない、そもそも俺はアルジェリア人に偏見など持っていないなどと答えたかもしれない。そんなことで彼の心の内奥にある疚しさの扉を開けられはしない。しかし、彼自身が過去に行った事実をぐりぐりとつつきまわされたのでは彼としてもたまらない。逃げようがない。映画はそれをやっているのである。過去の記憶がビデオ映像という形を取ってジョルジュを追いつめると言ってもいい。どんなに記憶の片隅に追いやっても、誰かに見られている、誰かが知っているという恐怖。これは単なる犯罪サスペンス映画ではなく、「ロスト・ハイウェイ」にヒッチコックの「白い恐怖」のような心理サスペンスと松本清張のような社会派ミステリーを重ね合わせた作品なのである。

  追い詰められ、問い詰められているのはジョルジュだけではない。追い込まれて開き直る彼の姿を冷酷に映し出し、彼の偏見をさらけ出させる。またその姿を見せることで、同じようにあなたたちも何か思い当たることがあるのではないか、とわれわれ全員に問いかけているのだ。ジョルジュだけではない、すべての人にこの種のビデオがある。明日それが送られてくるかもしれない。誰にでも降りかかる可能性があるから、このビデオが恐怖なのだ。ジョルジュは自分には偏見などないと思っていたかもしれないが、忘れていたということ自体、自分のやったことに何の疚しさも罪悪感も感じていなかったことを意味する。こういう形で脅迫されて初めて思い当たる。加害者側はすぐに忘れてしまうのだ(一方、マジッドはテレビでジョルジュの姿を見て吐き気を覚えたと言っている)。だから田舎の母親(アニー・ジラルド)に会いに行って昔のことを聞く必用があったのである(3番目のビデオに田舎の実家が映っていたので、母親の無事を確かめる意味もあった)。

  かといってマジッド(モーリス・ベニシュー)が犯人というわけではない。それでは彼の個人的恨みで終わってしまう。彼はジョルジュの悪夢のきっかけに過ぎない。同じようにラストの映像も特に意味はない。冒頭の映像に意味がないのと同じだ。冒頭の映像が恐怖を与えるのは、そこに見られては困る秘密が映っているからではない。自分では気づかないうちに誰かに「見られている」事自体が恐怖なのだ。ラストの映像も同じ。次にはあの学校の映像を観て恐怖に震える別の人物が現れることになるのだろう。

  ビデオは映像だけに単なる脅迫文以上に恐怖を与える。「白い恐怖」の中でグレゴリー・ペックが見る夢が出てくる。有名な夢判断の場面。その夢の中に、大きな幕に無数に描かれた巨大な目をハサミで切り抜いているシーンがある。まさにそういう心理状態。見えない「目」の存在が恐怖を増幅する。さらには子供が書いたような不気味な絵が2枚ビデオと一緒に送られてくる。これがジョルジュの記憶を呼び覚ます鍵となった。数回に分けて絵やビデオが届けられることによって、まるで何層もの分厚い皮を剥くように何重もの記憶の襞を手繰ってジョルジュの記憶の奥底に行きつく。  映画の現在の映像にビデオ映像とジョルジュの過去の回想あるいは夢が入り混じる。ビデオはジョルジュの妻アンヌ(ジュリエット・ビノシュ)の疑念まで生み、今度は彼女がジョルジュを問い詰める。恐怖が疑念を生み、ジョルジュはじわりじわりと追い詰められてゆく。ジョルジュはついに秘められた過去を語りだす。マジッドは昔ジョルジュの両親の家で働いていた。「61年10月17日、民族解放戦線がアルジェリア人にパリでのデモを呼びかけた。当日警視総監のパポンは約200人のアラブ人を溺死させた。マジッドの両親も二度と戻ってこなかった。」父親が探しに行くと「黒いのがいなくなって喜べ」と言われたという。アンヌは「それから」を連発し、さらに問い詰める。両親は責任を感じたのかマジッドを養子にした。しかしジョルジュは彼と同じ部屋に住むことを嫌い、マジッドが「血を吐いた」と嘘の告げ口をした。その後マジッドは病気になってどこかへ行ってしまった。

  なぜジョルジュはそれほどマジッドを嫌ったのか。ビデオが送られてきて以来ジョルジュはある悪夢に悩まされていた。鶏の首を切り落とす少年、首のない鶏が飛び跳ねる断末魔の姿。首を切った男の子はもう一人の男の子に向って斧を手に向ってくる。顔には鶏の返り血が付いている。恐らく毎回この場面で目が覚めるのだろう。鶏の首を切り落とした少年は明らかにマジッドである。

  ジョルジュは過去のトラウマを打ち明けるが、かたくなに自分の責任を認めようとしなKey_mb3 い。子供のしたことだ、悪意はなかったと。最後は開き直り、いきり立つ。映画はそれ以上切り込まない。確かに些細なことのようにも思える。しかし、マジッドへの恐怖の裏側には偏見がなかったか。雇い人の息子だという見下げた気持ちはなかったか。このエピソードだけでは釈然としないが、映画の前半にそれを裏付ける場面がある。自転車に乗った黒人とぶつかりそうになったときに、ジョルジュがその男に投げつけた言葉だ。そしてこの偏見はジョルジュだけのものではない。警察は彼の訴えを鵜呑みにしてマジッドと彼の息子を犯人扱いして拘束してしまう。証拠が不十分なので後に釈放されるが、ここに個人を超えた偏見の輪が描かれている。

  マジッドは釈放後ジョルジュを呼び出し、彼の目の前でのどを掻っ切って自殺する。さらにその後マジッドの息子(ワリッド・アフキ)がジョルジュに会いに来る。エレベーターの中のシーンが印象的だ。マジッドの息子はじっとジョルジュを「見つめる」。身を切られるような視線の痛さ。彼は「やましさが何かこれで分かった」と言い残して去ってゆく。

  マジッドの死によって憎しみの連鎖が生まれ、それがまた長回しのビデオに始まり長回しの映像(次の脅迫ビデオ)で終わる循環構造の中に組み込まれてゆく。DVDの付録映像所収の監督インタビューでハネケは次のように語っている。

  これは、個人が「罪」とどう向き合っているかについての映画です。人間は世に生まれたことですでに「罪」を持っています。意図的であろうとなかろうと先進国で生きるわれわれは絶対に後進国や貧しい人々を犠牲にして高い生活水準を保っています。ですから、先進国にいるわれわれは誰でもある種の罪意識を心の中に抱えているわけです。そういったやましさを個人がどのように消化するかは人それぞれです。例えば飲んだくれて忘れようとする人もいれば、自殺してしまう人もいます。私は人間の誰もが持つ「罪」をどのように表現するかを仕事にしているのです。他の監督や演劇作家も同じですが、「人間の罪をどのように描くか」がわれわれの大きなテーマの一つだと考えています。

  ハネケはショック療法のような手法でこの「罪」を描き出そうとした。単に抽象的な「罪」と言うだけなら僕は賛同できない。それではまるで「春夏秋冬そして春」でギドクが描いた人間の「業」と同じように観念的である。しかしここでは、少なくとも植民地支配や南北問題に言及している。さらには別のインタビューではこう語っている。「ただ海外でこの映画がフランスに特殊な題材を扱ったものと思われることには警戒がある。個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態は、どこででも起こりうることで、これはそんな普遍的な問題を扱う映画だ」(eiga.com)

  「普遍的」という言葉も抽象性に導きやすいので警戒すべき言葉だが、ここでは少なくとも人種的偏見や植民地主義などの具体的テーマが示されており、かつ個人のレベルにとどまらず一人ひとりに問いかけている。さらには、ビデオを使うことでメディアの報道に対する不信というテーマも盛り込んでいる。「わたしにとって政治的なメッセージを込めた映画はつまらない。個々の人間の心の奥底に突き刺さるものを作らないと面白くない」という考えを持つハネケだが、少なくとも「隠された記憶」ではこの二つをぎりぎりのところで重ね合わせている。この映画がもっとも観るに耐える作品になったのはそのためである。

  最後に蛇足を一つ。僕がこの映画で一番驚いたのは「衝撃のラストシーン」でもマジッドの突然の自殺でも、「斬新な映像トリック」でもない。ジョルジュの母である。なんとアニー・ジラルドが演じていた。あまりの老け具合にキャストを見るまで気がつかなかった。アニー・ジラルドは僕が高校生から大学生の頃好きだったフランス女優の1人である。ジーン・セバーグを思わせる短髪が似合う女優で、当時カトリーヌ・ドヌーヴよりはるかに好きだった。高校生の時に観た「愛のために死す」(1970)の時で既に40歳近かったわけだが、大人の女の魅力にあふれていた。6、70年代が女優としてのピークだろう。1931年生まれだから、「隠された記憶」の時は74歳。う~ん、気づかない方がよかった。

人気blogランキングへ

2007年2月26日 (月)

トランスアメリカ

2006年 アメリカ 2006年7月公開 033798
評価:★★★★☆
原題:TRANSAMERICA
製作総指揮:ウィリアム・H・メイシー
監督:ダンカン・タッカー
脚本:ダンカン・タッカー
撮影:スティーヴン・カツミアスキー
衣装デザイン:ダニー・グリッカー
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
主題歌ドリー・パートン“Travelin' Thru”
出演:フェリシティ・ハフマン、ケヴィン・ゼガーズ
    フィオヌラ・フラナガン、エリザベス・ベーニャ
    グレアム・グリーン、バート・ヤング、キャリー・プレストン

  ロード・ムービーには大きく二つの面がある気がする。一つは出会いと発見。道中での様々な出会い(人であれ出来事であれ)を通じて主人公たちと観客は新たな発見をする。もう一つは旅を通じての主人公たちの内面(自己認識を含む)や人間関係の変化。どちらの面に力点があるかは作品によって異なるが、いずれにしてもこの二つの面は不可分に結びついている。主人公たちは旅の途中の出会いと発見を通じて、そして同伴者と行動を共にすることによって社会や人間関係や自己に対する認識を新たにしてゆく。同伴者が家族の場合はその絆が深まってゆくタイプが多い。人々は旅を通じ自分や家族を見つめなおしてゆく。

  「トランスアメリカ」は父ブリー(フェリシティ・ハフマン)と息子トビー(ケヴィン・ゼガーズ)の2人が旅をするロード・ムービーである。父といってもブリーはトランスセクシャルで、性転換手術を目前に控えている。本来の名前はスタンリーだが、サブリナ・クレア・オズボーンという名前の女性に生まれ変わろうとしていた(サブリナを縮めてブリー)。ところが、手術を1週間後に控えた彼にとんでもない厄介ごとが降って沸いた。何と、彼がまだスタンリーだった頃付き合っていた女性との間にトビーという子供がいたのである。トビーはもう17歳になっており、窃盗罪でつかまった彼が保釈の保証人として父親スタンリーの名をあげたのだ。最初は無視していたが、セラピストに問題を解決するまで手術に同意できないと言われしぶしぶ保釈の手続きをする。

  この息子、家を飛び出し男娼をして生活していた。将来の夢は映画俳優になることである。ブリーは自分が父であることを隠し、教会から派遣された親切な叔母さんということにしてトビーを義父の家まで届けようとする。息子に対する親としての愛情などは全くなかった。ただ早く手術を済ませたい一心で厄介な息子を警察から引き取ったのである。そこからトランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子が2人でアメリカ横断をする奇妙な旅が始まる。トランスアメリカとトランスセクシャルという二重のトランスが絡まりあっていることが分かるだろう。

  この旅で描かれるのは2人の心の変化である。徐々に互いを理解しあってゆく過程をじっくりと描いている。実の父であることを明かすのは映画の最後のあたりである。それまでは他人として二人は接している。旅の終点は2人が親子として、つまり「母」と息子として向き合い、互いを認め合うことである。その終着点までの間に2人が共に乗り越えなければならない難しい二つの段差がある。最初の段差は彼女が女性に性転換しようとしている男性であることを認めること。二つ目の段差は彼が実の父だと認めること。この二つ目の段差は一番目の段差よりはるかに大きい。だから映画はその大半を第2の段差を越える前までに当てているのである。第2の段差の後トビーは家を飛び出す。そして最後に二人の再会を描くのだが、その間に一定の時間の経過があったことを暗示している(映画の上での時間は一瞬だが)。つまり、トビーが二つ目の段差をどう乗り越えたかを描いていない。一つ目の段差に出会ったときのショックよりも二つ目の段差に出会ったときのショックの方がはるかに大きかったはずである。しかし映画はそれを直接描きはしなかった。それでいいと思う。この時間配分はうまく成功している。それまでの部分で必要なことはすべて描かれている。後はトビーがその事実を個人的にどう理解し、乗り越えるかという問題なのである。

  この二つの段差は悲劇的結果をもたらしうるものである。またいつばれるのかとハラハ 033799_2 ラさせる展開にすることも可能だったろうが、映画はむしろコミカルな方向を選んだ。最初はなかなかそりの合わない二人を温かい目で見つめながらコミカルに描いてゆく。そのためにもう一つの設定が必要となった。つまり、見かけにかかわらず2人とも相手を受け入れられるだけのまっすぐな心と寛容さを持った人物に設定されているのである。ブリーは手術前からほとんど性格的には女性である。トビーのだらしない態度や汚い口の利き方を注意する時のブリーは、まるで口うるさく息子を注意する母親のようだ。最初はトビーを厄介者だと思っていたが、次第に親として接するようになってゆく(もちろんトビーには悟られないように)。途中一夜の宿を借りるためにテキサス州ダラスにある知り合いの家に行くが、そこにはトランスセクシュアル仲間が集まってパーティーを開いていた。あからさまに性的な話をしている彼らを見てブリーは顔をしかめる。自分がトランスセクシュアルであることがトビーにばれないよう気を使っていることもあるが、やはり彼(女)らとは性格的に違うという印象を受ける。「プリシラ」のような世界にはなじめない、ただ女性になりたいと純粋に願っている心優しい人物として描かれている。

  一方息子のトビーも麻薬を吸ったり男娼をしていたり、車に乗ればダッシュボードの上に足を乗せたりと、それまでかなり荒れた生活をしていたことが示されているが、決して根が腐った、心がすさんだ若者としては描かれていない。むしろ意外なほど純粋である。ブリーに叱られれば素直に従う。ブリーが当座の小遣いとして与えた100ドルをトビーが本のカバーの中に丁寧に隠すシーンが何度か描かれる。終始本を手放さないことは、彼の中に知的な面や向上心があることを暗示している。「トランスセクシャルの父と男娼として働いていた息子」というかなり特異な取り合わせのわりには共に意外なほどストレートなのだ。この点は評価が分かれるところだろう。当然物足りないと感じる人もいるはずだ。しかし製作者たちの意図はキッチュな映画を作ることにあるわけではない。作品の方向性は「リトル・ミス・サンシャイン」と基本的に同じである。コミカルでヒューマンな味付けのファミリー・ドラマとしては良くできた作品だと思う。

  トビーには映画俳優になること以外にもう一つ夢がある。彼はアーカンソーで野宿した時、ブリーに「親父と暮らすのが夢だ」とはっきり言う。ブリーとしてはつらい言葉だ。ブリーはその前にニューヨーク州カリクーンでトビーの義父と会っている。彼にトビーを預けてさっさと厄介払いしようと想ったのだ。しかし結局はまたトビーを連れて旅に戻った。なぜなら子供の頃義父から性的虐待を受けていたことをトビーから打ち明けられたからである。それだけに本当の父に会いたいというトビーの気持ちはブリーにも理解できる。理解できるからこそ彼の悩みも深い。彼は「父親」ではなくなろうとしているのだから。試練はさらに続く。夜、ブリーが車の後ろで立ち***している時、トビーにペニスを見られてしまうのだ。ついに来るべき時が来た。

  一気に二人の間の空気が険悪になる。ブリーはしかし決してくどくどと言い訳はしなかった。「体は中途半端でも魂には何の曇りもないわ。私が試練に耐え生まれ変わるのは神の意思よ」とはっきり言い切る。しかしトビーのショックはそう簡単に消えない。彼はブリーを「バケモノ(fleak)」と呼んだ。しかし、後で「いや、あんたはただのウソツキだ」と訂正する。既にブリーと数日過ごしていた彼にはそこまで受け入れられる下地が出来ていたのである。それに何よりまだブリーが父親だと知らなかったからでもある。

  ブリーたちはその後うっかり車に乗せた若者に車を盗まれ、文無しで足もなくしやむなくアリゾナ州にあるブリーの実家に行くことになる。立派な家と敷地を見ればブリーの実家はかなり裕福だと分かる。ほとんど関係を絶っていたブリーが女性の姿で帰ってきたのを見た両親(フィオヌラ・フラナガン、バート・ヤング)の驚きようは滑稽なくらいである。母親などはブリーの股間を握ってまだ「付いている」か確かめたほどである。妹のシドニー(キャリー・プレストン)には「放蕩息子の帰還ね」と言われてしまう。ブリーから見ればトビーも同じだから、この言葉は二重に当てはまる。考えてみれば、親子2代とも家を飛び出したわけだ。トビーなどは「薄汚い若者」などと言われるが、彼がブリーの両親の孫だといわれるとブリーの母親の態度がころっと変わってしまうところが可笑しい。一家揃ってレストランに行く場面はこのまるで寄せ集め家族のようなちぐはぐさが笑いをさそって面白い。しかしこの不揃いな家族には危なっかしいながらそれまでの二人旅とは違う「家族」が描かれていた。レストランでブリーが息子と並んで写真を撮るシーンは非常に印象的である。

  しかしやっと終点に着いたかと思ったその夜、ついに二つ目の段差を乗り越える時がやってくる。トビーが夜ブリーのベッドにやってきて「愛し合う」ことを迫ってきたのだ。悲しいことにトビーはそれ以外に愛情を表現するすべを知らないのである。たまらPmhusuy11_1 ずブリーは真実を打ち明ける。トビーは家を飛び出す。この告白はトビーにとってもブリーにとっても乗り越えなければならない大きな課題だった。1週間前だったらトビーがいなくなりゆくえが知れなくなれば、むしろブリーはほっと安心していたことだろう。厄介払いできたと。しかしこの時点ではもはやトビーは厄介者ではなかった。彼の大事な息子になっていた。待ちに待った手術の後、友人のセラピストは不思議そうにブリーに聞く。「変ね、今日は人生で一番幸せな日だって先週そう言ってたわよね?」ブリー「先週はもう大昔よ。」彼にとってこの1週間は彼の人生を決定的に変えてしまう日々だった。恐らく人生でもっとも長い1週間だったに違いない。「痛いわ。」ブリーはよだれをたらして泣き崩れる。その痛みは手術の痛みではない。セラピストは慰める。「ブリー、心のせいよ。」

  「漂流するアメリカの家族」という記事で「淀んだ空気を吹き払うには「クラッシュ」が描いたように閉じられた窓を開け放ち、意識的に「触れ合い」を求める必要がある。じっと閉じこもるのではなく、 行動を起こさなければならない。その行動のひとつが旅に出ることである。外の新鮮な空気に触れ、自分や家族をみつめなおす旅」と書いた。もしトビーがブリーの近くに住んでいて、すぐ家に引き取っていたらトビーはすぐ家を飛び出していただろう。時間をかけて旅をしたからこそ2人の絆は強められることになった。映画はそう描いている。

  トランスセクシュアルのブリーにとってそれは楽な旅ではなかった。ニューヨークを出発して、ニューヨーク州カリクーン(トビーの義父の家)、アーカンソー州(野宿)、テキサス州ダラス(ブリーの友人の家)、ニューメキシコ州(カルヴィンとの出会い)、アリゾナ州(ブリーの実家)、そしてロザンゼルスへ。2人の旅は南部を通る旅だった。ディープ・サウスは避けられても、ニューヨークからテキサス州に最短距離で行くには保守的なバイブル・ベルト地帯を通らざるをえない。アーカンソーあたりだったか、途中寄った簡易食堂で女の子に“Are you a boy or a girl?”と聞かれてあわてて逃げ戻ったりしたこともある。内心びくびくものの旅だったに違いない。 旅を通してブリーは強くなった。人間としての自尊心を持ち、それに親としての自覚も加わった。トビーの捜索を警察に頼んだ時、あなたはトビーの何に当たるかと聞かれて、一瞬迷った後「父です」と答えた。女性の格好をしたままで。

  恐らく「父です」と答えた時、ブリーは完全にそれまでの自分の殻を脱ぎ捨てたのだろう。ラストでトビーがふらっと現われた時、彼(女)はテーブルに足をのせて座るトビーを一喝した。「私のテーブルからその汚い足をどけなさい。」彼女はもう完全に母親になっていた。父親が母親になっただけのことである。親に変わりはない。ブリーは息子にカウボーイ・ハットを渡す。その帽子はニューメキシコで会ったカルヴィン(グレアム・グリーン)というネイティヴ・アメリカンの男性からもらった帽子だろう。「戦士の印だ」と言ってカルヴィンがトビーに贈ったロデオ・チャンピオンの帽子である。

  トビーの登場は世間や家族から逃げていたブリーに自分を見つめなおす機会を与えた。人間は一人では生きてゆけない。自分が勝手に性転換すればそれで済むわけではない。トビーという息子を得ることによって、ブリーは改めて家族や息子と向き合うことができるようになった。その意味でセラピストの言ったことは正しかった。ほとんど本筋に関係ないとも思えるカルヴィンとの出会いは、世間ののけ者のように自分を考えていたブリーに、偏見を持たずに接してくれる人もいることを教える意味で必用だったのだ。そういう出会いと発見があってブリーは自分を変えることができた、そういう描き方になっている。

  ブリーを演じたフェリシティ・ハフマンがなんと言っても素晴らしい。女優が「女になろうとしている男」を演じるのだから並大抵の演技力では演じきれない。大変な偉業である。ドリー・パートンが歌うエンディング・テーマ「トラベリン・スルー」も心に沁みる。

人気blogランキングへ

2007年2月25日 (日)

「紙屋悦子の青春」を観てきました

  今日上田の電気館で「紙屋悦子の青春」を観てきた。これで黒木和雄監督の「戦争4部作」を全部観たことになる。4部作の中では「父と暮らせば」が一番優れていると思う。2位がこの「紙屋悦子の青春」、以下「TOMORROW明日」「美しい夏キリシマ」というのが僕の評価。

  「紙屋悦子の青春」は病院の屋上のシーンを除けばほとんど屋内の撮影。大きな動きはKota1_1 なく、ほとんどが会話で構成されている。そのせいか小津の世界を感じた。黒木監督は遺作で小津の世界に還ったのだ。出演者も限られている。たったの5人。何度か話にだけ出てくるおしゃべりな駅長さんを入れても6人。年老いた悦子と夫の長政の現在から始まり終戦の年昭和20年の回顧に移る展開。5人の出演者すべてがいい演技をしている。特に長瀬正敏と原田知世が素晴らしい。原田知世の老け顔はいまひとつだが、回想の中の若い時が実に美しい。髪をひっつめにしているせいか「博士の愛した数式」の深津絵里によく似ていた。これまで一度もいいと思ったことのない女優だが、この映画での彼女は繊細で清楚で非常に心を引かれた。そう言えば、田中裕子も「いつか読書する日」を観て初めていい女優だと思った。俳優は素晴らしい作品に出会った時輝くのだと改めて思う。すぐにレビューを描きます。

  「トランスアメリカ」のレビューが遅れていますが、何とか今日か明日には書き上げたい。21日に観た「隠された記憶」もその後に控えている。デヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」そっくりの出だしで始まるサスペンス映画。終わり方も「ロスト・ハイウェイ」同様謎が謎のまま最後まで残る。何も説明されずにあっけなく終わってしまう。しかしそこはミヒャエル・ハネケ、デヴィッド・リンチのように非現実的な要素を持ち込んだりはしない(「ロスト・ハイウェイ」も「ツイン・ピークス」ほど荒唐無稽ではないが)。観客一人ひとりに心当たりはないかと問いかける終り方は悪くないと思った。

  「紙屋悦子の青春」★★★★☆
  「隠された記憶」 ★★★★☆

  どうもこのところなかなかレビューに集中できなくて観る映画の数にレビューが追いつかない。昨年の11月に入院する前は、レビューを書き終えないうちは新しい映画を観ないようにしていた。そのため観る本数が減ってしまった。今年は観る本数を増やして、長めのレビューを減らし短評を増やそうと考えたのだが、書き出すと長くなってしまうのが悩み。以前のような長大なレビューはなくなったが、集中力が減ったせいかアイデアが浮かばなくなり、自分で満足のいくレビューが書けなくなってきた。以前より短いレビューなのに書きあぐんでいる。「ジャーヘッド」以降はどん底。どうやらスランプの時期がやってきたようだ。

  いかん、また愚痴になってしまった。ようやく忙しい時期も脱したのでこれからまたどんどん書いてゆきたい。今レンタルいるのは「タイヨウのうた」。あと「ゆれる」と「明日の記憶」を観ればキネ旬の日本映画ベストテンを全部観たことになる。これらと「トンマッコルへようこそ」を観た後は新作DVDを一時棚上げして、たまりたまった手元のDVDを集中的に観てみたい。今年に入ってからも続々とDVDを手に入れた。「フープ・ドリームス」、「心の香り」、「春にして君を想う」、「スプリング春へ」、「イジィ・トルンカ作品集4、5」、「愛と宿命の泉」、「恐怖省」、「M」、「川本喜八郎作品集」等々。どれも今すぐ観たい。去年買った「夫婦善哉」、「芙蓉鎮」、「貸間あり」、それから「タヴィアーニ兄弟傑作選 BOX」、「溝口健二 BOX」、「成瀬巳喜男 BOX」など観たい映画は山ほどある。まあ、あせらず一本ずつ観て行くしかないか。

  ちなみに現在までの「2006年日本映画マイ・ランク」を最後に付けておきます。6位まではほとんど横一線。甲乙つけがたい傑作が並ぶ。

1 博士の愛した数式(小泉堯史監督)
2 かもめ食堂(荻上直子監督)
3 フラガール(李相日監督)
4 嫌われ松子の一生(中島哲也監督)
5 武士の一分(山田洋次監督)
6 紙屋悦子の青春(黒木和雄監督)
7 THE有頂天ホテル(三谷幸喜監督)
8 雪に願うこと(根岸吉太郎監督)
9 カミュなんて知らない(柳町光男監督)

« 2007年2月18日 - 2007年2月24日 | トップページ | 2007年3月4日 - 2007年3月10日 »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
無料ブログはココログ