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2007年2月11日 - 2007年2月17日

2007年2月17日 (土)

ジャーヘッド

2005年 アメリカ 2006年2月公開
評価:★★★★
監督:サム・メンデス
原作:アンソニー・スオフォード『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』(アスペクト)
脚本:ウィリアム・D・ブロイルズ・Jr
撮影:ロジャー・ディーキンス
出演:ジェイク・ギレンホール、ピーター・サースガード、ルーカス・ブラック
   クリス・クーパー、ジェイミー・フォックス、ブライアン・ケイシー
   クリスティン・リチャードソン、エヴァン・ジョーンズ

Gen1_1   戦闘場面のない戦争映画。「ジャーヘッド」を一言で言えばそういう映画である。この映画が日本で公開されたのは2006年の2月だが、前年の暮れから06年の3月にかけて「ロード・オブ・ウォー」「クラッシュ」「スタンドアップ」「ミュンヘン」「アメリカ、家族のいる風景」、「シリアナ」、「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」など、アメリカを批判的に捉えなおした映画がどんどん入ってきていた。「ジャーヘッド」もそういう「ポスト9・11映画」の一つである。時代背景は1990-91年の湾岸戦争だが、明らかに9・11後の雰囲気の中で作られ観られてきた。

  最初は「フルメタル・ジャケット」や傑作TVドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」を思わせる新兵の厳しい訓練が続く。いつの時代にもいる鬼軍曹に厳しくしごかれて兵士たちは殺す機械に仕立て上げられてゆく。おなじみの場面だ。昔もこの手の映画は多かった。「あの高地を取れ」(1953)ではリチャード・ウィドマークが的と兵士の間に足を広げて立ち、俺の股の間から撃てと射撃が下手な兵士に命令する有名な場面がある。訓練も命がけだ。

  しかしその後はこれまでの映画と全然違う。「ワルキューレの騎行」の音楽に乗って戦闘ヘリ”アパッチ”が地上の敵を機銃掃射する有名な「地獄の黙示録」の場面を観て狂ったように盛り上がった気分のまま戦地に乗り込むが、彼らを待っていたのは戦闘ではなく延々と続く待機状態。過酷な訓練を経てアドレナリン出しまくりの戦闘機械となった兵士たちはその成果を実践で試したくて仕方がないが、こぶしを振り上げたものの殴るべき相手がそこにいない。じりじりと砂漠の炎熱に焼かれていたずらに訓練を続ける毎日。

  これまで何度か「ザ・トレンチ 塹壕」という映画を紹介した。第1次大戦で大量の戦死者を出したことで有名なソンムの塹壕戦を描いた映画。ほとんど戦闘場面もなく、だらだらと塹壕の中の兵士たちの日常を描くだけの、実に退屈でつまらない映画だった。しかしそれでも戦闘中だった。敵の狙撃兵に撃たれたり迫撃砲の直撃を受けて戦死するものが続出する。戦線が膠着しているだけである。しかし「ジャーヘッド」は戦闘そのものが描かれない。「ジャーヘッド」は偵察狙撃隊を主人公にして、ただ待機するだけの、たった4日間しか地上戦が行われなかった戦争を描いているのである。

  湾岸戦争は戦場を除けばテレビ観戦する戦争だった。あの緑色の夜間戦闘場面、地上から高射砲の砲弾が空に向って花火のように打ち上げられ、空中で炸裂し、地上では時々激しい爆発が起きる。パトリオット・ミサイルなど様々な種類のミサイルが飛び交い、ピンポイントで敵を破壊できる、誤爆がない「きれいな戦争」と謳われた戦争。あれはまるでゲームを観ているようで何のリアリティもなかった。「ジャーヘッド」が描いたのは、テレビが一切描かなかった現場の兵士のリアリティであった。この映画の意義はそこにある。

  「ザ・トレンチ 塹壕」と違い、同じ「戦わない戦争映画」でも「ジャーヘッド」は観客が飽きないよう様々に工夫している。ひたすら待つ兵士たちの焦燥感や欲求不満、炎天下でのS_illusion5_1 虚しい訓練ばかりではなく、味方の空軍による誤爆、その直後に目撃した黒焦げになった避難民の死体の山、何の真実も映さないTVの取材、TV向けに演じたほとんどやらせのガスマスクをかぶっての訓練(これが実に滑稽だ、ダース・ベイダーのまねも出てくる)、うっかりしてテントに火が燃え移り中の照明弾がまるで花火大会のように打ち上げられる場面など。特に映像として優れていた場面が二つある。一つは砂漠で訓練中に陽炎の中を何者かが近づいてくる場面。空気が揺らめいているので最初は敵か味方か分からない。緊張する場面である。これはまさに「アラビアのロレンス」でラクダに乗ったアリ(オマー・シャリフ)が登場するあまりに有名な場面へのオマージュだ。映像的にさらに圧巻なのはイラク軍によって火を放たれた油田から立ち上る黒煙と砂漠に降り注ぐ油の黒い雨の映像。テレビでも何度も映された光景だが、真っ赤に燃えた空を背景にしたこの場面は強烈な印象を与える。無駄に燃やされる原油と無駄に過ぎてゆく時間。凄絶な映像にむなしさが漂う。

  彼らはそこで何をやっているのか。何のために彼らはそこにいるのか。兵士たちはそれを問わない。一人だけそれを口にするが、すぐ議論は封じられてしまう。TVの取材を受けたときも「海兵隊に入ったときから言論の自由はない」と本音を吐くことを禁じられてしまう。何より炎天下で考える力さえ奪われてゆく。むなしく時だけが過ぎてゆく。兵士たちは問わないが、映画全体を通して先の疑問が観客に投げつけられている。そういう作りになっている。

  彼らの焦燥感のクライマックスはようやく戦闘が始まった時に訪れる。主人公のスウォフォード(ジェイク・ギレンホール)とトロイ(ピーター・サースガード)は敵の将校の狙撃を命じられる。やっと銃が撃てる。彼らは喜び勇んだ。しかし狙いを定めた瞬間、横にいた将校に狙撃中止を命じられる。作戦は空爆に変わったというのだ。トロイは逆上し掴みかかろうとしてスウォフォードに押さえつけられ、「撃たせてくれ」と狂ったように泣き喚く。結局彼らは一度も銃を撃たず、誰も殺さず国に帰還する。むなしさは極限に達する。

  ドイツ映画の名作「橋」(1959、ベルンハルト・ヴィッキ監督)では、戦争ごっこに夢中になっていた少年たちが戦争に駆り出される。俺たちが敵をコテンパンにやっつけてやると最初は勢いづいているが、実際に戦闘が始まると(指揮官は未熟な少年兵たちに敵の来ない橋の見張りを命じたのだが、皮肉にも連合軍は裏をかいてそこから攻めてきた)、彼らは地獄を見ることになる。生き残ったのはわずかだった。戦争の残酷さとむなしさを描いた戦争映画史上屈指の名作だが、「ジャーヘッド」はまた別の角度から戦争のむなしさを描いたといえる。

  誰も殺さず、自分も殺されずに帰国できたのは幸いだが、戦闘は空爆やミサイル攻撃で決着がついてしまい、自分たち地上部隊は何しに行ったのかというむなしさが残る。しかし彼らはヒーローとして迎えられる。バスに乗り込んできた中年の男は戦場の勇ましい土産話を聞きたくて仕方がない様子だが、兵士たちは迷惑そうな顔で黙ったままだ。話そうにも話せない。敵を倒すどころか、一発も敵に向けて撃っていないのだから。テレビを見て浮かれていた国内の人たちと戦場にいた兵士とのギャップもまた説得力を持って描かれている。

  故国に凱旋した彼らはヒーロー扱いされるが、彼らの胸に残るのはむなしさと虚無感だKu_005 けだった。そのむなしさには自分たちは何のために派遣されたのかという戦争そのものに対するむなしさも既に入り込んでいる。一体あれは何のための戦争だったのか。誰のための戦争だったのか。彼らの胸の中のうずきは一旦は窒息させられていた人間的感覚が戻りかけてきていることから来るうずきである。しかし人間的感覚が戻ってきても、彼らの体の中には戦争によって植えつけられた毒素がいつまでも消えずに残っていた。

 彼らは平時の日常生活に戻る。しかし彼らの中にいつまでも戦争が不完全燃焼のまま残っていた。「男は何年も銃を撃ちそして戦争に行く。やがて家に戻り、それ以外のことをし始める。家を建て、女を愛し、おしめを換えるが、彼はいつまでも“ジャーヘッド”。 “ジャーヘッド”は皆、殺し、死ぬ。それはいつでも僕自身だ。僕らは今も砂漠にいる。」最後に窓の外を眺めるスウォフォードの姿が映される。キャメラが横に移動すると、彼の姿を境に窓の外の眺めが砂漠の戦場に変わって行く。戦場から帰ってきたのはヒーローではない。兵士の抜け殻だった。彼の心は今も敵のいない戦場を駆けめぐっている。

 この映画はある意味で「ユナイテッド93」に共通する性質を持っている。現場に密着した分その場にいたものにしか分からないリアリティが描きえているが、その一方で大状況が充分描かれていないうらみがある。「ジャーヘッド」はアメリカの政策や湾岸戦争そのものの意味を正面切って問うてはいない。代わりに兵士たちの焦燥感やむなしさが強調されている。その分曖昧さが入り込んでいる。大活躍した空軍の兵士を主人公にしていれば、この戦争はもっと違って見えていただろう。しかしこの映画が描いたむなしさは9・11後の不安感や厭戦気分とシンクロする面もある。戦争を描く新しい視角を提起したことは評価されるべきだろう。

  入隊前スウォフォードは大学に行きたかった。しかし貧しい家に育った彼にはかなわない夢だった。彼が軍隊に入ったのはそうすれば大学に行かせてもらえると思ったからである。湾岸戦争後10年ほどたってアメリカは再びイラクと戦火を交えた。その時も構図は同じだった。マイケル・ムーアの「華氏911」があぶりだしたように、食べてゆけない貧しい層は食うに困らない軍隊に志願してゆく。金持ちたち支配層は国民をだまし安全な国内にとどまりつつイラクに軍隊を送り、飢えた貧しい人々は戦場に向かい命を落とす。21世紀のスウォフォードたちは銃を撃つことが出来た。しかし祖国に帰って来た時は棺に入っていた者も少なくない。

2007年2月16日 (金)

雪に願うこと

2005年 日本 2006年5月公開 F_kesiki01w_1
評価:★★★★☆
監督:根岸吉太郎
原作:鳴海章 「輓馬」(文藝春秋刊)
脚本:加藤正人
撮影:町田博
出演:伊勢谷友介、佐藤浩市、小泉今日子
    吹石一恵、山崎努、草笛光子、香川照之
    小澤征悦、椎名桔平、山本浩司
    津川雅彦、岡本竜汰、でんでん、出口哲也

  こういうストレートな日本映画は久々に観た。おそらく「深呼吸の必要」(04年、篠原哲雄監督)以来だろう。バブルの頃はこんなストレートで地味な映画は鼻で笑われていただろう。つくづくバブルは遠くなりにけりだ。「深呼吸の必要」は本土から沖縄のサトウキビ刈りに参加した5人の若者の苦労と成長を描いた映画。それぞれに問題を抱えた若者たちが労働と共同生活を通して心を開いてゆく様子をさわやかに描いた。「雪に願うこと」は東京で事業に失敗した青年が帯広で厩舎を営む兄の下に転がり込み、厩舎での馬の世話を通じて再び自分を取り戻して東京に戻ってゆくまでを描いている。どちらもいわゆる「予定調和に向う単純な映画」などと揶揄されるタイプのストレートな映画だ。確かに枠組みはテレビ・ドラマによくあるありきたりのパターンである。しかし二つの作品ともそういう枠組みを持ちながら、なおそれを越えて観客に確かな手ごたえを与える力がある。どちらも優れた映画だが、映画の出来としては「雪に願うこと」の方が上である。

  サトウキビ刈りは体力のいる重労働だが、一時的なものである。刈り終われば若者たちは去ってゆく。一方厩舎での仕事は1年を通して休みなく行われる。朝から晩までかかるきつい仕事だ。「矢崎厩舎」で育てているのはサラブレッドではなく、輓曳(ばんえい)競馬に出場する輓馬(ばんば)である。輓曳競馬は輓馬たちが数百キロ以上もあるソリを曳きながら走るレースである。輓馬がソリを曳くので「輓曳競馬」と呼ばれる。サラブレッドが馬の短距離選手なら、もともと農耕馬である輓馬は馬の重量挙げ選手である。同じ馬でも全く違う。体重はサラブレッドのおよそ2倍、1トンほどもあるという。ずんぐりむっくりでがっしりした体格。

  この輓馬の姿が「雪に願うこと」という映画の性格をそのまま示している。生活に根ざしたどっしりとした映画なのだ。競馬のシーンはこの地味な映画の数少ないスペクタクル・シーンでありハイライトである。しかしこの映画の価値は厩舎での日常の生活をじっくりと描いたこと、それが兄弟の価値観の衝突というドラマの土台としてしっかりとストーリーの中に煉り込まれていることにある。この点を見逃すべきではない。 北海道の大地に根を張るように生きている「矢崎厩舎」の親方矢崎威夫を佐藤浩市がいぶし銀の味わいで演じている。彼は、重厚さの中にも軽妙さを併せ持っていた父親の三國連太郎とはまた違うタイプの役者に育ってきた。今や日本映画界の中堅どころとしては役所公司、竹中直人、岸部一徳、香川照之などと並ぶ代表格である。

  弟の学(伊勢谷友介)は一時いい目を見たのだが、結局は事業に失敗した負け犬。兄を頼って北海道に帰ってきて競馬になけなしの金をかける。しかし結局その金も全部すってしまう。人生のレースも馬のレースもうまくいかない。彼が金をかけたウンリュウという馬も負け続けている馬だった。年間の賞金が100万円に届かない馬は「馬刺し」にされる運命が待っている。そのウンリュウの騎手を務めた首藤牧恵(吹石一恵)も最近勝てない。学に馬券の買い方を教えた丹波という男(山崎努)に彼女は「お前も馬刺し」と言われてしまう。学、ウンリュウ、牧恵、崖っぷちに追い込まれたこの「馬刺し3兄弟」の再生への努力が始まる。

Sizuka1   ウンリュウを介して学と牧恵も知り合いになる。学に生きる力を与えたのは厩舎での労働とウンリュウの生命力である。追い込まれたもの同士、惹かれあうようにして学とウンリュウは心を通わせてゆく。最初は仕事の邪魔になっているだけの学もやがて「すっかり馬臭くなったな」と言われるまでになる。厩舎での労働以上に魅力的なのは馬の調教の場面。がっしりとした輓馬(ばんば)は北海道の大地によく似合う。雪の残る北海道の広々とした台地とどっしりとした馬の姿が実に美しい。特に冬の朝、体中から湯気を立ててソリを曳く馬の映像が実に詩的で美しい。

  世間をいつか見返してやることばかり考えていたささくれ立った学の気持ちを変えたものは他に二つある。一つは母親(草笛光子)との再会である。母は自分には自慢の息子がいると学に語るのだが、目の前にいる学がその息子であることに気づかない。泣きながらボケた母親と「幸せなら手をたたこう」を踊るシーンはなかなかに感動的だ。しかしそれ以上にはっとさせられたのは踊ろうと立ち上がったときの母親の姿だ。母親が何と小さく見えたことか!「たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず。」どんな苦労話を聞かされるよりも、この小さな体がそれを雄弁に語っていた。

  もう一つはかつての同僚と思われる須藤(小澤征悦)という男が学を北海道まで追ってきて食堂で怒鳴りつけるシーンだ。彼は本気で怒っていた。唖然とする周りの者のことなど全く気に留めていない。学は会社が順風満帆な時は調子のいいことを言っていたが、会社が倒産してしまうと無責任に一人北海道に逃げてきたのである。会社の倒産がどれほど多くの人に迷惑をかけたのかお前には分からないのか、本気で怒鳴った須藤の言葉が学の胸に突き刺ささる。須藤は学から金を取り立てに来たのではない。学が一文無しであることは初めからわかっている。他人の信頼を裏切り、他人に迷惑をかけっぱなしで逃げていった学の無責任な姿勢を叱責しているのだ。学を信じていたからこそ本気で怒ったのだ。彼は学に自己破産申立書に判を押させて帰っていった。学1人が転落したのではない。彼には多くの人が生活を預けていたのだ。彼の母親のように彼に夢を託していた人もいる。人間は一人で生きているわけではない。学は厩舎での共同生活を通じて、あるいは須藤や母親との再会を通じてそれを学んでいったのだ。厩舎ですごした時間は自分の甘さを知り、自分を見つめ直す時間であった。

  学に影響を与えた人物はもう1人いる。競馬の時だけまかないにやってくる晴子(小泉今日子)である。学の目からも晴子と兄が好意を抱き合っていることはわかるが、晴子はそれ以上決して踏み込もうとしない。「今更男の人と幸せになろうなんて思ったら罰が当たる。雪が降って冬になればまた帯広にやってくる。帯広に輓馬がやってくれば春になるまで大将のそばにいられる。それだけで充分。」学は晴子から人の気持ちの優しさを教えられた。小泉今日子の存在感は抜群。「なんてたってアイドル」から22年。本当にすごい女優になった。

  脇役である牧恵の場合は、もっと簡潔に心の葛藤とその変化が描かれている。「消えたり現われたりする橋」が象徴的に使われている。昔彼女が住んでいた村にある橋だ。ダムが出来たために彼女たちをその場所を追われた。橋は水位によって現われたり消えたりする。映画では水の代わりに雪が使われていた。最初牧恵が学を案内した時には橋の全景が見えていた。二人は橋を見上げていた。だが、「お前も馬刺し」と言われて落ち込んだ牧恵が逃げるようにやってきたときには半分雪に埋もれていた。橋は人生の浮き沈みを暗示していた。現実のものとは思えない何とも不思議な空間で、これが実に効果的に使われている。

  学は兄に雇われるが給料は月8万円。小遣い程度だ。厩舎の経営がいかにぎりぎりの生活なのか分かる。学が山崎努扮する丹波(学に馬券の買い方を教えた男)に向って「勝Saba3_1 負って勝ち負けじゃないだろ」と怒鳴るシーンがある。世間を見返すことばかり考えていた彼からすれば一皮剥けた発言だが、しかし厩舎にとって競馬での成績はそのまま生活に跳ね返ってくる。きれいごとばかりは言っていられない。負け続ける馬は食肉にされてしまう。学はまだまだ甘い。ある厩務員が飲みに行っている隙に大事な馬が病気で倒れた時、威夫はその男を殴り倒し思い切り蹴飛ばした。学自身も威夫の肘鉄を食らって吹っ飛ばされたことがある。佐藤浩市の演技は半端ではない。本気で殴っていると思えるほどだ。馬1頭の生き死には文字通り生活を左右する。威夫は必死である。手抜きには容赦しない。

  威夫の厩舎は彼独りで成り立ってはいない。何人も厩務員を雇い、その生活も保障しなければならない。牧恵など騎手との関係もあるし、賄い婦の晴子にだって金を払わなければならない。馬主との関わりもある。馬主は投資しているのである。負けていては馬も人間も生きてゆけない。馬と人間は一体なのだ。レースに出て脚光を浴びる馬と騎手の背後にこれだけの人間関係があり、生活があり、レースの結果にはこれだけ多くの人たちの思いが込められている。輓馬はソリと騎手だけではない、これだけの重荷と願いを同時に曳いているのである。この映画の優れた点は、これらのことを言葉ではなく、厩舎での仕事を黙々とこなす男たちの姿、馬の世話にこめる男たちの愛情、威夫がたびたび見せる暗く重たい表情、そして何よりまるで鉄の塊のようなずっしりと重いソリを曳く輓馬の姿によって描いていることである。

  輓馬はサラブレッドのように疾走はしない。苦しそうに息をしながら、ずるずるとソリを引きずる。猛烈な鼻息、体中から汗が噴出し湯気が立ち上る。盛り上がった障害の前では立ち止まって力を蓄え一気に上る。坂の頂上あたりでは前足が重みに耐えかねひざまずいてしまうことがある。それでもまた体勢を立て直し前進する。「風に願うこと」は人間のドラマであるが、競馬は決して単なるスペクタクルではない。重いソリを曳いて苦しみもだえる輓馬の姿にはその馬を育ててきた人間たちの苦労と希望が二重写しになっている。地味な作品ながら、まれに見る力強さを持っているのはそのためである。

  学の心の変化とウンリュウの調教は並行して描かれ、ラストの競馬でクライマックスを迎える。そのレースで勝たなければウンリュウは馬刺しにされてしまう。だが競馬場にそのレースを見届ける学の姿はなかった。学はその前に東京に戻ることを決意していた。学はレースを見ずに東京へ帰ってゆくのだ。須藤に本心から謝るために。去る前に学は「ウンリュウ、ありがとな」と話しかけながら馬の頭をなでさする。ラストはウンリュウのレースと競馬場を出てゆく学の姿が交互に映される。

  ストーリーとして学をそのまま厩舎で働かせる選択肢もあった。しかしそうしなかったのは正しい選択だったと思う。どう見ても厩舎は彼のいる場所ではない。厩舎で働き始めた時学の姿は完全に他から浮いていた。兄や厩務員たちは北海道訛り、弟は東京の言葉で話している。やがて学も次第になじんでくるが全く同じにはなれない。一時生活を共にしてその苦労を知るのはいいが、そんな簡単に調教師になどなれるはずもない。そんな安易な方向を選ばず、映画は彼をもう一度人生に立ち向かわせた。レースの結果を見ずに出て行ったのはウンリュウの勝利を確信しているからだったかもしれないし、あるいは、たとえ勝てなかったとしてもウンリュウはもはや負け犬ではないと信じていたからかもしれない。できるだけのことはやった。しっかりと前を見つめる彼の顔に迷いはない。思いを残さず彼は去ったのである。

  学が出てゆくことを決意した後の厩舎での学と兄威夫の会話が印象的だ。「うらやましいな兄さんが。」「なしてよ?」「迷わないで生きてる。」「何言ってんだ、迷ってばかしだ。」北海道での生活で何がしかのことは学んだが、学の行く先は決して平坦な道ではないだろう。再び成功できる可能性は低い。彼もまた兄のように迷いながら生きてゆく以外にない。それでも彼は前に踏み出した。ウンリュウのように重い荷物を背負って。

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2007年2月12日 (月)

冬の不動滝

07212_1  上田駅の近くで昼食をとった後、ドライブに行く。いつもながら行く当ては特にない。国分に向かい千曲川沿いの道を丸子方面に向かう。そのまま丸子を抜け、「ブランシュたかやまスキー場」へ行ってみることにした。家から車で1時間程度で行けるスキー場は5つ6つある。「ブランシュたかやまスキー場」は「車山スキー場」と同じ山の反対側にあるスキー場で、その二つの中間にあるのが「エコーバレースキー場」。「車山」は行ったことはないが、他の二つは滑ったことがある。

 スキー場に着くと結構人はいた。雪はさすがに少なく、気温が高いのでほとんどシャーベット状。駐車場の辺りは緩斜面で家族向き。そこから速度の遅いとろとろリフトで延々のぼって上のゲレンデに行ける。そっちの方はあまり人はいないのではないか。スキーの用意は当然していないが、レンタルして4、5回だけでも滑ってみたいという誘惑に駆られた。もちろんそうはせずにおとなしく帰った。

07212_2   途中2箇所寄ったところがある。登ってくる途中看板を見かけて帰りに寄ろうと思っていたところだ。最初に車を停めたのは道路わきの小さな川原。なんとか渓谷との看板があったのでいってみた。別にどうということはないただの渓流があるだけだった。途中二股の道があって、もう一方の道はもっと上まで上っていたのでそっちに行けばすごい渓谷があったのかもしれない。そっちに行ってみようかとも思ったが、もう4時近かったので諦めた。

 次に行ったのは「不動滝」。わき道に入るとすぐ山道。車が1台やっと通れる程度の細い07212_3道だ。対向車が来たらどうしようと不安が頭をかすめるが、この時期にこんなところに来る人はないだろうと自分を納得させる。実際、車1台、人っ子一人見かけなかった。途中あと2.5キロという看板が目に入る。山道だから結構あるなと思ったがとにかく進んだ。ようやく「不動滝」という看板が立っている橋のところに着く。水の音も聞こえてくる。やれやれやっと着いたか。車を停め、カメラを用意して車外に出る。ふと先ほどの看板をもう一度見ると、何と「不動滝1キロ」とあるではないか。思わず「バカ野郎」と叫んでしまった。

 その先も道はあるが雪が道を覆っている。橋の先に滝のようなものが見えるが、コンク リートの堰だった。一瞬それが「不動滝」だったことにして引き返そうかと思ったが、ここまで来たのだから行ってみようと気を取り直す。車で橋を渡ったがその先は舗装されていない。上れなくなったらえらいことになると思って、バックで橋のところまで引き返す。車を置いて歩いて上る。「1キロ」となっているが実際はその半分ぐらいの感覚だった。中国で203高地を登ったときも「頂上まで30分」と書いてあるのに実際は10分くらいしかからなかった。「何だもう着いたのか、案外たいしたことはないな」と思わせるために、実際より多めに書いてあるのだろうか。

07212_5  それはともかく、いい加減息が切れてきたころに滝が見えてきた。山の陰なので気温はかなり低い。それでも滝に着くころには汗をかいていた。滝が落ちている岩は不思議なほど真っ黒だった。そこだけ黒いのでやけに目立つ。何しろあたりは茶色一色で、地面は雪で真っ白なのだ。滝の高さは7、8メートルくらいか。黒い岩に氷がツララ状にいくつも張り付いている。このところほとんど雨が降っていないので水はあまり流れていないのではないかと心配していたが、結構ざあざあと流れていた。普通の年ならもっと水量は多いのだろう。もっとも暖冬だからこの時期に上ってこれたのだろう。雪が多い年だったら「冬の不動滝」は拝めなかったかもしれない。

 滝の下に東屋がある。そこでタバコを吸ってしばし休憩。休んだ後何枚か写真を撮った。周りの山は岩山だ。ごつごつとした岩が崖のようにむき出しになっている。もう陽もか07212_1_1 なり低くなってきたので10分ほどいてすぐ道を引き返した。橋のところまで戻った時はほっとした。しかしまだまだ油断は出来ない。雪の残る細い山道を今度は下らなければならない。大した斜面ではないのだが、何せ道が細いのでロウ・ギアで走った。それでも結構スピードが出る。道からそれないよう慎重に運転する。雪のあるところはさすがに走りにくかったが、スリップすることもなく無事降りられた。愛車インプレッサはスバルの車だけにやはり足回りがいい。ほとんど不安を感じなかった。普通の道に出て、気持ちよく家まで走った。

2007年2月11日 (日)

グエムル 漢江の怪物

2006年 韓国 2006年9月公開
評価:★★★★☆
監督&オリジナルストーリー:ポン・ジュノ
脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン
撮影:キム・ヒョング
音楽:イ・ビョンウ
出演:ソン・ガンホ、パク・ヘイル、ペ・ドゥナ、コ・アソン、ピョン・ヒボン
   イ・ジェウン、イ・ドンホ

 全体にどこかB級映画を思わせる作りだが、滅法面白かった。「ボディ・スナッチャー」、Steal2_1 「遊星よりの物体X」、「エイリアン」シリーズ、「トレマーズ」、「GODZILLA」、「レリック」、「ミミック」、「グリード」、「パラサイト」など、この手の映画は結構観ている。他にも観ているはずだが、ほとんどがB級映画なのでよく覚えていない。いずれにせよ、「グエムル 漢江の怪物」は日本の怪獣映画などのありきたりの怪物物に比べると相当ユニークだ。そのユニークさをまずしっかり捉えておくことがこの映画を理解する上で重要である。「宇宙戦争」や「エイリアン」シリーズほど豪華ではないが、日本の怪獣映画ほどチープでもちんけでもない。良くできたB級映画という作りだ。言ってみれば韓国版「トレマーズ」である。しかし「宇宙戦争」も「エイリアン」も「トレマーズ」もどちらかというと宇宙人や怪物から反撃しつつ逃げ回る映画だが、「グエムル 漢江の怪物」はむしろ奪われた家族の一員を取り戻すために、ばらばらだった家族が力を合わせて怪物に立ち向かう映画である。家族愛が強調されているところがいかにも韓国映画らしい。

  怪物は日本の「ゴジラ」やアメリカ版「GODZILLA」のような近代兵器も通じないほど強力ではない。「エイリアン」シリーズのように数が多くもない。言ってみれば「ロスト・ワールド」の恐竜の1匹が現代韓国社会に出現したようなもの。銃程度では大した効果はないが、ミサイルを浴びればひとたまりもない。つまり、大した武器を持たない(「トレマーズ」のようなダイナマイトすらない、せいぜい銃や弓や火炎瓶程度である)普通の家族が力を合わせれば倒せる程度の怪物である。あくまで「家族」が強調されているのである。だから恐ろしい怪物ではあるが、「ゴジラ」や「GODZILLA」ほど大きくはなく、せいぜい象くらいの大きさの(ただし動きは素早く獰猛な)怪物が必用だったのである。

  そう考えてくれば、怪物をウィルスの発生源として誤って認識するという無理な設定がなぜ必要だったかも分かる。軍が本格的に介入したら怪物などひとたまりもないからなのだ。警察は怪物の捕獲ではなくウィルスに感染した人々の隔離に追われる。軍が介入するほど強大な脅威ではないという設定。主人公たちにとっては軍や警察の協力すら得られないどころか、むしろウィルスの感染者として隔離され、家族の救出に向うことさえ妨害されるという設定にしたかったのだ。こうして、まるで「真昼の決闘」のように誰の協力も得られず、彼らは自分たち家族だけで怪物に立ち向かうのである。

 こういう設定なので、この映画には颯爽としたヒーローは登場しない。アメリカ大統領が先頭を切って大活躍する「インデペンデンス・デイ」タイプではなく、有名俳優は早々に殺され大統領ならぬ無名の人たちが活躍する「マーズ・アタック」のような、あるいは無名の人々が力を合わせて怪物を倒す「トレマーズ」のようなタイプの映画。そして無名の家族を支えていたのは「家族愛」という設定。

 これにアメリカ批判がトッピングされている(もちろんピリ辛味)。怪物は漢江上流の米軍基地から劇薬ホルムアルデヒドが大量に不法投棄されたことにより誕生したのである。しHuymgm03_1 かもアメリカ批判は政治面だけではなく文化面にも向けられている。長年同じようなものを作り続けてくるとどんどんエスカレートしてゆかざるを得ない。怪獣が強大化して現実味が薄くなったアメリカ映画の怪物やかっこよすぎるヒーロー像、あるいは日本のチープな怪獣映画に対する批判が込められている。外国映画の焼き直し、シリーズ物の続編ばかり作っているアメリカ映画界の「お手軽病」は、一方で強い奴を組み合わせればすごい映画になるだろうという安易な方向にも向かう。「フレディVSジェイソン」がその典型。吸血鬼とフランケンシュタインをくっつけてしまおうという「ヴァン・ヘルシング」もそう。ヒーロー側も「リーグ・オブ・レジェンド」で大結集だ。かくして話は「ドラゴン・ボール」のように荒唐無稽になって行く。そのうち「ス-パーマン・バットマン・スパイダーマン・ロボコップvsプレデター・ターミネーター・エイリアン・GODZILLA+助っ人怪獣ゴジラ・キングコング(どっちの側についたかは観てのお楽しみ)」が出来るかも。日本ではとっくに大怪獣結集映画を作っている。

  超人的なヒーローが登場しない代わりに、逆にだらしない人間を中心に据える。金髪で店番をしても居眠りばかりしている主人公のカンドゥ。名優ソン・ガンホがここでもいい味を出している。それでも彼らが活躍できるのは、原動力として「家族愛」があるから。いわば等身大のヒーローたち。スーパーマンにとってはなんでもないことでも、現実の人間には乗り越えられない壁になる。鉄格子があればそれを通り抜けられない。高い塀を乗り越えられない。酒を飲みに行きたくても目を光らせている奥さんを突破できない。韓国のダメ親父カンドゥはウィルス感染者として隔離された施設のビニール・カーテンすら簡単には抜け出せない。目に見えない社会の縛りがあるからだ。大怪獣など登場させなくても社会の抑圧機構を描くだけで充分ドラマになる。戒厳令を敷き、伝染病ウィルスの拡散を防ぐことに力を注ぐ軍や警察は主人公たちの助けではなくむしろ障害になる。軍隊は戦時も平和時も国民に対する抑圧機関である。ある意味、カンドゥをベッドに縛りつけ、あまつさえウィルスを取り出すために頭部の手術すら強制する政府の役人たちはカンドゥたちにとって怪物と同じであるとさえ思える。主人公たちに協力する味方は浮浪者などの社会から疎外された個人である。

  「グエムル 漢江の怪物」は主人公たちが大活躍するというよりは、なかなか家族の救出に向えないもどかしさを描いている。しかも家族が一丸になって怪物に立ち向かうのではなく、途中でバラバラになり、1人ずつ立ち向かわざるを得ないため簡単に怪物によって跳ね除けられてしまう(力を合わせても容易ではないのだが)。設定は無理やりだが展開は(等身大の主人公たちの闘いという意味で)結構リアルである。こうして所詮B級か子ども向けだった怪獣映画を一級品に仕立て上げたポン・ジュノ監督の力量は賞賛してよい。 言うまでもなく、上に述べた設定は意識的なものである。ポン・ジュノ監督がインタビューに答えて語った次の言葉はこの映画を鑑賞する上で重要なヒントを与えてくれる。 

 最も情けない家族にしようと思いました。グエムルと一番戦えそうにない、戦うという行為が似合わない駄目な家族にしようと。それこそがこの映画のドラマの核心部分だと思いました。普通、怪獣映画だと、軍人や天才科学者などのスーパーヒーローが出てくると思うのですが、この映画はそうではありません。そんな風に色々と家族構成を考えていたら、2世代に渡って母親が不在ということに気がつきました。ヒョン・ヒボンにも、ソン・ガンホにも妻がいません。なぜ母親を登場させなかったのかというと、私の考えでは、母親は賢く現実的で、家庭の中でとても強靱な存在なんです。だから母親がいると、駄目なはずの家族が、情けない家族に見えなくなると思ったのです。パク一家が駄目な家族に見えるからこそ、この映画ではその設定が生きると思ったのです。ですが、あれほどまでに情けないパク一家が、命を賭けて助けようとしたヒョンソに、実は母親的な要素があったのです。劇中でグエムルによって閉じこめられていたときに、ヒョンソは自分より小さな男の子を守ろうと必死でした。 eiga.com

 ダメ親父としっかり者の女房というよくある組み合わせをあらかじめ解体してあるという指摘が面白い。母親は最初から不在であり、その可能性を持ったヒョンソも最後には死んでしまう。徹底してアメリカ映画の定番パターンを崩してゆく。そういう意図に基づいて作られた映画である。怪物自体もユニークである。見るからに恐ろしげではなく、元はなんだか分からない中途半端な姿がかえっていい。ホラー映画並みにやたらと観客を脅かす描写は極力少なくし、彼女を救おうとする家族の奮闘に多くを割いている。怪物は特別巨大ではないので街のどこかに隠れ潜んでいる。どこか分からないが近くにいて神出鬼没だからこそ恐ろしい。「キングコング」のように怪物自体に共感することもない。何の感情も持たせていない。しかし智恵はあるらしい。

  大きな排水溝の中に閉じ込められたヒョンソ(コ・アソン)はもう一人生き残った男の子と一緒に小さな横穴に隠れている。彼女たちの存在に気づいた怪物は無理やり捉えようとするのではなく陽動作戦を取った。脱出用(だということまで怪物は認識しているようだ)のヒモの下で眠っていると見せかけて彼女をおびき出すのだ。ヒモに手をかけた途端、ヒョンソの動きが止まる。キャメラの視線が下がると彼女の体に怪物の尻尾が巻きついていた。どこかで似たシーンを見た気がするが、ともかくぞっとするシーンだ。こういった演出がなかなかうまい。

  監督はかなりこの手の映画を観ているのだろう。穴に隠れるヒョンソたちを怪獣が追い詰め、穴を覗くシーンはまさに「エイリアン」。怪物が初めて登場するシーンはそれこそ「ジョーズ」だ。漢江は有名な観光スポットで、休日には家族連れやカップルがたくさん集まる。そののんびりした楽しい風景に怪物が不穏な影を落とす。橋の下から尻尾でぶら下がっている光景が何とも不気味。やがて怪物は川に飛び込み、黒い影を水面に映して泳ぎ始める。あのゾクゾクする「ジョーズ」のメロディーが聞こえてきそうだ。観光客たちは最初面白がって見ていたが、やがて怪物は岸に上陸し人々を襲い始める。のどかだった漢江の岸辺は一転して阿鼻叫喚の巷と化す。カンドゥは娘のヒョンソの手をとって逃げようとするが、気が付いたら他人の手を引いていた。怪物はあっという間に長い尻尾でヒョンソを捕まえて川に飛び込み、向こう岸に消えて行く。導入部分として実に秀逸だった。

  ソン・ガンホが主人公なのでしっかり笑いの要素も盛り込まれている。その笑いも滑稽さだけではない。そこは「ほえる犬は噛まない」のポン・ジュノ監督、風刺の効いたシニカルなPearl_k02_1 笑いも含まれている。それでいてスペクタクルも楽しめる。盛りだくさんな映画なのだ。ただし、その分中途半端という指摘もあるだろう。いささか無理な設定が多すぎるのは確か。特に韓国政府とアメリカのあたふたとした、しかも見当違いな対応には何度も突っ込みを入れたくなる。しかし、ありもしないウィルス騒動に振り回される韓国政府に、追い討ちをかけるようにアメリカが茶々を入れてさらに事態を混乱させているという構図には監督の批判精神がきっちり盛り込まれている。あえて戯画化という方法をとっているのである。結果的にはナンセンスの方向に流れてしまっているので必ずしも効果的ではないが、家族愛ばかりが前面に出て甘くなるのを防いではいる。そんな馬鹿げたものに人々は翻弄されるのである。

 最後にその家族というテーマを詳しく見てみよう。カンドゥはだらしない男である。店番をさせれば居眠りをする。その上あろうことか客に出すイカの足を1本食べてしまう。父親であるヒボン(ピョン・ヒボン)にいつも叱られてばかりいる。そんな彼だが娘のヒョンソは人一倍可愛がっている。彼には下に妹と弟がいる。弟のナミル(パク・ヘイル)は大卒だがまともな職についていない感じだ。学生の頃には学生運動に参加していたようである。妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)はアーチェリーの選手。大会に出場するほどの選手だが肝心なところで力が発揮できない。

 この家族が集まるのはヒョンソを含む犠牲者の合同葬儀の時。しかし家族の結束は簡単に生まれない。ヒョンソがさらわれたのは「お前が手を離したからだ」と弟のナミルがカンドゥを怒鳴りつけている。むしろ家族はばらばらだった。その上に、葬儀の最中に黄色い防護服を着た人が現れ、現場にいた人たち全員を強制的に隔離してしまう。カンドゥの携帯電話に「お父さん、助けて。私は今、大きな排水溝の中・・・」とヒョンソが電話をかけてきたのはその夜である。ヒョンソは生きている!そこで初めて家族が結束する。しかしヒョンソ救出どころか彼らは隔離施設を抜け出すことさえ出来ない。戦いは人間との戦いから始まる。

 娘は生きていると訴えても警察は耳を貸さず、ウィルスで頭がいかれていると相手にしない。賄賂を使って何とか抜け出すが、間抜けなカンドゥが銃弾の数を間違えたために怪物に立ち向かったヒボンが殺されてしまう。カンドゥは再び警察に捕まってしまい、ナミルとナムジュも逃げる際にバラバラになってしまう。怪物と戦っているのか国家と戦っているのか分からないという描き方になっている。

 そこから3人それぞれの孤独な戦いが始まる。しかしバラバラになりながらも家族の絆は途切れなかった。そういう描き方がいい。警察に追われ力尽きたナミルは携帯でナムジュにヒョンソの居場所を知らせる。ナムジュは妹救出に向かいアーチェリーを武器に怪物に立ち向かうが、怪物に弾き飛ばされ排水溝に落ちてしまう。ヒョンソのいる排水溝に近いが別の排水溝だ。排水溝は社会の底辺を象徴しているのだろう。社会の掃き溜め。パク一家のヒョンソ救出劇はまさに掃き溜めの中の戦いだった。

 高い金を取られて役に立たない地図を買わされたり、先輩に裏切られたり、彼らは途中散々な目に合う。3人がそろって力を合わせるのは最後の最後までお預けである。最後にやっとカンドゥとナミルとナムジュが結集して怪物を倒す。家族の力を合わせることで初めて敵を倒せるといういかにも韓国らしい作り。しかし皮肉なことに怪物の動きを鈍くさせたのはアメリカ軍がいい機会とばかりに実験的にまいたイエロー・エージェントと名付けられた対細菌兵器用の薬品だった(人間には無害だが怪物には有害というのは「宇宙戦争」のアルージョンだろう)。怪物は焼き殺されるが、怪物に油をかけたのは彼らに協力してくれた別の男だった。ナミルはあせって火炎瓶を取り落とし、かろうじてナムジュがその火を借りて怪物に火矢を放つ。猛火に包まれもだえる怪物にやっとカンドゥが鉄の棒で止めを刺す。家族の力の結束を強調しながらも、最後まで彼らを英雄にしていない。そんな描き方もいい。

 怪物は倒せたが、怪物に飲み込まれていたヒョンソは既に息絶えていた。ただヒョンソが抱きかかえるようにしていた男の子は助かった。監督が言うように彼女は確かに「母親」的要素を持っていたのである。その子は新しい家族になった。

 見事なアンチ・ヒーロー映画である。家族愛も「宇宙戦争」のいかにもとってつけたようなものではない。しっかりと作品の底を支えていた。しかも「Mr.インクレディブル」のような超人的な力は発揮しない。家族愛は人間を超えた力を発揮させるものではなく、最後までヒョンソの生存を信じさせ、助け出すまで諦めない気持ちを生み出したのである。人間も愛も最後まで「等身大」だった。

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