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2007年11月18日 - 2007年11月24日

2007年11月23日 (金)

別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」のご案内

  前にも書いたのですが、このところ写真日記を載せていません。当ブログと別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」の差別化を計るために、旅行記や写真日記は別館ブログだけに掲載することにしたからです。その代わりに映画チラシやパンフレットのコレクション写真を載せるようにしました。

 最後に載せた写真日記は「自然運動公園へ行く」ですが、その後も別館ブログでは「白樺湖で紅葉を撮る」、「海野宿と望月宿を歩く」、「上田城跡公園で紅葉を撮る」、「立科町・中山道芦田宿と笠取峠を歩く①、②」、「千曲川探索・古船橋の下流を撮る」(今日アップしました)などの記事を既に掲載しています。関心がありましたら、ぜひ別館ブログも覗いてみてください。

ゴブリンの映画チラシ・コレクション③

  映画チラシ・コレクションの第3弾です。一度載せてしまうとどういうわけか早く次を載せたくなって、自分を抑えるのに苦労しました。基本的にレビューが書けない時の埋め草なので、どうしても間が開いてしまうわけです。まあ、無尽蔵にあるわけではないのでそれでいいのですが。

  チラシもパンフも種が尽きたら、DVDコレクションを載せましょう。こちらも結構珍しいのがあります。アマゾンで検索していると、「ええ、こんなのがDVD出ていたの?」と驚くことはよくあります。本当にいつの間に出ていたのか。うれしい発見です。今やブルーレイ・ディスクやHD DVDなども出回り始め、従来のDVDもいずれはビデオのような運命をたどることになるのか、それとも並存してゆくのか少し不安になってきました。まだ先は読めませんが、何とか住み分けしてくれればこれまでのコレクションが無駄にならずにすむのですが。

  掲載したチラシやパンフを眺めていると、岩波ホールやシネ・ヴィヴァン六本木のものが多いことに改めて驚きます。東京にいた頃よく通った映画館ないしホールは、岩波ホール、国立フィルムセンター、池袋の文芸座と文芸地下とル・ピリエ、銀座の並木座、高田馬場のACT、ユーロスペース、三百人劇場あたりか。次いでよく通ったのはシネセゾン渋谷、シネマスクエアとうきゅう、シネ・ヴィヴァン六本木、有楽町シネマ、東銀座の松竹シネサロン、高田馬場東映パラス、銀座文化、シャンテシネ等々。名画座・自主上映系では下高井戸京王、八重洲スター座、三鷹オスカー、スタジオ200、テアトル新宿、パール座、後楽園シネマあたり。う~ん、今はもうないところも多いせいか、映画よりも映画館のほうが懐かしい。

  今当時を振り返って残念に思うのは、映画館の写真を撮っておかなかったこと。もっとも、当時はそんな関心など全くなかったのだから仕方がないですが。映画館の名前や場所は覚えていても、どんな外観だったのかは全く覚えていない。もっぱら関心は映画にあったわけで、映画館は単に入り口を通過するだけの入れ物。そんな感覚だった。当然といえば当然だが、しきりにデジカメで写真を撮っている今から思うと惜しいことをしたと後悔しきり。最近よく買っている『東京人』という雑誌に文芸座の写真が載っていた時にはため息が出るほど懐かしかった。これだ!写真で記録する意味はここにある。芸術写真を撮るつもりなど毛頭ない。20年後、30年後に意味を持ってくる。だから何でもないありふれたものでも記録に残しておく意味があるのだ。「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズに出てくる消え去った生活用品・用具等は懐かしさをあおるが、あれも使われている当時は当たり前すぎて写真を残しておこうなどと思わない。だから、人物を撮ったスナップ写真でも、後で見るとその横に映っている昔のポストや看板や家並みの方が意味を持ってきたりする。よし、連休中もまた写真を撮りに行くぞ。

  おやおや、短い前書きを書くつもりだったのに、とりとめもないことを長々と書いてしまった。長くなりついでに、最近観た映画のことにも触れておきましょう。「ダイ・ハード4.0」はたっぷり楽しめました。1作目の出来が良すぎて2作目と3作目は見劣りしたが、4作目はなかなかの出来だ。さすがに4作目ともなるとかなり荒唐無稽になってきたが、ブルース・ウィリスのキャラクターの魅力は変わらない。彼にはこのシリーズが一番似合う。

  もう1本「あかね空」を観た。正直観る前はテレビドラマに毛が生えた程度の安っぽい作りではないかと心配していた。なんのなんの、しっかり作ってあります。山本一力は『損料屋喜八郎始末控え』と『大川わたり』を読んだ。『あかね空』も評判だったのでブックオフで買ったが、原作より映画を先に観ることになってしまった。主演の内野聖陽がなかなかいい。僕はNHKの大河ドラマは観ないので、この映画で初めて観た。実を言うと彼が二役をやっていることには最後まで気づかなかった。あのやくざの親分も彼が演じていたとは!いやびっくり。時代小説だが、侍ものではなく町人もの。町人ものは人情劇が多いが、これは豆腐職人の世界を泣かせ路線に走らず丁寧に描いていて好感が持てる。拾いものの1本。

  もういい加減長くなったが、ええい、ついでに江戸時代の町人ものの関連でもう一つ書いてしまえ。先日矢口高雄の『平成版釣りキチ三平9 三平inカムチャッカ カヒの秘密編』を読んだ。これが滅法面白い。釣りの話そっちのけで高田屋嘉兵衛という江戸後期に活躍した商人の話にかなりのスペースを割いている。矢口高雄自身が高田屋嘉兵衛に魅せられてしまったのだ。何と谷地坊主はその7代目の子孫というとんでもない設定を思いつき、強引に物語りにはめ込んでしまった。しかしそれでよかったと思う。話の幅が広がり、またそのことによって高田屋嘉兵衛という人物を知ることが出来たのだから。

  嘉兵衛は淡路島の貧家に生まれ、子供の頃から船乗りとして非凡な才能を発揮する。その後船長になり、函館を拠点とした貿易商人となる。後に南下してきたロシア軍につかまるが、彼の活躍により危ういところで日本との開戦を食い止める。いやはやすごい男がいたものだ。坂本竜馬を彷彿とさせる男だ。漫画も手塚の「陽だまりの樹」に匹敵する面白さだった。翌日元になった司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』全6巻(文春文庫)をブックオフで買ってきた。早く読みたい。

  とうとう最後は映画と何の関係もない話になってしまった。近況報告と受け止めてください。チラシの写真だけ載っているよりはいいでしょう、と強引にまとめてみる。

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2007年11月20日 (火)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年12月)

【新作映画】
11月17日公開
 「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」(クリスティナ・ゴダ監督、ハンガリー)
12月1日公開
 「サラエボの花」(ヤスミラ・ジュバニッチ監督、ボスニア・他)
 「ここに幸あり」(オタール・イオセリアーニ監督、伊、仏、ロシア)
 「ある愛の風景」(スサンネ・ビア監督、デンマーク)
12月8日公開
 「エンジェル」(フランソワ・オゾン監督、英・仏・ベルギー)
 「やわらかい手」(サム・ガルバルスキ監督、英・独・仏・他)
12月15日公開
 「中国の植物学者の娘たち」(ダイ・シージエ監督、フランス・カナダ)

【新作DVD】
11月21日
 「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(デビッド・イエーツ監督、英・米)
 「ヘンダーソン夫人の贈り物」(スティーヴン・フリアーズ監督、イギリス)
 「ディクシー・チックス/トップ・オブ・ザ・ワールド・ツアー・ライヴ」(音楽)
 「グラストンベリー」(音楽)
11月23日
 「新SOS大東京探検隊」(高木真司監督、日本)
12月5日
 「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」(ゴア・バービンスキー監督、米)
 「コマンダンテ」(オリバー・ストーン監督、米・スペイン)
12月7日
 「舞妓Haaaan!!!」(水田伸生監督、日本)
 「女帝 エンペラー」(フォン・シャオガン監督、中国・香港)
 「トランシルヴァニア」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
 「憑神」(降旗康男監督、日本)
 「パラダイス・ナウ」(ハニ・アブ・アサド監督、仏・独・オランダ・パレスチナ)
12月19日
 「トランスフォーマー」(マイケル・ベイ監督、アメリカ)
 「アズールとアスマール」(ミッシェル・オスロ監督、フランス・他)
 「主人公は僕だった」(マーク・フォスター監督、アメリカ)
12月21日
 「街のあかり」(アキ・カウリスマキ監督、フィンランド・他)
 「リトル・チルドレン」(トッド・フィールド監督、アメリカ)
 「天然コケッコー」(山下敦弘監督、日本)
 「ボラット」(ラリー・チャールズ監督、アメリカ)
12月22日
 「レッスン!」(リズ・フリードランダー監督、アメリカ)
1月1日
 「ボルベール(帰郷)」(ペドロ・アルモドバル監督、スペイン)
1月9日
 「キサラギ」(佐藤祐市監督、日本)

【旧作DVD】
11月21日
 「NHKアーカイブス ドラマ名作選集第1期」
   収録作品:「氷雨」、「どたんば」、「海の畑」、「魚住少尉命中」、「駅」
11月22日
 「ショート・カッツ」(93、ロバート・アルトマン監督、米)
 「アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX②」
   収録作品:「痛ましき無関心」、「マザー、サン」、「モレク神」
 「リストランテの夜」(96、スタンリー・トゥッチ監督、米)
11月23日
 「斬る」(68、岡本喜八監督、日本)
11月28日
 「浪人街」(90、黒木和雄監督、日本)
12月7日
 「トニー・ガトリフ DVDコレクターズBOX」
   収録作品:「ラッチョ・ドローム」、「ガスパール君と過ごした季節」、他
12月14日
 「熊井啓 日活DVD-BOX」
   収録作品:「日本列島」、「愛する」、「日本の黒い夏 冤罪」
  「草の乱」(04、神山征二郎監督、日本)
12月21日
 「ヴィム・ヴェンダースDVD-BOX 旅路の果てまで」
   収録作品:「都会のアリス」、「さすらい」、「ことの次第」、「左利きの女」、他

Mado_momizi_01    新作はアメリカ映画にいいのが見当たらず地味なものばかりになってしまった。「サラエボの花」、「ここに幸あり」、「ある愛の風景」、「エンジェル」あたりが良さそうだ。「小さな中国のお針子」のダイ・シージエ監督作品「中国の植物学者の娘たち」はいまだタブーの同性愛がテーマ。

 新作DVDでは「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」、「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」、「トランスフォーマー」などの人気作が出る。駄作のないトニー・ガトリフ監督の「トランシルヴァニア」、もはや巨匠と呼ぶべきペドロ・アルモドバル監督の「ボルベール(帰郷)」が大いに楽しみだ。ミッシェル・オスロ監督のアニメ「アズールとアスマール」、アキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」も期待大。「ヘンダーソン夫人の贈り物」や「リトル・チルドレン」、日本では「キサラギ」も気になる。また、今回は音楽DVDを2本上げておいた。ディクシー・チックスは特におすすめ(廉価版で再発)。

 旧作の方はボーナス目当てかボックスものが多い。中でもトニー・ガトリフとヴィム・ヴェンダースがおすすめ。NHKアーカイブスもぜひ。アーカイブスの番組ができた記念に放送された「どたんば」を観たが、当時の熱気が伝わってくる優れたドラマだった。ボックス以外では「斬る」と「浪人街」の発売がうれしい。どちらも未見だが、観たかった映画だ。アルトマンの「ショート・カッツ」が初DVD化とは!もちろんおすすめ。「ナッシュビル」も早く出して欲しい。

2007年11月19日 (月)

100人の子供たちが列車を待っている

1988年 チリ 1990年公開 58分
評価:★★★★★
監督:イグナシオ・アグエロ
製作:ベアトリス・コンザーレス
製作協力:チャンネル4
撮影:ハイメ・レイエス、ホルヘ・ロート
録音:エルネスト・トルヒーヨ、フレディ・ゴンサーレス、マリオ・ディアス
編集:フェルナンド・バレンスェラ・キンテーロス
出演:アリシア・ベガ、チリの子供たち

F126s   「100人の子供たちが列車を待っている」が日本で公開されたのは1990年。奇しくもチ リの独裁者ピノチェトが大統領を辞任し、民政に移行した年である。『キネマ旬報』のベストテンでは31位にランクされている(僕自身は90年のベストテン第6位に選んでいる)。しかし既に東京から上田に移っていたのでこの年には観られなかった。ずっと観たいと思っていたのだが、94年の1月頃にスーパーのワゴンセールでビデオを手に入れた。最初に観たのは94年2月5日。先日13年ぶりにビデオを見直した。製作から20年近くたった今でも実に新鮮で少しも色あせていない。文句なしの傑作である。

  この映画は記録映画として傑作であるだけではなく、ラテンアメリカ映画の中でも特筆すべき位置を占めている。参考までに、「ラテンアメリカ映画マイ・ベストテン+α」を挙げておこう。ただし特に順位はつけず、年代順に並べてある。

■ラテンアメリカ映画マイ・ベストテン
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004) ヴァルテル・サレス監督(英・米)
「シティ・オブ・ゴッド」(2002) フェルナンド・メイレレス監督(ブラジル)
「フリーダ」(2002) ジュリー・テイモア監督(メキシコ)
「セントラル・ステーション」(1998) ヴァルテル・サレス監督(ブラジル)
「クアトロ・ディアス」(1997) ブルーノ・バレット監督(ブラジル)
「ラテンアメリカ光と影の詩」(1992) フェルナンド・E・ソラナス監督(アルゼンチン)
「戒厳令下チリ潜入記」(1988) ミゲル・リティン監督(スペイン)
「100人の子供たちが列車を待っている」(1988) イグナシオ・アグエロ監督(チリ)
「オフィシャル・ストーリー」(1985) ルイス・プエンソ監督(アルゼンチン)
「忘れられた人々」(1950) ルイス・ブニュエル監督(メキシコ)

■ラテンアメリカ映画+α
「ウィスキー」(2004)  フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール監督、ウルグアイ他
「僕と未来とブエノスアイレス」(2003) ダニエル・プルマン監督(アルゼンチン)
「アモーレス・ペロス」(1999) アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督(メキシコ)
「スール その先は・・・愛」(1988) フェルナンド・E・ソラナス監督
「ナイト・オブ・ペンシルズ」(1986) エクトル・オリベラ監督(アルゼンチン)
「蜘蛛女のキス」(1985) ヘクトール・バベンコ監督(ブラジル)
「タンゴ―ガルデルの亡命」(1985) フェルナンド・E・ソラナス監督(アルゼンチン)
「追憶のオリアナ」(1984) フィナ・トレス監督(ベネズエラ)
「アルシノとコンドル」(1982) ミゲル・リティン監督(ニカラグア)
「サンチャゴに雨が降る」(1975)  エルヴィオ・ソトー監督(フランス・ブルガリア)
「アントニオ・ダス・モルテス」(1969) グラウベル・ローシャ監督(ブラジル)
「エル・トポ」(1967) アレハンドロ・ホドロフスキー監督(メキシコ)

<こちらも要チェック>
 ついでに、その他のラテンアメリカ関連映画も挙げておこう。作品的にはいずれも傑作ぞろいである。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(2006) トミー・リー・ジョーンズ(米・仏)
「スパングリッシュ」(2004) ジェームズ・L・ブルックス監督(アメリカ)
「カーサ・エスペランサ」(2003) ジョン・セイルズ監督(アメリカ・メキシコ)
「愛と精霊の家」(1993) ビレ・アウグスト監督(ドイツ、デンマーク、ポルトガル)
「サルバドル~遥かなる日々」(1985) オリバー・ストーン監督(アメリカ)
「エル・ノルテ 約束の地」(1983) グレゴリー・ナヴァ監督(アメリカ)
「メキシコ万歳」(1979) セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、他、監督(ソ連)

  「100人の子供たちが列車を待っている」はわずか60分にも満たない長さながら、映画の原点と教育の原点、映画教室に通う子供たちの笑顔、その同じ子供たちや家族の貧困に押しつぶされそうな日常生活と軍事政権下のチリの現実がぎっしりと詰め込まれている。それらの要素を一つひとつ見てゆこう。なお、イグナシオ・アグエロ監督やアリシア・ベガに関する情報、その他の基本的事実に関しては、「100人の子供たちが列車を待っている」のビデオに封入されていたパンフレットを参照した。

Photo   登場人物は映画教室の講師を務めるアリシア・ベガと教室に通う14歳以下の子供たちである。アリシア・ベガは『チリの映画評論』の著者であり、大学や高校で映画史を教えたこともある。監督のイグナシオ・アグエロも大学で彼女に教わっている。また、79年には『チリの映画評論』執筆中のアリシア・ベガの助手を務めている。彼女は84年からチリの各地で映画教室を開いている。「100人の子供たちが列車を待っている」は86年にサンティアゴのロ・エルミーダで行った半年間の教室の模様を撮影している。映画教室は毎週土曜日、ホリー・スピリット教会で開かれた。一方、子供たちは本来8歳以上が対象だったが、小さい弟や妹の面倒を見ている子供が多かったため、参加者の中には6歳以下の子供もたくさんいたという。

  冒頭アリシアが子供たちに「映画を観に行ったことがありますか」と問うと、ほとんどの子供がないと答えている。「ランボー」や「ロッキー」を観たという子供が若干いるだけである。チリの子供たちにとって、映画はせいぜいテレビで観るか、あるいは全く縁のない世界なのである。親さえも映画を観に行ったことがない。それが現実なのである。

  そんな子供たちにアリシアは、まず網膜残像について説明する。見た映像がしばらく網膜に残るからわれわれは映画やテレビを動画として観賞できるのである。まず原理を説明して、次に映画のもっとも原初的な形態であるマジックブロック(パラパラ漫画)、さらにはソーマトロープやゾーイトロープ、キネトスコープなどを紹介してゆく。この授業が素晴らしいのは、ただ説明したり実物の写真を見せたりするのではなく、子供たちにそれらを実際に作らせて、自分たちで作った「実物」を楽しませていることである。ここで映画の原点が教育の原点と結びつく。自分たちで作ったゾーイトロープをくるくる回しながら、不思議そうに、あるいはうれしそうに覗く子供たちの顔がみな輝いている。(注:ゾーイトロープとはおひつのような形の回転ドラムの内側に連続した絵を貼り付け、それを勢いよく回転させてドラムに開けられたスリットから覗くと絵が動いて見える仕掛けである。)

  教育とは本来知識を教え込むことではなく、子供たちの想像力や創造力そして思考力を引き出し伸ばしてゆくものである。特に小学生くらいの年齢では、自分の手で物を作り、遊びながら学んでゆくことが必要だ。楽しむことから興味や関心が湧いてくる。アリシアは教室で決して「勉強しましょう」とは言わない。いつも彼女は「遊びましょう」と言う。ソーマトロープは、表と裏にちがう絵のかかれた板を両端につけられた輪ゴムでくるくる回して、表の絵と裏の絵がひとつの絵になるのを楽しむ単純な遊び道具だが、子供たちは嬉々としてその驚きを楽しんでいる。キャメラを意識してポーズをとったりする子供もいるが、多くは食い入るように真剣に見つめていたり、楽しくて仕方がないというようなうれしそうな表情を浮かべている。飛び回ってはしゃいでいる子供も含めて、子供たちが実に生き生きとしている。この子供たちの明るい表情、これがこの映画の大きな魅力の一つである。

  一体今の日本の小学校や塾に、こんな明るい期待を込めた表情を浮かべて教室にやってくる子供がどれだけいるだろうか。アニメ漬けの日本の子供たちは、この原初的な遊び道具に心から満足するだろうか。この映画は翻って日本の実情を顧みることをも観る者に迫ってくる。

  アリシアは様々な形態の原初的映画を子供たちに体験させつつ、映画史の勉強もさせている。彼女は子供たちに1895年12月28日という日がとても重要な日だと教える。この日、パリのグラン・カフェにおいて初めてリュミエールの発明したシネマトグラフの有料公開上映会が行われたのである。エジソンが発明したキネトスコープなど覗きからくり的なものは既にあったが、今日の映画と同じスクリーンに動画映像を映写して一度に多くの観客に見せる有料の上映会はこれが最初だった。その日上映されたのは「工場の出口」や「列車の到着」など、いずれも1分足らずの12本の短編映像だった。アリシアは教室で実際に「列車の到着」を子供たちに見せている。「100人の子供たちが列車を待っている」というタイトルはここから付けられたのだ。

Photo   余談だが、中国・アメリカ製作の「西洋鏡」という映画がある。1902年から1908年あた りまでを描いている。英国人が活動写真を持ち込んで始めた見世物小屋で勝手に客引きする中国人の青年が主人公である。その中で初めて活動写真を観て仰天したり、感心したりする中国人たちの様子がリアルに描かれていた。山を映し出した映像を見てなんてきれいなんだとため息をついたり(どうも初めて山を見た感じだ)、万里の長城の映像が映し出されるあたりでは声も出ないほどに感動している。初めて観る動く映像は大人でも感動させてしまうものだったのである。この映画を観た時には、逆に「100人の子供たちが列車を待っている」を連想したものである。ちなみに、中国映画の第1作が作られたのは1905年。2005年に中国映画界は映画100年を迎え、12月末に人民大会堂で「中国電影誕生百周年記念大会」が開かれた。

  話を元に戻そう。映画教室では「列車の到着」以外にも様々な映像を子供たちに見せている。ディズニーの初期アニメを始めとするいくつかのアニメ作品。チャップリンもあった。大きな穴の中に横たわる青年とその穴から羊が逃げ出すシーンはタヴィアーニ兄弟が監督した名作「父 パードレ・パドローネ」の映像である(20歳になったガヴィーノの最初の映像)。1977年の作品だから、比較的最近のものまで見せていたわけだ(全編見せたのかどうかは分からないが)。当時のチリの政治情勢を彷彿とさせるのは警察隊がデモ隊を弾圧している実写映像である。こんなものを子供たちに見せているところがすごい。さらにすごいのは子供たちがこの映像に敏感に反応しているところである。映像の中の現実は彼らの現実生活とつながっていた。だから子供たちは自分たちが作るフィルムのテーマとして「冬」でも「秋」でも「夏休み」でもなく「デモ」を選んだのである。最後にみんなでバスに乗って街の映画館へ出かけてゆくところでは、「チチチ、リリリ、ピノチェト辞めろ」とみんなで歌っている。

  映画教室の授業は実際の映画を見せるだけにとどまらない。様々な映画技法までも子供たちに体験させている。モデルの子供とキャメラ役の子供を向き合って立たせ、どのくらいの距離だとクローズアップになるかなどの感覚をつかませている。シークエンスという概念を大部なセルバンテスの『ドン・キホーテ』を使って説明する(シークエンスは本でいえば章立てに当たると)。移動撮影も実際に模擬体験させている。ある人物が船で川を下りながら岸を見ていた時に移動撮影の技法を思いついたという話も面白かった。

 上記のデモ隊の映像はこの映画のもう一つの重要な要素、軍事政権下のチリの現状へとつながる。この点はこれまであまり大きく取り上げられてこなかった。日本では映画に含まれる政治的な要素を指摘することは、あたかも映画の価値を貶めることであるかのようにしばしば考えられているからだ。しかしこれは重要な要素である。この映画教室がホリー・スピリット教会で行われていたことに注目すべきだ。映画の中でも神父の姿がチラッと映っているが、恐らく彼は「解放の神学」の立場に立つ人だろう。社会的抑圧や経済的な貧困からの救済を重視する神学上の立場である。彼らにとってキリストとはこのような抑圧からの解放者である。この点で宗教と解放運動が結びついている。長年ブラジルの司教会議議長を務め、「赤い大司教」と呼ばれたカトリックの聖職者、ドン・エルデル・カマラ大司教は次のように語った。「貧しい人に食べ物を施すと、私は聖者とよばれる。貧しい人になぜ食べ物がないのかと問うと、私は共産主義者と呼ばれる。」中南米は解放の神学が生まれたところであり、もっとも盛んだったところである。ほとんどの国が貧困にあえぎ、軍事政権によって長い間支配されていたからだろう。あの教会もその立場に立って貧しい家庭の子供たちに映画教室など様々な機会を提供していたと思われる。

  1952年生まれのイグナシオ・アグエロ監督も、アジェンデ政権が倒された73年の軍事クーデターで消息を絶った15人の農民の事件を追う、30分のドキュメンタリー映画「忘れまい」を82年に監督している。「100人の子供たちが列車を待っている」と同じ88年には、国民投票に向けてピノチェト政権に反対するテレビ政治番組を監督している。「100人の子供たちが列車を待っている」は、「サンチャゴに雨が降る」、「戒厳令下チリ潜入記」、「ナイト・オブ・ペンシルズ」、「オフィシャル・ストーリー」(アメリカ映画「ミッシング」をはるかに凌ぐ傑作)等の、自由と民主主義を目指して戦うラテンアメリカ映画の伝統の延長線上に位置する映画なのである。僕はあえてこの点を強調しておきたい。

Robo1_c   もちろんこの映画が優れているのは、政治性をストレートに押し出しているからではない。子供たちのインタビューという形式を通して軍事政権下のチリの現状を浮かび上がらせるという手法をとっているからである。質問内容は映画教室で何を習ったか、どんな映画を観たか、大人になったら何になりたいかなどの単純な質問である。しかしその答えから彼らの「生活」が見えてくる。靴磨きをして働いている子供、ダンボールを集めてお金に換えている子供。貧しいがゆえに学用品を買うため子供の頃から働いている子供たち。ポブラシオンと呼ばれる低所得者層の団地の様子なども映される。淡々と、あるいは面倒くさそうに答える子供たちの表情に笑顔は少ない。だからこそ、教室にいる時の創作する喜びに溢れた、好奇心と期待に満ちた明るい表情がなおいっそう印象的なのである。子供たちの表情は「西洋鏡」で初めて動く映像を観た大人たちの表情と同じだった。

  しかしその一方で、アリシアは「どの教室でも盗みが絶えなかった。・・・たった一つの色鉛筆やハサミに魅せられてしまう」とも語っている。彼らは本当に貧しいのだ。2005年10月26日(水)付け朝日新聞に「ニッポン人・脈・記」〃世界の貧しさと闘う⑦トットちゃんの恩返し〃という記事が載っていた。その中に次のような文章があった。「日本とウガンダの小学校をテレビ回線で結んだ時のこと。『今、一番ほしいものは何ですか』と日本の子の質問は物の話。ウガンダの子の答えは『インドとパキスタンが戦争しないこと』。物を挙げた子はひとりもいなかった。」物質的に恵まれた日本の子供たちは出来合いの製品をたくさん抱えて満足し、貧困にさらされた国の子供たちは他の国のことを憂えている。僕はこの引用文を、物質文化が爛熟し、個人的な欲求の追求に視点が向きがちで、自分を越えた大きな問題の所在に気づきにくくなっている欧米諸国と、自分を取り巻く大きな矛盾の中で自分の問題をとらえざるを得ない新進映画諸国の作品に表れている違いを示す例としてしばしば使ってきた。だが一方で、貧しい国々の子供たちには欲しくても手に入らないものがたくさんあるのもまた現実なのである。「100人の子供たちが列車を待っている」はこういう面もしっかり捉えている。政治的過ぎるとして無視すべきではない。チリの現状を心から憂えていたからこそ、映画教室のような実践が生まれたのであり、この映画が生まれたのである。

  このドキュメンタリー映画は完成後チリ当局により、「21歳以下の者は観てはならない」とされた。つまり、子供たちは完成後の試写の後、軍事政権が倒れるまで自分たちの姿をスクリーンで観ることが出来なかったのである。しかしどんなに押さえつけたところで、この映画が消え去りはしない。その価値がなくなりはしない。映画完成からほぼ20年。日本でもしばしば各種映画祭などで上映され続けている。映画の最後あたりで、子供たちは長い布に自分たちで書いたフィルムのコマを貼り付け、芋虫のように行進するシーンが映し出されている。映画とはフィルムの連続なのである。フィルムはスクリーンに映され、それが観客の心に伝わってゆく。「100人の子供たちが列車を待っている」は子供たちが街まで映画を観に出かけて行くところで終わる。映画を観ることは夢を見ることなのだ。そしてそれはまた現実を見ることでもある。映画と現実は切り離せない。子供たちの夢を乗せて、映画という列車は今日も町にやってくる。

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2007年11月18日 (日)

天上の恋人

2002年 中国 2006年6月公開
評価:★★★★
監督:ジャン・チンミン
製作総指揮:マー・チョンチュン、チョウ・ボーシォン、奥山和由
プロデューサー:リー・チャンシェン、吉田啓
原作:東西『没有語言的生活』
脚本:ドン・シー、ティエン・イン、ジャン・チンミン
撮影:シャオ・ダン
出演:ドン・ジエ、リィウ・イエ、タオ・ホン、フォン・エンホー、ムー・リーイエン

  恋愛映画といえば韓国映画がすぐ思い浮かぶ。レンタル店に行けば壁一面を覆うほどArtpure2003w あふれかえっている。日本映画にも多いが、では中国映画ではどうか。誰でも最初に思い浮かべるのは大ヒットした「初恋のきた道」だろう。香港製の軽そうな恋愛物は結構見かけるが、ほとんど手を出していない。他に名前を上げるに値するものといえば、80年代に文芸座で観た「恋愛季節」(ヒロインにすっかりほれ込み、余韻に浸りたくて池袋の街をしばらく歩き回ったものだ)、中国のお見合い事情を描いた「スパイシー・ラブスープ」、遠距離恋愛を描いた「たまゆらの女」、下放時代のつかの間の恋愛を描いた「小さな中国のお針子」、中年男に騙される若い女性を描いた「ションヤンの酒家」、昨年公開の「緑茶」、「ジャスミンの花開く」、「玲玲の電影日記」程度だろうか。中国映画史上の名作とされる「小城之春」(1948)の再映画化「春の惑い」にはがっかり。もちろん香港映画を加えれば結構あるだろう。80年代に観たチョウ・ユンファ主演の「風の輝く朝に」、「誰かがあなたを愛してる」あたりは悪くなかった。しかし、韓国や日本の映画に比べると中国の恋愛映画はだいぶ数が少ないと言わざるを得ない(恐らく本国ではもっと公開されていると思われるが)。「天上の恋人」はその数少ない恋愛映画の秀作である。

  別の角度から見てみると、広大な国土を持つ中国にはとんでもない山奥を舞台にした映画がいくつかある。一番有名なのは「山の郵便配達」だろう。他にも「小さな中国のお針子」、「あの子を探して」、「子供たちの王様」、「古井戸」、「野山」などがある。秘境という言葉を連想してしまう山の景色が息を呑むほど美しい。「天上の恋人」にも素晴らしい山の風景がふんだんに映し出されている(広西省チワン族自治区の山村が舞台)。山があれば谷もある。玉珍(ユイチェン)が小船を漕いでゆくダム湖(?)と断崖がそそり立つ峡谷の映像は夢幻郷のような絶景だった。

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  「天上の恋人」はほとんど話題にならなかったが、かなり豪華なキャストである。「至福のとき」のドン・ジエ、「太陽の少年」のタオ・ホン〔陶虹、「ションヤンの酒家」のタオ・ホン(陶紅)とは別人〕という2大ヒロインをそろえ、これに「山の郵便配達」、「小さな中国のお針子」、「ジャスミンの花開く」などのリィウ・イエがからむ。作品的にも優れたもので、もっと話題になって然るべきだと思う。

Rose_c06w   作品の設定は実に奇抜である。とんでもない山奥に住む王一家。父親の王老炳(ワン・ラオビン)は作品の冒頭で誤って自分の目を猟銃で撃ってしまい目が見えない。その息子の家寛(チャークァン)は子供の頃爆竹工場の爆発事故にあい耳が聞こえない。その家に天使のように華奢で美しい玉珍(ユイチェン)という娘がひょんな出会いからしばらく住むことになる。この娘が実は口がきけないのである。目、耳、口とそれぞれに障害を抱えた3人が一つ屋根の下に同居する。「ククーシュカ ラップランドの妖精」以上に特殊な設定である。もう1人のヒロイン朱霊(チェーリン)は同じ村に住む美しく奔放な娘。こんな山奥にどうしてこんな美人がと違和感を抱くほど周りの村人からは浮き上がっている。まるで「フラガール」で、灰色にくすんだ炭鉱町にやってきた松雪泰子の様だ。

  チャークァン(リィウ・イエ)は村一番の美人チェーリン(タオ・ホン)に惚れている。チェーリンも働き者のチャークァンにまんざらではないようで、二人はよく一緒に話したり自転車に乗ったりしている。しかし彼女が本当に好きなのは獣医の張先生だった。迷い込んできたユイチェンに対するチャークァンの気持ちは、恐らく妹に対する気持ちに近かったようだ。ユイチェンもチャークァンを兄のようにしたい、チェーリンへの片思いを応援したりしている。しかし、同居しているうちにユイチェンのチャークァンに対する気持ちは恋愛に似たものに変わって行く。つまり、この映画は互いに気持ちがすれ違っている変則三角関係を描いた恋愛映画なのである。

  原作がどういう描き方をしているのかはわからないが、少なくとも映画には都会人が思い描いた桃源郷のイメージが投影されている。切り立った崖の上の小さな村。どこを見ても山ばかり。その山々が連なる景色が美しい。都会とはかけ離れた山上の理想郷。この映画を観てジェームス・ヒルトンの『失われた地平線』に出てくる「シャングリ・ラ」を連想した。高校生の時に読み、フランク・キャプラ監督、ロナルド・コールマン主演の映画版(1937)もテレビで観た。「シャングリ・ラ」はヒマラヤ山脈の近くにあると設定されている。モデルはチベットのシャンバラらしい。もちろん西洋人の視点で山上の理想郷を見ているわけではないが、都会の喧騒を離れた世界を舞台に恋愛を描いてみたいという視点にはやはり都会人の感覚が見え隠れしている。

  山の美しさや村人たちの素朴さが強調されるのはそのためである。しかしそれがどうもFullmoon1 徹底されていない。チワン族自治区の山村が舞台なのに、登場人物があまり少数民族に見えないのは主演の3人に有名な俳優を配し、その他主要登場人物にも漢民族出身と思われる俳優たちを使ったからだろう。それらしく見えるのは村の悪ガキたちや村人たちだけである。しかし、その土地独特の風習も取り入れていて、その点は恋愛のテーマと絡んで見所となっている。典型的なのはチャークァンの気持ちを察した父親が、チェーリンの家族にチェーリンを嫁に貰いたいと交渉するあたりの描写だ。チャークァンの父は化粧させた牛を土産に、チェーリンを嫁に欲しいと彼女の華族に交渉に行く。しかし、チェーリンは張先生に会えなくて2日間部屋に閉じこもっていた。すっかり落ち込んでいて、親も手を焼いていたのである。夜、贈ったはずの牛が家に戻ってきた。牛は突っ返されたのだろう、雨でせっかくの化粧が流れ落ちている。

  すごいのはその後。チャークァンの父たちはチェーリンに直接訴えかける行動に出る。チャークァン、父、ユイチェンの3人でチェーリンの家に押しかけ、家の前で延々歌を歌うのである。まるで日本神話に出てくる天岩戸だ。西洋にも夜恋人に向って歌うセレナーデの伝統があるが、この地方にもこんな伝統があったのか!あまりの熱意に村人の差し入れがどんどん増えてゆくのが可笑しい。見物人も集まってくる。声が出せないのでもっぱら太鼓をたたいていたユイチェンも、興奮のあまりついに「アーアー」と声を出す。この場面はすごい。一つのクライマックスである。

  村人が牛を飼っていたり、チャークァンがくじで当てた自転車をうれしそうに、かつ得意げに乗り回しているあたりはいかにも田舎らしい風情である。さらに、人物描写にも田舎らしさが強調されている。すれていないので人間が純真である。チャークァンは一途にチェーリンに思いを寄せており、そのために彼女の気持ちが張先生に向けられていることに気づかない。チェーリンはしたたかで、チャークァンにも適当にいい顔を見せているのでチャークァンは誤解に気づかないのだ。

  チェーリンが張先生に引かれているのは彼が町から来た人だからだろう。彼と結ばれて、いつかこの田舎から出て行きたいと望んでいたに違いない。ここに都会と田舎のテーマが入り込んでいる。もはや理想郷として描きうる場所などない。都会人には理想郷でも、現地の人には息苦しい小さな村である。リー・チーシアン監督の「思い出の夏」に印象的なシーンがある。主人公の少年はせっかく映画に出演する機会をつかみながら、「町にいたくない、村に戻りたい」というせりふをうまく口に出来なくてそのチャンスを棒に振ってしまうのである。町に行きたくて仕方がない少年はどうしてもそのせりふが言えなかったのだ。「小さな中国のお針子」のヒロインも村を捨てて都会に出て行ってしまう。望まぬ相手と結婚させられた「黄色い大地」のヒロインも夫と村を捨てようとして黄河で溺れる。「ククーシュカ ラップランドの妖精」、「トンマッコルへようこそ」など、理想郷は常にファンタジーの中でしか存在し得ないのだ。

  チェーリンは田舎の退屈さや息苦しさを逃れようと望みつつ、結局はその息苦しさの中に閉じ込められてしまう。彼女が家から出てきたのは、夜彼女の家の前で野外の映画上映が行われた時だ。家から出てきたチェーリンはチャークァンの隣に座る。うれしそうな顔をするチャークァン。しかしチェーリンが彼の耳元でささやいた言葉は愛の言葉ではなかった。彼女は子供が出来たと彼に伝えたのだ(もちろん父親は張先生だ)。喜びが一転して落ち込むチャークァン。田舎のこととて、その噂は瞬く間に広がった。子供たちが二人をはやし立てて歌を歌っている。「張先生は山のサル、桃をかじってから捨てた。王家寛(ワン・チャークァン)はおバカさん、腐り桃を拾い宝にした。」

  ホットパンツをはいたり、派手な真赤な服を着たりと、都会娘のように輝いていたチェーリンはついに「腐り桃」にまで身を落としてしまった。このあたりはねっとりとした描き方ではなく、むしろさらっと描かれている。村の閉鎖性はそれほど強調はされていない。しかしチェーリンがそこから出たいと思う気持ちは十分理解できるように描かれている。

  面白いのは村の外から村にやってきたユイチェンの方が純真に描かれていることだ。赤いアドバルーンと一緒に外の世界から山にやってきた娘と山を出て町に行きたい娘が対比的に描かれているのである。だが、なぜこの娘は話せないという設定になっているのか。そもそも、ユイチェン、チャークァン、そしてその父が、なぜそれぞれ別の障害を持っているという設定になっているのだろうか。おそらく、この映画が恋愛映画であり、それぞれに胸に秘めた思いを互いにうまく伝えられないもどかしさを表現したかったのだろう。耳が悪いために他人の気持ちを読み取れないチャークァン、チャークァンへの思いを口に出せないユイチェン、その二人の気持ちをただ利用するだけのチェーリン。そんなチャークァンの気持ちを思いやる目の見えない父。

  この設定が一番効果的に表れているのがユイチェンの描き方である。ドン・ジエ演じるユイチェンの存在がこの映画の魅力を基本的に支えているといっても過言ではない。それほどドン・ジエは魅力的だ。ユイチェンがなぜチャークァンの家にやっかいになろうと決めたのSdbut09 かははっきり描かれていない。恐らくチャークァンの素直さ、彼の父のやさしさに引かれたのだろう。まあ、それは映画の基本設定なので深く追求することもない。しかし彼女がチャークァンに親しみを感じていたことは重要だ。彼女はユイチェンに対するチャークァンの気持ちに気づいていた。いや気づかされたと言ってもいい。朱霊(チェーリン)という字をユイチェンがチャークァンに教えるシーンは素晴らしい場面である。彼女はチャークァンに筆を持たせ、自分の手を添えて字の書き方を教える。このあたりまでチャークァンに対するユイチェンの気持ちはほとんど描かれていない。まるで兄弟のように描かれていた。実際チャークァンを兄のように慕っていたのかも知れない。ユイチェンの「兄」に対する気持ちは、何とかチェーリンへの彼の思いを叶えさせてあげたいという形で現れている。彼女は赤い気球に「朱霊」と書いて空に上げることまでしている。

  チェーリンは最初喜ぶが、「チェーリン、ワン・チャークァン」と村人たちがはやし立てるのでいやな顔をする。チャークァンとユイチェンの思いは通じていない。このむなしい共同作業が印象的だ。歌を歌おうが、字に書こうがチャークァンの気持ちはチェーリンに届かない。字が書けないチャークァンが張先生にラブレターの代筆を頼むエピソードも印象的だ。やっと書いてもらった手紙をチャークァンはうれしそうにユイチェンに見せるが、書名には張先生の名前が書いてあった。それに気づいたユイチェンが懸命にそれを伝えようとするが、舞い上がっているチャークァンは気に留めない。他人のラブレターを嬉々としてユイチェンに渡しに行った。ここにももどかしさのテーマがある。

  そんなチャークァンを一心に応援するユイチェン。彼女の気持ちが表面に現れないことが実に効果的である。張先生の姉がチェーリンと付き合うことを弟に禁じた時、腹を立てて張先生が飼っている牛を柵から放ち、トマトを戸に投げつけたチェーリンとは対照的な描き方だ。上に書いたダム湖に1人ユイチェンが船を漕ぎ出す場面も素晴らしい。彼女が舟をこぐ映像にかぶさるように憂いを含んだ歌が流れてくる。「草は焼かれても根は死なない。歌を歌えないと心は切ない。あなたを送って5里の坂。5里も遠いとは思わない。」そもそも彼女はダムの建設現場で働く兄を探しに来たのである。ダム湖に船を漕ぎ出したのは兄への思いからだろうが、流れてくる歌にはチャークァンへの思いが入り混じる。この世のものとも思えない絶景の美しさも加わって、実に秀逸な場面になっている。

  それぞれ違った障害を持つ3人の心の触れ合いがもっとも見事に描かれるのは、チャークァンの父がユイチェンに身の上を尋ねる場面である。父が質問し、ユイチェンが身振りで答える。それをチャークァンが言葉で父に伝える。チャークァンが間に入ることで彼の父とユイチェンの気持ちが繋がった。ユイチェンの両親は亡くなったようだ。それを伝えたユイチェンは泣き出すが、語られた内容以上に3人が一つに繋がったことが感動的なのである。

  チャークァンに対するユイチェンの気持ちは次第に変化してゆく。兄ではなく恋人として意識され始める。それが暗示されるのは、チェーリンが妊娠していると分かって自暴自棄になったチャークァンが村に戻ってきた時だ。彼はタバコで爆竹に火をつける。激しい音に仲間は飛びのくが、彼は破裂する爆竹の近くに立って逃げようとしない。思わずユイチェンは「チャークァン」と声を発して彼に抱きつく。「呼んだ?」とびっくりするチャークァン。ユイチェンが初めて彼女の心を表現した場面である。

  その時からチャークァンは立ち直る。化粧をするユイチェンの姿が初めて描かれるのはその直後である。思わずチャークァンも「君はきれいだ」ともらし、彼女にキンモクセイの花を渡す。「いい香りのキンモクセイだ、あげるよ。」やっと彼の気持ちもユイチェンに向いたかと思っていると、すぐその後でチェーリンを肩車してキンモクセイの花を取るチャークァンの姿をたまたまユイチェン目撃する場面が描かれる。周りの人の気持ちが読めないチャークァンにいらいらする場面だ。

  この恋の行方はどうなるのかと気をもんでいると、意外な結末が待っていた。何とチェーリンは例の赤いアドバルーンをつないでいたロープにつかまった途端、そのロープがほどけて空に飛んでいってしまうのだ。ロープを持ったときにそれとなく予感していたが、本当にそうなってしまうとは。あまりに唐突で、ありえない結末なので非常に評判が悪い。確かに唐突でありえないが、それによってストーリーそのものが台無しになったというのは大げさだろう。妊娠したチェーリンが張先生を追って町に行ったというありきたりの結末では弱いと考えたのだろう。あるいは赤いアドバルーンで始まり赤いアドバルーンで終わることにこだわったのかもしれない。いずれにしてもうまい結末だとは思わない。理想郷を描くにはどうしてもファンタジーにせざるを得ないということだろう。それはそれと割り切り、メリー・ポピンズのようにチェーリンが町に舞い降りる姿を想像して楽しむ方がいいだろう。

  「至福のとき」の目の見えないヒロイン、今回の口の利けないヒロインと、ドン・ジエは障害を持った役が続いている。繊細でけなげで純真。そんな役柄が似合う。同じような役柄でデビューしたチャン・ツィイーは国際派スターになってしまった。ドン・ジエにも活躍して欲しいが、あまり有名になりすぎないで欲しいとも思う。中国人は中国映画でこそ輝く。中国映画で活躍し続けて欲しい。

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