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2007年10月14日 - 2007年10月20日

2007年10月20日 (土)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年11月)

【新作映画】
10月27日 公開
 「タロットカード殺人事件」(ウディ・アレン監督、英・米)
 「アフター・ウェディング」(スサンネ・ビア監督、デンマーク・スウェーデン)
 「ヴィーナス」(ロジャー・ミッチェル監督、イギリス)
 「犯人に告ぐ」(瀧本智行監督、日本)
 「自虐の詩」(堤幸彦監督、日本)
11月3日 公開
 「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(山崎貴監督、日本)
 「ヴィットリオ広場のオーケストラ」(アゴスティーノ・フェッレンテ監督、イタリア)
 「ONCE ダブリンの街角で」(ジョン・カーニー監督、アイルランド)
 「僕のピアノコンチェルト」(フレディ・Mムーラー監督、スイス)
 「北京の恋 四郎探母」(スン・ティエ監督、中国)
 「レディ・チャタレー」(パスカル・フェラン監督、フランス)
11月10日公開
 「ボーン・アルティメイタム」(ポール・グリーングラス監督、アメリカ)
 「いのちの食べかた」(ニコラス・ゲイハルター監督、独・オーストリア)
 「4分間のピアニスト」(クリス・クラウス監督、ドイツ)
11月17日公開
 「呉清源 極みの棋譜」(ティエン・チュアンチュアン監督、中国)
 「カフカ 田舎医者」(山村浩二監督、日本)
 「ファンタスティック!チェコアニメ映画祭」(イジー・トルンカ他、チェコスロバキア)
 「フライボーイズ」(トニー・ビル監督、アメリカ)
 「新・あつい壁」(中山節夫監督、日本)
11月17日~25日開催
 「第8回東京フィルメックス」

【新作DVD】
10月24日
 「ラビリンス&ダーククリスタル」(ジム・ヘンソン監督、英・米)
 「ドリームズ・カム・トゥルー」(ダグ・アッチソン監督、アメリカ)
10月26日
 「ジェイムズ 聖地へ行く」(ラアナン・アレクサンドロビッチ監督、イスラエル)
 「アメリカの森 レニーとの約束」(ガブリエル・サベージ・ドクターマン監督、米・加)
11月2日
 「シュレック3」(クリス・ミラー監督、アメリカ)
 「ゾディアック」(デビッド・フィンチャー監督、アメリカ)
 「フリーダム・ライターズ」(リチャード・ラグラベネーズ監督、米・独)
 「ドレスデン、運命の日」(ローランド・ズゾ・リヒター監督、ドイツ)
 「あるスキャンダルの覚書」(リチャ-ド・エア監督、イギリス)
11月7日
 「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、ハンガリー・他)
 「ダイ・ハード4.0」(レン・ワイズマン監督、アメリカ) 
11月9日
 「しゃべれども しゃべれども」(平山秀幸監督、日本)
 「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」(クシシュトフ・クラウゼ監督、ポーランド)
11月14日
 「レミーのおいしいレストラン」(ブラッド・バード監督、アメリカ)
11月21日
 「素粒子」(オスカー・レーラー監督、ドイツ)
11月22日
 「ヘンダーソン夫人の贈り物」((スティーブン・フリアーズ監督、イギリス)
12月5日
 「コマンダンテ」(オリバー・ストーン監督、米・スペイン)
 「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」(ゴア・バービンスキー監督、米)
12月7日
 「トランシルヴァニア」(トニー・ガトリフ監督、フランス)

【旧作DVD】
10月25日
 「間諜X27」(31、ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、アメリカ)
10月26日
 「君の名は 第1部~3部」(53、大庭秀雄監督、日本)
10月27日
 「最後の人」(24、F.W.ムルナウ監督、ドイツ)
 「フリック・ストーリー」(75、ジャック・ドレー監督、仏・伊)
11月7日
 「ダグラス・サーク コレクション②」(ダグラス・サーク監督)
11月8日
 「影の軍隊」(69、ジャン・ピエール・メルヴィル監督、仏・伊)
11月22日
 「ショート・カッツ」(93、ロバート・アルトマン監督、アメリカ)
 「リストランテの夜」(96、スタンリー・トゥッチ監督、アメリカ)
12月14日
 「熊井啓 日活DVD-BOX」(熊井啓監督、日本)

Arttuioku200aw  このところドキュメンタリー映画がやたらに増えている。 「いのちの食べかた」、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」、「コマンダンテ」以外にも、「カルラのリスト」(劇場新作)、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「マイ・シネマトグラファー」等々がある。あまり情報がないので良し悪しは分からないが、気になったら観ておくべきかも。

<新作>
 「アフター・ウェディング」、「ヴィットリオ広場のオーケストラ」、「ボーン・アルティメイタム」、「呉清源 極みの棋譜」、「4分間のピアニスト」あたりが気になる。アニメ「カフカ 田舎医者」も要チェック。人形アニメ大国チェコスロバキアの映画祭は一見の価値がある。詳しくはこちらを参照。「第8回東京フィルメックス」では山本薩夫監督特集が組まれる。これも必見。

<新作DVD>
 「ドレスデン、運命の日」、「しゃべれども しゃべれども」、「レミーのおいしいレストラン」、「トランシルヴァニア」がよさそうだ。「ドリームズ・カム・トゥルー」は劇場未公開だが、「Golden Tomato Awards発表」で紹介した作品。Spelling beeコンテストを題材にした作品で、拾い物かもよ。ジュディ・デンチ主演の「あるスキャンダルの覚書」、「ヘンダーソン夫人の贈り物」も気になる。

<旧作DVD>
 「最後の人」、「ショート・カッツ」、「熊井啓 日活DVD-BOX」がおすすめ。ダグラス・サーク監督のBOXでは「悲しみは空の彼方に」がいい。ジョン・M・スタール監督の名作「模倣の人生」の再映画化作品。かつてTVの「日曜洋画劇場」で観た時には散々泣かされました。「間諜X27」の間諜とはスパイのこと。

2007年10月19日 (金)

「ぼくの国、パパの国」①

「ぼくの国、パパの国」の理解のために:『イギリスの中のパキスタン』より

 「ぼくの国、パパの国」の舞台は1971年のマンチェスター、ソルフォード地区に設定されている。時代を映画制作当時ではなく71年に設定したのは、パキスタン移民が急激に増加した時期だからだろう。映画の具体的な内容に入る前に、イギリスにおけるパキスタン移民の事情について触れておきたい。何年か前にたまたま書店で見つけたムハンマド・アンワル著『イギリスの中のパキスタン』(2001年、明石書店)という格好の本がある。以下に「ぼくの国、パパの国」や「やさしくキスをして」を見る上で参考になる記述を抜き出してみる(幾分かはインド人移民を描いた「ベッカムに恋して」の参考にもなるだろう)。なお、翻訳は2001年に出ているが、原著は1996年に出版されている。資料としては古いが、日本語文献では類書がないだけに貴重な文献である。

 パキスタン人移民がイギリスに殺到し始めたのは1961年からである。1962年に連邦Huiwto01 国移民法が導入されることになったからである。つまり新しいシステムが導入される前に「かけこみ的に」パキスタン人がイギリスに流れ込んできたのである。新しい移民法の制度は「バウチャー制」と呼ばれる。それは、バウチャーを保持している者、その妻、あるいはすでに親がイギリスに合法的に定住している16歳以下の子供にだけ移住を認めるという制度である。1961年から71年にかけて特にパキスタン人移民の人口が増えている。この期間が大量移民の期間であった。1951年の時点ではわずか5000人しかパキスタン人移民はいなかった。それが1966年には11万9700人に増加していたというからすさまじい勢いだったわけだ。

  1991年のセンサスによれば、パキスタン人の人口は約48万人。そのうちイングランドに住む者は約45万人、スコットランドに住む者が約2万1000人、ウェールズに住む者は約6000人である。パキスタン人が一番多く住んでいるのはバーミンガムである。2番目に多いのがブラッドフォード。「ぼくの国、パパの国」で主人公一家がブラッドフォードへ行く場面が出てくる。画面にはほとんどパキスタンかと思われる雰囲気の街並みが映し出されていた。長男のナジルが結婚式当日に逃げ出した時、家長のジョージがブラッドフォードに住んでいればこんなことにはならなかったと嘆くのは、そこに住んでいれば息子もイギリス文化に染まらなかっただろうと悔やんでいるのである。

  バウチャー制は親族がらみ、友人がらみの移民を助長した。家族・親族の結びつきが強いパキスタン移民は特定の地域に集中して住むようになる。パキスタンで伝統的に好まれる家族制度は、合同ないし拡大家族なのである。自然に親族間、友人間のネットワークTeien が張りめぐらされてゆく。「ぼくの国、パパクの国」に面白いエピソードがある。主人公のカーン一家が「一四夜の月」という映画観に行くが、もう上映は終わっていて「教授」をやっていた。しかしその映画館の支配人はカーン一家の父親の甥で、その甥は従業員に命じて無理やり「教授」に代えて「一四夜の月」を上映させたのである。こんな無理が通るくらい一族の血縁は濃いのである。だが、それは助けにもなるが足かせにもなる。パキスタン人の子供は英語が不得意なものが多いそうだ。なぜなら英語を話さなくても生活できる大人たちの環境が、子供の代にも負の遺産として受け継がれてしまうからである。「ぼくの国、パパの国」で子供たちが英語を達者に話せるのは、妻がイギリス人で、ブラッドフォードに住むことを拒んでいるからである。

  パキスタン人移民の人口の特徴は、白人と比べて若者が多いことである。25歳未満では白人がたったの32%なのに、パキスタン人では60%以上を占めている。何とバーミンガムの生徒の20%がパキスタン人だという。パキスタン人の間では、イギリスでも伝統的に早婚が行われている。離婚率は2%と信じられないほど低い。離婚率が大変低いことは、イギリスに住むインド人やバングラデシュ人にも共通している。南アジアの人々にとって、 離婚はあまり好ましいことではない。そのため通常、親族やコミュニティのメンバーから結婚を持続するように圧力がかかるのである。

 結婚の93%がパキスタン人どうしのものであり、白人をパートナーにしている者は、パキスタン人女子の1.2%、男子の5%だけである。従って「やさしくキスをして」のケースや、「ぼくの国、パパの国」の両親のようなケースはまれな例である。だからこそ反発も強いのだ。

 教育の面で悲惨なのは女子の場合だ。パキスタン人の女子の27%は、何の教育も受けたことがないという。伝統的な家父長制の下で、女子に教育は必要ないという文化に染まっているからだ。「訳者あとがき」にはさらにとんでもない記述がある。パンジャーブ地方の伝統的な農村部出身の女子には、教育の重要性の自覚もなければ、学校が何をするところかの明白なイメージすら欠けていることが多いと!またパキスタン人の生徒は自分の生活している地域の大学に入学を申請する傾向がある。親が身近に置きたがるのだろう。「やさしくキスをして」で、カシムの妹タハラが地元グラスゴーの大学ではなくエジンバラ大学に進学するのに親の強硬な反対を押し切らねばならなかったのは、そういう事情があるからだ。

 71年の時点で、パキスタン人の大半は製造工場に雇用されていた。彼らの19%以上は繊維工場で働き、16%は金属加工工場や金属製造工場で働いた。いわゆる3K職場で、彼らは白人労働者の就かない仕事にのみ雇用されたのだ。興味深いのは住宅事情。1982年の全国調査によると、調査の対象となったパキスタン人の80%までが持ち家で、白人の59%を上回っている。しかし問題はその住宅の状態である。白人の多くが一戸建てのディタッチト・ハウスか2軒つながったセミディタッチト・ハウスに住んでいるのに対して、パキスタン人の所有している住宅の79%までがテラスト・ハウス(長屋式アパート)なのである。「ぼくの国、パパの国」の家族が住んでいた茶色のアパートがまさにそれである。彼らの住宅の81%までが1954年以前に建てられた建物で、44%までが1919年以前に建てられたものだ。つまり、パキスタン人の多くが住んでいるのは、近代的な設備を欠いた古い家なのである。「ぼくの国、パパの国」の家族が住んでいるアパートはバスもシャワーもなく、トイレは外にあった。夜はバケツで用をたす。また、パキスタン人は大家族主義なので、多くの場合すし詰め状態で生活している。これまた「ぼくの国、パパの国」の家族に当てはまる。夫婦と子供7人の彼らはすし詰め状態で暮らしていた。

「ぼくの国、パパの国」②

1999年 イギリス 2001年1月公開
評価:★★★★☆
監督:ダミアン・オドネル
原題:East is East
原作・脚色:アューブ・カーン=ディン
撮影:チャオ・フェイ
出演:オーム・プリー、リンダ・バセット、ジョーダン・ルートリッジ、ジミ・ミストリー
   イアン・アスピナル、アーチー・パンジャビ、ラージ・ジェイムズ、クリス・ビソン
   レズリー・ニコル、ゲイリー・デイマー、エミル・マーワ、エマ・ライドル


東は東、西は西 

Ukflag2_hh_w  「ぼくの国、パパの国」のテーマは明瞭である。それはまずタイトルに表れている。原題の”East is East” は、『ジャングル・ブック』や『少年キム』で知られるラドヤード・キップリングの詩The Ballad of East and West(「東と西の歌」)からとられている。“OH, East is East, and West is West, and never the twain shall meet”( ああ、東は東、西は西、両者の出会うことあらず)という有名な冒頭の1行である。東と西とは、ここではパキスタンとイギリス、さらにはパキスタンの伝統的生活や習慣を保持したい親の世代とイギリスの文化の中で育った子供たちの世代という相いれない二つの文化と考え方を指していると思われる。これこそまさに「ぼくの国、パパの国」のテーマである。親子あるいは夫婦間の対立は深刻だ。彼らは本気で怒鳴り合い、つかみ合い、殴り合っている。最後の最後まで対立は埋まらない。

 安易な解決は見いだせないが、かと言ってとことん深刻で重苦しいだけのドラマというわけでもない。親子と夫婦の切れそうで切れない絆という問題が織り込まれているので、ファミリー・ドラマという側面もある。映画は基本的に子供たちの視点に立っているが、同時に妻や子供たちに理解されない父親の深い悲しみに思いをはせなければ、この映画を十分理解したことにはならない。彼を単なる頑固おやじ、父権的な暴君と受け止めるべきではない。この映画にはアン・リー監督の「父親3部作」(「推手」「恋人たちの食卓」「ウェディング・バンケット」)にも通じるテーマが隠れているのである。「ぼくの国、パパの国」の父親ジョージは確かにアン・リー監督の父親3部作の父親たちよりも頑固で因習的だが、それはイスラム教という宗教的とパキスタン人コミュニティという強固な枠組みにとらわれているからであり、移民として差別を受けてきた経験がイギリスの文化への警戒心を生み出してしまうからである。この映画を「スパングリッシュ」と比較することは意味がある。どちらも祖国を離れ外国に暮らしながらも、子供たちに自分の国の文化を忘れさせまいとする親の苦闘と苦悩が描かれている。何びとも自分が育った文化からは容易に抜け出すことはできない。そもそも自分の祖国の文化や考え方に誇りを持つことを誰が笑えようか。むしろ自分の国の文化よりも西洋文化をあがめたて、少しでも早く外国に馴化しようとする日本人の方こそ植民地意識丸出しである。西欧崇拝と植民地意識はコインの裏表である。

 植民地問題は逆にイギリスの帝国主義意識も照らし出す。タイトルにキップリングの言葉を持ってきたのはここでも暗示的だ。キップリングの作品は、コンラッドの『闇の奥』や『ノストロモ』、E.M.フォースターの『インドへの道』、サマセット・モームの『カジュアリーナ・トリー』、ジョージ・オーウェルの『ビルマの日々』や『象を撃つ』などと並んで、帝国主義と文学を論じる時に必ず取り上げられる作品である。「麦の穂をゆらす風」はイギリスの帝国主義的支配とアイルランド人の独立闘争を描いたが、「ぼくの国、パパの国」は内なる帝国主義を描いている。移民排斥運動をぶち上げるパウエル議員の演説がテレビで映し出される。主人公たちのアパートの隣の部屋には移民に対する偏見むき出しの白人が住んでいる。移民への差別を描いた部分はだいぶカットされたようだが、われわれはそういう背景を行間に(コマ間に?)読み込んでこの映画を観なければならない。

 監督のダミアン・オドネルがアイルランド人だということも偶然とは思えない。アイルランドもパキスタンもかつてイギリスの植民地だったのである。アイルランド人とパキスタン人、そうこれはまさしく「やさしくキスをして」の主人公二人の組み合わせなのだ。イギリスという、かつて帝国主義国家であり今でも階級社会的性質を残している国の映画や小説を理解するときには、帝国主義や階級意識を常に意識していなければならない。帝国主義と人種差別は常に一体である。作品のコアに社会に対する深く、鋭い洞察があったからこそ、現実の矛盾が生み出す人間の深い苦悩と葛藤を具体的に描いたからこそ、この映画は優れたドラマになったのである。

 もう一つ重要なのはコメディ映画の側面である。随所にコミカルな場面が差しはさまれており、それが(最後まで解決が見出せないにもかかわらず)この作品に明るいタッチをもたらしている。「やさしくキスをして」とは違って、この作品には明るいトーンがある。親子の対立を描きながらも明るいトーンを持ちえたのは、最後まで家族の絆に信頼を置いて描いているからである。


「父親が決めた縁談に従うのが息子だ」

 「ぼくの国、パパの国」は宗教的パレードから始まる。舞台となるマンチェスターのサルCtwo フォード地区は労働者が多く住んでいる地域。上に述べた、赤茶けたレンガ造りのテラスト・ハウスが建ち並んでいる。しかし良く見るとこのパレードはイスラム教のものではない。マリア像などを担いでいるのでどうやらカトリックのパレードらしい。そのパレードにカーン家の子供たちも参加している。そこへ母親のエラ(リンダ・バセット)が夫のジョージ(オーム・プリー)が戻ってきたと伝えるや、子供たちはあわてて列から抜け出す。父に見つからないように裏道を回り込み、母親が夫の気をそらしている間に後ろをそっと通り抜けてまた列に戻る。父親のジョージは楽しそうに異教徒のパレードを見ているが、よもや自分の子供たちがその中に加わっていようとは思っていない。

 続いて長男ナジル(イアン・アスピナル)の結婚式の場面が描かれる。ナジルは式の衣装に着替える前に身を清めるのだが、なんとこれから身を沈めるバスタブに小便をしている。汚いという感覚が先立つが、むしろこれから行われる「神聖な儀式」を汚そうという意図だったのかもしれない。父親が伝統の衣装を息子に着せているが、息子は浮かない表情をしている。いよいよ花嫁との対面。どうやら双方ともそれが初対面のようだ。二人並んだあと共に隠していた顔をあらわにする。花嫁はまんざらでもなさそうだ。しかし花婿のナジルの表情はみるみる歪んでゆき、あろうことか「僕にはできない」と式場から逃げ出してしまう。呆然とたたずむ両親と先方の家族。次の場面で壁に掛けられた家族の写真が写り、そこから長男の写真が消える。

 これら冒頭の二つのエピソードがこの映画の基調となるテーマを明確に示している。父親のジョージは敬虔なイスラム教徒であり、息子たちにもその伝統を受け継いでほしいと思っている。しかし彼らが住んでいるのはパキスタン移民が多いブラッドフォードではなく、白人の労働者街である。子供たちはイスラム文化ではなく白人の文化の中で育ち、それに溶け込もうとしている。母親とその妹のヘレンはクリスチャンで、子供たちをパレードに誘ったのはヘレンおばさんかもしれない(彼女もパレードに参加している)。子供たちは父親を心から嫌っているわけではないが、イギリスにいてもパキスタン人としての生き方を押しつけてくる彼には辟易している。モスクへも行きたがらず、ウルドゥ語もさっぱり話せない。両親が留守のすきにたばこを吸い、ソーセージとベーコンをこっそり食べている。

 何といっても双方の考え方が大きく食い違うのは結婚である。父親は自分が見つけてきた「いい縁談」に子供たちは当然従うべきだと考えている。しかし、イギリス的考え方になじんでいる子供たちは、結婚の相手は自分で見つけたいと望んでいる。一生にかかわる重大事である。悩んだ末、長男のナジルは家族を捨てた。父親も長男は死んだものとみなしている。三男のタリク(ジミ・ミストリー)は「パキ(パキスタン人に対する蔑称)の女なんかと結婚するもんか」と宣言し、隣の移民嫌い男の娘ステラ(エマ・ライドル)と付き合っている。「私たちロミオとジュリエットね」というステラの言葉が端的に彼らの立場を表現している。もちろん父親も悩んでいる。「一族の顔に泥を塗った」と腹を立てながらも、ブラッドフォードに住んでいればこんなことにはならなかったと悔やんでいる。

 父親は子供たちの反対を押し切って強引に伝統文化を守らせようとする。末っ子のサジ(ジョーダン・ルートリッジ)がまだ割礼を済ませていないと知ると、「恥をかいた」、「皮を切らないと地獄行きだ。清めねば」と、泣き叫ぶサジを病院に連れてゆき、無理やり手術を受けさせる。手術は成功したが、父は手術をした医師がインド人だと不機嫌だ。長年イギリスに住みながら、パキスタン人としての生き方や考え方をかたくなに守ろうとしている。しかし父親が子供たちに愛情を持っていないと解釈しては理解が浅くなってしまう。「一族の顔に泥を塗った」、あるいは「恥をかいた」という言葉が象徴的だ。彼の意識はパキスタン人コミュニティに向けられている。日本でいう世間体に近いが、それと全く同じではない。全く違う文化と伝統を持った外国で暮らすには、コミュニティの助けが必要なのである。そこから締め出されれば完全に孤立してしまう。彼はそれを心配しているのだろう。移民一世である彼はそれまでさんざん苦労してきたに違いない。苦労して学びとった生き方、それを信じて生きてゆくしかない。もちろん自分が育った文化を子供たちに伝えたいという気持ちもあるだろう。

 長男の結婚式に腕時計を贈る彼の顔は誇らしげだ。息子もそれを喜ぶと信じて疑わない。決してただ頑固なだけの、愛情のかけらもない父親ではない。彼にとって悲劇だったのは、彼にはそれ以外の生き方や考え方ができなかったことであり、子供たちの考えが理解できなかったことである。一方子供たちの気持ちは複雑である。それを端的に表しているのは、自分たちは混血ではなく「ダブルなんだ」という言葉である。二つの文化の間に挟まれ思い悩む子供たち。家族の絆は断ちがたいが、親の考えを押し付けられるのは嫌だ。父親にすれば、差別されながら異国で生きるにはコミュニティの支えが必要だということになるが、子供たちはむしろイギリス文化に溶け込もうと必死だ(彼ら自身も差別を受けているのだが)。テレビで移民排斥派のパウエル議員が「移民の本国への送還と再定住の支援政策」をぶち上げているのを観て、息子の1人は「パパを送還してくれ」と茶化している。


母はかすがい

 差別は深刻な問題だ。前述のように1971年当時は移民が爆発的に増えていた時代である。急激な変化にイギリス人も戸惑いと不快感を隠さない。カーン一家がブラッドフォードPhoto へ行った時、道路標識に書かれた「ブラッドフォード」の文字が落書きで「ブラディスタン」に書き換えられていた。しかしこの映画の中で差別問題はむしろコミカルに描かれている。サッカーが好きな長女ミーナ(アーチー・パンジャビ)は、誤ってサッカー・ボールで隣の家の窓ガラスを割ってしまう。隣家の親父は例の移民嫌い男だ。その窓には移民排斥主義者であるパウエル議員の写真が貼ってあったが、ボールは見事パウエル議員の顔の部分を打ち抜いていた。差別を描いた場面がかなりカットされたのは、このコミカルなタッチを崩したくなかったからだろう。その分甘口になったが、決して中心にある問題はあいまいにされていない。子供たちの反抗も多くはやんちゃな感じでコミカルに描かれている。しかし本格的な対立場面では真剣に怒鳴り合っている。父親は暴力まで振るっている。この映画の場合、シリアスな場面とコミカルな場面のさじ加減は成功していると思う。重すぎず、さりとて軽すぎず。見事にバランスの取れた構成だった。

 この映画のクライマックスは、父親が無理やり二男のアブドゥル(ラージ・ジェイムズ)と三男のタリクを結婚させようとする場面とそれに続く深刻な対立の場面だ。ここで活躍するのが母親のエラである。イギリス人である彼女は一家の中で微妙な立場にあった。子供たちの不満に共感しながらも、イスラム教徒の妻として夫には一定の遠慮をしていた。彼女は二つに割れそうな家族の間に立って、バランスをとる役割を果たしていた。しかし、あくまで自分勝手に息子たちの結婚相手を選ぼうとする夫についに反抗し、殴られて目の周りに黒いあざを付けている。彼女はそのみっともない顔で花嫁の家族を迎えるのである。

 その花嫁というのがとんでもなく不細工な娘たちだった。その二人の顔を見た瞬間、息子二人とエラの顔が凍りつく。その後のエラは大活躍だ。四男マニーア(エミル・マーワ)が「美術品」と称しているこれまたとんでもない「飛び道具」まで飛び出し、果ては花嫁花婿双方の母親が共にぶちぎれてしまう。「野蛮なハーフに娘はやりません。」「ハーフでもゲテモノの娘よりマシよ。」激しい言葉を投げつけあって、ついにエラは花嫁の家族を追い出してしまう。このあたりはどたばた喜劇調だ。その後にはより深刻な言い合いが続く。せっかくの縁談をぶち壊された父親は怒りが収まらない。「恥知らずな女め。一族の面汚しだ。」「恥知らずはあんたよ。自分の子の幸せも考えないで、父親の威厳を示すことばかり。あんたは最低の夫よ。それに最低の父親だわ。なのに認めもしない。」

 そこまで言われて彼はさすがに落ち込んでしまう。「父さんは皆のためを。それだけなんだ。」打ちしおれて彼は外へ出てゆく。隣の移民嫌いおやじの息子アーネストが彼に「サラームおじさん」と声をかける。強調しておきたいのは、ラストはジョージとエラの言葉で終わることだ。自分の店(彼はフィッシュ&チップスの店を経営している)のカウンターでうなだれている夫にエラは「お茶でも入れましょうか?」と声をかける。ジョージはいつもの返事を返す。「カップに半分な」。このさりげない終わり方が実に秀逸だ。最後は親ないし夫婦の視点で終わっている。簡単な言葉を交わすだけで互いの気持ちを察することができる。あれだけ激しく喧嘩したのに、2人の距離は遠ざかっていない。若い頃の二人は2人で力を合わせてつらい時期を乗り越えてきたのだろう。

 結局一人で空回りしていただけだったジョージ。うなだれる彼の姿には悲しみと失望感がにじみ出ている。映画が最後にこの姿を映したことには意味がある。彼を非難しているのではない。彼は彼なりに家族のことを想って行動したのだ。誰も悪意の人はいないのに家族に亀裂が入ってしまう。「やさしくキスをして」と同じだ。問題は個人ではない。文化と世代のギャップ。移民の大波が押し寄せてから10年がたち、イギリス生まれの若い世代の比率が高まってきた時期。多くの家族が遭遇した問題がそこにあった。父親の価値観はもはや子供の世代には簡単には受け入れられない。しかし同じパキスタン人を「パキ」と馬鹿にしている子供たちだって、自分たちのルーツから逃れられはしない。どんなに英語を達者に話し、ディスコで白人たちと一緒に踊ってみても、白人との溝は簡単には埋まらない。ただ変化の兆しもある。打ちひしがれたジョージに「サラームおじさん」と声をかけたアーネスト。移民の家族ばかりではない。イギリス人の家族にも新しい世代が生まれつつあるのだ。

 激しい対立を経て親子と夫婦のきずなは強まったのか?それは分からないが、少なくともエラとジョージはまた微妙な距離を保ちながら夫婦であり続けるだろう。頭の固いジョージに対してエラは周りがよく見えている。ジョージがまたもや縁談を持ち込もうとした時、彼は妻のご機嫌を取ろうとしてプレゼントを買ってくる。何と床屋の椅子だ。リクライニングにもなるし座り心地が良いぞと言うジョージの意図をエラはとうにお見通しだった。「何を企んでるの?」と冷静に切り返す。さらにはこんなものに3ポンドも払ったのかと文句を言い出す始末。どうやら最終的な主導権は彼女が握っているようだ。

 ジョージに殴られた後、エラは「一体家族って何?」とつぶやいた。この映画はイスラム教そのものを批判してはいない。しかし覆い隠しようのない男尊女卑の思想、父親の絶対的権威、これらが実は妻や子供たちばかりではなく父親自身も苦しめているという描き方には共感を覚える。つまるところ、この映画の価値はそこにあると言っても良い。この映画には語られていない部分がある。エラとジョージがどのように知り合い、どのような経過を経て結婚したのか。国には第一夫人もいる(エラは第二夫人)。確執もあっただろう。ジョージは息子のタリクを説得しようとして、イギリス女はたちが悪いと言い聞かせる。その時タリクは「イギリス女が悪いなら母さんは?」と切り返す。「それ以上は許さん!黙って言うことを聞け。分かったか。」突然父親は激昂する。この激しい怒りは何を意味しているのか。単に矛盾を突かれたということではなさそうだ。これ以上一家が白人の側に近づいたら完全にパキスタン人のコミュニティから締め出されてしまうと考えたのか。自分もさんざん苦労したから、同じ思いをさせたくないのか。なぜそれを息子に語らないのか。単純なように見えて、家族というのは複雑である。

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2007年10月14日 (日)

「小林いと子人形展」を見てきた

071014_10  10月6日から21日まで上田駅前、真田坂にある“キネマギャラリー幻灯舎”で「小林いと子人形展」が開かれている。9日に「幻灯舎講座」があり、上田フィルム・コミッションのK氏から吸血鬼映画の系譜について聞いた時に、会場に置いてある人形に魅せられた。その時はデジカメを持っていなかったので、今日改めて「取材」に行ってきた。

 たまたま夕方に何かの会合があるらしく、テーブルが占領されているのでレイアウトが変わっていた。人形は全部で20数体あっただろうか。石膏で作られた顔の表情が一つひとつ違う。みんな素朴な顔だ。さまざまな姿勢をしているが、子守をしていたり、裁縫をしていたり、荷車を曳いていたりと、生活の中の一場面が取り上げられていることに好感を持った。子供と老人の人形が多い。作者の小林いと子さんの関心のありようが現れているのだろう。服もみな手作りで、着古した着物の端切れを使って仕立て直したものである。だから生地は上田紬や木綿の上田縞などしっかりしたものだ。昔の生活が匂ってくるような人形たちの姿と佇まい、本物の生地から伝わる温かみ。陽だまりのようなスペースだった。

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 特に気に入ったのは子供を背負った女の子、虫かごと網を持った子供、そして切り株の上に座っている男の子(どこかピーターパンを思わせる)。子供を背負った女の子を見ていて、東京にいたころ読んだ菅生浩の『子守学校』、『子守学校の女先生』、『さいなら子守学校』三部作(ポプラ社)を思い出した。実際に福島県にあった子守の小学生だけが通う珍しい学校を題材にした児童文学である。悲しい話が多かったが、忘れられない本だ。

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 小林いと子さんは1932年生まれ。実家は上田紬機屋である。農家に嫁ぎ3人の子供を育てた。和裁の技術は姑から習ったものだが、人形作りは独学だそうである。壁に掛けてある紹介文には、「物のない時代に大切に着続けてきた着物を形として残し、その心を伝えることができたら幸せです」という言葉が引用されている。まだ十代の頃に戦争を経験し、戦後は物のない時代を生きてきたはず。おそらく様々な苦労をされてきたに違いない。決して楽しい思い出ばかりではないはずだが、人形が表している生活の一こまには温もりが感じられる。子守学校だって悲しいエピソードばかりではなかった。物がないからこそみんなで分け合った。苦しみも悲しみも肩を寄せ合ってみんなで支え合った。黄色みがかった室内の照明が期せずして人形をセピア色に染め上げている。生活も、人生も、生涯も英語ではlifeで表せることがこれらの人形を見て理解できる気がした。

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「夕凪の街 桜の国」を観てきました

 今日の午後、電気館で「夕凪の街 桜の国」を観てきた(悲しいことに観客はたったの4Fukigen3 人)。映画化の話題が出始めたころから期待していた映画だ。あの素晴らしい原作をどんなふうに映画にするのか楽しみにしていた。佐々部清監督作品はこれまでに「チルソクの夏」、「半落ち」、「カーテンコール」の3本を観た。いずれも評価すべき点を持ってはいるが傑作とは言えなかった。この「夕凪の街 桜の国」で彼はやっと傑作を生んだ。それが映画を観終わった後の率直な感想だった。

 こうの史代の原作漫画を読んだのは「そら日記」(フリーソフト)によると2005年2月21日。感想は「評判どおりの傑作だった。単純な絵だがストーリーが優れている。余韻が残る」とだけしか書いてないが、非常に感動した記憶がある。その後彼女の漫画を何冊か買ったが、やはり『夕凪の街 桜の国』が一番すぐれていると思う。彼女の作品は、だいぶ前にたまたま中古マンガ専門店で見つけて買った三好銀の『三好さんとこの日曜日』(小学館)とよくタッチが似ていると感じた。もっとも僕が持っている女性漫画はこうの史代のものと『三好さんとこの日曜日』で全部なので、この比較が的を射ているのかどうか分からないが。

 原爆を描いた映画はこれまで新藤兼人監督の「原爆の子」(52)、ピアース&ケヴィン・ラファティ監督の「アトミック・カフェ」(82)、今村昌平監督の「黒い雨」(89)、黒木和雄監督の「TOMORROW/明日」(88)と「父と暮らせば」(04)などを観てきた。中沢啓治の『はだしのゲン』もそれが置いてある食堂に通い詰めて読み切った(食事に行ったのか『はだしのゲン』を読みに行ったのか分からないくらい夢中で読みふけった)。ほとんど観てはいないがアニメにも原爆関連の作品は多い。途切れることなく広島と長崎の惨禍は描き続けられてきた。偶然なのか、日系3世監督スティーヴン・オカザキの「ヒロシマナガサキ」も今年公開され評判になった。「夕凪の街 桜の国」はこれらの系譜に新たに付け加えられた傑作の1本である。

 映画は原作の持ち味と香りをかなり丁寧に再現していた。原作は広島の原爆を扱った作品としては実にユニークだった。前半の「夕凪の街」編は被爆の体験も語られるが、悲惨さを前面に出さずヒロインの皆実の明るく軽やかな性格とその日常を中心に描いている。この軽やかさが新鮮だった。キャラクターとしてはかなり現代的な女性像が入り込んでいた。当時を知らない若い世代である作者の女性観が入り込んでいるが、それでいてリアリティに欠けるという感じを与えなかった。頑張らずにさらっと生きている姿になぜか引き込Yukatabijin1 まれた。もちろん焼け野原に転がる死体の上を歩いた経験なども描かれているが、全体に重苦しく悲痛な描き方というのではない。それでいて決して原爆の問題を避けて通ってはいない。むしろ皆実の心の中に隠された葛藤に焦点を当てることで正面から向き合っていた。映画では麻生久美子が幸薄い皆実を見事に演じていた。麻生久美子の顔はしばしばまるでガラスでできているように見えた。普段は陽気で明るく体が震えそうなほど美しいが、過去を振り返る時の彼女は無表情になる。今にも壊れそうなもろいガラスの仮面を付けているように見える。触れれば折れてしまいそうな危うさ。そんな皆実の軽やかさとはかなさを麻生久美子は見事に表現していた。彼女の代表作になるだろう。

 後半の「桜の国」のパートは現代を描いている。主人公の七波は皆実の弟である旭の娘。彼女の代になるとまったく原爆のことなど意識していない。そんな彼女が不審な行動をとる父親を尾行することから、彼女の過去への旅が始まる。皆実に比べれば何の屈託もなく現代を生きている七波が、父と一緒に過去への旅をすることで自分の家族の歴史と原爆との関係を知ってゆく。そういう描き方が実に秀逸だった。21世紀に生きるわれわれにとって、その方がずっとリアルなのだ。広島の旅で七波は初めて父親やその家族の過去を知る。しかし決して深刻にも悲痛にもならない。さらっと描いている。電車で東京に戻る七波に重苦しさや暗い影はない。しかし確かに彼女の中の何かが変わった。

 皆実の葛藤は「父と暮らせば」の美津江の「うしろめたさ」に通じるものがあった。彼女の父の「わしの分まで生きてちょんだいよー。」という言葉に彼女は前を向いて生きてゆく力を得た。同じような言葉が『夕凪の街 桜の国』にも出てくる。皆実の姉である霞が死に際に言った「皆実ちゃん長生きしいね」という言葉(映画では妹の翠のせりふになっている)。打越が皆実に言った「生きとってくれてありがとうな」という言葉。皆実はこの言葉を受け止めようとするが、その時すでに病魔は彼女の体を深く蝕んでいた。しかしその言葉はむなしく消え去りはしなかった。何十年かという時間のはざまを越えて、皆実の姪である七波にその言葉は伝わった。「父と暮らせば」では美津江という一人の女性を通して描かれていたものが、『夕凪の街 桜の国』そしてその映画化作品では皆実と七波という二人の女性を通して描かれているのである。

 麻生久美子の存在感に比べるとどうしても引けをとるが、田中麗奈もさわやかだった。皆実の母を演じた藤村志保はさすがのうまさ。堺正章はやや物足りなかったが、中越典子が意外に良かった。

 久しぶりに映画館で映画を観た。今年はまだ「リトル・ミス・サンシャイン」、「それでもボクはやってない」、「ドリームガールズ」と今回の「夕凪の街 桜の国」の4本だけ。ただ、10月20日から「ミス・ポター」と「天然コケッコー」の上映が予定されている。また11月の10日、11日には「うえだ城下町映画祭」が開催される。「あかね空」、「関の弥太っぺ」、「夢千代日記」はぜひ観たいと思っている。ようやく忙しい時期を過ぎ、少し余裕が持てるようになってきた。ここしばらく本格レビューを書いていない。そろそろ本格的に始動するか。

* * * * * * * * * *

 この間「ぼくの国、パパの国」と「ボビー」を観た。「ぼくの国、パパの国」は6年ぶりに観たが、記憶していた以上に素晴らしい作品だった。「ボビー」は期待をはるかに上回る力作だった。途中までは退屈に感じる部分もあったが、暗殺直後の大混乱を映しだす画面にロバート・ケネディの演説をかぶせるラストはまさに圧巻。あの演説はキング牧師の有名な演説と並ぶ20世紀の名演説の一つである。言葉が力を持っていた時代、そして暴力が言葉を押しのけていった時代。60年代を描きながら実に今日的映画だった。

「夕凪の街 桜の国」 ★★★★☆
「ぼくの国、パパの国」 ★★★★☆
「ボビー」 ★★★★☆

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