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2007年7月22日 - 2007年7月28日

2007年7月28日 (土)

「M」

1931年 ドイツ
評価:★★★★★
監督:フリッツ・ラング
製作:シーモア・ネベンザル
原作:エゴン・ヤコブソン
脚本:フリッツ・ラング、テア・フォン・ハルボウ、カール・ファース
撮影:フリッツ・アルノ・ヴァクナー、カール・ファース
美術:エミール・ハスラー、カール・フォルブレヒト、エドガー・G・ウルマー
出演:ペーター・ローレ、オットー・ヴェルニッケ、グスタフ・グリュントゲンス
    エレン・ヴィドマン、インゲ・ランドグート、フリードリッヒ・グナス
    パウル・ファルケンベルク、シーモア・ネベンザル、テオ・リンゲン

  古い映画ノートを調べてみると、最初に観たフリッツ・ラングの映画は「復讐は俺にまかCliplo6_2 せろ」である。72年6月24日にテレビで観ている。内容は全く覚えていない。観たことすら忘れていた。次に観たのが「飾り窓の女」。73年8月30日にこれもテレビで。その次が「暗黒街の弾痕」で、82年1月に三百人劇場で観ている。何と9年も間があいている。しかしこの後80年代に次々とラング作品を観ている。「ジークフリード」をACTで。「ドクトル・マブゼ」をドイツ文化センターで。「メトロポリス」を新宿文化シネマ1で。「死滅の谷」をユーロスペースで。「死刑執行人もまた死す」と「恐怖省」を三百人劇場で。最後に観たラング作品が「M」で、90年9月にビデオで観た。

  こうしてみると、ラングは80年代に再評価されたことが分かる。70年代に自分がラングをどの程度に認識していたのかは覚えていない。ただ、高校生時代に映画史を徹底して勉強し、過去の名作と言われる作品や有名監督・俳優の名前は頭に叩き込んであったので、少なくともサイレント時代に多くの名作を作った人だという程度の知識はあったと思われる。おそらく観たくても観る機会がなかったのだ。だから80年代にこれだけいろんなところに足を運んでむさぼるように観たのだろう。

  フリッツ・ラングはエルンスト・ルビッチと並んで今でもカルト的人気を得ている。確かに彼の作品は再評価に値する。幸いDVDの普及で彼の作品に身近に接することが可能になった。G.W.パプストやF.W.ムルナウの作品も高額ではあるがDVDで入手可能になった。80年代と比べたら隔世の感がある。今後ラングの作品は意識的に追及したいと考えている。彼の作品をレビューで取り上げるのは「死刑執行人もまた死す」に続いて2作目。今回新たに「M」をDVDで観直したが、その画面の鮮明さには驚いた。前回観た時はビデオだった。今更ながら技術の進歩に目をみはる思いだ。

  「M」は2005年8月4日に公営テレビの北ドイツ放送「NDR」が発表した「ドイツ映画ベスト100」で17位にランクされている歴史的名作である。20年代から30年代にかけてのドイツ・サイレント映画はまさに黄金時代で、ナチスの台頭で才能ある映画人が国外に亡命ないし追放されるまで数々の傑作を送り出してきた。この時代のドイツ映画は「ドイツ表現主義映画」として一括りにされることが多い。しかし「表現主義的」要素を含んでいるものは少なくないと思うが、はっきり「表現主義映画」と呼べるものは一握りの作品だけである。

  20世紀初頭は様々な芸術分野において種々様々な実験的創作が試みられた時期である。ドイツ表現主義、ロシア・アヴァンギャルド、イタリア未来派、シュールレアリズム、等々。表現主義絵画と表現主義映画の関連についてはもっと調べてみないと正確なことは言えないが、一般的には極端なデフォルメが特徴的な要素として挙げられる。「カリガリ博士」の極端に歪んだ街路や、斜めになった煙突などがよく指摘される有名な例だ。音のないサイレント映画という制限があったために、視覚的効果を最大限に利用しようとする方向に向かっても不思議ではない。そこにワイマール時代の社会不安(第1次大戦での敗戦による戦後の混乱とナチスの台頭)がかさなり、ドイツ映画は独特の怪奇・幻想映画を産み出すにいたった。

  かくしてイギリス文学の『ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』が題材に取り上げられ、ドッペルゲンガーや催眠による殺人、性格異常者による連続殺人などが取り上げられるよ うになる。歪んだ映像が生み出す不安感、壁に映った不気味な影、白黒画面という特性を生かした光と影の演出が効果的に用いられている。闇は人間心理にも入り込み、独特の心理的不安感や恐怖感を醸し出す作品が多く作られた。この時代のドイツ映画が後世に与えた影響は計り知れない。もちろんエルンスト・ルビッチの喜劇的なタッチ、徹底したリアリズムを追求したG・W・パプストなどもおり、決してこの時代のドイツ映画を一枚岩のように考えるべきではないが、多くはアメリカに逃れて、そこでも注目すべき作品を作っているという意味でも、この世代のドイツ系映画人の存在は大きい。他にヘンリー・コスター、ロバート・シオドマクなどがおり、ジョセフ・フォン・スタンバーグ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ビリー・ワイルダー、オットー・プレミンジャー、フレッド・ジンネマンなどのオーストリア系映画人と共に、アメリカ映画の中でドイツ系映画人(多くがユダヤ系)が果たした役割は大きい。

  「M」においても殺人鬼の登場場面に表現主義的演出方法が見られる。女の子が一人で立っている横に柱があり、その柱に連続少女誘拐殺人犯を捕まえたものに1万マルクの賞Tel_w2金を出すというビラが張られている。そのビラに帽子をかぶった不気味な男の影が映る有名なシーンだ。直接犯人を映すのではなく、その影を映す。この手法が醸し出すぞっとするような効果は絶大だ。いや、比喩的な意味では犯人の「影」は映画の冒頭から表れている。子供たちが輪になって歌いながら遊んでいるシーンである。輪の中に女の子が一人いて、日本の「かごめかごめ」に驚くほど似ている。一見なんとも可愛らしい場面なのだが、決してほほ笑ましくはない。なぜなら子供たちが歌っているのは殺人鬼の歌だからである。「もう少し待てばやってくるよ、黒い影法師の男の人が。手に持つその小さなオノでその男に切り刻まれるのは、あなたよ。」輪の中の少女は無邪気に一人の少女を指差す。楽しそうに遊ぶ子供たちの姿とその子供たちが歌っている歌の残虐な内容のギャップが身震いするような異化効果を生んでいる。全く調和しない映像と音声のモンタージュが生み出す薄気味悪い感覚。見事な導入部分である。

  冒頭の遊びのシーンは子供たちが遊びに取り入れるほど殺人鬼の噂が街中に広まっていることを示している。しかし、違和感を覚えるのは子供たちがまるで他人事のように無邪気に歌っていることである。そんな縁起でもない歌はやめなさいと近所のおばさんに注意されても、おばさんがいなくなるとまた歌い始める。その無警戒さ。この異様なまでの無警戒さにはおそらくある隠喩が込められているに違いない。冒頭場面に込められた隠喩はラストで子供を殺された母親がつぶやく言葉と結び付けられた時より明確になる。だが、それはもっと後で触れることにする。

  冒頭場面ばかりではなく、この映画には様々な乖離やズレ、歪み、あるいは逆転が描かれる。初めて連続殺人事件の犯人が登場する場面もこの「ズレ」が際立っている。鏡に丸ぽちゃの男が映る。その時にはまだ分からないが、この男が実は殺人鬼なのである。見る からに残虐そうな、あるいは冷酷そうな男ではない。むしろ童顔で人のよさそうな顔である。その男が鏡に向かってほほ笑んだり、口を大きく歪めたりしている。1度目に観た時この場面をどう感じたかは覚えていないが、今回観た時にはその何げない表情に不気味なものを感じた。ここにも異質なものをモンタージュする手法が効果的に使われている。その男は口笛を吹きながら新聞社に手紙を書いている。自分の犯行を認める手紙であり、同時に挑戦状でもある。あるいは、自分には殺人を止められないと書いているところを見ると、自分を捕まえてほしい、自分を止めてほしいというSOSでもあるだろう。

  ここでラングはさらにモンタージュを重ねる。筆跡鑑定の専門家が送られてきた声明文から犯人像の分析をしている(今で言うプロファイリング)シーンである。このシーンが、鏡に自分の顔を映している犯人の映像とカットバックされるのである。筆跡鑑定家は、犯人は芝居じみた性格を持ち、怠け者で無気力な人物である、“すさまじい狂気”が声明文から浮かび上がってくると口述している。より重要なのは、犯人は普通の人間の間で何食わぬ顔をして普通に暮らしているだろうという指摘である。450万の市民は恐怖に震えあがっているが、自分たちのすぐ近くに犯人が潜んでいることには気づいていない。

  子供たちも親たちも、冷酷な殺人鬼が身近にいることに気づいていない。これは明らかにワイマール時代の社会不安を暗示している。主権在民、人権保障を謳ったワイマール憲法は当時最も民主的な憲法であったが、ワイマール時代は第一次大戦での敗戦による混乱で不満が充満し、ヒンデンブルクの独裁政治、さらにはファシズムの台頭につながったと言われる。人々は「気づかぬうちに」とんでもない方向に引きずられているのではないか、そう警告しているのだ。冒頭の場面で子供たちに注意した女性に別の女性が、子供たちの「声が聞こえるということは安全ということよ」と話しかけるシーンがある。それで最初の女性はいったん納得したが、結局その晩彼女の娘エルシーは家に帰ってこなかった。次に娘と会った時には無残な姿となっていた。気づいた時には既に遅い。ファシズムは静かに近づいてくる。熱いお湯にいきなり入れられたカエルはあわてて飛び出るが、少しずつ水を熱せられると気付かないままに茹でられてしまう。

  では誰が子供たちを、ひいては市民を守るのか?「M」はさらに大胆な逆転を描いてみせる。犯人を見つけ、追いつめ、拘束し、「裁判」にかけたのは警察ではなかった。その警察に追われる立場の犯罪者たちであった。このあたりの展開が面白い。実は、殺人鬼を警戒する警官が街中にあふれ、おかげでギャングたちの商売はあがったりだった。困り果てたギャングたちは緊急に会合を開き、打開策を練る。同じころ警察も犯人捜査の会議を開いていた。この二つの会合がカットバックで並行して描かれるところが面白い。どちらの部屋もたばこの煙がもうもうと立ち込めている。警察の会議では「大衆なんて無関心の塊ですよ」との声が上がり、一方の犯罪者たちの会議では自分たちの手で犯人を捕まえることを決める。しかし自分たちは表に出られない身。自分たちの代わりに、怪しまれずに子供を見張れるのは誰か?ボス(グスタフ・グリュントゲンス)は意外な決定を下す。浮浪者を組織しろ。

  かくして、無関心の塊であったはずの「大衆」が犯人探しを始める。警察と犯罪者たちが同じ犯人を同時に追うというとんでもない展開になる。犯人はそのころ次の獲物に迫ってい037550た。今のアメリカ映画なら犯人の残虐行為をこれでもかとばかりに映し出すだろう。「M」は70年以上も前の作品なのでそこまでは描けない。いや描くつもりもなかっただろう。この映画の狙いはセンセーショナルな猟奇犯罪そのものを描くことではない。恐ろしい犯罪の上に、さらに深刻な社会不安を重ねて描くことに真の目的がある。代わりに犠牲者に忍び寄る犯人の「影」が実に効果的に描かれている。犯行を直接描かなくても恐怖を盛り上げられるのだ。そこにラングの非凡な才能があった。店のショーウインドウを覗いている少女に男の口笛の音がかぶさる。軽快な「ペールギュント」のメロディがかえって不気味だ。犯人の姿は映らない。口笛だけを「登場させる」演出がすごい。

  幸い、男が手をかけようとする直前に女の子の母親が現れて事なきを得た。しかし、その口笛を覚えていた男がいた。風船売りの盲目の男である。彼はギャングに頼まれて殺人鬼を探していた浮浪者の一人である。最後の犠牲者エルシーを連れ去る前に、犯人は彼女の気を惹くためにたまたまこの盲目の男から風船を買ったのだ。盲目の男は別の浮浪者に犯人の後を追跡させる。仲間が見失わないように、その男は手のひらにチョークで“M”と書いて、どさくさにまぎれて犯人の背中を叩く。犯人の黒いコートに白い“M”の文字が浮かび上がる。“M”は「殺人者」という意味のドイツ語“Mörder”の頭文字である。このあたりの一連の展開は有名な場面で、実際今観ても素晴らしい。

  こうして犯人は特定され、追い詰められる。一方警察も決して無能ではなかった。ローマン警部(オットー・ヴェルニッケ)たちは別の線(アリストンという銘柄のたばこ)から同じ犯人に行きついていた。しかし犯罪者たちの方が一歩先んじていた。犯罪者たちは犯人を追いつめ、捕らえる。このあとが意外な展開になる。実はここから先はほとんど覚えていなかった。犯人が正体を現し、童顔の顔がすさまじい形相に変わってゆくところは覚えていたが、彼が何と犯罪者たちによって裁判にかけられることは全く忘れていた。犯人役のペーター・ローレの鬼気迫る演技ばかり記憶に残っていた。こんな突拍子もない展開をどうして忘れていたのか不思議なくらいだ。

  それはともかく、犯人は大きな部屋に引き出される。そこには犯罪者や浮浪者、そして子供を殺された母親たちがずらりと並んで座っていた。そこは即席の裁判所だった。ここからの展開が重要である。警察や裁判官ではなく、犯罪者や浮浪者たちなどの「大衆」が犯人を裁くのである。それもリンチまがいのいい加減な裁判ではない。犯人には弁護士がつけられ、彼にも弁明の機会が与えられる。映画が描こうとしていることは明確だろう。もはや国家権力には「国民」を裁く資格はない。「人民の名において」(ラストで本物の裁判官が使った言葉)大衆が「正義の法廷」を開くのだ。

  この長々と続く裁判場面で犯人と犯罪者たちが交わしたやり取りはこの上なく重要である。「お前らなんかに何の権利があるというんだ」と突っかかる犯人に対し、ギャングたちのボスはこう反論する。ここにいる者たちは嫌というほど法の力を知っている(監獄の中で学んだわけだ)。「彼らが君を裁くのだ。弁護人もいる。すべて法律に従うのだ」と。ボスが「これ以上犠牲を出さないためだ。君には死んでもらう」と言うと、犯人が激して「これは殺人じゃないか。警察を呼ぶことを要求する。法の下に公平な裁判を要求する」と怒鳴る。これに傍聴人たちは大笑い。

  犯人も負けずに「お前ら、一体何様なんだ。みんな犯罪者じゃないか」とやり返すが、やがて独白のように自分の苦悩を吐き出し始める。「おれは選択しようがなかったんだ。自分の中に悪魔が棲んでいるんだ。炎、叫び、責め苦が。・・・ひとりで通りを歩くといつも感じるんだ。追ってくる奴がいる。おれ自身だ。音もなく追いかけてくる。でもおれには聞こえるんだ。まるでおれ自身に追いかけられているように。自分で自分を追ってるんだ。・・・おれと一緒に亡霊たちもついてくる。母親たちの亡霊やその子供たちの亡霊がいる。いつもそこにいるんだ。どんな時でも。それから解放されるのはあの時だ。それは・・・それから記憶がない。覚えていないんだ。」

  犯人はすさまじい形相で身をよじりながら、体から毒を吐き出すように言葉を吐き出す。両目は飛び出さんばかり。今の感覚からするとセリフや身振りが大仰に感じられるが、それでもペーター・ローレの熱演に思わず引き込まれてしまう。ボスは飽くまで死刑を宣告しようとするが、そこに弁護人が割って入る。犯人の行為は「強度の強迫観念による」もので、「自身で責任のとれない行動は処罰でき」ない。「必要なのは医者であり、死刑ではない」と弁護する。

  それでもボス(裁判官の役)は死刑を迫る。監獄に入れただけではいずれ恩赦でまた出てくるし、病院も退院したらまた同じことを繰り返すだろうと譲らない。興奮した傍聴人たちが被告に襲いかかろうとするところへ警察が突入してくる。驚く犯人の肩にすーっと手が伸びてくる。そして「法の下に」という声。直後に裁判所の場面に切り替わる。「人民の名において・・・」という裁判官の声。さらにまた場面が変わり、喪服を着た母親たちの言葉が最後に流れる。「私たちの子供は生き返らない。誰かが・・・子供たちにもっとしっかり注意を向けていたら。(画面暗転)あなた方が!」

  最後のメッセージがただ単にもっと大人が子供をしっかり守るべきだという単純なものでないことは明白だろう。脚本を担当したラングと彼の妻であったテア・フォン・ハルボウが当Teien 時どの程度ファシズムの脅威を意識していたかは分からない。しかし失業者があふれかえっていたワイマール共和国時代のドイツが暗く希望の見出せない混乱状態にあり、その混迷の中からさらに恐ろしい脅威が生まれ出ようとしているという認識を持っていたことは間違いないだろう。ぎょろぎょろと目を剝き、髪を振り乱した殺人鬼がその迫りくる脅威を象徴していることも明らかだろう。この映画を単なるサスペンス映画と解釈したのでは、なぜ後半これだけ疑似裁判の場面に力を込めているのか理解できなくなる。「M」は政治映画なのである。警察や司法などの権力に対する不信感。犯罪者たちは殺人鬼ばかりではなく、混迷した社会と政治体制をも裁いていたのである。しかし、結局手柄は警察に奪われ、どれだけ時間をかけて審議したのか描かれないままに「人民の名において」といきなり判決が下される。「人民の名において」という言葉が何とうつろに響くことか!(本物の)法廷の場面はほんのワンショットしか描かれないが、見るからに権威的で威圧感に満ちている。裁判官がこの一言を発しただけですぐ画面が切り替わってしまう。判決そのものではなくこの言葉だけをあえて言わせたところに辛辣な皮肉が込められている。

  お前らに俺を裁く権利があるのかという犯人に対して、ボスのシュレンカー(演じるグスタフ・グリュントゲンスが実に堂々としていて見事だった)がはっきりと「ある」と断言していることが意味深長である。社会の混乱が犯罪者を生んだのだという認識がその背後にあるに違いない。さんざん臭い飯を食わされた俺たちや社会からはじき出された浮浪者たちこそ法の力を知っている。俺たちの法廷こそ正義の法廷であるという含意が込められている。

  「M」はファシズム批判を全面的に展開した力作「死刑執行人もまた死す」と並べて解釈されるべき作品である。ラングの祖母はユダヤ人である。「M」を撮った2年後の33年、ラングはゲッベルスから彼の下でドイツ映画を統括してほしいと持ちかけられて仰天する。彼はその日のうちにフランスへ亡命した。

  DVDの附録映像が実に面白い。何と吹き替えではなく、フランス語で撮り直された別ヴァージョンが収録されている。こんなものがあったとは。オリジナルに比べて編集が多く、ペーター・ローレの演技はずっと大袈裟になっている。また、ジョセフ・ロージー監督によるアメリカ版があったが、監督がコミュニストだという理由で上映禁止になっていたことも初めて知った。出来は悪くないというから、これも観てみたいものだ。

  「M」はラングのトーキー第1作である。ところどころ車の音や歩く音が無音になっていて気になったが、解説によると意図的なものだったという。必ずしも納得はできないが、面白い指摘ではある。

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2007年7月25日 (水)

「今宵、フィッツジェラルド劇場で」短評

2006年 アメリカ 2007年3月公開
評価:★★★★★
監督:ロバート・アルトマン
出演:ウディ・ハレルソン 、メリル・ストリープ 、ケヴィン・クライン
    ギャリソン・キーラー、リンジー・ローハン 、ヴァージニア・マドセン
    トミー・リー・ジョーンズ、ジョン・C・ライリー、マーヤ・ルドルフ
    リリー・トムリン、L.Q.ジョーンズ、ジャーリン・スティール
    ティム・ラッセル、メアリ・ルイス・バーク、スー・スコット
    ロビン&リンダ・ウィリアムズ、プルーデンス・ジョンソン

  さすがロバート・アルトマン。文句なしの傑作だった。彼の作品の中では90年代以降のBuil6 ものが特に好きだが(というか初期のものはほとんど忘れている)、「今宵、フィッツジェラルド劇場で」は、「ゴスフォード・パーク」 (2001)や「ザ・プレイヤー」 (1992)と並ぶ晩年の傑作である。彼の代表作の一つとなるだろう。彼の得意とするいわゆる群像劇だ。とにかく人生があふれている。

  夜のミネソタ州セントポール。Mickey’s Dining Carというダイナー(食堂車をそのままレストランに改造して使っている)が最初に映し出され、フィッツジェラルド劇場の警備を担当しているガイ・ノワール(ケヴィン・クライン)がそこから出てくる。ガイの声で「人生という謎の答えを探している」とのナレーションが入る。もうここからすでに引き込まれてしまっている。しかし、ガイ・ノワールが主人公というわけではなく、出だしは夜のシーンだが「ノワール」な映画というわけでもない。

  ガイが向かうフィッツジェラルド劇場では「プレーリー・ホーム・コンパニオン」というラジオショウの最後の公開録音が行われようとしている。30年以上続いたショウだが、ラジオ局がテキサスの大企業に買収され、その日最後の夜を迎える。劇場も再開発のため取り壊される運命にあった。映画はその最後の1日を描いている。しかしそれでいて、憂いに沈んだ物悲しい雰囲気は漂っていない。むしろ軽快なカントリー・ミュージックに乗って、ドラマは明るい調子でテンポ良く進んでゆく。人生の最期を迎えつつあったアルトマン監督が、人生を達観したような、あるいは諦念に沈んだ映画ではなく、このような乾いた明るい映画を作ったことにまず拍手。

 そう、「今宵、フィッツジェラルド劇場で」はショウの司会者であるギャリソン・キーラー(同名の実在するショウの司会者兼脚本家)と出演するミュージシャンを中心とした音楽映画でもある。その意味で「五線譜のラブレター」、「RAY」、「ビヨンドtheシー」の系譜につながる映画だ。カントリー・ミュージックをたっぷり楽しめる映画としては、シシー・スペイセク主演の「歌え!ロレッタ愛のために」(1980)と並ぶ傑作だと言っていい。

 しかしそのキャストの豪華なこと!メリル・ストリープ、リリー・トムソン、リンジー・ローハン、ヴァージニア・マドセン、ウディ・ハレルソン、ジョン・C・ライリー、L.Q.ジョーンズ、マヤ・ルドルフ、そしてケヴィン・クラインとトミー・リー・ジョーンズ。みんな歌がうまい。ジャーソン・スティール(堂々とした体格の黒人女性歌手)やロビン&リンダ・ウィリアムズ(バック・アンド・コーラス)などの本物の歌手も出演している。メアリ・ルイス・バーグ、スー・スコット、ティム・ラッセルなど、脇役にもいい俳優をそろえている。まさにアルトマン監督の最後を飾るにふさわしい豪華版だ。

 群像劇でも、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「アモーレス・ペロス」と「21グラム」のようなどろどろに絡まりもつれ合った人間劇ではなく、「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」、「スナッチ」、「ダブリン上等!」などのような出し抜き出し抜かれる疾走感あふれる犯罪アクション映画タイプでもない。「幻の女」を想わせる、謎めいた白いコートの女が現れるが、サスペンス映画というのでもない。ある偶然のきっかけで見知らぬ者同士の人生が交錯するというのでもない。いつものようにミュージシャンが集まり、にぎやかにおしゃべりをし、楽屋であるいはステージで歌を歌う。最後の夜だが、最後らしさを感じさせない日常の風景。それでいて面白くて仕方がない。「人生という謎の答えを探している」という冒頭の台詞にもかかわらず、深みを感じさせる台詞などほとんどない。それでいて画面の隅々にまで人生があふれている。

  「今宵、フィッツジェラルド劇場で」はそういう稀有な映画である。淡々とスポンサーの宣伝を読み上げ、コマーシャルソングを歌う司会者のキーラー。お下劣なコミックソングを歌うダスティとレフティのコンビ(ウディ・ハレルソンとジョン・C・ライリー)、メーキャップをしながら亡き父と母のことを話すヨランダとロンダのジョンソン・ガールズ(メリル・ストリープとリリー・トムソン)、その横で作詞に余念のない娘のローラ(リンジー・ローハン)、1曲だけ歌い楽屋に引き上げ、下着姿で密かに息を引き取っていたチャック・エイカーズ(L.Q.ジョーンズ)。歌うことがそのまま人生である人たち。白いコートを着た女性の幽霊(ヴァージニア・マドセン、文字通りファントム・レディだ)にも語るべき人生があった。

 そして何といってもカントリー・ミュージックの魅力。これほど素晴らしい音楽がどうして日本では人気がないのか。この映画の魅力の半分以上はカントリー・ミュージックの魅力である。そしてその音楽世界を支えているのは司会者であるギャリソン・キーラーその人の才能である。驚くほど多才な人だ。実際の番組「プレーリー・ホーム・コンパニオン」の司会と脚本を務め、エッセイや評論や短編小説までものするという。「今宵、フィッツジェラルド劇場で」の原案と脚本を作り、出演して歌まで披露している。彼の才能がなければこの映画の成功はなかった。そう言い切ってもいい。

 カントリー・ミュージック、「幻の女」そしてスコット・フィッツジェラルド。夜のセントポールにひときわ輝く劇場に集まった歌う蝶たち。われわれはただ歌と人生の饗宴に酔いしれればいい。

2007年7月24日 (火)

完成間近のリンドウ橋を撮る

  今日は出張で松本へ行ってきた。要件は3時過ぎに終わったので、帰りがけにまた鹿教湯温泉に寄って写真を撮ってきた。先日と同じ駐車場に車を停める。まず前回と同じコースを取った。紅葉橋、なかよし地蔵、文殊堂、五台橋。今度はしっかり撮れたが、なぜか「なかよし地蔵」は今回も写真がぶれて失敗。リベンジのつもりが返り討ちにあってしまった。残念。それはともかく、今日は前回撮れなかったところも撮りたかったので、五台橋から緑橋、馬頭観世音、万年橋、月見堂と回ってみた。緑橋と馬頭観世音は特にどうということはなかったが、万年橋は結構インパクトがあった。案内マップに「地上30メートルのつり橋」とあるので、ゆらゆら揺れる橋かと思ったら鉄製のがっしりとした橋だった。両側に太い鉄柱が立っていて、そこからワイアーが張ってある。なるほど確かにつり橋だ。ただ、しっかりとした鉄製の手すりが付いているのであまりつり橋という感じはない。しかし黒々とした橋の質感がどっしりとした存在感を与えている。メインストリートからやや離れた、奥まった所にあって、すぐ近くまで行かなければ姿が見えない。そのひっそりとした佇まいもいい。ただし、ゴブリン選定「上田周辺ユニークな形の橋10選」に入れるかどうかは保留。何しろあと枠は一つだけ。慎重に選ばなければ。

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<写真>
上の3枚:紅葉橋、文殊堂の橋、文殊堂
下の3枚:緑橋、緑橋に行く途中の仏像、五台橋

 月見堂へ行く坂を登り始めたころにはすでに汗びっしょりだった。昨日までの曇り空とは打って変わって抜けるような青空。このところずっと曇りか雨の天気が続いていたので、朝起きて空を観た時にはあまりの青さにまぶしく感じたほどだ。空ってこんなに青かったのか。感動すら覚えた。気温もおそらく30度を超えていただろう。梅雨のじめじめした気候に慣れていた体にはこの暑さは応える。それでも月見堂の写真を撮りたい一心で坂を上った。ネクタイこそ外したが、出張用の革靴で登る坂ではない(普段はネクタイなど締めないし、靴はスニーカーだ)。普段の運動不足で息が切れる。息が荒くなり、足がガクガクになったころようやく月見堂についた。特に珍しくはない東屋である。ただ屋根が茅葺きになっているところはいい。何枚か写真を撮って、また道を下る。坂の途中で、向かいの山の上に浮かんでいる月に気づいた。せっかく月見堂に上ったのだ、月の写真を撮っておこう。昼間でも月は月。うっすらとしか見えないのでちゃんと映るか気にしながら写真を撮った。

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<写真>
上の3枚:万年橋(2枚)、万年橋の箱(中に記念スタンプが入っている)
下の3枚:月見堂、月見堂下から見た月、遊歩道脇に咲くガクアジサイ

 鹿教湯温泉を出て上田に向かう。実はもう一つお目当てのスポットがあった。おととい鹿教湯温泉に来た帰りにたまたま見かけた橋があった。青い色のきれいな橋で、これも帰りがけにぜひ写真に撮っておきたかった。いつもは平井寺トンネルを通るのだが、200円をケチって平井寺を素通りし、174号線に入った。その時右側に見かけた橋である。正確な場所は分からないが、内村川と依田川の合流点と依田川橋の間あたりだろう。その橋を渡って対岸に車を止めようと思っていたら、なんと入口は封鎖されていた。まだ建設中なのである。確か前に通った時にはなかったはずだと思っていたが、やはり新しい橋だった。一旦通り過ごしてから、また引き返してきた。ちょうど橋の所(道を挟んで橋の反対側)に駐車スペースがあったのでそこに車を停めた。

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<写真>
リンドウ橋(2枚)、馬頭観世音

 橋はほぼ出来上がっていた。ピカピカの新橋なので、橋の青い色が鮮烈だ。橋全体の半分だけ青いアーチがかかっている形も実にユニーク。どことなくかわいい感じを受ける。未完成だが、すっかり気に入ってしまった。工事の人に橋の名前を聞いたら「リンドウ橋」だと教えてくれた。リンドウにちなんで青く塗ってあるのだと。納得。うちの庭にもリンドウを植えている。だからなお一層親しみを感じる。いっそのこと「上田周辺ユニークな形の橋10選」に入れてしまおうか。いやいや、まだ完成していないのだから、そうあわてることはない。もう少しいろんな橋を見てから決めよう。とにかく、新しくできる橋の写真を撮れたので満足だった。

2007年7月22日 (日)

2006年公開映画マイ・ベストテン

【2006年外国映画マイ・ベストテン】

1 「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ監督)
2 「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督)
3 「ココシリ」(ルー・チュ-アン監督)
4 「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督)
5 「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督)
6 「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムズ監督)
7 「ノー・ディレクション・ホーム」(マーティン・スコセッシ監督)
8 「スパングリッシュ」(ジェームズ・L・ブルックス監督)
9 「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(トミー・リー・ジョーンズ監督)
10 「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
次 「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督)

 「王の男」(イ・ジュンイク監督)
 「クラッシュ」(ポール・ハギス監督)
 「キンキー・ブーツ」(ジュリアン・ジャロルド監督)
 「胡同のひまわり」(チャン・ヤン監督)
 「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督)
 「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督)
 「グエムル 漢江の怪物」(ポン・ジュノ監督)
 「明日へのチケット」(ケン・ローチ監督、他)
 「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督)
 「アメリカ、家族のいる風景」(ヴィム・ヴェンダース監督)
 「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督)
 「トランスアメリカ」(ダンカン・タッカー監督)
 「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ監督)
 「16ブロック」(リチャード・ドナー監督)
 「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督)
 「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク、スティーヴ・ボックス監督)
 「プライドと偏見」(ジョー・ライト監督)
 「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督)
 「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)
 「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェームズ・マクティーグ監督)
 「ジャーヘッド」(サム・メンデス監督)

【2006年日本映画マイ・ベストテン】

1 「博士の愛した数式」(小泉堯史監督) Engawa_b4
2 「フラガール」(李相日監督)
3 「かもめ食堂」(荻上直子監督)
4 「武士の一分」(山田洋次監督)
5 「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督)
6 「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)
7 「THE有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)
8 「雪に願うこと」(根岸吉太郎監督)
9 「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督)
10 「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
次 「長い散歩」(奥田瑛二監督)

 「タイヨウのうた」(小泉徳宏監督)
 「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)
 「ゆれる」(西川美和監督)

 今頃になって2006年のベストテンを挙げるのは恥ずかしいのですが、やっと主要な作品をほぼ観終わったので自分の中で区切りをつける意味でもとにかく載せます。まだ見落としている作品が結構ありますから、場合によっては順位が入れ替わる可能性があります(ただし洋画の次点以下は特に順位を付けていません)。特に日本映画は「蟻の兵隊」などの注目すべき記録映画を全く見ていません。「ストロベリーショートケイクス」や「長い散歩」、「明日の記憶」なども未見です。適宜追加してゆきます。

 なお本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の「世界の映画を観てみよう」コーナーに「外国・日本映画年間マイ・ベストテン」を掲載しています。1985年以降のマイ・ベストテンがすべて載っていますので、関心がおありの方はそちらも覗いてみてください。

鹿教湯の五台橋を撮る

  曇り空で薄暗い。鹿教湯(かけゆ)温泉の五台橋を撮りに行きたいが、天気が悪いのでなかなか決心がつかない。3時頃まで家でぐずぐずする。3時過ぎようやく外出。143号線を青木方面へ向かう。鹿教湯に行くには普通平井寺トンネルを抜けて、254号線を通る。しかし今回はあえて青木から沓掛温泉経由で山道の12号線を通るルートを取った。写真日記を付け始めてからやたらと初めての道を走りたくなる。青木街道から左折して12号線に入る。沓掛橋を渡って沓掛温泉にあがってゆく。温泉街を貫く狭い道を抜けてさらに奥へと進む。さあ、ここから山道だと覚悟したとたんに道が下り始め、見覚えのある小さな橋を渡った。さらにすぐT字路に出る。ここもどうも見覚えがある。

 腑に落ちないままにそこで左折した後、事態を理解した。あの橋は荒屋橋だ。以前浦野川の上流の沓掛川の探索をした時に写真を撮った橋だ。つまり鹿教湯温泉へ行くには12号線をそのまままっすぐ進めばよかったのに、わざわざ途中寄り道して沓掛温泉に入り、ぐるっと回ってまた12号線に出てきたというわけだ。沓掛橋が沓掛温泉の入り口で、荒屋橋はその出口だった。出発前によく地図を観ておけばこんな寄り道をしなくても良かったのに。道路地図はわざわざ沓掛温泉を通るように書いてあるので、何の疑いもなくそうしてしまった。まあ、おかげで沓掛温泉を初めて縦断したのでそれもいいか。前回は温泉街を抜けずに引き返していた。

 さて12号線に戻ってからが本当の山道。すごい道だった。車1台通るのがやっとの細い道が延々続く。ところどころ待避線があるが、近くに待避線がないところで対向車と出くわしたら苦労するだろう。細い山道それ自体は怖くはない。怖いのは対向車だ。何しろカーブの連続だから、場所によっては先が見えないので出会いがしらに対向車と正面衝突する可能性がある。ミラーを確認しながら慎重に進む。ところどころ舗装がひび割れ、ボロボロになっている。ほとんど通行量のない山道だからめったに補修はしないのだろう。地図で見ると、沓掛温泉から鹿教湯温泉まで直線距離にして7、8キロくらいだが、くねくね曲がっているので道のりは10キロ以上あるだろう。途中対向車は2台しかすれ違わなかった。同じ方向の車は途中で追い抜いた1台のみ。夜一人では走りたくない道だ。でも、僕は意外にこんな道が好きだ。結構ビンビン走ってしまう。

 15分から20分程ほど走っただろうか。ようやく鹿教湯温泉に到着。温泉街のメインロードを上りきって、体育館近くの無料駐車場に車を停める。そこで道を聴いて、いざ五台橋へ。教えられた道をゆくと川の音が聞こえてきた。五台橋は内村川に架かっている。内村川は依田川橋の手前で依田川に合流している。だから依田川の支流になる。すぐ橋が見えてきた。橋の手前に門のようなものが立っている。そこに紅葉橋と書いてあった。古びていて風趣がある。写真に撮ろうと思ったら何と電池切れ。あわてて電池を入れ替える。幸い何となく予感がして替えの電池を持ってきていた。備えあれば憂いなし。しかし曇っている上に、巨大な樹木におおわれているのでなおさら薄暗い。自動的にフラッシュがついてしまう。だがフラッシュをたくとまるで夜の光景のようになってしまう。途中でフラッシュをたかないようにしたが、何枚か失敗した。いつもは手ぶれなどしたことがないのに、なぜか今回撮った写真は半分以上手ぶれしていた。どうもシャッターを押した後に一瞬間を置いてフラッシュが光るので、ついシャッターをいつもより長く押してしまう。たぶんそのせいだろう。川の写真は真っ黒に写っていて全部だめだった。まあ、またいつか天気のいい日に来て撮りなおせばいい。

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<写真>
紅葉橋、なかよし地蔵、温泉薬師堂

 紅葉橋は風情のあるいい橋だった。そこから見下ろす内村川も野趣があって素晴らしい眺めだ。橋を渡ると右手に東屋があった。さらにそのちょっと先には左手に男の子と女の子が寄り添った「なかよし地蔵」がある。なかなかかわいいので写真に撮った。だが、フラッシュをたいてしまったので、まるで夜中に撮ったような写真になってしまった。撮り直そうかと思いながらも先に進む。その先に茅葺きの古びた建物が見えてきた。近くまで行くと温泉薬師堂とある。その先に屋根のある橋が見えた。これが五台橋だろうか?橋に近づくと、右手の斜面にたくさんの地蔵が並んでいた。これだけあると壮観だ。地蔵と橋の写真を撮って、橋を渡る。そこにも赤い帽子とよだれかけを付けた地蔵(?)が5体並んでいた。文殊堂の写真も撮る。鹿教湯の温泉街をゆっくり歩いてみたのは今回が初めてだ。以前鹿教湯病院に知り合いが入院していた時に見舞いに来たことはあるが、その時は病院に行っただけですぐ帰ってしまった。鹿教湯温泉は湯治場として知られているところなので、自分には関係ないところだとその時は思っていた。しかし橋という思わぬつながりがあったわけだ。

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<写真>
文殊堂へ渡る橋、お地蔵さんたち、文殊堂の5体の地蔵

 屋根つきの橋から下を見下ろすと、そこにもう一つ屋根つきの橋があった。内村川に架かっているので、どうやらそちらが五台橋らしい。階段を下りてその橋の写真を撮る。橋の所に座る場所もあって、なかなかユニークな橋だ。形は塩野神社の神橋に似ているが、それより長くて椅子が置いてあるところが違う。五台橋から眺める内村川も野趣があっていい。橋を渡った先に「文殊の湯」があったので、そこでマップをもらった。ネットでは詳しい地図が見つからなかったので地図を手に入れたかった。五台橋もどの辺にあるのか全く分からなかった。これでやっと内村川に架かっている方が五台橋だと確認できた。温泉街の全体像もつかめた。

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<写真>
五台橋(3枚)

 メインストリートに出て、休憩所でたばこを吸った。ちょうどその休憩所の所に温泉街の地図があったので、たばこを吸いながら地図を眺める。月見堂、その先の展望台、馬頭観世音、温泉街の先には内村ダム/鹿鳴湖と笠岩もある。結構面白そうなところがいくつもある。一服した後、月見堂に行ってみようとしたら雨が降ってきた。諦めて車に引き返す。  さすがに来た道をまた引き返す気はないので、254号線、174号線を通って帰った。ずっと内村川に沿って走っている道だ。このあたりの内村川もいい。雨が降っていなければ車を脇道に入れて写真を撮りたいくらいだ。途中気になる橋に気づいたが、まあここもまた今度来ればいい。

 五台橋は文句なしにゴブリン選定「上田市周辺ユニークな形の橋10選」の殿堂入り。さあ、いよいよ残り1つ。ちなみにこれまで選定された橋は、ハープ橋、ローマン橋、塩野神社の神橋、生島足島神社の御神橋、醤油久保橋、馬坂橋、御八城大橋、鎌倉橋、そして五台橋。皆さん、心当たりの橋があればぜひご推薦ください。もちろんもっといい橋があれば入れ替えも可能です。

最近観た映画

  最近なかなか映画のレビューが書けない。7月10日締め切りの短い原稿2本を(フレンAkari1 チ・フィルム・ノワールと悪役ヒーローに関するもの)何とか若干締め切りに遅れながらも書き終え、さあこれから映画をガンガン観るぞ、レビューをビシバシ書くぞと思ったものの、忙しくて思うに任せない。フリッツ・ラングの「M」を今月6日に観たが、いまだにレビューが書けない。平日は仕事に追われ、週末は憂さ晴らしにデジカメもって撮影にお出かけというパターンなので、まとまった時間が取れない。13日に観た「裏切りという名の犬」のレビューは「M」が片付かないと書けない。早くしないと忘れてしまいそうだ。これは久々のフレンチ・フィルム・ノワール。お決まりの男の友情と裏切りがテーマだが、なかなか出来はいいと思った。今後フリッツ・ラング作品とフレンチ・フィルム・ノワールは意識的に追求しようと思っている。

  昨日の21日にはレンタル締め切りぎりぎりに「家の鍵」と「カポーティ」を観た。「家の鍵」は久々に観るイタリア映画。期待したほどではなかったが、淡々とした中にも鮮烈な印象を残すシーンがいくつかある。障害を持った子と、やっとその息子と正面から向き合うことにした父親が過ごした数日間。その二人を特に大きな山場を設けることなくじっと観察するように見つめ続ける演出は悪くない。実際に障害をもったアンドレア・ロッシの演じるパオロがすごい存在感だ。しかし、父親役のキム・ロッシ=スチュアートがどうも弱い。シャーロット・ランプリングがここでもいい味を出していただけにその点が惜しい。ジャンニ・アメリオ監督は「いつか来た道」に続いて2本目だが、どうも彼の作品は地味だ。

  「カポーティ」は評判ほどではないと感じた。フィリップ・シーモア・ホフマンは確かにうまい。しかし、カポーティの人物像、事件を取材しようとした彼の意図と狙い、事件の真相、事件から彼が何を読み取ったのかというどの面をとっても中途半端だという印象をぬぐえない。レビューは・・・たぶん書かないでしょう。

  今一番観たい新作DVDはアルトマンの遺作「今宵、フィッツジェラルド劇場で」。これは新作料金でも観たい。それを見たらしばらく手元にたまりにたまったDVDを観ようかと思っている。こちらは山ほどある。イジィ・トルンカの「真夏の夜の夢」、フリッツ・ラングの「恐怖省」、シェ・チンの「芙蓉鎮」、ビスコンティの「山猫」、黒澤の「野良犬」、ジャン・ピエール・メルヴィルの「影の軍隊」、「いぬ」、「仁義」などはぜひ観直したい。「川本喜八郎作品集」、ビリー・ボブ・ソーントンの「スリング・ブレイド」、ケン・ローチの「ブレッド&ローズ」、メルヴィルの「マンハッタンの二人の男」など、まだ観ていないものも山ほどある。このうち、一体どれだけ観られるのだろうか。はあ~(ため息)。

「M」 ★★★★★
「裏切りという名の犬」 ★★★★
「カポーティ」 ★★★★
「家の鍵」 ★★★★
「RENT/レント」 ★★★☆
「オーシャンズ12」 ★★★☆

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