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2007年6月17日 - 2007年6月23日

2007年6月23日 (土)

ハープ橋を撮る

  天気がいいのでまた川と橋の撮影に出かける。今日はまず千曲川に架かるハープ橋070623 (新幹線専用の橋)を撮りたかった。小牧橋まで行き、橋を渡らずに川沿いの道に入る。どこか適当な場所があれば車を停めようと思っていたがなかなかいい場所がない。ほとんど橋のそばまで来てようやく空地を見つける。川の方に下りてみると、橋がものすごく大きく見える。普段は車で通り過ぎるだけでこれほどじっくりと眺めたことはない。その大きさに今更ながらびっくりする。さすがに浦野川や依田川などの支流とは違う。しかも千曲川に斜めにかかっているので橋の全長もかなりの長さになる。橋の写真を撮った後川の方を見降ろしてまたびっくり。川を横切るように大きな段差があって激しく白波が立っている。中ほどには魚道のようなものもある。川幅があり水量が多いだけに壮観だ。大きすぎて写真ではうまく表せないだろう。釣り人がたくさん川に入って釣りをしている。先週は全く釣り人を見かけなかったので、今日あたりが解禁日なのだろうか。釣りは全くやらないの070623_8 でそのあたりは不案内だ。アユ釣りだろうか。矢口高雄の『釣りキチ三平』が大好きな割には釣りの知識がさっぱりない。何枚も川と橋の写真を撮ったのだが、大きすぎて橋の全景が撮れない。もう一度車に戻って道を引き返す。適当な脇道に入って車を停める。車がびゅんびゅん通る道端に立って橋の写真を撮る。大きさはちょうどいいのだが、途中の木が邪魔に乗って橋の一部が隠れてしまっている。仕方がない。また車に戻る。

 車を出して小諸方面(上流方向)に向かう。東郷橋のあたりで車を停めたかったが、うっ070623_2 かり脇道を通り過ぎてしまったので仕方なく先に行く。アップルランドの駐車場に車を入れる。道を渡って依田川に出る。ここも釣り人がたくさんいた。水量は千曲川ほどではないが、川幅はかなり広い。何枚か写真を撮って車に戻る。東郷橋と依田川が千曲川に合流する場所を撮りたかったのでまた引き返す。東郷橋を渡ってすぐ橋の横にある道に車を入れる。浄水所(川沿いを走っていると浄水所をあちこちで見かける)の横に車を停め川に出る。まず東郷橋の写真を撮った。東郷平八郎にあやかってつけた名前らしいが、橋自体は特にどうということはない。ここも釣り人でいっぱいだ。河原は石ころがごろごろしている。写真を撮りながら千曲川との合流点に向かう。合070623_3 流点あたりで河原に下りる。丸みを帯びた大きな石が一面にごろごろしていて歩きにくい。

 車に戻る途中ふと河原を見ると、コンクリートの塊が河原に横たわっている。護岸用に張られていたコンクリートが洪水のときにでもはがされて、ここまで押し流されてきたのだろう。水の力はすごい。八丈島だったか、軍艦ほどもある巨大な防波堤が台風の後で見たら跡形もなく無くなっていたという話を椎名誠の本で読んだことがある。

 雲が出てきて薄暗くなってきたので、来た道をまた車で引き返す。小牧橋まで戻ってきたとき、橋を渡って対岸の千曲川市民緑地まで行けばハープ橋の全景が撮れると思いつい070623_7 た。さっそく橋を渡り緑地に車を乗り入れる。こちら側からなら邪魔ものがないのでハープ橋がきれいに撮れた。ただ曇ってきていたのできれいな青空が映らないのが残念だ。この白い橋は真っ青な空が似合う。千曲川の写真も撮った。さすがに本流だけあって堂々たる川だ。千曲川の下流は信濃川と名前を変える。新潟市に入ると河口に近いので川幅も広く大変な水量である。しかし全面水なので変化がない。上田市を流れる千曲川は川の中に中州があったり、巨大な岩があったりと、川の表情に複雑な変化がある。それが大きな魅力だ。川の右岸(上流から下流を見て右手に070623_13 あるのが右岸である)はゲートボール場になっている。この緑地にはグランド(「博士の愛した数式」に河川敷で野球をやるシーンがあったが、ロケは確かこの緑地内で行われたと思う)や釣り堀などもあり、市民の憩いの場所になっている。もう5時頃になっていた。これで切り上げて帰宅する。

<追記>
 ネットで調べてみたら、千曲川水系での鮎解禁は6月17日だった。つまり先週の土曜日に馬坂橋の写真を撮りに行った翌日だった。そうか、それであの時は誰も釣っていなかったんだ。

<写真の説明(上から)>
ハープ橋(2枚)
アップルランド近くの依田川
東郷橋
依田川と千曲川の合流点
 横に流れているのが千曲川(右が上流)、右下から流れ込むのが依田川
依田川のコンクリートの塊(合流点のすぐ上流)
ハープ橋の下を流れる千曲川(左下)
市民緑地から見たハープ橋 (右下)

070623_3_1070623_4

2007年6月22日 (金)

王の男

2006年 韓国 2006年12月公開 Butterfly_scho_2
評価:★★★★☆
監督:イ・ジュニク
脚本:チェ・ソクファン
撮影:チ・ギルン
原作:キム・テウンの戯曲「イ(爾)」
照明監督:ハン・ジウプ
衣装:シム・ヒョンソップ
アートディレクター:カン・スンヨン
音楽:イ・ビョンウ
出演:カム・ウソン、チョン・ジニョン、カン・ソンヨン、イ・ジュンギ、チャン・ハンソン
   ユ・ヘジン、チョン・ソギョン、イ・スンフン

 最初にこの映画の基本的性格をはっきりさせておくのがいいだろう。コンギルという美しい男に注目が集まっているために、あたかも「プルートで朝食を」「キンキー・ブーツ」「トランスアメリカ」、「ブロークバック・マウンテン」などの系統に属する作品と受け止められているような気がする。しかしこの作品は、むしろ、シェイクスピアの史劇を多分に意識した重厚な歴史劇として構想された作品であり、そういうものとして高く評価されるべきだと思う。おそらく『マクベス』、『リア王』、『ハムレット』などが意識されている。また、旅芸人たちが歴史の波に巻き込まれ翻弄されるという点ではテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」やチェン・カイコー監督の「さらば、わが愛 覇王別姫」に通じ、盲目の芸人という点ではイム・グォンテク監督の「風の丘を越えて」に通じる。そういう作品である。

 チャンセン(カム・ウソン)、コンギル(イ・ジュンギ)、そしてユッカプ(ユ・ヘジン)、チルトゥク(チョン・ソギョン)、パルボク(イ・スンフン)といった芸人たちは社会の最下層の人間たちの代表であり、同時に特にチャンセンの場合は『リア王』における道化のような役割を持たされている(「王の男」の原題は「王と道化」)。しかも芸人たちは王に忠誠を誓う気がないだけに、その批判は最初こそ当てこすりであったが、最後には直接的で痛烈な批判になる。社会の最下層の人間たちを王宮に入り込ませることによって、王や重臣たちの資質や政治の腐敗を批判して見せる。「腐った世の中」というチャンセンの台詞はその意味で「世界のタガが外れてしまった」というハムレットの台詞に重なる。さらに複雑な人間関係を絡ませて、陰謀や嫉妬や人間愛をめぐる人間ドラマにしている。前半は喜劇的色彩が強いが、後半はシェイクスピア劇のような台詞をちりばめ、権力批判と人間ドラマと歴史の激動が一つに収斂してゆく壮大な悲劇へと変わる。王の煩悶も描かれるが、真に焦点を当てられているのは虫けらにも等しい芸人たちの葛藤であり命を捨てても真実を語ろうとする執念である。

 喜劇と悲劇に対する古い概念では、喜劇は庶民を描き悲劇は高貴な人物を描くというものだった。普通の人間が悲劇の主人公になるのは近代以降である。この映画は16世紀初頭の王朝を描きながら、その視点は庶民の視点である。歴史劇であるが現代劇の視点で描かれている。しかし王も単純には描かれていない。ハムレットやマクベスほどではないが、史上有名な暴君ヨンサングン(チョン・ジニョン)を描きながら、幼くして母を失い、何かにつけて偉大な父王と比較されるヨンサングンの苦悩も描きこまれている。「父王の法に縛られている余は本当に王なのか?」という彼の苦悩に満ちた言葉はシェイクスピアを想わせる印象的な台詞である。

 映画の冒頭で描かれるのは芸人たちの悲惨な生活である。彼らには人権など無いも等しい。チャンセンとコンギルが属している一座の座長は町の有力者に取り入ろうとしてコンギルの体を与えようとする(コンギルの美しさは悲劇を招きかねない。その予兆)。必死で止めようとするチャンセンを座長は散々痛めつける。それでもコンギルを行かせまいと抵抗したチャンセンに座長が投げかけた言葉は「飢え死にしたいなら一人で勝手に野たれ死にしろ」だった。そう、芸人たちには絶えず背後霊のように「飢え」が付きまとっている。映画の冒頭ではこの飢え死にすれすれの彼らの生活が強調されている。一座を逃れてチャンセンとコンギルは漢陽へ向かう。都に行って最初に彼らの目に入ったものは食べ物だった。そこへ囃子の音が聞こえてくる。芸人がいる!人垣をかき分けてみるとユカップ、チルトゥク、パルボクの3人が芸を見せていた。ひとしきり芸を見せた後の彼らの台詞がいい。腹が減ってこれ以上芸を続けられない、小銭をくれたら先を見せると言っている。客に小銭を出させる演出であるが、実際彼らも飢えているのだ。

 ひょんなことで彼らは王宮に滞在することになるが、住む場所の次に与えられたのは食い物だった。大量の食べ物の前で顔をほころばせる芸人たち。彼らが引き立てられたのは芸のお陰だった。芸は彼らの生活であり彼らの命だった。身分が上るかもという芸人の1人の対して、チャンセンがこう言う。「芸人でも大臣でもたらふく食えりゃいい。飢え死にする寸前だった。」飢え死にを心配することなくたらふく飯を食える生活、彼等にはそれで満足だった。

S_illusion5_2  同時に、チャンセンの台詞にはより重要な要素が含まれている。彼には出世欲などないのだ。それはより早い段階で示されている。彼はいかさま博打で大儲けした夜、妓生上がりのノクス(カン・ソンヨン)が王の寵愛を受けているといううわさを聞く。その時彼はひらめいた。「王をネタにする。さっき聞いたろう。妓生を相手に遊ぶのは俺たちと同じ。王だからって特別じゃない。」チャンセンという人物はコンギル以上に魅力的である。だが彼の魅力は、彼を演じたカム・ウソンのすぐれた演技力だけに還元することはできない。彼は最初から権力など歯牙にもかけていない。初めて王の前で芝居を見せた時、気押されていなかったのは彼だけである。だからこそ最後にあそこまで王を批判できたのだ。彼の人物像としての魅力はまさにそこにある。この点を決して見落とすべきではない。

 コンギルは王の秘められた苦悩を知ってしまったためにチャンセンのようには王を相対化できない。しかし彼も最後にはチャンセンと同じ道を選ぶ。ユカップ、チルトゥク、パルボクの3人はもちろんチャンセンのようなラディカルではない。ごく普通に王を偉い人として見ている。しかし彼らも芸人だった。彼らの存在そのものが笑いを生み出し、その笑いは彼ら自身が意図する以上に反権力的だった。王をからかったとして連行された時に言ったユカップの台詞は傑作だ。「王様のアレを大きくしたのが罪ですか?いくらなんでも王様だから瓢箪くらいはあるかと」思ったというのだ。思わず噴き出す台詞だ。このどこかピントのずれた間抜けな台詞は、しかし、国王の権威を地に落とすという点においては「王だからって特別じゃない」というチャンセンの台詞に劣らない。ユカップたちは王とノクスをからかう芝居を演じた時に登場するのをためらったが、それはその芝居が不敬なものだからではなく、宦官の役を演じるのがいやだったからである(股の所に「無」と書いてあるのが妙に可笑しい)。笑いこそ何も持たない庶民の最大の武器である。

  チャンセンは胆力においてすぐれていただけではなく、芸人としても非凡な才能を持っていた。王を侮辱したとしてとらえられた時も、「王が笑えば侮辱じゃない。王を笑わせてみせる。」と大胆不敵な挑戦をして見せたのもそれだけ自信があったからだ。他の芸人たちが王を前にして縮み上がっていたので危うく失敗するところだったが、コンギルの機転で何とか王を笑わせることに成功した。このヨンサングンという王、終始苦虫を噛み潰したような顔をしているのだから、芸人たちが縮み上がるのも無理はない。しかし脇にいたノクス(ドリカムの吉田美和似)は苦笑いしている。妓生上がりなので下ネタでも引かないという設定が面白い。ところがこの王は稀代のバカ殿だった。芸人たちの芝居に大笑いした夜、ノクス相手に「上の口がいいか、下の口がいいか」とチャンセンとコンギルの真似をして戯れている。

 王がこれでは重臣たちも頭を痛めている。事あるごとに父王は聖君であったのにと比較され、王は腐っている。政治にも身が入らず遊び戯れるばかり。こんな王のお抱え芸人にされたことがチャンセンたちの不幸の始まりだった。彼らは意図せずして王宮をめぐる陰謀の渦に巻き込まれてゆく。映画の中盤に入って新たに二つのテーマが導入される。一つは王と国を憂える堅臣チョソンの思惑。その思惑とはチョソン自身が後に王に打ち明けている。「私が芸人を宮殿に呼び入れたのは、腹黒の重臣を追い出して、国王様に世の中を正しく見てほしかったからです。」かくしてチョソンは「王をからかったお前たちがなぜ重臣たちをからかわない?」と次なる芝居を持ちかける。賄賂を受け取る大臣の芝居だ。この芝居を見て青くなった法務大臣は王宮から追放される。芝居の意図を悟った王が大臣たちを追求したからだ。居並ぶ貴族たちをねめつけ、「お前のところは門番さえも賄賂を取るそうだな」などと言っているところを見ると、この王まったくの馬鹿ではない。結構現実を見ている。

 ではなぜこんなバカ殿になってしまったのか。父王と比較される重圧だけが原因ではなかった。それはチョソが仕掛けた次の芝居で明らかになってくる。王の母親毒殺を描いた京劇だった。王は芝居を見て事の次第に気づき、逆上する。母親を毒殺した先王の側室を二人とも刺し殺してしまう。皇太后はショック死。ヨンサングンがノクスと遊び戯れているのは母のいない心の隙間を埋めようとしていたのかもしれない。ヨンサングンは韓国人なら誰でも知っている有名な暴君だが、ここでは心に深い闇を抱えた男として描かれている。

 王の心の隙間はノクスだけでは埋まらず、ついに美貌のコンギルにまで手を伸ばす。中盤で導入される二つ目のテーマはコンギルをめぐる、王、ノクスそしてチャンセンの心理葛藤劇である。コンギルに王の寵愛を奪われたノクスの嫉妬心がまた別の陰謀を生む(コンギルは重臣たちからも疎まれ、危うく暗殺されそうになる)。コンギルが王のお気に入りになることによって、さまざまなバランスが崩れ始める。もちろんコンギルの気持ちは常にチャンセンに向いていた。2人は決してゲイの関係ではない。コンギルが初めて王に呼ばれた日の夜、チャンセンとコンギルが一つのゴザに並んで寝る場面がある。チャンセンははだけたコンギルの布団をそっと掛けなおしてやる。コンギルは寝たふりをしていたが、そのことに気づいていた。2人の間にあったのは純粋に仲間を想う気持ちだった。それでもコンギルが王の誘いをきっぱり断りきれなかったのは、王のさびしい一面を見てしまったからだ。芸人と遊び呆けていると重臣たちに意見された王は芸人のところへ行く。太鼓を取り、叩いて叩いて叩きすぎて太鼓を破ってしまう。その後コンギルを奥へ連れてゆき、コンギルに影絵をやってみせる。酒を飲み、涙を流して寝てしまう王。その涙をコンギルが指で拭う。この涙を拭うシーンはぞくっとするほど美しい。

 王は自分を必要としている。コンギルはそう思ったに違いない。その時から彼の心は揺れはじめた。それでも京劇の後コンギルは仲間と王宮を去るつもりでいた。しかし官服を着たコンギルに(王はコンギルに官職を授けていた)チャンセンがお前は最初から出てゆく気はなかったのだろうという言葉を浴びせ、さらに「この服は何だ?体を売るなら貴族より王の方がいいか?」と吐き捨てるように言った時、コンギルの心の針が大きく反対方向に振れてしまった。これはチャンセンの誤解だ。2人の関係は肉体関係には至っていない。しかし、こんなことがあっても2人の絆は決して切れることはなかった。2人を引き裂いていたのはあくまで王の偏愛であり、コンギルの心変わりではない。チャンセンが目をつぶされたとき絶望の余りコンギルは王の前で手首を切る。ここは凄絶な場面だった。血を流しながらコンギルは指人形の芝居を続ける。彼が語っていたのはチャンセンの言った言葉だった。

 そのころまでには芸人たちも、自分たちが結局王の慰みものにすぎないと感じていた。Engle2_2 王が2人の側室を殺した後、ユカップが「何かするたびに誰かが死ぬ、怖いよ」とつぶやく。その言葉は図らずも彼自身に降りかかってきた。王がコンギルを官職につけた祝に狩りをすることにした時、芸人たちは王たちに狩られる動物役にさせられた。茶色い着ぐるみを着せられた彼らの腹には豚、鶏、猿などと書かれている。まさに慰みものだ。実は狩りの混乱に乗じて貴族たちはコンギルを殺そうと謀ったのだが、ユカップがコンギルをかばって矢を受ける。彼は死ぬ。雨のそぼ降る中、むしろをかぶせられたユカップの遺体が荷車で運ばれてゆく。仲間がその顔にお面をかぶせてやる。この場面は実に感動的だ。何十年か生きて、彼が最後の旅に出るとき持っていたのは芝居で使ったお面だけだった。底辺に生きる芸人の虚しく寂しい人生が胸に迫る。

 このあたりから悲劇調に切り替わってゆく。ノクスが偽造させた抗議文によってコンギルは罪を着せられそうになる。その時とっさにコンギルをかばったのはチャンセンだった。チャンセンは捕らえられるが、チョソンが彼を逃がす。賢臣チョソンはコンギルに溺れる王を非難したために追放されたばかりだったのだ。重臣たちの腐敗を一掃するために芸人たちを呼び入れたのは自分だ。そういう思いがあったから王宮を去る前にチャンセンを逃がしてやったのだろう。「行け、もう舞台は終わった。」この台詞以降、映画はさらにシェイクスピア劇的色彩を強めてゆく。

 しかしチャンセンはすぐには舞台を去らなかった。脚本と演出が冴えわたるのはむしろここからだ。チャンセンを舞台から去らせる前に彼にこれまで以上に重い苦難を背負わせ、また思いのたけを洗いざらいぶちまけさせた。チャンセンは逃げるどころか、宮殿の庭に縄を張り、綱渡りの芸を始める。「世の中で一番偉い人が住んでいる宮殿も大したことないな。今までいろんな奴らを見てきたが、ここにきて最低の奴を見つけたよ。そいつの行状を話そう。皆さん聞いてくれますか。」驚いた王が庭を覗く。チャンセンは王を痛烈に皮肉る。「ここで死んでいった命はあの瓦の数より多い。」

 やがてチャンセンは捕らえられ、王は彼を切り捨てようとする。殺さないでと懇願するコンギルに、王はならばお前が切れと命ずる。コンギルは「いっそのこと私を切ってください」と叫ぶ。結局王はチャンセンを殺さず、代わりに焼きごてを当てて彼の目をつぶす。つぶされた目に布を巻いたチャンセンが言うセリフはまさにシャイクスピア的だ。「今まで盲人の芝居を何度もしてきたが、いざ盲人になったら盲人の芝居ができないまま死ぬのか。ようやく自由に舞台を飛びまわれると思ったのに。」

 盲目になって却って彼にはより真実が見えてきた。映画は彼にもう一度「自由に舞台を飛びまわ」る機会を与える。処刑の日、チャンセンはまた綱渡りのロープに上る。「今は盲人になって何も見えない。あるゲス野郎があいつの心を盗むのも見えない。それはさておき、綱の下が見えないと宙に浮いているようだ。この味を知っていたら早く盲人になればよかった。」彼の言う「宙に浮いている」状態とは自由を意味しているのではないか。ロープの上で演じているときの彼は他のどんなときよりも自由だった。身分制度という足かせによって地上に縛り付けられていない状態。目が見えるときにはそれに気づかなかった。死を覚悟した時彼はついに自由になれた。身分の低いものが真に自由を得られるのは死ぬ時だけなのだ。王の気まぐれに翻弄され続けた人生の最後の日々。それ以前も「飢え」が道ずれの放浪人生だったが、王宮に入ってからも死と隣り合わせの人生だった。彼らの人生はまさに綱渡りの人生だった。いつ足を踏み外して転落してもおかしくない危うい人生。しかしそんな軽い命が終始光りを放ち続けていた。彼らの身分は低いけれども、彼らは綱渡りのロープの上から見物客を見下ろしていたように、王をも上から見降ろしていた。

 最後の芸を披露する彼らに反乱軍が迫っていた。人生の最後の瞬間を迎えつつあるチャンセンとコンギル。もう言うべきことはすべて言った。最後に彼らが語ったのは、彼らの人生が決して無ではなかったということだ。チャンセンとコンギルの最後のやり取りは全文引用するに足る。

コンギル「そこのバカ野郎、見えなくて嬉しいか?」
チャンセン「嬉しいよ。嬉しくて死にそうだ。」
「なんて命知らずの男なの。何も見えないくせにそんな所に登るなんて。早く降りなさい。」
「なんと口の悪い女だ。俺はこの宮殿の王であるぞ。」
「よし、ちょうど王のツラを見たいと思ってたけど、なるほど見ものだわ。」
「ひどい女だ。俺のツラに文句あるか?」
「何も恐れるものがないから世の中を騒がせたのね。生まれ変わったら何になりたい?貴族になりたい?」
「いや。イヤだ。」
「じゃあ、王になるの?」
「それもイヤだ。また芸人に生まれたい。」
「バカね。芸人になったから命を失うのに。」
「そういうお前は何になりたい?」
「私はもちろん芸人になりたい。芸人よ。」
「よし、腐った世の中、逝く前に思い切り遊ぼう。最後にもう一度2人で芸を見せよう。」

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2007年6月20日 (水)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(07年7月)

【新作映画】
6月23日公開
 「ラッキー・ユー」(カーティス・ハンソン監督、アメリカ)
 「サイドカーに犬」(根岸吉太郎監督、日本)
 「アヒルと鴨のコインロッカー」(中村義洋監督、日本)
 「ジェイムズ聖地へ行く」(ラアナン・アレクサンドロビッチ監督、イスラエル)
 「殯の森」(河瀬直美監督、日本)
 「エマニュエルの贈りもの」 (リサ・ラックス 、 ナンシー・スターン監督、米) 
 「憑神」( 降旗康男監督、日本)
6月30日公開
 「ボルベール(帰郷)」(ペドロ・アルモドバル監督、スペイン)
 「シュレック3」(クリス・ミラー監督、アメリカ)
 「マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶」(マリオ・カナーレ・他監督、イタリア)
7月7日公開
 「傷だらけの男たち」(アンドリュー・ラウ・他監督、香港)
 「街のあかり」(アキ・カウリスマキ監督、フィンランド・他)
7月14日公開
 「ファウンテン 永遠につづく愛」(ダーレン・アロノフスキー監督、米)
 「魔笛」(ケネス・ブラナー監督、英・仏)

【新作DVD】
7月4日
 「ゲド戦記」(宮崎吾朗監督、日本)
 「unknown アンノウン」(サイモン・ブランド監督、アメリカ)
7月6日
 「僕のニューヨークライフ」(ウディ・アレン監督、米・仏・他)
 「オーロラ」(ニルス・タベルニエ監督、フランス)
 「不都合な真実」(デイビス・グッゲンハイム監督、アメリカ)
 「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウバー監督、オーストリア・他)
 「ブレイキング・コップス」(エリック・カニュアル監督、カナダ)
7月13日
 「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(ロバート・アルトマン監督、米)
 「セックス・トラフィック」(デビッド・イエーツ監督、英・加)
7月19日
 「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督、米・仏・日)
7月20日
 「ハッピー・フィート」(ジージ・ミラー監督、米・豪)
7月25日
 「長い散歩」(奥田瑛二監督、日本) 
 「幸せのちから」(ガブリエル・ムッチーノ監督、米)
7月27日
 「墨攻」(ジェイコブ・チャン監督、中・日・韓・香)
 「孔雀 我が家の風景」(クー・チャンウェイ監督、中国)
 「藍色愛情」(フォ・ジェンチイ監督、中国)
 「世界最速のインディアン」(ロジャー・ドナルドソン監督、ニュージーランド・米)
 「魂萌え!」(阪本順治監督、日本)
8月3日
 「善き人のためのソナタ」(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督、独)
 「それでもボクはやってない」(周防正行監督、日本)

【旧作DVD】
6月30日
 「ジャン・ルノワールDVD-BOX①」
 「木と市長と文化会館」(93、エリック・ロメール監督、フランス)
 「レネットとミラベルの4つの冒険」(88、エリック・ロメール監督、フランス)
7月27日
 「海軍特別年少兵」(72、今井正監督、日本)
7月28日
 「デカローグ Ⅰ」(88、クシシュトフ・キェシロフスキ監督、ポーランド)
 「ファントム」(22、F.W.ムルナウ監督、ドイツ)

 新作ではペドロ・アルモドバル監督、アキ・カウリスマキ監督、ケネス・ブラナー監督などBaragenso_1 の新作が並ぶ。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「殯の森」をはじめとした日本映画にも注目。
 新作DVDでは「ダーウィンの悪夢」「今宵、フィッツジェラルド劇場で」「ハッピー・フィート」「世界最速のインディアン」が注目作。8月にはいよいよ「それでもボクはやってない」が出る。
 旧作DVDはちょっとさびしい。キェシロフスキ監督の連作「デカローグ」がようやくDVDに。見逃していた人はこの機会にどうぞ。

2007年6月18日 (月)

「007 カジノ・ロワイヤル」を観ました

  ゴブリンただいま絶不調。昨日の日曜日に何とか「王の男」のレビューを書こうと試みたTrump_jw_1 が、ほとんど細かい内容を忘れていることに気づいて愕然とした。レビューを書くためにはもう一度借りてきて観るしかない。またまた延期です。

  何だかんだと気ぜわしくて全く精神的余裕がない。映画もほとんど見ていなかったが、金曜日にやっと「007 カジノ・ロワイヤル」を観た。それまでの「007」シリーズよりずっと出来がいいという評判でもあり、「レイヤー・ケーキ」(ダニエル・クレイグ主演)の出来が良かったこともあり、そして何よりも疲れている時でも眠らずに観られる映画ということで選んだしだい。結構期待して観たが、裏切られなかった。

  確かに面白い。実を言うとこのシリーズそれほど好きではない。高校生の頃に映画館で1本、テレビで数本観ただけ。何を観たのかもはっきり覚えていない。特にボンドがショーン・コネリーから変わって以降はほとんど観ていない。ロジャー・ムーア、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンなどは所詮代役にすぎない。ショーン・コネリーの時でさえさほど好きではなかったのだから、代役ではなおさら観る気がしない。だからこのシリーズを観るのは本当に久しぶりだった。

  冒頭のつかみ、追っかけのシーンからなかなかめまぐるしくてハラハラさせる展開。逃げる男は軽業師のように飛び、跳ね、走る。まるで「YAMAKASHI」のようだ(って、予告編しか観ていないけど)。ボンドはそこまで身軽ではないが、工夫を凝らして追いつかないまでも差を広げられずになんとか追跡する。

  その後飛行場で間一髪テロを防ぐエピソードをはさんで、いよいよカジノでのポーカー・ゲーム。国家予算1500万ドルを元手にするので監視役として財務省からヴェスパーという女性が送り込まれるという設定が面白い。ヴェスパー役のエヴァ・グリーンがなかなかいい(名前はエヴァー・グリーンをもじったのか?)。なまめかしいというよりは清楚なタイプ。このポーカー・シーンがなかなかスリリングだ。名作「スティング」や「シンシナティ・キッド」を思い出した。そしてラストはまた激しいアクションへ。

  ジェームズ・ボンドの最初の任務を描いているが、時代は9.11の話が出てくるので現代に設定されている。約50年前に始まったシリーズを現代に置き換え、また新しく始めようという狙いか。確かに新しい工夫がなされている。エスカレートする一方だったハイテク機器は出てこないし、ボンドがホテルで駐車係に間違えられる滑稽なシーンなども出てくる(その仕返しの仕方もミスター・ビーン流)。脚色に名手ポール・ハギスを迎えただけあってなかなか工夫が凝らされている。

  しかし所詮はタフガイ映画。「16ブロック」のような味わいは当然ないし、タフガイ映画としてみても「ダイ・ハード」より劣る。「ミニミニ大作戦」、「トレインスポッティング」、「レイヤー・ケーキ」などのイギリス映画らしいひねりやブラックな笑いも薄い。ダニエル・クレイグは好きな俳優で、この映画でも健闘している。しかし最後の決め台詞がどうも似合わない。やはりショーン・コネリーのイメージは簡単には崩せない。ただ、何本か作ってゆくうちにショーン・コネリーの域に達する、あるいはそれを超える可能性はある気がする。あまり期待せずにもう少し付き合ってみようか。

「007 カジノ・ロワイヤル」 ★★★★
 2006年 マーティン・キャンベル監督 イギリス・アメリカ・他

2007年6月17日 (日)

ゴブリン壁紙

 最近の僕のブログは写真ブログと化しています。もちろん写真は全くの素人です。デジカメもモードの切り替えなどはほとんどせず、標準設定のままで撮っています。せいぜいアングルやフレームを気にする程度です。それでもかなりの数の写真を撮っていますので、中にはお気に入りの写真も何枚かあります。今回はその中でも壁紙にぴったりの1枚を紹介します。サイズは壁紙サイズ(1024×768)にしてあります。自由にコピーして壁紙としてお使いください。それ以外の利用はご遠慮ください。

070611_4_3





別所温泉・花屋旅館横の坂道
白壁が木々以上に美しい。

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ゴブリンのHPと別館ブログ

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