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2007年5月13日 - 2007年5月19日

2007年5月19日 (土)

明日へのチケット

2004年 イギリス・イタリア 2006年10月公開
評価:★★★★☆
監督:エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァーティ、エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ
撮影:クリス・メンゲス、マームード・カラリ、ファビオ・オルミ
出演:カルロ・デッレ・ピアーネ、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
   シルヴァーナ・ドゥ・サンティス、フィリッポ・トロジャーノ
    マーティン・コムストン、ウィリアム・ルアン、ガリー・メイトランド
    ダニロ・ニグレッリ、カロリーナ・ベンベーニャ、マルタ・マンジウッカ
    クライディ・チョーライ、アイーシェ・ジューリチ、ロベルト・ノビーレ
    エウジニア・コンスタンチーニ

  列車は乗客の数だけ人生を運んでいる。そんなことを感じさせる映画だった。列車や駅T1 などの公共の場所は、またさまざまな人生が交錯する場所でもある。それぞれに憂いや悩みや喜び、そして悲しみを抱いた人々が行き交い、すれ違い、出会う。

  列車を舞台とした作品には、古くはイエジー・カワレロウィッチ監督の名作「夜行列車」(1959)があり、最近もオムニバス映画「チューブ・テイルズ」(1999)がある。アニメでは宮沢賢治の有名な原作をアニメ化した杉井ギサブロー監督「銀河鉄道の夜」が懐かしい。

  「チューブ・テイルズ」は多数の監督によるオムニバスだった。「明日へのチケット」はエルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチという3人の監督たちが3つのエピソードをそれぞれ担当したが、オムニバスのようにはっきりと分けるのではなく、切れ目なくつないで1本の映画にまとめるというユニークな作りになっている。駅ごとに何人もの人々が乗り降りする列車の特性をうまく利用している。

  3人の監督の中では、何といってもエルマンノ・オルミ監督が懐かしい。90年1月に「シネマスクエアとうきゅう」で観た「聖なる酔っぱらいの伝説」以来だから17年ぶりである。彼の代表作「木靴の樹」を岩波ホールで観たのはさらに遡って79年9月10日。あまりに長くて途中退屈したが、イタリア伝統のリアリズムで農民たちの生活を描いた雄渾なタッチの名作である。実はその前の76年から78年にかけては年間に一桁しか映画を観ていなかった。それぞれ大学4年生、大学院浪人、大学院の1年生に当たる年で忙しかったのである。しかし、いかに忙しかったとは言え、年間に一桁しか映画を観ていなかったとは今振り返ると信じられない。まあ、それはともかく、再び映画を意識的にもっと見ようと努力し始めたのは、79年に岩波ホールで「家族の肖像」、「木靴の樹」、「旅芸人の記録」を観たからである。この3本の傑作は僕の中に眠っていた映画への情熱に再び火を付けた。そういう意味でも「木靴の樹」は忘れがたい作品である。

  そしてアッバス・キアロスタミ。94年5月に上田映劇で観た「友だちのうちはどこ」と「そして人生はつづく」は衝撃的だった。初めてのイラン映画体験。特に「友だちのうちはどこ」の瑞々しい感性には新鮮な感動があった。以来「クローズアップ」、「桜桃の味」、「風が吹くまま」と観てきたがどれも素晴らしい。ここ数年イラン映画の一般公開が減っているのは残念でならない。中古DVDもとんでもない高値が付いている。こういう作品こそ廉価版を出してほしいのだが。

  ケン・ローチについては「麦の穂をゆらす風」のレビューも控えているし、これまでも2本レビューを書いてきたので特に触れない。さて、本題である「明日へのチケット」。エルマンノ・オルミが担当した最初のエピソードは老教授の淡い恋心を描いている。ウッディ・アレンに鬚をつけさせたようなカルロ・デッレ・ピアーネの、枯れているようでいて時にぽっと顔を赤らめるような表情がいい。「追憶の旅」(1983)というイタリア映画で1度観ている人だが、悲しいことに映画自体の記憶が全く残っていない。彼以上に鮮やかな印象を残すのはヴァレリア・ブルーニ・テデスキ。「ふたりの5つの別れ路」でも強い印象を残した人だが、ここでは短い出演ながらその美しさが際立っている。美人だがクローズアップにすると重たく感じる彼女の顔が、教授の心に重たくのしかかる彼女のイメージとうまく重なっている。ほとんどこれといった筋のないイメージの積み重ねで展開され、周りの人々の様子が中心の二人と同じくらいの比重で描かれている。

  教授はパソコンで彼女にメールを出そうとするが、知り合ったばかりの若い女性にどんな文章を書いたらいいのか分からず、さっぱり筆が進まない。最初の1行だけが書かれたパソコンの画面。集中できない教授は車内で起こる様々な出来事が気になる。パソコンの画面からさ迷い出る彼の意識の中に、落ち着かない車内の様子や先ほど別れたばかりの女性と過ごした短い時間の記憶、そして教授の少年時代の回想などが入り込む。その分中心の二人の印象が弱まるが、それが逆に見知らぬ人々どうしが寄り集まる列車の中という設定にうまく合っているとも言える。導入部分として考えれば悪くない。

  偶然同じ車両に乗り合わせた人たち、それぞれに生きてきた年月分の人生がある。「明日へのチケット」は短い3つのエピソードの中に、各中心人物たちの過去を巧みに織り込み、それぞれの人生の一端を垣間見させる。そういう作りになっている。

  二つ目のエピソードは一転して強烈な個性の人物に焦点を当てる。しっとりとした味わいの最初のエピソードに対して、こちらは不愉快ながら滑稽な味わいがある。でっぷりと太った堂々たる体躯の中年夫人と彼女に付き添う気の弱そうな青年フィリッポ。夫人の性格は傲慢で高圧的だ。青年を顎で使い何度もどなりつける。その様子から母と息子かと最初は思うが、フィリッポは兵役義務の一環として将軍の未亡人の世話をしていたのだった。2等車の切符で1等車の席に座る彼女のずうずうしい態度、自分の席と携帯電話を取られたと思った男性客が携帯電話を返してくれと言った時のぴしゃりとはねつけるような態度(男性客の方が座席を間違えていた)、はてはその座席の切符を持った客が現れても頑としてどかないと居座る姿勢に観ているこっちもあきれて腹が立ってくる。

  この傍若無人なほどのわがままぶりから彼女のそれまでの生活ぶりが想像されるというものだが、この2つ目のエピソードに挿入される過去はこの夫人の方ではなくフィリッポの方である。あまり夫人の近くにいたくない彼は(その気持はよ~く分かる)コンパルトメントから出て通路に立つ。通路の横のデッキに若い女の子がいた。声をかけてみるとその子は偶然フィリッポを知っていた。若かったころの記憶がよみがえってくる。何の屈託もなく遊んでいた子供時代。それに比べて自分は今何をやっているのか。この思いが彼の心の底にしだいに鬱積したのだろう、着替えを手伝っている際に夫人に散々罵倒されたフィリッポは、止める夫人の声を振り切ってコンパルトメントを飛び出す。夫人は追いかけるが見つからない。駅に着いて、たくさんの荷物を抱えてホームに呆然と座り込む夫人。あまりにも横暴な夫人の態度に辟易するが、フィリッポの思い切った行動にはほっと救われる。

  それでも夫人の強烈な毒素はしばらく嫌な苦みとして口に残っている。しかし3つ目のストーリーが動き出したとたんにこの苦みもかき消されてしまう。ケン・ローチが監督した最後のエピソードは3つのエピソードの中でも特に素晴らしい。スコットランドからサッカーの試合を見に来た3人の若者たちの1人が列車の切符を失くしてしまい、すったもんだの大騒ぎをするという話だ。まず3人のサッカー小僧たちがいい。「SWEET SIXTEEN」に出演したマーティン・コムストンとウィリアム・ルアンという悪ガキ2人に小太りで間抜けな感じのガリー・メイトランドを加えたお騒がせ3人組。ごちゃごちゃと騒ぎたてながら登場するところから、切符が無くなって上を下への大騒ぎを始めるあたりまで軽快に飛ばす。こんな時のために予備のお金をとっておいたのだが、なんと間抜けな太っちょがその金でイタリア製の靴を買ってしまっていたというあたりは爆笑ものである。互いに誰かを責め合い、一人が冷静になると別の一人が頭に血を上らせるという混乱状態。

  しかし、このエピソードの真価が発揮されるのはなくなった切符が発見されてからである。実は同じ車両に乗り合わせていた難民一家の息子が切符を盗んでいたのである。警察に知らせるという若者たちに難民一家の母親が泣いて訴える。その詳しい事情は書かないが、これが若者たちの混乱を一層大きくする。若者たちの意識に難民たちが経験してきた苛酷な「過去」が入り込んでくる。可哀そうだから切符を上げようと言い出すもの、馬鹿そんな話を真に受けるやつがあるかと怒鳴りだすもの、仰天している他の乗客をしり目に蜂の巣をつついたような大騒ぎ。そう、この場面こそが本当に素晴らしいのだ。一見サッカー以外なにも関心がなさそうなあんちゃんたちだが、チケットを難民の家族に渡すかどうか彼らは真剣に悩み、怒鳴り合った。結果は書かないが、結果以上に真剣に怒鳴り合った彼らの姿が感動的なのである。

  3つのエピソードを比べてみると、やはりケン・ローチのものが一番いい。ケン・ローチらしさがしっかり出ている。他の二つも決して悪くはないのだが、それぞれの持ち味がもう一つ出ていない気がする。元々は3部作にするつもりだったようだが、この形にした方が良かったのかどうかは比べようがないのでわからない。ただ、明確に3つのエピソードに分けるオムニバス形式にしなかったことは成功していると思う。

<付記>
  最初は「観ました」シリーズのつもりで書きだしたのですが、書いているうちにどんどん長くなってしまったのでレビューの体裁にしました。ただ、あくまで長くなった感想文という性格ですので本格的なレビューという書き方ではありません。いずれ何らかの形で書き足すことがあるかもしれません。
  「麦の穂をゆらす風」のレビューはまだまったく手をつけていません。近々、今度こそ本当に近々書き上げます。

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2007年5月17日 (木)

ゴブリンのこれがおすすめ 38

アイリッシュ/ケルト・ミュージック
■これがおすすめの80枚
アイリーン・アイヴァース「クロッシング・ザ・ブリッジ」
        〃     「イミグラント・ソウル」 Angel1l_1
アナム「ファースト・フッティング」
  〃 「リップタイド」
アルタン「ブルー・アイドル」
   〃 「ハーヴェスト・ムーン」
   〃 「ダンス・オブ・アルタン」
   〃 「ローカル・グラウンド」
   〃 「ランナウェイ・サンデイ」
ヴァン・モリソン「バック・オン・トップ」
    〃    「ヒーリング・ゲーム」
ヴァン・モリソン&リンダ・ゲイル・ルイス「ユー・ウィン・アゲイン」
エヴィア「誰のものでのない世界」
  〃 「未知なる心への旅」
エレノア・マックヴォイ「ホワッツ・フォロイング・ミー?」
カパケリ「トゥ・ザ・ムーン」
  〃 「ヴォイス・オブ・カパケリ」
  〃 「クロスウインズ」
  〃 「サイドウォーク」
カルロス・ヌニェス「アモーレス・リーブレス」
    〃      「スパニッシュ・ケルトの調べ」
カレンニグ「ウェールズの雪」
キーラ「ルナ・パーク」
 〃 「トーゲ・ゴ・ボーゲ」
クラナド「バンバ」
  〃 「アナム」  
ケルティック・ウーマン「ケルティック・ウーマン」  
ザ・コアーズ「トーク・オン・コーナーズ」
    〃  「遥かなる想い」  
シイラ・ウォルシュ「ホープ」  
シニード・オコナー「生きる力」
      〃    「ソー・ファー・ザ・ベスト」
      〃    「ユニヴァーサル・マザー」
シャロン・シャノン「ダイヤモンド・マウンテン・セッションズ」
      〃    「イーチ・リトル・シング」
ソーラス「ソーラス」
ダン・ア・ブラース「ケルトの遺産」
ザ・チーフタンズ「ロング・ブラック・ヴェイル」
    〃    「ティアーズ・オブ・ストーン」
    〃    「ウォーター・フロム・ザ・ウェル」
    〃    「ファイアー・イン・ザ・キッチン」
    〃    「ワイド・ワールド・オーバー」
    〃    「ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード」
デ・ダナン「アンセム」
  〃  「スター・スパングルド・モリー」
  〃  「ボールルーム」
  〃  「ザ・ミスト・カヴァード・マウンテン」
ドーナル・ラニー「クールフィン」
ドーナル・ラニー&ヒズ・フレンズ「ギャザリング」
ドロレス・ケーン「ザ・ベスト・オブ・ドロレス・ケーン」
    〃    「檻の中のライオン」
ナイトノイズ「ザ・パーティング・タイド」
   〃  「ホワイト・ホース・セッションズ」
   〃  「シャドウ・オブ・タイム」
フィオナ・ジョイス「ディス・エデン」
プランク・シティ「ブラック・アルバム」
ミジャドイロ「ガリシアの追憶」
ミッジ・ユーロ「ブリーズ」  
メアリー・ブラック「ルッキング・バック」
     〃    「サーカス」
     〃    「メアリー・ブラック・コレクティッド」
     〃    「スピーキング・ウィズ・ジ・エンジェル」
     〃    「ノー・フロンティアーズ」  
モイア・ブレナン「ミスティ・アイド・アドベンチャーズ」
    〃    「モイア」
     〃    「ウィスパー・トゥ・ザ・ワイルド・ウォーター」  
モーラ・オコンネル「ワンダリング・ホーム」
      〃     「ヘルプレス・ハート」
ルナサ「レッドウッド」  
ロリーナ・マッケニット「パラレル・ドリームス」
      〃      「マスク・アンド・ミラー」
       〃      「ザ・ヴィジット」  
VA「ウーマンズ・ハート 1、2」  
VA「ケルティック・ウーマン」  
VA「ケルティック・グレイス」  
VA「ケルティック・シスターズ」
VA「ケルティック・サークル」
VA「ケルティック・ストーム」
VA「ハー・インフィニット・ヴァラエティ」
VA「魂の大地」

■追加
ヴァン・モリソン「ダウン・ザ・ロード」
クラナド「ランドマーク」
シャロン・シャノン「チューンズ」
チェリッシュ・ザ・レイディーズ「スレッズ・オブ・タイム」
デフ・シェパード「シナジィ」
ニーヴ・パーソンズ「イン・マイ・プライム」
フォー・メン・アンド・ア・ドッグ「ロング・ローズ」
フランシス・ブラック「トーク・トゥ・ミー」
ベグリー&クーニー「アイルランドの絆」
ミジャドイロ「ガリシアの誘惑」
VA「ケルティック・タイド」

■おまけ(DVD)
VA「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」
ザ・チーフタンズ「ダウン・ジ・オールド・プランク・ロード」
     〃   「ウォーター・フロム・ザ・ウェル~我が心のアイルランド」

ブリティッシュ・トラッド
■おすすめの20枚
ザ・アルビオン・バンド「ザ・HTD・イヤーズ」
ケイト・ラスビー「テン」
ケイト・ラスビー&キャサリン・ロバーツ「ケイト&キャサリン」
サンディ・デニー「ザ・ベスト・オブ・サンディ・デニー」
サンディ・デニー&ストローブス「サンディ・デニー&ストローブス」
シャーリー・コリンズ「ノー・ローゼズ」
シャーリー&ドリー・コリンズ「ラヴ、デス&ザ・レディ」
ジョン・レンボーン「レディ&ユニコーン」
     〃     「トランスアトランティック・アンソロジー」
ストローブス「骨董品」
バート・ヤンシュ&ジョン・レンボーン「バート&ジョン」
フェアポート・コンヴェンション「リージ・アンド・リーフ」
        〃         「ザ・クロプレディ・ボックス」
        〃         「ハウス・フル」
フォザリンゲイ「フォザリンゲイ」
ブリジット・セント・ジョン「サンキュー・フォー・・・プラス」
ペンタングル「ソロモンズ・シール」
   〃    「クルエル・シスター」
   〃    「リフレクション」
   〃    「ファースト」
リチャード・トンプソン「ミラー・ブルー」
リンディスファーン「フォグ・オン・ザ・タイン」

■追加
サンディ・デニー「サンディー」

■こちらもおすすめ
VA「ザ・ベスト・オブ・ザ・ケンブリッジ・フォーク・フェスティバル」
VA「ザ・ハーヴェスト・オブ・ゴールド~イングリッシュ・フォーク・アルマナック」
VA「ベスト・オブ・スコティッシュ・ミュージック」

 「麦の穂をゆらす風」のレビューをなんとか近日中に書き上げようと思っています。その関連で、今回はアイルランド/ケルト・ミュージックの名盤を紹介します。ついでにブリティッシュ・トラッドの名盤も付け加えました。アイリッシュ・ミュージックはジャズと並ぶ僕の一番好きなジャンルです。ただなかなか田舎の中古店では手に入りにくいジャンルですので、好きな割にはそれほど多くは持っていません。乏しいコレクションの中から選んだものですので、網羅的であることを自負するものではありません。本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」のリンクに「Celtic Music Online」と「the Music Plant」というサイトを載せてありますので、さらに詳しく知りたい方はそちらも参照してください。

  アイリッシュ/ケルト・ミュージックとはどんな音楽なのか、どんなアーティストがいるのかをてっとり早く知るには、何種類も出ているコンピレーション盤をお勧めします。ここでも何枚か取り上げていますが(VAとなっているものがそうです)、ケルト音楽のコンピ盤はどれもレベルが高いので、目についたものを適当に買っても失敗は少ないと思います。特にお勧めは「おまけ」コーナーに入れておいた「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」のDVDです。CDも出ていますが、イーリアン・パイプなどアイルランド独特の楽器がどんな形で、どんなふうに演奏するのか分かるのでDVDがお勧めです。出演陣も豪華で、メアリー・ブラック、ポール・ブレイディ、ドーナル・ラニー、シャロン・シャノン、デ・ダナン、デイヴィ・スピレーンなど有名どころから、エルヴィス・コステロやエミルー・ハリスまで見られます。僕は音楽DVDはめったに買わないのですが、これとザ・チーフタンズのDVDは買って損はしません。

  ディスク・ガイドとしては「アイリッシュ&ケルティック・ミュージック」(音楽之友社)、「アイリッシュ・ミュージック・ディスク・ガイド」(音楽之友社)、「ブリティッシュ・フォーク&トラッド・ロック」(雑誌『ストレンジ・デイズ』2004年1月号増刊)などがあります。アマゾンか古本屋で探してください(この手のものは見つけしだい即買っておくべし)。

2007年5月15日 (火)

「狩人と犬、最後の旅」を観ました

  このところ映画を観る本数は減っているが、いい映画にあたっている。「狩人と犬、最後Morinoie1k の旅」もカナダの大自然とそこに生きる狩人と犬たちの生活をたっぷり堪能できた。映画の作りとしてはテレビのドキュメンタリー番組のような感じである。BBC製作の2時間番組を観ている感じだ。そういう意味では、「WATARIDORI」、「皇帝ペンギン」、「ディープ・ブルー」などの流れの延長線上にある作品だと言える。これらの作品との一番大きな違いは人間を中心に描いていることである。しかしその人間は自然の征服者としては描かれていない。人間も自然の中で生かされている一つの動物としてとらえ、動物、植物、自然が複雑に絡み合う関係性の中で描いている。人間と犬と野生の生き物と自然のドラマなのである。

  この映画の一番の魅力は自然の美しさである。舞台となったのはカナダのユーコン準州。この地域はひところ読みふけっていた野田知佑の『ユーコン漂流』や『ゆらゆらとユーコン』などでお馴染みだったが、やはり映像で見るとその美しさに圧倒される。冬は雪と氷の世界だが、雪が解けて緑にあふれる季節は木々の緑と水や空の青が絵のように美しい。そしてその雄大さ。映画館の大画面で見たらものすごい迫力だろう。日本では想像もできない楽園のような美しい自然。ああ、自分の表現力不足が情けなくなる。とにかく言葉では表せないほどの美しさだ。

  もちろん主題は自然の美しさではない。そこに住む猟師夫婦の生活が主題である。彼らは狩りと漁で生活している。魚はもっぱら食料として獲るのだが、動物は食料と毛皮を手に入れるのが目的である。毛皮が彼らの唯一の現金収入源なのである。仕留めた獲物は感謝して食べ、必要以上に生き物を殺すことはしない。夏は馬を使い、冬は犬ぞりを使う。自然の中で生活する狩人の生き方、考え方は日本のマタギによく似ている。ラストで主人公の狩人は自分が死んだら探さないでくれ、自分の死はほかの動物を生かすことになるのだからと語る。これは鳥葬の考え方に一部通じるものがある(輪廻思想には触れていないが)。自然の中で暮らす人間には同じような考えが生まれるのだろう。

  この映画にはさらに二つのサブテーマがある。一つは自然の破壊と自然の消失というテーマ。材木会社が木を切り倒しつくしているために罠を仕掛ける場所がどんどんなくなっていることが何度も言及されている。日本は伐採と植林を並行して行ってきた。これだけ国土が緑の樹木におおわれているのは営々と植林を繰り返してきたからである。切るのは一瞬だが木が育つには何十年もかかる。先を見据えて取り組まないと取り返しのつかないことになる。この映画はそういう警告を発している。フランス語の原題で「最後の狩人」と題されているのは、主人公が老いてきているという意味だけではなく、罠を仕掛け狩りをする場所自体が消失しつつあるという意味も込められているのだろう。しかし一方でただ放置しておくだけでは自然は荒れてゆくとも語られている。自然を生かすには適度に人間の手が入ることが必要だという主張が盛り込まれており、いろいろと考えさせられる作品である。 もう一つのサブテーマは、もともとレース犬として育てられたシベリアン・ハスキーのアパッシュがそり引き犬として成長してゆく過程である。北極圏に近いユーコン準州の冬は厳しい。ブリザードに襲われたり、氷が割れて川に落ちたり、そりが崖から落ちそうになったりと絶えず猟には危険が伴う。オオカミやグリズリーも警戒しなければならない。アパッシュはそれらの試練を乗り越えて、そり引き犬たちのリーダーとして成長してゆく。

  ドキュメンタリー・タッチなのでドラマに「天空の草原のナンサ」のような深みはない。また、「運命を分けたザイル」のようにハラハラさせ、グイグイと引き込んでゆく力もない。しかしそれでもこの映画には十分一見の価値がある。自然が壊されつつある(したがって自然の中での人間の暮らしもなくなりつつある)という警告は陳腐ではあるが、耳を傾けるべきである。とにかく良質のドキュメンタリーを楽しむ喜びをたっぷり味わえる。

「狩人と犬、最後の旅」★★★★
 2004年 ニコラス・ヴァニエ監督 フランス・カナダ・他

2007年5月14日 (月)

母たちの村

2004年 フランス・セネガル 2006年6月公開
評価:★★★★★
原題:Moolaade
監督・製作・脚本:ウスマン・センベーヌ
撮影:ドミニク・ジャンティ
音楽:ボンカナ・マイガ
美術・衣装:ジョゼフ・クポブリ
出演:ファトゥマタ・クリバリ、マイムナ・エレーヌ・ジャラ、サリマタ・トラオレ
    アミナタ・ダオ、ドミニク・T・ゼイダ、マー・コンパオレ

 この映画の直接の主題は2000年以上も続いてきたといわれる女性性器切除の風習でTr07ある。「お浄めの儀式」と言われ、不衛生な状態での施術のために何人も命を落とす者が出ているにもかかわらず続けられてきた。アフリカのある村に実の娘二人を女性性器切除のために亡くし、3人目も帝王切開でかろうじて産んだ女性がいた。シレという男の第2夫人コレ・アルド(ファトゥマタ・クリバリ)。彼女は一人娘アムサトゥ(サリマタ・トラオレ)をビラコロとして育てる決意をしていた。ビラコロとは女性性器切除を受けない女性のことである。「母たちの村」は女性性器切除をのがれて逃げてきた4人の少女たちがコレのもとに「保護」(モーラーデ)を求めてやってくるところから始まる。モーラーデとはアフリカの古い風習で、助けを求めに来た人間を保護することである。保護を求められた人間は、これを守らねば罰があたると信じられている。一旦モーラーデが宣言されれば本人が取りやめるまで周りの人々は保護されている人に手を出すことはできない。

  「お浄めの儀式」という言葉が暗示的だ。逆にいえば、女性は「汚れている」ということになる。アフリカは遅れているなどと笑えない。ついこの間まで日本でも「不浄な」女性は「神聖な」相撲の土俵に上がれなかった。「女性の処女性と貞節を守るため」などと様々な理由をつけても、結局女性性器切除の風習は男性優位の父権制的権力構造を維持するための手段にすぎない。果ては女性性器切除を「割礼」という宗教的儀式と結びつけ、「割礼は大昔から伝えられたイスラムの定め」であると権威づける。

  「母たちの村」が暴きだしたのは「支配の構造」である。ただ単に野蛮な風習が否定され、少しは先進国に近づいたなどと受け止めていたら、全くこの映画の本質を見落としていることになる。「女性性器切除」も単なる表向きの主題というわけではない。これはまさに女性を男性より劣った「汚れた」存在と貶め、女性自ら「支配の構造」の中に組入られるように作用する支配の装置なのである。「女性性器切除」は「支配の構造」の根幹をなすものなのだ。だからこそ「女性性器切除」を真っ向から否定するコレの反抗は村の権力構造そのものを揺るがしかねない大事件になったのである。コレの決意も生半可なものではなかった。「モーラーデを始めたわけだね。大変なことだよ」と言う第一夫人に、コレは「命がけさ」と答えている。

  いや、「支配の構造」もこの映画のすべてではない。「母たちの村」が優れた作品になったのは単に「支配の構造」を暴きだしただけではなく、自分たちの足かせとなっていた「女性性器切除」をはねつけてゆく女たちの戦いを肯定的に描き出しているからである。一人の女性から始まった女たちの戦いはやがて村を二分する大きな騒動にまでなり、「支配の構造」そのものを揺るがしていった。「母たちの村」が一般に社会派と言われる作品であるにもかかわらず、映画として決して重苦しくならないのは、不当な扱いに反逆してゆく女たちの力強さや明るさが作品全体に満ち溢れているからであり、その戦いが殺し合いを含む苛烈な闘争ではなく、生命を産み出す性としての女性の豊かさと力強さを前面に押し出しての戦いだったからである。女たちは武器ではなく歌で立ち向かった。ラストで歌われる女たちの歌は戦いの鬨の声であり、また高らかな勝利と歓喜の歌であった。「ワッサー、ワッサー」というコレの雄たけびがこれに重なってゆく。

 女性たちは素晴らしい。女性たちは生命を産む。女性たちに教育を捧げよう。だからこう言いたい。女の子が生まれたら、ぜひ教育を与えてください。立派な花嫁になるために。ぜひ学校にやりなさい。昔から言われてきたことがある。(リフ)でも割礼のことは書かれてはいない。(リフ)それは書かれていないのだ。

  「立派な花嫁」、この言葉の意味は映画が始まった時点と終わった時点では大きく異なっている。もはや何の疑問も抱かずに自ら進んで「割礼」を受ける、唯々諾々と夫に従うのが「立派な花嫁」ではなくなっている。教育を受け、知識を身につけていなければならない。何も知らないままでいてはいけない。無知のままで理不尽な「伝統」を受け入れてはいけない。この歌にはそういう女性たちの思いが込められている。そして何よりも女は生命を生み出す存在なのである。男を産むのもまた女なのだ。

Ftkgm001_3   コレもはじめから村の伝統を覆そうと考えていたわけではない。彼女は逃げてきた娘たちを叩こうとすらしていた。娘の「お浄め」こそ拒否していたが、コレも村のしきたり全般には従っていた。彼女はただ、彼女を頼って逃げてきた4人の娘たちをモーラーデで守りたかっただけだろう。映画は村のしきたりを丁寧に描き出してゆく。男の前では女はひざまずく。何とも大時代的で、まるで大奥でも見ているようだ。コレ自身もこのしきたりには従っている。村長の息子がフランス留学から村に帰って来た時など、女たちがかいがいしくスカーフのような布を地面に敷いている。その上をドクレ家の息子が背広姿で歩いてゆく。

  このシーンに支配の構造がよく表れている。花道を敷く女とそれを踏みつけて歩く村長の息子。額ずく女と踏みつける男。いやそれだけではない。権力と金を持った男だけが外国で知識を得ることを許されている。男も女もそのことに何の疑問も持っていない。掟とはそういうものである。そこには何ら合理的な理由づけはない。ただ理屈抜きで守るべきもの。掟は絶対的なもので、女たちが自ら服従しようとする意識を刷り込む装置となっている。知識は男だけが専有するものである。暴力はほとんど使わない。掟が機能している限り必要ないからだ。せいぜい鞭打ち程度である。この空気のような支配構造が男の権威、夫の権威を支えている。長老の一人が言った「夫は妻に対して絶対的な権力を持つ」という言葉はこの構造の上で成り立っている。これにもう一つの支配の道具「宗教」が重ねられて支配は貫徹する。

  村の長老たちが最も恐れたのは女たちが知恵をつけることだ。だからコレが頑強に反抗したとき、男たちは女たちからラジオを奪ったのである。ラジオは外の世界とつながっている。その意味でラジオは「知恵の箱」だ。「割礼は大昔から伝えられたイスラムの定めだぞ」という村の呪術師ケモーテクラの言葉をコレが論破したのも、ラジオで得た知識があったからである。「イスラムはあの儀式を求めていない。ラジオで指導者が言っていた。毎年何百万という女たちがメッカに行く。みんな割礼などしていない。」これに対して長老たちは何ら論理的な反駁を加えられない。ただ「アラーの冒涜者!」「コレ・アルド、お前は悪魔だ。まさに悪魔だ」と繰り返すばかり。そもそも合理的根拠などはじめから無いのだ。「あの女は狂ってる。」憐れなことに男どもにはそうとしか理解できないのだ。

  その点では女たちの方がよほど事情を理解している。「ラジオやテレビを禁じても意味がない。今は誰でもどこでも利用している。生活必需品のラジオやテレビをなくしたら、世界から取り残される。」村の二人の女の会話が強烈だ。「なぜ男どもはラジオを持っていくの?」「私らの心を閉じ込めるためさ。」「目に見えないものを閉じ込めるとはどういうこと?」「私らはみんな無知なんだよ。」自らの無知を理解することは知識に対する欲求の入り口である。ラジオを取り上げられた日の夜、女たちは集会を開く。集会では隠し持っていたラジオの音が流されていた。村の広場に集められ積み重ねられたラジオの山は、男たちの危機感の象徴なのである。

  後で触れるが、知識は男たちにとっても当然重要な役割を果たしている。男たちの間にも序列がある。男たちも否応なく村の長老を頂点とした支配構造の中に組み入れられているのである。コレの夫シレの兄はシレに対し、言うことをきかない妻を鞭打てと命ずる。ついに男たちは暴力にまで訴えてきた。見方を変えれば、そこまで彼らは追い詰められていたのである。シレはしぶしぶ妻を鞭うち、モーラーデをやめると皆の前で言わせようとする。「言わないで、がんばって、倒れないで。」女たちがコレを励ます。コレは耐え抜いた。女たちの団結の輪が広がってゆく。コレがモーラーデを始めた時、必ずしも第1夫人と第3夫人はコレの味方ではなかった。コレとの間には不協和音があった。しかし決してあきらめないコレを観て二人ともコレを支持する側に回る。

  コレの強さはどこから来るのか?逃げてきた4人の子供たち(ウミ、ジャトゥ、アワ、ナEarth1_2 フィ)をかくまった時、おどろおどろしい赤い服を着て頭に赤いハチマキのようなものを締め不思議な形の杖を持った割礼師たちと4人の子の母親たちが押し掛けてきた。ジャトゥの母親がコレに聞く。「なぜまた拒否するのか?」コレは次のように答えた。「確かに私は割礼を受けたが二度も縫った。子供を二人土に埋めた。アムサトゥの時は(腹の傷を示して)取り出すために女の医者がここまで切った。今度は子供たちが逃げてきたからかくまった。」コレは女性性器切除の風習がどんな結果を生むかを体で知っていた。彼女の腹に残るむごたらしい傷跡が実に雄弁だ。自らの手で子供を葬った悲しい記憶、もう二度とそんなことは繰り返したくない。誰にも繰り返させない。だから彼女は命を張ってモーラーデを死守した。いやそれだけではない。彼女自身が「割礼」を受けている。女性性器切除は手術の時の死亡率が高いだけではない。排泄、生理、分娩そして性交時と、その傷は一生女性を苦しめるのだ。夫とのセックスの時コレが指を噛んで必死で痛みに耐えている凄絶なシーンがある。女性性器切除は、女性を男性に従わせるために女性の体に埋め込ませた拷問道具に他ならない。コレはそれを体で知っていた。単なる西洋からの知識の受け売りではない。そこに彼女の強さがあると言っていいだろう。

  コレが夫の鞭打ちを受けた時、もう一つある重要な変化の兆しが現れる。見かねた「傭兵」がシレから鞭を奪ってやめさせたのだ。「傭兵」とは村で屋台の店をやっている男のあだ名である。昔国連平和軍に入っていたが、将校たちが給料をピンはねしていると文句を言ったために不名誉除隊にされ、5年の刑を受けた。それ以後「傭兵」と馬鹿にして呼ばれるようになったのである。外国にいた彼は外の世界を観ていた。彼がフランス帰りの村長の息子イブラヒマとフランス語で会話するシーンは象徴的だ。これら外の世界を観てきた男たちが最初に村の長老たちに反抗するのだ。「傭兵」はその日の晩どこかへ連れ去られ、殺されてしまった(ハゲタカが多数空を舞っているショットで暗示される)。しかし彼のまいた種はイブラヒマに、そしてコレの夫シレにまで広がった。「弟よ、お前は裏切り者だ」と怒鳴る兄に、シレは「コレはもう一人前だ。わしの女房に手をあげたら承知しないぞ」と言い放ち、席をけって立ち去る。これにイブラヒマが続いた。「父さん、結婚は僕がすることだ(彼の婚約者はコレの娘アムサトゥである)。父さん、僕を叩くのは簡単だ。でも暴君が威張る時代はもう終わった。僕はテレビを視るよ。」

  もう一人面白い立場の男がいる。長老たちに付き添う語り部のような男。彼はシェイクスピアの「リア王」に出てくる道化のような役割を果たしている。権力者に雇われてはいるが、多少の戯言は許される。彼が歌う「女性は王を産み落とす。貧乏人も産むが勇者も産む。女性に敬意を!勇敢な女性には男と同様にズボンをはいてもらおう」という歌は、冗談めかせているが、真実を語ってもいる。

  ほとんどの女はコレの側につき、男たちの中からも次々に反逆者が現れる。「ビラコロは臭いと言われてきたけど、体を洗わない男の方がよっぽど臭いよ。」アムサトゥも「私は一生ビラコロでいるわ」と宣言する。この流れはもう誰にも止められない。「この子を切らせない、誰も切らせない。」女たちは割礼師たちを取り囲み、ナイフを取り上げる。「今日は女の苦しみの終わりの日だ。みんな勇気を出すんだ。きっとよくなるさ。」「この土地の女よ帯を締めよ。あんた方は男どもより勇敢だ。」コレはすでに戦う姿勢を固めている。「ラジオを燃やした上に私に手をあげたら、このコレは村を燃やし血の海にしてやる。」女たちの反乱を見て、呆然と立ち尽くす赤い服の割礼師たち。女たちは歌い始める。「私らは産む、やつらは殺す。」「女性たちは素晴らしい、女性たちは生命を産む。」

  女たちが輝いている。原色の衣装がさらにその輝きを強調する。彼女たちが輝いているのは単に美しいからではない、不当な扱いと闘っているからなのだ。コレは顎の下を黒く塗っている。日本人の価値観から見ればむしろ醜い。それでも彼女は輝いている。彼女の精神が理不尽な掟などに縛られていないからだ。自由への意志が脈打っているからだ。美醜は顔や姿の美しさなどで測れない。彼女の存在そのものが輝いているのである。

  「ホテル・ルワンダ」、「ダーウィンの悪夢」、「ナイロビの蜂」、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」、「ブラッド・ダイヤモンド」、「ツォツィ」等々。一連のアフリカ関係の映画が西洋人の手と西洋人の資本で次々に作られてきた。その中にあって「母たちの村」がアフリカ人自らの手で作られたことは高く評価されるべきである。「アフリカ映画の父」ウスマン・センベーヌ監督の、「エミタイ」(71)、「チェド」(76)に続く日本公開第3作。文句なしの傑作である。

<追記>
 07年6月13日の新聞に、ウスマン・センベーヌ監督が同月9日ダカールの自宅で亡くなったとの記事が載った。享年84歳。心からご冥福をお祈りいたします。
 改めて彼の生前に「母たちの村」を日本で公開した岩波ホールと配給のアルシネテランを高く評価したい。しかしその一方で彼の作品がわずか3本しか日本で公開されていないことを残念に思わざるを得ない。これから彼の作品が1本でも多く公開されることを願う。

2007年5月13日 (日)

不思議な空間のゴブリン

  日曜日。晴天。昼食の後、陽気に誘われてミニ・ドライブに行きたくなった。BGMは小野リサの「コレソン~ザ・コレクション」。ドライブにはボサノバが合う。浅間サンライImg_0441 ンに出る。久しぶりにサンライン脇道探検に行こう。道の駅「雷電くるみの里」を越えた次の脇道あたりで左折。何となく見覚えがあるので前にも来た道のようだ。山の方に向かってしばらく進むと左側の奥の方に東屋が見える。気になるが左に曲がる道がないので帰りに寄ることにする。さらにしばらく行くと右側に入る細い砂利道が見えた。何となく面白そうなところに出る気配。迷わず車を乗り入れる。小さな橋を渡ったところで車を止める。橋の下にはコンクリートで囲った水路のようなものが走っている。水は流れていない。車を降りて道の先の方へ行ってみる。細い道が続いていて、あちこち枝道がある。車が1台やっと通れる幅だが、舗装されている。日曜日のせいかあたりに全く人気がない。畑もあちこちにあるから平日なら人もいるのだろうか。40分ほど歩Img_0446 きまわってみたが、車1台通らないし、人っ子一人見かけなかった。遠くの方からモーターのような音や人の声が風に運ばれて時々聞こえてくるだけだ。どこかの木にウグイスがとまっているのだろう、しきりに「ホーホケキョ」と鳴いてくる。街中ではまず聞かない鳴き声だ。

  道に迷わないよう気をつけながらも、あちこち脇道に入ってみる。廃車にされた車が林の中に放置されているのを何台も見かけた。写真を何枚か撮った。道の先も後ろもただ道があるだけ。人気はない。遠くの音とウグイスの鳴き声だけが聞こImg_0449 えるし~んとした不思議な空間。遠くの山がきれいだ。この数カ月何かと気忙しくて、ゆったりと過ごす時間がなかなかとれなかった。人気のない不思議空間と何物にも邪魔されず思いを巡らせる自由な時間。久々に味わう開放感だった。暑い日差しにうっすらと汗をかくが、そんなことは気にならない。

  作家はこんなところをぶらつきながら小説の着想を練るのだろうか。たとえばサスペンス小説。こんな人気のないところなら死体の遺棄場所にふさわしいかもしれない。主人公は 五分林太郎。「不思議空間探検家」を自称する写真家。今日もいつものように人気のない山の中を歩き回っていた。おや、遠くの丘の上にポツンと1軒だけ家が建っている。あんなところに誰が住んでいるのだろう。なぜあんなところに家を建てたのか・・・。

  突然頭の上から「ホーホケキョ」という鳴き声が降ってきてはっと我に返る。またいつものImg_0443空想癖が出ていた。気がつくと道の分岐点に立っていた。右に行けば下り道で、道のずっと先に千曲川沿いの緑の山々が見える。左に行くと登り道。細い道は右にカーブしていて、その先は木立ちに隠れて見えない。左に行くことにした。体の向きを変えようとした瞬間、眼の隅にそんなところにあるはずのないものがちらっと見えた。何だろう。林の下をびっしりと覆っている草の間から何かが突き出ている。少し近寄ってみImg_0447 るとそれが靴だとわかった。しかもその先には白っぽい足が見える。ぎょっとして2、3歩後じさった。とんでもないものを「発見」してしまった。パニックに陥り車に引き返そうとして数歩前に歩きだして、ふと足が止まった。何か変だ。早くこの場を離れたいという衝動を無理に抑えて、もう一度林の方を見る。靴はやはりそこにあった。消えていてほしいという期待はあっけなく打ち砕かれた。幻でも錯覚でもない。靴を履いた白い足が草の下から突き出ている。それを確認した林太郎は、不自然な印象の「原因」にも気づいた。二本の足があり得ない角度で並んでいるのだ・・・。

  失礼。この辺でやめておきましょう。まあ、こんなことを想像させる空間だったわけです。車に戻り、道を引き返す。しばらく道を下ってから、上がってくるときに気になった東屋の方Img_0456 へ行くために右折する。さっきの道よりさらに狭い道。林の中を少し進むと急に視界が開ける。目の前に田んぼが広がっている。棚田というほどではないが、緩やかな斜面に何枚も田が並んでいるので階段状になっている。車を停めて写真を撮った。右に曲がりまた坂を上る。正面に丸い建物が見える。何の建物が分らないが、フロントガラス越しにこれも写真に撮った。さらに細い道を上ると来る時に見えた東屋が現れた。道の右側にはため池もある。上田とその周辺は全国でも3本の指に入Img_0458るほど雨の少ないところである。したがっていたるところにため池がある。だからため池自 体は珍しくないが、ここはため池然としていない。小さな湖のような趣があった。眺めがいいので東屋の横に車を停め、写真を撮った。しばらく池を眺めてから帰ってきた。帰ってから地図で調べてみた。恐らく弁天池だと思われる。

 そんなに長いドライブではなかったが、いい場所を2か所も発見し た。これだから脇道探検は止められない。
Img_0460

「春にして君を想う」を観ました

  「麦の穂をゆらす風」以来12日ぶりに観た映画。「春にして君を想う」(1991)は5、6年前Tasogare2_1 に中古ビデオを買ったが、気になりつつも観ていなかった。今年アマゾンであれこれ検索していたときにDVDが出ていることを発見。嘘みたいに安かったので迷わず買った(43インチのプラズマテレビを買った時に思い切ってDVD1本に切り替えたので、今家にはビデオデッキがない)。「母たちの村」のレビューを書こうと思いながらなかなか筆が進まなかった昨日の夜中、映画でも観て気分転換しようと選んだのが「春にして君を想う」だった。山のように床に積まれたDVDの中からこれを選んだのは、おそらく何となく癒しを感じさせるタイトルとジャケット写真に引き付けられたからだろう。パソコンに向かう気力が萎え、体に疲れがたまっていた。気分が乗らなければ途中でやめて寝てしまってもよいという気持ちで観はじめたが、冒頭の哀愁に満ちた男たちの歌からどんどん引き込まれていった。

  「世界中の映画を観てみよう」をモットーとして掲げ、さまざまな国の映画を意識的に観てきたが、アイスランドの映画を観るのはこれが初めてだ。素晴らしい傑作だった。一種のロード・ムービーであることは知っていたが、老人二人を主人公にした映画だとは知らなかった。死期の近い老人が生まれ故郷を目指すというストーリーはアメリカ映画の傑作「バウンティフルへの旅」を思わせる。ほぼ共通したストーリーだが、「バウンティフルへの旅」には生への意欲を感じた。キャリーは死ぬ前に故郷のバウンティフルを観たいという積年の思いに駆られて家を抜け出し、一人故郷を目指す。彼女の積極的な行動は死の影を吹き払っていった。

  一方、「春にして君を想う」は死に向かっての旅だった。妻に先立たれたゲイリは突然娘の家を訪れる。しかし娘の家族に冷たくされ、老人ホームに入れられてしまう。そこで彼は同郷の、恐らくかつて思いを寄せあっていたと思われるステラと出会う。ゴミ捨て場の隣の墓地に埋められたくないというステラを連れてゲイリは施設を抜け出し、二人の故郷を目指す。「バウンティフルへの旅」のキャリーは息子夫婦と同居していたが、彼女も毎日壁に向かって独り言を繰り返す寂しい生活を送っていた。子供たちに疎まれる老人たちというテーマはどこの国にも共通してある。老いた両親が子供たちの家をたらいまわしにされる小津の「東京物語」も同じテーマを含んでいた。

  「バウンティフルへの旅」のキャリーが目指した故郷も、「春にして君を想う」の二人が目指した故郷も、今ではすっかり寂れていた。しかし同じ寂れていても、「春にして君を想う」はアイスランドという土地柄のせいでかなり違った印象を与える。北極圏に位置するこの国の風景は荒涼として寒々しいが、またこの世のものとは思えないほど美しくもある。記録映画の名作「アラン」に描かれたアラン島(アイルランドの西に位置する)は文字通りなにもなかった。ただ岩ばかりの世界。アイスランドはむしろ「ククーシュカ ラップランドの妖精」で描かれたラップランドに近い。だがアイスランドはそれよりももっと美しい。霧に包まれた寒々しい風景と楽園のようなお花畑が同居する。どこか天上の世界のような神秘的な雰囲気が漂っている。だからゲイリとステラの乗った車が突然消えてしまったり(パトカーに追われていた)、岩だらけの海岸で全裸の若い女性が手を振っていたり、果てはラストシーンでゲイリの前に天使(ブルーノ・ガンツが特別出演)が現れたりしても、違和感がないのだ。

  どこかファンタジーがなじむ風土。故郷への旅は死後の楽園への旅へといつの間にか変わってゆく。ゆっくりと天国への階段を上ってゆくような旅。寂れてはいるが、花が咲き乱れた故郷で二人の老人は長かった人生の旅を終える。しかし、ただ美しいばかりの世界ではない。途中で動かなくなった車を捨てて、歩いて旅を続けた二人は荒野で夜を明かす。夜空を見上げる二人。ステラ「あの月と昔見た月は同じかしら?」ゲイリ「わからん。」ステラ「どうして?」ゲイリ「あれから人間が月へ行った。きっと荒れてるよ。」そのあと二人は哀愁に満ちた賛美歌がどこからか流れてくるのを聞く。「輝く夜空の星の世界よ」で始まるあのメロディだ。美しさと無常感のようなものが混じり合っているのだ。ゲイリがたどり着いた最後の場所、天使が迎えに来た場所は廃墟のような建物だった。建物から出たゲイリの姿を砂埃が一瞬覆い隠し、再び視界が晴れた時にはゲイリの姿はなかった。映像詩という言葉がしっくりと当てはまる数少ない映画の一つである。

「春にして君を想う」 ★★★★☆
 1991年 フリドリック・トール・フリドリクソン監督 アイスランド・ドイツ・ノルウェー

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