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2007年1月7日 - 2007年1月13日

2007年1月13日 (土)

酔いどれ天使

1948年 日本 東宝作品 1948年4月公開  98分  Bottleg
評価:★★★★☆
監督:黒澤明
製作:本木荘二郎
脚本:植草圭之助、黒澤明
撮影:伊藤武夫
美術:松山崇、
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、山本礼三郎、木暮実千代
    中北千枝子、千石規子、 笠置シズ子、進藤英太郎
    清水将夫、殿山泰司、久我美子

  黒澤明というと時代劇を思い浮かべる人も多いだろうが、彼は「天国と地獄」(1963)、「生きる」(1952)、「野良犬」(1949)、「酔いどれ天使」(1948)、「素晴らしき日曜日」(1947)、「わが青春に悔なし」(1946)など現代劇にも傑作、佳作を多く残している。「酔いどれ天使」は続く「野良犬」と並ぶ初期の代表作である。作品の完成度という点では傑出しているとは言い難いが、この作品にはそれを越えてあまりある不思議な魅力がある。黒澤の全作品の中でも上位に入る傑作だと僕は思っている。同じ医者を描いた映画でも「赤ひげ」よりも魅力を感じる。その魅力とは一体何か。それを追求してみたい。

  「酔いどれ天使」は黒澤が三船敏郎を初めて起用した作品であり、世評では結核病みのやくざを演じた三船のギラギラした演技が高く評価されている。しかしこの映画で志村喬が果たしている重要な役割を見落としてはならない。志村喬にとっても「生きる」、「七人の侍」、「野良犬」などと並ぶ代表作だろう。彼の出演作は多数あるが、代表作といえばほとんど黒澤の作品が上位に並ぶことになる。笠智衆を活かしきれた監督が小津しかいなかったように、志村喬の持ち味を最大限に引き出しきれたのは黒澤明しかいなかったと言っても過言ではない。発表当時は三船のワイルドさが評判になって志村がかすんでいると見られたようだが、今観れば飄々としていながらも芯の所では一歩も譲らない堂々たる志村喬の存在感の前では、虚勢を張っていきがっている三船敏郎がしばしばチンピラに見えるほどだ。何度も三船に突き飛ばされながらも、少しもひるむことなく暴力には言葉で応酬し、医者の情熱で押し切る。まことに痛快である。酔いどれながら悠揚迫らない志村喬に比べると(「本日休診」の柳永二郎をさらにワイルドにした感じだ)、三船の演技は素人くさく、大仰でぎこちない。「椿三十朗」や「用心棒」の頃の落ち着きや貫禄はまだない。しかし彼には体から発する迫力がある。荒削りながら天性のスター性があった。少々の演技力不足はそれで押しのけてしまう。いや、演技力も新人としてはかなりのものである。懐の深い志村喬の演技と、「ダンディな闇市の顔」からげっそりとやせこけて髪振り乱した「転落した男」までを荒削りながらもぎらつくほどの勢いで演じた三船のぶつかり合い、これが優れた作品を生んだのである。

  この2人の対決が観客をぐんぐん引き込むのはその対立が何らかの抽象的観念の対立ではないからである。確かに主題は単純である。それを明確に示すのはやくざの松永(三船敏郎)とセーラー服の女の子(久我美子)の対比である。2人とも眞田(志村喬)の患者である。病気が恐いくせに無理に虚勢を張っている松永に対して、女の子は病気と正面から向き合い、積極的に治療を受けて病気と闘おうとしている。松永が自滅して死んでいった後、ラストですっかり病気が治った女の子と眞田が交わす会話がそのテーマをもっとも明確に示している。

  少女「理性さえしっかりしていれば結核なんてちっとも怖くないね。」
  眞田「結核ばかりじゃないよ。人間に一番必用な薬は理性なんだよ。」

  2人は腕を組んで闇市の人ごみに消えて行く。この対比は作品を単純化することはあっても、決して深めてはいない。なぜなら、積極的な価値を担っているのは少女だが、患者が医者の言うことに素直に従うことは当たり前のことであって、それ自体取り立てて積極的価値を持っているとは思えないからだ。

  医者の言うことにおとなしく従うことが「理性」だと言うのではあまりに単純すぎて説得力を持たない。しかし、やくざには「理性」がないと言っているのかといえば、そうでもない。眞田は松岡の中にわずかな「理性」を見て取っている。眞田は松永のことを次のように説明している。あいつは「肺がやられてるだけじゃないんだ。なんていうか芯がやられてやがるんだ。きざな面してそっくり返ってやがるが、胸の中は風が吹き抜けてるみてえに、寂しいにちげえねえ。絞め殺しきれねえ理性が時々うずくのさ。まだ凝り固まって悪にはなっちゃいねえんだ。」

  「絞め殺しきれねえ理性」は上の引用の「人間に一番必用な薬は理性なんだよ」とつな Silverglass3_1 がっているが、どう見ても松永には「理性」の光は見えない。医者にかかるという意味で言うなら確かにある。実際、ばつが悪いからグテングテンに酔っ払ってはいるが、レントゲン写真を持って医者のところに転がり込んでくる。しかし、それが単に病気を治したいという気持ちからなのか、それともやくざから足を洗いたいという気持ちを腹の底に持っているのかは少なくとも三船の荒っぽい演技からは判然としない。松永はムショ帰りの兄貴分岡田に自分の縄張りを奪われて憤慨するが、それでも大親分に話をすれば分かってもらえると信じているような男なのである。だからこの「理性」という主題がどこか抽象的で薄っぺらなお題目のように響いてしまうのだ。その点がこの作品の弱さである。

  これでもし眞田が真面目で情熱的な青年医師にでも設定されていたら、この作品は「静かなる決闘」のような失敗作になっていただろう。実際当初はそう設定されていたようだ。しかし途中でその設定を変えた。そこに黒澤の非凡さが窺える。「きまじめ天使」ではなく「酔いどれ天使」にしたこと、これがこの作品を成功させた最大の要因である。眞田は若い頃挫折を味わっている。学生の頃「女郎買いにふけって」ぐれてしまった。ずけずけ物を言うのは自分の性分で、それがなければ今頃はどっかの病院の院長ぐらいにはなっているさ。そういう思いがある。しかし彼はそれを気にはしていない。出世なんか早々に諦め、言いたいことをずけずけと言い続けてきた。それが彼の魅力なのである。すごんで見せる松永に投げ返す言葉の端々にそれが表れている。「結核患者の5人もいれば医者は左団扇だ。」医者は胸をたたいたり聴診器を当てたりして見せるが、「そんなものはおまじないだよ。医者は格好がつかないからあんなことをするだけさ。」一方、「てめえ命は惜しくねえか」と脅す岡田には「自分ばかり人殺し面するな。お前より俺のほうがよっぽど殺してるよ」とやり返す。

  眞田は松永の問題を彼個人の「理性」の問題としては捉えていなかった。「お前の肺(結核をわずらっている)は丁度この沼みてえなもんだな。お前の周りにゃ腐りきった、うじの湧いたばい菌みたいな奴らばかり集まってる。そいつらときれいさっぱり手を切らない限りお前はダメだな。」泥沼に浮かぶ人形のカットがやけに印象的だ。抽象的な倫理的枠組みにはめ込まれてはいるが、最も重要な眞田と松永の対立場面ではそんな枠組みをはみ出てリアルな問題が抉り出されている。三船のギラギラした凄みに押されるようにして松永の設定がどんどん書き換えられていったことは有名だが、シナリオを練り上げ人物をよりリアルに描こうとするうちに、人物が生き生きとして立ち現れ、結果的に倫理的枠組みを越え出てしまったのは眞田も同じなのだ。そしてその踏み越えた度合いは眞田の方がずっと大きい。おとなしく倫理的枠組みに収まっているような柄じゃない。単なる生真面目な作品に止まることなく、痛快、豪快という言葉が似合う作品になったのはそのためである。このように理解して初めて、この作品の根源的な魅力が理解できるのである。

  ストレートにヒューマンなテーマを語るのではなく、幾重にもひねりを利かせて描いている。眞田はしばしば自嘲する。「本当にありがたく思わなくちゃ罰が当たるぜ。こうして頼まれもしないのに赤の他人の体を心配してやっているんだ。我ながら時々考えるね。俺は天使みたいなもんだってな。」松永「汚ねえ天使だな。」メタンガスが噴出す不潔な沼のほとりに医院を構える男には松永のように見栄を張る必要はない。軽口が似合う男なのだ。「先生入りましたよ、上物が」と呼びかける居酒屋の主人(殿山泰司)には「お前のところの酒はアルコールよりも石油に近いんでな。・・・まあ、これなら死にはせんだろ」と返す。そこで働く女(千石規子)が松永に気があるそぶりを見せると、「あんな男に惚れるんじゃないよ。惚れるんだったら俺みたいな男に惚れな。見かけは汚いが、第一病気になっときただで済む」とからかう。

  眞田に医者としての情熱がないわけではない。いやむしろ人一倍あるといったほうが正確だろう。散々憎まれ口をたたきながらも、松永のことは気になって仕方がない。しかしそれをストレートには出さない。「お前なんかどうなろうと構わない。しかしな、俺はお前の肺に巣くっている結核菌に用がある。そいつを一匹でも殺したいんだ。」さらに彼の酒好きがうまく使われている。実は松永のことが心配なのだが、踏み倒された診察代を取りにきたという名目で眞田は松永に酒を飲ませろとたかる。高級ウィスキーをうまそうに飲む眞田。しかしすぐ松永と言い合いになって、怒った松永が何度もグラスを手で弾き飛ばすが、眞田はあわてず騒がずすぐ別のグラスを取ってくるところが可笑しい。最後はつまみ出されるが、酒を飲みに来たのか松永が心配で来たのか分からない描き方が実に秀逸である。病院で松永につかみかかられた時も、眞田は出てゆく松永に次々と物を投げつけるが、ふと手に取ったアルコールだけは投げようとしてやめる。その前には、治療用の純アルコールに急須からお湯を注いで酒代わりに飲む有名なシーンも挿入されている。こういう演出はさすがにうまい。

  「酔いどれ天使」は初期の作品だが、はっとさせる演出の冴えが随所に見られる。特にうまいのはギターの使い方。タイトルバックでメタンガスがぶくぶく湧き出す汚いため池が映し出され、それに美しいギターの調べがかぶさる。この清濁のコントラストは見事だ。ギWine ターを弾く男はいつも画面奥に映されるが、一度だけ大きく間近に映される。座ってギターを弾いている男の横に近づいてきた男の下半身が映る。出所した岡田(山本礼三郎)が始めて登場する有名な場面。この登場の仕方が不気味だ。冷酷なまでの凄みが体からほとばしっている。「貸してみな」と言って岡田はギターで1曲弾いてみせる。「兄貴、今のなんていう歌ですか?」「人殺しの歌だよ。」この一連のシーンは実に強烈だ。凄みのある岡田がギターを弾くギャップ、曲調とタイトルのギャップ。これも効果的だ。流れてきたギターの調べを離れた所で聴いていた岡田の妻美代(中北千枝子)は岡田が戻ってきたことを知る。姿は見えなくとも曲で分かるという演出が効いている。去り際に岡田が残したせりふも印象的だ。「変わらねえのはこの薄汚ねえ水溜りだけか。」

  メタンガスが噴出すこの沼のようなため池は闇市の真ん中に位置するだけではなく、映画の中心にも位置している。それは混乱し腐敗した人間社会の象徴である。このドブ池の周りに闇市があり、眞田の病院がある。闇市の活気と人いきれ、生活のにおいがあふれかえっている。飲み屋「ひさご」で働く千石規子のけだるい雰囲気(この映画の彼女は非常に魅力的だ)。ダンスホールの喧騒。それでいてどこか淀んだような空気。一歩間違えば「泥沼」にはまりかねない不安定な生活。「野良犬」や「酔いどれ天使」の魅力の一つは戦後の混乱期の世相やムードが実にリアルに再現れていることである。闇市はセットなのだが、やはりあの空気はあの時代でないと作り出せない。淀んだ沼はまた岡田や松永のようなやくざたちの象徴でもある。松永がため池の横にたたずむシーンが何度か映される。花を一輪持ってたたずむ松永の足元の池からはあぶくが湧いている。松永の足元にもう一つの影が近づく。岡田だ。二度足から登場するが、足元を映すだけで不気味さを感じさせるという演出はなかなかできるものではない。松永は突然ぺこぺこし、持っていた花を沼に投げ捨て岡田を居酒屋に案内する。沼に浮かぶ花のカットが映るが、このとき既に松永は沼に片足が浸かっていたのだ。

  岡田が戻ってきてから松永の運命は暗転する。岡田は松永が持っていたものを一つひとつ奪ってゆく。後半はむしろ松永の転落劇になって行く。松永がダンスホールで愛人の奈々江(木暮実千代)を紹介するシーン。踊っている奈々江を見つめる岡田の目つきが食い入るようで凄みがある。口をあんぐり開けて見つめている。松永は奈々江と踊ろうと立ち上がる。しかし奈々江がパートナーに選んだのは同じく立ち上がっていた岡田だった。一人残されて呆然とする松永。やがて奈々江は落ち目の松永を捨ててアパートを出てゆく。その後でもう一度松永が池の横にたたずむシーンが出てくる。今度は池のそばの斜めの柱に斜めに寄りかかっている。この斜めの構図が彼の転落を象徴している。後は坂道を転げ落ちるだけ。いつのもように通りがかりの店から花を一輪すっと抜き取ると店の主人から「30円払え」と言われる。「この縄張りは岡田さんのもんだ」と言われ愕然とする。いつの間にか縄張りも失っていた。そして有名な岡田と白いペンキまみれになって格闘するシーンを経て、岡田に腹を刺されて物干し台の上で息絶えるシーンへ。

  松永の中にある「絞め殺しきれねえ理性」に期待をかけたものの、結局やくざはやくざだった。松永は何度か本気で病気を治そうとしたが、彼は自分にまとわり付く社会的関係性をついに断ち切れなかった。彼の中では「理性」よりもやくざの義理の方が重かった。岡田に縄張りを取られても、松永はまだ大親分に頼み込めば何とかなるという甘い幻想があった。しかしその大親分もただ自分を利用しているだけだと知った時、彼は最後のよりどころを失った。彼は自滅の道に走る。松永が物干し台で死んだ直後に、眞田が松永に食べさせようと卵を買ってうれしそうに戻ってくる短いカットがさしはさまれる。松永の悲惨な末路は眞田の期待の甘さを暴露している。最後はさわやかな久我美子を登場させてきれいにまとめているが、この映画の魅力はそんなさわやかな枠組みに収まりきらない、はみ出た部分にある。

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2007年1月 9日 (火)

雪の女王

1957年 ソ連 65分
評価点:★★★☆
原題:Снежная королёва
監督:レフ・アタマーノフ 
原作:ハンス・クリスティアン・アンデルセン 『雪の女王』
脚本:ゲオルギー・グレブネル、レフ・アタマーノフ、ニコライ・エルドマン 
美術:レオニード・シワルツマン、アレクサンドル・ヴィノクーロフ

  滅多に観る機会のないソ連・ロシア・アニメだが、昨年一気に4枚の中古DVDを手に入Sdclbglsc04 れた。近所の中古店で見つけた「ユーリ・ノルシュテイン作品集」、年末にアマゾンで買った「雪の女王」、「蛙になったお姫さま」(54、ミハイル・ツェハノフスキー監督)、「森は生きている」(56、イワン・イワノフ=ワノ監督)。いずれもDVDが出ているとは知らなかった。

  この中から有名な「雪の女王」をまず観た。たまたま書店で見かけて買った『世界と日本のアニメーションベスト150』(2003年、ふゅーじょんぷろだくと刊)という本がある。ラピュタ阿佐ヶ谷主催で行なわれた「世界と日本のアニメーション ベストオブベスト」投票の結果をまとめた本である。「雪の女王」は17位にランクされている。世界に名高いソ連アニメの中でも名作とされる作品だが、正直今観るととても上位に入る作品とは思えない。当時としては驚異的作品だったのかもしれないが、今のアニメ技術は当時のレベルをはるかに超えている。今の水準からすれば見劣りするのは仕方がないが、50年も前にこれだけの水準のアニメを作っていたのかという驚きは確かにある。いつまでも神格化するのではなく、もっと実際的な見方をするべきだろう。「雪の女王」が宮崎駿や高畑勲にも影響を与えたことは有名だが、彼らもその時の段階にいつまでもとどまっていたわけではない。

  ただ、確かに影響関係は感じられる。「雪の女王」のヒロイン、ゲルダは「未来少年コナン」のヒロイン、ラナを連想させる。絵のタッチやもキャラクターも非常に似ている(ラナの方がずっと可愛いし魅力的だが)。ただし、どちらかというと受身的なラナに対してゲルダはより積極的。「未来少年コナン」ではコナンがラナの窮地を救うというパターンが多いが、「雪の女王」ではゲルダがカイを救う旅に出る。

  アンデルセンが原作なので主題は単純。「愛は氷の魔術さえ融かす」というもの。とにかく宮崎アニメでおなじみの行動的女性が主人公なのだが、ゲルダの行動力は性格的な強さからきているというよりは、むしろ愛に突き動かされているという感じの描き方である。強さよりもけなげさが強調されている。男の子はとかく強がりを言って無茶な行動をする、女の子は愛情にあふれているという設定は従来の概念の範疇から出てはいない。さらには、ファンタジーというよりも御伽噺なので、ゲルダが平気で氷の上を裸足で歩くなど、細かいところでリアリティーを無視している。「愛のためならどこまでも」という基本設定なので、ゲルダの前に立ちふさがる障害はそれほどリアルではない。彼女を阻むのは嵐などの自然現象で、人間や動物などはむしろ皆彼女の一途な思いに共感して援助してくれる。こういう設定が心地よいともいえるが、その反面いかにも単純で、不満を感じるところである。

  ラナに近いゲルダよりもむしろ旅の途中でゲルダを捕まえる山賊の娘の方が魅力的だ。宮崎駿の「もののけ姫」に出てくるサンにそっくりなキャラクター。男のような話方や振る舞い方をするが根は優しい。ディズニーアニメにはあまりなかったキャラクターではないか。ディズニーではみんなゲルダのようになってしまう。宮崎はそんなところにも惹かれたのかもしれない。他の登場人物、狂言回しの役をする小人、二羽のカラス、王子と王女などはむしろディズニー的。美術担当のレオニード・シワルツマンはソ連のアニメはディズニーから様々なアイデアやキャラクターを借りていると語っている。

  キャラクターの造形としてもっとも秀逸なのは言うまでもなく雪の女王。横長の大きな目と氷の冠が実に印象的だ。威圧感と冷酷さがよく表現されている。性格設定は「心の冷たい女王」という文字通りのもので単純だが、絵的な魅力は抜群である。雪の女王ほど印象的ではないが、北欧デンマークの作家アンデルセンらしさを感じて興味深かったのは女王の城に行く直前にラップランドを通ること。親切な女性たちに助けられるが、彼女たちは恐らく「ククーシュカ ラップランドの妖精」に出てきたサーミ人なのだろう。氷の女王の国に近いために、彼女たちが一番具体的な援助をするという設定が興味深い。

  絵や絵の動きに関して言えば、かなり動きは滑らかでリアルである。ディズニー的なPegasus1 オーバーアクションはない。女王が馬車に乗って走り回るシーンでは何度か回転するが、頭の部分などはごく自然に角度を変えている。立体的な絵ではないが模型などを作って回転する様子をよく観察したのだろう。絵そのものもスタジオ・ジブリやピクサーなどの精緻を極めた絵に比べるとさすがに見劣りするが、日本のテレビ・アニメよりはるかに丁寧に作りこまれている。特に街の景観や氷の輝きと透明感の表現、雲や風や吹雪の表現などは50年も前のものとは思えないほどリアルだ。ただ、主人公のゲルダとカイはいかにも子供向きのシンプルな絵という感じでやや物足りない。絵柄としては「アルプスの少女ハイジ」や「未来少年コナン」あたりの素朴な絵である。「風の谷のナウシカ」以降のリアルな人物像と比べると実に素朴だ。2人の顔色が土気色なのも気になる。まあ、その分氷の女王のリアルな絵がより引き立つようにはなっているが。

  「未来少年コナン」でも人物は単純化されているが、インダストリアやギガントは恐ろしくリアルだ。僕はそれほどアニメの技術面には詳しくないが、推測するに、セル画の場合背景は動かないからそのままかあるいはずらして使えるが、人物は動くので何度も描き直す必要があるため単純化しているのではないか。技術が進んで人物もかなりリアルに描きこめるようになったということだろう。

  有名な「イワンと仔馬」も最近アマゾンで見つけて入手した。2月には「ロシア・アニメーション傑作選集」Vol.1~4が発売予定である。川本喜八郎の作品集も1月に出る。アニメーションの分野でもDVD化の動きが急である。毎年アニメーションフェスティバルを開催している「ラピュタ・阿佐ヶ谷」の功績も最後に特記しておきたい。

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2007年1月 7日 (日)

2006年公開映画を振り返って

  まだ昨年劇場公開された主要な映画の半分ほどしか観ていない段階で1年間の概況を書くのは無茶な話だが、少なくとも大まかな傾向についてはある程度書けるだろう。自分の年間ベストテンは今年も『キネマ旬報』のベストテン号発売に合わせて2月上旬に載せようと考えている。

特徴1 日本映画の好調さ
  2006年の一番目立つ特徴は日本映画の好調ぶり。まず、全般的な傾向から確認しておくと、シネコンの急増で映画館数が増えた。スクリーン数は3000を越えたようだ。日本映画の公開本数が増え、前年の356本から380本超へ。洋画との比率で見ても前年までの洋画7邦画3に対し、2006年は6対4になった。興行収入も久々に日本映画が洋画を超えそうな勢いだった。
  作品的にも充実していた。以下に挙げる注目作を見ても前年よりぐっと質が上がっていPen_mado_1 ることがわかる。昨年は5点をつけた邦画は1本もなかったが、今年は既に4本ある。ただし、全体的にコメディ調の作品が多く、シリアスなものは相変わらず少ない。その意味では晩年戦争を追い続けた黒木和雄監督の遺作「紙屋悦子の青春」は貴重な作品だった。戦争を題材にしたものでは「男たちの大和/YAMATO」が大ヒットしたが、地味な良心作に佐々部清監督の「出口のない海」や池谷薫監督のドキュメンタリー「蟻の兵隊」もある。「かもめ食堂」の荻上直子、「ゆれる」の西川美和、「赤い鯨と白い蛇」のせんぼんよしこ、「酒井家のしあわせ」の呉美保など女性監督の進出が目立ち、「フラガール」の蒼井優をはじめ若い女優が大活躍。また後述するがドキュメンタリー映画に力作がそろったことも昨年の特長だった。
  劇映画やドキュメンタリー映画が好調だったために、例年話題を集めていたアニメが昨年はあまり目立たなかった。「ゲド戦記」は評判倒れだったようなので、「時をかける少女」や岩波ホールで公開された人形アニメ「死者の書」が主な成果ではないか。昨年は「白蛇伝」、「太陽の王子ホルスの大冒険」などを製作した東映アニメーションの創立50周年に当たった。「太陽の王子ホルスの大冒険」から高畑勲と宮崎駿という二人の優れた監督が育ち、今や世界レベルにまで日本アニメの質を高めた。しかしどんどん外注をしてアニメを作っている現状なので、いずれは日本に優れたアニメーターがいなくなる可能性もある。スタッフの待遇面もいまだ改善されたということを聞かない。韓国のように国が本腰を入れて支援しなければ遠からず危機的状況が訪れるだろう。
  全体として好調ではあったが、いいことずくめではない。ヒット作は「日本沈没」「ゲド戦記」「LIMIT OF LOVE 海猿」などの東宝作品に集中している。テレビとの提携が大きく影響している。作品の質ではなくマスコミの露出度で人気度が左右される現状には疑問を感じる。テーマ的にもシリアスなものが少なく、非常に偏っている。これには製作側の事情が大きく関与しているだろう。儲け一本の姿勢ではやはり健全な映画製作状況とは言えない。映画製作に対する国の援助という点でも改善されているわけではない。これまで何度も書いてきたが、映画を文化としてとらえるという見方がいまだ日本では定着していないことが最大の問題点なのである。映画は単なる娯楽で商品であるという捉え方が制作会社や国の支援姿勢に露骨に表れている。
  では、そのような状況下でなぜ日本映画がこれほどの活況を呈しているのか。これを解明するには日本での映画製作状況だけではなく、監督や技術スタッフそして俳優たちが現在どのように養成されているのかを調べてみる必用がある。国立の映画大学もなく、かつての映画会社による徒弟制度のような養成システムがほぼ解体された中で、彼らはどこで映画製作を学びどのように製作の機会を得ているのか、これを調べてみたいがなかなかその余裕がない。そういう関心で日本映画を論じた研究が進んで欲しいものだ。

「THE有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)
「かもめ食堂」(荻上直子監督)
「フラガール」(李相日監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)
「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)
「ゆれる」(西川美和監督)
「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)
「時をかける少女」(細田守監督、アニメ)
「武士の一分」(山田洋次監督)
「長い散歩」(奥田瑛二監督)
「手紙」(生野慈朗監督)
「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督)

特徴2 アメリカ大作映画は低調 9.11後を意識した映画が続出
  ここ数年のアメリカ映画の一般的傾向については「アメリカ、家族のいる風景」のレビューである程度まとめてあるので、まずはそちらを参照しTobira_hane0_bl ていただきたい。とにかくハリウッド製大作映画が振るわなかった。05年度には興行収入が10億円を越えた洋画が39本もあったのに対し、06年度はわずか14本程度。大ヒット作はいずれも「ハリポタ」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「ミッション・インポッシブル」などのシリーズ物ばかり。一方で主に低予算だが9.11後を反映した映画が噴出した。ボブ・ディランのドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」のタイトル通り、家族が崩壊し、社会における自分の位置を見失い、方向性を見失った人々を描く映画、アメリカの政治姿勢を正面から批判する映画、タブーに挑戦した映画。文字通り一気に噴出した感じである。もはや英雄が英雄として描きえなくなってきた。
  この傾向は今年も続くのではないか。ハリウッド大作の巻き返しもあるかもしれないが、その場合でもかつてのように娯楽に専念するのではなく、何らかの社会性を持った作品が増えるだろう。

「クラッシュ」(ポール・ハギス監督)  
「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督)
「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督、南ア・米・英・伊)
「アメリカ、家族のいる風景」(ヴィム・ヴェンダース監督)
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(トミー・リー・ジョーンズ監督)
「グッドナイト&グッドラック」(ジョージ・クルーニー監督、英米仏日)
「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス監督、英独)
「ユナイテッド93」(06、ポール・グリーングラス監督)
「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督)
「Vフォー・ヴェンデッタ」(ジェイムズ・マクティーグ監督、米独)
「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド監督)
「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)
「ブロークバック・マウンテン」(アン・リー監督)
「カポーティ」(ベネット・ミラー監督)
「サンキュー・スモーキング」(ジェイソン・ライトマン監督)
「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督)
「ダ・ヴィンチ・コード」(ロン・ハワード監督)
「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」(ジョン・マッデン監督)
「リトル・ミス・サンシャイン」(ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス監督)

特徴3 記録映画に力作がそろった
  ついこの間までは記録映画というと真っ先にマイケル・ムーア監督を思い浮かべたものだが、昨年はだいぶ事情が変わった。山形ドキュメンタリー映画際や「ポレポレ東中野」の果たした役割が大きいだろうが、ドキュメンタリー映画が公開される機会が増え、一定のファン層も生まれてきたようだ。ドキュメンタリーは映画の原点。初めてキャメラを手にした人たちが最初にやるのは現実を写し取ること。ほとんどの国の初期映画史はドキュメンタリー映画が重要な役割を果たしている。今のような不安定な社会では現実が想像をしばしば超えてしまう。9.11の映像がそれを雄弁に示している。
  これを機会にドキュメンタリーが上映される機会がさらに増え、過去の名作も含めてDVD化が進むことを切に願う。

「蟻の兵隊」(05、池谷薫監督、日本)
「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督、日本)
「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(佐藤真監督、日本)
「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督、日本)
「ガーダ パレスチナの詩」(古居みずえ監督、日本)
「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
「スティーヴィー」(スティーヴ・ジェイムス監督、アメリカ)
「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督、オーストリア・ベルギー・仏)

特徴4 韓国映画勢い止まらず
  いつのまにかレンタル店の棚一面どころか壁一面を占めるようなった韓国映画やTVドラマ。06年もその勢いは続いた。3月にはシネマート六本木で「韓流シネマフェスティバル2006」も開催された。相変わらず恋愛物が圧倒的に多い。あまりに多すぎてどれを観ていいのか迷うほどだ。しかし話題になった作品はさすがに評価が高い。現時点では未見のものが多いが、楽しみな作品ばかりだ。

「グエムル 漢江の怪物」(ポン・ジュノ監督)
「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督)
「トンマッコルへようこそ」(パク・クァンヒョン監督)
「ファミリー」(イ・ジョンチョル監督)
「うつせみ」(キム・ギドク)

特徴5 その他の国々、国別の特徴
・中国・台湾映画久々に充実、アジア映画の紹介進む
  このところ公開本数が落ち込んでいた中国映画がやや持ち直した。中でも「ココシリ」は力作。評価が分かれているが「胡同(フートン)のひまわり」も優れた作品だと思った。ただArtharikoinu01250w それ以外はもう一つ。もっと優れた作品がたくさんあるはずだ。韓国映画ばかりではなく中国映画もどんどん輸入して欲しい。
  ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン以降やや落ち込んでいた台湾映画もやや上向きになってきた。9月にはアン・リー監督の初期三部作もDVD化された。
  中国・韓国・台湾を除くアジア映画はまだまだ一般の観客の眼に触れる機会は少ない。主に上映される機会は「東京国際映画祭」や「東京フィルメックス」などである。東京国際映画祭では特集上映されたマレーシア映画が注目された。しかし映画祭上映作品はその一部しか劇場公開されないし、当然DVD化されるものも少ない。大都市に住むものしか観る機会がないという状況は何とか改善されないものか。

「ウォ・アイ・ニー」(チャン・ユアン監督)
「玲玲(リンリン)の電影日記」(シャオ・チアン監督、中国)
「ココシリ」(ルー・チューアン監督、香港・中国)
「胡同(フートン)のひまわり」(チャン・ヤン監督、中国)
「緑茶」(チャン・ユアン監督、中国)
「楽日」(ツァイ・ミンリャン監督、台湾)
「夢遊ハワイ」(シュー・フーチュン監督、台湾)
「深海」(05、チェン・ウェンタン監督、台湾)

・イギリス・フランス映画は好調
  イギリスとフランス映画はまだほとんど観ていない。本数的にはまずまず。内容的にもケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」をはじめ期待できそうだ。単館ロードショーに回ることが多いので目立たないが、この2国の映画はこのところ充実している。

「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク監督)
「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ・仏・伊)
「プルートで朝食を」(ニール・ジョーダン監督、アイルランド・英)
「レイヤー・ケーキ」(マシュー・ボーン監督、イギリス)
「マッチポイント」(ウディ・アレン監督、イギリス)
「キンキー・ブーツ」(ジュリアン・ジャロルド監督、英米)
「麦の穂をゆらす風」(ケン・ローチ監督、アイルランド・英、他)
「ナニー・マクフィーの魔法のステッキ」(カーク・ジョーンズ監督、英米仏)  
「ローズ・イン・タイドランド」(テリー・ギリアム監督、カナダ・イギリス)
「愛より強い旅」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
「親密すぎるうちあけ話」(パトリス・ルコント監督、仏)
「狩人と犬、最後の旅」(04、ニコラス・バニエ監督、仏・他)
「薬指の標本」(ディアーヌ・ベルトラン監督、仏・独・英)
「あるいは裏切りという名の犬」(オリビエ・マルシャル監督、仏)
「オーロラ」(ニルス・タベルニエ監督、フランス)
「キングス&クイーン」(アルノー・デブレシャン監督、仏)
「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督、フランス)
「合唱ができるまで」(マリー=クロード・トレユ監督、フランス)

・スペイン、ドイツ映画
  ここ数年傑作をいくつも送り出してきた両国だが、昨年の公開本数は少なかった。観たのはまだ「白バラの祈り」だけ。平凡な出来だと思ったが高く評価する人もいる。「戦場のアリア」は話題になった作品。出来もよさそうだ。スペイン映画で目に付いたのは1本だけ。さびしい限りだが、数々の傑作を生み出してきた名匠カルロス・サウラ監督作品なので見逃す手はない。

「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督、スペイン・フランス)
「白バラの祈り――ゾフィ・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、独)  
「戦場のアリア」(クリスチャン・カリオン監督、仏独他)
「太陽に恋して」(ファティ・アキン監督、独)

・その他の国々の映画
  ロシアの「ククーシュカ」と「太陽」、アフリカの「母たちの村」、3人の有名監督のオムニバス「明日へのチケット」、ベルイマンが久々にメガホンを取った「サラバンド」など、話題作が結構ある。イラン映画がひところほど公開されなくなったのは残念。05年に「亀も空を飛ぶ」(未見)が公開され高い評価を受けたが、ここ数年はほとんど「福岡アジア映画祭」や「東京フィルメックス」で上映されるにとどまっている感じだ。かつての映画大国イタリアも低調が続く。北欧、東欧、南米もいまひとつぱっとしない。ただ、まだ観ていない作品が多いので、意外な傑作があるかもしれない。

「ククーシュカ ラップランドの妖精」(アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
「太陽」(05、アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
「ファーザー、サン」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、ロシア他)
「美しき運命の傷痕」(ダニス・タノビッチ監督、伊仏ベルギー)
「サラバンド」(イングマル・ベルイマン監督、スウェーデン、他)
「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)
「愛より強く」(ファティ・アキン監督、独・トルコ)
「隠された記憶」(ミヒャエル・ハネケ監督、オーストリア他)
「クリムト」(ラウル・ルイス監督、オーストリア、他)
「明日へのチケット」(E.オルミ、K.ローチ、A.キアロスタミ監督、伊・英)
「13歳の夏に僕は生まれた」(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督、伊・仏・英)
「人生は、奇跡の詩」(ロベルト・ベニーニ監督、イタリア)
「夜よ、こんにちは」(マルコ・ベロッキオ監督、イタリア)
「トリノ、24時からの恋人たち」(ダビデ・フェラーリオ監督、イタリア)
「ニキフォル」(クシシュトフ・クラウゼ監督、ポーランド)
「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督、ハンガリー、英)
「母たちの村」(ウスマン・センベーヌ監督、フランス・セネガル)
「僕と未来とブエノスアイレス」(ダニエル・プルマン監督、アルゼンチン)
「ダック・シーズン」(フェルナンド・エインビッケ監督、メキシコ)
「カクタス・ジャック」(アレファンドロ・ロサーノ監督、メキシコ)

特徴6 旧作のDVD化が急速に進んだ
  7月にフィルムセンターで「ロシア・ソビエト映画祭」、8月にアテネ・フランセで「アルメニアBarun_mizu_03 映画祭」が開催された。こういった地道な特集は80年代ごろから盛んになった。その意義は大きい。ただ、こういった局地的開催ではごく一部の人にしか観る機会がない。何度も言うようだが、広くいきわたるにはDVD化が望まれる。地方の小都市に住むものにとってはそれが唯一の接点なのである。アメリカ映画の同じ作品が装いを変えて何度も繰り返し発売されているのに、こういう地味な作品は発売の機会さえ与えられていない。それでは存在しないも同じだ。何とかして欲しいものだ。正直、怒りすら感じる。
  とはいえ、2006年は旧作のDVD化が一気に進んだ年である。待ち望んでいた作品がだいぶDVDになった。個人的には、「芙蓉鎮」「家族の肖像」「ドン・キホーテ」(57、グリゴーリー・コージンツェフ監督)「拝啓天皇陛下様」「愛妻物語」「揺れる大地」「ムッソリーニとお茶を」「ゲット・オン・ザ・バス」などがDVDで手に入るようになったのがうれしい。最大の話題は何といっても溝口健二のBOXセット。ほかにルビッチやブニュエルもほとんど手に入るようになった。国別では特に日本映画とソ連映画のDVD化が進んだ。喜ばしい限りである。
  次世代DVDもいよいよ実用化されたが、どこまで根付くかは今のところ未知数。DVD-BOXが1枚になって出るようならそういうものだけ買ってもいいとは思っている。いずれにせよ自分としては当分の間今のDVDで行くつもりだ。

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