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2007年4月15日 - 2007年4月21日

2007年4月19日 (木)

それでもボクはやってない

2007年 日本 2007年1月公開
評価:★★★★★
監督:周防正行
脚本:周防正行
撮影:栢野直樹
美術:部谷京子
出演:加瀬亮、瀬戸朝香、役所広司、山本耕史、竹中直人、田口浩正
    徳井優、鈴木蘭々、小日向文世、もたいまさこ、光石研
    大森南朋、清水美砂、大和田伸也、尾美としのり、高橋長英

Sky_window_2  事実そのものが説得力を持つ映画である。昨今は大概のことは何かで見たり聞いたりしているので、「ええっ!そうなのか!」と驚くことはそれほどない。姉歯建築士など、いろんな業界の暗部を知って驚きはするが、この映画ほどの衝撃はない。なぜならどこでもそんなものさという気持ちがあるからだ。しかしこの映画の場合は文字通り「正義」が必要な場所でその正義が全く何の意味もなさないことがはっきりと描かれるから衝撃的なのである。裁判制度はまさに日本人の盲点だった。「そんな!めちゃくちゃじゃないか。一体どうなってるんだ?」という思いがこれほど湧き上がって来る映画も少ない。そういう意味で貴重であり、久々に現われた社会派の傑作として長く記憶にとどまることになるだろう。

  そこにこの映画のもう一つの効用がある。色々なブログを覗いてみて気づくが、社会派という言葉が珍しく肯定的に使われている。「社会派」というとまるで偏った映画で、押し付けがましくやたらと小難しい映画と思われていた印象がある。それをかなり払拭したという意味でも大きな意味を持つ作品である。徹底したリアリズムがいかに強烈な衝撃を生み出すか、それを実際に、しかも見事にやって見せた作品である。ただ知らない世界を描いて見せるなら花輪和一の「刑務所の中」(青林工芸舎)のような作品もある(映画「刑務所の中」の原作)。まさに「へ~」連発の世界。しかし「それでもボクはやってない」の世界は「へ~」だけではなく、「えっ、まさかそんな」の連発なのである。驚きばかりか、怒りや恐怖がわきあがってくる。そこが強烈なのだ。

  かつて日本にも山本薩夫と今井正という社会派の巨匠がおり、社会派の作品は数多く作られていた。その後その系統は先細りになっていた。わずかに山田洋次と晩年の黒木和雄がその流れを引き継いでいたに過ぎない。冤罪事件を扱ったものとしては今井正監督の「真昼の暗黒」(1956)、山本薩夫監督の「松川事件」(1961)や「証人の椅子」(1965)などが知られる。外国映画ではジュリアーノ・モンタルド監督の「死刑台のメロディ」(1970)が有名。有名なサッコとヴァンゼッティ事件を映画化したもの。高校生の時に観たがこれも強い衝撃を受けた。ジョーン・バエズの歌った主題歌は今でも耳に残っている。スペイン映画にはピラール・ミロー監督の「クエンカ事件」(1979)がある。これも実際にあった事件を描いたもので、全編これ拷問シーンばかりといった印象の映画である。最後に死んだはずの男がひょっこり現われて冤罪だったことが分かる。この映画は当時スペインで空前の大ヒットとなったが、そのことはフランコ独裁の下で人々がいかに苦しめられていたかを物語っている。

  スタンリー・クレイマー監督の「風の遺産」と「ニュールンベルグ裁判」、ビリー・ワイルダー監督の「情婦」、シドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」、オットー・プレミンジャー監督の「軍法会議」と「或る殺人」など、これまで数多くの裁判映画が作られてきた。謎解きのサスペンス、いくつものどんでん返しが重なる予想外の展開、息詰まるような緊張感、丁々発止の演技合戦などが盛り込めるので、俳優にとっても脚本家にとっても監督にとっても思いっきり力量が発揮できるジャンルなのである。しかし、「それでもボクはやってない」は日本における裁判のあり方それ自体をテーマにしているという点でユニークである。被告席に立っているのは加瀬亮ではなく、日本の裁判制度なのだ。

  法は誰のためにあるのか?この映画はそう問いかけている。この映画の主張は極めてSdlamp02_1 単純であり、明快である。「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ。」この当然の前提が今の日本の裁判制度の下では崩れている、そう言っているのである。有罪が確定するまではあくまで「容疑者」であり「犯人」ではない。理屈では誰でも理解できるが、もう長い間テレビの報道はこの原則を踏みにじってきている。名前が挙がった時から既に犯人扱いである。オウムのサリン事件で冤罪を着せられたKさんを思い起こせばいい。しかしそれとても所詮は他人事だった。報道側も視聴者も時間がたてばやがて忘れてしまう。しかし、痴漢冤罪事件はいつ何時自分に降りかかってくるかも知れない。だから他人事ではない。観ていて背筋に恐怖が走るのは誰にでも置き換え可能な事件だからだ。かつてのような歴史的大事件ではなく、「身近な」痴漢冤罪事件に目をつけたことはその意味でまさに慧眼だった。

  自分もいつ被告の立場に置かれるかわからない。観ていてそういう気持ちにさせられるが、まな板に載せられているのは裁判制度だけではない。今の報道は「有罪が確定するまでは無罪と推定される」という立場に立っているのか、テレビの報道を観て自分は無批判的にそれを受け入れていないか。この映画は同時にそのことも問いかけている。容易に被害者になりうる社会は容易に加害者になりうる社会でもある。たとえ無実が証明されても、一旦拘留された者を会社が首にしたり、アパートから追い出したりしていないか。今の裁判制度は、自分が被害者にならないためにも、また自分が加害者にならないためにも、見直しが必要なのである。 法は誰のためにあるのか?多くの人は、法は国民を守るためにあると答えるだろう。だが、それは幻想だ。法は常に支配者の都合のいいように作られてきたのである。トレヴェニアンの「ワイオミングの惨劇」(新潮文庫)に次のような一節がある。 

 「盗むなら、でっかく盗め。子供に食わそうとパンを盗んだやつは鎖をつけられ、大きな岩を砕かせられる。しかし、でっかく盗んだら――ほんとにでっかくだぞ――そいつは称賛され、真似までされる。ロックフェラーしかり、モルガンしかり、カーネギーしかり。もちろんそういうやつらは法律を破らない。法律をつくるんだ。“企業”とか“大型融資”とか名前をくっつけて、盗みを合法的にするためにな。だから、盗みや悪党を志すならでっかく考えることだ。そうすれば一目置いてもらえるよ」(254)

  「やつらは法律を破らない。法律をつくるんだ。」国民の基本的権利は憲法によって保障されているが、われわれが絶えず意識していなければ気づかないうちに書き換えられてしまう。われわれは国の制度にあまりに無頓着でなかったか?難しいことは偉い人に任せておけばいい。そういう意識が隙を生む。大岡裁きや水戸黄門の裁きに委ねてしまっている。水戸黄門の印籠が象徴的だが、彼は権力を持ち権力を振りかざすことで事件を解決している。そういう考え方に慣れてしまってはいないか?仮に水戸黄門に優れた人格があったとしても、すべての裁判官がそうだといえるのか?個々の検事や判事や弁護士は大きなシステムの中の歯車に過ぎない。システム自体がゆがんでいる時に個々の人間の人格がどれだけの効力を発揮できるのか?むしろその人格すらも歪められてはいないか?

  この映画では検事の方が裁判官よりも力を持っていると示唆されている。検事の背後には国家権力がある。無罪を宣告することは警察の主張に誤りがあると判断を下すことである。それはひいては国家権力に楯突くことになる。無罪を連発する判事は裁判の途中でもあっけなく左遷され、それを恐れる判事たちは頭から被告を有罪だと決め付けて裁判に臨むことになる。弁護士も、裁判に訴えたところで99.9%は負けるのだから、たとえ無実でも「罪」を認めてしまったほうが楽だと勧める。そんな仕組みになってしまっている。もがけばもがくほど人権を奪われてゆく。

  映画はこの恐怖を細部にわたる正確なリアリティを積み重ねることで描き出してゆく。家族との面会場面や取調室の様子などはテレビドラマや映画などでよく見かける。しかしそこで描かれていない世界にこそ真の暗闇があった。被害者の言葉を鵜呑みにする駅員、ろくに証拠も集めないずさんな捜査、端からやったに違いないと決め付けている取調官や検察庁の係員、二人目の裁判官も同じだ。「推定無罪」ならぬ「推定有罪」がまかり通っている。裁判官は200もの裁判を抱え、とにかく無難にこなす(つまり検察に逆らわず有罪判決を下す)ことしか考えていない。被疑者の金子徹平(加瀬亮)がくぐったのは単なる警察署と裁判所の門ではない。彼がくぐったのはダンテの『神曲』に描かれた地獄の門だった。その門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」との銘文が刻まれている。

  どんなに徹平が無実を主張しても一切取調官は耳を貸さない。一日がかりで検察庁で取り調べられる時も手錠をかけられ縄でつながれている。ほとんど犯人扱いだ。罪を認めれば5万円の罰金で釈放され誰にも知られないで済む(前科は付くが)のに対し、あくまで無罪を主張すれば何ヶ月も拘留され、裁判でさらし者にされ、しかも判決の99.9%が有罪というのでは完全に人生が狂わされてしまう。自分はやっていないのだから有罪になるはずはないなどという淡い期待は粉々に砕かれてしまう。

  徹平はあまりにひどい扱いと知らないことばかりの制度に振り回され、うろたえ、もがき、苦しみ、立ちすくむ。なれない裁判の場面では、マイクに顔を近づけすぎたり、裁判官の方ではなく質問する検察官や弁護士の方を見てしまうというさりげない描き方がリアルInaka0006 だ。裁判官や取調官個人が悪いのではない。実際に痴漢行為は行われており当然被害者はいる。ずるがしこい加害者に騙されまいと取調官が身構えてしまうのも無理はない。法廷に引き出され、あれこれ話したくないことを聞かれる被害者もつらいのだ。問題は個人ではなく、制度と運用にある。被疑者の立場を理解する余裕のない裁判官、無罪を出せば左遷される人事のありよう、検察の背後に国家権力が控えていて判決にまで影響を与えている現状。ましてや痴漢冤罪は反証を集めるのが極めて難しい。しかし被害者の証言以外にやったという証拠を集めるのも難しい。この裁判の場合は、被疑者の手に被害者の衣服の繊維クズがついていないか調べることを怠っていた。それでも判決は有罪だった。つまるところ「疑わしきは罰してしまえ」というやり方がまかり通っていることに問題があるのだ。撤兵のような冤罪をなくすためには有罪とするに足る明白な証拠がない限り無罪と推定されるという本来の原則を貫く以外にない。無罪が立証されなければ有罪というのではなく、有罪が立証されない限りは無罪であるという考えに切り替える必用がある。「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ。」この原点に戻るべきだ。

  次々と明らかにされる驚くべき事実にぐいぐいとひきつけられる。しかし徹頭徹尾峻厳なリアリズムで押し通しているわけではない。ところどころユーモラスな場面が盛り込まれている。そのバランスがまた絶妙である。周防正行作品の常連である竹中直人や田口浩正はいまひとつ活かしきれていないが、撤兵と同房のオカマのような男を演じた本田博太郎と刑務所の看守を演じた徳井優は出色。この二人は本当にうまい役者だ。

  こういう作品に出会うと、真に戦慄すべきは作り物のホラーなどではなく現実であるという思いを新たにする。われわれ自身を含め、人権感覚の低さを改めなければ冤罪はなくならない。一番の法の番人、それは国民なのである。

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2007年4月16日 (月)

「ドリームガールズ」を観てきました

Utahime1  昨日電気館で「ドリームガールズ」を観てきた。実に素晴らしかった。久々にミュージカルを満喫した。80年代以降世界の映画の水準が上がり、様々な国から傑作が届けられるようになってきたが、ミュージカル映画だけはいまだにアメリカ映画の独壇場である。こればかりはどこの国もアメリカにかなわない。音楽映画という切り方をすれば、アメリカ以外にも優れた作品はたくさんある。「歌え!フィッシャーマン」、「風の丘を越えて」、「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」「風の前奏曲」などは優れた音楽映画だ。しかしミュージカルとは呼べない。まさにアメリカのミュージカル映画はワン・アンド・オンリーなのである。やはり電気館で観た「シカゴ」も良かったが、その後に観た「ビヨンドtheシー」「五線譜のラブレター」「プロデューサーズ」などもさすがの出来。平均点は高い。才能のある歌手やエンターテイナーが腐るほどいて、国民がショー好きで、とにかく楽しむのが好きな国民性があってはじめて作られる類の映画である。その上歌やダンスが中心だからドラマは薄くてもいいときてはまさにアメリカ向き。傑作が多いはずだ。映画を観るというよりも、ショーを観に行く感覚で行けばいい。

 「ドリームガールズ」は「ザ・スプリームス」というモデルがあるので、「Ray/レイ」、「ビヨンドtheシー」、「五線譜のラブレター」、「ウォーク・ザ・ライン」など一連の伝記映画の流れの上に企画されたものといえるだろう。しかし「ザ・スプリームス」の成功秘話を描いた映画と言うよりも、むしろ「ザ・スプリームス」になれなかったフローレンス・バラードをモデルにした映画と言うべきである。その点でむしろ″ビートルズになれなかった男″スチュアート・サトクリフを描いた映画「バック・ビート」に近い。とにかくフローレンス・バラードをモデルにしたエフィ役のジェニファー・ハドソンがすごい。彼女には終始圧倒されていた。これは彼女の映画である。ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィ、ジェイミー・フォックスなどはみんな脇役。ジェニファー・ハドソンの歌と存在感は断然他を圧倒していた(エディ・マーフィも力演だったが)。だから日本での宣伝がビヨンセ、エディ・マーフィ、ジェイミー・フォックスばかりを前面に出していることには怒りを覚えた。許しがたい行為である。劇中でジェイミー・フォックス(モータウンの創設者ベリー・ゴーディ・ジュニアをモデルにしたカーティス・テイラーJr役)がやったことと同じではないか。

   そもそもモータウン(自動車産業で有名なデトロイトで生まれたので、モーター・タウンをもじってつけた名称)はそれまで黒人を中心に聞かれていた黒人音楽を白人のリスナーもターゲットにして、ソフトでポップな味付けにした独特のモータウン・サウンドで売り出したのである。ドリーメッツの「キャデラック」という曲を白人の男性歌手がよりソフトにして歌って大いに白人たちに受けている場面が出てくる。この場面は二重に象徴的である。ドリーメッツがドリームガールズと衣替えしてデビューした時に歌ったのはそういうソフトでポップな歌なのである。そういう方向転換をしたのだ。同時にそれはエフィーの歌う強烈なR&B路線から美人のディーナを中心としたソフトな白人受けのするモータウン・サウンドへの転向をも象徴している。エフィーが主役の座を奪われたのはディーナの方が美人だったからだけではなく、エフィーの野太い声とソウルフルな歌い方がモータウン・サウンドに合わなかったからでもある。エフィーの復帰作「ワン・ナイト・オンリー」も、カーティス・テイラー(ジェイミー・フォックス)が白人歌手にパクらせてエフィーをもう一度葬ろうとした。白人版の方がヒットしたことは言うまでもない。

 同じことはエディ・マーフィ扮するR&B歌手ジェームス・“サンダー”・アーリーにも言える。JBばりの彼の歌はもう時代遅れで、白人の聴衆には下品に見えるというわけだ。「過去の男」になったジェームズは自ら命を絶つ。だいぶ前に読んだ吉田ルイ子の名著『ハーレムの熱い日々』(1973年、講談社)によると、当時黒人大衆は妖しく歌い踊るティナ・ターナーなどに熱中していたそうだ。「高級な」ジャズはもっぱら白人が聴いていた。彼らは当然モータウン音楽なども聴かない。それも白人の音楽なのである。

 僕はモータウンの音楽は好きだ。ザ・スプリームス(当時は「シュープリームス」と言ってIrisc11 いた)も数多くのナンバーワン・ソングを放ち、耳に馴染んでいる曲が多いので決して嫌いではない。しかし僕が本当に好きな黒人音楽は「真っ黒」な音楽である。もっとディープでなけりゃソウルじゃない。フォークもアイリッシュ・ミュージックもモダン・カントリーも大好きだが、ことブラック・ミュージックに関しては「真っ黒」でなければ満足しない。だからエフィーの歌はまさに僕のつぼにはまる。ダイアナ・ロスもザ・スプリームス時代はまだいいが、ソロになってからはいいと思う曲は一つもない。彼女は「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」でビリー・ホリデイを演じたが、スター街道を歩んできた彼女に人種差別で苦しみ麻薬とアルコールが手放せなかったビリー・ホリデイの苦難の人生など演じられるはずはない。まったくの凡作だった。

 まあダイアナ・ロスのことはこのくらいにしておこう。肝心なのはジェニファー・ハドソン。すごい人がいたものだ。抜群のリズム感、太い声と豊かな声量。彼女の声にはソウルが込められている。多くの黒人歌手がそうだが、彼女もまた幼い頃から教会で歌っていたという。イギリスの映画俳優たちが映画の前に舞台でしっかり経験を積んでいるように、黒人歌手の多くも教会で培ったゴスペルの下地がある。ただミュージカルの「ドリームガールズ」では歌で圧倒できたが、もし今後女優を目指すのなら演技力も磨かなければならない。しかしあれだけの表現力があれば女優としても十分活躍できるだろう。

 本格的なレビューが書けるかわからないのでつい長く書いてしまった。最後に、上に挙げた『ハーレムの熱い日々』の他にもう1冊紹介しておこう。ジャック・シフマン著『黒人ばかりのアポロ劇場』(スイングジャーナル社)。ダイナ・ワシントン、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、スティーヴィー・ワンダー等々、錚々たる大歌手たちの舞台裏でのエピソード満載である。昭和48年発行の古い本なので、とっくの昔に絶版になっていると思うが、見つけたら買っておくべし。

「ドリームガールズ」★★★★☆

「ドリームガールズ」のレビュー

2007年4月15日 (日)

「王と鳥」をDVDで観ました

  このところ猛烈に忙しかった。「ローズ・イン・タイドランド」と「それでもボクはやってない」Sdcutmo313_1 のレビューも遅れに遅れている。家に帰ってくるとどっと疲れが出て、ものを考える気力が湧かない。映画を観ることすら億劫だった。昨日の土曜日にようやく一段楽したが、体に疲れが澱のようにたまっていてなかなか抜けない。レンタルしていた「王と鳥」(「やぶにらみの暴君」の改作)の返却期限が昨日だったので夕方無理して観たが、途中で何度も眠り込んでしまい、その度に少し巻き戻して(DVDでもそう言うのか?)観直す始末。もちろん映画が退屈だったわけではない。疲れのせいである。

  「やぶにらみの暴君」は1952年製作。日本公開は1955年。その後長い間「幻の名作」化していた。この作品の名前は恐らくまだ田舎にいた高校生の頃に知ったのだと思うが、ようやく念願かなって初めて観たのは84年の3月13日。高田馬場のACTで「禁じられた遊び」、「恐怖の報酬」、「やぶにらみの暴君」の三本立てで観た。東京に出てきて11年目である。「王と鳥」は、ポール・グリモーの気に染まないまま公開された「やぶにらみの暴君」の権利とネガフィルムを彼が取り戻して作った改訂版である。「やぶにらみの暴君」を観てから23年。あの独特の人物・キャラクター造形、未来都市のような王宮とロボットに代表される機械仕掛け、端々にまで行き渡る風刺精神は今観ても新鮮で色あせていなかった。正直、宮崎アニメやピクサーなどのCGアニメに慣れた目で観ても耐えられるのか多少不安はあった。しかしまったくの杞憂だった。

  ストーリーなどはほとんど忘れていたので「やぶにらみの暴君」との細かい違いなどは分からないが、ライオンなどの猛獣のエピソードは全く記憶になかった。しかしそこにあったのは間違いなく十九世紀のパリを辛辣に風刺したドーミエなどから続くフランスの風刺の伝統である。後のカリカチュアやパロディ満載の「ベルヴィル・ランデブー」(2002)にも連なる伝統。アメリカのディズニー、日本のスタジオ・ジブリやテレビアニメ、イギリスのアードマン、イジー・トルンカを生んだチェコの人形アニメ、ユーリ・ノルシュテインやイワン・イワノフ・ワノーを生んだソ連アニメなどに比べるとフランスのアニメ作品は印象が薄い。それでも、最近で言えばシルヴァン・ショメ監督の「ベルヴィル・ランデブー」やミッシェル・オスロ監督の「キリクと魔女」や「プリンス&プリンセス」などがある。探せばまだまだ宝が眠っているかもしれない。

  「それでもボクはやってない」と「王と鳥」は遅れてもレビューを書きます。「ローズ・イン・タイドランド」は?微妙だな。観てからもう1週間以上たっているからねえ。

「王と鳥」★★★★☆
 1980年 ポール・グリモー監督 フランス

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