最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

お気に入りブログ

« 2007年3月4日 - 2007年3月10日 | トップページ | 2007年3月18日 - 2007年3月24日 »

2007年3月11日 - 2007年3月17日

2007年3月17日 (土)

夫婦善哉

1955年 日本 東宝 
評価:★★★★★
監督:豊田四郎
脚本:八住利雄 
美術:伊藤熹朔
原作:織田作之助 
音楽:団伊玖磨
出演:森繁久彌、淡島千景、司葉子、浪花千栄子、小堀誠、田中春男、田村楽太
   三好栄子、山茶花究、志賀廼家弁慶、万代峰子、森川佳子

  面白い。文句のつけようがない傑作である。何より主演の森繁久彌と淡島千景が抜群に063802_1 いい。淡島千景はこの時代の女優としては原節子、高峰秀子と並ぶ僕の3大アイドル。中でもこの「夫婦善哉」の蝶子役は「にごりえ」や「麦秋」、「駅前」シリーズなどと並ぶ彼女の代表作の一つ。元気でいたずらっぽいちょっと勝気な娘というイメージが彼女の持ち味。ここではしっかり者でちょっぴり色気も漂う芸者役。彼女の魅力全開。森繁もすごい。彼とフランキー堺(元祖ソン・ガンホ)は役者として天才だと思う。どちらも喜劇俳優だが、役者としての才能は滝沢修や中村翫右衛門などの名優と比べても引けをとらない。「夫婦善哉」の柳吉役はほとんど地でやっている感じがするが、演技を感じさせないほど役になりきっているということである。

  助演陣もすごい。置屋の女将(?)役の浪花千栄子。「祇園囃子」でも置屋の女将役を演じていたが、この手の役はまさにお手の物。東の沢村貞子(「赤線地帯」、「飢餓海峡」)、西の浪花千栄子といった感じか。昔の脇役女優にはすごい人たちがいたものだ。はまり役といえば婿養子役の山茶花究。この人もあきれるほどうまい。芸名が九九の“さざんがきゅう“から取っているところからして人を食っている。善玉もやるが悪役がめっぽう似合う。「夫婦善哉」では異常なほどの潔癖症でニコリともしない男の役。蝶子の母親役の三好栄子もよく見る脇役女優。庶民的な女性を演じさせたら恐いほどはまる。チョイ役が多いのに顔を覚えてしまうのだから大したものだ。千石規子、望月優子、北林谷栄、飯田蝶子、浦辺粂子、等々。当時の庶民的おばちゃん役女優は多彩だった。こういう人たちがいないと映画は成り立たない。蝶子の父親役田村楽太も超個性派。何とも特異な面相だ。映画には「夫婦善哉」と「世にも面白い男の一生 桂春団治」くらいしか出ていないようだが、どうやら舞台の喜劇俳優らしい。笑わせるタイミングが抜群。巧まざる技に脱帽。日本映画の頂点を極めた1950年代は大監督ひしめく巨匠の時代であったが、同時に名優の時代でもあったことを改めて認識させられる。

  森繁久彌演じる柳吉は化粧品を扱う維康(これやす)商会の長男。大店(?)のぼんぼんである(関東風の「お坊ちゃん」では感じが出ない、「ぼんぼん」でないと駄目だ)。しかしこのぼんぼん、まったくの遊び人で甲斐性なし。商売などそっちのけで遊び歩いていた。まあそれには理由がないではない。柳吉には妻も子供もいるが、妻は病気で2年も里に帰ったきりなのだ。柳吉の父親は見るからに頑固一徹な男。自由気ままな性格の柳吉には息苦しくて仕方がないだろう。映画は柳吉の父親がいつまでも芸者にうつつを抜かしている柳吉を見放して勘当を宣言しているところから始まる(ついでに触れておくと、店に代々の当主の写真が飾ってあるが、一番左側の写真が何といかりや長介にそっくりだ)。その頃柳吉は芸者の蝶子(淡島千景)と駆け落ちして熱海の宿でいちゃついていた。昭和7年のこと。

  熱海でのろけている場面の後、二人は蝶子の実家に現われる。蝶子の父親が散々心配かけおってと娘を叱るが、柳吉が顔を出すと突然ぺこぺこするところが可笑しい。母親もどうでもいいことをくだくだ話している。蝶子の実家は天麩羅屋で、柳吉に何もないからと商売ものの天麩羅を出す。食道楽の柳吉はうまいといって素手でつまんで食べる。それを行儀が悪いと叱る蝶子。この辺の描写も実に巧みで、世話女房タイプである蝶子の性格がよく示されている。なぜ二人が突然蝶子の実家に押しかけたかも二人の会話から分かるようになっている。熱海で1週間楽しんだ後維康商会に戻ったら、敷居もまたがせてもらえなかったのである。その時柳吉は勘当されたことを初めて知ったわけだ。行くところがないのでとりあえず蝶子の実家に転がり込んだというしだい。

  しかしぼんぼんの柳吉はいつまでも店に未練たらたらである。蝶子は「男らしゅうさっぱArtkazamidori01250wc_2 りと忘れてしまいなはれ」と迫り、柳吉をつねる。柳吉は「痛い、痛い、堪忍してくれやもう」などと情けない声をあげている。収入源を絶たれたため、蝶子はまた芸者として働き始める。夜中帰ってくると柳吉は2階でおとなしく鍋で昆布を煮詰めている。食道楽らしく、こうやって作るんだと薀蓄をたれるところが彼らしい。何とまあ朝から鍋に付きっ切りだったようだ。商売には不熱心でも、自分の好きなことにはとことん向き合う。そういう男だ。 とまあ、こんな調子で映画は始まる。自分では働きもせず朝から昆布などを煮占めている柳吉はまさにヒモの生活だ。一方の蝶子はしっかり者で働き者。だらしのない柳吉を叱り飛ばしながらも、まめまめしく彼の世話を焼いている。これだけ世話を受けながら、柳吉は彼女が稼いでためた金を維康の番頭長助と飲み歩いて全部使ってしまったりする。散々泣かせながらも、「頼りにしてまっせ~」(当時流行語にもなった)と蝶子におんぶに抱っこ。しかしこの甲斐性なしのダメ男がなぜか憎めない。

  なぜだろうか。柳吉は無責任で甲斐性なしの男だが、植木等の「無責任男」ともまたタイプが違う。破天荒というよりももっと古い遊び人のタイプだ。藤沢周平の市井ものにも大店の放蕩息子がよく出てくるが、柳吉はやはりその系譜。「粋人」というほど粋ではないが、食べ物に目がない食道楽。だから蝶子が維康から貰った手切れ金で始めた関東煮の店ではかいがいしく働いている。まったくのぐうたらというわけではないのだ。つまり、息苦しい維康商会の雰囲気にどうしてもなじめなかったのだろう。中風で寝込んでいる柳吉の親父は相当な頑固者である。また、店を継がせるために柳吉の妹筆子(司葉子)と結婚させた婿養子(山茶花究)は生真面目一方で、「超」の付く清潔好き。そういう気風なのだ。これでは柳吉ならずとも近寄りたくはない。蝶子との自由気ままなのろけ生活と息苦しい維康商会が対比的に描かれているので、自然柳吉に肩入れしてしまうのだ。

  だがそれだけではないだろう。柳吉はだらしがないが決してふしだらではない。後先考えずに金を使ってしまう甲斐性なしだが、それは無類の人の良さの表れでもある。ぼんぼんだから人に奢ってうれしがるのだ(番頭を手なずけておけば後々役に立つとの期待もある)。ちゃらんぽらんなのは苦労知らずのぼんぼんだからである。番頭を手なずけたり、蝶子との手切れ金をふんだくろうとしたりと計算高いようでいて、実は単なる思い付きにすぎない。ただ財産に未練たっぷりなだけだ。腹黒い打算で生きている男ではないので、そういう情けなさがかえって憎めないのだ。そして何よりも愛情の面で決して蝶子を裏切らなかった。遊びはしても浮気はしない。要するに無邪気なのだ。大きな子供みたいで、むしろ蝶子のように叱りつつも世話をしたくなってしまう。そう思わせる人柄なのだ。

  もちろん演じる森繁の魅力もある。飄々とした演技が彼の持ち味である。それが柳吉の役柄にぴったりとはまっている。さらには蝶子との組み合わせの妙もある。喧嘩するほど仲が良いとよく言うが、まさにそのいい例だ。淡島千景の蝶子は魅力たっぷり。芸者上がりだが一途な女である。「柳吉さんをほんまに寝取ろうと思ってるんやろ」と母親に言われた時、彼女は「わては何も奥さんの後釜に座るつもりはあらへん。あの人を一人前の男に出世させたらそれで本望や。ほんまやで」と言い返している。そういう彼女に甘えきって、あまつさえしばしば彼女の気持ちを踏みにじる柳吉はしょうもない男である。だが、彼女にこっぴどく折檻されていてもそれがどこかのろけに見えてしまう。そんな二人に観客はいつの間にかひきつけられ、行方定まらぬ展開に見入ってしまう。しっかり者の女とちゃらんぽらんな男という昔からよくある組み合わせだが、どういうわけかこの取り合わせには魅力がある。柳吉のような男が実際身近にいたら腹立たしいが、喜劇的な味付けをされているために傍から眺めていると実におもろいのである。

  蝶子の思いは一途なだけに、柳吉が彼女の期待を裏切った時には猛烈に怒る。柳吉が彼女の貯金通帳を勝手に持ち出して全部飲んでしまった時には、「わてはな、あんたとTekagami1 なんぞ商売でも始めようと思って、それだけを楽しみに一生懸命貯金してきたんやで。それをこのあんたという人は」と上にのしかかって散々ぶったたく。柳吉は全く抵抗せず「むちゃくちゃやないか」と泣き言を言う。「もうあんたなんか見るのもいややわ」と蝶子は出て行った後、柳吉は1人「まあ無理ないわな」とつぶやく。分かっちゃいるけど止められない。そんな彼がどこかお茶目で憎めない。そもそも折檻されていても、彼は蝶子を憎んでいない。ひーひー言いながらも蝶子を「おばはん」と呼んでいるのが滑稽だ。自分より若い相手を「おばはん」もないものだが、この「おばはん」には全く馬鹿にした響きがない。むしろ親しみと愛情がこもっている。そんなところに彼の憎めない性格が表れている。

  それにしても怒った時の蝶子の剣幕はすさまじい。妹が養子を取ることになったと聞いてまた柳吉が長助と飲みに行った時には、「清めたる」と叫びながら表の井戸の下に貯めてある水に柳吉の頭を突っ込んでいる。誰か近所の人がそうめんをザルに入れて冷やしてあったので、もがく柳吉の頭には麺がくっついている。すごい演出だ。翌日、蝶子はさすがに置屋の女将おきん(浪花千栄子)に「わてもういやや、何もかも」とぼやいている。そりゃそうでしょう。しかしこれだけ派手に折檻されても柳吉は懲りない。蝶子もあっさり彼を許している。これが一つのパターンになり繰り返される。観客はニヤニヤしながら二人のラブ・ゲームを見守っている。

  柳吉は性懲りもなく蝶子にある策略を持ちかける。別れる振りをして店から手切れ金をたんまりふんだくろうというのだ。だから店の者が来たら、「別れます」と答えておくれと蝶子に言い含める。ところが蝶子は「別れる」と言わなかった。手切れ金も受け取らなかった。柳吉が戻ってきて怒るが、たとえ芝居でも「別れる」とどうしても言えなかった蝶子の気持ちが何ともいじらしいのだ。柳吉もあまり追求しない。失敗したらあっさり諦めてしまうところはいかにもぼんぼんらしい。代わりに「妹の婿養子な、大学出や。学問で商売できるけえ、おまえ」などと毒づいている。いつまでも店の財産に未練たらたらなのである。

  いずれにせよ手切れ金は手に入れたようだ。その金を元に関東煮の店を始めようと提案したのは柳吉の方である。このぼんぼん、食い物が絡むと俄然頑張るのだ。やる気を出したのがうれしかったのだろう、さっそく関東煮の勉強をしに行こうと柳吉が言うのを止め、蝶子はにんまりしながらカーテンを閉める。おいおい本気かと顔をしかめる柳吉。この場面は傑作だ。おきゃんな娘役が似合う淡島千景に色気はほとんど感じたことはないが、この場面は別。にっこりしながら黙ってカーテンを閉めるしぐさがいつになくなまめかしい。

  二人が始めた関東煮屋は結構繁盛している。柳吉がまじめに働いているではないか!さすが食道楽、料理を作る手つきは手なれたものである。しかし順調に行っている様に見えた商売だが、思わぬことで頓挫する。店を閉めた後、柳吉がぼんやりしているので蝶子は遊びに行ってきなさいと言う。柳吉は何度も「いいんやな」と念を押しながら二階へ行く。しかしなかなか下りてこないので蝶子が様子を見に行くと柳吉が倒れていた。腹が痛くて苦しんでいる。そこで蝶子が「猫の糞とミョウバンを煎じて飲むか?」と聞いているのか可笑しい。「また怪しい病気もらってきたと思ってるのか」と柳吉が苦しみながら怒る。「怪しい病気」と言っているところを見ると、前に悪い病気を貰ってきたことがあるようだ。本当に腹が痛いらしい(それはそうと「猫の糞」なんて本当に効くのか?)。

  せっかくうまく行っていた店も柳吉の入院代と手術台を払うために250円で売ってしまった。金に困った蝶子は恥を忍んでせめて手術代だけでもと維康商会に頼みに行くが、にべもなく断られる。明らかに彼女が柳吉を「堕落させた」相手であり、芸者だからである。しかし蝶子が決して卑屈でないところがいい。悪いことは重なるもので、蝶子の母も同じ頃子宮癌に罹っていた。母は自分のことはいいから、早く柳吉さんのところへ入ってやりなさいと言う。「お母ちゃんな、優しいことばっかり言うて仏さんになってはる」と蝶子は父に伝える。維康商会の冷たさと貧しい蝶子の家族の温かさが対比されている。

  病院に柳吉の妹筆子(司葉子)が娘のみつ子(森川佳子)を連れて見舞いに来る。しか052018 し娘は父に会いたがらない。ここで印象的な場面がある。妹の筆子は蝶子に「姉さん」と呼びかけるのだ。蝶子は一瞬はっとする。跡取り息子をたぶらかした悪女とばかりに、柳吉の身内から蝶子は冷たくされるばかりだった。初めて「姉さん」と呼ばれた蝶子は感激してしまう。日陰の身のつらさがその一瞬のはっとした表情に表れている。しかも筆子は挨拶の中で父も蝶子には感謝しているとまで言ったのである。柳吉の妹にすれば、一応の礼儀でそう言ったに過ぎないのだろう。しかし中身のない言葉に自分は認められているのだと力づけられてしまうほど追い詰められている蝶子の気持ちが切ない。

  筆子はもう一つ重要な発言をしている。「お父さんは頑固やし、お母さんは早う死にはりましたし、それに古い家やし、いつも周りに遠慮ばっかりして育ってきはったよって、あんないじけた、どこに自分があるのか分からんような人ができまして。でも、根はええ人です。それに姉さんだけはほんまに頼りにしてはります。」筆子は柳吉の身内の中では一番まともな人間である。見舞いに来ただけでも彼女が兄を心配していることが分かる。そういう妹だから蝶子を感激させるような実のない言葉も深く考えずに言ってしまうわけだが、この兄に対する評価は本心だろう。夫のことも「気違いのようなきれい好きでして」と言っている。兄には蝶子だけが頼りだというのも単なる外交辞令ではないと思われる。誰が見ても実際そのとおりなのだから。それにしても「どこに自分があるのか分からんような人」というのは言い得て妙だ。病室のベッドでは柳吉がわがまま放題を言っている。体を切られる(手術)のはいやだなどとぐずっている。そんな彼を見ると確かにそう思えてくる。柳吉に全く何も芯がないわけではないが、商家の娘として厳しく育てられた筆子には確かにそう見えるのである。

  自分は認められていると思った蝶子はまた必死に頑張る。芸者の時の仲間だった金八(万代峰子)に金を借りて「蝶柳」という店を出した。有馬温泉で養生していた柳吉も戻っている。柳吉の妻は亡くなっていたが、柳吉は娘のみつ子が可愛くてならない。蝶子は何とかみつ子を引き取ろうと涙ぐましい努力をする(父の葬儀の時柳吉も同じことをみつ子に聞いたが、どうやって暮らすのと聞き返されている)。みつ子が英語を習っているというので自分も客が言った英語を懸命に覚えようとしているのだ。そんなある時、みつ子が突然彼女の店にやってきた。蝶子は「オー・マイ・ダーリン」、「パパ」、「ウェルカム」などと一生懸命に話しかけるが、さっぱりみつ子には通じない。実は柳吉の父が危篤だと言いに来ただけだったのだ。むなしい努力をする蝶子が何ともけなげだ。

  蝶子は私のことを認めてもらえるようにお父さんに頼んでほしいと何度も柳吉に言って送り出す。しかしからきし意気地のない柳吉は結局何も言わなかった。自分は長男なのだからそれらしく扱ってほしいということばかり気にかけている。結果を気にする蝶子に電話をかけてもただ親父が死んだというばかり。婿養子を散々けなしても、本人の前では何もいえない。蝶子が電話をかけ直すと養子が出て、「うちはあんさんとは何の関係もない」と言われてしまう。蝶子はガス自殺を図った。柳吉が発見して事なきを得たが、そのときのあわてぶりも情けない。

  生き延びた蝶子は店で大盤振る舞いし、一晩飲み明かす。ひとしきり騒いで、彼女はまた生きようとする。しかし柳吉がいない。いやいや御心配なく。彼はちゃっかり現れるのである。蝶子が店に戻るとレコードがかかっている。曲に合わせて歌う柳吉の声が聞こえる。Komachi1_2 戻ったのかと思って店中を見回すが柳吉の姿はない。空耳かと思い「あほやなあては」と言った時、「ここや、ここや、英語でいうたらWCや」と言いながら何食わぬ顔で柳吉がトイレから出てくる。見事な演出だが、その後の細かい描写も見落としてはならない。トイレと知って蝶子がとっさに懐からハンカチを出す。しかし柳吉のひどい仕打ちを思い出してハンカチを渡すのを思いとどまる。柳吉は水の滴る手を前に出したままトイレからでてくる。うつむく蝶子の手から柳吉がハンカチを取って拭くと、蝶子がそのハンカチで柳吉の手を丁寧に拭いてやる。こういうさりげない描写が実にうまい。切れそうで切れない絆。決して懲りない柳吉と決して彼を見捨てない蝶子。二人の関係を表す見事な場面である。

  二人で「めおとぜんざい」を食べに行く。映画の最初の頃にも二人で「自由軒」に入りライスカレーを食べるシーンがある。蝶子にハンカチで口を拭いてもらったり、テーブルの下で足を蹴ったりさすったりののろけぶりが印象的な場面だ。二人で仲良く「めおとぜんざい」を食べるシーンは二人の将来を暗示しているのかも知れない。外に出ると雪が降っていた。どこかの店の軒下で二人はしばしたたずむ。蝶子「なあ、あんた、どないしはんねんこれから?また、バーテンしはんの?」柳吉「任せるがな、頼りにしてまっせ~。」蝶子「なあ、あんた、みんなあてが悪いねんなあ。」柳吉「そやがな。」蝶子はさめざめと泣き出す。「どないしてんな。ええがな、おばはん。二人で濡れて行こいな。」「せやな、ええ道行きや。」途中二人でお宮にお礼参りをする。「まだ頼りにしてますさかいに、あんじょう頼んまっさ~」。相変わらずのんきなことを言っている柳吉と寄り添って、蝶子は雪の舞う法善寺横町を歩いてゆく。寄り添って歩いてゆく二人だが、この先何度もまた付いたり離れたりを繰り返すだろう。しかし決して別れはしないだろう。そういう余韻を残すしっとりとした終わり方である。

  これは踏まれても蹴られてもひたすら男に尽くすだけの女を描いた映画なのか?確かに蝶子は柳吉にとことん尽くす女に見える。しかし見方を変えれば彼女が大きな子供のような柳吉を終始導き、支えていることが分かる。尽くしているのではなく、彼女が養っているのである。母のごとく包み込んでいるのである。そう、観ているうちに年下の蝶子が母親のように見えてくるのだ。うっかり手を離すとどこへ行ってしまうか分からない大きな子供のような柳吉としっかりと手綱を握っている蝶子の道行き。男なんて女に甘えて生きているに過ぎない。映画はそう言っているように思える。

<付記>
  記事を書き終えた後にある重要な論点に気づいた。筆子が兄を評した「どこに自分があるのか分からんような人」という表現、どこかで聞いたことがあると書いている時からぼんやり思っていた。記事をブログとHPにアップした後風呂に入っている時にはっと思い出した。そう「浮雲」だ。あの映画の中で富岡(森雅之)が「まったくどうにもならない魂のない人間が出来ちゃったもんさ」と自分のことを自嘲して言っている。さらに考えるとこの二つの作品は実に多くの共通点を持っている。「浮雲」は甲斐性がなくふらふらしている富岡と常に積極的に行動するゆき子(高峰秀子)とが付かず離れずの腐れ縁関係のまま、決まった目的地もなくただただ流れに任せてどこへともなく漂ってゆく映画である。しっかりした女性と甲斐性がなくいつもふらふらしている男。蝶子は芸者でゆき子はパンパンを一時していた。

  同じような男女の組み合わせなのに、一方はどこまでも堕ちてゆく悲劇であり、もう一方は堕ちそうで堕ちない喜劇である。しかもどちらも55年の作品。製作年まで一緒だ。同じような状況と組み合わせなのに、描き方によって悲劇にも喜劇にもなる。「夫婦善哉」は蝶子が自殺未遂をしたように常に悲劇になる可能性があった。今井正のオムニバス「にごりえ」の第3話で淡島千景が演じた小料理屋の酌婦お力は最後に片思いの男に無理心中させられている。彼女を引き取ってくれそうないい旦那が見つかった矢先だった。このあたりの男女の描き方はじっくりと考察するに足る論点である。いずれゆっくりと考えてみたい。

2007年3月16日 (金)

心の香り

1992年 中国 92年11月公開 Tobira_flower2_pur_1
評価:★★★★☆
監督:スン・チョウ
脚本:スン・チョウ、ミャオ・タン
撮影:ヤオ・リー
音楽:チャオ・チーピン
出演:チュウ・シュイ、フェイ・ヤン、ワン・ユイメイ
    ハー・チェリン、リー・クワンノン

 監督のスン・チョウは1954年山東省生まれ。若くして軍隊に入り、軍隊では毛沢東の絵を描く仕事についていたこともあるという。除隊後テレビ界で活躍していたが、映画監督の夢捨てがたく、「コーヒーは砂糖入りで」で初監督。以後3本の映画を監督している。僕の評価は以下の通り。

「たまゆらの女」 (2002) ★★★☆
「きれいなおかあさん」 (2001) ★★★★
「心の香り」 (1992) ★★★★☆
「コーヒーは砂糖入りで」(1988) 未見

 80年代に急激に成長し世界のトップレベルに達した中国映画は、90年代前半にも次々に傑作を生んだ。「ロアン・リンユイ」、「菊豆」、「北京好日」、「紅夢」、「乳泉村の子」、「心の香り」、「青い凧」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「活きる」等々。スン・チョウ監督は彼のやや上の世代、チェン・カイコーやチャン・イーモウなどの第五世代に比べると、文革にあまりとらわれていない。より現代的で一般的なテーマを扱っている。今のところ「心の香り」が最高傑作である。最初に観たのが94年8月30日。13年ぶりに観た。

 「心の香り」は全体に韓国映画の「おばあちゃんの家」のシチュエーションに似ている。おばあさんとおじいさんの違いはあるが、どちらも親が問題を抱えており、子供が夏休みの間だけ祖母/祖父に預けられる。最後に母の下に戻るのも同じだし、都会っ子が田舎に来る点も似ている。最も重要な共通点は、最初はギクシャクしていた孫と祖母/祖父がしばらくの間一緒に暮らすことによって次第に心を通わすようになってゆく点である。これが共にテーマとなっている。しかし重要な違いもある。一つは、「心の香り」の場合京劇が重要なファクターになっていること(孫と祖父の共通点)、もう一つは祖父の心の葛藤にも焦点が当てられていることである。孫だけではなく、祖父の心の変化も描かれている。

 最初に京京(フェイ・ヤン)が京劇を舞うシーンが描かれる。実際に京劇を習っている子供の中から選ばれたようなので、身のこなし、見得の切り方、あの独特の発声などなかなかのものだ。普段はメガネをかけたおとなしそうな子である。京劇は無理やり母親に習わされていることが彼自身のナレーションで語られる。彼の両親は離婚寸前である。そのため夏休みの間京劇の練習を休み、まだ会ったことのない祖父に預けられることになる。

 祖父の李漢亭(チュウ・シュイ)はかつて京劇の名優だった。今は引退し京劇同好会の顧問のような存在である。妻とも死に別れ、同じ京劇役者だった川向こうに住む蓮姑(ワン・ユイメイ)に何かと世話を焼いてもらっているが、老人で長い間1人暮らしだったためにかなり頑固で偏屈である。もっとも頑固さは昔からだったのかもしれない。娘はそんな父親を嫌い家を出て以来彼と音信不通だった。それが、上のような事情のためにいきなり京京を一時預かってほしいと一方的に送り出してきたのである。

 当然最初はギクシャクしている。李は長い間連絡もよこさなかったくせに、突然孫を送ってよこした娘の勝手さに腹を立てている。その不満は当然孫の京京にも向けられる。京京は京京で、突然田舎に放り出され、あったこともない爺さんに預けられるのだから楽しいはずはない。終始無愛想である。便利な都会から来たので、トイレ一つにも都会との違いに驚く(どうやら近所の家族が共同で使っているようだ)。トイレをあけたら近所の女の子が先に入っていた。これが珠珠(ハー・チェリン)との最初の出会いである。

 李と京京の間を取り持つ役割を果たしているのが蓮姑である。彼女の役割は非常に重要だ。頑固な李となかなか周りになじめない京京の間に入って、時には京京に人生について説き、時には李の頑固さを諌める。李と蓮姑の間には深い信頼関係があるが(ほとんど愛情に近い)、蓮姑には生き別れた夫があるため深い関係には踏み込まずに来たようだ。京京は最初の夜に二人の関係を知る。2階の床が天窓のようにガラス張りになっているので、それを通して1階の居間にいる二人を覗き見るのだ。

Biwatubakis1   蓮姑と夫は40年前に生き別れになったきりで、台湾に渡った夫は生きているか死んでいるかも分からなかった。どうやら国共内戦の時期に別れ別れになったのだろう。その夫が実は台湾で生きていたのだ。蓮姑は夜それを李に知らせに来たのである。複雑な気持ちの李は、操を通した君は立派だと慰めるが、蓮姑はさめざめと泣く。蓮姑の涙には様々な思いが込められていたのだろう。夫への思い、そして李への思い。子供の京京にはそこまで理解できなかっただろうが、結構大人びた子なので二人の老人の間に微妙な愛情関係があることは漠然と見て取ったかもしれない。

 李の居間での会話はこの後も何度も描かれる。広い部屋に家具はテーブルと椅子だけ。背景にある8角の模様の入った四角い窓が実に印象的である。このシンプルな場面構成はほとんど演劇的である。それは恐らく意図したものなのだ。実際、李が蓮姑への見栄から無理して舞台に立ち仲間に抱えられて帰ってきた夜、酔った李が京京に長々と話をするあたりは、台詞の話し方や発声、場面構成、独白の用い方などはっきり舞台劇を意識した演出になっている。一瞬舞台を見ているような錯覚に陥るほどだ。

 ではなぜ、あえて演劇的な演出を用いたのだろうか。それを考える上で「紙屋悦子の青春」との共通性を指摘しておくと分かりやすいかもしれない。李と蓮姑の関係は微妙なものであった。明らかに二人は互いに愛情を持っているが、蓮姑には生死の分からない夫がいた。だからそれまで結婚にいたるのを踏みとどまっていたのだろう。しかしちょっとした言葉やそぶりから二人の気持ちは観客にも(そして京京にも)読み取れるのだ。だが二人は一度もはっきりと互いの気持ちを表明したことはない。それは李と京京の関係の場合も同じである。二人の気持ちの触れ合いを直接言葉では表現していない。しかし観客には読み取れるのだ。「紙屋悦子の青春」同様、直接の言葉ではなく、言葉では表されていない前後関係や表情や身振りなどから察することができるような表現形式を用いているのである。考えてみれば、李と蓮姑と彼女の夫との関係は、永与と悦子、そして明石の関係にほぼ相当する。

 それがもっとも効果的に演出されているのが先ほど触れた李が仲間に抱えられて帰ってきた夜の場面である。酔った李は京京に向って独白のように述懐する。「たった一人の娘だがいないのと同じだ。ばあさんが早くに死んで娘は家を出たまま数十年。孫がこんなになるまで会わせてくれなかった。私を父親と認めるどころか芝居芸人とさげすんでいる。ただの貧乏人だと。」これは李の偽らざる気持ちだっただろう。しかしこれは誤解である。Fan3_1 もし本当に李の言うとおりだったら、どうして娘は京京に京劇を習わせたのだろうか?それも無理やり。もし本当に京劇役者を河原乞食のように思っていたのならば、息子に京劇など習わせるはずはない。京京に京劇を習わせた娘の気持ちの中には、明らかに父への思いが込められているのである。李の考えは誤解なのだ。娘には、父親に会って自分の気持ちを伝えられない何らかの理由があったのである。京京の母は最初にちょっと出てきただけである。彼女には何も語らせていない。しかし息子に京劇を習わせていたということの中に語られぬ娘の思いが「語られて」いるのである。ラスト近くで京劇を舞う京京の姿を見たとき、李は娘の真意を悟ったに違いない。京京が両親と祖父を理解することだけがこの映画のテーマなのではない。李が孫の京京や娘を理解することも重要なテーマだったのである。

 もちろん李本人はこの時にはそんなこととは気づかずにいる。娘に対する李の怒りは孫に転じた。お前はこの家を奪いたくて来たのだろうと李は京京にも憎まれ口を利く。京京は「ママが行けというから来ただけだ。パパも悪い人じゃない」と祖父に言い返し、シャワーを浴びながら泣く。さすがに言い過ぎたと反省した李は心配になってシャワー室を覗く。それまで気持ちを押し隠していた京京はこのとき初めて大声で本心を吐露する。「パパとママは離婚して僕を捨てた。僕は行くところがない。」李は一瞬はっとする。彼は何も言わず京京の体を洗ってやる。

 ここは本当に感動的な場面だ。しかし過剰な演出は一切していない。李に何も言わせず、無言のままで孫の体を拭く彼の身振りと表情ですべてを語らせている。素晴らしい演出だったと思う。「心の香り」では数少ない登場人物の心の通い合いが丁寧に描かれてゆく。それぞれの性格、それぞれの持つ心の傷や誤解、それぞれに対する思いやりなどが、単に語られた言葉だけではなく、その行間や、身振りや表情などの様々な表現手段によって描かれている。

 かなり細かい演出にもそれが表れている。李が舞台に立ったとき、見栄を張って無理をしていると蓮姑は言うが、家に戻った彼女は飾ってあった夫の写真をしまう。年寄りのくせに無理をしてと言いつつも、やはりその気持ちがうれしかったのだろう。彼女はその時彼の妻になろうと決心したのかもしれない。その後は李や京京以上に蓮姑に焦点が当てられる。敬虔な仏教徒である彼女は京京に様々な教えを語る。ここでは語られた言葉自体が重い意味を持つ。「いいかい、人生というのは大変なものなの。両親を選ぶことはできないけど、自分の道は自分で決めなさい。ここでおばさんと暮らす?」これは船着場での会話である。戸外の画面も増えてくる。京京は一緒に暮らすとははっきり答えない。どこか憂いを抱えている。李もどう対処すればいいのか分からない。「何にせよ心の支えは必要だ。やはり家庭が一番なのだが。」

  そんな鬱々としている京京が明るい表情を浮かべる場面がある。竜船のレースを見たときだ。最初は1人うつむいて河原にうずくまるように座っていたが、叫びながら走ってゆく子供たちにつられてレースを見る。京京はいつの間にか叫びながら応援していた。シャワーを浴びながら泣いた日以来、初めて彼は明るい表情を見せた。すっかり蓮姑になついた京京だが、そのままストレートには話は展開しない。京京はうっかりして蓮姑が大事にしていた仏像を落として割ってしまったりする。落ち込んでいる京京を李が抱き上げて二階に上がるシーンも印象的だ。「今抱かないとそのうち抱かれる番だ。」一見淡々とした展開に見えるのだが、「紙屋悦子の青春」同様、実際はいくつも波があり、感情の嵐が吹き抜けている。

  「心の香り」はまた近所の女の子珠珠を登場させ、さらに話にメリハリをつける工夫をしている。もっとも印象的なのはやはり李が舞台に立った日の昼間の場面である。李が外出しているため京京は家に閉じ込められている。入り口の格子のドアを挟んで珠珠と話をする。珠珠は逆に父親に家から締め出されてしまっている。締め出された珠珠と閉じ込められた京京が格子のドアを挟んで対話をしているのである。実に面白いシチュエーションだ。間のドアは格子になっているので抜け出すことは出来ないが、手を通すことはできる。京京は珠珠に化粧をしてあげるといって珠珠の顔に京劇のくま取りを描く。不気味な顔になった珠珠はうれしそうにバレエを踊りだす。近所の人が集まってくる。そのうち父親が現れて、ひどいいたずらだと怒り出す。幸い閉じ込められていたお陰で京京はたたかれずに済んだ。全体に重苦しいトーンの映画だが、珠珠との場面には子供らしい明るさが描かれていて、いいアクセントになっている。京京がナレーションで「僕は珠珠が好きだ」と言っているのもほほえましい。

  可愛い珠珠と一緒にいるせいか、京京には妙に大人びて生意気なところもある。彼は京劇ができるが、知られると練習しろと言われるので黙っていてほしいと珠珠に言っている。おじいさんが蓮姑と結婚すると珠珠に言われたときの会話も生意気で面白い。京京「どうせ離婚するのに。」珠珠「分かるの?」京京「分かるさ。結婚から離婚は必然法則だ。」変に大人びているので滑稽な会話なのだが、子供のうちからそんな考えを持ってしまっていることには当時離婚が社会問題になっていた中国の現状が反映されていて苦い後味も残る。

  「紙屋悦子の青春」同様、「心の香り」も最後のあたりに大きな波が二つある。一つは蓮姑の死。蓮姑の夫は死ぬ前に中国をもう一度見に来るはずだったが、直前に亡くなった。ショックで蓮姑は寝込み、まもなく彼女も亡くなったのだ。彼女は亡くなる前の晩成仏できるよう供養してほしい(「超度」という表現を使っている)と京京に伝え、さらに「京京、両親のいいところを探すのよ。誰だって運命には逆らえないのだから」と言い残す。

  最後の言葉は京京にあてられたものだが、同時に李の課題でもあった。彼も娘と娘婿を見直すことが必要だったのである。蓮姑は李にも「つまらない一生だったわ。お金もなく、地位や名声にも無縁だった。でも人の情けに恵まれただけで満足よ。これ以上の望みはないはず。なのに、なぜか心が寂しいの。ごめんなさい」と言い残す。満足な人生だったのに、どこか「心が寂しい」。それは李と結婚できなかった悔いを語っているのかもしれない。

  最後の波は言うまでもなく京京が自ら禁を破って京劇を舞う場面。李は蓮姑の死後食事Isu4_2 ものどを通らず、寝込んでいた。しかしある時意を決したように家宝の胡弓を持ち出し人に売ろうとした。蓮姑と彼女の夫の供養をする金が必要だったのだ。見かねた京京が京劇を舞ってカンパをつのったのである。声につられて表に出た李は京劇を舞っている孫の姿を見て驚く。画面は普段着で踊っている実際の場面と、京劇の衣装を着けて京京が踊っている映像が交互に描かれる。李の目には舞台の上で京劇の衣装を着けて踊っている京京の姿が見えていたのだ。見事なシーンだった。京劇が重要なテーマではあったが、映画はそれをふんだんに映し出すことはしなかった。最初とこの場面だけである。京劇そのものをたっぷり描いて観客を楽しませようという映画ではない。京劇の名優だった李と、父に反発しながらもその父の意思を息子に継がせようとした彼の娘の思いが最後に重なるまでのドラマを描きたかったのである。この場面を観て李と京京の心のつながりだけを理解したのでは不十分である。その間に京京の母がいたからこそこの二人は京劇でつながることができたのである。

  ラストも素晴らしい。京京は母のもとに帰ることになった。李は蓮姑の形見(マスコットの仏像)を京京に手渡す。「私からは何も上げられん、役者人生だったから」と彼は言うが、京京は充分彼から愛情を受け取っていたはずだ。京京が去った後、李は1人「この無念 いつの日か雲に乗り飛び行かん」と口ずさむ。その声が京京に聞こえたはずはない。しかし京京は最後に振り返り「雲よ、湧け」と京劇の口調で叫ぶ。別れ別れになりはしたが、二人の思いはつながった。

  別れる前に李は京京に「両親を選ぶことはできないけど、自分の道は自分で決めなさい」という蓮姑の言葉を繰り返した。恐らくその時既に京京は自分の目標を見出していた。京劇という目標を。母親に無理やりやらされるのではなく、自分から進んで京劇を舞った。彼がその後京劇役者の道を進むかどうかは分からない。しかし少なくとも、あの時彼は自分で舞うことを選んだのだ。京京は思いを振り切るように走り去ったが、彼の顔は明るかった。

 舞台は広州である。町の中を大きな川が流れ、牛がゆったりと草を食んでいる。のどかな風景もまた魅力だった。最後にチュウ・シュイ(朱旭)に触れておこう。中国を代表する名優で、人間国宝である。舞台で輝かしい功績を残してきた。映画は10本ほどしか出演作はない。「心の香り」以外では「變臉/この櫂に手をそえて」と「こころの湯」を観たが、どちらもいい映画だが傑作というほどではない。どうも映画では出演作に恵まれていない。むしろ彼の名演が目に焼きついているのはNHKのドラマ「大地の子」である。陸一心の育ての親を演じ、世の中にはこんな名優がいたのかと心底驚嘆したものだ(「心の香り」を先に観ていたはずだが、同じ俳優だと当時は気づかなかった)。僕は滅多にテレビ・ドラマを観ないが「大地の子」は夢中になって観た。この名作ドラマを支えていたのはチュウ・シュイだったといっても過言ではない。

2007年3月14日 (水)

喫茶「すみれ屋」へ行く

  昼間用事のついでに「すみれ屋」に行ってきた。小諸市と菅平を結ぶ真田東部線(4号線)沿いにある。地名でいうと東御市和(かのう)。丘の上にあるのでとても眺めのいい喫茶店だ。店のすぐ下を高速道路(上信越自動車道)が走っているのが玉に瑕。だが気になるほどではない。丘の上にぽつんと建っているが、大きな看板がないのでスピードを出していると見落とすかも。

  店の横の駐車場から入り口と下の眺めを撮る。まだ店の中で写真を撮らせてもらう勇気070314 はない(汗)。結構小心者のゴブリンです。中に入るとすぐ左手にギャラリーがある。いつも何か展示している。今日は女性用のアクセサリーを展示していた。右手が喫茶室。テーブルは3つか4つ、それにカウンター席というこじんまりした広さ。明るい色の内装の上に、窓を大きくとってあるのでとても明るい。席から外の眺めを見渡せる。コーヒーを頼み、外を眺めたり本を読んだりしてしばしゆったりと過ごした。

  やはり丘の上は眺めがいい。自宅は平地にあるので周囲の家に囲まれてほとんど山が見えない。丘の上の家にあこがれる。窓側が斜面なら他の家や人の目が気にならない。「すみれ屋」の窓から外を眺めながら、つくづくこういう家がほしいと思う。こんな部屋にパソコンがあれば、ちょっと疲れた時に外を眺めて目を休められる。遠くを眺めるのは気持ちがいいし、目にもいいだろう。ちょっとテーブルの配置なども考えたりした(実現性はゼロだが)。

  女性客が多いのだろう。インテリアや飾ってある絵などは女性向きだ。あまりこてこてにやられると鼻につくが、目の邪魔になるほどではないのでいい。落ち着いた雰囲気である。絵は店の雰囲気に合っている。欲しいと思う絵もあった。HP「すみれ屋の四季」とブログ「すみれのつぶやき」も参照してください。

  大好きだったテレビ番組に「出没、アド街ック天国」という番組がある。去年あたりから番070314_1 組表から消えてしまったのだが、番組のホームページを見ると関東ではまだやっているようだ。もう東京を離れて19年になるが、この番組を見て東京を懐かしんでいた。東京の諸地域や時には地方都市を毎回取り上げ、その地域のシンボル的名所、その地域を代表する名店などのベスト30を紹介してゆき、最後に番組がその地域のコマーシャルを作るという番組である。これが観ていて楽しい。愛川欣也と大江麻理子(初代は八塩圭子)の司会コンビ、コメンテイターの山田五郎(初代は泉麻人)、レギュラー・メンバーの薬丸裕英、峰竜太、毎回変わるその地域ゆかりのゲストたちの間の爆笑トークがまた魅力。大好きな番組で、毎回録画していた番組はこれだけだったのに、去年(一昨年?)の春の番組改変期から長野では観られなくなってしまった。

  この番組に触発されて「上田のベスト30」を作ってみようかと何度か考えたことがある。上田城址公園、無言館、別所温泉等々。どうもいまひとつなのでやめてしまった。しかし「上田とその周辺の喫茶店ベスト10」なんかは面白いかもしれない。ちょっとやってみよう。順位は関係なく挙げてみる。

■■上田とその周辺の喫茶店 マイ・ベスト10■■

「月のテーブル」
  上田市仁古田、農家を改造した風格のある店。
「風乃坂道」
  別所温泉駅の近く、常楽寺の坂道下にある店。特にベランダの席がお気に入り。
「珈琲哲学 上田店」
  芳田のショッピングモール内にある。凝った造りとインテリアが好きだ。
「茶房パニ」
  「独鈷温泉」からさらに上がった山の上にある。ここもベランダの席がお気に入り。
「カフェ・ミント」
  上田駅前の松尾町「真田坂キネマギャラリー幻灯舎」内にある。上田フィルムコミッションのサテライト店なので、ロケ関係の写真や小道具などが展示されている。
「茶房 読書の森」
  小諸市御牧ヶ原の山の中にある。道が分かりにくいが、それも隠れ家的でいいかも。イラストレーター山口マオさんの作品が多数置かれている。
「カンパアニュ」
  ログハウスの素敵な店。おいしいパンと食事も楽しめる。最近行ってないな。禁煙だからか。
「梅野記念絵画館の喫茶コーナー」
  東御市の芸術むら公園内にある。喫茶コーナーは全面ガラス張りなので、真下の明神池や遠くの浅間山などが見渡せる。眺めは最高。
「アトリエ・ド・フロマージュのティールーム」
  東御市新張(みはり)にある有名なレストランの別棟がティールームになっている。ここも窓が大きいので眺めがいい。
「すみれ屋」
 上記参照。

  他にも気になりながらまだ行っていない店がいくつかある。おまけにベストテン圏外の店をもう3店あげておこう。
「森文」
  柳町にある和風の店。
「デリカフェ」
  上田市の中心部海野町にあるカフェ。
「ヴィエント」
  青木村沓掛にある「リフレッシュパークあおき」のすぐ下にある。ここもベランダが気持ちいい。

<ブログ内関連記事>
喫茶店考
茶房「読書の森」へ行く
パニのベランダで伊丹十三を読みながら
浅間サンライン

2007年3月11日 (日)

冬を見てきた

  「かぐら」でいつもの肉南蛮うどんを食べる。長野県はそばが有名だが、僕は昔からそば070311 よりうどんが好きだ。「かぐら」は昔神楽殿だった建物に使われていた木材を譲り受け、蕎麦屋に改築した店。天井を見ると何本も太い梁が通っている。濃いこげ茶色に塗られていて、何とも落ち着く雰囲気だ。和風のインテリアも建物の雰囲気に合っていて和める。ここで売っているそば茶のティーバッグもうまい。なくなるとここで食事をしたついでに買い足してくる。

  店を出る。いい天気だ。陽気に誘われるようにまたミニ・ドライブに出かける。いつものように行く当てはない。今日は丸子を抜けて武石(たけし)へ行ってみた。以前は武石村という独立した自治体だったが、今は合併で上田市の一部になっている。今の上田市は菅平から美ヶ原までを含むとんでもなく広い面積になっている。

070311_2   まだ3月だというのに日差しが強烈だ。車の暖房は止めてあるが、差し込む日差しで暑いくらいだ。武石沖の交差点で右折。62号線に入る。比較的広い道で交通量も少ないので気持ちよく走れる。車の中で流しているMDはCoccoの「サングローズ」。これはなかなかの傑作だ。声はそれほど独特ではないが、何と行っても曲が良い。他に「クムイウタ」と2枚組み「ベスト」をCDで持っている。

  途中右側に日帰り温泉施設「うつくしの湯」がある。今日はそこを素通り。さらに道をまっすぐ進む。かなり先に行くと左側に美ヶ原に行く道がある。前にここまできたことはある。左折せずにさらにまっすぐ行ってみた。しばらく進むと山の木がどうも白っぽく見えてくる。さっきまでとは違い全体に色が少しかすんで見える。変だなと思っていたら、すぐその理由が分かった。雪だ。何とその先は雪が積もっている。先へ行くほど雪が厚く積もっている。武石のこんな奥まで来たのは初めてだが、何とここにはまだ冬があった。今年は記録的な暖冬で、もう春が来たと思っていたのに。右側に車を停めるスペースがあったので、そこに車を乗り入れて写真を撮ることにした。

  車が先に1台止まっていた。誰も乗っていない。足跡が下の川のほうに続いているの070311_5 で、川で釣りでもしているのだろう。車を停めたところは10センチ近く雪が積もっている。あっという間に靴は雪まみれだ。丁度ダムのすぐ下あたりで、遠くにダムが見える。川を中心に何枚か写真を撮った。雪はつい最近降ったものだろう。風が吹くと雪の粉が飛ばされてちょっとした吹雪のようになる。

  ダムを上から見たくてさらに上まで上がってみた。そこから先の道は除雪されていない。雪は凍結しているようだ。真冬の山道を行く感じ。「チェーンつ070311_6けろ」の看板が何枚もあるが無視。今年買ったばかりのスタッドレスとインプレッサの足回りのよさで何の不安も感じない。ぐいぐい坂を上がる。右下にダム湖が見える。かなり小さいもので、上には真っ白に雪が積もっている。ダム湖は凍結しているのだろう。車を停める ところがないので仕方なくどんどん上がる。このまままっすぐ行けば松本に出てしまう。そこまで行く気はないので途中やや道が広くなったところでUターンした。帰りはどこにも停まらずにまっすぐ戻る。それにしても、数キロ進む間に季節が冬から春に変わって行く。スキー場に行くときも似たような感覚はあるが、本当に雪がなくなった途端にそこは春なのだ。これほど短時間で、劇的な変化は初めての経験。今年のような暖冬の年だけ経験できるものなのだろうか。実に面白い経験だった。

*  *  *  *

  この間映画は台湾映画「深海」と有名なフィルム・ノワール「キッスで殺せ」を観た。「深海」はあまり面白くなかった。ヒロインは美人だが、どうも彼女に共感できない。彼女の行動が理解できない。最後は姉と何とかうまくやってゆけそうでほっとするが、遅すぎた。

  「キッスで殺せ」は都内某所で開かれたフィルム・ノワール上映会で観た。朝の10時から「ローラ殺人事件」、「拳銃魔」、「キッスで殺せ」、日本映画「悪の階段」の4本が上映された。その日上田から行ったので「拳銃魔」の途中から観た。最後の「悪の階段」は時間の関係で半分しか観られなかったので、結局通して全部観たのは「キッスで殺せ」だけ。うう~残念。「キッスで殺せ」は映像が凝っていてなかなか面白かった。DVDを持っているので、機会があればいずれレビューを書いてみたい。鈴木英夫監督「悪の階段」(65)も途中までだがかなり面白かった。出演は山崎努、西村晃、加藤大介、団令子。最近鈴木英夫監督は注目されていて、あちこちで特集上映会が開かれているようだ。今のところカルト映画扱いのようだが、なかなか興味を引かれる。いつかDVDを出してほしい。

  「深海」★★★☆
  「キッスで殺せ」★★★★

  「紙屋悦子の青春」と「トンマッコルへようこそ」はまた長編レビューになってしまった。パソコンをにらみすぎて目が真っ赤になっていた。目がしょぼしょぼするのでぐりぐりこすっていたら、毛細血管が切れていたようだ。反省。

  今日こそ手持ちのDVDを観よう。さて、何にするか。中国映画「心の香り」これは当確。もう1本は日本映画がいいな。ブログの「名作の森(日本映画)」のコーナーが手薄なので少し観だめしておかねば。「夫婦善哉」か「貸間あり」あたりにしようか。

« 2007年3月4日 - 2007年3月10日 | トップページ | 2007年3月18日 - 2007年3月24日 »

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ