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2007年12月

2007年12月31日 (月)

皆様よいお年を

Zouni  いよいよ今年も今日が最後の日となりました。当ブログを読んでいただいた皆様ありがとうございました。お陰さまで、年内の目標だったアクセス数80000を超えることができました。ありがとうございます。

 ブログを始めて1年目は50000という数すら果てしなく遠く思えたものです。本当に「思えば遠くへ来たもんだ」というのが偽らざる実感です。ブログに関して今年一番の出来事はいうまでもなく別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」を新設したことです。5月の下旬にたまたま浦野川を散策したのがきっかけとなり、週末になるとデジカメを持って出かけ、川と橋、路地裏、観光名所などの写真を撮ってくるのが習慣になってしまいました。写真が増えたために本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」が無料で使える限度を超えてしまい、やむなく新しいブログを新設して旅行記や写真日記などをそちらに移す羽目になったわけです。晴天の日はデジカメを持って外に飛び出してゆきたくて仕方がない。お陰で生活のリズムもすっかり変わってしまいました。散々歩き回るので足は丈夫になった気がします。

 しかしそのあおりで映画のレビュー数が激減してしまいました。レビューを期待されていた皆様には本当に申し訳ありません。レビューが減った分を埋めようと、「映画チラシ・コレクション」と「映画パンフ・コレクション」のシリーズを始めたり、映画短評集を復活させたりしました。しかしやはり本格レビューが書けないのは自分でも寂しいと感じます。しかも、写真日記にしろ「映画チラシ・コレクション」にしろTBが送れません。送る先が見当たらないからです。たまにレビューを書いても新作を取り上げることが少なくなってしまったので、これもほとんどTBを送れませんでした。そのせいか今年の中ごろにグーグルのページランクが3から2に落ちてしまいました。1日平均のアクセス数は何とか100を超えてはいるのですが、このままではいずれそれも割ってしまうでしょう。

 ということですので、来年の課題はできるだけ映画のレビューを増やすことです。それもできるだけ新しい作品を多く取り上げたい。昨夜観たペドロ・アルモドバル監督の「ボルベール<帰郷>」は期待をはるかに上回る傑作でした。今日帰省しますのでレビューを書くのは上田に戻ってからになります。これは力を入れて書きたいと思います。「しゃべれどもしゃべれども」は年内には観られませんでしたが、4日までレンタルの期限があるので戻ってきてから観る予定です。

 それではまた来年もよろしくお願いいたします。

2007年12月30日 (日)

リストランテの夜

1996年 アメリカ 1997年4月公開
評価:★★★★☆
原題:Big Night
監督:スタンリー・トゥッチ、キャンベル・スコット
製作:ジョナサン・フィレイ
製作総指揮:デヴィッド・カークパトリック、キース・サンプルズ
脚本:ジョセフ・トロピアーノ、スタンリー・トゥッチ
撮影:ケン・ケルシュ 音楽:ゲイリー・デミシェル
出演:スタンリー・トゥッチ、イアン・ホルム、トニー・シャルーブ
    キャンベル・スコット、ミニー・ドライヴァー、イザベラ・ロッセリーニ
    キャロライン・アーロン、マーク・アンソニー、アリソン・ジャネイ
    ラリー・ブロック、アンドレ・ベルグレイダー、パスクアル・カジャーノ

Cf108  この映画の主題は始まって早々に示される。時は50年代。ニュージャージーの小さな港町にあるイタリアン・レストラン。イタリア移民のプリモ(トニー・シャルーブ)と弟のセコンド(スタンリー・トゥッチ)が経営する小さな店だ。兄がシェフ、弟がギャルソンと経理を担当している。雇い人はクリスティアーノ(マーク・アンソニー)という若者1人。テーブルについている女性客がアレコレと注文をつけている。それまで自分がイメージしていたリゾットと違ったようだ。セコンドがイタリアではそれが本式だと説明しても納得せず、ついにはミートボール入りのスパゲティがほしいと言い出す。しぶしぶ注文を受けたセコンドは兄のプリモにスパゲティを作ってくれと頼む。しかしそれを聞いたプリモは激昂し、どっちも炭水化物だぞ、そんな注文をする奴はどうかしていると断固拒否する(厨房にちゃぶ台がなくてよかった)。

 恐らくこんなやり取りが毎日のように繰り返されているのだろう。セコンドは兄の料理の腕は世界一だと思っている。しかし味音痴のアメリカ人にイタリア料理をそのまま出しても受けつけてもらえないことも分かっている。もっとアメリカ人の舌に合う料理にして欲しいと何度も兄に頼んできたはずだ。しかしプリモは超がつく頑固者。決して自分の考えを曲げない。「お前は料理を妥協しろと言う。イヤだ、そんなことをしたら俺の料理は終りだ。それならいっそ死んだ方がマシだ」と言って譲らない。アメリカに移住して二年たつが、客がつかず今や倒産寸前である。経理担当のセコンドはあちこち走り回って金を借りているがもはや限界。

 こう見ると性格の違う二人の兄弟の確執がテーマのように見える。しかしこの映画のテーマはもっと深いところにある。切羽詰ったセコンドは自分の店のすぐ向かいにある「パスカルズ・イタリアン・グロット」という大繁盛している店の経営者パスカル(イアン・ホルム)に借金を頼みに行く。そこでの二人の会話がこの映画のテーマを端的に示している。

セコンド「イタリアでは苦労しても成功できないが、アメリカはそうじゃない。成功でき
 る。」
パスカル「だからみんなアメリカへ来る。チャンスの国だ。でも、苗を植えて1年じゃイチ
 ジクは収穫できん。・・・男が仕事を終えどこかへ飯を食いに行く。疲れ切って。そいつ
 は面倒な食い物はゴメンなんだ。慣れた食い物がいい。そいつが食いたいのはス
 テーキだ。ステーキが一番だ。肉さえ出してやれば男は喜ぶ。誤解しないでくれ。お
 前の兄貴のプリモは抜群の料理人だ。」
セコンド「天才的だ。世界一だよ。」
パスカル「そうとも、だがそれじゃ成功せん。客の食いたいものを出せ。シャレた料理は
 その後だ。」

 ぶつかり合っているのは兄弟二人の性格だけではない。この店がイタリアにあったのなら生じ得なかった対立だ。アメリカとイタリア、この2つの文化の間の違いが問題の根源である。ファスト・フードを食べ慣れたアメリカ人に下ごしらえにたっぷり時間をかけて作ったイタリア料理を出す。当然はやらない。商売に徹して信念を曲げるか、あくまで信念を貫くのか。二人の間に立ち塞がっていたのは見えない文化の壁だった。「ベッカムに恋して」「やさしくキスをして」「ぼくの国、パパの国」「スパングリッシュ」に通じる主題がそこにある。

  セコンドがリゾットは手間がかかりその分値段も張るのでメニューからはずそうと兄に持ちかけると、兄はあっさりOKした。しかしその後でこう提案する。「代わりにホットドッグを出せばいい」と。プリモには「おかしいのはアメリカ人の舌のほうだ」という信念がある。もちろん、商売である以上うまければいいというだけでは成り立たない。ビジネスの問題が中心にあるようにも見える。実業家としてのレストラン・オーナーの価値観とこだわりの味職人の価値観のぶつかり合い、その間に挟まって苦労する弟という図式になっている。だが、その背後に異文化の衝突という問題、さらには薄っぺらなアメリカ文化への批判が込められていることを見落とすべきではない。

Dinner3b  だが、言うまでもなく、この映画は根底にあるテーマだけをひたすら押し出した映画ではない。料理をテーマにした映画らしく、メインディッシュの他に兄弟愛や兄弟二人の恋物語というサイドディッシュを用意し、コメディと人情ドラマの味付けを施している。ストーリー展開上重要な位置を占めるのが「仕掛け人」としての役割を果たすパスカルである。彼はセコンドの借金の申し出を断るが、代わりに友人であるジャズ歌手のルイ・プリマが来週町に来るので、招待して名前を広めてもらえと助言するのだ。後がないセコンドはこの「ビッグ・ナイト」に一発勝負をかける。

 もてなし作戦はうまく行くのか、店は持ち直すのか、これがストーリーを動かし、観客の関心をひきつけるドライブとなっている。もちろん計画はすんなり進むわけではない。途中で ルイ・プリマがパスカルの友人だとプリモにばれてしまう。プリモは友人アルベルト(パスクアル・カジャーノ)の床屋で荒れ狂う。その言葉がすさまじい。「毎晩あの店(パスカルの店)で何が行われていると思う?レイプ、レイプ、料理の陵辱だ。」とにかくこの男の頑固さは並大抵ではない。性格は単純明快で、全く冗談の通じない男だ(「外は雨」という歌詞をめぐるエピソードが可笑しい)。セコンドの言によれば、プリモは車の運転もできない。「兄貴が乗り物に乗ったのはアメリカへの船だけ。それでもう充分なんだよ。」そういう男だから女性には滅法弱い。花屋のアン(アリソン・ジャネイ)に思いを寄せているが(本人は隠しているつもりでも、傍からは見え見え)、自分からは何も言い出せない。パーティ用の花を注文するついでにアンをパーティに誘って来いと弟に言い聞かされるが、会話は弾まず、結局花だけを頼んで帰ってくるエピソードが愉快だ。そう、そういう純情朴訥な性格だから憎めないのだ。

  一方のセコンドにもフィリス(ミニー・ドライヴァー)という恋人がいる。このセコンド、髪をオールバックにしている様はなかなかの美男子。ギャルソンの格好をしているとアンディ・ガルシア並みに隙がない。当然もてもてなのだが、フィリスと車の中で抱き合っている時に意外に固い面を見せる。フィリスがその気になると、そういうことは大事な時まで取っておこうなどと言い出すのだ。イタリア人にしては珍しい奴だと思っていると、何と彼にはもうひとり別の愛人がいたのである。パスカルの店のマネージャーをしているガブリエラ(イザベラ・ロッセリーニ)という超ゴージャスな女性。そこはやはりイタリア人、ちょい悪親父の素質充分。この危険な火遊びがパーティの場でちょっとしたサスペンスを作る下地になっている。

 こうして、個人の煩悩も絡めてクライマックスのパーティへとストーリーは展開してゆくのである。セコンドがありったけの金をかき集めて準備した「勝負」パーティ。なにしろ銀行で金をおろした後の残高は62ドル47セントしかないのだから文字通り背水の陣である。失敗すれば明日から文無しだ。一時へそを曲げたプリモもさすがに現場復帰(さりげなく戻ってきて、弟と交代する場面がいい)。腕によりをかけて自慢の料理を作る。時間がかかるティンパーノという包み焼きを作るというのでまた弟が反対するという一幕を経て、いよいよパーティーに突入(結局ティンパーノは作ることになった)。

 フィリス、アン、アルベルト、ボブ(キャンベル・スコット)、そしてパスカルとガブリエラなどの友人たちが集まりいつにない大盛況。口パク芸を披露するおじさん(日本でいえばドジョウすくいのような宴会芸だろう)が登場したりと、宴会はガンガン盛り上がる。そしていよいよ料理登場。皆一斉にテーブルに着く。ここのキャメラワークがうまい。縦長のテーブルを手前から映し、キャメラが引いてゆくに連れて奥から客が次々に座ってゆく。後はもう料理の嵐。客たちはほとんど陶酔の境地。ティンパーノを食べたパスカルに至っては、プリモの首を絞めて「殺したいほどうまい」と言ったほどだ。ガブリエラとフィリスが始めて遭遇するなどハラハラする場面も差し挟みながらパーティーは進む。デザートが出てくる頃には客は全員満足して言葉もない。ぐったりとイスに倒れこんでいる(ある女性客などは大胆にもテーブルの上に横になっている)。しかし肝心な主賓がいつまでたっても現れない。

Rose  きっとぎりぎり最後になって劇的な登場の仕方をするのだろうという観客の期待を裏切り、結局最後までルイ・プリマは現われなかった。実はパスカルは彼に電話をしていなかったのだ。来るはずはない。彼のもくろみはセコンドたちを破産させ、自分の店で雇おうという腹黒いものだった。彼は「わしは実業家だ。商売のためなら何でもする。お前に何ができる?」と言い捨てて平然と立ち去る。その上、あろうことか、セコンドはガブリエラと抱き合っているところをフィリスに見られてしまう。さらにはプリモがローマに店を出したおじさんのところで働くことを計画していたことが分かり、セコンドとプリモは浜辺で大喧嘩。すべては音を立てて崩れていった。

 何とも苦い結末である。その意味でこの映画は単なる人情ドラマやハートウォーミング・コメディではない。しかし決してペシミスティックな映画ではない。この映画はセコンドたちが浜辺で立ち尽くすシーンで終わるのではない。ラストにはほのかな明るさがある。翌朝、厨房のテーブルの上でクリスティアーノが寝ている。セコンドが入ってきて、3人分いり卵を作る。せりふもなく黙々と食べる二人。そこへプリモが入ってくる。黙ってプリモの分を差し出すセコンド。兄弟並んで食べる。互いに腕を相手の背中に回しながら。

 その後二人はどうなったのか、いやでもそのことに考えをめぐらさずにはいられない映画だ。「うまいものを食うのは神に近づくこと」と言っていたプリモはローマに行ったのか。それともセコンドに引きずられてもう一度アメリカで再起を期す決意をしたのか。あるいはパスカルの店で働いているのか。

 この映画に根っからの悪人は登場しない。文化間の衝突を描いた映画はほとんどそういう設定になっている。「ベッカムに恋して」しかり、「やさしくキスをして」しかり、「ぼくの国、パパの国」しかり、「スパングリッシュ」しかり。誰も悪意はないのにぶつかり合ってしまう。パスカルも心からプリモの料理を褒めていた。彼の腕を認めているからこそ、彼を自分の店で雇いたいのだ。彼は彼なりに実業家としての自分の信念に従ったのだ。プリモを頭の固い奴だと責めても仕方がない。彼にも揺るがない信念がある。もっと柔軟な対応が必要だとわれわれは感じるが、だからと言って彼の信念それ自体を簡単に否定できるだろうか。信念を捨てることは自分の文化を捨てることだ。朝日新聞12月7日付の「私の視点」欄に“日本人の劣化:「型通り」もできぬ大人たち”と題する岸本葉子さんの文章が載っていた。

 (コンビニやファストフードで働く若者たちに対して)マニュアル通りとか、心がこもっていないとか、言う人もあるけれど、その批判は、マニュアル通りした上でのこと。・・・07年、約束を守る、ごまかさないといった「型通り」のこともできなかった大人たち。08年、まずは、あの子たちを見習ってみませんか。

 セコンドとプリモが迫られていたのは人生の選択である。二人とも、いやパスカルも含めて、夢を求めてアメリカにやってきた。映画は最後に「この二人はその後どうなったのか」という疑問を観客に突きつけて終わる。そこには、アメリカは自分の文化を捨ててまでしがみつく価値があるのかという問いかけもあるのだ。人間は誰でも悩みつつ、時には挫折しつつ、自らの道を選び取ってゆかねばならない。文無しになったからといって人生は終わらない。二人はまた何らかの道に進みだすだろう。「リストランテの夜」は人生のアイロニーをにじませたほろ苦い人生の讃歌なのである。

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2007年12月29日 (土)

寄せ集め映画短評集 その17

Xmastree  このところ映画レビューが滞っています。映画は観ているのですが、なかなかレビューを書く気力が湧きませんでした。「ゴブリンの映画チラシ・コレクション⑤」で書いた「洲崎パラダイス」、「十三人の刺客」、「六ヶ所村ラプソディー」以降に観たのは、「ラストキング・オブ・スコットランド」、「みえない雲」、「リーグ・オブ・レジェンド」、「リストランテの夜」の4本。それと昨日「しゃべれどもしゃべれども」と「ボルベール<帰郷>」を借りてきました。「リストランテの夜」は今レビューを準備中です。「しゃべれどもしゃべれども」と「ボルベール<帰郷>」も期待通りの出来ならばレビューを書きたいと思っています。年内に何とか2本はレビューを書きたい。ただし正月に帰省している間は一切パソコンから離れ、のんびり読書にふけろうと思っています。

「ゴブリンの映画チラシ・コレクション⑤」に載せた「洲崎パラダイス」短評を再録しておきます。)

「洲崎パラダイス」(1956年、川島雄三監督、日本)  
 評価:★★★★

 「洲崎パラダイス」は期待通りのいい映画だった。原作を読んだときは義治のだらしなさにいらいらし、またそんなだらしない男との腐れ縁を断ち切れない蔦枝にもいらいら。散々つかず離れずを繰り返した挙句、最後に蔦枝は義治と二人で洲崎を出てゆく。何なんだこいつらは。淡々とした芝木好子のタッチにもあまり馴染めず、あまり面白くないという印象を持った。最初に読んだ芝木好子の小説は『隅田川暮色』。これも最初は彼女の乾いた文体に馴染むのに時間がかかっ たが、一旦馴染んでしまうと一気に読めた。しかし『洲崎パラダイス』は洲崎遊郭界隈を舞台にした短編を集めた短編集なので、それぞれの世界に入り込める前にあっさり読み終わってしまう。全体に印象の薄い本だったのである。

 川島雄三監督の映画版はかなり原作に忠実な作品なので、映画でももちろん上記の点に関してはいらついた。しかし実際の人間が演じる映画になるとどういうわけか話に色艶が出てくる。なんと言っても蔦枝を演じた新珠三千代がいい。これまで特にいいと感じたことのなかった女優だが、「洲崎パラダイス」の彼女は実に魅力的だった。特に目がいい。大好きな淡島千景を思わせる雰囲気が気に入った。義治役は何と三橋達也。あまりに若すぎて最初はすぐには気づかなかった。 時々ある角度で顔が映ったときやちょっとしたせりふを言ったときの声で確かに彼だと分かる。

 この映画の魅力はもう一つある。洲崎遊郭の入り口である橋の手前にある飲み屋。観ているうちにまるで「男はつらいよ」の「とらや」のような居心地の良さを感じてくるから不思議なものだ。そこの女将を演じる轟夕起子がいい。「三四郎」、「武蔵野夫人」など何本か出演作を観たが、脇役俳優なので彼女の記憶はない。これほど印象的な彼女を観たのは初めて。下町のおっかさんという庶民的な佇まいが素晴らしい。飯田蝶子や望月優子とはまた違う、もっとお母さんという雰囲気。全く昔の日本映画の脇役陣は本当に層が厚かった。他にも芦川いづみや小沢昭一も少ない出番でしっかり存在感を示している。さすが川島雄三、なかなかの秀作だった。

「ラストキング・オブ・スコットランド」(ケヴィン・マクドナルド監督、英米)
 評価:★★★☆

 「ホテル・ルワンダ」「ナイロビの蜂」のような社会問題を扱ったものではなく、アミン大統領のお抱え医者になったイギリス人がいかにウガンダから脱出するかに焦点が当てられているサスペンス映画だった。その分エンターテインメント寄りの作品になっており、問題を充分深く掘り下げているとはいえない。どちらかと言えば「ブラッド・ダイヤモンド」や「輝く夜明けに向って」に近いタイプの映画である。

 しかしただ軽い娯楽映画というわけでもない。最初は明るく気さくだった「解放者」アミンが悪名高い「虐殺者」アミンになる過程をイギリス人医者の目から描いているところにこの映画の価値がある。確かにフォレスト・ウィテカーの存在感は抜群である。笑福亭鶴瓶が黒塗りで出てきたような顔でとてもうまい俳優には見えないのだが、こういう気のいいおっさんのような役柄は合っている。後半の疑い深い表情に変わって行くあたりもなかなかの熱演だ。ただ、暗殺者に狙われているというだけでは彼の豹変の説明としては弱い。フォレスト・ウィテカーが熱演しているだけに彼の人物像をもっと掘り下げられなかったのが残念である。いや、問題はそれにとどまらない。虐殺にいたる原因をアミン個人の資質に矮小化していることも問題なのだ。もっと歴史的、政治的事情があったはずだ。その点も物足りない。

 イギリス人医師役のジェームズ・マカヴォイは対照的に線が細く、それだけにフォレスト・ウィテカーに比べると見劣りする。しかしそれがまた彼の判断力の甘さに合っていると言えなくもない。彼が働くことになった病院の立派さ、街の大きさには驚いたが、医療の現場にいればもっと人々の苦しみやそれを充分救えない無力感に苦しんでいるはずだ。その辺もあっさり描かれている。後半はもっぱらいかに脱出するかという展開になってしまっている。国を出られない人々の苦悩は蚊帳の外に置かれてしまった。「ホテル・ルワンダ」は西洋の資本で作られており、主人公も英雄視されているが、それでも主人公をアフリカ人にしている点が重要である。同じ問題を描く場合でも、誰を主人公にし、どこに焦点を当て、どのような視点から描くかで出来上がった作品は大きく異なってしまう。「ラストキング・オブ・スコットランド」は最初から最後まで西洋人の視点で描かれた映画だった。

「みえない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督、ドイツ)
 評価:★★★★

  思った以上に良くできている映画だった。このところドイツ映画は好調だ。80年代に一世を風靡したニュー・ジャーマン・シネマ以降90年代後半に一時停滞期もあったが、このところだいぶ世代交代が進んで新しい才能が出てきた。もっとも「アグネスと彼の兄弟」は観ていて気持ちが悪くなったが。これは「リストランテの夜」と同じ日に観たのだが、後半の3分の2は早送りにしてさっさと終わらせたのでここでは取り上げない。

 「みえない雲」は「宇宙戦争」と比較するとその意義が見えてくるだろう。ともに人間の力をはるかに超えた「敵」から逃げ回る映画だ。破壊や災害をこれでもかとスペクタクルとして描くことよりも、追われる人間たちの恐怖に焦点を当てている。共に強大な「敵」を前にしては人間など卑小な存在だと思わせる。「宇宙戦争」は圧倒的な科学力を持つ宇宙人の地球襲撃という形で人間の思い上がりを叩きのめし、驕りを剥ぎ取った。しかし人間を追い詰める恐るべき力を持った敵は何も地球外から持ってくる必要はない、人間を脅かす脅威はすぐそこにあるということを示したのが「みえない雲」である。この映画の価値はそこにある。人間の最大の敵は自分でコントロールできない「鬼っ子」を安易に作り出し、ずさんな管理をしてきた人間の愚かさである。放射能を帯びた雲がトライポッドのように人間に襲いかかる恐怖。それが単なるフィクションでないからこそ怖いのだ。この映画は「六ヶ所村ラプソディー」とセットで観るべき映画なのである。

 単なるホラー映画になってしまった「28日後・・・」や地球温暖化による大規模な気候変動で氷河期のようになってしまった世界を描いたパニック映画「デイ・アフター・トゥモロー」などよりはるかに真剣に身近な危機を描いている。この映画のユニークな点は、恐怖とパニックを描きながらも被曝による後遺症に充分時間を割いていることである。髪の毛がすべて抜けてしまったハンナの姿は、ある意味で、車にひき殺された彼女の弟ウリーの姿以上に訴える力を持つ。パニックは過ぎた。しかし被曝した人たちの戦いはその後から始まるのだ。

 原作はチェルノブイリ原発事故直後の87年に発表されたベストセラー少説。当時は相当ショッキングだったと想像される。日本人の目からすると被曝がもたらす障害が軽すぎる気がする。またハンナとエルマーの恋愛も暗さを救ってはいるがやはりありきたりだという気がする。しかし絶望的状況に置かれた人間は支えなしには生きられない。美しすぎるストーリーではあるが無意味ではない。

 ヒロインのハンナを演じたパウラ・カレンベルクがなかなかいい。この映画の欠点は迫り来る放射能の恐怖と、被曝の恐怖ばかりがクローズアップされており、なぜ事故が起きたのかはなんら追及されていないことだ。放射能は確かに恐怖だ。しかしそれを作り出し管理しているのは人間である。放射能汚染に対する一般市民の無知。汚染された食べ物を通じて内部被曝する恐怖。その点の追求が全くなされていない。その点は「六ヶ所村ラプソディー」と比べると不満が残る。

 しかし、実は主演のパウラ・カレンベルク自身がその恐怖を体現していた。公式サイトに掲載されている和久本みさ子氏の評論に驚くべきことが書いてあった。パウラはチェルノブイリの事故と同じ年に生まれたのである。妊娠中の母親は被曝していたのだろう。パウラの心臓には穴があいていた。その時にレントゲンを撮ってさらに驚くべき事実が判明した。彼女には片肺がなかったのである。放射能被曝の恐怖は決してどこか遠い世界の出来事ではないのだ。

「リーグ・オブ・レジェンド」(スティーヴン・ノリントン監督、アメリカ)
 評価:★★★☆

  B級映画かと思っていたが意外に金をかけた大作だった。寄せ集めのキャラクターはめちゃくちゃだが、典型的なジェットコースター・ムービーで飽きさせない。しかしその集められた面子のめちゃくちゃなこと!いやあ、作っている人たちが実に楽しそうに遊んでいます。

 世界大戦を引き起こそうとする仮面の武器商人ファントムの陰謀を防ぐために集められSdmoonship03 た有名な小説の登場人物7人。ヘンリー・ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』などから伝説の冒険家アラン・クォーターメイン、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』から女吸血鬼ミナ・ハーカー、ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』のネモ艦長、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』からアメリカの諜報員トム・ソーヤー、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』からドリアン・グレイ、ロバート・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』からジキル&ハイド、H.G.ウェルズの『透明人間』から透明人間ロドニー・スキナー。彼らを集めたのが英国軍事情報部のMというのが可笑しい。さらにファントムの正体がシャーロック・ホームズの宿敵モーティマー博士というおまけまで付いている。サービス満点だ。

 原作の漫画にはドリアン・グレイとトム・ソーヤーは含まれていないらしい。それにしても、冒険家、吸血鬼、透明人間、ネモ艦長くらいまではなぜ選抜されたかまだ理解できる。トム・ソーヤーとジキル&ハイド、それに極めつけはドリアン・グレイが一体何の役に立つのか?それがこの映画を観る前に感じていた疑問だった。正直トム・ソーヤーは本当に必要だったのか疑問だ。別にトム・ソーヤーである必然性は感じられなかった。ジキル&ハイドは納得。ハイドはまるで超人ハルクのようになってしまうわけね。リーグの中に怪力キャラは確かに必要だったかも。ドリアン・グレイは不死身キャラだった。なるほど。原作では、ドリアンは不思議な想像画を書いてもらってから永遠の若さと美貌を手に入れた。代わりに肖像画の中の顔が老いてゆき、おぞましく変わって行く。映画のスタッフたちはそこに不死身キャラを見出したわけだ。ほとんどお遊びですな。このままでは醜い自分の肖像画がいつまでも残ってしまうと、ドリアンが肖像画の中の自分を刺すと、肖像画のドリアンは元の若い姿に変わり、ナイフが刺さって倒れていたのは醜い姿の老人だったという有名なラストは映画にも取り入れられている。

 キャラ以外で秀逸なのは薄っぺらなノーチラス号の形。さながらフランス・アニメ「ベルヴィル・ランデブー」に出てくるありえないほど幅が狭く喫水線が極端に低い船のようだ。あれでどうして横に倒れない?まあ、難しいことは言いっこなし。楽しめばいいさ。

「リストランテの夜」(キャンベル・スコット、スタンリー・トゥッチ監督、米)
 評価:★★★★☆

  この映画については本格レビューを書くつもりなので、ここでは前書きだけにとどめたい。「リストランテの夜」は1997年4月に劇場公開されている。同年12月にビデオで観た。したがって今回DVDで観たのは丁度10年ぶりになる。悲しいかなほとんどストーリーは忘れていた。しかしその分新作を観るような新鮮な気持ちで観ることができた。ユーモアを絡めながら、最後には人生のほろ苦さを感じさせる。じっくりと寝かせたワインのような大人の味わい。改めていい映画だと思った。

 レストランや食堂、あるいは食事や料理を作品の重要な要素にしている映画はかなりある。同じ97年に公開された「パリのレストラン」を始め、「マーサの幸せレシピ」、「バベットの晩餐会」、「かもめ食堂」「めがね」、「ギャルソン」、「フライド・グリーン・トマト」、「アリスのレストラン」、「ディナー・ラッシュ」、「アントニアの食卓」、「エイプリルの七面鳥」「タッチ・オブ・スパイス」、「スパイシー・ラブ・スープ」、「芙蓉鎮」「恋人たちの食卓」「孔雀 我が家の風景」変わったところではノルウェーとスウェーデン合作の「キッチン・ストーリー」もある。未見だが「レミーのおいしいレストラン」や「星降る夜のリストランテ」もある。

 料理以上に重要なテーマはイタリア系移民というテーマである。今でこそイタリア系の俳優や監督は珍しくないが、かつては黒人俳優と同じく滅多に主役としてスクリーンには登場しなかった。有名なのはイタリア系とプエルト・リコ系の不良グループが対立する「ウエスト・サイド物語」くらいではないか。WASPが主流の社会なので、カトリック系のイタリア人やアイルランド人は同じ白人の中でも低く見られていたのである。ナチの脅威を逃れてきたドイツ系の俳優や監督が古くからアメリカで活躍していたのとは対照的だ。イタリア系の映画人が続々登場したのは70年代以降である。監督としては、例えば、フランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、マイケル・チミノ、クェンティン・タランティーノ、俳優ではロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、シルベスター・スタローン、ジョン・トラボルタ、レオナルド・ディカプリオ、ニコラス・ケイジ、レネ・ルッソ、ダニー・デヴィート、ジョン・タトゥーロあたり。

 映画もイタリア系アメリカ人を主人公にした作品が次々に生まれた。マーティン・スコセッシ監督の「ミーン・ストリート」、「タクシー・ドライバー」、「レイジング・ブル」を初め、「ゴッドファーザー」、「死刑台のメロディ」(イタリア映画)、「ブロンクス物語」、「サタデー・ナイト・フィーバー」、「ジャングル・フィーバー」、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、「月の輝く夜に」、「グッド・フェローズ」、そして「ロッキー」シリーズなど。テレビ番組だが「刑事コロンボ」シリーズのコロンボ(コロンブスのイタリア語表記)もイタリア系だ。

 ストーリーはアメリカに成功を求めてやってきたイタリア人の兄弟がレストランを開くが、味音痴のアメリカ人には本格的イタリア料理は口に合わない。店の経営は苦しい。そこに近くの繁盛しているイタリアン・レストランの経営者が、有名人のジャズ歌手を紹介するから歓待しろと持ちかけるというもの。二人は店の命運をかけてパーティーの準備をする。表面的にはアメリカ人向きに料理を作りかえることを拒否する頑固な兄とそうは言っても客が来なくては商売にならないと考える弟の対立のように見える。しかし基本的な構図は、繁盛しているレストラン・オーナーの実業家的価値観とこだわりの味職人の価値観のぶつかり合い、その間に挟まって苦労する弟という図式なのである。したがって、そこには「ぼくの国、パパの国」や「スパングリッシュ」に通じる文化の衝突、あるいはアメリカの薄っぺらな文化批判というテーマが隠れている。その点を見落とすべきではない。

  * * * * * * * * * * * *

 ここに来て「ジェイムズ 聖地へ行く」、「フリーダム・ライターズ」、「レミーのおいしいレストラン」、「フランシスコの2人の息子」あたりが一気に1週間レンタルになった。トニー・ガトリフ監督の「トランシルヴァニア」はまだ出たばかりだが、これは新作でも借りたい。正月はゆっくりするとしても、年末から年始は映画鑑賞とレビューで忙しくなりそうだ。

2007年12月25日 (火)

マイCDコレクション 今年の成果(07年)

L213_2  今年の総まとめとして、今年入手したCDで満点(5つ星)をつけたものを挙げておきます。今後聞いたものも順次追加してゆきます。

 この1、2年はブログのせいでCDの方はすっかり片隅に追いやられてしまっています。今年はその上にデジカメをもって写真を撮りに行く楽しみにはまってしまったため、映画のレビューすらめっきり減ってしまいました。音楽雑誌は買い続けているのですが、読んでいる暇がない。したがって新譜の情報はまったくの手薄。

 これには困った。中古店に新しい商品が入っても買っていいものかどうか分からない。何せ僕は新譜レビューだけでCDを選んでいるので、レコードで既に持っている物をCDで買いなおす場合を除いて、買ってきて初めて聞くわけですから。一時FM放送をよく聴いていた時期には、耳で聞いてから気に入ってレコードを買ったことはありました。しかしクラシック一辺倒だった70年代半ば以降30年以上にわたって基本的にはレビューだけで選んできたのです。

 そんなわけで買い控えになりがちだったのですが、12月に入ってその反動なのかアマゾンで大量に注文してしまった。その数50枚弱。それ以外にも地元の中古店で買ったものを入れると50枚を超える。1ヶ月にこれだけCDを買ったことは恐らく過去にないだろう。東京にいたとき、1ヶ月にレコードを70枚買ったことはあるが、CDになってからはこれが最高だろう。ほとんど自棄買い。でも選びに選び抜いたものばかりなので満点献上率は高い。来年はもっとこまめに新譜をチェックしよう。

【ロック/ポップス/ヴォーカル/その他】
アーロ・ガスリー&ピート・シーガー「プレシャス・フレンド」
エイミー・マン「ザ・フォーゴトン・アーム」
エリック・クラプトン「バック・ホーム」
コールドプレイ「静寂の世界」
ケリ・ノーブル「フィアレス」
ジェイムズ・モリスン「ジェイムズ・モリスン」
J.J.ケイル&エリック・クラプトン「ザ・ロード・トゥ・エスコンディド」
ジェス・クライン「ストロベリー・ラヴァー」
ジョニ・ミッチェル「バラにおくる」
ジュリア・フォーダム「揺るがぬ愛」
ティム・バクリー「ドリーム・レター ライヴ・イン・ロンドン 1968」
ドゥルス・ポンテス「ラグリマス」
ドノヴァン・フランケンレイター「ムーヴ・バイ・ユアセルフ」
ニール・ヤング「プレイリー・ウィンド」
ポール・マッカートニー「ドライヴィング・レイン」
フランシス・ブラック「トーク・トゥー・ミー」
Sunobo1s リアン・ライムス「ディス・ウーマン」
ロビー・ウィリアムス「インテンシヴ・ケア」

【日本】
鬼束ちひろ「This Armor」
鬼束ちひろ「インソムニア」
Cocco「ベスト・裏ベスト・未発表曲集」
サディスティック・ミカ・バンド「ナルキッソス」
スピッツ「サイクル・ヒット 1991-97」
畠山美由紀「Diving into your mind」
矢井田瞳「I / flancy」

【北欧】
ヴァルティナ「イキ」
ケント「ハグネスタ・ヒル」
シセル「オール・グッド・シングス」
シセル「イン・シンフォニー」

【ケルト・ミュージック/ブリティッシュ・トラッド】
ヴァシュティ・バニヤン「ルック・アフタリング」
ヴァン・モリスン「ダウン・ザ・ロード」
クラース・ドルテ「イン・マイ・ネーム」
クラナド「ランドマークス」
サンディ・デニー「サンディ」
シャロン・シャノン「チューンズ」
ジョン・レンボーン「ア・メイド・イン・ベドラム」
ジョン・レンボーン「ザ・ナイン・メイデンズ」
チェリッシュ・ザ・レディーズ「スレッズ・オブ・タイム」
デフ・シェパード「シナジィ」
ニーヴ・パーソンズ「イン・マイ・プライム」
フォー・メン・アンド・ア・ドッグ「ロング・ローズ」
ブリジット・セント・ジョン「ソングズ・フォー・ザ・ジェントルマン」
ミジャドイロ「カリシアの誘惑」
ロリーナ・マッケニット「マスク・アンド・ミラー」
VA「ザ・ベスト・オブ・ブリティッシュ・フォーク」
VA「ケルティック・タイド」
VA「ケルティック・サークル」

【ジャズ】
Akiko「シンプリー・ブルー」
エディ・ヒギンズ・トリオ「魅惑のとりこ」
オスカー・ピーターソン「ザ・ジャズ・ソウル・オブ」
木住野佳子「フォトグラフ」
キース・ジャレット「カーネギー・ホール・コンサート」
キャノンボール・アダレイ「イン・サンフランシスコ」
ケント「ハグネスタ・ヒル」
シェリル・ベンティーン「トーク・オブ・ザ・タウン」
ジェーン・モンハイト「テイキング・ア・チャンス・オン・ラヴ」
ジャニス・シーゲル「アイ・ウィッシュ・ユー・ラヴ」
ソニー・ロリンズ「ソニー・ロリンズ・アンド・ザ・コンテンポラリー・リーダーズ」
ダイアン・リーブス「リトル・ムーンライト」
ニーナ・フリーロン「テイルズ・オブ・ワンダー」
パット・マルティーノ「ライヴ!」
ビレリ・ラグレーン「ムーヴ」
ボブ・バーグ「あなたと夜と音楽と」
ボブ・ミンツァー「バップ・ボーイ」
マイルス・デイビス「死刑台のエレベーター」
マンハッタン・ジャズ・クインテット「アイ・ガット・リズム」
マンハッタン・トランスファー「クドゥント・ビー・ホッター」
マンハッタン・トリニティ「ミスティ」
ミシェル&トニー・ペトルチアーニ「カンバーセイション」
矢野沙織「02」
  〃  「サクラ・スタンプ」
リーコニッツ「モーション」
サントラ「僕のスウィング」

【ソウル/R&B/ブルース】
ケリー・プライス「ディス・イズ・フー・アイ・アム」
スーザン・テデスキ「ホープ・アンド・デザイアー」
     〃     「ライブ・フロム・オースティン」
ディー・ディー・ブリッジウォーター「レッド・アース」
ナタリー・コール「リーヴィン」
ピンク「ミスアンダーストゥッド」
サントラ「ドリームガールズ」

2007年12月24日 (月)

マイDVDコレクション 今年の成果(07年)

Dan01bw  ようやく日本映画の古典的名作も廉価版が発売されるようになった。喜ばしいことだが、ようやく今頃になってというのが偽らざる気持ち。今後も続けて出して欲しい。「生きるべきか死ぬべきか」、「山猫」、「M」、「亀も空を飛ぶ」、「推手」などは、長い間適切な値段の中古品や廉価版を待ち続けてようやく手に入れた。「無法松の一生」の発売も永いこと待ち続けたものだ。

 一方、「牛泥棒」、「恐怖省」、「たそがれの維納」、「戦争は終わった」、「旅の重さ」など、こんなものまで出ていたのかと驚く作品も入手できたのはうれしい。「僕は子持ち」、「パパってなに?」、「ムムー」、「ただいま」、「もういちど」などは観たことがない作品。拾い物だといいが。

 未入手のものではなんと言っても「にがい米」と「ミラノの奇跡」の発売がうれしい。ほとんど手が付けられていなかったイタリア映画の傑作群にようやく手が入った。まだまだ氷山の一角。続けてどんどん出して欲しい。「最後の人」、「スピオーネ」等のドイツ映画の古典、イギリスの古典的ドキュメンタリー映画「エヴェレスト征服」などが発売されたのも画期的な出来事だ。来年は何が出てくるのか、楽しみだ。

 なお、去年と今年に公開された作品は基本的にリストから除いてあります。また、昨年の成果については本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」のmiscellanyコーナーに「マイDVDコレクション 今年の成果 06年」という記事がありますので、そちらをご覧になってください。

【今年の大成果 ベスト10】
「生きるべきか死ぬべきか」(エルンスト・ルビッチ監督)
「恐怖省」(フリッツ・ラング監督)
「M」(フリッツ・ラング監督)
「山猫」(ルキノ・ヴィスコンティ監督)
「亀も空を飛ぶ」(バフマン・ゴバディ監督)
「心の香り」(スン・チョウ監督)
「酔画仙」(イム・グォンテク監督)
「タヴィアーニ兄弟傑作選」
「無法松の一生」(稲垣浩監督、阪東妻三郎)
「ケン・ローチ傑作選 DVD-BOX」

【今年入手した主なDVD】
■アメリカ映画
「牛泥棒」(ウィリアム・A・ウェルマン監督)
「フープ・ドリームス」(スティーヴ・ジェームズ)
「キス・ミー・ケイト」(ジョージ・シドニー監督)
「グロリア」(ジョン・カサヴェテス監督)
「フィルム・ノワール・コレクション vol.2」
「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」(マイケル・カーティス監督)

■ヨーロッパ映画
「アパートメント」(ジル・ミモーニ監督)
「春にして君を想う」(フリドリック・トール・フリドリクソン監督)
「双頭の鷲」(ジャン・コクトー監督)
「僕は子持ち」(ラッセ・ハルストレム監督)
「恋の秋」(エリック・ロメール監督)
「イジィ・トルンカ作品集vol.4」
「イジィ・トルンカ作品集vol.5」
「愛と宿命の泉」(クロード・ベリ監督)
「逢びき」(デヴィッド・リーン監督)
「エヴェレスト征服」(ジョージ・ロウ監督)
「南極のスコット」(チャールズ・フレンド監督)
「ルキーノ・ヴィスコンティ DVD-BOX」
「王と鳥」(ポール・グリモー監督)
「さくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ監督、他)
「コールドフィーバー」(フリドリック・トール・フリドリクソン監督)
「ベルリン・天使の詩」(ヴィム・ヴェンダース監督)
「美しき諍い女」(ジャック・リヴェット監督)
「たそがれの維納」(ヴィリ・フォルスト監督)
「リスボン物語」(ヴィム・ヴェンダース監督)
「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督)
「世にも怪奇な物語」(フェデリコ・フェリーニ監督、他)
「戦争は終わった」(アラン・レネ監督)
「危険な階段」(ロベール・オッセン監督)

■旧ソ連/ロシア/周辺諸国
「イワンと仔馬」(A・スネシュコ・ブロツカヤ、V・グローモフ監督)
「パパってなに?」(パーヴェル・チュフライ監督)
「ロシア・アニメーション傑作選集vol.1」
「ロシア・アニメーション傑作選集vol.3」
「ムムー」(ユーリー・グルィモフ監督)
「クロイツェル・ソナタ」(ミハイル・シュヴァイツェル、ソフィア・ミリキチ監督)
「旅立ちの汽笛」(アクタン・アブディカリコフ監督)

■アジア・アフリカ・中東映画・オーストラリア
「ただいま」(チャン・ユアン監督)
「推手」(アン・リー監督)
「わが家の犬は世界一」(ルー・シュエチャン監督)
「一瞬の夢」(ジャ・ジャンクー監督)
「スプリング春へ」(アボルファズル・ジャリリ監督)
「もういちど」(ポール・コックス監督)
「アマンドラ!希望の歌」(リー・ハーシュ監督)
「アフガン零年」(セディク・バルマク監督)

■日本映画
「不毛地帯」(山本薩夫監督)Photo
「銀座化粧」(成瀬巳喜男監督)
「お遊さま」(溝口健二監督)
「おかあさん」(成瀬巳喜男監督)
「武蔵野夫人」(溝口健二監督)
「川本喜八郎作品集」(川本喜八郎監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「天国と地獄」(黒澤明監督)
「旅の重さ」(斎藤耕一監督)
「青い山脈」(今井正監督)

【未入手 but よくぞ出してくれました】
「英国式庭園殺人事件」(ピーター・グリーナウェイ監督)
「偽れる盛装」(吉村公三郎監督)
「夜の河」(吉村公三郎監督)
「下郎の首」(伊藤大輔監督)
「熊井啓 日活DVD-BOX」
「斬る」(岡本喜八監督)
「浪人街」(黒木和雄監督)
「コミッサール」(アレクサンドル・アスコリドフ監督)
「ルスランとリュドミラ」(アレクサンドル・プトゥシコ監督)
「持参金のない娘」(エリダール・リャザーノフ監督)
「田園交響楽」(ジャン・ドラノワ監督)
「月世界の女」(フリッツ・ラング監督)
「スピオーネ」(フリッツ・ラング監督)
「最後の人」(F.W.ムルナウ監督)
「にがい米」(ジュゼッペ・デンサンティス監督)
「ミラノの奇跡」(ビットリオ・デ・シーカ監督)
「ショート・カッツ」(ロバート・アルトマン監督)
「悲しみは空の彼方に」(ダグラス・サーク監督)
「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」(ジョン・セイルズ監督)
「ジャン・ルノワール DVD-BOX ①~③」
「ルネ・クレール DVD-BOX 1~2」
「トニー・ガトリフ DVDコレクターズBOX」
「ヴィム・ヴェンダースDVD-BOX 旅路の果てまで」
「ルイス・ブニュエル DVD-BOX ①~④」

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2007年12月21日 (金)

『路地の匂い 町の音』

谷根千との出会い
Photo_2   谷中・根津・千駄木、いわゆる「谷根千」に関心を持ったのはいつごろだろうか。森まゆみさんたちが地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊したのは1984年10月。まだミニコミ誌という言葉が一般に馴染みのなかった頃だ。僕がまだ東京にいた頃だが、東京にいる間にこのミニコミ誌を意識していたのかはっきりとは覚えていない。たぶん知ったのは90年代に入ってからだろう。1度だけ谷根千界隈を歩いたことがある。その時書店で雑誌『谷中・根津・千駄木』3冊(55号、58号、59号)と『谷中道中案内冊子 谷中すご六』(雑誌と同じサイズ・体裁)を買った。59号が99年10月15日発行なので、恐らく行ったのは99年だと思われる。わざわざ谷根千散策のために東京まで出かけて行ったとも思えないので、正月に帰省するついでに日暮里駅まで行き、谷中あたりを歩き回ったのだろう。

  もう8年前になるのか。谷根千界隈は期待したほど古い町並みが残ってはいなかった。狭い路地が続いてはいたが、建物は普通の住宅が多かった。確かにお寺は多かったが、全体としてそれほど情緒を感じさせる雰囲気ではなかったように記憶している。もちろんごく一部しか歩いていないので、そういう一角を見落としていた可能性は高い。ただ、夕やけだんだんから谷中銀座にかけては老舗の店が立ち並んでいて、独特の雰囲気だった。あのあたりは下町風で気に入った。江戸千代紙の「いせ辰」も良かった。今見ても新鮮なデザインが多く、大判の千代紙を額縁に入れて絵画のように壁に飾る人の気持ちも理解できる。下手な絵よりよほど素晴らしいインテリアになる。江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」にD坂として登場する団子坂にも行ってみた。思ったほどの急坂ではなかった。ここも普通の坂道だが、鴎外記念図書館などが途中にあって興味深かった。ただ有名な喫茶店「乱歩」にはややがっかり。アンティークなどが置いてあり、今はほとんどなくなってしまった昔懐かしいタイプの喫茶店ではある。しかし特に江戸川乱歩を感じさせるわけでもなし、ただ薄暗いだけじゃないか。そんな印象だった。他にも見て回りたいところはあったが時間がなくて回れなかった。根津神社や大名時計博物館には行ってみたかった。

お気に入り作家 森まゆみさん
  前ふりが長くなってしまった。『谷根千』の編集者の1人森まゆみさんの『路地の匂い 町の音』(旬報社)を昨日読み終わった。谷根千を知った頃から森さんにも興味を持ったと思う。読書ノートで調べてみたら、最初に買った彼女の本は『不思議の町根津』(ちくま文庫)で、98年2月8日に購入、99年10月23日に読了している。次に買ったのが『谷中スケッチブック』(ちくま文庫)。99年11月13日に購入し、99年12月22日読了。なるほど時期は合う。『谷中スケッチブック』を読んで、実際に行ってみたくなったのだろう。面白いことに読書ノートを見ていたら、ほぼ同じ時期になぎら健壱の『下町小僧』、『東京の江戸を遊ぶ』、『ぼくらは下町探検隊』など(いずれもちくま文庫)を読み漁っていた。他にも川本三郎など、東京のあちこちを歩き回った人たちの本も集中的に読んでいる。TV番組の「出没!アド街ック天国」にも夢中だった時期だ。東京から上田に来て10年ほどたったいた頃だが、やはり東京は離れていても気になる街だったのである。

  上記2冊の本を読んで以来彼女は僕のお気に入り作家になり(同じ年生まれという親近感もある)、その後も彼女の本を見つけしだい必ず買ってきた。調べてみたら10冊をゆうに超えていた。『明治東京畸人伝』(新潮文庫)、『明治快女伝』(文春文庫)、『谷根千の冒険』(ちくま学芸文庫)、『風々院風々風々居士』(筑摩書房)、『東京遺産』(岩波新書)、『一葉の四季』(岩波新書)、『昭和ジュークボックス』(旬報社)、『神田を歩く』(毎日新聞社)、『抱きしめる東京』(講談社文庫)、『とり戻そう東京の水と池』(岩波ブックレット)、『大正美人伝』(文春文庫)、『鴎外の坂』(新潮文庫)。

  これだけ彼女の本を持っていながら、実はつい最近まで『路地の匂い 町の音』という本の存在を知らなかった。98年9月発行だから出て10年ほどたっているのに、どうして今まで気づかなかったのか。たまたまアマゾンで検索して見つけたのである。彼女の本だからもちろんすぐ買う気になったのだが、なんと言ってもそのタイトルが魅力的だった。なんとも素晴らしいタイトルではないか。僕自身が路地裏探索が好きなので、このタイトルには強烈に引き付けられた。ブログに時間をとられて本を読む時間がなかなか取れないでいたのに、それまで読みかけていた本を中断して、家に届いた直後から読み始めた。

『路地の匂い 町の音』の魅力
  面白かった。まず短いエッセイを集めたものなので読みやすい。彼女がどんな考え方をする人で、普段どんな活動をしているのかもよく分かるので興味深かった。彼女の強みはそのバイタリティーだ。3人の子供を育てながら20年以上にわたって『谷根千』を発行し続けてきた。彼女の基本のスタイルは聞き書きである。谷根千界隈の古老や商店主、職人などに突撃取材。商売をしているところでは何度も今忙しいからと断られ、何度も出直す。ある石屋さんは文字通り石のように口が堅くて往生したそうだ。それでもめげない。とにかく行動派。ラディカルな視点で東京の街づくりを批判し、別の道を提案する。様々な運動にも積極的に参加して発言している。先日講演を聞いた鎌仲ひとみさんと同じ活力を持っている。とにかく最近は元気な女性が多い。この二人の話しを聞き、本を読み、つくづくそう思った。

Photo_3   彼女は大学でも教えているが、決して研究者タイプではない。超モダンな建物よりも、下町のざわついた商店街や裏通りが似合う人だ。「暮らしからにじみ出る」匂いや色や音に親しみや安らぎを感じる。そういうタイプの人だ。学者のような衒いは一切ない。むしろそれに反発を感じている。「人間のふだんの言語活動にない横文字が自明のように使われ、それが知ったかぶりの業界人の優越感をくすぐり、ふつうの人々を脅しつけている。」「高踏ではなく世の中のざわめきの中に芸術がある。・・・私たちの町そのものがアートではないか。」こういった表現に彼女の感性がよく出ている。彼女のそういうところに僕は引かれる。共感する。

  住民運動に積極的にかかわる積極性、行動力ばかりではない。その視線が常に上からではなく下からものを観ている。次の3つの引用文を読めばそれがよく分かるだろう。

  乳母車を押すテンポで、ヨチヨチ歩きの子どもの目の高さで町を歩いたとき、いろんなものが見えてきた。

  ヨチヨチ歩きの子どもとしゃがむと、路地の狭い空間はまるで拡大鏡を見るように、すみれ咲き、タンポポ咲き、ミミズ這い、ダンゴ虫のいる、ネコのケモノ道も見える小宇宙になる。

  「町を見る」のに書物から入るのはいちばん弊害が多く、いちばん楽しみが少ないのに、多くの郷土史家はなぜかお勉強から始めてしまう。

  子供の低い目線でものを見るというのは経済力のないもの、弱いものの立場でものを見るということであり、都庁舎のようなこれ見よがしに目を引くものではなく普段見落としがちなものに目を向けるということである。あるいは偉い地位についている人たちではなく、地道に努力している人たちに目を向けるということである。「お勉強から始めてしまう」という表現には本多勝一の「お勉強発表会」という彼独自の表現の響きが感じられる。ひょっとしたら彼の影響を受けているかもしれない。庶民の息吹も汗も泥も涙も感じられない本よりは、自分で町を歩き、人から直接話を聞くほうがどれだけ意味があるか知れない。彼女はそう考えている。だから偉い学者やインテリが書いた区史には「ふつうの人の生き死に、生活史もほとんど書かれていない」と不満を言えるのだ。彼女は質屋さんにもインタビューしている(これがまた面白い)。質屋に実際に入って主人の話を聞いてみたいと考える学者やインテリがどれだけいるだろうか。

  別に彼女が猛女だと言っているわけではない。写真を見るとぽっちゃりした普通のおばちゃんである。まあ確かに、聞き取り調査という手法をとっているので遠慮なんかしていられないというところはあるだろう。僕なんかよりはるかに押しが強そうだ。しかし彼女はふつうの人の、ふつうの町の風情や佇まいや住民間のつながりを、偉ぶって勿体つけた「高踏な」ものよりも高く評価する感性や価値観を持っている。その点がむしろ大事だ。彼女が谷根千に見出しているのはそういう価値だ。

  この町では「子どもが来たら飴玉一個でもやらなくちゃあ」というのがあって、帰りにはお土産もらってホクホクしてもどってくる。親以外にも町に子どもを受け止めてくれる場所がある、ということも大切なことだと思う。

  谷中や根津に古い家が多いのは、この辺りが東京では珍しく震災・戦災の被害が少なかったからである。・・・真の震災対策は建物の不燃化、堅牢化、道路の拡幅、緑地帯の設置ばかりにあるのではない。自分の判断で動ける人々を増やし、彼らが協力しあえる人間関係をつくることである。

  表面のきらびやかさよりも「見えないところに仕事がしてある」ことに感心するのも同じ感性だ。そういうところに住んでいるから子どもものびのび育つのだろう。「子どもは自由に遊ばせたい、遊ぶ力があるんですもの。」いまどき子どもの「遊ぶ力」に注目する大人がどれだけいるだろうか。こういう視点が欠如しがちだから彼女は役人や学者に批判的なのだ。

  役人が庁舎から出なくなると最悪だ。住民のニーズはつかめなくなり、用向きは住民を呼びつける発想になり、どこまでも「霞ヶ関の論理」や「新宿の論理」になってゆく。

  「上から下を見下ろしてみたい」というのは男性の発想みたいだ。私はこれを「天守閣の思想」と名づけた。・・・天守閣の思想はバブル期に数多くのビルを生んだ。

Hanabi3   新宿に天守閣のようにそびえる都庁を槍玉に挙げた「天守閣の思想」という文章からの引用だ。「霞ヶ関の論理」や「新宿の論理」という表現にも「殺す側の論理」、「殺される側の論理」という本多勝一の用語の響きが感じられる。しかし彼女はここで独自の表現を作り出した。「天守閣の思想」という表現は言い得て妙だ。いつか映画のレビューで引用してみよう。いいレビューを書くにはいい刺激を与えてくれる書物などとの出会いが必用だ。映画を観る視点と感性は映画以外のものとどれだけ多く出会っているかで研ぎ澄まされ方が違ってくると思う。急がば回れ。回り道や寄り道をすればするほどものの見方、考え方が豊かになる。最近いいレビューが書けなくなっているのはあまり本を読んでいないからだと、改めて自戒する。

  鎌仲ひとみさんはアクティヴィストという言葉が似合う人だが、森さんは活動派というよりも行動派という言葉が似合う気がする。聞き取り調査は外回りの営業以上に疲れるし気を使う仕事だろう。何度も怒鳴られたり邪魔にされたりしながらも決してめげない。この粘りと行動力が僕はうらやましい。

 このエッセイ集は久しぶりにエッセイを読む楽しみを味わわせてくれた。僕も写真日記などを書き始めているが、彼女のようなエッセイがなかなか書けない。この本を読んで、自分の足りないところをいやというほど再認識させられた。映画のレビューで偉そうなことを書いてはいるが、結局僕は机上の物書きに過ぎない。映画を見るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、デジカメを持って写真を撮りに行くのもすべて1人で行う行為。行く場所は違っても、結局書いているのは自分のことである。その枠から容易に出られない。そこに自分の限界を感じる。僕の写真に人が写っていないのが象徴的だ。僕のカメラは風景や人工物に向けられている。決して人には向けられない。仮に彼女の下で働くことになって、近所の商店の人の話を聴いて来いと言われたら、恐らく3日と持たずに逃げ出してしまうだろう。

 2、3度断られてもひるまない強さ。それは単に彼女が強いだけではなく、相手に対して敬意を感じているからできるのである。彼女の文章が面白いのは、相手の話を彼女が面白いと思って聴いているからである。単に町を歩くだけではなく、人と会い話を聞く。彼女の本の面白さはそういう彼女の行動力から生まれている。見たり聴いたりすることで関心が生まれる。関心を持って追求しているからいろんなものと出会う。おばちゃんも棒に当たる。『路地の匂い 町の音』には書評も何篇か収録されている。彼女が取り上げた本を僕は1冊も知らなかった。『澤の屋は外国人宿――下町・谷中の家族旅館奮闘記』、『浦安・海に抱かれた町――聞き書き 人と暮らし』、『エコロジー建築』、『これからの集合住宅づくり』、『肌寒き島国――「近代日本の夢」を歩く』、『町並み まちづくり物語』等々。彼女の紹介文を読むとどれも面白そうで、読んでみたくなる。僕の視野には全く入っていなかった本。関心のある分野の違いなどという問題ではない。彼女が行動しているからこそ目に入った本なのだろう。「本屋のない町は未来がない」などという言葉は彼女だから言えるのだ。考えてみれば、僕自身も「パニのベランダで伊丹十三を読みながら」というエッセイで、エッセイは「意志だけで書けるものではない。もっと非日常的な経験をたくさんしなければいけない。週末はもっと外出するようにしよう」と書いた覚えがある。写真日記を書き出してから行動はするようになった。しかし写真日記はただ行動の経過を書いているだけである。日記であってエッセイではない。行動しつつも、時に立ち止まって思考をめぐらしてみる必用がある。行動と思考。この両方がなければエッセイは書けないのだ。

最後に
  こういう時代だから『谷根千』のホームページもあるのではないかと思ってネットで調べてみたら、すぐ「谷根千ねっと」というページが見つかった。しかしその冒頭の記事を見て驚いた。ここ数年販売部数が7000部を割っているので、2年後の93号をもって廃刊する予定とある。わずか4人で切り回しているのではこれが限界なのだろうか。実に残念だ。しかしバイタリティーあふれる彼女たちのこと。また別のところで新たな活躍の場を見出すに違いない。

  帰省するついでにまた谷根千に行ってみよう。今度はしっかりデジカメを持って「取材」に行く。どこかで森さんに会えないかなあ。

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2007年12月20日 (木)

これから観たい&おすすめ映画・DVD(08年1月)

L3g1  僕にとって毎月20日は雑誌の日。この日発売の『DVDデータ』、『ミュージック・マガジン』、『CDジャーナル』を買う日。この『DVDデータ』を元に毎月「これから観たい&おすすめ映画・DVD」シリーズを書いている。『ミュージック・マガジン』1月号はベスト・テン号である。毎年これが楽しみ。12月はこれに『スウィング・ジャーナル』が加わる。1月号には年間のレビューをまとめた小冊子が付録として付くからである。これがあれば十分。毎年この1月号だけ買っている。僕は雑誌の記事はほとんど読まない。アーティスト個人については何の関心もないからだ。新作映画・DVD、CDが買う・観る・聴くに値するかどうかにだけ関心がある。この『ミュージック・マガジン』と『スウィング・ジャーナル』の1月号に、毎年2月5日発売の『キネマ旬報』ベスト・テン号が加わって、僕の年間サイクルは終わる。

 さて、1月の新作映画は面白そうな作品が揃った。相変わらず日本映画は観てきた人のレビューを読んでみないとどれがいいのか分からないが、外国映画はどれも興味を引かれる。ピーター・グリーナウェイ、ティム・バートン、アボルファズル・ジャリリ等の有名監督の作品はいうまでもなく、アガサ・クリスティーの原作をフランスで映画化した「ゼロ時間の謎」、沢木耕太郎が取り上げた珍しいイスラエル映画「迷子の警察音楽隊」、ジュンパ・ラヒリの小説の映画化「その名にちなんで」、「ディープ・ブルー」のスタッフが再結集した「アース」、イラン人女性監督のアニメ「ペルセポリス」、ロマを描いた「ジプシー・キャラバン」。そして軍事独裁政権の腐敗を抉った韓国映画「ユゴ 大統領有故」。これは力作のようだ。う~ん、どれも観たいぞ。

 新作DVDはペドロ・アルモドバル監督の「ボルベール(帰郷)」が一番の目玉。「大統領暗殺」、「エディット・ピアフ 愛の讃歌」、「キサラギ」あたりも気になる。ドキュメンタリーも続々出ている。「チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート」と「ブラインドサイト 小さな登山者たち」に注目。

 旧作DVDもにぎやかだ。「持参金のない娘」、「マリア・ブラウンの結婚」、「招かれざる客」、「ミッドナイト・エクスプレス」あたりが懐かしい。11月にBOXで出ていたダグラス・サーク監督作品もバラで出る。ジョン・セイルズ監督の「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」はユーロスペースで上映されていた時には見落とした。これはぜひ観てみたい。勝新太郎「兵隊やくざ」シリーズ、市川雷蔵の「陸軍中野学校」シリーズ、「若者たち」3部作が出る。「若者たち」は06年9月にDVD-BOXで出ていた。ブニュエルのDVD-BOXはメキシコ時代の作品を収録。傑作はないが独特の味わいがあって悪くない。ジャン・ルノワールのDVD-BOXには遺作「ジャン・ルノワールの小劇場」が収録されている。

【新作映画】
12月15日公開
 「ゼロ時間の謎」(パスカル・トマ監督、フランス)
 「ユゴ 大統領有故」(イム・サンス監督、韓国)
12月22日公開
 「再会の街で」(マイク・バインダー監督、アメリカ)
 「その名にちなんで」(ミーラー・ナーイル監督、インド・米)
 「ペルセポリス」(マルジャン・サトラピ監督、仏・米)
 「迷子の警察音楽隊」(エラン・コリリン監督、イスラエル・仏・米)
 「北辰斜めにさすところ」(神山征二郎監督、日本)
1月5日公開
 「勇者たちの戦場」(アーウィン・ウィンクラー監督、アメリカ)
1月12日公開
 「レンブラントの夜警」(ピーター・グリーナウェイ監督、英・オランダ・他)
 「アース」(アラステア・フォザーギル監督、独・英)
 「ジプシー・キャラバン」(ジャスミン・デラル監督、米)
1月19日公開
 「スウィーニー・トッド」(ティム・バートン監督、アメリカ)
 「ヒトラーの贋札」(ステファン・ルツォビッキー監督、オーストラリア・独)
 「ハーフェズ ペルシャの詩」(アボルファズル・ジャリリ監督、イラン・日本)
 「人のセックスを笑うな」(井口奈己監督、日本)

【新作DVD】
12月21日
 「チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート」(リチャード・シッケル監督、米)
 「ブラインドサイト 小さな登山者たち」(ルーシー・ウォーカー監督、英)
 「サイドカーに犬」(根岸吉太郎監督、日本)
 「ルネッサンス」クリスチャン・ボルクマン監督、仏・英・他)
1月1日
 「プレステージ」(クリストファー・ノーラン監督、英米)
 「ボルベール(帰郷)」(ペドロ・アルモドバル監督、スペイン)
1月5日
 「フランドル」(ブリュノ・デュモン監督、フランス)
1月9日
 「キサラギ」(佐藤祐市監督、日本)
1月11日
 「プロヴァンスの贈りもの」(リドリー・スコット監督、米)
 「ブラック・スネーク・モーン」(クレイグ・ブリュワー監督、米)
1月25日
 「イタリア的、恋愛マニュアル」(ジョヴァンニ・ヴェロネージ監督、伊)
 「アヒルと鴨のコインロッカー」(中村義洋監督、日本)
 「明日、君がいない」(ムラーリ・K・タルリ監督、オーストラリア)
 「赤い文化住宅の初子」(タナダユキ監督、日本)
2月1日
 「それでも生きる子供たちへ」(スパイク・リー、他監督、仏・伊)
2月8日
 「ミス・ポター」(クリス・ヌーナン監督、英・米)
 「さらば、ベルリン」(スティーブン・ソダーバーグ監督、米)
 「大統領暗殺」(ガブリエル・レンジ監督、英)
2月15日
  「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(オリビエ・ダアン監督、仏・英・チェコ)

【旧作DVD】
12月21日
 「持参金のない娘」(84年、エリダール・リャザーノフ監督、ソ連)
 「兵隊やくざ」(65年、増村保造監督、日本)
 「陸軍中野学校」(66年、増村保造監督、日本)
 「若者たち」(67年、森川時久監督、日本)
12月22日
 「マリア・ブラウンの結婚」(79年、ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督、西ドイツ)
 「ジャン・ルノワール DVD-BOX③」
  収録作品:「黄金の馬車」、「恋多き女」、「ジャン・ルノワールの小劇場」
 「ルイス・ブニュエル DVD-BOX④」
  収録作品:「スサーナ」、「昇天峠」、「アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生」
1月9日
 「悲しみは空の彼方に」(59年、ダグラス・サーク監督、アメリカ)
1月23日
 「招かれざる客」(67年、スタンリー・クレイマー監督、米)
 「ミッドナイト・エクスプレス」(78年、アラン・パーカー監督、英・米)
 「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」(84年、ジョン・セイルズ監督、米)

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2007年12月19日 (水)

新しい壁紙集を作りました

 別館ブログ「ゴブリンのつれづれ写真日記」に「ゴブリン壁紙 その3」を載せました。この間撮り溜めた写真から良いものを選び、壁紙サイズにして公開しています。気に入った画像があればご自由にコピーして壁紙としてお使いください。

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2007年12月16日 (日)

「六ヶ所村ラプソディー」の上映会に行ってきました

Koinobori_2w  今年の1月7日に書いた「2006年公開映画を振り返って」という記事の中で、昨年度の特徴を6点挙げた。その一つとして記録映画に力作が揃ったことを取り上げた。しかしその時名前を挙げた「蟻の兵隊」、「六ヶ所村ラプソディー」、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」、「三池 終わらない炭鉱の物語」、「ガーダ パレスチナの詩」、「ヨコハマメリー」、「スティーヴィー」、「ダーウィンの悪夢」のうち、観ていたのは「スティーヴィー」だけだった。他の作品が観られるのは2、3年先だろうと正直その時は思っていた。

 しかし僕の予想を超えてドキュメンタリー映画の認知は進んでいたようだ。今年中に「ヨコハマメリー」、「ダーウィンの悪夢」、「六ヶ所村ラプソディー」の3本を観ることができたのである。最初の2本はしっかりレンタル店に置いてあった。他に「不都合な真実」と「狩人と犬、最後の旅」もレンタルDVDで観ている。未見だが、「ガーダ パレスチナの詩」もレンタル店で見かけた。今年に入っても「チョムスキーとメディア」、「ヒロシマナガサキ」、「シッコ」、「ミリキタニの猫」、「いのちの食べかた」、「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」、「コマンダンテ」、「カルラのリスト」、「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」、「マイ・シネマトグラファー」、「ヴィットリオ広場のオーケストラ」等々、続々と続いている。「スティーヴィー」のスティーブ・ジェイムズ監督作品「フープ・ドリームス」も今年の1月にDVDになった。

 なんとも驚くべき状況である。ドキュメンタリー映画の持つ意味が一般にも広がってきている。この流れの中においてみると、レビューで「100人の子供たちが列車を待っている」を取り上げたのも偶然ではあるがタイムリーだったかもしれない。これでDVD化も進めばこのジャンルはさらに定着するだろう。楽しみな状況になってきた。

 さて、肝心な「六ヶ所村ラプソディー」。この映画を観て、一番強く思ったのはフェアーであることと中立であることの違い。中立とは抗議もせず、暗黙の内に現状を認めてしまうことだから結局は肯定することだと映画の中で苫米地さんが言っていた。今更言うまでもない当たり前のことだが、実はほとんどの日本人が常にこの立場をとってしまうのだ。自分の考えや意見を持つことをほとんど教えられずに育ってきた日本人は、ある立場をとることひいては自分の意見を持つこと自体を「イデオロギー的だ」、「偏向している」として嫌う傾向が強い。このことと一定の立場に立ちながらも、自分とは違う立場の人の意見も公平に取り上げる姿勢とは全く別のことである。「六ヶ所村ラプソディー」で鎌仲ひとみ監督は後者の立場をとっている。六ヶ所村の核燃料再処理工場に明確に反対の立場をとりながら、消極的支持も含めて賛成している人たちの意見も取り上げている。「六ヶ所村ラプソディー」に力があるのは明確に反対の立場をとっているからであり、かつそれを無理やり押し付けるのではなく、主としてインタビューを通じてそれぞれの立場の考え方を提示する形で問題提起しているからである。「中立的」と称して当たり障りのないことを並べただけのものとは説得力が違う。

 監督はフェアであろうとつとめているが、映画で取り上げられている人は反対派の人の方が多い。監督によれば原燃関係者や自治体関係者がインタビューをことごとく断ってきたからである。マスコミも「不都合な真実」は一切報道しない。六ヶ所村の役場で試写会を行った時、町の人は1人も観に来なかったそうである。役場の女性が休みを取って1人観に来ただけだと鎌仲監督は話していた。再処理工場以外にこれといった働き場所がない現実。自由に物言えぬ雰囲気と無関心が支配している。

 そんな中粘り腰で撮り上げた労作ではあるが、フェアな立場を貫こうとすれば当然制約も多い。恐らくそのためだろう、上映後の講演で鎌仲監督は鬱憤を晴らすかのように1時間半に渡り縦横無尽に語りまくった。自由に話せる場なので歯に衣着せずに率直な思いを語っていた。だから正直言って映画よりも講演会の方が面白かった。メモを取っていなかったので正確には思い出せないが、できる限り記憶をたどってみよう。

 鎌仲監督は原発のある富山県出身で、子供の頃から原発はありがたいものと教えられて育ってきたそうである。彼女の認識を大きく変えるきっかけになったのはNHKにいたころにイラクを取材したことだ。ただその当時は問題意識も強くなく、医薬品が足りないために子供たちがたくさん命を落としているという報道になってしまったそうだ。その後劣化ウラン弾に関心を向け、核や被曝といった問題を追及するようになった。その延長線上に「ヒバクシャ 世界の終わりに」と「六ヶ所村ラプソディー」があるというわけだ。

Cuthaikyo07  劣化ウラン弾は自分たちが出したゴミから作られていると彼女は何度も指摘した。劣化ウラン弾の主原料である劣化ウランは、日本がアメリカから買っている濃縮ウランを製造する過程で出る廃棄物なのである。つまり核のゴミ。そのゴミから劣化ウラン弾が作られているのである。しかしそういうことをわれわれは何も知らされていない。何も知らずに電気を消費している。もう一つ強調していたのは内部被爆。イラクの子供たちは放射性物質である劣化ウラン弾の微粒子を知らず知らずに身体の中に吸収し、それが子供たちを内側から蝕んでいる。被曝しているのは日本人だけではない。

 ところがマスコミはそういう問題を真面目に取り上げない。原発は日本の政治に深く食い込んでいて、行政・マスコミぐるみで「不都合な真実」隠しに懸命なのだ。その結果原発やその関連施設の当事者自身が被曝の怖さを認識していないという悲劇的な事態に立ち至っている。それを象徴的に示したのがあの東海村のJCOでの臨界事故だ。今年の7月に発生した新潟県中越沖地震の際に柏崎刈羽原発で起きた火災もその備えの不十分さを明るみに出した。原発は安全だと宣伝して警戒心をなくすことがいかに危険であるかを分かりやすく示した実例だ。

 六ヶ所村でも同じことだ。監督は防災訓練を取材させてもらったそうだ(取材の許可を貰うまで散々苦労したそうである)。その話がすごかった。何と災害対策本部が再処理工場のすぐそばにもうけてあったという。一番危険なところではないか。しかもわざわざ遠くの住民まで再処理工場近くの避難所へ誘導してくるという念の入れよう。そんなことをしてたら村は全滅だ。そんな噴飯ものの訓練を取材した新聞記者たちは記者会見で何も質問しなかったという。監督が色々質問すると責任者は何も答えられないどころか、自分が何を聞かれたのかも分からない様子だったという。目をおおわんばかりだ。こんな愚か者たちが危険物の処理と管理を担い、同じくらい愚かな報道陣が無視を決め込み、結果的に国民は何も知らされず思考停止状態に置かれている。

 監督はこのように日本の現状を批判したが、ただ原発やめろ、再処理をやめろといっているわけではない。新しい道の提案もしている。電気がなければ生活できない、これが原発推進派や消極的賛成派の論拠の一つだが、電気の需要が増えるから原発を増やして発電量を増やすという考え方ではなく、ドイツのように節電に真剣に取り組む、あるいは原発以外の発電方法の開発にもっと努力すべきであると訴えている。放射能汚染は他人事ではない。日本の食料自給率はカロリー・ベースでわずか2割台。しかし東北各県では180パーセントになる。つまり東北で作られた食料を日本全国で食べているわけだ。その食料が汚染されていたら?

 鎌仲監督は映画評論家の意見などどうでもいいと言っていた。こうして一般の人と直に意見を交わす方が楽しいと。「六ヶ所村ラプソディー」の活力の根源は、つまるところアクティヴィストとしての彼女の活力にある。「映画を観ただけで終わらせないでほしい」、「まずは知ることから始めよう」というスローガンを掲げていた上映会だが、知った後には行動が続くべきだ。彼女はそう訴えている。彼女の作品と彼女のさわやかな弁舌に魅了された4時間だった。

「六ヶ所村ラプソディー」(2006、鎌仲ひとみ監督)★★★★☆

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ゴブリンの映画チラシ・コレクション⑤

 「洲崎パラダイス」は期待通りのいい映画でした。原作を読んだときは義治のだらしなさにいらいらし、またそんなだらしない男との腐れ縁を断ち切れない蔦枝にもいらいら。散々つかず離れずを繰り返した挙句、最後に蔦枝は義治と二人で洲崎を出てゆく。何なんだこいつらは。淡々とした芝木好子のタッチにもあまり馴染めず、あまり面白くないという印象を持った。最初に読んだ芝木好子の小説は『隅田川暮色』。これも最初は彼女の乾いた文体に馴染むのに時間がかかったが、一旦馴染んでしまうと一気に読めた。しかし『洲崎パラダイス』は洲崎遊郭界隈を舞台にした短編を集めた短編集なので、それぞれの世界に入り込める前にあっさり読み終わってしまう。全体に印象の薄い本だったのである。

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  川島雄三監督の映画版はかなり原作に忠実な作品なので、映画でももちろん上記の点に関してはいらついた。しかし実際の人間が演じる映画になるとどういうわけか話に色艶が出てくる。なんといっても蔦枝を演じた新珠三千代がいい。これまで特にいいと感じたことのなかった女優だが、「洲崎パラダイス」の彼女は実に魅力的だった。特に目がいい。大好きな淡島千景を思わせる雰囲気が気に入った。義治役は何と三橋達也。あまりに若すぎて最初はすぐには気づかなかった。時々ある角度で顔が映ったときやちょっとしたせりふを言ったときの声で確かに彼だと分かる。

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 この映画の魅力はもう一つある。洲崎遊郭の入り口である橋の手前にある飲み屋。観ているうちにまるで「男はつらいよ」の「とらや」のような居心地の良さを感じてくるから不思議なものだ。そこの女将を演じる轟夕起子がいい。「三四郎」、「武蔵野夫人」など何本か出演作を観たが、脇役俳優なので彼女の記憶はない。これほど印象的な彼女を観たのは初めて。下町のおっかさんという庶民的な佇まいが素晴らしい。飯田蝶子や望月優子とはまた違う、もっとお母さんという雰囲気。全く昔の日本映画の脇役陣は本当に層が厚かった。他にも芦川いづみや小沢昭一も少ない出番でしっかり存在感を示している。さすが川島雄三、なかなかの秀作だった。

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 昨日は「十三人の刺客」を観た。時代劇の傑作という評判なので前から気になっていた。しかし正直これにはがっかり。クライマックスの13人対53騎の殺陣シーンがあまりにちゃちなのだ。黒澤明、三隅研次、今井正、小林正樹などの傑作時代劇とは比べものにならない。ただ、内田良平という実に渋い役者を発見できたのは収穫だった。あの苦みばしった顔がいい。ちょい役(老中役)の丹波哲郎も渋い。片岡知恵蔵や嵐寛寿郎や月形龍之介はもう爺さんで、逆に里見浩太朗や山城新伍はまだ若造だ。面白かったのは西村晃。剣客という意外な役柄なのだ。剣術の稽古のときに見せる不思議な型が様になっているようでいないようで。黒澤の「七人の侍」を連想させるストーリーなのだが、役者も作りも演出も雲泥の差だった。

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 今日は長野大学で「六ヶ所村ラプソディー」の上映会に行ってきた。去年も「スティーヴィー」の上映会があったが、こちらも素晴らしいドキュメンタリー映画だった。さらにすごかったのは上映後の鎌仲ひとみ監督の講演。1時間の予定を大幅に超えて、1時間半に渡って滔滔と淀みなく喋り捲った。まさに立て板に水。現地取材、聞き取り調査ばかりではなく、文献など相当なリサーチをしてきたことが分かる。単なる裏話にとどまらない。イラクでドキュメンタリー映画を撮ったことから始まり、劣化ウラン弾を通じて六ヶ所村への取材へとつながる関心の連鎖。様々な問題に話が飛ぶが一本筋が通っていて全く聞き飽きることがない。アル・ゴアの「不都合な真実」よりはるかに面白かった。舌鋒鋭くテレビ報道の限界、日本の原発行政のあり方、「不都合な真実」を一切報道しようとしないマスコミの姿勢などをばっさばっさと切りまくって実に爽快。明るく元気でさっぱりした性格にも魅力を感じた。いやすごい人がいたものだ。「六ヶ所村ラプソディー」のパンフ、「知ることからはじめよう」というパンフ、さらには鎌仲ひとみ・金聖雄・海南友子共著『ドキュメンタリーの力』を購入。『ドキュメンタリーの力』には鎌仲さんのサインをいただいてきた。週末恒例デジカメを持っての地元探索には行けなかったが、充実した一日だった。この上映会について、詳しくは別の記事で書きます。

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2007年12月14日 (金)

ドレスデン 運命の日

2006年 ドイツ 2007年4月公開
評価:★★★★
監督:ローランド・ズゾ・リヒター
製作:ニコ・ホフマン、サーシャ・シュヴィンゲル、ニコラス・クラエマー
脚本:シュテファン・コルディッツ
撮影:ホリー・フィンク
音楽:ハラルド・クローサー、トーマス・ワンカー
出演:フェリシタス・ヴォール、ジョン・ライト、ベンヤミン・サドラー
    ハイナー・ラウターバッハ、カタリーナ・マイネッケ、マリー・ボイマー
    ズザンネ・ボルマン、カイ・ヴィージンガー

  「ドレスデン 運命の日」はだいぶ評価が分かれている。理由は明確だ。クライマックスでPhoto あるドレスデン空襲の場面はかなりリアルに再現されている。英軍作戦本部でのドレスデン空襲決定から爆撃部隊の出撃、そして爆撃機の編隊が次第に目標点へと近づいてゆくプロセス。それと運命の時が迫っていることを知らないドレスデン市民の人間模様が交互に描かれ、次第に緊張感が高まってゆく展開。爆撃が始まり地獄絵図のような惨状。そして最後に描かれる平和への祈りが込められた聖母教会の再建記念式典へといたる部分は力強い演出で、見事だといっていい。実際、見終わった直後はかなり高い評価点を付けようと思ったほどだ。

  しかし日を追うにつれ、様々な評価を読むにつれ、この映画の欠点が明確になってくる。主だった登場人物であるアンナ(フェリシタス・ヴォール)、その婚約者である医師アレクサンダー(ベンヤミン・サドラー)、英軍パイロットのロバート(ジョン・ライト)、アンナの父カール(ハイナー・ラウターバッハ)、この4人の間で展開されるメインのドラマが稚拙で貧弱なのだ。ドイツ人のアンナとイギリス兵のロバートが愛し合うという設定にした意図は明確である。『ロミオとジュリエット』のように敵対関係を愛が乗り越えるというテーマを織り込みたかったのだ。また、本来爆弾を落とす側にいるはずのロバートを逆にその爆弾の雨が降り注ぐ下に置いた意図も明確である。しかし、アンナとロバートが惹かれあってゆく過程が実に安易で、まるでハリウッド映画並のご都合主義的展開なのである。中心となる人間ドラマがありきたりのメロドラマ並みに貧弱であったことがこの作品の価値を著しく引き下げてしまった。

  一言で言えば、傑作になり損ねた作品である。しかし、それを認めた上でなお、この作品は真面目に検討する価値があると思う。

* * * * * * * * * * * * *

  映画を観た後にあれこれ調べてみて初めて知ったことだが、「ドレスデン 運命の日」は映画として作られたものではなく2夜連続のテレビドラマとして作られたものだった。2006Tuki1 年の3月に放送され、1200万人もの人が観たといわれる。歴史上有名なドレスデンの空襲がいかにドイツ人にとって大きな心の傷になっているかこの数字が示している。日本人にとっての広島、長崎に相当するものだろう。しかもドイツはナチス時代に他国やユダヤ人に対して行ってきたことを犯罪として認めてきただけに、自国の国民がこうむった被害をこれまで映画の中で描くことを慎んできた。戦後60年以上たってようやくこのような作品が現われたのである。これまでもいくつか作られてはいたが、日本では公開されていなかったということではないようだ。これについては監督自身がインタビューに答えて明確に語っている。「第2次世界大戦後、ドイツの映画人はまず罪の意識に向き合うことから始めました。ドイツが他の国々にどのような被害を与えたのかということを自ら捉えることに力を注いだのです。従って初めてこの映画で被害者としてのドイツ人という視点を盛り込むことになったのです。」ドイツの側から第二次大戦を描いたベルンハルト・ヴィッキ監督の「橋」やヴォルフガング・ペーターゼン監督の「Uボート」という戦争映画の名作はあったが、戦争の惨禍の中で呻吟する一般市民を描いたのはこれが初めてなのである。

  空襲の場面にテレビ番組としては異例なほどの予算をかけているのは、それだけドイツ人が待ち望んでいた映像作品だったということだろう。しかしその反面、ドラマが貧弱になってしまった。映画ではなくテレビ番組だったということが一定の制約として働いたのかもしれない。空襲による大規模な被害といえば日本人にとっては東京大空襲と広島・長崎がすぐ思い浮かぶ。あるいは、ピカソの絵で有名になったスペイン戦争時のゲルニカ爆撃、日本軍による重慶爆撃などを思い浮かべる人もいるだろう。僕らの世代にとっては北ベトナムに対する大量爆撃のニュース映像はいまだに記憶に新しい。時代が移って、イラクではピンポイント爆撃が話題になったが、それでも大量の誤爆が指摘された。ましてや無差別のじゅうたん爆撃ともなれば文字通り大量殺戮である。ドレスデンの爆撃では市街の85%が破壊され、3万とも15万とも言われる一般市民の犠牲者が出たとされる。

  この大量殺戮をローランド・ズゾ・リヒター監督はどのように描いたのか。それを考えるにあたって、黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」と比較してみるのは有益だろう。黒木監督は原爆の惨禍を直接描かなかった。8月8日から翌日の原爆投下の瞬間までの長崎市民の生を描いた。彼らが死んだことではなく、生きてきたことに焦点を当てた。原爆で亡くなった人の数だけ人生が空しく消えていったのである。彼らに「明日」は来なかった。実に新鮮な視点で、この視点が「TOMORROW 明日」をユニークな作品にしていた。「ドレスデン 運命の日」もこれに近い描き方を試みている。ドレスデンの市民たちはその命を絶たれるまでどのように生きていたのか、それを描くことにかなりの時間を費やしている。この「生」の部分があったからこそ、最後の延々と続く爆撃の場面がより強烈に観る者に迫ってくるのである。もっとも、それだけに主要登場人物たちが全員生き残るという展開には疑問も残るのだが。

  「TOMORROW 明日」は実にユニークな視点を持った作品だったが、残念ながらあまりに淡々とした描き方であり、一部中だるみして平板になってしまったうらみがある。一方、「ドレスデン 運命の日」はあまりに性急にアンナとロバートの恋愛を描いてしまったために、ドラマが陳腐なラブ・ロマンスのようになってしまった。アンナの父とアレクサンダーのエピソードもとってつけたようで説得力に欠ける。むしろよく描けていたのは、アンナの友人であるマリア(マリー・ボイマー)とその夫ジーモン(カイ・ヴィージンガー)のエピソードである。マリアは周りからしきりに早く離婚した方がいいと言われている。よほどひどい夫なのだろうと観客は思うが、実はジーモンはユダヤ人であったことがだいぶ後になって分かってくる。アーリア人と結婚していたためにかろうじて強制収容所送りにならずにすんでいたのである。この展開が見事だ。特に素晴らしい場面がある。いよいよ敗色が濃くなってきた時、何とか生き延びていたユダヤ人たちにもついに「呼び出し」がかかる。その手紙をユダヤ人たちに届けるつらい役割を担わされたのはジーモンだったのである。戦場から一人生還した渥美清が、戦友たちの遺書を届けるために遺族たちを訪ね歩く「あゝ声なき友」(今井正監督)を思わせる痛切な場面である。

  「TOMORROW 明日」のようにあまりに淡々とならず、かつ「ドレスデン 運命の日」のような安易なロマンスに流れないようにするにはどうすればよかったのか。一つ考えられるのはロバート・アルトマン作品のような群像劇に仕上げる方法である。出来るだけ多くの一般市民を登場させ、かつそれぞれのエピソードに生き生きとした輝きを与える。アンナとロバートの相愛は暗示するにとどめる。ロバートの手当てをするアンナのほほの汚れをロバートがおずおずと手でぬぐうシーンがある。控えめな描写だけに逆に印象的だ。ここまででやめておくべきだった。下手なドラマなどやめて、代わりに普通の市民の日常をもっと描きこむべきだった。もちろん群像劇の名手ロバート・アルトマンの域に達するのは至難の業だが、アルトマンの群像劇とあの空襲シーンが一つにつながったならば、この作品はとてつもない傑作になっていただろう。

  空襲前のドラマが説得力を持たないのは、「TOMORROW 明日」と違って、死んでいった人々の生を描くことではなく、クライマックスの空襲シーンまでの間を持たせる要素として作られていたからではないか。日常描写から突然のカタストロフィへという展開は近いItam10 ものがあっても、描き方がやはり違うのだ。基本的にこの映画の狙いはドレスデンの空襲がいかにすさまじく、悲惨なものであったかを描くことにあった。監督自身が次のように語っている。「夢や希望を持つ若い人たちに この映画を見てもらい、同じように希望を持っていた当時の若者の夢が一夜にして失われたという忌まわしい事実を知って欲しい。」確かに空襲の場面は相当な迫力である。逃げ惑う人々、崩れ落ちる建物。燃え盛る炎が空気を吸い上げ、激しい気流が起こり、人間がまるで蟻地獄のように炎の中に引き寄せられてゆく。しかし爆撃のすさまじさだけを描いているのではない。地下の防空壕の中で窒息死していた人々。まだ生きている人々も薄くなりつつある空気と迫り来る死に耐え切れず、若い兵士に「撃って早く楽にして」ほしいと懇願する。泣きながら市民を撃つ若い兵士。その防空壕に入ることを許されなかったユダヤ人たち。

  崩れてきた瓦礫に足を挟まれて動けなくなったロバートをアンナが助け出すあたりはハリウッド映画のような描き方で感心しないが、苦しみながら死んでいった人々の姿を丁寧に描きこんでいったことがこの空襲の場面を単なるスペクタクルを超えた悲劇にまで高めている。何人の人が死に、どれだけの建物が破壊されたかという数字だけでは、あの日ドレスデンで何があったのかを正確には理解できない。映画や小説の強みは一人ひとりの人間の生と死に焦点を当てて描くことが出来るという点にある。彼らは死の直前までどのように生き、どのような恐怖にさらされ、どのような苦しみを味わい、いかにして死んでいったのか。われわれはそれらを彼らと共に感じ、体感するのである。さらに、われわれは彼らに出来なかったことまで出来る。すなわち、あの日起こったことの意味を捉えなおすことである。この映画の持つ意味はまさにそこにある。

  大空襲の前の部分でも、ただ単にアンナとロバートのラブ・ロマンスだけが描かれていたわけではない。敗戦間近だというのに映画館のニュース映画はV1ロケットをイギリスに撃ち込み、反撃が始まったと報道している。アンナとアレクサンダーの結婚式に招かれてきた将校はこれからドイツの反撃が始まるなどと声高らかに話している。まるっきり当時の日本と同じだ。しかし違いもある。着ている服や食べ物など見ると、ドイツは戦時中の日本よりもはるかに豊かだったことが分かる。もんぺをはいて芋を食べていた日本とは雲泥の差だ。もっとも酒に困っていたアンナたちが試験管でアルコールを調合しているシーンもあったが。アルコールを片手にレコードに合わせて陽気に踊っているところはいかにもドイツ娘。これも当時の日本ではまずありえない図だ。もちろん当時の抑圧的な状況も描きこまれている。逃亡兵を匿った女性や瓦礫から物を盗んだ男があっさりと憲兵隊に銃殺される場面が差し挟まれている。「ヒトラー最期の12日間」でも描かれていた混乱した状況。

  爆撃が止んだ後、奇跡的に助かったアンナとロバートは地上に出る。廃墟となった教会の上に登ったロバートが見下ろしたドレスデンの街。見渡す限り瓦礫の山だった。“エルベのフィレンツェ”と讃えられた美しい街は一夜にして廃墟の街に変わってしまった。「戦場のピアニスト」の有名な場面を想起させる。廃墟となったブコバルの街を空撮で延々と映し出す「ブコバルに手紙は届かない」のラストシーンほどの衝撃はないが(どこまでいっても廃墟が続く実写映像は言葉を失うほど衝撃的だった)、無差別爆撃のすさまじさは充分伝わってくる。しかしラストで感じるのは空しさや絶望ではない。平和への祈りである。再建された聖母教会を祝う式典の映像をバックにアンナのナレーションが流れる(現代のアンナが教会の塔から街を眺めている)。「45年2月の出来事の理解は難しい。生き延びたものは新たな物を創る義務を負う。後ろばかり見ても影しか見えない。」式典で挨拶した人物は「皆に平和あれ」という言葉をいくつもの言語で繰り返す。

  教会は元通り再建された。しかしわれわれが創らねばならない「新たな物」とは新しい建物ではない。戦争のない世界である。その課題はいまだに達成されていない。

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2007年12月13日 (木)

最近CDを買いまくっています

Rose_c04w  12月に入って狂ったようにアマゾンでCDを買いまくっています。これまでアマゾンでは随分たくさんDVDを注文しましたが、そのあおりでCDまでは手が回りませんでした。最初は1枚だけ注文するつもりだったのですが、一旦始めたらもう止まらない。たまりにたまった鬱憤を晴らすかのように検索しまくり、注文しまくった。そしてその次の日も、そのまた翌日も。毎日山のようにCDが届く。送料だけで1万円を超えたでしょう。

 多少の参考になるかもしれませんので、この間入手したCDのリストを挙げておきます。まだそのほんの一部しか聴いていないのですが、満点をつけたものには◆印をつけておきます(今後も満点をつけた場合は追加してゆきます)。言うまでもなく僕の好みを反映していますので、あくまで参考として受け止めてください。

【ロック/ポップス/ヴォーカル/その他】
アーロ・ガスリー&ピート・シーガー「プレシャス・フレンド」
アン・マッキュー「アメイジング・オーディナリー・シングス」
エイミー・マン「ザ・フォーゴトン・アーム」◆
オホス・デ・ブルッホ「バリ」
ケリ・ノーブル「フィアレス」 ◆
ジェス・クライン「シティ・ガーデン」
ジェス・クライン「ストロベリー・ラヴァー」◆
ジョアンナ・ニューサム「ミルク・アンド・メンダー」
ティム・バクリー「ザ・ベスト・オブ」
ドノヴァン・フランケンレイター「ムーヴ・バイ・ユアセルフ」◆
デイヴィッド・バーン「グロウン・バックワーズ」
デビッド・シルビアン「ブレミッシュ」
ナタリー・マクマスター「ブルー・プリント」
フィオナ・アップル「エクストラオーディナリー・マシーン」
ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズ「テン・フロム・リトル・ワールズ」
モザイク「ライヴ・フロム・ザ・パワーハウス」
ロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンド「カラーブラインド」
ロバート・ワイアット「クックーランド」
ローラ・ニーロ「飛翔」

【ソウル/R&B/ブルース】
シリーナ・ジョンソン「チャプター3:ザ・フレッシュ」
スーザン・テデスキ「ホープ・アンド・デザイアー」 ◆
スーザン・テデスキ「ライヴ・フロム・オースティン」◆
ディー・ディー・ブリッジウォーター「ディー・ディー・ブリッジウォーター」◆
メイヴィス・ステイプルズ「ウイル・ネヴァー・ターン・バック」
ラッシェル・フェレル「インディヴィジュアリティ」
ローネイ「アイ・リメンバー」

【ジャズ】
エディ・ヒギンズ・トリオ「魅惑のとりこ」◆
ガブリエラ・アンダース「ウォンティング」
シェリル・ベンティーン「トーク・オブ・ザ・タウン」◆
シェリル・ベンティーン「シングス・ワルツ・フォー・デビー」
ジェーン・モンハイト「テイキング・ア・チャンス・オン・ラヴ」◆
セリア「ポート・オブ・コール」
ダイアン・リーブス「リトル・ムーンライト」◆
藤井郷子「スケッチズ」
ブラッド・メルドー・トリオ「デイ・イズ・ダン」
ボブ・ミンツァー「バップ・ボーイ」◆
マンハッタン・トリニティ「ミスティ」◆
マンハッタン・トランスファー「クドゥント・ビー・ホッター」◆
サントラ「僕のスウィング」◆

【ケルト・ミュージック/ブリティッシュ・トラッド】
ヴァシュティ・バニヤン「ルック・アフタリング」◆
ヴァシュティ・バニヤン「サム・シングズ・ジャスト・スティック・イン・ユア・マインド」
ヴィッキィ・クレイトン「イン・フライト」
サンディ・デニー「サンディ」◆
シャロン・シャノン「チューンズ」◆
ジョン・レンボーン「ザ・ナイン・メイデンズ」
ジョン・レンボーン「ア・メイド・イン・ベドラム」◆
VA「ケルティック・タイド」◆

2007年12月 7日 (金)

ゴブリンの映画チラシ・コレクション④

 どうも最近新作のDVDではいいのに当たっていません。一昨日観た台湾映画「夢遊ハワイ」にはがっかり。ラストはなかなかいいのですが、それ以外はどうということのない映画。もう1本借りてきた「ラスト・キング・オブ・スコットランド」は結局観ないで返す羽目に(涙)。代わりに今日「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」、「ドレスデン 運命の日」、それと川島雄三監督の「洲崎パラダイス 赤信号」を借りてきました。2本借りても1本しか観られないのに、4本も借りてくるとは懲りない奴だなどと言うなかれ。今日は「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」と「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」をゆっくり楽しもうという計画です(レビューを書く気はないので気楽です)。今日2本観てしまえば、残りの2本は何とか・・・。

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 「ドレスデン 運命の日」は結構期待しています。出来が良ければレビューを書くつもりです。川島雄三の作品が蔦屋書店にたくさん入っているので、見逃していた1本を借りてきました。芝木好子の原作(『洲崎パラダイス』、集英社文庫)は前に読んでいます。そんなにいい短編だとは思わなかったのですが、映画はわりと評判がいいのでこれもある程度期待しています。「しとやかな獣」(なつかしい!)も置いてあったので、これも近々観直したい。DVDを持っている代表作「幕末太陽伝」と「貸間あり」も前々から観直したいと思いつつなかなかチャンスがありませんでした。年末に観だめしようかな。

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 またまた、チラシと関係ない話を書いてしまいました。さて、今のところレビューを書いている映画がないので、困った時のコレクション頼み。チラシ・コレクションの第4弾です。今回は趣向を変えて特集や映画祭のチラシを集めました。一番古いのは1974年の「ソビエト名作映画月間」。今はなき「後楽園シネマ」で開催された。初めて遭遇したソ連映画特集。三百人劇場でソ連映画を特集するようになったのは80年代ですので、これは相当古い。このとき観て以来いまだに再見の機会を得ない作品がかなり含まれていますので貴重な資料です。

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 文芸座の中国映画祭は87年と88年は実際に観に行きました。それ以降のものはブックオフで手に入れたものです。たまたま映画のパンフレットを買ったら、中にチラシが何枚か入っていたのです。昔神田の古本屋で買った本の中に1000円札が挟まっていたことがありましたが、それ以上にうれしかった。「大魔神フェスティバル」も観に行ったわけではありませんが、貴重なので入れておきました(もちろん映画は小学生の頃に観ています)。

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 これらの特集や映画祭については僕の映画自伝であり、また当時の映画環境の記録でもある「あの頃名画座があった(改訂版)①~⑧」をご覧ください。

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2007年12月 3日 (月)

山猫

1963年 イタリア 1964年公開
評価:★★★★★
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
製作:ゴッフリード・ロンバルド
原作:ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ
    エンリコ・メディオーリ、マッシモ・フランチオーザ、ルキノ・ヴィスコンティ
撮影:ジョゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:バート・ランカスター、クラウディア・カルディナーレ、アラン・ドロン
    パオロ・ストッパ、リナ・モレリ、ロモロ・ヴァリ、セルジュ・レジアニ
    ピエール・クレマンティ、ジュリアーノ・ジェンマ、オッタビア・ピッコロ
    イヴォ・ガラーニ、アイダ・ガリ、マリオ・ジロッティ

 以前「ゴブリンのこれがおすすめ 8」でフェデリコ・フェリーニ(1920-93)とルキノ・ヴィスコンティ(1906—1976)を取り上げた。その時上げた「おすすめの10本」を再度挙げておこう。

「家族の肖像」(1974)
「ルードウィッヒ/神々の黄昏」(1972)
「ベニスに死す」(1971)
「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)
「異邦人」(1968)
「山猫」(1963)
「若者のすべて」(1960)
「ベリッシマ」(1951)
「揺れる大地」(1948)
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)

Photo  未見作品は「華やかな魔女たち」(1967)と「われら女性」(1953)の2本だけ。ほぼ主要な作品は観た。ベスト3を挙げろといわれたら「ベニスに死す」、「地獄に堕ちた勇者ども」、「山猫」あたりか。ただ「ベニスに死す」は大学に入学してすぐ観た(73年6月3日)時はかつてないほど感動したのだが、今観たらどうかという一抹の不安がある。1年後に2度目に観た時にはかなり冷めて観ていたからだ。もし入れ替えるとしたら「ベリッシマ」か「家族の肖像」あたりになろう。「イノセント」や「白夜」は退屈だった。「異邦人」も無理して撮ったという感は否めない。「熊座の淡き星影」、「夏の嵐」、「ルードウィヒ 神々の黄昏」あたりもさほど僕の評価は高くない。何だ、結局貴族趣味から足が抜けなかったのねという冷めた目で観ていた。

 「ベリッシマ」はイタリアの肝っ玉母ちゃんアンナ・マニャーニの庶民的活力に脱帽。逆に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は観終わった後にどっと疲れが出た。2つあるアメリカ版よりはるかに優れているが、暑苦しすぎて好きな映画ではない。「若者のすべて」は庶民を描いてはいるが、出口のない閉塞感が重苦しい。「家族の肖像」は静かで暗い映画だが、不思議な力のある映画。ネオ・リアリズモの傑作と言われつつも長い間幻の作品だった「揺れる大地」はさすがの出来。ただ期待が大きかっただけに、期待値には届かなかったという記憶がある。「地獄に堕ちた勇者ども」は「山猫」と対になる作品だと思う。「山猫」の時代からおよそ70年後、20世紀の貴族一家を描いている。退廃的描写をふんだんに取り入れながら、ぎりぎりのところでそれを批判的に描いている点を僕は高く評価したい。エッセンベック男爵家は「山猫」で新しい世代として登場したタンクレディの成れの果ての浅ましい姿である。退廃的世界をどれだけ距離をおいて客観的かつ批判的に描きえているかは「ベニスに死す」の評価にもかかわる。「ベニスに死す」の評価が微妙なのは、一歩身を引いてそれを描いているのか、それとも半分足を突っ込んでしまっているのか微妙だと思うからだ。いずれにせよもう一度観直してみるしかない。

 その点で「山猫」が際立っているのは、滅び行く貴族階級の運命を透徹した客観的・批判的視点、歴史の変転を的確にとらえる冷徹な眼で描いている点である。「山猫」はいかなる意味でも「退廃美」や「滅びの美学」を描いたものではない。それは半分以上描かれた世界にのめりこんでいる作品に使う言葉だ。「山猫」は個人を(それがいかなる大貴族であろうとも)否応なく押し流し翻弄してゆく時代の冷酷な流れと、その流れに押し流されつつ自らが属する階級に未来がないことを自覚した1人の貴族が、爛熟しきって腐りつつある自らの属する世界と自らに向けた自己認識に対する冷静かつ冷徹な探求なのである。

 先日掲載した「ただいま『山猫』のレビューを準備中」という記事でアラン・ドロンが物足りないと書いた。これには少し説明が必要だ。アラン・ドロン扮するタンクレディが卑劣で日和Haikyotohana 見主義的に見えるのも、その妻となるアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)が貴族ですら振り向くほど美人だが礼儀知らずの蓮っ葉娘に見えるのも、さらには彼女の父親ドン・カロージェロ(パオロ・ストッパ)が公爵の前では終始ぺこぺこして卑屈に見えるのも、意図的にそう描いているからである。サリーナ公爵ドン・ファブリツィオ(バート・ランカスター)は彼ら3人に興隆しつつある新しい世代と勢力を見出したが、決して彼らを貴族階級以上に洗練され、高い文化的知識を持った人々だと思っていたわけではない。機を見るに敏で、せっせと権力拡大に精を出す新興のブルジョア階級。公爵の狩のお供をしているドン・チッチョ(セルジュ・レジアニ)がドン・カロージェロ像を的確に描き出している。金持ちで実力者、抜け目がない。近いうちに新政府の議員になるでしょう。いずれ教会の土地を安く買ってこの地方で最高の大地主になる。彼はそういう人ですと。膨大な地代によって安楽な生活を保障され、働きもせず遊び呆けながらぬくぬくと暮らしている貴族階級は、いずれ財力があり勤勉なブルジョア階級に取って代わられる、公爵はそう見抜いているということである。

 アンジェリカが輝いているのは単に美しいからだけではない。彼女の肢体から力を得つつある新しい階級の活力があふれ出ているからである。アラン・ドロンが物足りないのは新しい世代の活力や抜け目なさをいまひとつ体現できていないからである。どんなにせりふで「タンクレディには未来がある」(公爵)、「あなたを愛したら他の男なんて水みたいよ。・・・あなたはマルサラ酒だわ」(アンジェリカ)と語って見せても、アラン・ドロンの演技からはただ変わり身の早い軽薄な男というイメージしか浮かび上がってこない。

 ただし、この点もまた微妙ではある。「軽薄さ」はある程度ヴィスコンティが意図した要素でもあるからだ。問題は叔父である公爵に対して敬意を払いつつも自分は別の道を進むという、傲慢さも持ち合わせた、どこか裏がある底知れない影を持った男という複雑な人物像にまで彼の演技が及んでいないということである。まあ、アラン・ドロンについてはこれくらいにするとして、重要なのは「未来がある」世代が決して全面的に肯定されていないということである。タンクレディがアンジェリカと結婚することでドン・カロージェロと義理の父、息子の関係になることが暗示的である。つまり、彼は公爵の前ではぺこぺこしながら「次の時代」を虎視眈々と窺っているブルジョア家族の一員になるということである。機を見るに敏で変わり身が早く、実務に卓越した能力を持ち、幻想などは持ち合わせないが必用なら創り出すことが出来る人々。公爵が「新時代向きだ」と言ったドン・カロージェロやタンクレディたちは、明らかに権力闘争に明け暮れ、退廃に身を任せている「地獄に堕ちた勇者ども」のエッセンベック男爵家につながる。結末に漂う寂寥感は、公爵が自分たちの階級の没落を予感しているからだけではなく、新しい時代が金儲けはうまいが何の気品も文化的素養もない粗野な「山犬」たちの時代になるという諦めがあるからだ。この映画の価値はそこにある。ランペドゥーサの原作はいざ知らず、少なくともヴィスコンティは「地獄に堕ちた勇者ども」の権力闘争に明け暮れるおぞましくも退廃的な世界を「山猫」の中で公爵に予感させていたのである。

  山田洋次監督の「故郷」で井川比佐志扮する無学な精一が口にした「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。彼が語った個人を否応なく押し流してゆく「大きなもの」とは時代の大きな流れのことだが、それが「山猫」ではさらに壮大な規模で語られている。しかも公爵は時代の先の先まで読んでいたのだ。「我々は山猫だった、獅子だった。(それに)山犬や羊どもが取って代わる。そして山猫も獅子もまた山犬や羊すらも自らを地の塩と信じ続ける」という公爵の言葉にそれがよく表れている。貴族もブルジョアも「地の塩」、つまり「世界の光」ではないと言っているのである。

 公爵の認識を分析する前に、タンクレディという人物についてもう少し触れておこう。彼は興味深い存在だ。本人が登場する前にタンクレディのことは馬車の中での公爵とピローネ神父(ロモロ・ヴァリ)の会話に登場する。タンクレディにはいかがわしい友人が多いと神Tatatemy145 父が心配そうに言うと、公爵は「彼のせいではない、時世だよ」と甥を擁護する発言をしている。むしろ「まことによい国なのですが」と革命騒ぎを憂える神父に対して、「神父さえ少なければな」と公爵は応じている。しばしば映画の中に差し挟まれる滑稽な場面の一つだ。時代の変化を深く受け止めている公爵とその公爵家に取りすがり、その権力の傘の下で生きてきた神父が対比されている。しかしその公爵も義勇軍に参加すると宣言したタンクレディには、最初「気でも狂ったのか!」と応じている。今は「大変革の時」だといち早く気づいていたタクレディは公爵を説得しようとする。「奴ら(ガリバルディが率いる革命軍)はみんなマフィアだぞ。我ら一族は王に恩義がある」と言う公爵に、タンクレディは「共和制を阻止しようと思うなら、現状維持を願うなら、変化が必要です」と答える。あきれる公爵を後に彼は「三色旗を持って戻ります」と言って去ってゆく。公爵は去ろうとする甥を呼び止めて餞別を渡す。

 イタリアの三色旗はイタリア統一運動のシンボルとされた旗である。緑は国土、白は雪・正義・平和、赤は愛国者の血・熱血を表すとされる。しかし元はフランスの国旗が起源で、「自由」、「平等」、「友愛(博愛)」をも象徴している。つまり、タンクレディの意図とガリバルディの意図は最初から一致していない。タンクレディは皮肉にも「共和制を阻止」するために革命軍に参加したのである。イタリア統一や革命運動そのものに共感したのではなく、今の王を別の王にすげ替えることが彼の目的だった。「自由」も「平等」も「友愛(博愛)」も端から彼の眼中にはない。イタリア統一後彼は正規軍に入隊する。大舞踏会の時に、彼は「革命軍に入った者は銃殺だ、脱走兵だから当然だ」と冷酷に言い放つが(実際、銃殺の音が聞こえた時も顔色一つ変えない)、そもそも一般民衆に何の共感も持たない彼が反革命に転ずるのは必然だった。彼は「革命列車」から途中下車した。その先まで進もうとする者はもはや邪魔者でしかないのだ。

 公爵も甥が本格的な革命運動に身を捧げるつもりではないと分かったから、金を渡して彼を送り出したのだ。翌日彼が神父と交わした会話が興味深い。公爵「今日は一つ発見をした。今何が起こっているか。何も起こっていない。階級が交代するだけだ。中産階級の奴らは我らに取って代わりたいのだ。穏やかな手段でな。事と次第では金も惜しまぬ。だが大変革はない。わが国はすべて妥協で動くのだ。」公爵は緩やかな変化を期待していた。彼の言う「大変革」が何を意味するか明確ではない。中産階級ではなくさらにその下の下層階級が取って代わるという意味にも取れる。しかしこの段階ではむしろ、中産階級が政治の実験を握っても貴族階級は解体されずに残されるだろうという見通しを語っていると解釈するべきかもしれない。少々の変化は仕方がないと達観していたのだ。

 むしろ民衆を口にしたのは神父だった。「犠牲を払うのは教会です。教会の財産は貧民の財産だ。それが無法にも奪われてゆく。結果は?教会が養ってきた民衆をどうします?彼らの不満をどう収めます?初めは少しずつ与えても、度重なれば全部の土地を失う。主は盲人を治された。だが魂の盲人をどうします?」神父は民衆の擁護者として教会を描いているが、これは口実に過ぎまい。本音は教会の存続である。これに対し公爵はこう答えている。「教会は自らを救うために必用とあらば我らを犠牲にすることもあろう。やがて・・・そうせざるを得まい。」

 これに対し神父はこう返している。「土曜には2つの罪を告解なさい。昨夜の肉欲の罪と今日の魂の罪もです。」実は公爵は前日、つまりガリバルディ率いる800人の部隊がマルサラに上陸したというニュースを聞いたその日にパレルモで娼婦を抱いていたのである。公爵の言い訳がいい。彼の妻(リナ・モレリ)は始める前に十字を切り、絶頂で「マリア様」と呼ぶ。「そんな女で満足できるか!」妻のへそも見たことがないと。まあ、勝手な言い分だが、公爵を預言者のごとき聖人として描いていないところがいい。タンクレディにも「誰かさんのようにパレルモで夜遊びなどしません。この浮気な道楽者」と言わせている。

 どんなに騒いでも変化は訪れる。そう考える公爵は紛争のさなかにもかかわらず、いつものようにドンナフガータの別荘に馬車を4、5台連ねて移動する。途中で通る何もない赤茶けた荒野がシチリアの貧しさを印象的に表している。サリーナ公爵家は数十代に渡ってシチリアを領土としてきた名門一族なのである。イタリア統一後も豊かな北部と貧しい南部という南北問題がずっと尾を引いていた。シチリアの痩せた土地と貧しさはマフィアの台頭と不可分に結びついているのである。食い詰めた人々が夢を求めてアメリカに渡っていったのだ。タヴィアーニ兄弟の傑作「カオス・シチリア物語」でも、「また可愛そうな人たちがアメリカへ渡ってゆく」という意味のせりふが出てくる。シチリアという土地はこの映画の中で重要な意味を持っているのである。ついでに触れておくが、「シシリーの黒い霧」、「都会を動かす手」、「黒い砂漠」、「コーザ・ノストラ」、「ローマに散る」など、一貫してマフィアとの戦いを描いてきた巨匠フランチェスコ・ロージ監督の存在も忘れてはならない。

 ドンナフガータの別荘で公爵は変化が止めようもなく押し寄せていることを実感させられる。一つは国民投票である。シチリア島民は統一イタリア国の国王としてヴィットリオ・エマヌエレ王を戴く事を全員一致で(実はそうではないことが後に分かるが)選択したのである。もはや逆戻りできないところまで事態は進んでしまった。投票所に向う公爵と神父に強風であおられた埃が容赦なく襲いかかるシーンが印象的だ。別荘に一行が着いたときも全員埃まみれになっていた。シチリアの乾いて痩せた土地がここでも強調されている。

 二人が埃まみれになるのは、公爵の背後に統一を祝う花火が打ちあがる場面とあいまって、没落の象徴でもあろう。埃はまた別のところで崩壊の象徴として描かれている。遅れて別荘にやってきたタンクレディが一緒に連れて来たカヴリアギ伯爵(マリオ・ジロッティ)やコンチェッタ(ルチラ・モルラッキ)やアンジェリカたちと普段使われていない部屋でかくれんぼの様な遊びをして戯れているシーンである。カヴリアギが邸の広さにあきれて「なんて広い邸だ。何部屋ある?」と聞くと、タンクレディは「邸の持ち主すら知らない」と答えている。彼らが走り回っている普段使われていない部屋は埃をかぶり、蜘蛛の巣が張っている。まるで廃屋のようだ。部屋数の多さは邸の広大さを強調するもので、本来豊かさの象徴であったわけだが(侍従のミミがドアをいくつも開けてタンクレディの到着を知らせに行く目を瞠るシーンはまさに邸の広大さをこれでもかと見せ付けている)、ここでは滅び行くものの象徴に変わっている。

 ついでに言うと、タンクレディがコンチェッタに気があるらしいカヴリアギ伯爵に、思い切ってコンチェッタにアタックしてみろと誘う時のせりふが面白い。「ただし、彼女はシチリア人だ。毎日マカロニを食べる。ミラノの生活に慣れるのは大変だ。」カヴリアギ「マカロニくらい何とかする。」そうか、イタリアならどこでもマカロニを食べているわけではないんだ(少なくともこの時代は)。面白い発見だった。

 変化を表すもう一つの要素は、いうまでもなくアンジェリカの登場である。最初の登場シーンがすごい。まずパーティに招かれたドン・カロージェロが燕尾服で来たとみんなで笑いものにする場面がある。しかし娘のアンジェリカが盛装で現れると、一同その美しさに息を呑む。その場の空気が一変する。皆居住まいを正す。公爵ですら「この美しい花をわが家に迎えられてうれしい。(ここで右側をちらりと見る。奥方を気にしているのだ)これからも時々姿を見せていただきたい。」と丁重な挨拶をしたほどだ。新しい勢力の活力をもっとも印象的に表しているのは、義勇軍に従軍したタンクレディの勇ましい姿でも、着々と地歩を固めつつあるドン・カロージェロでもなくこのさっそうと登場したアンジェリカの姿である。言われるほど美人だとは思わないが、このシーンは確かに忘れがたい強烈な印象を観客に与える。

 タンクレディはアンジェリカに一目ぼれしてしまう。タンクレディが彼女に挨拶しようとして身構えていると、アンジェリカはあっさり彼を素通りしてコンチェッタに挨拶する。彼は神父の後にやっと紹介される。うまい演出だった。パーティーのシーンもなかなか秀逸で、すっかりアンジェリカに夢中になっているタンクレディと、その二人の仲を気にしているコンチェッタの不安げな顔を交互に描いている。アンジェリカの流し目が印象的だ。しかしアンジェリカはタンクレディの冗談に大笑いしてしまう。あまりの下品さに一同驚愕。公爵もあきれて会食は中止となる。上流にふさわしいたしなみを持たなければその仲間に入れないことを示す有名なシーンである。

 しかし公爵はアンジェリカを認めていた。「これでいい。後押ししてやろう。少し品のない相手だがな。」この場では彼女を笑いものにしたが、いずれは自分たちの方こそ消え去ってゆく存在だと知っていたからだ。この時点では公爵はむしろ変化を求めていた。埃まみれで投票所に向っていた時、「いやな風が吹きますな」という神父に「そんな事はない。よどんだ空気が入れ替わる」と公爵は答えていた。いずれはよどんだ空気と共に自分たちも消え去って行くのだ。彼にはそんな認識が既にあった。

 彼が自分の到達した認識をはっきりと口にするのは、公爵を上院議員に推薦したいとのトリノ政府の意向を伝えに来たシュヴァレ(レスリー・フレンチ)との会話の中である。「私は旧体Kareha01 制と結ばれたかつての支配階級の者です。それは否定しようのない事実だ。私は不幸なことに新旧2つの世界にまたがって生きている。そして何の幻想も持っていない。自らをあざむく事なく立法者になれぬ。したがって私は上院に入り人を導くなど不可能だ。シュヴァレ殿、私には政治は向いていない。」彼はこういって申し出を断るのだ。なおも粘るシュヴァレに「シチリア人は老いている。25世紀もの間、異種の文化に圧迫されてきた。自らの文化を生むことは出来なかったのだ。2500年の間植民地だった。我ら自身の罪だ。我らは力を失った。燃え尽きた。・・・眠りだよ。眠りを求めているのだ。そして揺り起こす者を憎む。贈り物に心動かす事もない。それに私は信じておらぬ。新しい王国の贈り物とやらを。我らの願望は忘却だ。忘れられたいのだ。逆に見えても、実はそうなのだ。血なまぐさい事件の数々も、我らが身をゆだねている甘い怠惰な時の流れも、すべて実は官能的な死への欲求なのだ。」

 「官能的な死への欲求」というのは原作にあるせりふだろうか。これまで描いてきた世界とはややずれる気がする。しかしこの言葉をとらえて無理やり「滅びの美学」へ持ってゆくのは作品の理解を歪めると僕は思う。むしろシチリアという土地の不毛さ、それを変えられなかった己の無力さが強調されていると読むべきだ。「変わったところで良くなるはずもない。」それは彼個人の無力さばかりではなく、彼の属する階級の無力さでもある。映画の約3分の1を占めるポンテレオーネ公爵邸での盛大な舞踏会の部分で最も重要なのは、他愛もなく遊び呆ける若い娘たちを見て放った公爵の言葉だ。「いとこ同士の結婚が多すぎる。彼女たちが猿に見えないかね。今にシャンデリアにぶら下がりかねない。」一体何人の招待客がいるのか分からないほど盛大な舞踏会の表面的壮麗さの中に、彼は貴族階級が衰退してゆく兆しを的確に見て取っている。同時にポンテレオーネ公爵邸の調度品を手にとって、「これは土地に換算すると何ヘクタールくらいだろうな?」と値踏みするドン・カロージェロを映し出して、貴族たちとは全く違う価値観を持った新興勢力が大貴族の邸にも入り込んできていることを描き出している。死の床に横たわる老人と周りで嘆いている人々を描いた絵を1人しげしげと眺め、公爵が涙目になる場面はその延長線上にある。その後に続くアンジェリカと公爵がワルツを踊る有名な場面は、上りつつある階級の輝きと滅び行き、過ぎ去り行くものの最後の輝きが同時に描かれる素晴らしい場面である。一時公爵は若さを取り戻す。

 しかしその後の場面、舞踏室にしばらく佇んでからゆっくりと部屋を出てゆく彼の後姿にはもはや覇気はなかった。馬車にも乗らず公爵は1人歩いて帰る。薄汚れてボロボロの家々が続く。貧しい家に入ってゆく司祭と出会った時、彼は跪いて祈る。「おお星よ、変わらざる星よ。はかなきうつし世を遠く離れ、なんじの永遠の時間に我を迎える日はいつの日か?」彼が求めていたのは自分たちを必用としない現世から離れ、永遠の安らぎを得ることだった。立ち上がった老いぼれ山猫はがっくりと肩を落とし暗がりの横丁へ消えて行く。うら寂しい落魄のシーンだが、注目すべきは彼が庶民の街を歩いて帰るということの持つ意味である。公爵が別荘の窓から庶民の家を眺め微笑むシーンがある。様々な生活の音、大声を上げてはしゃぎまわる子供たち。そこにはブルジョア階級とはまた違った活気と活力があった。公爵が民衆に共感を持ったと言いたいわけではない。それはかすかに暗示されているだけだ。しかし最後のシーンは明らかにほのめかし以上のものがある。わざわざ公爵に薄汚れた町の中を歩かせたのは何らかの意図があると解釈すべきだ。タンクレディは反革命に転じ、一方公爵は最後に民衆の中に入ってゆくのである。原作がどうなっているかは分からない。原作はともかく、エンディングにはヴィスコンティの思いがこめられている気がするのだ。

  変革の時代をとらえた歴史叙事詩。かつてイタリア映画が世界の最高水準にあった時代に到達した頂点の一つ。その透徹した歴史観、時代に押し流されてゆく人々を見る冷徹な視線、消え去りつつある階級と力を得つつある階級が交錯する重厚な人間ドラマ。完成後40年以上たった今でも少しも色あせていない。名作中の名作である。

<おまけ>
■バート・ランカスター出演作 マイ・ベスト20
 代表作を20本挙げて、そのほとんどが傑作レベルという人はそうはいない。重厚なドラマが似合う得がたい俳優だった。

「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」(1983)
「1900年」(1976)
「家族の肖像」(1974)
「大空港」(1970)
「さすらいの大空」(1969)
「泳ぐひと」(1968)
「インディアン狩り」(1967)
「ビッグトレイル」(1965)
「大列車作戦」(1964)
「5月の7日間」(1963)
「山猫」(1963)
「終身犯」(1962)
「ニュールンベルグ裁判」(1961)
「エルマー・ガントリー 魅せられた男」(1960)
「深く静かに潜航せよ」(1958)
「成功の甘き香り」(1957)
「OK牧場の決斗」(1956)
「ヴェラクルス」(1955)
「地上より永遠に」(1953)
「愛しのシバよ帰れ」(1952)

■気になる未見作品
「明日なき十代」(1961)

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2007年12月 1日 (土)

ただいま「山猫」のレビューを準備中

Moontalisman3  ここしばらく更新が滞っています。別に体調を崩しているわけではありませんが、連休の後何かと気ぜわしくて集中できないのです。映画は連休中に3本観ました。「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」、「ゾディアック」、そしてヴィスコンティの「山猫」。

 「東京タワー」は「あかね空」同様、意外に良くできていると思いました。泣かせ路線に走るのではなく、丹念に親子の情を描いていて好感を持ちました。樹木希林が独特の持ち味を生かして好演していました。オダギリジョーはもう一つ彼らしさが足りないと感じましたが、内田也哉子と小林薫がなかなかいい。ただ、庶民の生活を共感を持って描いている姿勢はいいと思うのですが、何かがいま一つ物足りない。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」と比べるとやや魅力に欠けると感じました。

 「ゾディアック」は韓国の「殺人の追憶」と似た作品。どちらも実話に基づき、同じように結局犯人は最後まで分かりません。ジェイク・ギレンホールがとことん犯人を追求する姿勢にひきつけられます。アメリカお得意のサスペンス・ミステリーものですが、一連の作品の中では突出した出来だと思いました。ただ、しばらく時間がたってしまうとほとんど内容が思い出せない。場面が浮かんでこない。そういう意味では「殺人の追憶」には及ばないと言わざるを得ません。

 「山猫」を観たのは3度目。26年ぶりに観ました。最初に観たのは71年の9月。映画ノートには日付を書き落としているので、何日かは正確にわかりません。前後に観た映画の日付から判断して9月20日過ぎのようです。僕が本格的に映画を観始めたのはその1、2ヶ月前。まだ高校2年生で、映画を観初めてすぐこの作品に出会ったわけです。もちろん初めて観たヴィスコンティ作品。圧倒されました。まだ高校生ですからこの作品を十分理解できたはずはありませんが、ヴィスコンティ監督の名は脳裏に深く刻み付けられたでしょう。一気にお気に入り監督になりました。バート・ランカスターの重厚な演技にも感動しました。高校生・大学生時代を通じて、彼はグレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュアート、ゲーリー・クーパー、ヘンリー・フォンダ、スティーヴ・マックィーンなどと並ぶお気に入り男優でした。

 次に観たのは丁度10年後の81年12月6日。岩波ホールで観ました。この時初めてイタリア語の「オリジナル完全版」が上映されたのです。64年に公開されたときは英語版でした。テレビも英語版を放映したのだと思いますが、吹き替えだったので別にどっちでも関係なかったわけです(ちなみに、久松保夫氏の吹き替えはバート・ランカスターのイメージぴったりの低音で絶品でした)。大作ですのでテレビではなく映画館の大画面で観るとさらに圧倒的でした。そして今回26年ぶりにDVDで観直したわけです。今観るとクラウディア・カルディナーレもそれほど美人ではないと思いました。かつてはソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジーダと並ぶイタリアの代表的女優でした。他にはアンナ・マニャーニ、シルヴァーナ・マンガーノ、ジュリエッタ・マシーナ、オルネラ・ムーティ、エレオノーラ・ロッシ・ドラゴ、ステファニア・サンドレリ、アリダ・ヴァリ、モニカ・ヴィッティ等々。最近イタリア映画を観る機会がほとんどなくなったので、懐かしい名前ばかりです。クラウディア・カルディナーレの相手役はアラン・ドロン。美男俳優の代表でしたが、彼は最初に観た時からこの映画の一番の弱点だと思っていました。残念ながら今回もそう思いました。やはり彼にこういう役は合わない。「太陽がいっぱい」、「冒険者たち」、「仁義」、「サムライ」などの方がずっと似合う。彼の役はもっと陰のあるヘルムート・バーガーにやらせたかった。

 ガリバルディの赤シャツ隊の将軍役でジュリアーノ・ジェンマが出ているのも懐かしかった。マカロニ・ウエスタンの大スターで高校生の頃彼も大好きだった。とにかく格好よかった。「荒野の1ドル銀貨」はもう一度観てみたい。オッタビア・ピッコロも懐かしい名前だが、はてどこに出ていたのか。もうほとんど顔を覚えていないのが悲しい。彼女はマウロ・ボロニーニ監督の「わが青春のフロレンス」と「愛すれど哀しく」で日本でも一躍有名になった。顔立ちの濃いイタリア女優にしては日本人好みのやさしい顔立ちでした。しかしその後大成せず消えていってしまったのは残念。「わが青春のフロレンス」はDVDを持っているので、いずれ観直してみたいと思っています。

 バート・ランカスターの存在感が圧倒的なので、他の登場人物がかすんでしまってはいますが、そんなことは大した瑕ではない。作品全体の出来は圧倒的です。変革の時代をとらえた歴史叙事詩。かつてイタリア映画が世界の最高水準にあった時代に到達した頂点の一つ。その透徹した歴史観、時代に押し流されてゆく人々を見る冷徹な視線、消え去りつつある階級と力を得つつある階級が交錯する重厚な人間ドラマ。今観ても少しも色あせていない。名作中の名作です。

「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」★★★★
「ゾディアック」(07、デビッド・フィンチャー監督、アメリカ) ★★★★
「山猫」(64、ルキノ・ヴィスコンティ監督、イタリア) ★★★★★

<追記>
 「山猫」のレビューはこちらです。

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