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2007年11月18日 (日)

天上の恋人

2002年 中国 2006年6月公開
評価:★★★★
監督:ジャン・チンミン
製作総指揮:マー・チョンチュン、チョウ・ボーシォン、奥山和由
プロデューサー:リー・チャンシェン、吉田啓
原作:東西『没有語言的生活』
脚本:ドン・シー、ティエン・イン、ジャン・チンミン
撮影:シャオ・ダン
出演:ドン・ジエ、リィウ・イエ、タオ・ホン、フォン・エンホー、ムー・リーイエン

  恋愛映画といえば韓国映画がすぐ思い浮かぶ。レンタル店に行けば壁一面を覆うほどArtpure2003w あふれかえっている。日本映画にも多いが、では中国映画ではどうか。誰でも最初に思い浮かべるのは大ヒットした「初恋のきた道」だろう。香港製の軽そうな恋愛物は結構見かけるが、ほとんど手を出していない。他に名前を上げるに値するものといえば、80年代に文芸座で観た「恋愛季節」(ヒロインにすっかりほれ込み、余韻に浸りたくて池袋の街をしばらく歩き回ったものだ)、中国のお見合い事情を描いた「スパイシー・ラブスープ」、遠距離恋愛を描いた「たまゆらの女」、下放時代のつかの間の恋愛を描いた「小さな中国のお針子」、中年男に騙される若い女性を描いた「ションヤンの酒家」、昨年公開の「緑茶」、「ジャスミンの花開く」、「玲玲の電影日記」程度だろうか。中国映画史上の名作とされる「小城之春」(1948)の再映画化「春の惑い」にはがっかり。もちろん香港映画を加えれば結構あるだろう。80年代に観たチョウ・ユンファ主演の「風の輝く朝に」、「誰かがあなたを愛してる」あたりは悪くなかった。しかし、韓国や日本の映画に比べると中国の恋愛映画はだいぶ数が少ないと言わざるを得ない(恐らく本国ではもっと公開されていると思われるが)。「天上の恋人」はその数少ない恋愛映画の秀作である。

  別の角度から見てみると、広大な国土を持つ中国にはとんでもない山奥を舞台にした映画がいくつかある。一番有名なのは「山の郵便配達」だろう。他にも「小さな中国のお針子」、「あの子を探して」、「子供たちの王様」、「古井戸」、「野山」などがある。秘境という言葉を連想してしまう山の景色が息を呑むほど美しい。「天上の恋人」にも素晴らしい山の風景がふんだんに映し出されている(広西省チワン族自治区の山村が舞台)。山があれば谷もある。玉珍(ユイチェン)が小船を漕いでゆくダム湖(?)と断崖がそそり立つ峡谷の映像は夢幻郷のような絶景だった。

* * * * * * * * * *

  「天上の恋人」はほとんど話題にならなかったが、かなり豪華なキャストである。「至福のとき」のドン・ジエ、「太陽の少年」のタオ・ホン〔陶虹、「ションヤンの酒家」のタオ・ホン(陶紅)とは別人〕という2大ヒロインをそろえ、これに「山の郵便配達」、「小さな中国のお針子」、「ジャスミンの花開く」などのリィウ・イエがからむ。作品的にも優れたもので、もっと話題になって然るべきだと思う。

Rose_c06w   作品の設定は実に奇抜である。とんでもない山奥に住む王一家。父親の王老炳(ワン・ラオビン)は作品の冒頭で誤って自分の目を猟銃で撃ってしまい目が見えない。その息子の家寛(チャークァン)は子供の頃爆竹工場の爆発事故にあい耳が聞こえない。その家に天使のように華奢で美しい玉珍(ユイチェン)という娘がひょんな出会いからしばらく住むことになる。この娘が実は口がきけないのである。目、耳、口とそれぞれに障害を抱えた3人が一つ屋根の下に同居する。「ククーシュカ ラップランドの妖精」以上に特殊な設定である。もう1人のヒロイン朱霊(チェーリン)は同じ村に住む美しく奔放な娘。こんな山奥にどうしてこんな美人がと違和感を抱くほど周りの村人からは浮き上がっている。まるで「フラガール」で、灰色にくすんだ炭鉱町にやってきた松雪泰子の様だ。

  チャークァン(リィウ・イエ)は村一番の美人チェーリン(タオ・ホン)に惚れている。チェーリンも働き者のチャークァンにまんざらではないようで、二人はよく一緒に話したり自転車に乗ったりしている。しかし彼女が本当に好きなのは獣医の張先生だった。迷い込んできたユイチェンに対するチャークァンの気持ちは、恐らく妹に対する気持ちに近かったようだ。ユイチェンもチャークァンを兄のようにしたい、チェーリンへの片思いを応援したりしている。しかし、同居しているうちにユイチェンのチャークァンに対する気持ちは恋愛に似たものに変わって行く。つまり、この映画は互いに気持ちがすれ違っている変則三角関係を描いた恋愛映画なのである。

  原作がどういう描き方をしているのかはわからないが、少なくとも映画には都会人が思い描いた桃源郷のイメージが投影されている。切り立った崖の上の小さな村。どこを見ても山ばかり。その山々が連なる景色が美しい。都会とはかけ離れた山上の理想郷。この映画を観てジェームス・ヒルトンの『失われた地平線』に出てくる「シャングリ・ラ」を連想した。高校生の時に読み、フランク・キャプラ監督、ロナルド・コールマン主演の映画版(1937)もテレビで観た。「シャングリ・ラ」はヒマラヤ山脈の近くにあると設定されている。モデルはチベットのシャンバラらしい。もちろん西洋人の視点で山上の理想郷を見ているわけではないが、都会の喧騒を離れた世界を舞台に恋愛を描いてみたいという視点にはやはり都会人の感覚が見え隠れしている。

  山の美しさや村人たちの素朴さが強調されるのはそのためである。しかしそれがどうもFullmoon1 徹底されていない。チワン族自治区の山村が舞台なのに、登場人物があまり少数民族に見えないのは主演の3人に有名な俳優を配し、その他主要登場人物にも漢民族出身と思われる俳優たちを使ったからだろう。それらしく見えるのは村の悪ガキたちや村人たちだけである。しかし、その土地独特の風習も取り入れていて、その点は恋愛のテーマと絡んで見所となっている。典型的なのはチャークァンの気持ちを察した父親が、チェーリンの家族にチェーリンを嫁に貰いたいと交渉するあたりの描写だ。チャークァンの父は化粧させた牛を土産に、チェーリンを嫁に欲しいと彼女の華族に交渉に行く。しかし、チェーリンは張先生に会えなくて2日間部屋に閉じこもっていた。すっかり落ち込んでいて、親も手を焼いていたのである。夜、贈ったはずの牛が家に戻ってきた。牛は突っ返されたのだろう、雨でせっかくの化粧が流れ落ちている。

  すごいのはその後。チャークァンの父たちはチェーリンに直接訴えかける行動に出る。チャークァン、父、ユイチェンの3人でチェーリンの家に押しかけ、家の前で延々歌を歌うのである。まるで日本神話に出てくる天岩戸だ。西洋にも夜恋人に向って歌うセレナーデの伝統があるが、この地方にもこんな伝統があったのか!あまりの熱意に村人の差し入れがどんどん増えてゆくのが可笑しい。見物人も集まってくる。声が出せないのでもっぱら太鼓をたたいていたユイチェンも、興奮のあまりついに「アーアー」と声を出す。この場面はすごい。一つのクライマックスである。

  村人が牛を飼っていたり、チャークァンがくじで当てた自転車をうれしそうに、かつ得意げに乗り回しているあたりはいかにも田舎らしい風情である。さらに、人物描写にも田舎らしさが強調されている。すれていないので人間が純真である。チャークァンは一途にチェーリンに思いを寄せており、そのために彼女の気持ちが張先生に向けられていることに気づかない。チェーリンはしたたかで、チャークァンにも適当にいい顔を見せているのでチャークァンは誤解に気づかないのだ。

  チェーリンが張先生に引かれているのは彼が町から来た人だからだろう。彼と結ばれて、いつかこの田舎から出て行きたいと望んでいたに違いない。ここに都会と田舎のテーマが入り込んでいる。もはや理想郷として描きうる場所などない。都会人には理想郷でも、現地の人には息苦しい小さな村である。リー・チーシアン監督の「思い出の夏」に印象的なシーンがある。主人公の少年はせっかく映画に出演する機会をつかみながら、「町にいたくない、村に戻りたい」というせりふをうまく口に出来なくてそのチャンスを棒に振ってしまうのである。町に行きたくて仕方がない少年はどうしてもそのせりふが言えなかったのだ。「小さな中国のお針子」のヒロインも村を捨てて都会に出て行ってしまう。望まぬ相手と結婚させられた「黄色い大地」のヒロインも夫と村を捨てようとして黄河で溺れる。「ククーシュカ ラップランドの妖精」、「トンマッコルへようこそ」など、理想郷は常にファンタジーの中でしか存在し得ないのだ。

  チェーリンは田舎の退屈さや息苦しさを逃れようと望みつつ、結局はその息苦しさの中に閉じ込められてしまう。彼女が家から出てきたのは、夜彼女の家の前で野外の映画上映が行われた時だ。家から出てきたチェーリンはチャークァンの隣に座る。うれしそうな顔をするチャークァン。しかしチェーリンが彼の耳元でささやいた言葉は愛の言葉ではなかった。彼女は子供が出来たと彼に伝えたのだ(もちろん父親は張先生だ)。喜びが一転して落ち込むチャークァン。田舎のこととて、その噂は瞬く間に広がった。子供たちが二人をはやし立てて歌を歌っている。「張先生は山のサル、桃をかじってから捨てた。王家寛(ワン・チャークァン)はおバカさん、腐り桃を拾い宝にした。」

  ホットパンツをはいたり、派手な真赤な服を着たりと、都会娘のように輝いていたチェーリンはついに「腐り桃」にまで身を落としてしまった。このあたりはねっとりとした描き方ではなく、むしろさらっと描かれている。村の閉鎖性はそれほど強調はされていない。しかしチェーリンがそこから出たいと思う気持ちは十分理解できるように描かれている。

  面白いのは村の外から村にやってきたユイチェンの方が純真に描かれていることだ。赤いアドバルーンと一緒に外の世界から山にやってきた娘と山を出て町に行きたい娘が対比的に描かれているのである。だが、なぜこの娘は話せないという設定になっているのか。そもそも、ユイチェン、チャークァン、そしてその父が、なぜそれぞれ別の障害を持っているという設定になっているのだろうか。おそらく、この映画が恋愛映画であり、それぞれに胸に秘めた思いを互いにうまく伝えられないもどかしさを表現したかったのだろう。耳が悪いために他人の気持ちを読み取れないチャークァン、チャークァンへの思いを口に出せないユイチェン、その二人の気持ちをただ利用するだけのチェーリン。そんなチャークァンの気持ちを思いやる目の見えない父。

  この設定が一番効果的に表れているのがユイチェンの描き方である。ドン・ジエ演じるユイチェンの存在がこの映画の魅力を基本的に支えているといっても過言ではない。それほどドン・ジエは魅力的だ。ユイチェンがなぜチャークァンの家にやっかいになろうと決めたのSdbut09 かははっきり描かれていない。恐らくチャークァンの素直さ、彼の父のやさしさに引かれたのだろう。まあ、それは映画の基本設定なので深く追求することもない。しかし彼女がチャークァンに親しみを感じていたことは重要だ。彼女はユイチェンに対するチャークァンの気持ちに気づいていた。いや気づかされたと言ってもいい。朱霊(チェーリン)という字をユイチェンがチャークァンに教えるシーンは素晴らしい場面である。彼女はチャークァンに筆を持たせ、自分の手を添えて字の書き方を教える。このあたりまでチャークァンに対するユイチェンの気持ちはほとんど描かれていない。まるで兄弟のように描かれていた。実際チャークァンを兄のように慕っていたのかも知れない。ユイチェンの「兄」に対する気持ちは、何とかチェーリンへの彼の思いを叶えさせてあげたいという形で現れている。彼女は赤い気球に「朱霊」と書いて空に上げることまでしている。

  チェーリンは最初喜ぶが、「チェーリン、ワン・チャークァン」と村人たちがはやし立てるのでいやな顔をする。チャークァンとユイチェンの思いは通じていない。このむなしい共同作業が印象的だ。歌を歌おうが、字に書こうがチャークァンの気持ちはチェーリンに届かない。字が書けないチャークァンが張先生にラブレターの代筆を頼むエピソードも印象的だ。やっと書いてもらった手紙をチャークァンはうれしそうにユイチェンに見せるが、書名には張先生の名前が書いてあった。それに気づいたユイチェンが懸命にそれを伝えようとするが、舞い上がっているチャークァンは気に留めない。他人のラブレターを嬉々としてユイチェンに渡しに行った。ここにももどかしさのテーマがある。

  そんなチャークァンを一心に応援するユイチェン。彼女の気持ちが表面に現れないことが実に効果的である。張先生の姉がチェーリンと付き合うことを弟に禁じた時、腹を立てて張先生が飼っている牛を柵から放ち、トマトを戸に投げつけたチェーリンとは対照的な描き方だ。上に書いたダム湖に1人ユイチェンが船を漕ぎ出す場面も素晴らしい。彼女が舟をこぐ映像にかぶさるように憂いを含んだ歌が流れてくる。「草は焼かれても根は死なない。歌を歌えないと心は切ない。あなたを送って5里の坂。5里も遠いとは思わない。」そもそも彼女はダムの建設現場で働く兄を探しに来たのである。ダム湖に船を漕ぎ出したのは兄への思いからだろうが、流れてくる歌にはチャークァンへの思いが入り混じる。この世のものとも思えない絶景の美しさも加わって、実に秀逸な場面になっている。

  それぞれ違った障害を持つ3人の心の触れ合いがもっとも見事に描かれるのは、チャークァンの父がユイチェンに身の上を尋ねる場面である。父が質問し、ユイチェンが身振りで答える。それをチャークァンが言葉で父に伝える。チャークァンが間に入ることで彼の父とユイチェンの気持ちが繋がった。ユイチェンの両親は亡くなったようだ。それを伝えたユイチェンは泣き出すが、語られた内容以上に3人が一つに繋がったことが感動的なのである。

  チャークァンに対するユイチェンの気持ちは次第に変化してゆく。兄ではなく恋人として意識され始める。それが暗示されるのは、チェーリンが妊娠していると分かって自暴自棄になったチャークァンが村に戻ってきた時だ。彼はタバコで爆竹に火をつける。激しい音に仲間は飛びのくが、彼は破裂する爆竹の近くに立って逃げようとしない。思わずユイチェンは「チャークァン」と声を発して彼に抱きつく。「呼んだ?」とびっくりするチャークァン。ユイチェンが初めて彼女の心を表現した場面である。

  その時からチャークァンは立ち直る。化粧をするユイチェンの姿が初めて描かれるのはその直後である。思わずチャークァンも「君はきれいだ」ともらし、彼女にキンモクセイの花を渡す。「いい香りのキンモクセイだ、あげるよ。」やっと彼の気持ちもユイチェンに向いたかと思っていると、すぐその後でチェーリンを肩車してキンモクセイの花を取るチャークァンの姿をたまたまユイチェン目撃する場面が描かれる。周りの人の気持ちが読めないチャークァンにいらいらする場面だ。

  この恋の行方はどうなるのかと気をもんでいると、意外な結末が待っていた。何とチェーリンは例の赤いアドバルーンをつないでいたロープにつかまった途端、そのロープがほどけて空に飛んでいってしまうのだ。ロープを持ったときにそれとなく予感していたが、本当にそうなってしまうとは。あまりに唐突で、ありえない結末なので非常に評判が悪い。確かに唐突でありえないが、それによってストーリーそのものが台無しになったというのは大げさだろう。妊娠したチェーリンが張先生を追って町に行ったというありきたりの結末では弱いと考えたのだろう。あるいは赤いアドバルーンで始まり赤いアドバルーンで終わることにこだわったのかもしれない。いずれにしてもうまい結末だとは思わない。理想郷を描くにはどうしてもファンタジーにせざるを得ないということだろう。それはそれと割り切り、メリー・ポピンズのようにチェーリンが町に舞い降りる姿を想像して楽しむ方がいいだろう。

  「至福のとき」の目の見えないヒロイン、今回の口の利けないヒロインと、ドン・ジエは障害を持った役が続いている。繊細でけなげで純真。そんな役柄が似合う。同じような役柄でデビューしたチャン・ツィイーは国際派スターになってしまった。ドン・ジエにも活躍して欲しいが、あまり有名になりすぎないで欲しいとも思う。中国人は中国映画でこそ輝く。中国映画で活躍し続けて欲しい。

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コメント

ななさん TB&コメントありがとうございます。

 チャークァンについてのご指摘は僕もその通りだと思います。耳が聞こえない上に軽い知的障害を持っていることが、彼の場合あの天真爛漫さとして表れているということでしょう。そう考えるとあそこまで疑うことを知らない彼の素朴さが理解できます。
 中国映画が韓国映画や日本映画と違うのは素朴な人々や生活を素朴に描いて、なお魅力を感じさせる力を持っていることだと思います。人情を描きながら、湿っぽくもならないしお涙頂戴にもならない。人間を描くのが実にうまい。これからどんな素晴らしい中国映画と出会えるのか、本当に楽しみです。

こんばんは
私は女性なので(笑)ドン・ジエよりもリウ・イエのファンなのですが
それでもこの作品の彼女の可憐さには同性でも惚れぼれしますね!
チャークァンに恋しながらも,最後に身を引こうと村を出ていこうとするユイチェンの奥ゆかしさは,とても心を打ちます。これは私の解釈なのですが,チャークァンの空気の読めなさ,天真爛漫な笑顔,いかにも不器用な動き・・・などから,彼は耳だけではなく知的にも軽い障害があったのでは?と思いました。リウ・イエという俳優さんの他作品の演技に比べると,彼の無邪気すぎる表情などは,彼自身もその役柄を理解して演じていたのではないかと思われるのです。私は養護学校で特別支援教育に携わっていたので,特にそう感じたのかもしれませんが・・・。
そう,ラストはちょっとアレですが,とても好ましい佳作だと思います。

kimion20002000さん コメントありがとうございます。
この映画をご覧になりましたか。これを取り上げているブログがほとんどなくて、2つしかTBを送れませんでした。
この映画は昨年の6月公開となっていますが、DVDが出るまでノーマークでした。全く話題にならなかったのだと思います。
でもおっしゃるとおり、主人公たちそれぞれの思いが胸に迫って来るいい映画ですね。ドン・ジエは「至福のとき」についで2度目に観ましたが、もう彼女の可憐さにはすっかり参ってしまいました。彼女の壁紙を探してみましたが、見つかりません。どこで見つけたのでしょう?

こんにちは。
いつものようにTBが送れないみたいです。
「天上の恋人」は2002年の作品のようですが、日本ではほとんど話題にならなかったんでしょうかね。
とても心を打つ作品でした。
たしかに、あのアドバルーンがチェーリンをお空に連れて行ってしまうシーンには、目が点になりましたが(笑)、記念写真での笑顔の後でしたから、まあ、民話風でもあり、いいのかもしれません。
それにしても、ドン・ジエは可憐ですね。
さっそく、PCの壁紙にいたしました(笑)

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引き続きリウ・イエの出演作品ということで鑑賞。舞台は,山の郵便配達の時のような,中国の山岳地帯。そこで暮らす耳の不自由な青年と,口のきけない少女との純愛物語。 解説:「至福のとき」のドン・ジェと「山の郵便配達」のリィウ・イエ共演の純愛ストーリー。中国広西省チワン族自治区の山村。子供の頃、爆竹工場の爆... [続きを読む]

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