心の香り
1992年 中国 92年11月公開
評価:★★★★☆
監督:スン・チョウ
脚本:スン・チョウ、ミャオ・タン
撮影:ヤオ・リー
音楽:チャオ・チーピン
出演:チュウ・シュイ、フェイ・ヤン、ワン・ユイメイ
ハー・チェリン、リー・クワンノン
監督のスン・チョウは1954年山東省生まれ。若くして軍隊に入り、軍隊では毛沢東の絵を描く仕事についていたこともあるという。除隊後テレビ界で活躍していたが、映画監督の夢捨てがたく、「コーヒーは砂糖入りで」で初監督。以後3本の映画を監督している。僕の評価は以下の通り。
「たまゆらの女」 (2002) ★★★☆
「きれいなおかあさん」 (2001) ★★★★
「心の香り」 (1992) ★★★★☆
「コーヒーは砂糖入りで」(1988) 未見
80年代に急激に成長し世界のトップレベルに達した中国映画は、90年代前半にも次々に傑作を生んだ。「ロアン・リンユイ」、「菊豆」、「北京好日」、「紅夢」、「乳泉村の子」、「心の香り」、「青い凧」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「活きる」等々。スン・チョウ監督は彼のやや上の世代、チェン・カイコーやチャン・イーモウなどの第五世代に比べると、文革にあまりとらわれていない。より現代的で一般的なテーマを扱っている。今のところ「心の香り」が最高傑作である。最初に観たのが94年8月30日。13年ぶりに観た。
「心の香り」は全体に韓国映画の「おばあちゃんの家」のシチュエーションに似ている。おばあさんとおじいさんの違いはあるが、どちらも親が問題を抱えており、子供が夏休みの間だけ祖母/祖父に預けられる。最後に母の下に戻るのも同じだし、都会っ子が田舎に来る点も似ている。最も重要な共通点は、最初はギクシャクしていた孫と祖母/祖父がしばらくの間一緒に暮らすことによって次第に心を通わすようになってゆく点である。これが共にテーマとなっている。しかし重要な違いもある。一つは、「心の香り」の場合京劇が重要なファクターになっていること(孫と祖父の共通点)、もう一つは祖父の心の葛藤にも焦点が当てられていることである。孫だけではなく、祖父の心の変化も描かれている。
最初に京京(フェイ・ヤン)が京劇を舞うシーンが描かれる。実際に京劇を習っている子供の中から選ばれたようなので、身のこなし、見得の切り方、あの独特の発声などなかなかのものだ。普段はメガネをかけたおとなしそうな子である。京劇は無理やり母親に習わされていることが彼自身のナレーションで語られる。彼の両親は離婚寸前である。そのため夏休みの間京劇の練習を休み、まだ会ったことのない祖父に預けられることになる。
祖父の李漢亭(チュウ・シュイ)はかつて京劇の名優だった。今は引退し京劇同好会の顧問のような存在である。妻とも死に別れ、同じ京劇役者だった川向こうに住む蓮姑(ワン・ユイメイ)に何かと世話を焼いてもらっているが、老人で長い間1人暮らしだったためにかなり頑固で偏屈である。もっとも頑固さは昔からだったのかもしれない。娘はそんな父親を嫌い家を出て以来彼と音信不通だった。それが、上のような事情のためにいきなり京京を一時預かってほしいと一方的に送り出してきたのである。
当然最初はギクシャクしている。李は長い間連絡もよこさなかったくせに、突然孫を送ってよこした娘の勝手さに腹を立てている。その不満は当然孫の京京にも向けられる。京京は京京で、突然田舎に放り出され、あったこともない爺さんに預けられるのだから楽しいはずはない。終始無愛想である。便利な都会から来たので、トイレ一つにも都会との違いに驚く(どうやら近所の家族が共同で使っているようだ)。トイレをあけたら近所の女の子が先に入っていた。これが珠珠(ハー・チェリン)との最初の出会いである。
李と京京の間を取り持つ役割を果たしているのが蓮姑である。彼女の役割は非常に重要だ。頑固な李となかなか周りになじめない京京の間に入って、時には京京に人生について説き、時には李の頑固さを諌める。李と蓮姑の間には深い信頼関係があるが(ほとんど愛情に近い)、蓮姑には生き別れた夫があるため深い関係には踏み込まずに来たようだ。京京は最初の夜に二人の関係を知る。2階の床が天窓のようにガラス張りになっているので、それを通して1階の居間にいる二人を覗き見るのだ。
蓮姑と夫は40年前に生き別れになったきりで、台湾に渡った夫は生きているか死んでいるかも分からなかった。どうやら国共内戦の時期に別れ別れになったのだろう。その夫が実は台湾で生きていたのだ。蓮姑は夜それを李に知らせに来たのである。複雑な気持ちの李は、操を通した君は立派だと慰めるが、蓮姑はさめざめと泣く。蓮姑の涙には様々な思いが込められていたのだろう。夫への思い、そして李への思い。子供の京京にはそこまで理解できなかっただろうが、結構大人びた子なので二人の老人の間に微妙な愛情関係があることは漠然と見て取ったかもしれない。
李の居間での会話はこの後も何度も描かれる。広い部屋に家具はテーブルと椅子だけ。背景にある8角の模様の入った四角い窓が実に印象的である。このシンプルな場面構成はほとんど演劇的である。それは恐らく意図したものなのだ。実際、李が蓮姑への見栄から無理して舞台に立ち仲間に抱えられて帰ってきた夜、酔った李が京京に長々と話をするあたりは、台詞の話し方や発声、場面構成、独白の用い方などはっきり舞台劇を意識した演出になっている。一瞬舞台を見ているような錯覚に陥るほどだ。
ではなぜ、あえて演劇的な演出を用いたのだろうか。それを考える上で「紙屋悦子の青春」との共通性を指摘しておくと分かりやすいかもしれない。李と蓮姑の関係は微妙なものであった。明らかに二人は互いに愛情を持っているが、蓮姑には生死の分からない夫がいた。だからそれまで結婚にいたるのを踏みとどまっていたのだろう。しかしちょっとした言葉やそぶりから二人の気持ちは観客にも(そして京京にも)読み取れるのだ。だが二人は一度もはっきりと互いの気持ちを表明したことはない。それは李と京京の関係の場合も同じである。二人の気持ちの触れ合いを直接言葉では表現していない。しかし観客には読み取れるのだ。「紙屋悦子の青春」同様、直接の言葉ではなく、言葉では表されていない前後関係や表情や身振りなどから察することができるような表現形式を用いているのである。考えてみれば、李と蓮姑と彼女の夫との関係は、永与と悦子、そして明石の関係にほぼ相当する。
それがもっとも効果的に演出されているのが先ほど触れた李が仲間に抱えられて帰ってきた夜の場面である。酔った李は京京に向って独白のように述懐する。「たった一人の娘だがいないのと同じだ。ばあさんが早くに死んで娘は家を出たまま数十年。孫がこんなになるまで会わせてくれなかった。私を父親と認めるどころか芝居芸人とさげすんでいる。ただの貧乏人だと。」これは李の偽らざる気持ちだっただろう。しかしこれは誤解である。
もし本当に李の言うとおりだったら、どうして娘は京京に京劇を習わせたのだろうか?それも無理やり。もし本当に京劇役者を河原乞食のように思っていたのならば、息子に京劇など習わせるはずはない。京京に京劇を習わせた娘の気持ちの中には、明らかに父への思いが込められているのである。李の考えは誤解なのだ。娘には、父親に会って自分の気持ちを伝えられない何らかの理由があったのである。京京の母は最初にちょっと出てきただけである。彼女には何も語らせていない。しかし息子に京劇を習わせていたということの中に語られぬ娘の思いが「語られて」いるのである。ラスト近くで京劇を舞う京京の姿を見たとき、李は娘の真意を悟ったに違いない。京京が両親と祖父を理解することだけがこの映画のテーマなのではない。李が孫の京京や娘を理解することも重要なテーマだったのである。
もちろん李本人はこの時にはそんなこととは気づかずにいる。娘に対する李の怒りは孫に転じた。お前はこの家を奪いたくて来たのだろうと李は京京にも憎まれ口を利く。京京は「ママが行けというから来ただけだ。パパも悪い人じゃない」と祖父に言い返し、シャワーを浴びながら泣く。さすがに言い過ぎたと反省した李は心配になってシャワー室を覗く。それまで気持ちを押し隠していた京京はこのとき初めて大声で本心を吐露する。「パパとママは離婚して僕を捨てた。僕は行くところがない。」李は一瞬はっとする。彼は何も言わず京京の体を洗ってやる。
ここは本当に感動的な場面だ。しかし過剰な演出は一切していない。李に何も言わせず、無言のままで孫の体を拭く彼の身振りと表情ですべてを語らせている。素晴らしい演出だったと思う。「心の香り」では数少ない登場人物の心の通い合いが丁寧に描かれてゆく。それぞれの性格、それぞれの持つ心の傷や誤解、それぞれに対する思いやりなどが、単に語られた言葉だけではなく、その行間や、身振りや表情などの様々な表現手段によって描かれている。
かなり細かい演出にもそれが表れている。李が舞台に立ったとき、見栄を張って無理をしていると蓮姑は言うが、家に戻った彼女は飾ってあった夫の写真をしまう。年寄りのくせに無理をしてと言いつつも、やはりその気持ちがうれしかったのだろう。彼女はその時彼の妻になろうと決心したのかもしれない。その後は李や京京以上に蓮姑に焦点が当てられる。敬虔な仏教徒である彼女は京京に様々な教えを語る。ここでは語られた言葉自体が重い意味を持つ。「いいかい、人生というのは大変なものなの。両親を選ぶことはできないけど、自分の道は自分で決めなさい。ここでおばさんと暮らす?」これは船着場での会話である。戸外の画面も増えてくる。京京は一緒に暮らすとははっきり答えない。どこか憂いを抱えている。李もどう対処すればいいのか分からない。「何にせよ心の支えは必要だ。やはり家庭が一番なのだが。」
そんな鬱々としている京京が明るい表情を浮かべる場面がある。竜船のレースを見たときだ。最初は1人うつむいて河原にうずくまるように座っていたが、叫びながら走ってゆく子供たちにつられてレースを見る。京京はいつの間にか叫びながら応援していた。シャワーを浴びながら泣いた日以来、初めて彼は明るい表情を見せた。すっかり蓮姑になついた京京だが、そのままストレートには話は展開しない。京京はうっかりして蓮姑が大事にしていた仏像を落として割ってしまったりする。落ち込んでいる京京を李が抱き上げて二階に上がるシーンも印象的だ。「今抱かないとそのうち抱かれる番だ。」一見淡々とした展開に見えるのだが、「紙屋悦子の青春」同様、実際はいくつも波があり、感情の嵐が吹き抜けている。
「心の香り」はまた近所の女の子珠珠を登場させ、さらに話にメリハリをつける工夫をしている。もっとも印象的なのはやはり李が舞台に立った日の昼間の場面である。李が外出しているため京京は家に閉じ込められている。入り口の格子のドアを挟んで珠珠と話をする。珠珠は逆に父親に家から締め出されてしまっている。締め出された珠珠と閉じ込められた京京が格子のドアを挟んで対話をしているのである。実に面白いシチュエーションだ。間のドアは格子になっているので抜け出すことは出来ないが、手を通すことはできる。京京は珠珠に化粧をしてあげるといって珠珠の顔に京劇のくま取りを描く。不気味な顔になった珠珠はうれしそうにバレエを踊りだす。近所の人が集まってくる。そのうち父親が現れて、ひどいいたずらだと怒り出す。幸い閉じ込められていたお陰で京京はたたかれずに済んだ。全体に重苦しいトーンの映画だが、珠珠との場面には子供らしい明るさが描かれていて、いいアクセントになっている。京京がナレーションで「僕は珠珠が好きだ」と言っているのもほほえましい。
可愛い珠珠と一緒にいるせいか、京京には妙に大人びて生意気なところもある。彼は京劇ができるが、知られると練習しろと言われるので黙っていてほしいと珠珠に言っている。おじいさんが蓮姑と結婚すると珠珠に言われたときの会話も生意気で面白い。京京「どうせ離婚するのに。」珠珠「分かるの?」京京「分かるさ。結婚から離婚は必然法則だ。」変に大人びているので滑稽な会話なのだが、子供のうちからそんな考えを持ってしまっていることには当時離婚が社会問題になっていた中国の現状が反映されていて苦い後味も残る。
「紙屋悦子の青春」同様、「心の香り」も最後のあたりに大きな波が二つある。一つは蓮姑の死。蓮姑の夫は死ぬ前に中国をもう一度見に来るはずだったが、直前に亡くなった。ショックで蓮姑は寝込み、まもなく彼女も亡くなったのだ。彼女は亡くなる前の晩成仏できるよう供養してほしい(「超度」という表現を使っている)と京京に伝え、さらに「京京、両親のいいところを探すのよ。誰だって運命には逆らえないのだから」と言い残す。
最後の言葉は京京にあてられたものだが、同時に李の課題でもあった。彼も娘と娘婿を見直すことが必要だったのである。蓮姑は李にも「つまらない一生だったわ。お金もなく、地位や名声にも無縁だった。でも人の情けに恵まれただけで満足よ。これ以上の望みはないはず。なのに、なぜか心が寂しいの。ごめんなさい」と言い残す。満足な人生だったのに、どこか「心が寂しい」。それは李と結婚できなかった悔いを語っているのかもしれない。
最後の波は言うまでもなく京京が自ら禁を破って京劇を舞う場面。李は蓮姑の死後食事
ものどを通らず、寝込んでいた。しかしある時意を決したように家宝の胡弓を持ち出し人に売ろうとした。蓮姑と彼女の夫の供養をする金が必要だったのだ。見かねた京京が京劇を舞ってカンパをつのったのである。声につられて表に出た李は京劇を舞っている孫の姿を見て驚く。画面は普段着で踊っている実際の場面と、京劇の衣装を着けて京京が踊っている映像が交互に描かれる。李の目には舞台の上で京劇の衣装を着けて踊っている京京の姿が見えていたのだ。見事なシーンだった。京劇が重要なテーマではあったが、映画はそれをふんだんに映し出すことはしなかった。最初とこの場面だけである。京劇そのものをたっぷり描いて観客を楽しませようという映画ではない。京劇の名優だった李と、父に反発しながらもその父の意思を息子に継がせようとした彼の娘の思いが最後に重なるまでのドラマを描きたかったのである。この場面を観て李と京京の心のつながりだけを理解したのでは不十分である。その間に京京の母がいたからこそこの二人は京劇でつながることができたのである。
ラストも素晴らしい。京京は母のもとに帰ることになった。李は蓮姑の形見(マスコットの仏像)を京京に手渡す。「私からは何も上げられん、役者人生だったから」と彼は言うが、京京は充分彼から愛情を受け取っていたはずだ。京京が去った後、李は1人「この無念 いつの日か雲に乗り飛び行かん」と口ずさむ。その声が京京に聞こえたはずはない。しかし京京は最後に振り返り「雲よ、湧け」と京劇の口調で叫ぶ。別れ別れになりはしたが、二人の思いはつながった。
別れる前に李は京京に「両親を選ぶことはできないけど、自分の道は自分で決めなさい」という蓮姑の言葉を繰り返した。恐らくその時既に京京は自分の目標を見出していた。京劇という目標を。母親に無理やりやらされるのではなく、自分から進んで京劇を舞った。彼がその後京劇役者の道を進むかどうかは分からない。しかし少なくとも、あの時彼は自分で舞うことを選んだのだ。京京は思いを振り切るように走り去ったが、彼の顔は明るかった。
舞台は広州である。町の中を大きな川が流れ、牛がゆったりと草を食んでいる。のどかな風景もまた魅力だった。最後にチュウ・シュイ(朱旭)に触れておこう。中国を代表する名優で、人間国宝である。舞台で輝かしい功績を残してきた。映画は10本ほどしか出演作はない。「心の香り」以外では「變臉/この櫂に手をそえて」と「こころの湯」を観たが、どちらもいい映画だが傑作というほどではない。どうも映画では出演作に恵まれていない。むしろ彼の名演が目に焼きついているのはNHKのドラマ「大地の子」である。陸一心の育ての親を演じ、世の中にはこんな名優がいたのかと心底驚嘆したものだ(「心の香り」を先に観ていたはずだが、同じ俳優だと当時は気づかなかった)。僕は滅多にテレビ・ドラマを観ないが「大地の子」は夢中になって観た。この名作ドラマを支えていたのはチュウ・シュイだったといっても過言ではない。
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