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2007年3月 9日 (金)

トンマッコルへようこそ

2005年 韓国 2006年10月公開
評価:★★★★☆
監督:パク・クァンヒョン
脚本:チャン・ジェン、 パク・クァンヒョン、キム・ジュン
撮影:チェ・サンホ
出演:チョン・ジェヨン、シン・ハギュン 、カン・ヘジョン、イム・ハリョン
   ソ・ジェギョン、リュ・ドグァン、スティーヴ・タシュラー
   チョン・ジェジン、イ・ヨンイ、パク・ナムヒ、チョ・ドギョン

  ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は硫黄島をモデルとしたと思わしきアノポペイ島に上陸Yama2_1 したアメリカ軍の偵察小隊を描いた小説である。その中で非常に印象深い場面が3つある。一つは日本兵をクロフト軍曹が銃で撃ち殺すぞっとするような場面。3人の日本兵を発見したクロフトたちは手榴弾で彼らを倒す。しかし1人だけ生き残っていた者がいる。捕らえられたその日本兵が持っていた家族写真を見て、部下のギャラガーが自分にも子供がもうすぐ生まれることを思い出したその瞬間、クロフトがその捕虜を撃つ。ギャラガーは偏見に満ちた男だが、この日本兵の死に衝撃を受ける。

  もう一つは夜1人で偵察に出たマーチネズがやむをえない事情で日本兵を殺す場面。彼は気づかぬうちに日本兵の野営地の中に出てしまい、目の前の歩哨を殺さねば脱出できない羽目になった。だが彼は一瞬ためらう。そこにいたのはほとんど少年のような若者だった。マーチネズはその少年兵のちょっとしたしぐさに微笑をこぼしたりもする。しかし彼を殺さなければ、自分が殺される。ふと人間的なものを感じたまさにその時に、彼は非人間的な解決を迫られたのである。彼は意を決してその少年兵を殺すが、長い間彼は人間一人を殺したという罪の意識に苦しめられる。この場面は先のクロフトが捕虜を撃ち殺した場面をさらに突き詰めている。もしクロフトが自分で撃たず、ギャラガーに撃つことを命令したらどうだったか。マーチネズが追い込まれた状況はまさにそのような状況だった。

  この小説にはカミングス将軍というファシストのような男が登場する。リベラル派のハーン少尉とカミングスの対話部分が戦場の兵士たちと交互に描かれる構成になっている。このカミングスの理論には先に描かれたような日本兵の顔はない(もちろんアメリカ兵の顔も)。将軍の理論上の兵士たちは顔を持たない、集団の中の一分子に過ぎない。兵士一人ひとりの人格は考慮に値しないと彼は言い切っている。

  三つ目のエピソードはまさにこの「兵士の顔」が主題である。偵察小隊の中でもっとも人間的であったレッドがある日本兵の死体を見て感慨にふける場面は、この分厚い小説のもっとも重要な場面のひとつである。

  彼はほとんど裸の状態であおむけに横たわっている死体を見ていた。それは感銘を与える死体であった。なぜなら体には傷一つなく・・・死体の口元からは、そこにあったに違いない苦痛の表情を容易に想像することができた。だがその死体には頭部がなかった。・・・その男にも幼年時代、少年時代、青年時代があったのだ。そして夢も思い出もあったのだ。・・・

  この長い考察の一部しか引用できないのが残念だ。頭部のない死体は象徴的である。死体に頭部がないからこそかえってその人間の顔を想像させられる。同時に、頭部がないからこそ彼はすべての戦死者を代表しているのである。兵士の顔、それは人格を表している。アメリカ映画にはばたばたと敵を機関銃で打ち倒す場面がやたらと出てくるが、一旦相手の顔を見て相手を人間として認識してしまったならば、そう簡単には人を撃てるものではない。

3117a_1   アメリカの傑作TVドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」のウィンタース中尉も戦闘中に1人のドイツ兵を撃ち殺した時、一瞬その青年の顔を見てしまった。その青年の顔は何度も彼の記憶の中に浮かび上がり、それ以後彼は銃を撃てなくなってしまった。「ジャーヘッド」などの戦争映画でたびたび新米兵士の過酷な訓練が描かれる。殺す機械に新兵を変えるための洗礼である。逆に言うと、そこまで追い詰めなければ人間は簡単に人を殺せないのである。

  戦争を批判する映画にはなぜ敵同士が身近に接する(つまり互いに相手の顔が見える)シチュエーションが何度も繰り返し描かれるのか、以上の説明である程度理解できるだろう。「ノー・マンズ・ランド」、「JSA」、「ククーシュカ ラップランドの妖精」、そして「トンマッコルへようこそ」等々、いずれも敵同士であったものがたまたま偶然によって同じ場所に閉じ込められてしまうのだ。身近に接した敵は決して憎むべき冷酷な人間ではなかった。 だが、戦争の悲惨さに底はない。顔見知り同士が争う戦争もあるのだ。例えば、国と国の戦いではなく内戦の場合だ。その時戦争はもっとも非人間的で忌まわしい様相を呈する。この点を「ビューティフル・ピープル」のレビューで短く考察したことがあるので、これも引用しておこう。

  アメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。これがボスニアだったらどうか。あちこちに倒れている「敵」の死体の顔をのぞいたら、隣の雑貨屋の親父さんだったり、いつもパンを買いに行く店の長男だったり、前を通るといつも声をかけてくれた花屋の若奥さんだったりするかもしれない。だからやりきれないのだ。・・・
  どんな戦争でも悲惨でないものはない。隣人だったものが互いに争うというのは第二次大戦末期のトスカーナ地方を舞台にした「サン★ロレンツォの夜」にも出てくる。「ブコバルに手紙は届かない」の主人公であるセルビア人トーマの妻、クロアチア人のアナを戦時の混乱の最中にレイプしていったのは同じクロアチア人だった。

  今のイラクだって同じことだ。「ホテル・ルワンダ」でもちょっと前まで近所付き合いしていた人たちが殺しあっていた。自分で書いていて気が滅入ってくる。戦争とはそういうものなのだ。この現実から目を離さずに、かつその現実を乗り越える「希望」を描くにはどうすればいいのか。よく使われるのは新しい生命の誕生を希望の象徴として描く方法だ。チェコ映画の名作「この素晴らしき世界」ではラストでマリエが赤ん坊を産む。マリエはマリアのチェコ語読みであり、そこには聖母マリアのイメージが重ね合わされている。「ククーシュカ ラップランドの妖精」では大地の母を思わせるククーシュカを登場させる。彼女はたまたま一緒に暮らすようになった二人の兵士を大地のように包み込み、それぞれの子供を産む。「ライフ・イズ・ミラクル」や「ビューティフル・ピープル」では笑いを導入した。戦争を笑い飛ばした。「ライフ・イズ・ミラクル」のシュールな笑いはフィリップ・ド・ブロカの「まぼろしの市街戦」にも通ずる。「まぼろしの市街戦」は狂気と正気を逆転して見せた(狂人たちよりも戦争の方がよほど狂気だ)。主人公は最後に自ら進んで精神病院の門をくぐる。「ジョニーは戦場へ行った」では上の引用と逆に頭と胴体だけ残り、両手足ばかりか顔すら失った兵士を描いている。この絶望的状況で、看護婦がジョニーの腹に指で「メリー・クリスマス」と1文字ずつつづり、それがジョニーに伝わるシーンの感動は他に類例がないほど深かった。

  「トンマッコルへようこそ」が試みたのは架空の理想郷を作り、兵士たちをその中に投げ込んで敵対意識を消し去るというファンタジーないし寓話的方法である。「ククーシュカ」に近い設定だが、「ククーシュカ」のようにファンタジーで一貫させはしなかった。ラストには史Artspring250w_1 上まれに見るほどリアルな戦闘場面が用意されている。これは単にファンタジーの弱さをリアリズムで補ったというだけではないだろう。「長雨」、「シュリ」、「JSA」、「シルミド」「二重スパイ」等々、韓国映画は「民族統一」という悲願を繰り返し描いてきた(「シルミド」では兵士たちが北の革命歌を歌う場面が出てくる)。「トンマッコルへようこそ」は、実態は多国籍軍だが「連合軍」と呼ばれていたアメリカ軍に立ち向かう「真の」連合軍を描きたかったのであろう。人民軍の若い兵士ソ・テッキ(リュ・ドグァン)のせりふ、「ところで俺たちも連合軍ですか?南北連合軍じゃありませんか?そうですよね」が映画全体のテーマを示している。南北連合軍対アメリカ。単なる戦争否定、平和の強調ではなく、民族統一を阻害している最大の要因はアメリカであるという主張が代わりに見えてくる。トンマッコルは韓国軍も人民軍も、あるいはアメリカ人も個人レベルなら、受け入れ包み込む力はあるが、アメリカ軍まで取り込み受け入れる力はない。アメリカ軍だけがよそ者であり、闖入者である。「グエムル 漢江の怪物」同様、アメリカ批判が鮮明である。言うまでもなく、これは朝鮮戦争当時の考え方ではなく、明らかに現在の認識が反映されている。

  武器の扱い方にそれが象徴的に現われている。争いのないトンマッコルの人たちは村に入り込んできた南北双方の兵士たちの武器に全く無頓着である。兵士たちの銃やヘルメットは、村人の目には「頭には洗面器をかぶって長い棒を持ってる」ことになってしまう。手榴弾すら「あれは石か?」、「鉄の塊みたいだ」で片付けられ、誰も恐がる様子もない。双方の兵士たちが銃や手榴弾を持ってにらみ合っていても、村人たちはイノシシがハチミツを荒らしていることを心配している始末。村長の母親などは何事もなかったかのように平気でトイレに行ってしまう。両手を挙げながら、なぜそうしているのか分からない。分かっているのは村の先生(チョ・ドギョン)だけ。そのうち雨が降りだし、村人はみんな家の中に避難。北と南の兵隊たちだけがにらみ合うのを家の中から不思議そうに眺めている。

  結局双方発砲することもなくその場は無事に収まる。ただ、無垢な村の少女ヨイル(カン・ヘジョン)が指輪だと思って手榴弾のピンを抜いてしまい、村の食料庫が吹き飛んでしまうというハプニングはあったが。いずれにせよ、武器で誰も傷ついていない点が重要だ。武器が本来の戦闘手段として使われるのはアメリカ軍が侵入してからである。

  手榴弾が爆発する場面はいろんな意味で興味深い。地面に転がった手榴弾の上に人民軍のリ・スファ少尉(チョン・ジェヨン)が身を被せ、村人をかばおうとする。手榴弾は不発で彼は助かる。韓国軍ではなく人民軍の軍人が村人を助けようとする描き方になっている。こういう描き方に韓国内で批判も出たようだが、北への対立意識よりも北の軍人を人間的に描くことに力を入れている。対立よりも統一をというメッセージである(今の北側にどれだけ通じるのか疑問ではあるが)。もう一つは不発弾だと思ってぽんと放り投げた手榴弾が爆発して食料庫を吹き飛ばした時、中のとうもろこしがはじけてポップコーンになり雨のように降り注ぐシーン。緊張した場面が突然幻想的で美しいシーンに一変してしまう。「ライフ・イズ・ミラクル」並みにシュールでファンタスティックなシーンだった。こういう切り替えがなかなかうまい。

  「トンマッコル」とは「子どものように純粋」という意味だと映画の中で説明されている。山奥にある桃源郷のような場所。韓国のシャングリラ。ますむらひろしの「アタゴオル」同様、「力ではたどりつくことができない世界」トンマッコル。この映画にはユートピア映画の面もあるのだ。「トンマッコル」は西洋型の管理が行き届いたユートピア社会ではなく、「自然の中の夢幻郷」という東洋型ユートピアである。ユートピア物はこれまで数多く描かれてきたが、その狙いは「理想」と照らし合わせて現実を批判することである。韓国軍の兵士から今戦争中だと聞かされ、攻めてきたのは日本か中国かと村人が聞き返す場面がある。どうやらだいぶ前に時間が止まっているようだ。同じ国が二つに分かれて争っていることなど想像もできない村民。そう描くことで争う二つの陣営に対する暗黙の批判が込められている。

  「ククーシュカ」では軍服を着た二人の男はアンニの家に「戦争と死の匂い」を持ち込んSdlorien01 だ。その点は「トンマッコル」も同様。アンニの持つ不思議な浄化作用によって男たちから死の臭いが消されてゆくように、「トンマッコル」も同様の浄化作用を持つ。南北米の6人の男たちは軍服を脱ぎ捨て、村人たちと同じ服を着て農作業を手伝う。どちらの映画でも「軍服を脱ぐ」ことが象徴的な意味を持たされている。畑仕事、アメフト、イノシシ狩り、草ソリ遊び、互いに肩を並べ協力して力を合わせることを通じて、6人のよそ者たちは村の生活に溶けこんでゆき、同時に互いに親密になってゆく。倒したイノシシの肉を南北米の男たちが輪を作って一緒に食べているシーンがその象徴である。

  人民軍のリ・スファ少尉が村長に質問する場面がある。「あなたは怒鳴ることもなく村人をうまく統制している。その偉大な指導力の秘訣は何ですか?」村長の答えは簡潔だった。「たくさん食わせること。」食べるものさえあれば人々は平和に楽しく暮らせる、そういうメッセージだ。同時に、北朝鮮の食糧難や人心を掌握できず、強圧的に押さえつけている現状を皮肉っているのかもしれない。最初に戦争を仕掛けたのは北側だということを知って人民軍兵士が驚く場面も同様である。

  ある種の「癒し」の力を持つトンマッコルではあるが、誰でも村に入れるわけではない。南北2人の将校がそれぞれに個人的悩みを持っているという描き方になっている。決して敵を殺す殺人機械ではない。だから受け入れられ、また溶け込めたのである。人民軍のリ・スファ少尉は足手まといになる負傷した部下を置き去りにはできなかった。軍人として決断力がないと部下から批判されていた。しかし韓国軍のピョ少尉の悩みはさらに深い。どうやら彼は脱走兵である。敵の戦車が来る前に橋を爆破しろとの上官の命令に従わなかったのである。橋の向こうには避難民がまだたくさん残っていたのだ。1950年6月28日にソウルが陥落した際の史実を基にしている。漢江にかかる橋が爆破されたために多数の軍部隊や住民が取り残されたのである。爆破命令を受けたときの彼の悩みはソ連映画の名作「道中の点検」に描かれたケースと全く同じだった(橋を爆破しようとした丁度その時、橋の真下をソ連軍の捕虜を乗せたはしけが通っていた、爆破すべきか否か)。一番最後まで彼が打ち解けなかったのはそういう理由があったからである。

  しかしトンマッコルは危機にさらされていた。たまたまトンマッコルの近くでスミスの乗った米軍機が墜落したため、米軍はその近くに敵がいると誤認してしまった(スミスの前にも輸送機が墜落している)。米軍は村に落下傘部隊を送り込み、さらに村を集中爆撃する決定を下した。民間人に同情する余裕はないと主張する米軍高官には、『裸者と死者』のカミングスに通じるものがある。村に侵入したアメリカ軍の傍若無人ぶり、その非道なやり方には怒りがこみ上げてきた。だが、どんなに脅されても村人たちは南北の兵士たちを売らなかった。リ・スファの発音が南と違うと疑われた時には、彼にひそかに好意を寄せていた一人の母親が「この子の父親です!」と声をあげてかばった。リ・スファたちは力を合わせて米兵たちを倒し、一人を生け捕り(韓国人2世らしい)にするが、そのドサクサでヨイルが撃たれてしまう。

  彼女の死は理想郷トンマッコルが危機に瀕していることの暗示だろう。外の世界がどかどかと踏み込んできたらひとたまりもなく蹴散らされてしまう。争いがなく、自給自足の生活、住民たちの底抜けな善良さや素朴さ、ヨイルがいじめられもせず、仲間はずれにもされない村、花咲く草原がひろがり蝶が舞う牧歌的集落。村の入り口には「千と千尋の神隠し」のトンネルの前にあったのとそっくりな石像がある。知的障害のあるヨイルはそんな浮世離れした村の象徴的存在だった。現実社会の「汚濁」を何も知らないが故の天真爛漫さ。村そのものがそういう存在だった。はしのえみ似のカン・ヘジョンはそのイメージにぴったりだった。

  この村を守るために6人の男たちは“おとり作戦”に打って出る。トンマッコルを一歩出たら、そこには冷酷な現実世界が待っている。63年製作の「帰らざる海兵」でもおとりにされた部隊がほぼ全滅するすさまじい戦闘が描かれていたが、「トンマッコル」では事情を説明するために米軍本部に向うスミスを除く5人は自らの意思で死地に赴いた。ここからの戦闘場面はすさまじいものだった。韓国の戦争映画は日本映画など比べ物にならないくらいリアルである。本物の武器や戦車や軍艦が使えるかどうかで戦争映画のリアリティは天と地ほども違ってくる。

  「最後の」戦闘を前にして2人の少尉が夕暮れの丘で語り合う場面が実に印象的だ。ピョ「なぜ俺に指揮を執らせたんだ?」リ・スファ「俺は先頭に立つ器じゃない。中隊長の俺は部隊員を失ったのに一人生き残って逃げてきた。お前は立派な指揮官だ。」ピョ「そう見えるか、よかった。」なかなか心を開かなかったピョはこのとき初めてリ・スファと心を通わせた。墜落した輸送機から運び出したありったけの武器を使って、彼らは米軍の爆撃部隊に立ち向かう。最初は戦闘機が襲い掛かってきた。戦闘機を打ち落とす一番効果的な方法は真正面から機関銃を打ち込むことである。当然敵の機関銃の標的にもなる。互いに激しく撃ち合い何機か撃墜するが、こちらも死者が出る。バズーカ砲も一発当たった。

  しかし狙いの付けられない高度から爆弾を落としてくる爆撃機にはどうすることもできなS_illusion5_4b い。スローモーションで爆弾の雨が降ってくる。爆弾の炸裂が遠くから次第にこちらに向って近づいてくる。画面の手前には生き残った3人がそれを眺めながら立っている。このぞっとする場面は戦争映画史上屈指の名場面である。既に死を覚悟していた3人は互いを見て笑い合う。爆弾はやがて彼らの上に降ってきた。次の場面では生き残ったスミスが泣いている。その次に雪に埋もれた爆撃現場が映される。雪からわずかに顔を出しているヘルメットや機関銃の上を蝶が舞う。蝶のイメージは常にヨイルと結びついている。だから最後の幻想シーンにもヨイルが登場するのだ。5人が寝泊りしていた部屋にヨイルがやってきて北の一番若い兵士ソ・テッキの頭に花を挿すのである。そしてスミスが撮ったフィルムが最後に短く流される。

  人民軍のソ・テッキが俺たちこそ真の連合軍だろと聞いたとき、韓国軍のピョ少尉は「その通りだ。ここじゃなく、別のところで出会ってたら楽しかったろうな。そうだろ」と答えた。「ここ」とはトンマッコルではなく「戦場」を指すのだろう。彼らが敵味方ではなく同じ国民として出会う日。その日はいつ来るのか?われわれはいかにして逃げ水のようなトンマッコルに到達できるのか?思うに、トンマッコルはどこかに存在しているのではない。われわれが作ってゆかなければならないのである。死んだ5人が守ろうとしたのは一つの村ではない。同じ民族が北と南に分かれることなく暮らせる社会だった。雪の下に埋まる彼らには確かに顔があった。  

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コメント

Agehaさん TB&コメントありがとうございました。
トンマッコルは確かにどこかにありそうな、決して特別なものではない気がします。自分の住んでいる近所を見たって争いもなく大きな犯罪もありません。でも武器のことは知っています。本物を見たことはありませんが、武器や戦争のことは知っています。
どこにもありそうなのにファンタジーとしてしか描けないトンマッコル。皆さんそこにもどかしさを感じるのでしょうね。現実世界に生きる僕らは、一方で気が滅入るような現実を見ながらも理想を諦めきれない。理想を現実にするには、それぞれの立場で自分のできることから始めてゆくしかないのでしょうね。

コメント&TBありがとうございました。

>死んだ5人が守ろうとしたのは一つの村ではない。同じ民族が北と南に分かれることなく暮らせる社会だった。

この切なる願いがいつの日にか叶いますように。
その思いの深さはうちらには計り知れないものがあって。

コメディと悲劇の結末だけに気をとられることなく
南北統一だけでなく、
世界中が
もっとシンプルに生きてゆけたら争いはないのにと
考えさせられました。
おなかイッパイ食べるためにみなが協力して働く、
・・・それだけでこんなに微笑みあえるのにと。
トンマッコルは何も特別なもんじゃないような気がします。
人の意識改革があれば、あちこちにつくれるのかも
知れません。
身近で簡単なことだけど手がとどかないもどかしいものですね。

kimion20002000さん TB&とても感銘を受けるコメントをいただきありがとうございます。
恐らく有史以前より人間は戦争をし続けてきたのだと思います。歴史の中で戦争が占める割合はかなりのものです。それは現在でもなんら変わりません。冷戦が終わって、かえって地域紛争が増えました。イラクの状況は毎日のように爆弾テロが報道されるような泥沼状態。全く先が見えません。
僕は「トンマッコル」の戦闘場面を観て、自分もあの場に飛んで行って彼らと共に戦いたかったとそちらのブログに書きました。同じことを真紅さんのブログに書いたところ、非常に驚かれていました。自分はあそこに行きたいなんて全く考えないと。
僕はそうだろうなと思いましたし、そう彼女が言ったことがうれしかった。恐らく人間がみんな血の気の多い男ばかりだったら人類はとっくに滅びていたでしょう。男を諌める女がいなければ死に絶えていた。
普段争いを好まない人でも、自分が守りたいことのためには体を張って戦う。他に手立てがなければそうする。男にはそういう考えが体に否が応でもしみこんでいるのかもしれません。「紙屋悦子の青春」で特攻で死んでいった明石も、自分が死ぬことで大事なものを守るのだという気持ちだったのでしょう。
それは美しいのですが、冷静に考えればそれは報復テロや復讐に結びついてしまいかねない。平和のために戦うという矛盾。僕が真紅さんへのコメントレスで「戦争を否定することは、ある意味で、自己否定することです」と書いたのはそういう意味も含んでいます(それだけではありませんが)。
ご指摘のように武器に代わる有効な問題解決手段を見出すのは最重要課題ですが、それはきわめて困難な課題でもあります。現実世界でファンタジーや寓話は通じません。平和憲法は今重大な危機にあります。しかしそれに気づいている人は少ない。どうすれば良いのか僕には分かりません。
われわれには「トンマッコル」が必用です。それがどこにもなければ作ってゆくしかない。一人ひとりの意識を変えてゆくしかない。しかしゼロからの出発ではないと思います。色々なところで色んな人たちが努力している。それらを少しずつでも広げ、つなげて行くしかないのでしょう。

コメ&TBありがとう。
ゴブリンさんのレヴューで、過去の数多くの<戦争>と大衆を描いた作品群の中で、トンマッコルを位置づけることができました。
小林よしのりなんかの「戦争論」や「公論」が提起している問題なんかともつながってきますが、彼の論の是非ではなく、僕は日本の多くの若者が戦争で狩り出され「お国」のために死んでいきましたが、そのときのアイデンティティを想起します。「天皇」より「お母さん」、「国家」より「愛郷心」、「組織」より「家族」であったと思います。
もちろん、アメリカのような世界の警察であるとか民主主義防衛のイデオロギーであるとかいった世界とは、まったく異なると思います(アメリカでも、個別の兵士の思いはさまざまでしょうが)
本当は、トンマッコルはユートピアだとしても、そのユートピアが脅威にさらされたときに、「武装」にかわるものはなになのか、ということを考えざるを得ません。
このことは、現在でも、世界の最重要の課題です。
そして、戦争放棄=平和立国の日本が、憲法問題も含めて、どう存立していくか、という問題ともつながります。
僕には、あのイノシシは「不都合な真実」に象徴される地球の環境問題(自然)に、そして「爆撃機」は「核」に象徴される大量破壊兵器(文明)の問題にオーバーラップして見えました。
ヒューマニズムということとはちょっと違って、僕はやはり、か弱きもの、権力を持たざるもの、物言わぬもの、正義を建前にしないもの・・・そうしたフラジャイルな存在に、自分の最後の根拠を置いていく以外にないだろうとどこかで思っています。そして、暴力が不可避に降りかかってきたときは、たぶんその根拠から、ロマンチシズムといわれようが、<死>を超越していくんだと思っています。
ちょっと、テーマがはずれちゃいましたが(笑)

猫姫さん 
こちらこそうまく受け付けなくて申し訳ありません。ブログ同士の相性なのか、時々そういうことがあります。こちらからは届いているのに不思議ですね。
ともかく、何度か試みていただいてありがとうございます。いずれまたTBを交わす機会もあると思いますので、そのときはまた試みてください。

あいりさん、真紅さん、TB&コメントありがとうございます。

<あいりさん>
たまたま「紙屋悦子の青春」に続いて戦争に関する映画を観ました。いつまでたっても戦争がなくならないのは本当に悲しいことですね。フィクションとしてトンマッコルを作るのは簡単なことですが、それを現実の世界で実現するのはきわめて困難なことです。時には絶望的にすら思えます。でも、一歩ずつでも前に進んでゆくしかないですね。

<真紅さん>
戦争がなくならない限り戦争映画もなくならないのでしょうね。人間にとって戦争を否定することは、ある意味で、自己否定することです。だから簡単にはなくならないのでしょう。
「麦の穂をゆらす風」は僕も楽しみにしています。早く観たいですね。
さとう珠緒ですか?う~ん。ポスターの写真なんかはしのえみにそっくりだと思うのですがねえ。

こんばんは!TBありがとうございました。
何回かお返ししているのですが、どうも、届かないようです。
ごめんなさいね。

TBをありがとうございました。

>>トンマッコルはどこかに存在しているのではない。われわれが作ってゆかなければならないのである。
私、思うのですが、いくら子供たちに人を殺めるな、暴力をふるうなと教えていても、どこかで戦争という名の殺戮が行われている限り、この世からそれらはなくならないような気がします。
トンマッコルは私たちが作ってゆかなければならないのですね。
心を重くさせずに、反戦を考えさせてくれるいい映画だったと思います。
戦争映画は心が凍りつくので、あまり見ませんが、『麦の穂』はなぜか見たいです。

ゴブリンさま、こんにちは。拙宅にコメント&TBありがとうございました。
やはり、過去の多くの戦争映画と共通点があるのですね。
戦争映画は尽きないですね・・。昨年観た中では『麦の穂をゆらす風』がベストでした。
もうすぐDVDが出ますね、ゴブリンさまのレビュー楽しみにしております。
カン・ヘジョンがはしのえみ似?!私はさとう珠緒かな?と思いました。
ではでは~。

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神戸シネリーブルにて 監督・共同脚本 パク・クァンヒョン制作・脚本・原案 チャン・ジン出演 シン・ [続きを読む]

» mini review 07031「トンマッコルへようこそ」★★★★★★★☆☆☆ [サーカスな日々]
カテゴリ : SF/ファンタジー 製作年 : 2005年 製作国 : 韓国 時間 : 132分 公開日 : 2006-10-28〜 監督 : パク・クァンヒョン 出演 : シン・ハギュン チョン・ジェヨン カン・ヘジョン 50年代、朝鮮戦争が続く中、戦争とはまるで無縁の平和な村”トンマッコル”へアメリカ人パイロットのスミス、韓国軍の2人、それに敵対する人民軍の3人がやってきた。最初は警戒し合うもの�... [続きを読む]

» トンマッコルへようこそ [映画/DVD/感想レビュー 色即是空日記+α]
トンマッコルとイノシシが取り持つ縁(笑 どんな映画かも知らずに行った。 なんだか意外と良かった。 ちょっとクスクス笑えて悲しくなる。 あー、、でもタイムリーな話題過ぎて ちょっと素直に見られない自分が・・・... [続きを読む]

» 「トンマッコルへようこそ」 [やまたくの音吐朗々Diary]
2005年に韓国映画界に旋風を巻き起こしたパク・クァンヒョン監督の「トンマッコルへようこそ」の試写。幸せな映画を観た。宮崎駿の映画を観たあとような温かい感動と、三谷幸喜の映画を観たあとのような爽快感。この映画の音楽を『もののけ姫』や『ハウルの動く城』を担当した世界... [続きを読む]

» 映画「トンマッコルへようこそ」 [ミチの雑記帳]
映画館にて「トンマッコルへようこそ」 架空のユートピア“トンマッコル”を舞台に、敵対する兵士たちが癒されていく姿を描く。 “トンマッコル”は“子供みたいに純粋”という意味。1950年代、その地上の楽園みたいな村に迷い込んできた米軍、韓国軍、北朝鮮軍の兵士たち。最初は銃を突きつけあい一触即発の状態だったのが、あまりにも無垢で心優しい村の人たちと過ごすうちに、心の壁を取り払い、人間として理解しあうようになってい... [続きを読む]

» 「トンマッコルへようこそ」 観客動員1位は信用できるか? [『パパ、だ〜いスキ』と言われたパパの映画日記]
2005年の韓国観客動員№.1の映画(2位は『マラソン』で、『クムジャさん』は4位)である。 ただし、『グエムル−漢江の怪物−』(2006年1位)が、韓国内全スクリーン数の 3分の1にあたる640スクリーンで公開されたのに対し、キム・ギドク監督の新作『時間』が、わずか12スクリーンで公開されたことに腹をたてたキム・ギドク監督が「韓国映画と観客のレベルが最頂点に一致した映画が『グエムル−漢江の怪物−』だ」という嫌味を言われてしまう観客たちであ... [続きを読む]

» イノセントワールド~「トンマッコルへようこそ」~ [ペパーミントの魔術師]
26日6:30.朝日生命ホールにて。 公式サイトはコチラへ。 → http://www.youkoso-movie.jp/ トンマッコルとは「子どものように純粋な村」 という名の架空の村。 1950年代の朝鮮戦争を舞台に 迷い込んだ兵士たちが人種・国籍に関係なく 笑顔で一つになってく..... [続きを読む]

» 独断的映画感想文:トンマッコルへようこそ [なんか飲みたい]
日記:2007年8月某日 映画「トンマッコルへようこそ」を見る. 2005年.監督:パク・クァンヒョン. シン・ハギュン,チョン・ジェヨン,カン・ヘジョン,イム・ハリョン,ソ・ジェギョン. 朝鮮戦争下... [続きを読む]

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