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2007年1月13日 (土)

酔いどれ天使

1948年 日本 東宝作品 1948年4月公開  98分  Bottleg
評価:★★★★☆
監督:黒澤明
製作:本木荘二郎
脚本:植草圭之助、黒澤明
撮影:伊藤武夫
美術:松山崇、
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、山本礼三郎、木暮実千代
    中北千枝子、千石規子、 笠置シズ子、進藤英太郎
    清水将夫、殿山泰司、久我美子

  黒澤明というと時代劇を思い浮かべる人も多いだろうが、彼は「天国と地獄」(1963)、「生きる」(1952)、「野良犬」(1949)、「酔いどれ天使」(1948)、「素晴らしき日曜日」(1947)、「わが青春に悔なし」(1946)など現代劇にも傑作、佳作を多く残している。「酔いどれ天使」は続く「野良犬」と並ぶ初期の代表作である。作品の完成度という点では傑出しているとは言い難いが、この作品にはそれを越えてあまりある不思議な魅力がある。黒澤の全作品の中でも上位に入る傑作だと僕は思っている。同じ医者を描いた映画でも「赤ひげ」よりも魅力を感じる。その魅力とは一体何か。それを追求してみたい。

  「酔いどれ天使」は黒澤が三船敏郎を初めて起用した作品であり、世評では結核病みのやくざを演じた三船のギラギラした演技が高く評価されている。しかしこの映画で志村喬が果たしている重要な役割を見落としてはならない。志村喬にとっても「生きる」、「七人の侍」、「野良犬」などと並ぶ代表作だろう。彼の出演作は多数あるが、代表作といえばほとんど黒澤の作品が上位に並ぶことになる。笠智衆を活かしきれた監督が小津しかいなかったように、志村喬の持ち味を最大限に引き出しきれたのは黒澤明しかいなかったと言っても過言ではない。発表当時は三船のワイルドさが評判になって志村がかすんでいると見られたようだが、今観れば飄々としていながらも芯の所では一歩も譲らない堂々たる志村喬の存在感の前では、虚勢を張っていきがっている三船敏郎がしばしばチンピラに見えるほどだ。何度も三船に突き飛ばされながらも、少しもひるむことなく暴力には言葉で応酬し、医者の情熱で押し切る。まことに痛快である。酔いどれながら悠揚迫らない志村喬に比べると(「本日休診」の柳永二郎をさらにワイルドにした感じだ)、三船の演技は素人くさく、大仰でぎこちない。「椿三十朗」や「用心棒」の頃の落ち着きや貫禄はまだない。しかし彼には体から発する迫力がある。荒削りながら天性のスター性があった。少々の演技力不足はそれで押しのけてしまう。いや、演技力も新人としてはかなりのものである。懐の深い志村喬の演技と、「ダンディな闇市の顔」からげっそりとやせこけて髪振り乱した「転落した男」までを荒削りながらもぎらつくほどの勢いで演じた三船のぶつかり合い、これが優れた作品を生んだのである。

  この2人の対決が観客をぐんぐん引き込むのはその対立が何らかの抽象的観念の対立ではないからである。確かに主題は単純である。それを明確に示すのはやくざの松永(三船敏郎)とセーラー服の女の子(久我美子)の対比である。2人とも眞田(志村喬)の患者である。病気が恐いくせに無理に虚勢を張っている松永に対して、女の子は病気と正面から向き合い、積極的に治療を受けて病気と闘おうとしている。松永が自滅して死んでいった後、ラストですっかり病気が治った女の子と眞田が交わす会話がそのテーマをもっとも明確に示している。

  少女「理性さえしっかりしていれば結核なんてちっとも怖くないね。」
  眞田「結核ばかりじゃないよ。人間に一番必用な薬は理性なんだよ。」

  2人は腕を組んで闇市の人ごみに消えて行く。この対比は作品を単純化することはあっても、決して深めてはいない。なぜなら、積極的な価値を担っているのは少女だが、患者が医者の言うことに素直に従うことは当たり前のことであって、それ自体取り立てて積極的価値を持っているとは思えないからだ。

  医者の言うことにおとなしく従うことが「理性」だと言うのではあまりに単純すぎて説得力を持たない。しかし、やくざには「理性」がないと言っているのかといえば、そうでもない。眞田は松岡の中にわずかな「理性」を見て取っている。眞田は松永のことを次のように説明している。あいつは「肺がやられてるだけじゃないんだ。なんていうか芯がやられてやがるんだ。きざな面してそっくり返ってやがるが、胸の中は風が吹き抜けてるみてえに、寂しいにちげえねえ。絞め殺しきれねえ理性が時々うずくのさ。まだ凝り固まって悪にはなっちゃいねえんだ。」

  「絞め殺しきれねえ理性」は上の引用の「人間に一番必用な薬は理性なんだよ」とつな Silverglass3_1 がっているが、どう見ても松永には「理性」の光は見えない。医者にかかるという意味で言うなら確かにある。実際、ばつが悪いからグテングテンに酔っ払ってはいるが、レントゲン写真を持って医者のところに転がり込んでくる。しかし、それが単に病気を治したいという気持ちからなのか、それともやくざから足を洗いたいという気持ちを腹の底に持っているのかは少なくとも三船の荒っぽい演技からは判然としない。松永はムショ帰りの兄貴分岡田に自分の縄張りを奪われて憤慨するが、それでも大親分に話をすれば分かってもらえると信じているような男なのである。だからこの「理性」という主題がどこか抽象的で薄っぺらなお題目のように響いてしまうのだ。その点がこの作品の弱さである。

  これでもし眞田が真面目で情熱的な青年医師にでも設定されていたら、この作品は「静かなる決闘」のような失敗作になっていただろう。実際当初はそう設定されていたようだ。しかし途中でその設定を変えた。そこに黒澤の非凡さが窺える。「きまじめ天使」ではなく「酔いどれ天使」にしたこと、これがこの作品を成功させた最大の要因である。眞田は若い頃挫折を味わっている。学生の頃「女郎買いにふけって」ぐれてしまった。ずけずけ物を言うのは自分の性分で、それがなければ今頃はどっかの病院の院長ぐらいにはなっているさ。そういう思いがある。しかし彼はそれを気にはしていない。出世なんか早々に諦め、言いたいことをずけずけと言い続けてきた。それが彼の魅力なのである。すごんで見せる松永に投げ返す言葉の端々にそれが表れている。「結核患者の5人もいれば医者は左団扇だ。」医者は胸をたたいたり聴診器を当てたりして見せるが、「そんなものはおまじないだよ。医者は格好がつかないからあんなことをするだけさ。」一方、「てめえ命は惜しくねえか」と脅す岡田には「自分ばかり人殺し面するな。お前より俺のほうがよっぽど殺してるよ」とやり返す。

  眞田は松永の問題を彼個人の「理性」の問題としては捉えていなかった。「お前の肺(結核をわずらっている)は丁度この沼みてえなもんだな。お前の周りにゃ腐りきった、うじの湧いたばい菌みたいな奴らばかり集まってる。そいつらときれいさっぱり手を切らない限りお前はダメだな。」泥沼に浮かぶ人形のカットがやけに印象的だ。抽象的な倫理的枠組みにはめ込まれてはいるが、最も重要な眞田と松永の対立場面ではそんな枠組みをはみ出てリアルな問題が抉り出されている。三船のギラギラした凄みに押されるようにして松永の設定がどんどん書き換えられていったことは有名だが、シナリオを練り上げ人物をよりリアルに描こうとするうちに、人物が生き生きとして立ち現れ、結果的に倫理的枠組みを越え出てしまったのは眞田も同じなのだ。そしてその踏み越えた度合いは眞田の方がずっと大きい。おとなしく倫理的枠組みに収まっているような柄じゃない。単なる生真面目な作品に止まることなく、痛快、豪快という言葉が似合う作品になったのはそのためである。このように理解して初めて、この作品の根源的な魅力が理解できるのである。

  ストレートにヒューマンなテーマを語るのではなく、幾重にもひねりを利かせて描いている。眞田はしばしば自嘲する。「本当にありがたく思わなくちゃ罰が当たるぜ。こうして頼まれもしないのに赤の他人の体を心配してやっているんだ。我ながら時々考えるね。俺は天使みたいなもんだってな。」松永「汚ねえ天使だな。」メタンガスが噴出す不潔な沼のほとりに医院を構える男には松永のように見栄を張る必要はない。軽口が似合う男なのだ。「先生入りましたよ、上物が」と呼びかける居酒屋の主人(殿山泰司)には「お前のところの酒はアルコールよりも石油に近いんでな。・・・まあ、これなら死にはせんだろ」と返す。そこで働く女(千石規子)が松永に気があるそぶりを見せると、「あんな男に惚れるんじゃないよ。惚れるんだったら俺みたいな男に惚れな。見かけは汚いが、第一病気になっときただで済む」とからかう。

  眞田に医者としての情熱がないわけではない。いやむしろ人一倍あるといったほうが正確だろう。散々憎まれ口をたたきながらも、松永のことは気になって仕方がない。しかしそれをストレートには出さない。「お前なんかどうなろうと構わない。しかしな、俺はお前の肺に巣くっている結核菌に用がある。そいつを一匹でも殺したいんだ。」さらに彼の酒好きがうまく使われている。実は松永のことが心配なのだが、踏み倒された診察代を取りにきたという名目で眞田は松永に酒を飲ませろとたかる。高級ウィスキーをうまそうに飲む眞田。しかしすぐ松永と言い合いになって、怒った松永が何度もグラスを手で弾き飛ばすが、眞田はあわてず騒がずすぐ別のグラスを取ってくるところが可笑しい。最後はつまみ出されるが、酒を飲みに来たのか松永が心配で来たのか分からない描き方が実に秀逸である。病院で松永につかみかかられた時も、眞田は出てゆく松永に次々と物を投げつけるが、ふと手に取ったアルコールだけは投げようとしてやめる。その前には、治療用の純アルコールに急須からお湯を注いで酒代わりに飲む有名なシーンも挿入されている。こういう演出はさすがにうまい。

  「酔いどれ天使」は初期の作品だが、はっとさせる演出の冴えが随所に見られる。特にうまいのはギターの使い方。タイトルバックでメタンガスがぶくぶく湧き出す汚いため池が映し出され、それに美しいギターの調べがかぶさる。この清濁のコントラストは見事だ。ギWine ターを弾く男はいつも画面奥に映されるが、一度だけ大きく間近に映される。座ってギターを弾いている男の横に近づいてきた男の下半身が映る。出所した岡田(山本礼三郎)が始めて登場する有名な場面。この登場の仕方が不気味だ。冷酷なまでの凄みが体からほとばしっている。「貸してみな」と言って岡田はギターで1曲弾いてみせる。「兄貴、今のなんていう歌ですか?」「人殺しの歌だよ。」この一連のシーンは実に強烈だ。凄みのある岡田がギターを弾くギャップ、曲調とタイトルのギャップ。これも効果的だ。流れてきたギターの調べを離れた所で聴いていた岡田の妻美代(中北千枝子)は岡田が戻ってきたことを知る。姿は見えなくとも曲で分かるという演出が効いている。去り際に岡田が残したせりふも印象的だ。「変わらねえのはこの薄汚ねえ水溜りだけか。」

  メタンガスが噴出すこの沼のようなため池は闇市の真ん中に位置するだけではなく、映画の中心にも位置している。それは混乱し腐敗した人間社会の象徴である。このドブ池の周りに闇市があり、眞田の病院がある。闇市の活気と人いきれ、生活のにおいがあふれかえっている。飲み屋「ひさご」で働く千石規子のけだるい雰囲気(この映画の彼女は非常に魅力的だ)。ダンスホールの喧騒。それでいてどこか淀んだような空気。一歩間違えば「泥沼」にはまりかねない不安定な生活。「野良犬」や「酔いどれ天使」の魅力の一つは戦後の混乱期の世相やムードが実にリアルに再現れていることである。闇市はセットなのだが、やはりあの空気はあの時代でないと作り出せない。淀んだ沼はまた岡田や松永のようなやくざたちの象徴でもある。松永がため池の横にたたずむシーンが何度か映される。花を一輪持ってたたずむ松永の足元の池からはあぶくが湧いている。松永の足元にもう一つの影が近づく。岡田だ。二度足から登場するが、足元を映すだけで不気味さを感じさせるという演出はなかなかできるものではない。松永は突然ぺこぺこし、持っていた花を沼に投げ捨て岡田を居酒屋に案内する。沼に浮かぶ花のカットが映るが、このとき既に松永は沼に片足が浸かっていたのだ。

  岡田が戻ってきてから松永の運命は暗転する。岡田は松永が持っていたものを一つひとつ奪ってゆく。後半はむしろ松永の転落劇になって行く。松永がダンスホールで愛人の奈々江(木暮実千代)を紹介するシーン。踊っている奈々江を見つめる岡田の目つきが食い入るようで凄みがある。口をあんぐり開けて見つめている。松永は奈々江と踊ろうと立ち上がる。しかし奈々江がパートナーに選んだのは同じく立ち上がっていた岡田だった。一人残されて呆然とする松永。やがて奈々江は落ち目の松永を捨ててアパートを出てゆく。その後でもう一度松永が池の横にたたずむシーンが出てくる。今度は池のそばの斜めの柱に斜めに寄りかかっている。この斜めの構図が彼の転落を象徴している。後は坂道を転げ落ちるだけ。いつのもように通りがかりの店から花を一輪すっと抜き取ると店の主人から「30円払え」と言われる。「この縄張りは岡田さんのもんだ」と言われ愕然とする。いつの間にか縄張りも失っていた。そして有名な岡田と白いペンキまみれになって格闘するシーンを経て、岡田に腹を刺されて物干し台の上で息絶えるシーンへ。

  松永の中にある「絞め殺しきれねえ理性」に期待をかけたものの、結局やくざはやくざだった。松永は何度か本気で病気を治そうとしたが、彼は自分にまとわり付く社会的関係性をついに断ち切れなかった。彼の中では「理性」よりもやくざの義理の方が重かった。岡田に縄張りを取られても、松永はまだ大親分に頼み込めば何とかなるという甘い幻想があった。しかしその大親分もただ自分を利用しているだけだと知った時、彼は最後のよりどころを失った。彼は自滅の道に走る。松永が物干し台で死んだ直後に、眞田が松永に食べさせようと卵を買ってうれしそうに戻ってくる短いカットがさしはさまれる。松永の悲惨な末路は眞田の期待の甘さを暴露している。最後はさわやかな久我美子を登場させてきれいにまとめているが、この映画の魅力はそんなさわやかな枠組みに収まりきらない、はみ出た部分にある。

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コメント

マーク・レスターさん コメントありがとうございます。TBはうまく入らなかったようです。申し訳ありません。
1年半ほど前に書いた記事ですが、コメントをいただいたのはこれが最初ですのでとてもうれしく思います。
千石規子は色気を感じる女優ではないのですが、この映画の彼女は実に魅力的でしたね。
こちらからもお伺いします。

初めまして。
レビューを興味深く拝見致しました。

千石規子さんはいい味出してましたよね。

トラックバックをさせて頂きますので、何卒、よろしくお願い致します

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