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2006年2月26日 - 2006年3月4日

2006年3月 4日 (土)

ヴェラ・ドレイク

ranpu-1 2004年 フランス・イギリス・ニュージーランド
監督・脚本:マイク・リー
製作:サイモン・チャニング・ウィリアムズ、アラン・サルド
撮影:ディック・ポープ
編集:ジム・クラーク
美術:イブ・スチュワート
音楽:アンドリュー・デュラン
出演:イメルダ・スタウントン、フィル・デイヴィス、ピーター・ワイト
    エイドリアン・スカーボロー、ヘザー・クラニー、ダニエル・メイズ
    アレックス・ケリー 、サリー・ホーキンス、エディー・マーサン
    ルース・シーン、ヘレン・コーカー、 マーティン・サヴェッジ
    ジム・ブロードベント

  「ヴェラ・ドレイク」が提起している問題を理解するには人間と動物を比較してみると分かりやすい。動物は交接をし、メスが妊娠して子供を産む。生まれた子供を天敵から守り育てる。生き抜いた子供は大人になりまた子供を産む。これが自然のサイクルである。必死で川をさかのぼり、ぼろぼろになった体で産卵した直後に一生を終えるサケを見ていると、子供を産むために彼らは生きているとさえ思えてくる。動物は避妊をしない。人間だけが避妊をする。なぜなら人間は道徳や法という自然には存在しないものを作り出したからである。道徳は人間社会の秩序を保つために必要なのである。法律はこの道徳と無関係ではない。今では合法とされることが、かつては違法だったことはいくらでもある(もちろんその逆も)。これはまた国や宗教によっても異なる。法律は決して普遍的なものではない。

  道徳や法が崩壊すれば秩序は乱れる。逆に言えば、そうしなければ秩序が守れないほど人間は欲望に駆られた存在なのである。大きな殺傷能力のある武器を開発したり、その武器を使っていくつものグループが互いに抗争を繰り返したり、あるいは麻薬で自分の命を縮めたり、自殺したり、自分の欲望のために他の個体のものを奪ったり殺したり、他の固体を奴隷のように使ったり、このような行為をすべて行っている動物は人間以外に存在しない。強いものが他を支配したり、縄張り争いをしたりする動物はあっても、このような行為をすべて行っている動物はない。道徳や法などなくても秩序は保たれている。彼らの基本原則は種の保存である。

  道徳で縛れば秩序は保たれるが、その秩序から外れたものは哀れである。婚姻関係なしに妊娠した女は世間から非難を浴び、場合によっては堕ちるところまで堕ちていかざるを得ない。特に因習的な道徳観念と宗教の戒律に縛られ、女性が経済的に自立することが困難だった時代には陽のあたる場所に「道を外れた」彼女たちのいる場はなかった。もっとも、裕福な家庭の娘たちにはそれでも逃げ道はあった。「ヴェラ・ドレイク」では何人もの女性が人知れず子供を処理するが、金持ちの娘が合法的に処理するエピソードも出てくる。1929年の法改正で「妊娠出産が母体の命を脅かす危険があると医師が診断した場合のみ合法とする」とされた事が彼女たちに逃げ道を与えている。医師が娘にあれこれ質問していたが、一応段取りを踏んだ上で「母体の命を救う」という名目で堕胎手術をしたということだろう。もちろん手術代は庶民には手が出ないほど高額である。貧しい人々はこっそりとヴェラの様な人たちの世話になるしかなかった。法律は支配者たちの都合のいいように作られているという事実が実に明快に描かれている。金があれば無難に処理できるが、金のないものはもぐりで処理しなければならない。道徳も法も金次第なのである。

  さらに重要なのは、その金持ちの娘の場合、男が無理やりにセックスを迫ったことが描かれている。何も彼女の場合だけがそうなのではない。ヴェラに頼った貧しい娘たちの多くも似たようなケースであることは想像できる。問題は、男はまったくお咎めなしであるということである。厄介な「結果」はすべて女性が背負わなければならない。道徳と法は性のダブル・スタンダードと分かちがたく結びついている。「ヴェラ・ドレイク」が切り込んだのはまさにこの道徳と法と「秩序」をめぐる問題である。

  道徳は秩序を維持するが、一方で人間の自由を制限する。ガルシア・ロルカ原作のスペイン映画「ベルナルダ・アルバの家」(1987年、マリオ・カムス監督)のテーマはまさにその問題だった。夫を亡くしたベルナルダは8年間の喪に服し、その間娘たちを一歩も外に出さなかった。長女の結婚相手はベルナルダが勝手に決めた。末娘がこの厳しい「戒律」を破り、長女の結婚相手と愛し合い悲劇的な結末を迎えた時、ベルナルダの家の秩序は崩れ始める。道徳と法には当然宗教の戒律が絡んでいる。がんじがらめの牢獄のような世界を見事にこの映画は描いていた。

  「ヴェラ・ドレイク」は同じテーマに別の角度から切り込んだ。彼女の行為は裁かれるべきものだったのか、彼女を裁いた法は正しかったのか、行き場のない娘たちはどうすればよかったのか、ヴェラのような女を取り締まりさえすればこのような問題はなくなるのか。「ヴェラ・ドレイク」の投げかけた問題はこのようなものだった。ヴェラ(イメルダ・スタウントン)を取り調べた警部補(ピーター・ワイト)は決して高圧的ではなかった。法に従い淡々と事実を確認してゆくだけである。法廷で彼女に有利な証言をしたことからも、彼が彼女にむしろ同情的であったことが分かる。彼女に付き添う婦人警官も終始同情的な表情でヴェラを見ている。ここに製作者たちの立場が暗示されている。

  この映画は堕胎そのものの是非を問う告発ドラマではない。ましてやヴェラと家族の絆を描いただけのホームドラマでもない。堕胎という問題は一つの契機にすぎない。道徳、法、社会の秩序、性のダブル・スタンダード、階級といった大きな問題がこの一人の女性が行った行為と分かちがたく結びついていること、これらの大きな問題を抜きにしてはヴェラの行為そのものも、彼女をその行為に駆り立てた女性たちの不幸な現実も、それを裁いた法も、その法によって支えられている社会も、本当には理解することはできないことを提起したリアリズム・ドラマなのである。リアリズムを単に事実を事実として客観的に描く手法だと矮小化して捉えてはならない。リアリズムは、どんな個人もその個人が行う行為もすべて社会と時代との関連の中で捉え、表層の下に隠れている隠された真実を抉り出す創作法である。

  マイク・リー監督はオフィシャル・サイトのインタビュー記事で、「『ヴェラ・ドレイク』は1950年の物語ですが、現在にも通じる問題ですね?」と問われて次のように答えている。

  どんな時代よりも今最も関連の深い問題と思っています。私たちはいつも普遍的な問題を扱っているのです。必要に迫られた人間は中絶を行うことが出来るというのは事実ですが、痛み全体を軽減するものではありません。道徳的なジレンマという問題があります。私が映画でやろうとしている事は、この道徳のジレンマという問題とソフトなやり方で、観客と向き合う事です。人の頭を棍棒で殴ったりするよりもね。私の映画は「善玉と悪玉」の話ではありません。それは善悪について、誰もがもろい存在であるということについての物語です。私は「ヴェラ・ドレイク」を意図的に特別な感情を排して作り、安直な答のない道徳的ジレンマについて、問題提起を行ったのです。

  「安直な答のない道徳的ジレンマ」という表現は実に多くのことを示唆している。彼はこの問題を、単純に白黒をつけられない問題だと捉えている。なぜならば、上に指摘した様々な要素が分かちがたく絡みついているからだ。ヴェラたちを一掃しても問題は解決しない。望まない子供を妊娠する女性たちがいなくならない限り、第2、第3のヴェラたちがまた生まれてくる。その中にはヴェラよりももっといい加減で危険な「処置」を施す女も多数混じっていrashinban2 るはずだ。その根本的な問題が解決されない限り、ヴェラたちはむしろ社会に不可欠な存在なのである。法がどんなに否定しようとも、彼女たちは社会の安全弁の役割を果たしているのである。それが分かっているからこそ、警部補たちは彼女を手荒に扱わなかったのである。そうでなければ、世の中に父親のいない子供を抱えて社会の最底辺で暮らしていかざるを得ない女性が絶えないことになる。何しろその原因を作った無責任な男どもはなんら咎めを受けずに野放しにされているのだから。

  ヴェラは確かに同情に値する。ひたすら家族の幸せを心から願い、寝たきりの母や身内ではない近所の人の世話までしている実に親切な女性である。地味で平凡な一人の主婦に過ぎない。堕胎の処置にしてもおそらく彼女は重大な罪を犯しているとは思っていない。あくまで彼女の親切心から出た自然な行為だった。だから堕胎行為を認めさせようとする警部補にヴェラは、「そうじゃないんです。あなたはそう言うけど、人を助けただけ。私が助けなければ他に誰もいないんです」と答えるのである。堕胎は彼女にとって近所の困っている人に親切にしてやるのとほとんど代わらない行為なのである。金を受け取っていないのも、単に人助けをしているだけと思っているからだろうし、払おうにも貧しくて払えない人が多いからだろう。もちろん違法であることは知っているから誰にも秘密にしているが、彼女には罪を犯しているという意識はほとんどなかっただろう。むしろ困っている人を救っていると思っていたはずだ。

  刑務所の中で同じ罪で投獄された女性たちと話をしていることを見ても、こういった行為を行っていた女性は他にもかなりいたことが分かる。しかも金具で引っ掻き回すなどの危険な処置を施していたに違いない。そういうことを合わせて考えてみても、ヴェラはどう見ても悪質な犯罪者ではない。だからといって、この映画が訴えているのは、ヴェラのような親切な人を逮捕するのは間違っているという単純なことではない。それでは、もっとひどいやり方で堕胎を行い、金まで取っている女なら逮捕してもいいということになる。堕胎を行った人物の人柄やそのやり方は問題の本質ではない。なぜなら、上に書いたように、ヴェラのような女たちを一掃しても問題は解決しないからだ。これ以上子供を産んでも育てられない主婦やレイプされた娘たちが後を絶たないという問題、子供を産むくらいなら自殺をしたほうが良いと娘たちが言わざるを得ないほど彼女たちを追い詰めている冷たい「世間の目」(社会の因習的規範)がなくならない限り、堕胎を行う女を逮捕するという対処療法をいくら行っても問題は解決しないのである。腹を刺されてのた打ち回って苦しんでいる人に、何の治療も施さずにただ痛み止めの麻酔をうっても何ら解決にならないのと同じだ。解決するには腹の傷そのものを治療する以外にない。その肝心な処置を怠って痛みだけ止めても、そのうち痛みどころか命までなくしてしまう。逃げ出したいほどの不安に駆られながらも、ヴェラのところにやってくる女たちが後を絶たないのは、それ以外に解決の道がないからである。それが分かっているからヴェラは、困っている彼女たちを無償で「助けて」いるのである。彼女の元を訪れる女たちは崖っぷちに立たされ、崖から飛び降りる思いでやってくるのだ。彼女たちにとって死活の問題なのである。

  この映画に悪人は一人も登場しない。前述したように、彼女を逮捕した警部補も彼女に付き添う婦人警官も彼女に同情的だ。問題は個人ではないのである。社会の制度がゆがみをもたらしており、警部補も婦人警官も裁判長もそのシステムの中で自らの役目を果たしているだけに過ぎない。法が彼らを動かしている。間違っているのは社会ではないのか。この映画が根本的に問いかけているのはこのことである。社会的に弱い立場にある貧しい人々はそのゆがみの間に挟まれて身動きが取れない。ましてや、貧しい人々の中でさらに弱い立場である女性は二重の差別をされているがゆえにより多くの犠牲者を生み出す。金持ちが国を支配し、彼らの都合の良いように法と道徳を作っている限りは後から後からまた犠牲者が生まれてくる。

  ヴェラが法廷で戦っていたのは警部補でも裁判官でもない。社会であった。社会の仕組みのエッセンスである法と戦っていた。彼女を裁いたのは法と社会だ。だからヴェラは何もいえなかったのである。夫との夫婦喧嘩ならいくらでも言い返せようが、教養もない彼女には、社会の歪んだありようを告発して自分の言い分を理路整然と述べ立てるなんてとてもできない。自分は困っている人を助けただけだと言うのが精一杯なのだ。何より、愛する家族にとんでもない迷惑をかけたという思いが彼女の胸をふさぎ、声に詰まってしまうのだ。だから、夫に自分の犯した罪を打ち明けるところではほとんど声にならず、夫は顔を近づけて聞き取らねばならないほどだったのである。彼女にはただ泣くことしかできない。だが大事なのは彼女の言ったことは真実だということである。困っている人を助けて罪に問われるのならば、法のほうが間違っている。泣くばかりで何もいえない彼女にそれでもわれわれが共感するのは、彼女が親切でやさしい人だからではなく、彼女は間違っていないと思うからである。もちろんここで言っているのは堕胎が正当かどうかということではない。前述したように、堕胎の是非自体が問題になっているわけではない。学校で進化論を教えることが違法かどうかをめぐって争われた裁判を描いた名作「風の遺産」同様、問われているのはヴェラではなく法である。

  映画の後半は警察の取調べと家族の反応をじっくりと時間をかけて描く。このあたりのイメルダ・ スタウントンの演技は圧倒的である。「いつか晴れた日に」や「恋におちたシェイクスピア」などに出ていたようだが、まったく記憶がない。初めて観たような気がした。舞台やテレビを中心に活躍してきた人で、舞台で多くの賞を受賞している。イギリスでは大変有名な女優だそうである。ジュディ・デンチに似たタイプだが、おそらく女優としてもあの大女優に引けを取らないと感じた。

  彼女の家族たちもみな素晴らしい。特に夫のスタン(フィル・デイヴィス)、その弟のフランク(エイドリアン・スカーボロ)、娘の婚約者である一人暮らしの青年レジー(エディ・マーサン)の3人が素晴らしい。ヴェラが逮捕された後の彼らの態度は実に立派だった。裏切られたとばかりに「汚いよ」と母親を罵倒する息子のシド(ダニエル・メイズ)を父親が説得する場面、レジーが「僕の人生で最高のクリスマスです。ありがとうヴェラ」と言う場面などは感動的ですらある。家族愛の強さに胸を打たれる。しかし忘れてはいけないことがある。こう考えてみてほしい。もしヴェラが犯した犯罪が、たとえば3人の人を殺してその金品を奪い死体を地中に埋めたというようなものだったら、果たして夫はここまで彼女を弁護しただろうか。彼は母親を非難する息子に「ママの心が優しいからだ」と諭す。「家族の恥だ」と息子が怒鳴ると、「違う」ときっぱり否定した。彼は妻が罪を犯したことを認めながらも、その罪は許しうると思ったのだ。彼にその思いがあったからこそ動揺する他の家族を説得することができたのである。彼は、尋問をしながらもヴェラに同情せざるを得なかった警部補と同じ心境だったのだ(もちろん夫だからそれ以上の気持ちも当然あるが)。悪いのは彼女ではない。家族愛の深さに流されて、この点を見逃してはいけないと思う。

  法は彼らの家族からかけがえのない一人を奪い去った。ラストシーンは家で家族がテーブルを囲んで無言のまま座っているシーンである。何人もの人が映っているにもかかわらず物寂しさを感じざるを得ない。彼らにとって大事な存在が欠けているのだ。埋めがたいほどの喪失感。しかしそこにはレジーがいた。事態がこのようになった以上、彼がこの家を去って行っても責められなかっただろう。しかし彼は踏みとどまっている。そこにわずかな希望が見出せる。彼はきっとヴェラの娘と結婚するだろう。家族の顔に笑顔が戻ってくるに違いない。

<付記>

 もし興味があれば本館HP「緑の杜のゴブリン」の「電影時光(映画エッセイ)」コーナー所収の「ヴェラ・ドレイクに声ありせば」もお読みください。もしヴェラが肝っ玉おっ母タイプだったら裁判でこうまくし立てただろうと想像して書いた戯れ文です。

2006年3月 1日 (水)

博士の愛した数式

glass_ht7 2005年 日本
監督・脚本:小泉堯史
原作:小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社刊)
プロデューサー:荒木美也子
撮影:上田正治
撮影:北澤弘之
音楽:加古隆
美術:酒井賢
衣裳コーディネーター:黒澤和子
ソプラノ:森麻季
出演:寺尾聰、深津絵里、吉岡秀隆、浅丘ルリ子、齋藤隆成、井川比佐志、頭師佳孝

上田周辺ロケ地:上田市営野球場、千曲川河川敷運動場、千曲川河川敷緑地公園
           真田町・唐沢の滝、千曲市、坂城町、小諸市、軽井沢別荘地

  映画の冒頭、中学の教室に一人の若い数学教師が入ってくる。黒板には彼のあだ名ルートを揶揄した落書きが書かれている。教師は特に怒ることもなく、自己紹介を兼ねてなぜ自分がルートと呼ばれるようになったかを話し始める。こうして映画の観客は画面の中の生徒たちと一緒にルート先生の授業を受けることになる。

  2時間後にはおそらく数字に対する認識が変わっていることだろう。ただし誤解がないようにはっきりさせておかなければならないが、これを観たからといって数学が楽しい科目に思えてくるわけではない。これを観てもサインやコサイン、微分や積分がわかるようになるわけではない。映画の中で様々な数字や数式にまつわる話が出てくるが、そこで語られるのは科目としての数学ではない。彼も今日は授業はやらないと最初に断っている。むしろ、本来は無機質な数字に「詩的」な意味を読み取る感性、それが磨かれるのであり、そこに魅力がある。ルート先生を通してある数学の天才教授が語ったのは、完全数、素数、友愛数、階乗、オイラーの公式などに彼が感じた感覚的な意味である。ルート先生はそれを生徒たちに伝え、同時に完全数、整数などの意味をわかりやすく説明した。したがってこれは数学そのものというよりは、数学への優れた導入教育だったといえる。僕たちはそういう授業を受けたのだ。

  もちろんルート先生は数字の話だけをしたわけではない。彼が語ったのは80分しか記憶が持たないある数学博士の話であり、また家政婦としてその世話をしたとルート先生の母とルート先生自身がその数学教博士と過ごした楽しい時間についてだった。

  「博士は、何を喋っていいか混乱した時、言葉の代わりに数字を用いた。それが他人と交流するために、彼が編み出した方法だった。」よくこのように説明されるが、これはおそらく原作に基づいた説明だろう。映画の印象は少し違う。彼は普通に会話をしている。言葉に詰まったから数字の話しをしたというよりも、頭の中はほとんど数字が占めていて、何かの数字が出てくるとすぐその数字について彼の考えを語るという描き方になっている。数字が好きで好きで仕方がない、彼は楽しそうに語っており、家政婦の杏子もそれを興味津々で楽しそうに聞いている。そういう関係である。決して苦し紛れに話の矛先を数字に向けたという印象ではない。

  ルートの母杏子(深津絵里)が家政婦として博士の家に行った最初の日、背広のあちこちにクリップでメモ用紙を留めた博士(寺尾聰)がのっそりと玄関に現れた。メモ用紙には忘れてはならない大事な事柄が書かれている。博士はいきなり杏子に名前ではなく靴のサイズを尋ねた。「24です」と答えると、博士は「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」と感心したように言う。杏子もそれを観ている観客もいきなり数字の世界に投げ入れられる。しかし博士は80分しか記憶が持たないので、杏子は翌朝も同じ質問をされ、同じ答えを言う羽目になる。「君の靴のサイズはいくつかね?」で始まる毎日。これまでも9人もの家政婦が代わったと博士の義理の姉(浅丘ルリ子)が面接のとき杏子に話しているが、おそらくこれに嫌気が差したのだろう。しかし杏子はこれを少しも苦にせず、毎日同じ質問を受け、そのうち自分から「4の階乗です」と付け足すようになる。

  この始まりが暗示するように、この映画で描かれるのはなんでもない日常の事柄である。ほとんどが同じことの繰り返し。もちろんただそれを繰り返したのでは退屈なものになるから、繰り返しの部分は暗示するにとどめ、繰り返しではない部分を拾ってつなげてゆく。しかしそれでも描かれているのはごく日常の事柄である。主要登場人物はたったの4人(子供を一人にしておくのはいけないとの博士の勧めで、途中から杏子の息子も学校が終わると博士の家に来ることになる)。ほとんど博士の家の中で話は展開され、家の外が描かれるのは散歩をする場面と野球の場面程度である。それでも退屈しないのはなぜか、観客は何にひきつけられるのか。

  この映画の雰囲気はルートが登場する前と後ではがらりと変わる。杏子が来た最初のうちは会話もあまり弾まない。博士はおそらく杏子の前の家政婦とはあまり会話を交わさなかっただろう。博士が会話を交わすのは数字相手のときだけだった。彼のそばにはいつも数字があった。数字と向き合っている間はじゃまされるのを許さない。杏子も一度不用意に声をかけて怒鳴られた。それが数字を介して少しずつ杏子とも会話が交わされるようになる。ルートが来てからはさらに大きく変わる。ルートにその名前をつけたのは博士だった。「どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだよ。」ルートが訪れるようになってから離れには絶え間なく笑い声が溢れるようになった。

  博士と杏子とルートが食卓を囲んで談笑している場面が何度も出てくるようになる。ここにこの映画の魅力が暗示されている。観客はそこにひとつの理想的な「家庭」を見るから心を癒されるのだ。毎日リセットされ、絶えずリフレッシュされる「家族」。杏子と博士の間には深い親密感があるが、決してそれ以上には踏み込まない。一定の距離を保つことによってtree3 常に新鮮さが保たれた「家族」。この映画に感じるやさしさ、いとおしさ、懐かしさは「家族」、「家庭」という言葉が持っている本源的なものがそこに描かれているからである。ありそうでいて現実にはなかなか存在しない理想の家族像。喧嘩もしながらしかし仲良く暮らす寅さんシリーズの「とらや」のような家族関係。日常生活さえも懐かしく思えてくる。昔子供のころに遊びから帰ってくるときに、どの家庭でも見られた食卓を囲んだ家族の光景。夕餉の煙と子供たちの笑い声。

  この「家族」を囲む風景がまた美しい。杏子が毎日自転車で通う田舎道のなんと美しいことか。田園風景、夕焼け、信州の美しい山と川、桜の咲いている散歩道(小諸の懐古園と思われる)、庭の木々。いずれも日常の風景である。自然の中で暮らす家族。笑いにあふれ暖かさに包まれた「家族のような」三人の交流。エプロンをして家事をテキパキとこなす杏子の姿ですら清々しいものを感じさせる。この映画の成功は、日々の生活の中に美しさや豊かさを見つけたことにある。このことは深津絵里が語った言葉にも示されている。

  「風に花が揺れていたり、きれいな夕日が映っていたり。そういう日本的な自然の中に人間がたたずんでいる“絵”を、どっしり構えて撮る。私たちは、大きな自然の中で、かき消されないように存在しなければいけない、と常に考えていました。」

  この日常生活の美しさははっきりいって作られた美しさである。この映画はわれわれに懐かしさを感じさせるが、庶民を描いた昔の日本映画はもっと猥雑な活気にあふれていた。ここには代わりに静かでほのぼのとした暖かさがある。主要登場人物が4人しかいないという事情もある。ルートの父親は他に家庭を持っている男であるとか、博士と義理の姉は過去に何かいわくがあるといった事柄は軽く触れられるだけで、暗示されるにとどめられている。そのかわりに何気ない日常に輝きが与えられるのである。周辺をそぎ落とした、家族の原点。「阿弥陀堂だより」同様、「静謐な」という言葉が似合う映画になっている。そして日常生活の潤いの発見は数字の美しさの発見と重ねられている。生活の安らぎと数字の美しさが与える心の安らぎ、そこからうまれる暖かく潤いのある生活が周囲の風景に溶け合い調和して、たゆたうようなリズムを生み出してゆく。

  この生活を杏子の前の9人の家政婦たちは作り出せなかった。杏子にあって他の家政婦たちになかったものは何だろうか。おそらくそれは博士を変わり者と見るのではなく広い心で受け止めることができる彼女の人柄だろう。息子をはじめて博士の住む離れに連れてきたときも、博士の記憶力のことを前もって話して聞かせ、同じ事を何度聞かれても「それはもう聞きました」と言わない様にしようねと息子に話す。こういう心遣いができる人なのだ。

  しかし障害を持った人物を主人公にしたこの映画は、そんな彼女でも全く偏見を持っていないわけではないことをきちんと描いている。ルートが野球で怪我をしたとき思わず杏子はコーチに向かって「どうして博士にルートを任せたのですか?」と問い詰めた。この言葉に博士は気の毒なほど落ち込む。帰り道ルートはどうしてあんなひどいことを博士の前で言ったのかと母を責める。深く反省していた杏子は率直に謝る。思わず口をついて出た自分の言葉に、彼女は自分にも偏見があったことを悟ったのである。しかし彼女は、たとえ相手が子供であっても、過ちを過ちとして素直に認める柔軟性と勇気を持っていた。杏子役に深津絵里を選んだのはまったくぴったりのキャスティングだった。家政婦の役なので特別美しく映っているわけではないが、他のどの映画やドラマよりも彼女は輝いていた。彼女の持っている透明感が一番うまく生かされた映画ではないだろうか。

  杏子にさして教養があるわけではない。しかし心優しい彼女には博士の語る数字の美しさを受け入れる素地があった。それは息子も同じだった。博士が杏子たちに語った数字の魅力。この映画の中心的魅力の一つはこれである。「直線を引いてごらん。本当の直線は始めと終わりが無いんだ。でも直線はとりあえず目に見える形で引かなくちゃいけない。目に見えない世界が、目に見える世界を支えているんだよ。」完全数については「神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい?」と語る。素数を孤独だが孤高な数字と捉える。一見、無機質で無味乾燥に思える数字が博士の言葉を通すとわくわくする世界に思えてくる。そこに数学に対する純粋な愛を感じるからだ。博士にとって江夏豊本人に対する愛情と彼の背番号である完全数28への愛情は分かちがたいものである。無機質な数字が「潔い」「孤高」「素直さ」などの美しい日本語とクロスオーバーした時、そこに新しい世界が生まれる。人との交わりを長い間絶って、常に数字のそばから離れようとはしなかった博士は数字や数式に人間的な価値観を見出した。数字が美しい日本語と重なり合う。だから博士の言葉は観る者の胸に響くのである。

  この数字が人間関係と重なったときもっとも深い感動が生まれる。ルートと杏子の暖かさに触れて、常に冷たく突き放す態度を保っていた博士の義理の姉が気持ちを変えてゆく。それを象徴するのが母屋と離れの間の木戸である。彼女の中にあったわだかまりが解けたとき、彼女は「この木戸はこれからはいつでも開いています」と告げる。そのとき博士が姉に渡した紙切れにはe(πi)+1=0という数字が書かれていた。これはe(πi)=-1というオイラーの公式に1をプラスした式である。マイナス1からゼロへ。それまでは何かが欠けていた。戸口は閉ざされていた。義理の姉が心を開き、母屋と離れの間の木戸を開け放ったとき、そのマイナスは埋められた。「ゼロ」を無だと博士は言ったが、むしろこの場合ゼロは「輪」を表しているのかもしれない。心が通じ合ったとき、彼らはまるで完全数のように家族という一つの結晶になったのである。

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2006年2月27日 (月)

ビューティフル・ピープル

relief 1999年 イギリス
監督:ジャスミン・ディズダー
原題:Beautiful People
製作:ベン・ウールフォード
脚本:ジャスミン・ディズダー
撮影:バリー・アクロイド
美術:ジョン・ヘンソン
音楽:ゲイリー・ベル
出演:シャーロット・コールマン、チャールズ・ケイ
    ロザリンド・アイルズ、 ロジャー・ソロモン
    ヘザー・トビアス、ダニー・ナスバウム
    ショパン・レッドモンド、ギルバート・マーティン
    スティーブ・スウィーニィ リンダ・バセット、ニコラス・ファレル
    ファルーク・ブルティ、ダード・イェハン、 エディ・ジャンジャーノヴィテ

  ボスニア紛争。ベトナム戦争以来さまざまな戦争や地域紛争がテレビなどで報道されてきたが、ボスニア紛争ほど見ていて気の滅入るものはなかった。ついこの間まで近所付き合いをしていた同士が敵味方に分かれて殺しあっている。街がそのまま戦場と化し、双方の狙撃兵が潜んでいるためにちょっと買い物に行こうと道をわたるのも命がけになる。狙撃兵に撃たれて道に倒れている人を助けに行くことすらできない。テレビ画面に映る破壊されたビル、物陰に隠れながら腰をかがめ一気に道を駆け抜ける人々。絶えず遠くや近くで銃声や砲声が鳴り響いている。老人も子供も関係ない無差別の殺戮。そこに映っているのは映画やテレビドラマの作られた映像ではない。まさにその時地球上のある場所で起こっていた現実である。

  冷戦が終わった頃、次は民族や宗教がらみの地域紛争が多発するだろうとテレビで専門家が話していた。残念ながらその予想は現実になってしまった。多民族が共存していたユーゴスラビアの内戦は中でも深刻だった。また、ボスニア後も民族紛争は絶えない。この現実をどう受け止めるのか。報道関係者は現地に入り、「現実」をカメラに写し取った。自分の目で見たこと、市民が語ったことを記事に書いてきた。では映画はこれをどう描くのか。

  アメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵には顔がない。ただ銃弾や砲弾を受けてばたばたと倒れるだけである。たとえ戦闘後に倒れているドイツ兵の顔を身近に見たとしても、そこに何の感慨も沸かない。彼らは単に「敵」という文字で一括りにできてしまうからだ。顔がないというのはそういう意味である。これがボスニアだったらどうか。あちこちに倒れている「敵」の死体の顔をのぞいたら、隣の雑貨屋の親父さんだったり、いつもパンを買いに行く店の長男だったり、前を通るといつも声をかけてくれた花屋の若奥さんだったりするかもしれない。だからやりきれないのだ。

  もちろん顔のない「敵」なら殺してもいいということではない。どんな戦争でも悲惨でないものはない。隣人だったものが互いに争うというのは第二次大戦末期のトスカーナ地方を舞台にした「サン★ロレンツォの夜」にも出てくる。「ブコバルに手紙は届かない」の主人公であるセルビア人トーマの妻、クロアチア人のアナを戦時の混乱の最中にレイプしていったのは同じクロアチア人だった。あるいは、だいぶ前に新聞の投書欄に載っていた話はさらに悲惨だ。中国からの引き上げの最中にたまたま井戸の近くを通ったら、井戸の中から子供の声がする。中をのぞくと「おかあちゃん、何でも言うことを聞くから助けて頂戴」と子供が泣き叫んでいる。子供を抱えては逃げ切れないと思った親たちが、敵兵に殺されるよりはと胸を引き裂かれる思いで子供たちを井戸に投げ込んでいったのだろう。最後に捨てられて子供はかろうじて水面から頭が出せたので死ななかったのである。発見した人は助けてやってほしいといったが、彼らとてこれ以上の負担は背負えない。一人の兵隊が断腸の思いで井戸に手りゅう弾を投げ込んだ。

  これは悪夢ではない。悪夢であってくれたらどんなに気が楽か。悪夢なら覚めることができる。現実に起きた出来事は消したくても消せない(もっとも悪夢もそれを生み出したおぞましい記憶が消えない限りいつまでも付きまとうのだが)。ルポルタージュの迫真性と迫力を感じ、フィクションの無力さを感じるのはこういう現実を前にしたときだ。人間はこの悲しみを乗り越えられるのか?フィクションはこれを乗り越える力を人間に与えられるのか?われわれはこの問題を真剣に問い続けなければならない。

  ボスニア紛争を題材にした映画は、僕が観ただけでも「ブコバルに手紙は届かない」(94)、「ビフォア・ザ・レイン」(94)、「ユリシーズの瞳」(96)、「パーフェクト・サークル」(97)、「ノー・マンズ・ランド」(01)などがある。他に未見のもので「ボスニア」(96)と「ウェルカム・トウ・サラエボ」(97)がある。いずれも観終わった後に暗澹たる気持ちにならないものはない。哲学的に考察を深めようが、怒りに体を振るわせようが、観ている自分たちにはどうすることもできないもどかしさ。戦慄すべき現実。どこにも逃げ場がない恐怖と絶望感。どうしても断ち切れない憎しみの連鎖。

  作品の出来具合にかかわらず、現実の重みはひしひしと伝わってくる。それでもフィクションの限界はある。この種の作品には現実の悲惨さはそんなものではないという批判が常にある。現実をリアルに描くことはもちろん必要だ。現地で生活している人たちは自分た066429 ちの置かれている悲惨な現状を知ってほしいと思うだろう。しかしだからといって悲惨な現実をただ悲惨に描けばいいのか。あなたたちの悲惨さはわかった、お気の毒に。こう言ってくれれば心は癒されるのか。彼らに必要なのは希望である。絶望とともに人間は生きられない。希望がなければ現実の厳しさに耐えられない。フィクションの可能性はそこにある。

  人間に耐えられないような悲惨さを描くときの描き方には様々なアプローチがありうる。悲劇として描く方法。この場合はカタルシスがうまく伴わなければ暗澹たる結末となる。人間の愚かさを徹底して批判的に描く方法。この場合は批判するものの寄って立つ立場が重要となる。なまくらな刀で切るには相手が固すぎる。あるいは批判ではなく風刺する方法。これは文字通り人間の愚かさというバカの壁をあぶりだす。しかし救いは少ない。そして悲劇的現実を通過した後の希望を描く方法。バカの壁は人間の作った壁である。人間の作った壁なら人間の手で突き崩すこともできるはずだ。これは描き方によっては喜劇になる。「ビューティフル・ピープル」はその最後のカテゴリーに属する作品である。

  「ビューティフル・ピープル」はロンドンを舞台に、戦乱を逃れてイギリスにやってきたボスニアの人々とイギリスの人々との出会いを描いたコメディ調の映画である。ボスニア問題を喜劇として描いた作品は僕の知る限り他にない。ナチス占領時代のチェコスロバキアを描いた「この素晴らしき世界」や韓国の軍事政権時代を描いた「大統領の理髪師」がコメディ・タッチを作品にこめられたのは、描かれた時代との距離があったからである。「ビューティフル・ピープル」の場合は時間ではなく地理的な距離があった。ボスニア問題を現地ではなくロンドンで描いた。地理的な距離を置くことによって悲劇を喜劇的に描くことが可能になったのである。この点をジャスミン・ディズダー監督自身(1961年ボスニア生まれ、1993年に英国に帰化)は次のように語っている。

  「確かに深刻な問題を扱ってはいるけど、声高に戦争反対を叫ぶような作品じゃない。僕が描きたかったのは、ロンドンに住んでいる人間群像、ボスニア戦争に対するこの街の反応なんです。自分では悲劇についてのコメディー、人間喜劇と思っている。カンヌ映画祭でも、観客は心から笑ったり、感動してくれました」

  「ビューティフル・ピープル」のストーリーの展開は、5つのエピソードが互いに幾分重なり合いながら並行して進行するという、最近よく見かける形式をとっている。その結節点となっているのはロンドンとボスニアの二つの病院である。キーワードは「ケイオス(混沌)」と「ライフ」。この2つを結び、かつ5つの中で最も感動的なのは子供を堕ろして欲しいと医者に頼むボスニア難民夫婦のエピソードである。産婦人科医モルディ(ニコラス・ファレル)は不審に思い二人に理由を聞く。夫は自分の子ではないというだけでなかなか真相を言わない。実はこの子供はボスニアにいるときに相手の兵士にレイプされてできた子だったのである。なんという人生なのか。祖国で悲惨な経験をした難民たちは、たとえロンドンに移り住んでいたとしても、祖国で身と心に刻まれた傷と苦悩を引きずってゆかざるを得ない。彼らは体と一緒に苦悩と悲しみをロンドンに持ってきたのである。戦争は人間の心の中に憎しみと苦悩の種を植え付けるのだ。

  モルディ(彼自身も妻と離婚し、二人の子供を妻に奪われるという苦悩を背負っている)は二人に産む事をすすめる。悩んだ末夫婦は子供を産む決心をする。彼らはおそらくボスニアで多くの肉親や友人たちを失ってきたのだ。どんな子であれ生き、そして幸せになる権利がある。彼らは新しい命とともに生きてゆかねばならない。生まれた子供は「ケイオス(混沌)」と名づけられた。モルディはこの夫婦を自分の家に引き取る。ケイオスという象徴的な名前をつけられたこの子の眼に世界はどう映るのか。複雑な血を受け継いでいるという意味でも、彼の誕生は世界のねじれの結果であるという意味でも、彼の存在自体が混沌である。にもかかわらず、われわれはこの子に希望を託したい気持ちになる。この子はすでに奇跡を起こしている。苦悩していた両親に生きる希望を与えたのだ。彼の誕生は両親の体から「憎しみと苦悩の種」を消し去ったのである。

  どれほど悲惨な目にあっても人生は生きるに値する、人生は変えることができる、ボスニア難民の夫婦はこういう結論に達した。同じように「人生」の意味を問うたのはやはりユーゴからの難民であるペロ(エディ・ジンジャーノヴィテ)である。役所で生活保護手帳を受け取ったとき、役人が「これはあなたのLIFEですよ」と念を押す。英語がよくわからないペロは周りの人に「LIFE」とはどういう意味かと聞いて回る。しかし誰も教えてくれない。相手にもしてくれない。これは単に英語の問題ではなく、観るものに「生命」とは、「人生」とは、「生活」とは何かを問いかけている。秀逸な設定である。

  ペロは車にぶつけられ入院する羽目になる。そこでインターンのポーシャ(シャーロット・コールマン)と出会い、恋に落ちる。ここから彼の人生は変わり始める。ポーシャの父親は議員で、家は上流家庭である。父親がテレビで語っている言葉にはまったく実質がない。彼はポーシャの家に招かれるが、ポーシャの家族はみすぼらしい身なりの彼を小馬鹿にしたxclip-r1 ような目で見ている。「ビューティフル・ピープル」はボスニア難民ばかりではなく、イギリスの階級社会も視野に入れ、民族、階級、貧富の差、世代間のギャップ、そして難民に対する偏見や差別なども抉り出してゆく。

  二人は何とか結婚にこぎつける。結婚式のスピーチでペロは、自分はボスニアで人を殺したと告白する。いっせいに身を引く参列者たち。「LIFE」と書かれた紙切れを内ポケットから取り出して、「僕はみんなと一緒だ」と話すが、周りの人たちは銃を取り出したと思って後ずさる。

  ペロは唯一の理解者ポーシャと出会い、自分の人生を変えた。だが周りは簡単には変わらない。ペロがユーゴスラビアの地図と昔の写真を示しながらポーシャに語るシーンが印象的だ。ユーゴスラビアはもう存在しない。兵士だった自分の姿も過去のものだ。彼は今ロンドンに住み、新しい人生に踏み出し、自分の生活を変えようとしている。何人もの命を過去に奪ったことを認めつつ、いつまでも過去を引きずっていないその姿勢に共感できる。人生は作ってゆくものなのだというメッセージがここに込められている。彼の生きる姿勢に様々な意味の「LIFE」が表れている。

  残りの3つのエピソードは簡単にまとめよう。3つ目のエピソードはボスニアが舞台。BBCの特派員ジェリー(ギルバート・マーティン)がボスニアの野戦病院を取材した時、麻酔なしで足を切断する場面に出くわす。帰国後彼は重いボスニア症候群にかかってしまう。自分を過度にボスニアと同化させた結果、彼は精神のバランスを失い、自分も足を切ると言い出して周囲を困惑させる。幸い催眠術による治療を受けて彼は回復する。ここではボスニアでの現実をわれわれがどう受け止めるのかという問題が提起されている。

  その野戦病院に一人のイギリス人青年がいた。親からどうしようもないバカ息子と思われているジャンキー青年グリフィン(ダニー・ナスバウム)である。オランダまでサッカー観戦に行ったあげくパブで麻薬を打ってフラフラになる。空港で飛行機ではなく国連軍機の救援物資のカーゴにもぐりこんで熟睡してしまい、ボスニアの真只中に投下される。目が覚めたらそこはボスニアだった。わけがわからないまま例の野戦病院まで来て、手術に立ち会うが、たまたま持っていたヘロインを麻酔代わりに提供する。それをその場にいたBBC特派員のジェリーが特種として報道して話題になってしまう。ボスニアでの悲惨な現実にグリフィンの人生観が変わってしまい、帰国の際にはボスニアから目を負傷した孤児の少年を引き取って連れてくる。それまでバカ息子扱いしていた親たちも彼をヒーロー扱いする。彼のジャンキー仲間までグリフィンが連れてきた子供に親切に接するようになる。これが4つ目のエピソード。

  5つ目のエピソードは映画の冒頭から展開される。ロンドンのバスのなかでたまたま出会ったクロアチア人(ファルーク・プルティ)とセルビア人(ダード・イェハン)が突然喧嘩を始める。同郷で顔見知り同士だったのだろうが、その後の紛争で敵同士になったものと思われる。結局二人は大怪我をして同じ病院に運ばれ、同じ病室に入院する。たまたまイングランド人に憎しみを抱くウェールズ人爆弾魔も同室だった。最初に喧嘩を仕掛けた男は病室の中でも相手の男が体につけている装置の管をはずして殺そうとする。しかし温厚なイギリス人看護婦が間に入り、最後には仲良く4人でトランプをする。

  最後の二つのエピソードがもっぱらコメディ的な要素を担っている。互いに憎みあっていた同士が、ウェールズ人爆弾魔も含め、仲良くトランプをしているラストをどう受け止めるのか。ボスニアで地獄を見てきたグリフィンばかりでなく、彼の不良仲間まで優しくなってしまうことをできすぎだと受け止めるのか。最初の二つのエピソードがハッピー・エンディングになるのは比較的自然である。したがって、最初に提起した悲惨な現実を描きつつ、そこにとってつけたものではない希望をどう描くのかというテーマの試金石となるのは、最後の二つのエピソード、特に5つ目のエピソードである。これをあまりに都合のいいありえないエンディングと取るのか、希望を込めた感動的な終わり方と取るのか、最終的には観る側の判断になる。それが実際にはありえない結末であることはおそらく誰も否定しないだろう。憎しみ会う二人の男たちに埋め込まれた「憎しみと苦悩の種」はそんなに簡単に消え去りはしない。問題はあえてありえないエンディングにした製作者たちの意図にわれわれがどれだけ共感できるかである。製作者たちは仲良くトランプに興じる4人の姿に憎しみと対立を超えた平和共存の可能性を描きこもうとしている。希望は作り出してゆかなければならない。憎しみは克服出来る。これをどう受け止めるのか。

  この映画を甘いとする批判を僕は否定しない。映画の構成もいろんな問題を入れ込みすぎて必ずしもうまく消化し切れていない。映画の出来としても決して完璧ではない。やはり結論を急いでいることは否めないからだ。しかし互いに並んで病床に横たわりながらもなおも相手を殺そうとする男を見て、何とかその憎しみを断ち切れないものかと僕は思った。だから最後に4人がトランプをしているシーンはさわやかだった。僕は思う。この作品が決して完璧ではないことを認めつつも、そして現実がそれほど甘くないことを認めつつも、やはりここに込められた希望に託してみたいと。「ほんのちょっと運が味方すれば、人生は美しくなる」というモルディ医師の最後のセリフを僕は信じたい。悲劇を知っているからこそ希望が必要なのだ。

2006年2月26日 (日)

リンダ リンダ リンダ

fuwa_heart1 2005年 日本
監督:山下敦弘
脚本:向井康介、宮下和雅子、山下敦弘
プロデューサー:根岸洋之、定井勇二
音楽プロデューサー:北原京子
撮影:池内義浩 
美術:松尾文子 
バンドプロデュース:白井良明
出演:ぺ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織
    三村恭代、湯川潮音、山崎優子、甲本雅裕
    松山ケンイチ、小林且弥、小出恵介、三浦誠己
    りりィ、藤井かほり、近藤公園、 ピエール瀧
    山本浩司、山本剛史

  「リンダ リンダ リンダ」は「スウィングガールズ」同様ラストのコンサートで山場を迎える。ブルーハーツの「リンダリンダ」を爆発的に熱唱するのだが、途中の練習場面では最後まで歌わない。おいしいところは最後までとっておきましょう、という感じでお預けにされてしまう。最後まで引っ張りに引っ張って山場に突入するという形になっている。いや本番のコンサートでも肝心の主人公たちは連日の徹夜での練習がたたって家で寝過ごしてしまう。その間今村繭(湯川潮音)と中島田花子(山崎優子)が間を持たせるために歌を歌う。しかしこれがまたすばらしい。山場はすでにここから始まっていたと言ってもよい。山崎優子が野太いハスキー・ボイスで歌うフォーク調の曲がなかなか聞かせる。何年か留年しているという設定で、その堂々とした落ち着きぶりは到底高校生には見えないのがご愛嬌。ステージでの歌いっぷりもプロ並みの(実際プロだが)落ち着きと迫力。

  また、湯川潮音の歌う”The Water Is Wide”がこれまた絶品。透き通るような声が柔らかなこの曲に見事にマッチしている。この曲はもともと作者不詳のアイルランド民謡で、僕の高校時代のアイドルだったPPM(ピーター・ポール&マリー)が”There Is a Ship”というタイトルで歌ってヒットさせた。高校生のときに買ったレコード「ベスト・オブ・ピーター・ポール&マリー 第二集」に入っていて、あの頃何度も聞いたものだ。ずっとCDを探しているが、いまだに見つからない。同じものは出ていないのかもしれない。ただこのレコードの収録曲の一部はライブ音源で、それらはPPMの2枚組みCD「イン・コンサート」に収録されている。”There Is a Ship”もその中に入っている。中古店で見つけたときは飛び上がるほどうれしかった。

  湯川潮音は名前しか知らなかった。実際に歌を聞いたのはこの映画が最初。映画だけの印象で言えば第二の白鳥英美子という感じだ。「天使の歌声」という呼び名がともに似合う。そういえば白鳥英美子の「Re-voice 白鳥英美子ベスト」に収録されている「ソレアード」という曲も”There Is a Ship”を思わせる、ゆったりとした美しいバラードである。彼女がソロになったのはもうだいぶ前だが、僕が高校生のころは(70年代初頭)「トワ・エ・モア」というデュオを組んでいた。PPM、「トワ・エ・モア」、そして「リンダ リンダ リンダ」に出てくる文化祭でのコンサートとくれば、いやでも僕の高校時代が思い出される。僕は高校のとき音楽部に属していた。いろいろな催しがあるとよく体育館のステージで歌ったものだ。ビートルズ、サイモンとガーファンクル、トニー・オーランド&ドーン、フィフス・ディメンションそしてPPMなどをよく歌っていた。僕の高校ではどういうわけか文化祭は3年に1回で、僕の場合1年生のときに回ってきた。部室を黒い紙で覆って真っ暗にしてレコード・コンサートをやった。今思えばただレコードをかけているだけの単純なものだったが、部室に泊り込んで同輩や先輩たちと一晩中話し合っていたことが懐かしい(そういえば「リンダ リンダ リンダ」にも主人公たちが夜部室に忍び込んで音を立てずに静かに練習する場面が出てきた)。

  さて、肝心の「リンダ リンダ リンダ」。ひょんなことからバンドのヴォーカルを務めることになった留学生のソン(ペ・ドゥナ)、短気だがリーダーとしてしっかりしているギターの立花恵(香椎由宇)、ほんわか・のほほんムードの愛らしいドラマー山田響子(前田亜季)、ベーシストらしい控えめで縁の下の力持ち的存在である白河望(関根史織)。4者4様の個性をうまく描き分けている。しかしなんといっても「リンダ リンダ リンダ」を支えているのはペ・ドゥナだ。日本映画に韓国人俳優が出演するのは小栗康平監督の「眠る男」で眠る男を演じたアン・ソンギくらいだったが、山下監督のオファーでついにペ・ドゥナの日本映画出演が実現した。特筆すべきことである。ペ・ドゥナは「ほえる犬は噛まない」と「子猫をお願い」それに「リンダ リンダ リンダ」しか観ていないが、もう7、8本は観ている感じがする。それほど一度観たら忘れられない独特の存在感を持っている。もともと少しテンポのずれた感覚が持ち味だが、日本語がうまく話せない留学生という設定がそれを増幅している。そこからいろいろ独特の笑いが生まれる。たとえば、カラオケの店員とのやり取り。歌いにきたのだからドリンクはいらないと粘るソン(水のペットボトル持参)、店員も飲まないと歌えないんですよと頑張る。何とか入れたと思ったら、「リンダリンダ」ではなく韓国語で「Can you celebrate?」を陶酔した感じで熱唱している(笑)。男子生徒に告白されても、何それって感じでさっぱり反応を示さない場面も面白い。それでいて他人の恋路には興味深々。しっかりと覗き見している。

  可笑しさだけではなく感動的な場面もある。たとえば、ソンが初めて「リンダリンダ」をヘッドホンで聞いて涙を流す場面。とても印象的だ。あるいは仲間から一人抜け出して本番の舞台shelfとなる体育館のステージに上がり、誰もいない大きな空間を眺めるシーン。おそらく彼女はこれほど充実した日を日本に来てから送ったことはなかったのだ。うまく歌えるか不安 であると同時にうれしくて興奮してもいる。彼女の背中にそれが表れている。ソンは誰もいない観客席に向かってバンドのメンバーを紹介し始める。「ドラム!練習さぼるけど、かわいい響子!・・・そしてボーカル。ソン!イエィ、行くぞ~」そして歌い始める。「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真にはうつらない美しさがあるから~♪」この映画で最も感動的な場面だ。

  本番の日、眠気覚ましに恵とソンがトイレで顔を洗うシーンもいい場面だ。先に声をかけたのはソンだ。「ありがとう。バンド誘ってくれて。」恵「ありがとうね。ソン。メンバーになってくれて。」ソン「ありがとう同士だ。」ペ・ドゥナはあるインタビューで「韓国の女子高生たちは勉強することに忙しくて私も青春を謳歌したことがない。映画で実際とは異なる女子高生を体験できてよかった」と答えている。文化祭では「日韓交流のブース」を任されているが、ほかの生徒はさっぱり関心を向けず、ソンはいやいやながらやっている。交流の部屋では居眠りばかり。バンド仲間は留学して初めてできた日本人の友達だった。彼女の感謝の気持ちは心からのものだろう。

  ブルーハーツをやることになったきっかけもまた面白い。古いダンボール箱を開けてみるとカセットテープがたくさん入っていた。ジッタリンジンの「あなたが私にくれたもの キリンが逆立ちしたピアス」という歌詞が話題になり、テープを聴いてみることにしたが、なんと流れてきたのはブルーハーツの「リンダリンダ」だった。一気に彼女たちは乗りまくってしまうという展開。ジッタリンジンが懐かしい。僕が東京から長野県に移る前後に爆発的にはやっていたTV番組「イカ天」(正式には「平成名物TV・いかすバンド天国」)で出てきたグループだ。司会は三宅裕司と相原勇。この番組のおかげで当時ものすごいバンドブームになった。沖縄のバンド「ビギン」もこの番組で出てきたグループだ。

  いい場面があちこちにちりばめられているが、全体としてみるとかなり中だるみしていると言わざるを得ない。「リアリズムの宿」で見せた独特の「間合い」やズレた感覚の笑い(よく「オフ・ビート感覚」と言われる)はここでは必ずしも効果を発揮していない。不思議空間ではなく女子高校生のごく日常的な感覚をリアルに描こうとしているからであり、最後の最後に盛り上がりを持ってきているので途中が間延びしているように感じてしまうからである。この辺は実に微妙だ。日常のリアルな生活感と間延びしたダラダラ感は紙一重だ。最後の山場までの描写は「犬猫」に近い。「珈琲時光」ほど何事もなく淡々としてはいないが、一方で「リアリズムの宿」のような非日常的な日常性、あのまっこと不思議な感覚でもない。無駄だと思える描写も多い。たとえば、冒頭と最後の頃に出てくる、文化祭実行委員と思われる男子生徒が女の子のビデオを撮っているシーン。なくても一向に差し支えない。終始淡々と乾いた笑いを交えつつ描くのならいいが、クライマックスを最後に設定しているだけに途中の盛り上がりも必要だった。ダラダラしたシーンをもっと切り詰め、その分何かを付け加えるべきだった。最後の盛り上がりを除いて全体にテンポが遅い。そこに山場での盛り上がりとの齟齬がある。たとえば、「ボレロ」のように少しずつテンポが速まり、次第に盛り上がってゆく演出にすればもっと引き締まった作品になったのではないか。テーマ・ソングであるブルーハーツの「リンダリンダ」は最初ゆっくりと始まり「リンダリンダ」で一気に盛り上がる。それが何回か繰り返されつつしだいに盛り上がってゆく構成だ。映画もそれに合わせるとよかったかもしれない。逆に日常のリアルな生活感を強調したかったならば本番の場面はさっと流し、文化祭後の場面も入れて終始淡々と描くべきだ。やたらと小ネタを交えて大げさに描いた「スウィング・ガールズ」に比べると、「リンダ リンダ リンダ」はなんでもないあたりまえな感覚や雰囲気にあふれ、格段にリアリティがある。その一方でダラダラとした展開が間延びした感覚を覚えさせる。やはり全体の構成に問題があるのだ。

 「スウィングガールズ」や「リンダ リンダ リンダ」のような元気な女の子がはじける映画が出てきたのはある意味で現実を反映しているのだろう。現実世界でも映画の中でも若い男たちは押しなべて脱力系である。女の子のほうが元気だ。音楽系の映画では「青春デンデケデケデケ」という映画があったが、これは時代がだいぶさかのぼる。男の子にまだ夢があった時代だ。今の男子はでれでれダラダラと情けないことこの上ない。そうしている間に女性がそれまで男子だけだった世界にどんどん入り込んでくる。

 この傾向は「リンダリンダ」をテーマ曲に選んだことにも反映している。「ドブネズミみたいに美しくなりたい。写真にはうつらない美しさがあるから~♪」と女の子たちが大声で歌う。ドブネズミを美しいという感覚。「写真にはうつらない美しさ」とは外面とは違う美しさを指している。カッコばかりにこだわるやわな男どもを尻目に女の子たちは目標を持ち着実にそれに向かって前進している。男どもがでれでれぐずぐずしているのは目標がないからだ。テレビドラマにそういう男がやたら出てくる。何かというとすぐ怒鳴ったり切れたりするのは弱さの表れだ。言い方を変えれば、女子のほうが大人なのだ。

  バンドのリーダー格である香椎由宇がその辺をよく体現している。バンドの創設メンバーでリードギターを務めていた丸本凛子(三村恭代)との確執を乗り越えて(いずれ仲直りする気配だ)、練習場を確保したり仲間を束ねたりと頑張っている。それでいてシャカリキでないところがいい。肩の力が抜けているということであって、決して脱力系ではない(「あ~あ、もうやめようよ」なんて誰も言い出さない)。顔がでかくやや太めの足がどっしりとした安定感を与える。しかもなかなかの美人だ。ギターを弾いている姿も結構様になっている。他のメンバーを含め、普通の女子高校生として実に自然に見える。「チルソクの夏」で感じた演技の未熟さはまったくない。これだけ様々なタイプの女の子をそろえ、しかもどの子も他の子の中に埋もれていない。この映画の成功の一部はキャスティングにあると言ってもいいだろう。

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