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2006年2月12日 - 2006年2月18日

2006年2月18日 (土)

フライ、ダディ、フライ

reath2 2005年 日本 東映
監督:成島出
原作:金城一紀『フライ,ダディ,フライ』(講談社刊)
脚本:金城一紀
撮影:仙元誠三
出演:岡田准一、堤真一、松尾敏伸、須藤元気
    星井七瀬、愛華みれ、塩見三省、渋谷飛鳥
    浅野和之、坂本真、青木崇高、広瀬剛進
    温水洋一、徳井優、大河内浩、田口浩正
    神戸浩、鴻上尚史、モロ師岡

  借りる決心をするまでにずいぶん時間がかかったが、観てよかった。借りるかどうか迷っていた気持ちを最後に後押ししたのは主演が堤真一だという点だった。「ALWAYS三丁目の夕日」で初めて観たのだが、なかなか魅力的な俳優だと思ったからだ。それにしても最近の日本映画のレベルは間違いなく上がっている。そして重要なのはレベルを押し上げている原因のひとつに在日コリアン作家の存在がある事である。「GO」と「フライ、ダディ、フライ」の金城一紀、「血と骨」の梁石日。アニメやコメディタッチのお笑い映画ばかり作っている日本映画に数少ないシリアスな主題を持ち込んでいる。「チルソクの夏」や「パッチギ!」も共通する主題を描いていた。「メゾン・ド・ヒミコ」が出色の作品になったのもやはり差別されているゲイを正面から描いたからである。あるいは、「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」「深呼吸の必要」等の沖縄映画もある。独特の歴史と文化を持った沖縄の映画は一般の日本映画にない活力がみなぎっている(同じことは音楽でも言える)。まだまだ政治的なテーマを扱ったものは出てこないが、ほんの数年前に比べれば格段にレベルは上がってきている。

  ただこの作品にも他の作品に共通する不満がある。ゾンビーズの描き方だ。「チルソクの夏」「パッチギ!」もそうだが、どうして高校生を描くとあんなに馬鹿みたいなわざとらしい演技をさせるのか。不思議で仕方がない。朴舜臣(パク・スンシン)役の岡田准一は実に自然に演じていたのに。むしろこっちの方こそ変に斜に構えたり、わざとらしくカッコつけさせたりしがちだが、この映画では実に自然だった。変化をつけたかったのかもしれないが、あまりにも不自然なおちゃらけ演出では芸がないし興醒めだ。原作では沖縄出身でアメリカ人とのハーフの板良敷や4か国分のDNAを持つアギーという興味深いキャラクターになっているようだが、どうしてそれを映画でも活かさなかったのか疑問が残る。

  ストーリーは単純で、石原(須藤元気)という高校生に娘(星井七瀬)を傷つけられた父親が、復讐のために喧嘩の強い高校生から格闘技を習い見事仕返しをするというもの。主人公の鈴木一(堤真一)は平凡なサラリーマン。鈴木というありふれた名前をつけたのは、彼がどこにでもいるなんでもないサラリーマンである事を示している。仕返しをしてやろうと格闘技の訓練に励むのは韓国映画の秀作「反則王」と似たシチュエーションである。どちらもさえないサラリーマンが、バカにされた悔しさをばねに一念発起して必死で強くなろうと励む。いわばサラリーマン哀歌が基調にある。ただコメディの「反則王」に比べるとこちらは幾分説教臭い。後で触れるがスポ根もの的要素があるからだ。「反則王」の方は途中で格闘技の面白さ自体にのめりこみ、きっかけの憎しみはもうほとんどどうでもよくなっていた。しかし「フライ、ダディ、フライ」は最後まで憎しみが原動力になっている。復讐劇という捉えかたが出てくる所以だ。だが「仕返し」を終え、鈴木は何を掴んだのか。彼は自分に対する自信を取り戻し、そして家族の信頼を回復した。「仕返し」そのものよりも、本当に大事なのはこちらの方だ。いつも同じ最終バスに乗るサラリーマンたちはバスと競争して走り出す鈴木の姿に彼ら自身も熱くなり、ついにバスに勝った時は拍手をおくった。彼らが称えたのは鈴木の頑張りだった。詳しい事情を彼らは知らない。

  しかし妻(愛華みれ)と娘を絡ませるとまた少し違った意味合いを帯びる。妻は彼が決闘することを全く止めようとはしなかった。むしろ当然とばかりに応援していた感じだ。不自然な感じはぬぐえない。これは、強い父親がか弱い妻と娘を守るという昔からの考え方が勝利したということか。これは強い父親を称える映画だろうか。いや、そう単純ではないだろう。石原を羽交い絞めにした時、鈴木は一瞬石原を殺そうと思った。しかし彼は腕を緩めた。彼は暴力と復讐のむなしさを悟ったのである。その時スンシンが彼に語ったある言葉が彼の頭に響いていたのではないか。「ちょっと疲れたなあ。誰かを殴れば殴るほどさ、こぶしの間から大切なものがこぼれて落ちて行くような気がするんだ。」喧嘩を教えるスンシン自身が暴力のむなしさに気づきつつあった。果し合いが終わった時二人は抱き合い、一緒に駆けた。鈴木に向かって叫んだ「飛べ」というスンシンの言葉には憎しみを越える何かがあった。そこにあった絆はどんな絆だったのか。

  スンシンが上のせりふを言ったのは鈴木が初めて木に登れた時である(ロープを伝って木に登る訓練をしていた)。やっと課題をやり遂げた鈴木にスンシンは気を許したのか、珍しく自分を語ったのである(ロープをよじ登る鈴木を映しながらさりげなくスンシンがはいている運動靴を映しているが、それは鈴木が彼にプレゼントしたものだ)。高い木から街を見下ろす。夕焼けの空が美しい。そこで語られた話はこの映画の中でもっとも印象的で深みを感じさせる。しかし、スンシンが最後に言った「早く強くなって、俺を守ってくれよ」という台詞は無理やりくっつけた感じがする。いくら親しくなっても彼が言tori1 いそうもない言葉だ。たとえそう思っていたとしても。なぜそこまで無理をしてこんなことを言わせたのか。それはそこにこそ主題があるからだろう。息子のいない鈴木と父親のいないスンシンが互いに欠けている物を求める。鈴木はあの木の上で父親のようにスンシンの頭を抱いた。その時二人は親子として抱き合った。まさに「ミリオンダラー・ベイビー」と同じ関係だった。おそらくそれが描きたかったのだ。

  スンシンが家に帰っても母親はいつもいない。食事は用意されているから何か夜の仕事をしているのだろう。冷え切った家、冷え切った食事。スンシンは父親を求めていたのかも知れない。最初は鈴木を馬鹿にしていたスンシンが本気で彼を応援し鍛えたのは、初めて父親の資格を持った男と出合ったからだ。最初二人の関係は逆転していた。丹下段平やヨーダを例に出すまでもなく、通常は経験豊富な年配者が若者にアドバイスをする。しかしこの映画の場合はその逆である。若者が年上の男を訓練し教訓をたれる。「おっさんは背中に中身のいっぱい詰まった透明なリュックを背負ってる。石原の背中には何もない。どんなことがあっても自分を信じるんだ。」年上のサラリーマンも若き師の前ではただの「おっさん」に過ぎない。そしてスンシンには年上のサラリーマンに対して恨みがあった。彼が木の上で語ったのはその話だ。「リストラされてとち狂ったサラリーマンのおっさんがいきなり刺してきたんだよ。自分が首になったのは外国人労働者のせいだと思って。」

  病院に入院していた時のスンシンは今の鈴木の娘と同じで怖くて病院の外に出られなかった。「俺さ、傷が治ってからもしばらくは病院から出られなかったんだ。外の世界が怖くてさ。俺を刺したそのおっさんが夢ん中まで出てきて俺のこと追っかけまわすんだよ。真っ赤に光った目でさ。俺はある日突然ヒーローみたいな誰かが現れて、俺のこと病院から連れ出してくれると信じてたんだ。まあ、そんな都合のいいことは起こりゃしねえんだよ。・・・病院から外の世界に戻る時、二度と刺されないように俺は強くなることに決めたんだ。」しかし今スンシンはそのことのむなしさに気づいている。

  彼が在日コリアンであることがはっきり語られるのはここだけである。その分「GO」と比べれば民族問題よりももっと親子関係や男としての葛藤の側面に重点が置かれている。アイデンティティの追求という点では共通するが光の当て方が違う。

 このように書いてくるとかなり重たい主題のように思えるが、実際は軽いタッチで描かれている。上で年齢関係が逆転していると書いたが、この映画はある意味でスポ根漫画や映画で言えば「ロッキー」などのパロディである。それは鈴木一の格好を観ただけで分かる。寸詰まりの緑色のジャージに運動靴。背中には砂を詰めた赤いキティちゃんのリュックを背負い、爪先立ちでふらふらと石段を登る。上ではスンシンがバナナを持ってここまで来いとせきたてる。「俺は猿かよ」とぼやきながらふらつく足で階段を上るへこたれ堤真一の背中はすっかりしょぼくれている。誇らしげに子供に見せる「親父の背中」からは程遠い。ロープに掴まって木に登ろうとしても途中で落下してしまう。ランニングでへなへなになり、最初のうちは歩いている二人にすら置いていかれる。高校生たちは三日もすれば音を上げてやめるだろうと思っていた。しかし彼はまた次の日もやってきた。そしてそのまた次の日も。そのうちあえてバスにも乗らずバス停まで走ってゆく。ついにはバスに勝ってしまう。

  いつも乗る最終バスの運転手と乗客が彼に気づき次第に応援してゆく様が面白い。シンデレラマンが大恐慌にあえぐ庶民の星だったように、走っている鈴木はサラリーマンの星だった。このあたりはコメディ調になる。運転手と乗客には「豪華」な役者を配した。運転手に温水洋一、乗客に浅野和之、徳井優、大河内浩、田口浩正、神戸浩、鴻上尚史。いずれも覇気のないおっさんばかり。鈴木一は自分のため、あるいは娘や妻のためだけではなく、スンシンやゾンビーズ(60年代のイギリスに同名のロック・バンドがあったなあ)のメンバーたちやこの「おっさん」たちのためにも「飛んだ」のである。果し合いに臨む鈴木は自信を取り戻し、「灰とダイヤモンド」の有名な台詞を口ずさんで自分を励ます。戸惑うスンシンに「灰とダイヤモンド」も知らないのかとやり返す(前に「燃えよドラゴン」を知らないと言って馬鹿にされた)。鈴木は若いスンシンに鍛えられたが、無理に若ぶるのではなく、「おっさん」の底力を示すことでやり返したのだ。

  まあ、話自体はほとんどありえない話である。だいたい相手の石原という男は3年連続ボクシングの高校チャンピオンである。いくら鈴木が練習をつんでも勝てるはずはない。だからこれはスポ根パロディ調ファンタジーである。加害者である石原や威圧的な態度を見せる教頭(塩見三省)は全くのステレオタイプ。ほとんどリアリティがない。

  いろいろと不満はあるがさわやかな映画である事は確かである。最後の「鷹の舞」も妙にひきつけるものがある。「真の王者は鷹となって大空を羽ばたき、限りない自由へと近づく。」こちらが恥ずかしくなるような臭い台詞だが、それをあえて言ってしまうところが潔い。「あんな風に重力を飼いならしたら本当に飛べるような気がしません?有り得ないとか出来ないとか、そんなちっぽけな常識から解放されて羽ばたけるような気がするんですよね。」「飛ぶ」とは解放されることである。何から?それを考えるのは観客の側の課題だろう。

  堤真一と岡田准一のキャスティングは成功だった。岡田准一は本当にかっこいい。かっこよさを自然に表現することはなかなか出来ないことだ。注目すべき若手である。

2006年2月15日 (水)

ラヴェンダーの咲く庭で

paris38 2004年 イギリス
原題:Ladies in Lavender
原作:ウィリアム・J・ロック、Faraway Stories
監督:チャールズ・ダンス
脚本:チャールズ・ダンス
音楽:ナイジェル・ヘス
撮影:ピーター・ビジウ
出演:ジュディ・デンチ、マギー・スミス、ダニエル・ブリュール
    ナターシャ・マケルホーン、 ミリアム・マーゴリーズ
    デヴィッド・ワーナー、トビー・ジョーンズ、 クライヴ・ラッセル
    リチャード・ピアーズ、ジョアンナ・ディケンズ、 フレディ・ジョンズ

  「ラヴェンダーの咲く庭で」という邦題は映画のイメージにはあっているものの、やはり誤解を招く。庭に咲くラヴェンダーを探しても無駄である。原題の“Ladies in Lavender”とは「ラヴェンダー色の服を着たレディーたち」という意味である。

  僕はずっとこの映画を観たくて仕方がなかった。もちろんその理由はジュディ・デンチとマギー・スミスというイギリスの2大女優が競演しているからである。イギリスはシェイクスピアの国。俳優はみな舞台で経験と実力を積み、それから映画やテレビに進出するというのが一般的なパターンである。二人とも演劇界で多くの業績を残した。OBE、DBEの勲位を両方受勲し、デイムの称号を授けられた数少ない名女優である。ジュディ・デンチを最初に観たのは「眺めのいい部屋」だと思うが、最初に大女優として意識したのは97年の9月にイギリスのブライトンで「Queen Victoria至上の恋」を観た時である(滞在中ダイアナ妃が亡くなる悲劇が起き、その日にケンジントン・パレスまで行って人々が献花している様子を見てきた)。ジュディ・デンチはヴィクトリア女王に扮した。日本公開時はあまり話題にならなかったがなかなかの秀作だった。その後は「ヘンリー五世」「恋におちたシェイクスピア」「ムッソリーニとお茶を」「ショコラ」「アイリス」「シッピング・ニュース」と何本も観てきた。「ムッソリーニとお茶を」はフランコ・ゼフィレッリ監督晩年の傑作で、マギー・スミスとここでも競演している。

  マギー・スミスを最初に観たのは「予期せぬ出来事」か「三人の女性への招待状」あたりだろうが、恐らく端役だろうからその頃は全く意識していなかった。有名な「ミス・ブロディの青春」や「眺めのいい部屋」(ジュディ・デンチと競演)を観た時もさほど意識していなかったと思う。彼女をはっきりと意識したのはあの「天使にラブソングを・・・」と「天使にラブソングを2」のきつい顔をした修道院長役である。その後は「ゴスフォード・パーク」や「ハリポタ」シリーズのプロフェッサー・マクゴナガル役でおなじみ。

  「ラヴェンダーの咲く庭で」は二人の老女と一人の若いバイオリニストが主役である。老人たちを主役にした映画は古くはジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「旅路の果て」など幾つもあるが、比較的最近のものでは「コクーン」、「森の中の淑女たち」、「八月の鯨」、「歌え!フィッシャーマン」「きみに読む物語」「ウィスキー」など優れた作品が多い。しかし老女が若い男性にほのかな恋心を持つという微妙な主題を共感をこめて描いた映画はこれまでなかったかもしれない。

  もっともこの映画の中では村で唯一の医者であるミード医師(デヴィッド・ワーナー)が美貌の女流画家オルガ(ナターシャ・マケルホーン)にほれてストーカーのように付きまとう話も描かれているので、老人が若い男女に恋をする二つのパターンが描かれていると言った方が正確である。しかしそれにしてもこの二つの描かれ方は対照的だ。爺さんが若い女にほれるのはどこかいやらしさが付きまとい、老女が若い男性にほれるのは美しいものとして描かれている。女性の感想のほとんどはアーシュラ(ジュディ・デンチ)を「可愛い」と言う。そして必ず「女性は何時までたっても女性」、「いくつになっても女性は恋をする」と付け加える。ミード医師は、アンドレアを密告したりすることもあって、すこぶる印象が悪い。「男はいつまでたっても男である」と言えば、いつまでも女の尻を追い掛け回しているという意味にしかならない。情けない。

  時代設定は大戦間の1936年。ラジオを通して不穏な情勢が伝えられる。舞台は英国のコーンウォール地方のランズ・エンド。イギリスの本土、グレート・ブリテン島の一番南西にある半島部分がコーンウォール地方で、その先端にあるのがランズ・エンド。文字通り「地の果て」である。コーンウォール地方はイングランドの中でもケルト文化が色濃く残っている地域で、アーサー王伝説のふるさとである。白亜の崖が続く南部から南東部にかけての海岸地帯と違って、コーンウォールあたりは映画で見るように赤茶色の崖になる。観光地としてトーキーやペンザンスが有名だ。そういえば「コーンウォールの森へ」という映画もあったが、これはどうということもない凡作。

  映画はあの話題になった「ピアノ男」を思わせる出来事から始まる。アーシュラ(ジュディ・デンチ)とジャネット(マギー・スミス)姉妹は海辺の屋敷で静かに暮らしていた。家政婦のドーカス(ミリアム・マーゴリーズ)が二人の世話をしている。ジャネットは前の大戦で夫を亡くし、アーシュラはずっと独身を通しているらしい。恐らく裕福な家柄の生まれだろうが、ちょっとした買い物にも金の心配をしているから地主の娘ではなさそうだ。家もカントリー・ハウスと呼ばれる地方地主のお屋敷の様な立派なものではない。地代もなく他の収入もないので、親の残した遺産を少しずつ食い潰しながらつつましく暮らしているのだろう。苦しい家計ながら家政婦を雇っているのはやはり上層中流階級出身だからである。時代は違うが、ジェイン・オースティンの小説世界に出てきそうな姉妹だ。

  ある夏の朝、ちょっとした「事件」がおきる。嵐が去った翌日、二人が海岸に打ち上げられた若い男(ダニエル・ブリュール、「グッバイ・レーニン」の時よりもぽっちゃりしていた)を見つけるのだ。足に怪我をしていたが、幸い命に別状はなかった。男は徐々に快復して行くが、言葉が通じない。ようやく彼がアンドレアという名前のポーランド人で、渡米途中に難破したという事情が分かってくる。姉妹の看病によりアンドレアは次第に回復してゆく。やがて彼には非凡なヴァイオリンの才能がある事が分かってくる。

  アンドレアという若い男が女ばかりの所帯に入り込むことによって小さな異変が起きる。いつのまにか彼はジャネットとアーシュラにとって不可欠の存在になっていたのだ。特に結婚の経験を持たないアーシュラの心には、彼に対するほのかな恋の感情が生まれていく。そこにオルガという若い美人画家が現れ、結局アンドレアをロンドンに連れて行ってしまう。二人はまたいつもの静かな生活に戻ってゆく。アンドレアという青年の出現が静かだった姉m000650gd 妹の生活にほのかなときめきをもたらす。ひと時の浮き立った季節が終わりまた静寂が訪れ、普段の生活に戻る。どこか小津安二郎の世界を思わせる映画である。老女たちの心の中を吹き抜けた小さな嵐を細やかな演出で描いた美しくも、切ない物語。女性の細やかな心理を丁寧に描いた淡いラブストーリー。これはまさにジェイン・オースティンを生んだ国の映画なのである。ほのかな海と花の香りに淡くまた苦いロマンスの香りが交じり合う。地方色豊かないかにもイギリスらしい味わいのある作品である。

  とにかくアンドレアに対するアーシュラとジャネットの微妙な感情の描き方が見事だ。一度も結婚経験のないアーシュラはいつしか若いアンドレアに心を魅かれてゆく。年甲斐もないと分かっていてもどうしようもなく抑えがたい感情。最初はさりげない表れ方をする。例えば、家政婦のドーカスがアンドレアに運んでゆく朝食のお盆にアーシュラが庭の花を一輪さっと置くシーン。こういう細やかでさりげない場面がいくつも積み重ねられてゆく。小さな波紋がどんどん広がってゆく。そのうちジャネットに気持ちを見抜かれちょっとしたいさかいも起こる。気付かれないようにジャネットの後ろからチラッとアンドレアを見るアーシュラの目つき。若い美人のオルガがずけずけと彼女たちの家に入り込んできたときの複雑な表情(二人はオルガを魔女にたとえるが、実際そう思えたのに違いない)。もちろん、常に冷静で落ち着きを失わない姉のジャネットもアンドレアが現れて以来心が浮き立っている。ドイツ語が話せると分かればドイツ語の辞書を引いて一生懸命勉強する。一方アーシュラは家具に英語のつづりを書いた札をつけ、アンドレアに英語を教えようとする。アーシュラは行動が先に出てしまう。行動的だがどこか危なっかしいアーシュラ、その妹を気遣う冷静で理性的なジャネット。性格の違いからくる行動や気持ちの表現の仕方の違いまで丁寧に描き分けている。

  大人のおとぎ話という意味では「Dearフランキー」に通じるものがある。この映画には白馬にまたがった王子様のイメージが何回か出てくる。しかし、まだ若い主婦のリジーには十分その可能性があるのに対して、アーシュラの場合はほとんど可能性がないだけにその恋心は悲痛なものになる。夜中にアンドレアの部屋に行って寝ているアンドレアに触れようとしてジャネットに見つかった時のうろたえぶり。観ていて哀れを誘う。

  やがていつか来るはずの日がついにやってきた。アンドレアはオルガに説得され、彼女の兄である高名なヴァイオリニスト、ボリス・ダニロフに会うために二人に知らせる暇もなく突然村を去った。心の支えを失ったアーシュラの落胆ぶりはなんとも哀れだ。アーシュラはアンドレアのベッドに丸まるように横たわって泣く。アーシュラの痛ましいほどの悲しみ、自分の中にもある悲しみを抑えつつ妹をなぐさめる気丈なジャネット。老女たちの恋をただ美しく描くのではなく、その残酷さも描いていることがこの作品に奥行きを与えている。

  老女たちの秘められた感情を描いているので全体に淡々とした話なのだが、単調さをすくうためにコミカルな味付けが施されている。もっぱら笑いを担当するのはでっぷりと太った家政婦のドーカスである。姉妹を描く時は細やかなタッチだが、それに対してこちらはおおらかでユーモラスなタッチになる。彼女の見るからに庶民的な性格が強調される。ドアはばたんと大きな音を立てて閉めるし、歩く時もどたどたとやかましい。傑作なのはイワシのパイ。パイ生地からイワシの頭や尻尾が飛び出ている。とても食欲がわく絵ではない。それを姉妹がうまそうに食べるところが面白い。もっとも気がふさいでいるアーシュラは全部食べずに残してしまうのだが。イワシを買い付ける時のドーカスの表情も滑稽だ。ジャガイモの皮むきのシーンも笑える。アンドレアの茶目っ気が描かれる数少ないシーンである。

  回復したアンドレアは村の酒場に出入りする。ここで村人たちが登場する。狭い女所帯から抜け出して息抜きが出来る貴重な場所。ほっとする場面である。田舎の人たちの風情がよく出ている。アンドレアにヴァイオリンを貸した村の男は見るからに田舎の男という素朴な顔立ち。あの顔が実にいい。庶民たちとの交流を描いておいたからこそ、最後にアンドレアの演奏をラジオで聞くために村人たちが姉妹の家に集まってくるシーンが生きてくるのである。ただこの酒場にも美人の「魔女」オルガが現れて不穏な空気が入り込んでくる。

  ラストはロンドンでの演奏会。ボリス・ダニロフに見出されたアンドレアはヴァイオリンのソリストとして登場する。その会場にジャネットとアーシュラがいた。演奏会の終了後二人はアンドレアに再会する。彼は再会を喜ぶが、すぐ誰かに呼ばれ中座してしまう。姉妹は彼を待たず静かに去ってゆく。長い廊下を歩き会場を後にするアーシュラとジャネット。「笑の大学」のラストを連想させる。すぐその後にいつもの海岸を散歩する二人が短く映され幕。海岸の場面で始まり海岸の場面で終わる。二人はまた日常に戻ったのだ。しかし冒頭の場面と同じ二人ではない。アーシュラもジャネットでさえも短いが楽しい思い出を心に刻んだ。特にアーシュラにとってはつらく切ない思い出だが、その切なさを一生知らずに過ごすよりはきっとよかったのだ。余韻を残さないラストが逆に余韻を残す。いい終わり方だと思った。

  美しいコーンウォールの風景、甘美なヴァイオリンのメロディ、淡いロマンス。どれも素晴らしいのだが、どういうわけか映画全体としてみると何か物足りない。今ひとつのところで傑作には至らなかった。細やかな演出は出色なのだが、どうも全体に淡々としすぎてドラマ性に欠ける。別にハリウッド映画の様な劇的な展開を望んでいるわけではないのだが、もう少し起伏に富んだドラマ展開が欲しかった。しっとりとした良い映画だけに、そういう印象が残ってしまうのは残念だ。

2006年2月12日 (日)

ラスト・マップ/真実を探して

kikyou004 2004年 アメリカ
原題:Around the Bend
監督、脚本:ジョーダン・ロバーツ
製作総指揮:マーク・ギル
撮影:マイケル・グラッディ
出演:ジョシュ・ルーカス、クルストファー・ウォーケン
    マイケル・ケイン、ジョナ・ボボ、グレン・ヘドリー
    デヴィッド・エイゲンバーグ、ロバート・ダグラス

  フランス映画にジャン=シャルル・タケラ監督の「C階段」(1985)という作品がある。パリのアパルトマンの一角にあるC階段と呼ばれる棟。そこに住む美術評論家フォステールはルノアールの絵をくそみそにこき下ろすようなひねくれた男だ。彼は同じアパートに住むユダヤ系の老婦人がある日突然自殺しているのを発見する。行きがかり上、老婦人を彼女の生前の望み通りイスラエルに埋葬してやろうとして、彼はいろいろと奔走する。イスラエルのある丘の上で彼が彼女の遺灰を撒いているラスト・シーンは感銘深い。なかなかの佳作であり、いかにもフランス映画らしい薫りをもった作品である。

  トルコ映画の傑作「遥かなるクルディスタン」(1999)では、映画の後半、トルコ人の青年がクルド人の友人の亡骸を故郷に埋葬してやろうと棺に入れて運んでゆく。しかしやっとの思いで着いた友人の故郷は、何とダム湖に沈んでいた。家や電柱などの上部だけがかろうじて水面に顔を出している。主人公の青年はしばし呆然としていたが、やがて決意したように棺を湖に流す。

  死者を故郷に葬ろうと他人が努力する。同時に、二つの映画ともそこに至る過程を通して主人公たちの心の変化を描いている。祖父の遺灰をまくために主人公が父と息子と共に旅に出る「ラスト・マップ/真実を探して」もよく似た主題を描いている。親子4代の物語だが、映画が始まった時この家族には亀裂が入っていた。

  レア家の男性4世代。遺跡発掘に情熱を燃やした変わり者の家長ヘンリー(マイケル・ケイン)、30年ぶりに突然帰ってきたその息子ターナー(クリストファー・ウォーケン)、銀行員でスクエアな性格である孫のジェイソン(ジョシュ・ルーカス)、そしてひ孫のザック(ジョナ・ボボ)。

  冒頭の場面はヘンリー、ジェイソン、ザックの日常生活を描いている。マイケル・ケインが独特の飄々とした味を出している。若い頃はさっそうとして、いかにも上流育ちという役が似合っていたが、すっかり爺さんになった最近は「サイダーハウス・ルール」や「ウォルター少年と、夏の休日」などで温かみのあるキャラクターを演じてきた。もっとも、「リトル・ヴォイス」ではどこか胡散臭いプロモーターを演じていたが。とにかく何をやらせてもうまい。ここではどこか憎めない偏屈爺さんぶりを発揮している。デンマークから来た家政婦のカトリーナ(グレン・ヘドリー)に身の回りを看て貰っているが、どうやらちょくちょく手を出しているようだ。生意気盛りのひ孫のザックに変な言葉を教えたりして、まじめなジェイソンにしょっちゅうたしなめられている。カトリーナもホラー映画を観ながら涙を流す変わった人物。このあたりはコミカルな演出が効果を発揮している。

  ところが突然ジェイソンの父ターナーが30年ぶりに家に帰ってきて、家族の空気が一変してしまう。どうやら過去に何かいきさつがあるようだ。ヘンリーは彼を歓迎するものの、ジェイソンは彼に何かわだかまりを持っている。彼らを包む空気は重い。

  ジェイソンが友人と酒場で酒を飲むシーンで事情が少し明らかになる。ジェイソンは友人にターナーを親じゃないと言い放つ。「2歳の時の事故で僕は足を怪我し、母は死んだ。その後ターナーはヤク中になって消えた。」友達は「ダース・ベイダーはルークを育てなかったけれど、それでも心で繋がっていた」といってとりなそうとするが、ジェイソンの暗い表情は変わらない。

  そのターナーを演じるクルストファー・ウォーケンがこれまた独特の渋さを発揮して抜群の存在感である。どこか謎を秘めた暗く深みのある表情。ずいぶん皺が増えたが、女優と違って男優の場合年齢を重ねると人生の重みの様なものが加わり、若い頃よりも役者としての深みが加わる。マイケル・ケインの飄々とした持ち味とはまた違うが、クルストファー・ウォーケンのどこか不気味で、食いつくような凄みのある顔と底知れない謎を秘めたような佇まいは映画の中盤から後半を引き締めている。ジェイソンを演じたジョシュ・ルーカスは「ビューティフル・マインド」、「メラニーは行く!」、「ウォルター少年と、夏の休日」、そして「ステルス」などに出演している上昇株。しかし名優二人に囲まれてはさすがに分が悪い。何とか無難にこなしたという印象だ。

  ターナーは一晩だけ泊まってまた去ってゆくつもりだったが、とんでもない出来事のためにジェイソンとザックを連れて旅に出るはめになる。ヘンリーが突然死んでしまうのだ。ターナーに露骨な嫌悪感を示すジェイソンに「支え合うのが家族だ」と言い聞かせたヘンリーは、レストラン(KFC)で遺書を書き残して死ぬ。ヘンリーの遺書には、彼と彼の愛犬スカイの遺灰を持って幾つかの場所へ行き、そこである儀式をして彼とスカイの遺灰を撒けとあった。それと前後して一つの伏線が張られている。どうやらヘンリーとターナーの間には「階段」をめぐる何かがあるらしい。アルバカーキの階段。それが何を意味するのか最後に明らかになる(途中である程度予測できてしまうが)。観客は最後までその謎に引きずられることになる。

  ターナーとジェイソンとその息子のザックは日本ではまず見かけないものすごいオンボロ車で旅に出る。錆だらけの車だ。ここから作品の基調がロード・ムービーに変わる。運転しながらターナーは球形のラジカセで昔の曲をがんがん大音量でかける。食事はいつもケンpocketwatch3 タッキーFCだ。これもヘンリーの遺言で指示されている。ヘンリーの遺書に振り回される奇妙な弔い旅行。最初に指定された場所はヘンリーの妻の墓、次はヘンリーと妻が出会った農場・・・。行動を共にしつつもジェイソンとターナーの仲は冷え切っている。ジェイソンはモーテルに泊まった時ターナーを別の部屋の泊まらせる。その翌日、ジェイソンはターナーの財布から幼い頃のジェイソンの写真を見つける。裏には「マイ・ボーイ」と書いてあった。その時からターナーに対するジェイソンの態度は変わる(ありがちなエピソードでうまい展開とはいえないが)。

  この映画はしばしばロード・ムービーと評されるが、ロード・ムービーとしてはさほどいい出来ではない。次々に訪れる場所にジェイソンたちも観客も何の感慨も持てない。ヘンリー個人の思い出の場所だからだ。途中のエピソードも、あるホテルで別の遺灰をまいてくれと頼まれたり、その次のところで犬をひろったり(灰と引き換え)するだけで、これといって意味があるシーンはない。シナリオを練るのに10年かけたというわりには、あちこち穴が目立つ。却ってあちこち書き直しすぎてストーリーの流れがずたずたになっていたのかもしれない。あるホテルでターナーがピアノを弾く場面は印象的だが、映画のテーマやストーリーの流れと十分深いかかわりを持っていないので(要するに説明不足)孤立したエピソードで終わっている。

  最終目的地であるニューメキシコ州のアルバカーキで「階段」の意味が明かされる。ターナーの言った「父は過去を掘り返したがる」という言葉、ヘンリーが残したメモに書かれた言葉、わざわざアルバカーキまで旅をしてきたこと、警察がターナーを探して留守宅を訪ねてきたこと、これらが最後に一点で交わる。思えばずっとヘンリーに操られた旅だった。彼ら3人の背後には終始ヘンリーの影があった。そして「支え合うのが家族だ」という彼の遺志が。ヘンリーがレストランで書き残した言葉:ターナー、ジェイソンそれぞれにあてた手紙とメモ、場所を示す赤いメモ、そこで行う儀式を示した青いメモ、最終目的地が示された地図。すべてはこれに沿って進んでいった。彼らの旅は封印された過去へ向かう旅であり、同時に家族の絆の再生という未来に向かう旅でもあった。家族の間にあったわだかまりがこの旅によって徐々に剥がれ落ちてゆく。

  過去を知り、それを乗りこえたジェイソンはターナーを乗せてメキシコ方面に向かう。ある岩を目指していた。突然家に帰ってきたターナーの最終的な目的地はそこだった。それはターナーの思い出の岩だった。「かつてあの場所(岩盤)で最愛の女と最高の夜を過ごした。」しかしその岩に行き着く前にターナーは死ぬ。彼の腎臓はもう機能を果たしていなかったのである。透析治療を受けていたのだが、抜け出してきたのだ。後日ジェイソンは息子のザックを連れて再びこの岩のところにやってくる。二人はターナーの遺灰をその岩盤の上から撒く。夕暮れの空に浮かび上がる巨大な岩盤。「C階段」を思わせる、深く心に残るシーンである。

  ラストシーンに至る最後の部分は美しい夕焼けの映像の効果もあってなかなか感動的である。見終わった直後は拾い物の傑作だと思った。しかしレビューを書いているうちにいろいろ欠点が見えてきた。マイケル・ケインとクリストファー・ウォーケンという名優を二人もそろえ、しかもそれぞれに素晴らしい働きをしたにもかかわらず傑作に至らなかったとしたら、やはり脚本が弱いのである。ファミリー・ドラマはアメリカ映画の定番である。たくさんの傑作が作られてきた。新たな傑作を生むためには新しい工夫を盛り込んだ脚本が必要である。ヘンリーの残した謎めいた遺書とメモは道具立てとしては悪くないが、肝心の謎の核心があまりに単純で底が浅い。散々その謎で引っ張ってきておいてありきたりの結末。クライマックスの持っていきかたを誤ったと言っていい。脚本の一番の問題はそこにある。むしろもっとロード・ムービーとしての性格を強くして、旅の終点ではなく、旅のプロセスでそれぞれが何かを発見するという展開にしたほうが良かったのではないか。例の謎は旅の途中で早々に明らかにしてしまった方がいい。家族の再生はそこから始まるのだから。互いに傷を背負いながらそれを乗り越え、何かを求めてさすらう旅。それぞれの思いは離れたり、また交錯したり。そして旅の終わりに何らかの結論が待っていなくてもいい。旅は終わっても人生は続くのだから。

  家族の絆というテーマでは、例えばジェイソン以外の3人がそれぞれ踊るシーンが出てくる。ここに家族の絆が暗示されている。世代が違うから踊りも違う。最後に踊るのはひ孫のザックだ。岩の上で彼が踊るラストシーンは家族の血のつながりを示している。映画の中でtribeという言葉が何度も使われていた。familyという同時共存的響きのある言葉に対して、tribeは先祖から代々受け継がれてきた血のつながりを強調した言葉だ。「家族」よりも「一族」に近い響きを持った言葉である。代々伝えられてきた踊りという絆。この描き方は悪くない。だが、もう一つ効果的ではない。映画全体のテーマの流れに今ひとつうまくはめ込まれていないからだ。先ほどのピアノのシーンと同様、そこだけが浮き立ってしまっている。

  監督のジョーダン・ロバーツはこれが初監督作品。脚本も担当している。いろいろ不満を書いたが、第1作としては決して悪くない。もっと直線的でないひねりの効いた脚本が書ければいずれ傑作を生み出すかもしれない。

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