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2006年2月5日 - 2006年2月11日

2006年2月11日 (土)

皇帝ペンギン

penguin01 2005年 フランス
監督・脚本:リュック・ジャケ
母ペンギンの声:ロマーヌ・ボーランジェ 
父ペンギンの声:シャルル・ベルリング 
子ペンギンの声:ジュール・シトリュック

  僕は自然や動植物を描いたドキュメンタリーが大好きである。NHKで放送されるBBC製作のドキュメンタリーなどは見つけたら大体観ている。日常から遠く離れた驚異の世界、見たくてもなかなか見られない未知の世界、そこに引きつけられるのだろう。もう20年以上前か、テレビカメラが初めて入って撮った中国奥地のドキュメンタリーには心底驚いた。山水画によく描かれるあのとがったかたちの山が本当に実在している。あんな形の山が本当にあるとは!コナン・ドイルの『失われた世界』にも描かれたギアナ高地の映像も背筋がぞくぞくするほどすごかった。そそり立つ垂直の絶壁。テーブルのように平らな頂上から落ちる滝の水は、あまりの高さに途中で霧のように分散して消えてしまう!そして頂上にぽっかりと口を開けた大穴の中の映像。まさに神秘の世界。あるいはオーストラリアに点在する地下の湖にもぐった映像。子どもの頃に何度も読み返したジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を思い出しながらぞくぞくする思いで観ていたものだ。

  神秘的という意味では深海ものもすごい。摩訶不思議な生物たち、温水が噴出している地獄の様な映像。未知の世界にたっぷり浸れる。屋久島を流れる川をずっと源流近くまで遡ったフィルムも圧巻だった。実際に行くことは極めて困難な場所の映像をこの眼で眺められる快感。グランド・キャニオンなどの奇観を眺めると、実際にそこにいる自分を想像してしまうことがよくある。ドキュメンタリーの映像はそれを疑似体験させてくれる。ドキュメンタリーの魅力はそこにあるのだろう。

  植物ものも面白い。花粉をどうやって運ばせるか。ほとんど信じられないような様々な工夫をそれぞれの植物がしている。昔天才的な植物がいて、考えに考え抜いて作ったのかと思いたくなるほどの巧妙な仕組み。これまた驚異の世界だった。動物ものも好きだ。頭に角をはやした幻のイッカクの映像、愛くるしいビーバーの生態・・・。

  同じ動物ものでもちょっと違う感覚で眺める映像がある。例えば、猿が入浴することで知られる地獄谷の温泉。瞑想するように目を閉じて風呂に浸かっている猿たちの姿を観ているとまるっきり人間と同じである。風呂から上がり、背中を丸めてハアっと一息ついている中年の猿の姿などは、風呂上りのおばさんさながら。あるいは、新聞の書評に誰かが書いていたが、その人が山の斜面に座って夕焼けを眺めていた時、ふと何かの気配に気付いて後ろを振り返ったら、すぐ上の岩に猿が座っており、同じようにじっと夕焼けを眺めていたという話。

  これらの猿の話には「皇帝ペンギン」に共通する要素がある。それを一言で言えば動物を人間になぞらえてみてしまうことである。「アトランティス」、「WATARIDORI」、「ディープ・ブルー」、あるいは変わったところでは雲ばかりの映像を集めたベルギー映画「雲 息子への手紙」などと「皇帝ペンギン」が違うのは、「皇帝ペンギン」の場合動物を人間になぞらえてみる意識をうまく映画に取り入れていることにある。動物園で猿山をいくら眺めていても飽きないのは彼らの行動、身振りが人間そっくりだからである。猿は一番人間と比べやすい。以前、死んだ小猿をどうしてもあきらめきれずにいつまでも手から離さない母猿の映像を観て、思わず涙を流したことがあった(興味深いことに「皇帝ペンギン」にも似たような行動が記録されている)。どうしても人間になぞらえて観てしまうからである。ペンギンもあの歩いている姿などは人間そっくりである。時々、足を滑らせてすてーんと転ぶところも人間みたいだ(しかし体が丸いから怪我はしない感じ)。腹ばいからどうやって立ち上がるのかと見ていると、羽根を手のように使って立ち上がっている。これも人間みたいだ。

  映画「皇帝ペンギン」はある特定の場面だけを撮るのではなく、ほぼ1年近くを通して子育てをメインにずっとその行動を追っている。そこにストーリーが生まれる。子育ては一番共感しやすいテーマである。しかも天敵から子供を守る戦い、過酷な自然との闘いの厳しさは人間世界の比ではない。子供を必死で守り育てる父ペンギンと母ペンギンの行動には思わず引き込まれてしまわずにはいられない。お父さんたちや子育て中のお母さんたちは必見という感想があちこちででてくるのは、知らず知らずのうちにこの「なぞらえ効果」にすっかりはまっているからである。ストーリー仕立てのナレーションを不必要だという人は多いが、006 こう見てくるとあながち不要だとも言い切れない。ナレーションによってペンギンたちの世界が擬人化され、その理解がより容易になるからである。もちろんストーリー化されたナレーションなどなくても、映像を観ているだけで十分彼らの世界に入り込める。なくてもよかっただろうが、あっても僕はそれほど邪魔には感じなかった。ナレーションを用いたもう一つの理由は、親子での鑑賞を想定していて、子供を意識していたからだろう。子供には擬人化したほうがその世界に入りやすい。絵本や児童文学でよく用いられる技法である。他のドキュメンタリー映画と違って、「皇帝ペンギン」には人間の感情を動かす作用がある。ただ観察するだけではなく、感情移入してしまうのである。

  もちろん、擬人化は人間の勝手な思い込みである。ペンギンはペンギンの本能に従って昔からの営みを続けているだけだ。ペンギンたちの営みはもう何度もテレビのドキュメンタリーで観てきたのでそれほど驚きはない。だから正直言ってこの映画に付ける点数は高くはない。標準程度である。そうは言っても何度観てもすさまじい世界なのだ。初めて観る人には驚異の映像だろう。あの延々続く行進。何もあんな遠くまで行かなくてもと思うが、安全を考えるとそこまで行かざるを得ないのだろう。短い足でただひたすら歩いている姿を見ると、「誰か送り迎えのバスを出してやれ!」と叫びたくなる。「猫バス」ならぬ、ペンギン様専用冬季限定無料循環バス「ペンギン・エクスプレス」。車内には何十頭ものペンギンが通勤電車のように押し合いへし合いしながら押し黙って立っている。想像しただけで楽しい。

  撮影は相当な困難を伴っただろう。牙をむき出したアザラシがカメラに向かって突進してくる映像には思わず身を引いた。あんな映像は初めて観た。アザラシも愛嬌のある生き物だが、ペンギンにとってはライオンの様な恐ろしい天敵だということがぞっとするほどリアルに体験できる。

  押しくら饅頭のようにペンギンたちが体を寄せ合って互いを暖め合う姿は何度観てもほほえましい。交代制になっているのには感心する。ペンギンの社会ではまだ「ご近所の力」がちゃんと機能しているのだ。中にはズルをする奴もいるのだろうか?いかん、擬人化のしすぎか。自分と卵の命がかかっているのだから厳しいルールがあるのだろう。

  とにかく、彼らの一番の問題は営巣地と餌場が離れすぎているということである。なにしろ片道100キロを歩いて行き来するのだから、観ているこっちがもどかしくなるほど不便だ。これに比べたら「裸の島」(新藤兼人監督)の水汲み労働など楽なものに思えてくる。

 求愛シーンもこれまたなんとも愛らしい。オスとメスが向かい合ってくちばしの先を合わせているシーンはしばらくストップモーションで観ていたいと思うほど素晴らしい絵になっている。人間のキスシーンそっくりで、「ET」の指と指をあわせるシーンよりも感動的だ。

  南極の自然の美しさと過酷さ、雛たちの可愛らしさ(親の腹の下からちょこっと顔を出す雛の愛らしいこと)と非情な生存への戦い(鳥に食べられた雛の映像に「あの子は海を見ることができないんだ」のナレーション)、涙ぐましい親たちの努力(片道100キロの旅、マイナス40℃という信じられない寒さ、時速250kmのブリザード、120日間の絶食、天敵との戦い、等々)。過酷な条件を無事生き抜いた雛たちは初めて見る海に次々と飛び込んでいく。ばたばたしていて泳ぎがぎこちない。その海で生き残ったものたちはまた親たちと同じように海から上がり、長い旅に出る。ペンギンたちはこの危険で長い旅を毎年毎年繰り返してきた。命を生み育てるという行動が人間を含めたすべての生き物の本源的営みである事にあらためて気付かされる。いろいろなことを学べる映画である。現実こそが何よりも雄弁な教科書なのである。

2006年2月10日 (金)

これから観たい映画・おすすめDVD(06年1~2月)

■新作映画
【外国映画】
「愛より強い旅」(トニー・ガトリフ監督、フランス)
「ある子供」(ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督、フランス・ベルギー)
「イノセント・ボイス」(ルイス・マンドーキ監督、メキシコ)
「イベリア 魂のフラメンコ」(カルロス・サウラ監督、スペイン・フランス)
「オリバー・ツイスト」(ロマン・ポランスキー監督、英・チェコ・仏・伊)
「クラッシュ」(ポール・ハギス監督、アメリカ)  
「ジャーヘッド」(サム・メンデス監督、アメリカ)  
「白バラの祈り――ゾフィ・ショル、最期の日々」(マルク・ローテムント監督、独)  
「スタンドアップ」(ニキ・カーロ監督、アメリカ)  
「単騎、千里を走る。」(チャン・イーモウ監督、中国・日本)  
「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」(ジョン・マッデン監督、アメリカ)  
「PROMISE」(チェン・カイコー監督、中国・日本・韓国)
「僕が9歳だったころ」(ユン・イノ監督、韓国)
「ホテル・ルワンダ」(テリー・ジョージ監督、南ア・米・英・伊)
「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ監督、アメリカ)
「歓びを歌にのせて」(ケイ・ポラック監督、スウェーデン)

【日本映画】yukiusagi
「あおげば尊し」(市川準監督)
「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「シムソンズ」(佐藤祐市監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)

■ 新作DVD(1月下旬~2月)
【外国映画】
「ヴェラ・ドレイク」(マイク・リー監督、英・仏・ニュージーランド)
「大いなる休暇」(ジャン・フランソワ・プリオ監督、カナダ)
「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン監督、アメリカ)
「南極日誌」(イム・ピルソン監督、韓国)
「ビューティフル・ボーイ」(エカチャイ・エアクロンタム監督、タイ)
「ふたりの5つの分かれ路」(フランソワ・オゾン監督、フランス)
「ベルベット・レイン」(ウゾン・ジンポー監督、香港)
「やさしくキスをして」(ケン・ローチ監督、英・ベルギー他)
「ラヴェンダーの咲く庭で」(チャールズ・ダンス監督、イギリス)

【日本映画】
「いつか読書する日」(緒方明監督)
「運命じゃない人」(内田けんじ監督)
「亀は意外と速く泳ぐ」(三木聡監督)
「樹の海」(瀧本智行監督)
「サマータイムマシン・ブルース」(本広克行監督)
「リンダ・リンダ・リンダ」(山下敦弘監督)

■ 旧作DVD
「パンドラの箱」(G.W.パプスト監督、ドイツ)
「揺れる大地」(ルキノ・ヴィスコンティ監督、イタリア)
「我は海の子」(ヴィクター・フレミング監督、アメリカ)

2006年2月 8日 (水)

Dearフランキー

sky_window 2004年 イギリス
原題:Dear Frankie
製作:キャロライン・ウッド
脚本:アンドレア・ギブ
監督:ショーナ・オーバック
音楽:アレックス・ヘッフェス
撮影:ショーナ・オーバック
美術:ジェニファー・カ-ンキ
出演:エミリー・モーティマー、ジェラルド・バトラー
    ジャック・マケルホーン、 シャロン・スモール
    メアリー・リガンズ、ショーン・ブラウン
    ジェイド・ジョンソン、カティ・マーフィ、アン・マリー・ティモニー

  イギリス映画には「ボクと空と麦畑」、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、「がんばれリアム」、「マグダレンの祈り」のような行き詰まり感の強い暗澹たる気分になる映画がある一方で、「ブラス!」、「フルモンティ」、「リトル・ダンサー」、「グリーン・フィンガーズ」、「ベッカムに恋して」、「カレンダー・ガールズ」のような、頑張れば道は開かれるという明るい色調の映画がある。「Dear フランキー」は後者の部類に入る。

 舞台はスコットランド。ロケがおこなわれたのは、スコットランドはグラスゴー近郊のグリーノックという港町。そこは何と主演の一人ジェラルド・バトラーの故郷の近くだそうである。「ロケ地がスコットランドの、僕が育ったところから7マイルくらいの場所なんだ。場面によっては3マイルのところもあった。信じられない思いだよ。」スコットランドのどんよりとした空とその下のもやったような美しい景色が効果的に映し出されている。これが長編第一作になるショーナ・オーバック監督は元々写真家だったそうで、撮影も彼女が担当した。とにかく海の景色が素晴らしい。丘の上から町を見渡すシーンは確か映画の中でマリーが「世界一だ」と言っていたが、そういいたくなる気持ちが分かるほど美しい。

  主人公のリジーを演じるのはエミリー・モーティマー。「キッド」、「ケミカル51」に続いて彼女を観るのはこれが三作目。特に「ケミカル51」の印象が鮮明だ。殺し屋の役だが、いきなり冒頭の結婚式の場面で花嫁のような白い衣装を着て登場する。教会で突然ハシゴを登り機関銃を組み立て始める。首尾よく参列者の一人を撃ち殺し、教会の鐘撞きロープを伝って下に降り、何食わぬ顔で脱出する。「キルビル」さながらで、なかなか色気もあってすっかり魅了された。本作では細身の体を生かして、繊細だが芯の強い母親役を好演している。彼女の息子フランキー役はジャック・マケルホーン。耳の聞こえない子供の役だが、言葉ではなく目や表情で感情を表現する難しい役を見事にこなしていた。

  話は単純である。夫の暴力に耐えかねて家を飛び出したリジーは母のネル(メアリー・リガンズ)と息子のフランキーと3人で転々と住所を変えながらひっそりと暮らしていた。フランキーは夫の暴力のせいで耳が聞こえない。幸い幼い頃の出来事で、フランキー本人はその事情を知らない。父親を知らないフランキーに、父親は「ずっとACCRA号で世界中を航海しているので会えないのよ」とリジーは説明していた。父を慕うフランキーは父親に手紙を書き、リジーは父親のふりをして自分で手紙に返事を書いていた。しかしたまたまACCRA号という船が近くの港に寄港することが分かる。リジーは辻褄を合わせるために一日だけ父親役を演じてくれる男を探す羽目になる。

  リジーは口紅を塗り、慣れないマニキュアをつけて、1日だけの父親になってくれる男を探すために夜酒場に出かける。しかし娼婦と間違えられ「ここで商売をしてもらっちゃ困る」と言われてしまう。逃げるように店を出たリジーは、海岸近くのベンチで泣きながら夜を明かす。口紅を塗るシーンをじっくり映すことで、普段はそんなものを塗っていないことが逆に分かる。夫の暴力に懲りて、男性に恐怖感を持つようになっていたのだろう。久しく女としての自分を忘れていたのに違いない。さりげない描写がそれをうまく表現していた。

  父親役として友達のマリー(シャロン・スモール)が紹介してくれた男(ジェラルド・バトラー)は寡黙で暗い感じの男だった。どうせ一日だけの父親役だから「過去も現在も未来もない男」でよかった。リジーはその男の名前も知らず、彼も言わない。とりあえずフランキーの実の父親の名前デイビー・モリスンを名乗らせる。

  ところが父親と会う当日になってフランキーが見つからない。港にいるところが発見され、マリーに連れられて家に戻ってくる。なぜか暗い表情をしている。あれほど父親に思いを寄せていながら、いざ会う段になると、はじめて会う父親にどう接していいかわからなかったのだろう。手紙でしか知らない父親。一体どんな人なのか。合いたい気持ちと合いたくない気持ちが相半ばして、気持ちが整理できなかったのではないか。フランキーの不安な気持ちは十分われわれにも理解できる。さりげないひとこまだが大事なシーンだ。

  初めて「父親」と対面した時は双方ぎこちない。「父」は前からフランキーが欲しがっていた熱帯魚の図鑑をプレゼントする。それは手紙を読んでいなければ分からないことだった。この人は本当のパパだとようやく納得したフランキーは、にこっと笑って「父」に抱きつく。びっくりした「父」は最初手を広げたままだが、やがて大きな手でしっかりとフランキーを抱きしめる。ここは本当に素晴らしい場面だった。ぎこちなさから自然な感情の発露に変わる微妙な空気の変化、張り詰めた緊張が少しずつ溶けてゆく。二人を見つめていたおばあちゃんの顔もすてきだった。

  実は、フランキーのことを知ってもらおうと、リジーは「臨時の」父親にフランキーからの手紙を渡してあったのである。彼はその手紙をしっかり読んでいた。フランキーの手紙は間違いなく「父親」に届いていたのである。この伏線の使い方が見事だ。

 父 親を演じるジェラルド・バトラーが実に魅力的である。がっしりとした体つきで、いつも硬い表情を崩さないが、フランキーを見る目には優しさがこもっている。渋い表情の寡黙なmado_hito_01 男。最後まで謎めいているが、忘れがたい印象を残す。  「父親」との出会いに戸惑っていたのはフランキーだけではない。ほとんど実の夫以外男を知らない感じのリジーも、この初めて出会うタイプの男に戸惑っていた。「父親」と出会いフランキーはどんどん明るく変わってゆくが、同時に母親のリジーも男へのかたくなな警戒心を少しずつ解いてゆくのである。この気持ちの変化がストレートに愛情に変わらないところに演出の見事さを感じる。むしろ最初のうちは、あまりにも息子と親しくなる「父親」に対して、リジーは息子を取られるのではないかとはらはらするのである。

  約束の一日が終わった時、男はもう一日フランキーと会わせてほしいとリジーに頼む。あくまで単なる契約として片付けたいリジーは最初断る。男は「 フランキーは(父親を)待っていた。君自身も待っていたんだろう?」と説得する。彼は彼女の中の微妙な気持ちの変化を既に読み取っていたのだ。結局リジーが折れて次の日も会えることになる。

  二日目、リジーは仮の「夫」と並んで海岸沿いの道を歩いている。すっかり警戒心を解いていたリジーは彼にいろいろな事情を打ち明ける。夫のこと、暴力のこと、そして手紙のこと。「偽の手紙はやめようといつも思うの。手紙が途絶えればあの子もあきらめるわ。でも実は私自身があの子の返事を欲しがっているの。唯一聞ける“声”よ。」この映画で最も感動的な台詞だ。

  たった二日の出会いだが、男はリジーとフランキーを大きく変えてしまった。彼を介してフランキーとリジーの複雑でもどかしいほどの気持ちの揺れが描かれている。フランキーの気持ちをとらえた男は、リジーの気持ちもとらえかけていた。二日目が終わりいよいよ別れの時、男とリジーは戸口で長いこと見つめあい軽くキスを交わす。男は去ってゆく。いかにもという展開だが、しかしこのまま予想される結論にはまっすぐ進んで行かない。これと前後して実の夫が介入してくる。彼の姉が、弟が病気で先が長くないので息子に会わせてやってほしいと懇願してきたのだ。リジーの気持ちはさらに揺れ動く。結末は書かないが、この展開が絶妙だ。

  ストレートな映画だが、決してあざとい演出で泣かそうとはしていない。ストーリーも名作「一日だけの淑女」を思わせるところがあり、そう目新しいものではない。しかし深い感動を伴う映画に仕上がっている。ありきたりの映画と何が違うのか。違いを説明するのは難しいが、恐らくこの映画がわれわれに感動を与えるのはそこに成長が描かれているからだろう。たとえ息子を思いやる気持ちから発したこととはいえ、偽りの手紙を書き続けるリジーはやはり現実から逃げていた。この映画が感動的なのはリジーとフランキーが二人とも逃げることを止め、現実を見つめ、それを乗り越えてゆこうとするからである。母も子も前に進む道を選択したのだ。一時しのぎの二日間が過ぎた後、母子はまた元の状態に戻ったのではない。ラストでリジーが受け取ったフランキーの手紙は彼の最後の手紙である。もう手紙は必要なくなったのだ。手紙がなくても二人は寄り添って歩いてゆける。二日間だけの「父親」は二人の絆をより強くするための触媒だった。役目が終われば彼は去ってゆくのである。「シェーン」のアラン・ラッドのように。リジーとフランキーが二人で寄り添いながら霧に煙る夕暮れの海を見つめるラスト・シーンが素晴らしいのは、単に景色の美しさだけのせいではない。

  いや、偽の「父」もフランキーと接することで変わっていったのだ。もう一日会わせてほしいと頼んだのは彼の方である。最初受け取った謝礼も最後に全部返す。お金以上に大切なものをフランキーから受け取ったからだ(フランキーがタツノオトシゴの粘土細工を彼に贈るシーンは感動的だが、もちろんそれだけを指して言っているのではない)。それは丁度フランキーにとって「父」からもらった平らな石が何物にも代えがたい宝であったのと同じである。

  しかしフランキーはその石をいつまでもとっておきはしなかった。大事にしていたその石を彼は水きり遊びに使う。その石は今までになく何度も水の上をはねた。石はあくまで石に過ぎない。フランキーはそんなものがなくても生きてゆける強さをいつの間にか身につけていたのである。以前は石を何回投げても1回でドボンと沈んでいた。あの平らの石を投げた時は見事に水を切って何度もはねた。石が平らだったからだが、それだけではない。フランキーが正しい投げ方を学び、遠くまで石を投げられるほど成長していたからでもある。フランキーは確かに成長していた。もう思い出の石は必要ない。もはや手紙を必要としなくなっていたのと同じように。なぜなら彼は「心の父」を得たのだから。

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2006年2月 7日 (火)

2005年公開外国映画の概況

tuki_gura_250_03   以前、現在の世界映画界のランク付けをして、アメリカ、韓国、中国が横綱、フランス、イギリス、イランが大関だと書いたことがある。このなかで中国映画の公開数がこの2、3年激減している。昨年公開されたのは「世界」と「故郷の香り」、「わが家の犬は世界一」程度。「PTU」、「ワン・ナイト・イン・モンコック」等の香港映画を加えても両手に余る。おそらくレベルが落ちているわけではないだろう。韓国映画に勢いがあるので、配給会社が地味な中国映画よりも儲かる韓国映画の輸入に力を入れているせいではないか。ただ90年代以降数々の傑作を放ってきているので、長いタイムスパンで考えればまだ横綱から陥落させるほどではないと思う。

  イラン映画も昨年話題になったのは「亀も空を飛ぶ」だけ。しかしイラン映画はもともと公開数が少ない。しかも「亀も空を飛ぶ」は「酔っ払った馬の時間」のバフマン・ゴバディ監督作品だけに傑作に違いない。大いに期待している。イラン映画も中国映画と同じ理由でまだ大関からはずすほどではないと思っている。

  逆にこの間力をつけてきたのはスペインとドイツである。まだ公開数は少ないが作品のレベルは驚くほど高い。スペインの「海を飛ぶ夢」、「バッド・エデュケーション」、「キャロルの初恋」、ドイツの「ヒトラー 最期の12日間」、「天空の草原のナンサ」、「ベルリン・僕らの革命」。いずれも傑作、注目作ぞろい。どちらも80年代に復活し、90年代後半は世代交代で一時低迷したが、2000年代に入ってからまた傑作を次々に生み出している。現在は関脇クラスという感じか。これからもどんどん傑作を送ってくるだろう。

  2003年ほどではないが、これらの国以外からの映画も結構入ってきている。特に注目されるのは初めて日本で公開されたウルグアイ映画「ウィスキー」である。退屈な映画なので僕はあまり評価しなかったが、キネ旬の7位に入っている。ギリシャからはベストテン常連のテオ・アンゲロプロス監督作品「エレニの旅」が2位に入っているばかりか、「タッチ・オブ・スパイス」という傑作も公開された。そろそろアンゲロプロス以外の才能が育ってきてもいい頃だろう。最近話題になることが多いタイ映画では「風の前奏曲」に注目!未見だが十分期待できそうだ。珍しいボリビア映画「最後の庭の息子たち」も楽しみだ。オランダの「マゴニア」、アイルランドの「ダブリン上等!」もなかなかの出来。

  かつての映画大国イタリアは長い間低迷が続いている。昨年は「輝ける青春」くらいしか注目作がなかった。寂しい限りだ。ただこれはなかなかの大作らしいので期待できそうだ。ベルギーは常連ダルデンヌ兄弟による「輝ける青春」が話題だ。80~90年代に絶頂期を迎えた台湾映画も昨年は「生命 希望の贈り物」程度で、めっきり勢いが衰えたのは残念である。そのほか、アルゼンチン、ブラジル、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ハンガリー、ロシア、ポーランド、オーストラリアなどにはめぼしいものはなかった。

  アメリカ映画は、「シンデレラマン」のレビューに書いたように、昨年は一時の低迷から回復した。これまで観た中でも、「ミリオンダラー・ベイビー」、「サイドウェイ」、「シンデレラマン」、「きみに読む物語」、「ビフォア・サンセット」など傑作クラスがかなりある。まだ観ていないものでも期待できそうな作品はいくつかある。ただ、相変わらず外国映画の再映画化やヒット作の続編物が多く、行き詰まり感はぬぐえない。「スター・ウォーズ エピソード3」などはドラマが貧弱で、アナキンが闇の勢力に落ちて行くあたりの説得力がまったくなかった。ベストテンの上位に入ったのはシリーズ完結のご祝儀としか思えない。アメリカの現状に対する批判的姿勢を貫いた作品がほとんどなかったのも残念だ。

xclip-r1   韓国映画はまさに日の出の勢い。怒涛のように入ってきた。ものすごい勢いだが、「彼女を信じないでください」のレビューに書いたように、かなり粗製濫造の気配が顕著になってきて心配だ。ジャンル的には相変わらずラブ・ロマンスが花盛り。ただ、軍事政権時代を正面から描いた「大統領の理髪師」という異色の傑作が生まれたことは韓国映画のレベルの高さを物語っている。キム・ギドクやパク・チャヌクなどの常連の他に監督第一作を引っさげて登場した人も多く、引き続き新進監督の養成がうまく行っていることが伺える。粗製濫造気味とはいえ、次からつぎから新しい監督がデビューしてくる韓国にはやはり勢いが感じられる。スター中心の映画作りが目立ってきており、だんだんハリウッドの様になって行くのが気がかりだが、しばらくこの勢いは続くだろう。

  フランス映画は「ロング・エンゲージメント」と「コーラス」と「皇帝ペンギン」しかまだ観ていないが、他にも「ライフ・イズ・ミラクル」、「そして、ひと粒のひかり」、「ソン・フレール 兄との約束」、「クレールの刺繍」、「真夜中のピアニスト」、「愛より強い旅」、「灯台守の恋」などが50位以内に食い込んでいる。ユーゴスラビア出身のエミール・クストリッツァやアルジェリア出身で一貫してロマ民族を描いてきたトニー・ガトリフなどがフランスで撮っていることは、かなりフランス映画の幅を広げている。おなじみフランソワ・オゾン監督の「ふたりの5つの分かれ道」も86位と下位ながらランクされている。ただ、フランス映画は皆そこそこいい線を行っているのだが、どうしても10位以内には食い込めない。この10年くらいはそんな印象だ。「アメリ」クラスの映画がなかなか現れない。しかし層が厚いので、いつか群を抜く傑作が現れるだろう。

  イギリス映画は90年代の爆発的勢いを失ってしまったが、昨年はここ数年で一番充実していた。「ヴェラ・ドレイク」、「Dearフランキー」、「愛をつづる詩」、「ラヴェンダーの咲く庭で」、「ミリオンズ」、「運命を分けたザイル」、「やさしくキスをして」と7本もランクイン。「Dearフランキー」と「運命を分けたザイル」は傑作だった。「ヴェラ・ドレイク」と「ラヴェンダーの咲く庭で」は、イラン映画「亀も空を飛ぶ」やドイツ映画「天空の草原のナンサ」と並んで、今一番見たい映画である。昔から才能ある映画人がアメリカに流出してしまう傾向があるが、今は数カ国が出資して映画を作ることが当たり前の時代。それほど問題にしなくてもいいのかもしれない。それでも、傑作と呼べるのはイギリスらしさを色濃く持った作品が多い。アメリカに飲み込まれずに今後もイギリスらしい映画を作り続けてほしい。

2006年2月 6日 (月)

2005年公開映画マイ・ベストテン

kabin_hana_03   今日『キネマ旬報』のベストテン号が発売された。毎年必ずベストテン号だけは買っている。もう20年以上そうしている。普段はよほどいい特集でもなければ買うことはない。

 映画のベストテンは各種あるが、『キネマ旬報』のベストテンが有用なのは得票が入ったすべての映画が掲載されている点である。他のベストテンは文字通り10位までしか示されていない。これでは資料としての価値はない。僕は『キネマ旬報』のベストテンを、見逃した映画のチェックとその年の傾向を確認する材料に使っている。ここにほぼ見る価値のある作品が網羅されているからである。当然入ってしかるべきものが選外になっていることもあるが(例えば今回の「マラソン」)、それはほんのわずかである。ここに載っていなければほとんど無視して差し支えないだろう。順位そのものは大して意味は無い。納得の行く順序で並んでいたことなど一度もないのだから。

  僕は映画館で映画を観ることは滅多にない。ほとんど9割以上はDVDで観ている。したがって2005年公開映画でめぼしいものをほぼ観終わるには、今年の夏ごろまでかかるだろう。しかしその頃に2005年のベストテンを出しても遅すぎる。そこで『キネマ旬報』ベストテン号の発売にあわせて、とりあえず2005年前半期のマイ・ベストテンを載せることにした。当然暫定的なベストテンで、順位は順次入れ替えてゆくことにする。

  なお、今年ははじめて日本映画のベストテンを付けた。近年になく充実した年だったのでベストテンをつけてみたくなったしだい。2005年公開外国映画の概況については、あらためて別に書くことにする。

【2005年外国映画マイ・ベストテン】

1 亀も空を飛ぶ           バフマン・ゴバディ監督
2 大統領の理髪師         イム・チャンサン監督
3 ヒトラー 最期の12日間    オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督
4 海を飛ぶ夢             アレハンドロ・アメナーバル監督
5 ライフ・イズ・ミラクル       エミール・クストリッツァ監督
6 ロード・オブ・ウォー       アンドリュー・ニコル監督
7 天空の草原のナンサ      ビャンバスレン・ダバー監督
8 タッチ・オブ・スパイス      タソス・ブルメティス監督
9 キャロルの初恋         イマノル・ウリベ監督
10 ミリオンダラー・ベイビー    クリント・イーストウッド監督
次 サイドウェイ           アレクサンダー・ペイン監督
次 風の前奏曲           イッティスーントーン・ウィチャイラック監督

 シンデレラマン           ロン・ハワード監督
 ヴェラ・ドレイク           マイク・リー監督
 コープス・ブライド         ティム・バートン監督・製作
 シン・シティ             ロバート・ロドリゲス監督
 ミリオンズ              ダニー・ボイル監督
 ランド・オブ・プレンティ      ヴィム・ヴェンダース監督
 Dearフランキー            ショーナ・オーバック監督
 やさしくキスをして         ケン・ローチ監督
 旅するジーンズと16歳の夏      ケン・クワピス監督
 運命を分けたザイル         ケビン・マクドナルド監督
 ロング・エンゲージメント     ジャン・ピエール・ジュネ監督
 ビフォア・サンセット             リチャード・リンクレイター監督
 きみに読む物語           ニック・カサヴェテス監督
 ラヴェンダーの咲く庭で      チャールズ・ダンス監督
 ボーン・スプレマシー        ポール・グリーングラス監督
 マゴニア               イネケ・スミツ監督
 コーラス                クリストフ・バラティエ監督
 わが家の犬は世界一       ルー・シュエチャン監督                  

 

【2005年日本映画マイ・ベストテン】

 日本映画は10位までほとんど横一線。どれが一位でもおかしくない。とりあえず並べてみただけ。

1 メゾン・ド・ヒミコ          犬童一心監督
2 運命じゃない人                    内田けんじ監督
3 ALWAYS三丁目の夕日         山崎貴監督
4 パッチギ                            井筒和幸監督
5 村の写真集                        三原光尋監督
6 フライ、ダディ、フライ             成島出監督
7 リンダ リンダ リンダ     山下敦弘監督
8 いつか読書する日       緒方明監督
9 青空のゆくえ          長澤雅彦監督
10 カーテンコール         佐々部清監督
次 NANA             大谷健太郎監督

  空中庭園             豊田利晃監督
  亀は意外と速く泳ぐ       三木聡監督

2006年2月 5日 (日)

ヒトラー 最期の12日間

clip-lo4 2004年 ドイツ
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
原題:DER UNTERGANG
原作:ヨアヒム・フェスト著「ヒトラー ~最後の12日間」
    トラウドゥル・ユンゲ著「私はヒトラーの秘書だった」
製作、脚本:ベルント・アイヒンガー
出演:ブルーノ・ガンツ、アレクサンドラ・マリア・ララ
    コリンナ・ハルフォーフ、ユリアーネ・ケーラー
    トーマス・クレッチマン、ウルリッヒ・マテス、ハイノ・フェルヒ
    ウルリッヒ・ノエテン、クリスチャン・ベルケル
    ミハエル・メンドル、マティアス・ハービッヒ、ゲッツ・オットー

  この映画は、当然のことながら、評価が大きく分かれている。扱う人物が人物であり、自殺にいたる彼の最後の日々をリアルに描いたことが彼の人間性に光を当てることになり、そのことが彼を肯定することにつながるのかどうかにおいて意見が分かれるのである。戦犯に問われた人物などを擁護するよく使われる手は、その人物が果たした歴史的役割を一切排除し、その人物の私生活を描く方法である。家庭では優しい人物だった。他人によく気を配り・・・。こうしてその人物を肯定してしまう。いわば一般論で押し切ってしまうやり方だ。「ヒトラー 最期の12日間」はそうなっているか。結論から言うと、僕はこの映画はその手の映画ではないと思う。この映画のナレーションはヒトラーの秘書だったトラウドゥル・ユンゲである(彼女の著書が原作の一つ)。彼の最期を実際に見聞きした人物として証言しているというかたちである。その際重要なのは、ヒトラーに対する彼女の立場である。ナレーションに出てくるが、彼女は彼を妄信していた若い頃の自分を反省した上で証言している。単に若気の至りというだけではなく、真実を見ようとする意識が欠如していたことを自覚し、反省した上で語っている。――ちなみにそのきっかけは、戦後に強制収容所の被害者の中にゾフィー・ショルがいたことを知ったことである。有名な「白バラ」のゾフィー・ショルである。80年代に観た「白バラは死なず」(1982年:ミヒャエル・ヘルフォーヘン監督)が懐かしいが、偶然か今「白バラの祈り ゾフィ・ショル、最期の日々」(2005年:マルク・ローテムント監督)が公開中である。――

  したがってヒトラーは決して美化されていない。思うように戦況が進まないことに腹を立て、将軍たちの無能さにイライラを爆発させ、ありもしない援軍とその反撃に期待を寄せる、追い詰められ正常な判断力を失った人物として描かれている。記録フィルムに残っているしゃんと背筋を伸ばし激越な演説をぶっている彼の姿はもはやなく、前かがみになってよたよたと歩き、背中で左手を絶えず神経質そうにひらひらと動かしている。秘書の彼女たちには優しい言葉をかける一面もあるが、終始イライラをつのらせて怒鳴り散らしている人物として描かれている。

  もちろん、ここに描かれたヒトラー像がたとえ真実に近いものだとしても(これがどれだけ真実に近いものなのかはもはや誰にも分からない)、世界中に多大な被害をもたらした独裁者の人間性を描き出すこと自体もってのほかであるという考え方もあるだろう。しかしこれも間違いだと思う。確かにヒトラーが「エイリアン」や「宇宙戦争」のように地球外のエイリアンか何かだったら理解しやすい。しかし彼は普通の人間であり、人を愛し信頼することも出来たのである。一面ではごく普通の優しい人物が一方で歴史的な大罪を犯せるという視点さえぶれていなければ、これはヒトラーという独裁者研究として第一級の資料となりうる。過去の忌まわしい出来事として忘れ去るのではなく、普通の人間からはかけ離れた異常な殺人鬼として片付けてしまうのではなく(そう出来れば気が楽だが、もしそうだとしたらなぜあれだけ崇拝されるカリスマになれたのか説明できない)、冷静にその人物(単に人間性だけではなく彼の思想や実際の行動も含めて)を見極めることは歴史的に重要な作業である。

  もう少し実際の映画に即して具体的に見てみよう。最後近くでエヴァ・ブラウン(ユリアーネ・ケーラー)とユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)が交わす会話が出てくる。エヴァは言う。「彼、つまり夫とはもう15年よ。でも彼のこと何も分かってない。話はするのに、追ってきたら彼は変わっていた。」それを聞いてユンゲは次のように言う。「総統の内面は謎だわ。つまり、私生活ではお優しい。その一方で冷酷な言い方も。」それを受けてエヴァ。「“総統”の時ね。」ここには私人としてのヒトラーと「総統」としてのヒトラーの二面がくっきりと描き出されている。この視点が重要なのである。総統官邸の地下要塞に閉じこもったヒトラーに焦点を当ててはいるが、決して彼を超人的な英雄としても、誰に対しても優しい人物としても描いてはいない。この視点は映画全体の視点でもある。もちろんユンゲの描き方には、自己反省の上にたっているとはいえ、彼女の自己弁護も入り込んでいるだろう。しかも彼女がナレーションを引き受けているかたちなのでその自己弁護は(もしあったとして)そのまま肯定されている。しかし彼女のナレーションは最初と最後にちょっと出てくるだけである。映画の大きな枠組みを形作ってはいるが、全体としては客観描写が大半を占める。ユンゲが直接見聞きしたこと以外も描かれている。この点が重要だ。

  「ヒトラー 最期の12日間」はヒトラー個人だけではなく、その周りの高官たちや一般市民も視野に入れて描いている。一般市民は点景として描かれているだけで十分描きこまれているとは言えないが、映画の視野に入っていることは重要だ。内科医であるエルンスト=ギュンター・シェンク教授(クリスチャン・ベッケル)が見た市民の現実(SS[親衛隊]が市民を殺し、病院には負傷者がすし詰めで、医者はただ患者の手足を切るだけ等々)と少年兵ペーターの視線が差し挟まれている。年端のいかない少年や少女たちが何の疑問も抱かずに第三帝国のために戦おうとし、また惨めに死んでゆく姿には薄ら寒いものを感じる。ドイツの側から第二次世界大戦を描いたドイツ映画の名作「橋」を連想させられる。ドイツ第三帝国の崩壊を目前にしたナチス高官たちの様々な対応も重層的に描かれ、映画は重厚な群像ドラマになっている。睡眠薬で眠らせた5人のわが子に、「ナチ以外の世界で子供は育てられない」とゲッベルス夫人が一人ひとり毒の入ったカプセルを飲ませてゆくシーンには鬼気迫るものがある。あくまで毅然とした態度を崩さず、断固として実行するその姿にわれわれは戦慄する。しかも、子供を殺す一方でヒトラーには「逃げて生きながらえて」と泣いて懇願する姿に、個人崇拝の恐ろしさがよく描かれている。この個人崇拝がどのようにして作り上げられたのかは描かれないが、恐るべき実態は観客の目の前にさらされている。国民的規模で展開された集団催眠、人間性の破壊。ナチスに関して恐ろしいのはこの広がりと徹底ぶりである。多くの考えさせられる材料がここに提示されている。

  ヒトラーの思想面もかなり描き込まれている。冒頭、砲声が鳴り響く中、ミニチュア都市を前にヒトラーがそのミニチュアを製作したシュペーアに語る場面がある。「第三帝国は単なる先進国ではない。むろんデパートや工場、摩天楼も必要だ。だが何より芸術文化の宝庫として何千年も栄える今に残る古代都市、アクロポリス、大聖堂のそびえる中世都市、そういうものを築きたい。そうだ、シュペーア、それが私の夢だった。むろん今も。」ヒトラーが頭の中で思い描いた空中楼閣。これが彼の思想面の中核にあるのかどうかはこれだけの引用では分からないが、映画的にはこれがミニチュア模型である事が重要である。人のいない抽象的概念都市。その都市に住む市民の不在。彼の頭の中には市民の占める位置はほとんどなかったのではないか。映画の中の彼は一般市民など軽蔑していた。

  ある高官がソ連軍の迫るベルリンからの市民の避難を提案する。ヒトラーは聞き入れない。「戦時に市民など存在せん。」それどころか、「敵がどこへ行っても廃墟しかないように」しろと指示する。高官は説得を試みる。「国民に死ねと?電気もガスも水道も燃料もなく鉄道も運河も港も破壊したなら中世に逆戻りです。国民は生き残れません。」「戦争に負けたら国民がなんになる。無駄な心配だ。国民が生き残れるかどうかなどは。破壊し尽くせばいい。それで生き延びられねば弱者だということだ、仕方ない。」「あなたは国民の総統です。」「クズしか残るまい。最良のものたちは既に死んだ。」彼には市民など眼中にない。

  追い詰められたヒトラーの怒りはナチスの高官にまで及ぶ。ふがいない将軍たちを呪ってヒトラーは叫ぶ。「私は士官学校など出てはいないが、それでも独力で欧州を征服したぞ。裏切りども、奴らは最初から私を裏切り、だまし続けた。ドイツ国民への恐るべき裏切りだ。だが見てるがいい、その血で償う時が来る。己の血で溺れるのだ。」ここで怒りの爆wi00 発から、諦めへとトーンが変わる。「私の命令は届かない。こんな状態でもはや指揮は執れない。終わりだ。この戦争は負けだ。だが言っておく、私はベルリンを去るくらいならいっそ頭を打ち抜く。みな好きにしろ。」最後はうつむき加減で弱弱しく語る。ここでの「ドイツ国民への恐るべき裏切り」という台詞は何と空虚な響きがすることか。「国民」を連呼するが、その実彼は国民などバカにしていた。「弱者」で「クズ」にすぎない。要するに彼の演説はこういう性質のものだった。彼の言う「国民」は単なるレトリックに過ぎなかったことが分かる。

  彼はしかし信念の人だった。誤った信念の。この「誤った」という認識は重要である。ある人物を「信念の人」と描き出すことは、これまたそれがどんな信念であるかを不問に付して、その人物を肯定する手口としてよく使われるからだ。それはともかく、ヒトラーはその「誤った」信念を徹底して追及した。彼がカリスマになれたのはそのためだろう。彼はその信念を実現するために自己の内部にある「弱さ」を徹底して排除した。「弱さには死あるのみ。いわゆる人道など坊主の寝言だ。同情は最大の罪だ。弱者への同情は自然への背理だ。私はこの自然の掟に従い、同情を自らに禁じてきた。内部の敵を押さえつけ、他民族の抵抗を容赦なく粉砕してきた。それしかない。例えば、猿はどんなよそ者も徹底して排除する。猿でさえそうだ。まして人間なら当然。」

  あるいはシュペーア相手にこうも語っている。「ドイツと世界のために壮大な構想があった。だが誰も理解しない。最古の同志さえも。つくづく悔やまれる。もう遅い。公然とユダヤ人に立ち向かったことが誇りだ。ユダヤの毒からドイツの地を浄化した。死ぬのは難しくない。ほんの一瞬だ。そして後は永遠の平安。」シュペーア「国民はご容赦を。」ヒトラー「わが国民が試練に負けても私は涙など流さん。それに値しない。彼らが選んだ運命だ。自業自得だろう。」彼の信念のためには個人や他民族への同情などはむしろ排除すべき要素だった。たとえ彼自身が人を銃で撃ち殺すことはしなくても、それを冷酷に命ずることは出来た。彼は同情心を抹殺してしまっているのだから。ユンゲが疑問に思った彼の二面性はこの様な非人間的なまでに徹底した「自己管理」、「自己改造」のなせる業だったのである。常人には出来ないことだ。だからユンゲには「謎」なのである。どうしてあんな優しい人があんな冷酷なことを言えるのか。彼女には理解できない。彼女には、例えば、自殺用の毒薬を彼女たちに渡す時のヒトラーの「すまないね こんな物しかやれん」という優しい話し方が思い浮かんでしまうのだろう。しかし映画は彼女の理解の限界を超えて、この冷酷さ、この二面性を事実として提示している。彼女の視点の限界は映画そのものの限界ではない。映画は彼女自身をも相対化している。この点を理解しておくことは重要である。

  恐ろしいのは、国民に対する考え方がヒトラー以外の人々にかなり浸透していることである。モーンケ少将(アンドレ・ヘンニッケ:宮口精二似で実に印象的な俳優だ)は市民軍の投入をやめるよう大臣ゲッベルスに訴える。「市民軍は敵の餌食です。経験も装備も乏しくて。」「その不足は彼らの熱烈な勝利への執念が埋める。」「武器がなければ戦えません。犬死です。」「同情はしないね。彼らが選んだ運命だ。驚くものもいようが、われわれは国民に強制はしていない。彼らがわれわれに委ねたのだ。自業自得さ。」意識的な台詞だろうか。「同情はしない」、「自業自得」という言葉はヒトラーと同じだ。実際ゲッベルスは子供たちを殺した後、夫婦ともどもヒトラーの後を追って自殺する。他にも戦争が終わっているのに自殺する兵隊が後を絶たないことが描かれている。日本でも終戦前後に同じようなことが多発した。何が一体人々をここまで駆り立てるのか。なぜここまで人々は誤った信念を持ってしまうのか。同じ過ちを繰り返さないためにも、この点は徹底して追及される必要がある。

  映画はヒトラーの自殺直後で終わらず、第三帝国が瓦解してゆく様をしばらく映して行く。脱出したユンゲとペーター少年が手をつないでソ連兵の間を抜けてゆくシーン、それに続く少年を乗せて自転車で走ってゆくユンゲの映像にはほっとするものを感じた。悪夢の様な映像の後に差し挟まれた希望を感じさせる瞬間。暗澹たる気分で観終わるよりは良いだろう。

  基本的にこの映画を肯定してきた。ヒトラーという人物像を描くこと自体を拒否することは、歴史から目をそむけることである。僕はあえてそこまで言いたい。しかし逆の見方をすれば、ヒトラーの最期の日々を描いているために、彼が犯してきた戦争犯罪そのものやなぜどのように彼が権力を手に入れたのかなどはほとんど描かれていない。この映画の真摯さは認めながらも、その点に懸念を感じる人は多い。当然の批判だろう。だが、ヒトラーを肯定していないものであれば、このように彼の個人的な面を描いたものがあってもいいはずだ。全盛時代の彼ではなく自殺直前の彼を描いたことは、国民をひきつけるカリスマではなく打ちひしがれた負け犬の独裁者としての姿を人々の前にさらすことでもある。演壇で手を振り上げて演説する彼の姿に、このうつむき加減の最期の姿を加えることはヒトラーの全体像を捕らえる上で重要な意味を持つ。強制収容所の最高責任者であるヒムラーがほとんど出てこないのは意図的なのか、この点は疑問が残るが。

  あるいは、加害者としてではなく、被害者としてのドイツ国民を描いていることに対する批判もある。この考え方には疑問を感じる。被害者としての側面を強調することは必ずしも加害者としての側面を覆い隠すことではない。戦争の場合、純粋な加害者や被害者というものはほとんど存在しない。銃後にいて直接戦場に赴かなかった人でも、何らかの形で戦争に加担している。戦場で何人もの人を殺した兵士も、殺人マシーンに変えられてしまったという意味では(重い戦争後遺症を患うものもいる)被害者だ。勝ち負けにかかわらず、戦争は物質的・精神的に双方の側に多大な被害を及ぼしている。戦争に勝者はいない、そう考えるべきだ。少なくとも、この映画の場合、砲撃にさらされ逃げ惑い、あるいは同じドイツ人に殺されたりするドイツ国民の姿は、例えば強制収容所の蛮行を覆い隠すための隠れ蓑として、あるいは、彼らこそ真の被害者である事を強調する目的で描かれてはいない。

  もう一つ、逆に心配なのはヒトラーや第三帝国の末路に同情してしまう見方である。この映画の中のヒトラーを観て悲しくなった、切なくなったという声も一部にある。これは確かに危険である。もちろんその人たちも決してヒトラーを肯定しているわけではないが、この映画に哀れさや悲哀感を感じてしまう。この映画に問題があるとすればこの点だと僕は思う。自分の中に確固としたヒトラーに対する認識が出来上がっていなければ、悲哀感にとらわれてしまう危険性は確かにある。

  ヒトラーは「私は世界中から呪われるのだろう・・・」と言い残して死んでいった。最後にソ連映画の傑作「炎/628」のレビューを引用して終わりたい。

  主人公の少年は(この時には髪が白くなり、額には皺が深く刻まれ、くちびるは割れてふくれあがり、一日にして老人のようになっている)水溜りに落ちているヒトラーの写真を銃で撃ち続ける。撃つごとに当時のニュースフィルムが逆回転で映される。軍隊は後ろに行進し、投下された爆弾は次々に爆撃機の中に納まる。そしてニュースの中のヒトラーは少しずつ若くなり、最後は母親に抱かれた赤ん坊になる。その時少年は撃つのをやめる。何がこの赤ん坊を誤った信念に取りつかれた独裁者に変えたのか。時間を元にもどしてほしい、失われた家と人々をわれわれに返してほしい、という作者の思いが痛いほど伝わってくる。

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