最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

お気に入りブログ

« 2006年12月17日 - 2006年12月23日 | トップページ | 2006年12月31日 - 2007年1月6日 »

2006年12月24日 - 2006年12月30日

2006年12月29日 (金)

歌え!ロレッタ愛のために

1980年 アメリカ 1981年6月 Yuhi
評価:★★★★★
原題:Coal Miner's Daughter
監督:マイケル・アプテッド
製作:バーナード・シュワルツ
原案:ロレッタ・リン、ジョージ・ヴェクシー
脚本:トム・リックマン
撮影:ラルフ・ボード
音楽:オーエン・ブラッドレー
出演:シシー・スペイセク、トミー・リー・ジョーンズ、ビヴァリー・ダンジェロ
   レヴォン・ヘルム、フィリス・ボーエン

  期待をはるかに上回る傑作。最初は短評で扱うつもりだったが、あまりに素晴らしいのでやや短めのレビューに変えた。観ている間ずっとこれはいい映画だと感じ続けていた。迷わず満点を献上。シシー・スペイセクが全曲自分で歌っている。文句なしに素晴らしい。「ビヨンドtheシー」をはるかに上回る出来である。シシー・スペイセクも「リトル・ヴォイス」のジェイン・ホロックスより魅力的だ。ロレッタと夫ドゥーの、波乱を含みながらも決して切れることのなかった絆の描き方も感動的。ドゥーを演じたトミー・リー・ジョーンズはさすがに若いが、やはり存在感のあるうまい俳優だと思った。13歳から恐らく20代後半あたりまでを演じ分けたシシー・スペイセクはそれを上回る出来(13歳を演じて特に違和感を感じさせないところがいかにもシシー・スペイセクらしい)。アカデミー主演女優賞は当然過ぎるほどの結果である。最近の「スタンドアップ」でもいい演技をしていたが、主演級の作品が少ないのがさびしい。さすがに年を取ったし、美人女優ではないからだろう。出演作品で見る限り彼女の絶頂期は80年代である。しかし1949年生まれだからまだ50代半ば。これだけ才能のある女優に90年代以降十分な活躍の場を与えていないとは何たることか。不器用で突出した演技力があるわけでもない笠智衆という無骨な素材からその独特の持ち味を最大限に引き出し、自分の作品になくてはならない存在に出来たのは小津安二郎だけだったように、シシー・スペイセクの魅力と才能を最大限に引き出せたのはこの作品だけだったように思う。惜しいことだ。

  「歌え!ロレッタ愛のために」はカントリー・アンド・ウェスタンの大歌手で、シンガー・ソングライターでもあるロレッタ・リンの伝記映画である。原作はロレッタ・リンとジョージ・ベクシーによるリンの自伝。大歌手といっても日本ではカントリー・ミュージックはあまり人気がないのでなじみのない人かもしれない。ディクシー・チックスやリアン・ライムスが大好きな僕でもさすがにこの時代の曲は滅多に聞かない。しかしこの映画を観て、この時代のカントリーも悪くないと思った。

  「炭鉱夫の娘」という原題どおり、冒頭は炭鉱町とそこに住む炭鉱夫一家の様子が丁寧に描かれる。ケンタッキー州の炭鉱町ブッチャー・ホラー。ロレッタ (シシー・スペイセク)は炭抗夫の父テッド(レヴォン・ヘルム、こんな前から映画に出てたんだ!)、母クララ(フィリス・ボーエンズ)の長女。下に弟と妹が7人もいるという総勢10人の大家族。もうすぐ14歳になる13歳のロレッタは家族に愛され特に不自由も不満もなく暮らしている。しかし炭鉱以外には何もない町だ。酒の密売をしている男がドゥーに言った「ドゥー、山で生まれたら道は3つだぜ。石炭を掘るか、酒を売るか、山を下りるかだ」という言葉がそれをよく表現している。

  「五線譜のラブレター」や「ビヨンドtheシー」などと比べて特徴的なのは、ショービジネス界の華やかさよりむしろ無名の主婦歌手を売り込む段階に時間を割き、ツアーの過酷さ(ロレッタは過労で倒れ一時休業する)をしっかり描いていることである。そして何より感銘深いのは、彼女が6人もの子供を抱える主婦であり炭鉱夫の娘であることを終始意識させていることである。舞台で歌っているシシー・スペイセクはもちろん素晴らしい。しかしこの映画は終始一貫彼女を華やかなスターとして描かなかった。これは賞賛に値する。この映画がドラマとして優れているのはそのためだ。

  ロレッタはドゥーことドゥーリトル(トミー・リー・ジョーンズ)の性急さもあって13歳で結婚する。なにしろドゥーはいきなりロレッタの家に乗り込み、初めて正式に挨拶するロレッタの両親に向って明日ロレッタと結婚させてくれと頼み込むのだ。母親に聞くと「夫に聞いて」と言われ、父親に聞くと「妻に聞いてくれ」と言われ、何度もたらいまわしにされる。このあたりはドゥーの性格Wedd001 がよく出ていて面白い。しかし結婚はしたものの料理は下手、セックスを怖がる(13歳だから無理もない)ですぐ夫婦仲は悪くなる。ドゥーは一人ワシントン州の牧場で働きに行くことになり、妊娠していたロレッタは後から行くことになる。ロレッタがワシントン州へ向う時の、父と駅で抱き合う場面がいい。「いつの間にか大きくなった。昔のお前はもういない。」「次に会うときは母親だな。」列車での別れはお決まりのパターンだが、無口で純朴な父親の優しさと寂しさが伝わってきて実に感動的だ。父親は死に際に娘や孫たちに会うことはなかった(はっきり描かれていないが、ひょっとしたら一度もその後会っていなかったのかも知れない)。結婚を許可した時の言葉、「2つだけ約束しろ。決して殴らず、遠いところへは連れてくな」をこのシーンに重ねてみると、死ぬ前に「娘と会いたかった」と何度も漏らしていたという父のさびしい気持ちが痛いほど伝わってくる。

  駅のすぐ次の場面がまたうまい。いきなり数年時間が飛んでいて、料理をしているロレッタの横に子供がいる。さらにキャメラがパンするとまた子供がいる。こんな風に子供が一人ずつ画面に映り、結局4人もいることが分かる(ロレッタはまだ18歳)。おいおいこんなにいるのかとびっくりさせる演出がうまい。大家族の家系なのだ(この後さらに双子を産んでいる!!)。

  炭鉱関連のエピソードとして、もう一つ駅の場面で印象的なシーンがある。汽車を待っている間身重のロレッタは体重計に乗って体重を計る。その後父にも乗れというが、父は「ムダだよ、どこまでが私でどこまでが石炭粉か分からん」と答える。「フラガール」で引用した『ジェルミナール』の一節を連想させられる。炭鉱の仕事は人体を蝕む。父親は常々頭痛がすると言っていた。炭鉱夫の娘を意識させる場面は他にもある。妻が華々しく活躍する陰で荒れて酒びたりになった夫ドゥーのせりふ、「頭が痛いだろ?お父さんの頭痛の原因は石炭粉だった。君には俺だな。」そしてラストシーン、復帰後の舞台で歌う歌。そのタイトルは「炭鉱夫の娘」だった。

 素晴らしいのはシシー・スペイセクばかりではない。夫役のトミー・リー・ジョーンズの存在が大きい。この2人は浮気をしたりけんかをしたりしながらも最後まで互いを支えあった、そういう描き方が素晴らしい。ドゥーの破天荒な性格を彼はよく演じている。例えば最初に彼が登場する場面。軍を除隊したばかりのドゥーがジープでボタ山のような丘の急な坂を登りきれるかどうか賭けをして、見事に勝ってしまうのだ。周りの連中は「クレイジーだ」とあきれている。ロレッタはそれまで会ったことのないタイプのドゥーに惹かれてしまう。

 普通の主婦がカントリー歌手になるきっかけもいい。誕生日のプレゼントにドゥーがギターを買ってくるのだ。「なぜギターなの?」「君の歌が好きだから。」実にシンプルでいいせりふだ。その後の売込みがすごい。2人で車に乗って次々にラジオ放送局に直接乗り込んで売り込む。このあたりの無鉄砲さが笑いを生んでいいリズムを作っている。音楽業界のことをよく知っているような口を利きながら、デモ版として作ったI'm a Honky-Tonk Girlがいきなりチャートの14位に入ったと言われてドゥーはぽかんとしている。チャートのことを知らなかったのだ。抜かりがないようでいて案外すっとぼけたところがある、そんな描き方が可笑しい。

 売れ始めてからは順風満帆な展開。あまりに順調なので憧れのグランド・オプリで歌うことになったときにロレッタが緊張してしまう。「恐いわ、下積みの苦労をしていないから」と漏らすロレッタにドゥーが言ったのは一言「後でしろ」。この大舞台を乗り切るともう恐いものはない。ついには当時一番人気のパッツィ・クライン(ビバリー・ダンジェロ)と知り合い、ジョイントでツアーに出るまでになる。しかし妻が売れて行けば行くほどマネージャー役のドゥーの存在感が薄れ、彼は酒におぼれて荒れてゆく。しかし彼は自分で立ち直った。上に引用した「俺はお前の頭痛の種だ」というせりふの後に、ドゥーはロレッタに結婚以来彼女の夢だった指輪を贈った。

 崩れそうで崩れない2人の関係。父が死んで落ち込むロレッタを支えたのも、ツアーの過密スケジュールと緊張で倒れた彼女を支えたのもドゥーだった。喧嘩もするけどすぐ仲直り。ラストでドゥーがロレッタを車に乗せて景色のいい丘の上に連れてゆく。そこに新しい家を建てようとドゥーが提案する。すでにヒモで仕切って部屋割りも出来ている。ロレッタは怒り出す。「何でも自分ひとりで勝手に決めないでよ。」こんな山の中に家を建てるなんて冗談じゃないと怒っているのかと思ったら、「寝室がこっち向きでは朝日がまぶしいじゃないの」とのご指摘。尚もああだこうだと言いながら車に戻ってゆく。そんな夫婦なのだ。

[追記]
 ロレッタ・リン(ロレッタは女優のロレッタ・ヤングから取った名前)の最盛期は60年代。70年代に活躍したタニヤ・タッカーやドリー・パートンのひとつ前の世代である。炭鉱夫の娘という出自も関係していると思うが、彼女は60年代のウーマン・リブ運動のシンボルでもあった。カントリーという地味なジャンルではあるが、当時のカリスマ女性ヴォーカリストであったジャニス・ジョプリンや「ジェファーソン・エアプレイン」のグレース・スリックとはまた違った意味で影響力を持っていた。歌手としてはパッツィ・クラインの方が上だったかもしれないが、作詞作曲の能力を持っていた点がロレッタの強みである。

2006年12月28日 (木)

胡同のひまわり

2005年 中国 2006年7月公開 Ataiwan075
評価:★★★★★
原題:向日葵
監督、脚本:チャン・ヤン
脚本:ツァイ・シャンチュン、フォ・シン
撮影:ジョン・リン
音楽:リン・ハイ
出演:スン・ハイイン、ジョアン・チェン、リウ・ツーフォン
    チャン・ファン、ガオ・グー、ワン・ハイディ、チャン・ユエ
    リャン・ジン、リー・ビン

  こういう中国映画が観たかった。「上海家族」(2002、ポン・シャオレン監督)、「こころの湯」(1999、チャン・ヤン監督)、「山の郵便配達」(1999、フォ・ジェンチイ監督)、「スパイシー・ラブスープ」(1998、チャン・ヤン監督)、「活きる」(1994、チャン・イーモウ監督)、「女人、四十」(1995、アン・ホイ監督)、「青い凧」(1993、ティエン・チュアンチュアン監督)、「心の香り」(1992、スン・チョウ監督)、「芙蓉鎮」(1987、シェ・チン監督)。庶民の苦しみ、哀しみ、温かさ、ささやかな幸せ、親子や夫婦や家族の絆と情。こういったテーマを扱って、中国映画は数々の傑作を生み出してきた。ここにもう一つの傑作が加わったことを素直に喜びたい。

  「胡同のひまわり」にはいくつも主題がある。親子の絆、庶民同士の付き合い、文革の傷痕、30年の時間の移り変わり。主人公もシャンヤン(向陽)とその父の2人いる。恐らくそのどちらの立場にたって映画を観るかで印象が大きく異なるのではないか。子供の立場から観ればほとんど耐え難い映画である。遊びたい盛りに遊ぶこと禁じられ、得意ではあるが決して好きではない絵を描くことを強要される。妥協のない父親には(特に同じような経験を持っている人なら)憎しみすら感じるだろう。しかし父親にそってみれば、なぜあそこまで妥協なく厳しくするのか疑問を感じながらも、どういうわけか最後まで引き付けられて観てしまう。つまり、最終的な主人公は父親であって、映画も息子から父親へと視点を変えて描かれているのである。息子は厳しいだけの父親に反発しつつも、彼を見つめながら成長してゆく存在として描かれている。

  なぜ父親はシャンヤンに対してあのように厳しく接したのだろうか。この映画を観ることはこの疑問を解いてゆくことでもある。映画の冒頭、一組の夫婦に赤ん坊が生まれる。夫婦は向日葵のように太陽に向かって生長してほしいという願いを込めて息子に向陽(シャンヤン)という名前を付けた。こうして67年に張向陽は生まれた。映画はすぐそのあと76年に飛ぶ。9歳になったシャンヤン(チャン・ファン)は元気一杯遊びまわっている。余談だが、子供の遊びの中に僕が小学生の頃やったのと全く同じ遊びが出てきてびっくりした。確か僕の田舎では「馬乗り」遊びといっていたと思うが、一人が壁際に立ち、別の子がその立っている子の股に首を突っ込むようにしてかがむ。その後ろにまた別の子が前の子の股の間に頭を入れてかがむ。こうして何人かで「馬」を作り、また別の子が走ってきて跳び箱のように「馬」に飛び乗ってまたがる。上に乗った子たちが体をゆすり、「馬」が崩れたら「馬」の負け。確かそんな遊びだったと思う。映画の中と全く同じだ。あれは中国から来た遊びなのか?あるいはその逆?いずれにしても、何十年かぶりに思い出してとても懐かしかった。

  思い出に浸るのはこれくらいにしておこう。シャンヤンは友達と2人で屋根に上り、パチンコで小石を人に向けて飛ばすいたずらをしている。怒った女の子たちが立ち去った後、知らない大人が通りかかる。もう一度シャンヤンが小石を飛ばすとその男の人の額に当たった。男の人が怒ってこぶしを振り上げると、二人は屋根を降りて逃げる。しかし今度は石をぶつけられた女の子に告げ口されて、シャンヤンは母親(ジョアン・チェン)に追いかけられることになる。狭い通路(胡同)を走り回る母と子。映画はそのようにして映画のもう一つの「主人公」である胡同と四合院を紹介してゆく。

  その時はまだ知らなかったが、シャンヤンが石をぶつけた見知らぬ大人の人は、文革で下方され6年ぶりに帰ってきたシャンヤンの父親だった。6年ぶりということはシャンヤンがまだ3歳の頃に父親がいなくなったことになる。当然父親の記憶はない。シャンヤンの母は夫の突然の帰還を喜ぶが、シャンヤンにすれば突然現われた「知らないおじさん」を父親と呼ばされることになる。

  この出会いがそもそも不幸だった。父親(スン・ハイイン)になじめないシャンヤンの気持ちも理解できる。しかしシャンヤンに絵の才能があると見抜いた父はその日から一切の遊びを禁じ、絵の勉強をシャンヤンに強いる。父親も画家だったが、強制労働の最中に利き腕の親指を折られて絵が描けなくなっていた。自分の夢を息子に投影した父親は厳しく絵を仕込む。その厳しさは異常なほどだ。毎日毎日ひたすら絵を描かせる。時々トイレに行くと言って脱走していたことに気づくと、トイレにも行かせない。ついにシャンヤンはパンツに大便をもらしてしまう。たらいで自分のパンツを洗えという父の命令をシャンヤンは拒否する。木の枝で尻をたたかれたシャンヤンは泣き叫ぶ。「嫌いだ、何で戻ったの?」「嫌うがいい。」

  シャンヤンの不満はつのる。友だちから映画に誘われても絵を描き終らないと行けない。父親が寝込んだ隙に脱走するが、映画は丁度終わるところだった。自分も手が使えなくなれば絵を描かなくて済むと思ってミシンの針で指を傷つけようとしたり、四人組打倒のデモ行進のときにたまたま足元に飛んできた爆竹の不発弾を爆発するまで握っていたりする。その思いつめた行動が何とも哀れで不憫だ(爆竹の時は皮肉にも級友を守ったとして表彰されることになるが)。

  時代が87年に変わり、シャンヤンが20歳になっても父親の「過剰干渉」は続く。シャンHimawari ヤン(ガオ・グー)は、スケート場で年賀状を売ってアルバイトしている時に赤いマフラーを巻いたスケートのうまい女の子(チャン・ユエ)に見とれる。2人は恋人同士になり、シャンヤンの友だちと共に広州へ行こうとするが、直前に父親によって汽車から引き摺り下ろされてしまう。その女の子が妊娠して戻ってきた時には、父親が駅で出迎えて勝手に子供を堕ろさせてしまう。ほとんど暴君のごとき父親の強引なやり方に親子関係は冷え切っている。このあたりまでは観客の共感は当然ながら息子に向けられる。

 なぜそこまでするのか?寡黙な父親はほとんど語らないが、一度だけ心情を息子に語りかけたことがある。「恨んでるだろ。私の息子だから厳しくする。理解できんだろう。しかし、いつか分かるはずだ。私も幼くして絵を始めたが時代が悪かった。私の人生はそうだが、お前は違う。私より才能がある。それに時代も違う。お前はきっと成功する。チャンスは少ない。私の分までお前には頑張ってもらいたい。」息子は神妙に聞いているが当然完全には納得していない。

  これだけひどい行為を描きながら観客は父親を憎みきるところまでは行かない。それは息子も同じで父親とはつかず離れずの関係を保っている。なぜなら、親子の関係が完全には断ち切れていないからだ。父親の理不尽とも思える行為の合間に親子愛を感じさせるシーンがちりばめられている。一つは地震が起きた時のシーン(シャンヤンが9歳の時)。父親に尻をたたかれてふてくされたシャンヤンは屋根に上って隠れている。その時マグニチュード7.5の地震が起きた。家が崩れそうになる。下にいた父親が俺に向って飛び降りろと叫び、飛び降りたシャンヤンを父はしっかりと受け止めた。もう一つは2人で仲良く川で洗濯している時のシーン(同じく9歳の時)。洗濯物が風に飛ばされて川に堕ちて流されるのに気づいた父が川を下って拾いに行く。目が覚めたシャンヤンは父がいないので「父さん」と呼ぶ。初めて「父さん」と呼んだのだ。それを木陰でうれしそうに聞いている父の顔。印象的なシーンである。

  もう一つ、シャンヤンが20歳の時にも印象的なシーンがある。恋人が勝手に堕胎させられたと知ったシャンヤンは父親に親子の縁を切ると宣言して家を飛び出す。スケート場になっていた凍った池の上で、逃げる息子と追う父のレースが始まる。その時半分融けていた池に父親が落ちてしまう。助けるか見殺しにするか、息子は身をよじって煩悶する。結局彼は手を差し伸べた。親子の縁はどうしても断ち切れない。父親の思いと息子の思い。互いにすれ違いながらも接点だけはなくならない。この描き方が父親から観客の関心を引き離さないのだ(父親が息子に送ったパラパラ絵〔ノートをパラパラめくると絵が動いているように見えるやつ〕の使い方も効果的だ)。

  これまでかなり詳しく具体的に内容を書いてきた。なぜなら、これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか、この映画を深く理解するにはそれを解き明かさなければならないと思うからである。上にその理由の一つを書いたが、さらには恐らくこのあとの第3部、シャンヤンが32歳になった1999年のエピソードが与える印象が大きいと思われる。ラストで流れる父親の残したテープは感動的で、そのため観終わった後の印象を大きく支配してしまう。残されたテープの声というのは実に効果的で、チャン・イーモウ監督の「至福のとき」やイザベル・コヘット監督の「死ぬまでにしたい10のこと」でも使われていた。

  第3部に入る前に少し角度を変えて別の面を見ておこう。シャンヤンが20歳の第2部の最後の頃からアパートの問題が出てくる。シャンヤンの母が何としてもアパートに入居できるくじに当たりたいと必死になる。このあたりから夫婦の間にも軋みが目立ち始める。胡同にこだわる夫と新しい便利な生活にあこがれる妻。この対比の中からも父親像が浮かび上がってくる。付け届けをするなど、どんな手を使ってでもアパートに入りたいという妻に対して、夫はただおとなしく順番を待つだけ。かつての友人ラオ(リュウ・ツー・フォン)が見かねて当選して得た自分の権利を譲ろうと申し出ても断ってしまう。実直で不正を嫌う父親の性格がわかる。第3部はこの夫婦が離婚届を出しているところから始まる。実はアパートに入居しやすくするための偽装離婚だった。妻の提案だろう。夫は胡同に住み続ける。彼はどうしても胡同から離れがたかったのだ。

  99年になると北京の町には近代的な高層ビルが立ち並んでいる。32歳になった息子のシャンヤン(ワン・ハイディ)も今や車に乗っている(父親はずっと自転車だ)。消え行く胡同とどんどん存在が小さくなってゆく父親。この二つがパラレルな関係として描かれてゆく。昔のように息子を怒鳴ってはいるが、もう息子は独り立ちして父親の指示には従わない。父親にはどこか憂愁と寂寥感が漂い始めている。この第3部に入るあたりから観客の気持ちは一気に父親に向う。打ち壊され廃墟になった昔の家に独りたたずむ父親の姿が何度も映される。一方、妻は運動をして生活を楽しんでいる。同じ世代だがなぜこれほど夫婦の間に違いがあるのか。性別や性格の違いもあるだろう。しかしやはり文革時代に6年間も下放させられた夫の苦い経験がここで大きな違いとなって表れてきていると考えるべきだろう。

  父親の孤独感をもっとも感じさせるエピソードは友人だったリウの死である。実は父親が下放させられた原因はリウにあった。わざと売ったのではないが、結果としてそうなってしまった。それが分かってからリウとは一度も声を掛け合っていない。しかし憎みあっていたわけではない。互いに口こそきかないが、2人は同じ将棋版で将棋を交互に指していたのである。しかしある日リウを訪ねると彼はソファの上で死んでいた。友の遺体を前にしたシャンヤンの父の言葉が胸に沁みる。「いいかね、あと1手であんたは負けていた。こうなると知ってれば、詰まない手を指したのに。今となっては私は一人ぼっちだ。誰も将棋を指してくれない。友よ、お互いに苦しんだな。私が仲直りのきっかけを作らせなかった。できれば”待った”をしたい。」片手で顔を覆って泣く姿には、かつて息子にむごいとも思える仕打ちを強いていた暴君の勢いはない。がくんと落とした肩に寂しさがにじんでいる。こうして消え行く胡同のように、かつてあった近所同士の付き合いも絶えて行く。

  第3部では新しい問題が描かれる。子供の出産である。シャンヤンには既に妻(リャン・Honobono2sジン)がいた。両親は早く孫が見たいとせっつくが、シャンヤンまだ早いと断り続ける。何が彼を思いとどまらせているのか。妻がシャンヤンに問う。「なぜ子供を欲しくないの?」「話し合っただろう。今は時期じゃない。」「お義父さんへの意地に思える。反抗に利用している気がして。」「そうかもしれない。父の言うことに体が拒否する。」シャンヤンは妻に頼まれて、まだ産みたくないと父を説得に行く。「もしかして僕たちは親の器じゃないのかもしれない。僕がこだわっているのはいい父親になること。その自信がつくまで子供は作れない。」

  この映画は「エデンの東」や「父 パードレ・パドローネ」のように父親と息子の葛藤を描いてきた。しかし最後まで観てきてそこには「父になること」とはどういうことなのか、「父親とはどういう存在なのか」という隠れたテーマがあることが分かる。シャンヤンになかったのは自信ではない。自分の父親に対する理解である。父親を理解して初めてシャンヤンは自分も父親になれたのである。父親を理解できたのは彼の個展を父親が見に来た時だ。父親は息子の絵を見てその紛れもない才能の開花に確信を持った。その時初めて父は息子と握手する。息子の絵はすべて家族写真を基にしたものだった。このとき初めて家族が一つになったのである。

  最後にもう一度先ほどの課題を取り上げよう。これほどわがままで意固地な父親にどうしてわれわれは共感してしまうのか。少なくとも第3部の前半までは父親に共感できない。どう見ても立派な父親とは思えない。それでも強い反感を持たずに最後まで彼の生き方をわれわれは追ってゆく。これに対する答えはこれまでにいくつか述べた。しかしそれが全てではない。まず前提として彼が文革で得た心の傷がある。文革で踏みにじられ、無理やり絶たれた自分の夢。息子には自分より優れた絵の才能がある。息子には何としても自分のような思いはさせたくない。そういう気持ちは理解できなくもない。

  だが、これだけでもない。シャンヤンになかったのは自信ではないと上で書いた。子供が生まれる前から親としての自信を持っている親などどこにいよう。子供の年齢と親の年齢は同じである。子供が産まれてはじめて人は親になるのだ。子供が6歳になった時、親も親としての経験を6年間積んだのである。親として子供と接し、子供の変化を見つめ続けて初めて親としても成長できる。だがシャンヤンの父にはこの6年間がなかった。本来同じであるはずの親子の年齢が6歳ずれていたのである。失われた6年間。文革が彼から奪ったのは画家の命である指だけではない。それは彼が親として成長するための貴重な6年間をも奪い去ったのだ。このことが持つ重い意味を考えに入れなければならない。親の気持ちは親になってみないとわからないとよく言われる。ましてや親であることを突然止められた親の気持ちは、本当にその当人でなければ分からないだろう。6年たとうが10年たとうが子供への愛情は消え去りはしない。しかし6年間の空白は子供と接する方法を彼から奪った。父親としてではなく「知らないおじさん」としてやり直さなければならなかった。「幼い頃から父の愛情を感じなかったろう。それが私には負い目だった。だから私は家に戻った時こう誓った。お前のために生きようと。世界で一番愛しているは父だと分かってほしくて。だがやり方が分かっていなかった。努力すればいいとだけ思い、間違っているとは少しも思わなかった。お前の言うとおり私は父親不合格だ。」テープに残された父の言葉は苦渋に満ちている。それは彼の奥底から絞り出した心の叫びだった。

  だが、これだけでもまだ説明として不十分だ。これらは後からつけた理屈である。父親への共感を支えた一番の力はまた別にある。この映画を基本的に支えているもの、それはスン・ハイイン演じる父親の佇まいとその存在感だ。どんなに子供をいじめても苦しめても、何かそこに深い理由があるのだと思わせてしまう。あの深みがあり、厳しくもあるが柔和でもある風貌。頑固で考えを曲げないが、ただ意固地で不愉快な存在ではない。棒で尻をたたいて折檻することはあっても、決して暴力は振るわない。どんなに厳しくてもどこか包み込むような温かさを失わない。そんな父親の姿がこの親子の葛藤を最後まで見届けさせるのである。あの寡黙さが逆に多くを「語って」いる。スン・ハイインという類まれな存在感を持った俳優がこの映画を土台で支えているといっても過言ではない。

  「知らないおじさん」としてやり直してから絆が再び結ばれるまで23年かかった。その間に風景や街並みが変わっただけではない。価値観も大きく変わっていったのである。変化についてゆける世代と変化に取り残されてゆく世代。親子の間にもともとあった世代間のギャップが社会の変化によってさらに増幅されてゆく。親子の絆は何とか取り戻せたが、父親は去ってゆく。時代の変化は胡同を消していった。枯れ木が朽ちる ようにしてではなく、枯れる前に切り倒されるようにして消えてゆく胡同。胡同が消えれば人間の付き合いも消える。胡同が消えた時、古い世代の父親も消えてゆく。父親は切り倒される前に新たな自分の人生を始めようと思い立ったのだろう。

  「胡同のひまわり」は、映画の最初と最後に出てくる出産場面のように、古い社会が消え新しい社会が生まれる様を一つの家族の変遷と並行させて描いている。最後に長々と映される老人たち。文革時代を生き抜いてきた人たちだ。シャンヤンの父親はきっとどこかでこういった老人たちに混じって生きているのだろう。彼らの一人ひとりにそれぞれのドラマがある。映画が生まれて百年余。それでも物語は尽きない。一人ひとりに物語があるからだ。

2006年12月26日 (火)

グッドナイト&グッドラック

2005年 アメリカ 2006年4月公開
評価:★★★★☆
監督:ジョージ・クルーニー
脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
撮影:ロバート・エルスウィット
出演:ジョージ・クルーニー 、デヴィッド・ストラザーン 、フランク・ランジェラ
    ロバート・ダウニー・jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ
    ジェフ・ダニエルズ、テイト・ドノヴァン、トム・マッカーシー、 マット・ロス
    リード・ダイアモンド、ロバート・ジョン・バーク グラント・ヘスロヴ
   アレックス・ボースタイン、グレン・モーシャワー、 ダイアン・リーヴス

  「私のアメリカの友人たちは憲法によって守られていた。ただ、その憲法が守られていなかった。」こう言ったのは確かブレヒトだ。もうだいぶ前に何かで読んだ不確かな記憶だが、赤狩りから逃れてアメリカを離れようとしていたベルトルト・ブレヒトが乗船前の最後のインタビューで残した言葉だったと思う。

  上の言葉は「マッカーシズム」(赤狩り)の本質を言い当てている。あやふやかつ一方的な根拠で共産主義者またはそのシンパとレッテルを張られた人物を強制的に召還して、「あCyoudai3_ なたは共産主義者か、あるいは、かつてそうであったか?」と質問攻めにする。どんなに否定してもしつこく「自白」を迫られる。自分が助かるためには誰か別の疑わしい人物の名を挙げなければならないという卑劣なやり方。何人もの人たちがこれによって職場を追われた。完全な人権無視、憲法違反である。アメリカが国是としてきた民主主義そのものの否定である。アメリカ合衆国憲法の修正第一条では信教、言論、出版、集会などの自由が規定されており(喚問された者の多くはこの修正第一条を盾にとって反論もしくは黙秘した)、修正第十四条では「いかなる州も、正当な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。またその管轄内にある何人に対しても法律の平等な保護を拒んではならない」と明記されている。マッカーシズムは東西冷戦が生み出したものである。当時東側も重大な人権侵害を行っていた。冷戦は東も西も不幸な状況を生み出していた。対立は悪循環を生むだけだ。

  40年代末から50年代にかけて猛威を振るったマッカーシズムは反共ヒステリーといわれる状態になり、リベラルを含む反体制の人々を追放するところまで広がってゆく。当然その波はハリウッドにも及んだ。有名な「ハリウッドテン」をはじめ、何人もの映画関係者が呼び出され職を失った。日本で一番知られているのは「ジョニーは戦場へ行った」(1971)を監督したダルトン・トランボだろう。追放時代彼は変名で脚本を書き、「ローマの休日」と「黒い牡牛」(1956)でアカデミー原案賞を変名のまま受賞していたのは有名な事実である。

  「黒い牡牛」は30年ほど前「日曜洋画劇場」で放送されたが、淀長さんはその辺の事情をきちんと説明していたと思う。傑作というほどの出来ではないが、感動的なラストには彼らしいヒューマンな姿勢が表れている(可愛がって育ててきた牛が闘牛場に引き出されるという、山本嘉次郎監督の「馬」を思わせるストーリー〔こちらは軍馬に取られる〕の映画だが、実は闘牛場の牛が生き延びるたった一つの条件があったのである)。査問に引き出されたのは脚本家が多い。「陽のあたる場所」、「地の塩」、「友情ある説得」、「戦場にかける橋」、「アラビアのロレンス」、「いそしぎ」、「ゲバラ!」そして「猿の惑星」の脚本家マイケル・ウィルソン、あるいは「風の遺産」の脚本家ネドリック・ヤングについて「風の遺産」のレビューで簡単に触れているので、そちらも参照していただきたい。「風の遺産」は日本未公開だが紛れもない傑作(05年にDVDが出た)。高校で進化論を教えたために裁判に訴えられたという、アメリカの歴史上有名な「スコープス裁判」を正面から描いた重厚な裁判劇である。もちろん脚本家ばかりではない。例えばチャールズ・チャップリンやジョセフ・ロージーはアメリカを離れヨーロッパに渡っている。

  50年代のハリウッドを席巻したマッカーシズムを主題にした映画は「グッドナイト&グッドラック」以外にいくつかある。シドニー・ポラック監督の「追憶」(1973)、アーウィン・ウィンクラー監督の「真実の瞬間」(1991)、フランク・ダボラン監督の「マジェスティック」(2001)。しかし何といっても最高傑作はマーチン・リット監督、ウディ・アレン主演の「ザ・フロント」(1976)。こちらも日本未公開だが堂々たる傑作である。ダルトン・トランボのように赤狩りで追われて本名が出せない脚本家に名前をかした男(「表向きの存在」、これがタイトルの意味)の話だ。近いうちにこれもレビューを書きたいが、12月は中国映画強化月間なので来年になりそうだ。

  さて、「グッドナイト&グッドラック」のような作品が作られると必ず出てくる意見がある。To 非道なマッカーシズムに対する反論としては分かるが、公正なジャーナリズムという道からはそれるのではないか。つまりこれもまた偏った見方を放送で押し付けているというわけだ。しかし「公正な報道」とは一体どんなものか。結局当たり障りのないことを言うだけだろう。日本人は自分の意見を持つ教育を受けてこなかった。ただ暗記する、覚えることだけを教えられてきた。自分の意見を持たないから、様々な考えや意見の価値判断が出来ない。したがって判断は他人に任せてしまう。政治家やテレビのキャスターや解説者の言うことを鵜呑みにしてしまう。「公正な報道」が実際に意味しているのは、はっきり言えば、批判をしないということである。だから何度選挙をやっても自民党が勝つわけだ。そういう仕組みが出来上がっている。批判をしたり、あるいは単に意見を言っただけで、偏っている、公正ではないとみなされてしまう。日本とはそういう不思議な論理(非論理)がまかり通っている奇妙な国である。体制側の人間にとって暗記力だけが発達した人間は少しも怖くない。自分の頭で考え、自分の意見を持ち、偉い人のいうことを鵜呑みにしない人間こそ脅威である。支配者にとって日本は理想的な国なのだ。

  当たり障りのないことを言うだけの報道番組では意味がない。それぞれに意見を出し合ってこそ面白い。誰が言うことが正しいのか、視聴者は判断すればいい。報道とは本来そうあるべきだ、僕はそう思う。事実は特定可能だが、真実は相対的だ。立場や利害関係や考え方によって違った「真実」がある。まるで天気予報のように、「公正な事実」のみを報道する、あるいは政府の見解ばかり報道する番組は面白くもなんともないばかりでなく危険である。報道機関が沈黙した時、恐怖政治がまかり通る。

  マッカーシズムの時代はまさに報道機関が沈黙を余儀なくされ、恐怖政治がまかり通っていた時代である。しかしそんな時代に真っ向からマッカーシーに対抗したテレビ番組があった。エドワード・R・マローをキャスターとしたCBSの報道番組「シー・イット・ナウ」。「グッドナイト&グッドラック」は、空軍中尉ラドゥロヴィッチが赤狩りで除隊処分の危機にあるという新聞記事を番組で取り上げたことをきっかけに、半年にわたって権力と真っ向から対決した人々を描いている。

  これほど「言葉」の重みが全面に出ている映画は少ない。論争自体が主題であり主役である。冒頭、1958年10月25日に開かれた「エドワード・R・マローを讃える会」でエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)が演説する。彼が語ったのはテレビ報道のあり方に対する警告である。「テレビは人を欺き、笑わせ、現実を隠している。」この言葉が映画全体の狙いを示している。ジョージ・クルーニーがほぼ50年もたってからあえてマッカーシズムを題材にした意味はもう明らかだろう。イラク侵略後のほとんど報道管制といってもいいような状態が念頭にあることは間違いない。今日的な問題であることを意識して観なければならない映画である。エド・マローは言論弾圧に言論で立ち向かったのである。

  マローのマッカーシー批判の基本的論点を一番明確に示しているのは次の言葉である。「”反対”と”忠誠の欠如”とは違い、”疑い”は”事実”とは限らない。有罪を決めるのは証拠と適法手続きです。互いを恐れず恐怖で理性を曇らさず、この国の歴史を振り返って祖先の勇気を思い出しましょう。彼らは何も恐れず書き、そして語った。少数派の意見を守ったのです。・・・(中略)・・・伝統と歴史を捨てるなら結果に責任を持つべきです。自由世界の旗手を名乗り外国を説き回るのはいいが、自国の自由なくして他国の自由は守れません。」

  「反米活動」容疑で証人喚問された人々に対する告発は、きちんとした証拠に基づいた適法な手続きを経てなされたものではないと彼は批判しているのである。つまりちゃんと証拠が挙がっていれば構わないと言っていることになる。国に対する「忠誠」という表現に注目しなければならない。彼は何度も自分は愛国者だと言っている。疑わしいとされた人物がはっきりと共産主義者またはそのシンパだという証拠が挙がれば、その人物は職も名誉も失っていいと言っている。これは明らかに不徹底である。合衆国憲法の規定は(明らかに破壊活動にかかわったのでなければ)主義主張にかかわりなく適用されるはずだ。エド・マローの言葉が彼の本心だったのか、そう言わざるを得なかったのかは分からない。いずれにしてもそれが当時放送できるぎりぎりの線だっただろう。

  「愛国者」という言葉は日本においては今日的問題である。これは為政者にとっては便利な言葉である。愛国者であるかないか、中間項のない二者択一、愛国者でなければ反逆者ということになる。「反逆者」というレッテル、権力者にとって邪魔な存在を追放するにはもってこいの言葉だ。すべての国民に国家への「忠誠」を強制した時代。まさに戦前・戦中の日本と同じだ。マローは、自分は愛国者であるという最低限ぎりぎりの立脚点に立ってマッカーシーの欺瞞を追及した。

  上に述べたように、マローは「根拠薄弱」という論点で反論してゆく。マローはマッカーシーにも反論の機会を与えるが、マッカーシーの反論は、マローは「市民自由連合」という反米組織と関係があるなどといつものレッテル張りに終始する。彼の根拠は「軍部からの情報」や「FBIからの情報」などばかり。マローはこれに次のように反論する。「(マッカーシーは)“市民自由連合は破壊活動団体だ”と二回言った。その発言に何の根拠もない。この団体は2人の大統領(トルーマンとアイゼンハワー)や軍高官から公式に表彰されている。」安易なレッテル張りに事実を積み上げて反論して行くマロー。常に冷静沈着。常に顔の片側をカメラに向けて斜に構えて語りかける。本番でもタバコをくわえながら出演している。

  論戦を中心にすえた「グッドナイト&グッドラック」のもう一つの見所は、当時のテレビスタジオの雰囲気を忠実に再現しているところである。あえて全編白黒の画面にした意図はそこにある。あわただしく立ち回るスタッフ、放送に間に合わせるためのぎりぎりの作業、緊張した雰囲気、もうもうとタバコの煙が立ち込める室内。時々差し挟まれるスポンサーのタバコ会社やアルミニウム会社の宣伝(当時のものを使っているのでその雰囲気がよく伝わってくる)。しかし緊張ばかりでは疲れる。放送が終わった後ふうっとため息をつくようにうつむくマローの姿、何の脈絡もないがところどころ効果的に差し挟まれるダイアン・リーヴス(彼女の動く映像は初めて観た!)がジャズを歌う場面。緊張と弛緩の演出が効果的だ。

  しかし、現場のリアルな再現はスタッフたちを覆っていた「恐怖感」を描きこんで初めて完結する。マッカーシズムの脅威は否応なくスタジオにも入り込んでいる。冒頭で秘密に職場内結婚をしている(当時CBS内では職場内結婚は禁じられていた)ジョー(ロバート・ダKaidan_1 ウニー・Jr)とシャリー(パトリシア・クラークソン)の会話が出てくる。自分は共産主義者やそのシンパではないと誓約する契約書にサインするかどうかもめているのだ。ジョーはしきりに「マローもサインした」と話す。シャーリーは「クビになれば本当のことが言えるわ」と言い捨てて立ち去る。直接的な脅しもある。空軍中尉ラドゥロヴィッチが除隊処分されようとしていることを取り上げたために、二人の空軍将校がマローとプロデューサーのフレンドリー(ジョージ・クルーニー)に面会に来る。その一人がいった言葉。「君らの行く手は危険水域だ。」忠告というよりは脅し。そして追い詰められたマローの友人ホレンベック(レイ・ワイズ)の自殺。

  マロー自身も彼らを覆う恐怖を語っている。「誰一人”危険な本”を読まず、”異端の友人”を持たず、”変革”に興味がなければ、それこそマッカーシーの理想だ。この部屋すら恐怖に支配されている。」この恐怖と緊張感が極限に達するのはマッカーシーの反論にマローが再反論した放送の直後である。視聴者の反応はどうか。スタッフ全員が緊張するが、電話は全く鳴らない。そこへ「電話線をつないでいいか?」の声。つないだとたんに電話が鳴り続く。この緊張と安堵の演出もうまい。

  ラスト近くで局内結婚がばれたジョーとシャーリーがうれしそうに会社を去ってゆく場面がある。エド・マロー達は論争に勝ち、やがてマッカーシーは失脚するが、「シー・イット・ナウ」からスポンサーが離れ、ゴールデンタイムから別の時間帯に移されてしまう。マローが警告したように、テレビはどんどん娯楽に流れ「単なる電子部品が詰まった箱」になって行く。そういう職場になってしまっていたから、そしてもう夫婦であることを隠す必用がないから、去ってゆく二人の顔には解放感があるわけだ。アメリカは本当に自由の国なのかという問いかけがそこにある。

  「グッドナイト&グッドラック」はジョン・フランケンハイマー監督の「五月の七日間」(1963)を思わせる重厚な人間ドラマである。マローを英雄に祭り上げていないところがいい。彼は終始批判者として描かれている。それがもっとも彼にふさわしい描き方だろう。CBS出身者には二人の大監督シドニー・ルメットとジョン・フランケンハイマーがいる。ともに57年に映画界入りを果たしている。ジョン・フランケンハイマーはCBS時代に100本を超えるドラマを演出していた。シドニー・ルメットの第一回監督作品、あの有名な「十二人の怒れる男」はテレビ時代に演出した作品を映画化したものである。

  「グッドナイト&グッドラック」は優れた作品ではあるが、一つ不満を言えば当時の恐怖感、生殺与奪の権を一人の人間が握っている恐怖がいまひとつ迫ってこなかったことである。ドラマであればそのぞっとするような恐怖感と不安感がもっと描きこまれるべきだったと思う。そうすれば、それを跳ね除けて自分の信念を貫いたマローたちスタッフの勇気がさらに浮かび上がっていただろう。

  エド・マローを演じたデヴィッド・ストラザーンの渋い存在感は圧倒的である。調べてみると「L.A.コンフィデンシャル」、「ザ・ファーム」、「希望の街」、「パッション・フィッシュ」、「黙秘」、「サイモン・バーチ」、「ツイステッド」、「シルクウッド」、「メイトワン 1920」等々、ずいぶん彼の出演作を観ているのだが、さっぱり印象がない。この映画で初めて観た感じさえした。主演はこれが初めてなのかもしれない。いずれにせよ、これが彼の代表作になることは間違いない。「エド・マローを演じた男」が彼の代名詞になるだろう。パトリシア・クラークソンとレイ・ワイズはどこかで観たと思っていたら、前者は「エイプリルの七面鳥」でエイプリルの母親ジョーイを演じた人、後者は「ツイン・ピークス」のローラー・パーマーの父親役を演じた人だった。そしてジョージ・クルーニー。初めて彼を観た「ER 緊急救命室」ではプレイボーイの小児科医ダグを演じていたが、最近は「シリアナ」やこの「グッドナイト&グッドラック」など意外に硬派でリベラルな面を見せている。最近は俳優が監督も務めることが珍しくないが、彼の監督としての腕もかなりのものだ。当分二足のわらじを履くのだろう。今後がますます楽しみだ。

2006年12月24日 (日)

寄せ集め映画短評集 その15

 

  11月に入院して以来だいぶ力を抜いてブログに接しています。レビューの本数を減らす代わりに映画を観る数を増やしました。ただせっかく観たのだから何も書かない手はない、ということで一旦終わらせた「寄せ集め映画短評集」シリーズを復活させることにしました。

「ヘイフラワーとキルトシュー」(2002年 フィンランド)
2005年10月公開
評価:★★★★
監督:カイサ・ラスティモ
脚本:カイサ・ラスティモ、マルコ・ラウハラ
撮影:ツオモ・ヴィルタネン
出演:カトリーナ・タヴィ、ティルダ・キアンレト、アンティ・ヴィルマヴィルタ
   ミンナ・スローネン、メルヤ・ラリヴァーラ、パイヴィ・アコンペルト
   ロベルト・エンケル、ヘイキ・サンカリ

  イギリス映画「ポビーとディンガン」と同じ子供を主人公にした映画。子供が主人公なのでファンタジー的な要素を持っているのは共通するが、「ポビーとディンガン」の方がよりリアリスティックであり、「ヘイフラワーとキルトシュー」はどちらかというとコメディ調である。小生意気で気分屋の子供に周りが振り回されるという意味では、スウェーデンの「ロッタちゃん」シリーズにむしろ近いと言ったほうがいいかも知れない。
  この映画の魅力はなんといっても二人の子役のかわいらしさである。思いっきりわがまSdang409_2 まな妹のキルトシュー、もうじき学校に上がるので妹の面倒を誰が見るのか心配しているしっかり者の姉ヘイフラワー。両親もユニークだ。毎日ジャガイモの研究に没頭しているパパ、大学出なので自分は家事などせず外で働く女だと思っているママ。この一家に巨大なお尻を持つ(一人が窓にお尻が挟まって動けなくなってしまうシーンが可笑しい)親切な二人の姉妹とおとぼけ警官コンビが絡むというコメディ仕立て。
  キルトシューのわがまま放題のやんちゃ振りが可愛いし、家事が出来ないママと芋しか頭にないパパの代わりに妹の面倒を見るヘイフラワーがけなげ。自分が学校に上がった後が心配で、ヘイフラワーが夜神様にお祈りするシーンには涙が出た。しかしあるきっかけでそのヘイフラワーがへそを曲げて口を利かなくなってしまう。逆に妹が姉に意見するあたりが可笑しい。
  パパの影響で芋ばかり食べているので「スパゲッティが食べたい!」とキルトシューが駄々をこねたり、娘たちのために家事に乗り出したママがぬいぐるみを洗濯機で洗ってしまったりと笑いどころはたっぷり盛りだくさん。ロシア映画「ククーシュカ ラップランドの妖精」、日本映画「かもめ食堂」で描かれたフィンランド。あのゆったりとしたリズムと透明な空気感は当然この映画にもある。さらには家の作りやインテリア、そして自然の美しさも魅力の一つ。他愛がないといえば他愛がないが、まあ、親子で見るのを前提としているような映画なので、あまりうるさいことを言わず楽しめばいい。

「ダ・ヴィンチ・コード」(2006年 アメリカ)
2006年5月公開
評価:★★★☆
監督:ロン・ハワード
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
撮影:サルヴァトーレ・トチノ
出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン、アルフレッド・モリナ
   ジャン・レノ、ポール・ベタニー、ユルゲン・プロフノウ、エチエンヌ・シコ
   ジャン=ピエール・マリエール

  ダン・ブラウンの原作はめちゃくちゃ面白い。元来僕はこの手の物語が好きだ。今夢中で連載を読んでいる東周斎雅楽原作、魚戸おさむ画『イリヤッド-入矢堂見聞録』や星野之宣の『ヤマタイカ』、『宗像教授伝奇考』シリーズなどは古代の神話や伝説が縦横無尽に駆使されて奇想天外なドラマが展開される。「物語」好きにとっては奇抜なストーリー展開と天翔る空想が入り混じってこたえられない面白さである。原作の『ダ・ヴィンチ・コード』も基本的には同様の面白さである。
  レオナルド・ダ・ヴィンチの名画に隠された暗号の解読から始まり、アーサー王伝説でも 有名な聖杯伝説を経て、キリスト教が長い間ひた隠しにしてきた秘密にいたる展開。これKey_mb3_1 に何重もの暗号解読やアナグラムなどの謎解きが差し挟まれ、クリプテックスという小道具が使われ(原作ではマトリョーシカ人形のように入れ子細工になっているのだが映画では単純化されていた)、さらには秘密結社シオン修道会、オプス・デイ、マグダラのマリアなどが絡んでくるのだから、これが面白くないはずはない。キリスト教にまつわる薀蓄がこれでもかと盛り込まれている。謎解きサスペンスと知的好奇心が両方とも満足させられるまれに見るミステリー小説だ。主人公たちが犯人扱いされ、警察に追われながら彼らも「謎」を追いかけるという展開にしたことも功を奏している。
  しかしこれが映画になるとかなりの部分を割愛しなければならない。展開は急激でしかも説明を入れている余裕がないので原作を読んでいなければ理解しにくいだろう。映画を観る前からそうなることは充分予想できた。だから1週間レンタルになってから観たのである。最初から期待はしていなかった。しかし意外なことに結構楽しめた。1週間レンタルになってから借りたのは正解だった。原作を読んでからだいぶ時間がたっていたからかえって楽しめたのである。この映画を理解するには予備知識が必要なのである。だから原作を先に読んでおく方が望ましい。しかし原作を呼んだ直後に観てはあまりに物足りなくて楽しめなかっただろう。時間がたって記憶が薄れていたから意外に面白く観れたのである。原作の『ダ・ヴィンチ・コード』は、読んでいる間は面白いけれども長く記憶には残らない。そういう類の小説である。したがってこの映画はまず原作を先に読んで、少なくとも半年以上間を空けてから映画を観るべし。これが正しい観方である。

「プロデューサーズ」(2005年、アメリカ)
2006年4月公開
評価:★★★★☆
監督:スーザン・ストローマン
製作:メル・ブルックス 、ジョナサン・サンガー
脚本:メル・ブルックス トーマス・ミーハン
撮影:ジョン・ベイリー 、チャールズ・ミンスキー
振付:スーザン・ストローマン
作詞作曲:メル・ブルックス
出演:ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック、ユマ・サーマン、ウィル・フェレル
   ゲイリー・ビーチ、ロジャー・バート、マイケル・マッキーン、アイリーン・エッセル
   デヴィッド・ハドルストン、デブラ・モンク、アンドレア・マーティン

  これは楽しめました。僕は、何を隠そう、古典的ミュージカル映画はあまり好きではない。嫌いではないのだが好んで観ることはない。MGMミュージカルの総集編「ザッツ・エンタテインメント」もいまだ観ていない。もちろん、アステア/ロジャース、モーリス・シュバリエ、ジーン・ケリー、ビング・クロスビーなど一通りは観た。観ればそれなりに楽しめる。しかし決して好きなジャンルではない。
 ミュージカルのマイ・ベスト3は「サウンド・オブ・ミュージック」、「ウエスト・サイド物語」そして「屋根の上のバイオリン弾き」。最近のものでは「シカゴ」が楽しめた。しかしどちらかというと「ブルース・ブラザーズ」、「ザ・コミットメンツ」、「歌え!フィッシャーマン」、「SUPER8」、「僕のスウィング」、「風の前奏曲」などのタイプの方が好きだ。
  個人的好みはともかく、「プロデューサーズ」は68年に製作されたメル・ブルックスの処女監督作品を完全リメイクしたもの。今回は監督を舞台版の演出・振付を担当したスーザSdcacarousel01 ン・ストローマンに譲り、自身は製作と作詞作曲を務めている。主人公のマックス・ビアリストック(ネイサン・レイン)はかつてブロードウェイで名を馳せた敏腕プロデューサー。しかし今はすっかり落ちぶれて借金の工面に四苦八苦。そこにやってきたハンカチ王子(意味は観れば分かる)会計士のレオ・ブルーム(マシュー・ブロデリック)。彼が帳簿を見て発見した意外な事実にインスピレーションを受けて、ビアリストックはわざとショウを1日でコケさせて出資金を丸々せしめようと画策する。早速史上最悪の脚本と演出家とキャストをかき集めるのだが、意に反してヒトラー礼賛ミュージカル「スプリングタイム・オブ・ヒトラー」がヒットしてしまう。
  というようなストーリーはどうでもいい。メル・ブルックス作品だから展開はめちゃくちゃ、ハプニングの連続、とにかくこれでもかとばかり笑いと歌と踊りとお色気そして下ネタをてんこ盛り。徹底したサービス振り。エンドロールが終わった後にもまだおまけがあって、最後の最後にメル・ブルックス本人が顔を出してやっと終りを告げる。”It’s over.”
 とにかく主演のネイサン・レインが芸達者。歌も踊りも芝居もうまい。ショウの脚本を書いたヒトラーかぶれのへんてこ男を演じたウィル・フェレルも画面いっぱいに暴れまくっている。マシュー・ブロデリックも線は細いが負けずに頑張っている。ゲイリー・ビーチとロジャー・バートのオカマ2人組みもすごいゲイ達者ぶりを発揮。
  もっぱらお色気を担当するのはユマ・サーマン。突然事務所に押しかけてきてキャストに採用して欲しいと色仕掛けでアピール。「氷の微笑」のシャロン・ストーンよろしく何度も足を組み替えてみせる(魅せる?)チラリズムでビアリストックとブルームをふらふらにさせる。踊り終わった後に感想を聞かれて「下半身はスタンディング・オーベイションです」と答えるお下劣駄洒落が可笑しい。
  いろんな引用も盛りだくさん。マシュー・ブロデリック演じるレオポルド・ブルームという役名はジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ』の主人公の名前。それから、お気づきだろうか、二重帳簿が見つかって刑務所にぶち込まれたビアリストックが鉄格子の中で歌い踊っている時に、突然しんみりと母親を回想する場面がある。あれはトム・ジョーンズの歌で大ヒットした「思い出のグリーングラス」のもじり。この歌は監獄で囚人が故郷の家族や緑の草原or庭の草(グリーン・グラス)を夢に見ているという内容の歌である(語りの部分の最初の言葉は「目が覚めて見回すと四方を灰色の壁に囲まれていた」)。その他ヒトラー関連も含めいろんな面白い引用があります。とことん遊んでいる映画。おすすめです。

« 2006年12月17日 - 2006年12月23日 | トップページ | 2006年12月31日 - 2007年1月6日 »

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ