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2006年12月10日 - 2006年12月16日

2006年12月16日 (土)

武士の一分

2006年 日本 2006年12月公開
評価:★★★★☆
監督:山田洋次
原作:藤沢周平 「盲目剣谺返し」(文春文庫刊『隠し剣秋風抄』所収)
脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎
撮影:長沼六男
美術:出川三男
衣裳:黒澤和子
編集:石井巌
音楽:冨田勲
出演:木村拓哉、檀れい、笹野高史、小林稔侍、赤塚真人、綾田俊樹、近藤公園
   岡本信人、左時枝、大地康雄、緒形拳、桃井かおり、坂東三津五郎

  「たそがれ清兵衛」(02)、「隠し剣 鬼の爪」(04)に続く藤沢周平原作の時代劇3作目。前Kagaribihotaru1_1 の2作については「隠し剣 鬼の爪」の短評を書いただけなので、3部作全体の特徴を最初に見ておくのがいいだろう。山田洋次監督の初期の代表作に「家族」(70) と「故郷」(72)という2本の傑作がある。「故郷」と「家族」はそれぞれ別々の物語ではあるが、二本合わせてひとつの大きな物語を形作っている。「故郷」は石舟で苦しい生活を立てていた家族がその生活を捨て、尾道の造船所で働くことを決意するところで終わる。「家族」は炭鉱で食べて行けなくなったある家族が長崎の南端に浮かぶ伊王島から北海道の中標津にある開拓村まで3000キロの旅をする過程を描いた映画だ。「故郷」の結末の部分が「家族」の出発点なのである。

  この2本を通じて描かれているのは時代の波に押し流されていかざるを得ない一つの家族の姿である。その2本に共通するテーマを「故郷」のレビューでこう書いた。

 そのテーマを暗示するのは「故郷」の最後に精一が妻に向かって口にする言葉であ
る。「大きなものとは一体何だ?時代の流れとか、大きなものに負けると言うが、それは一体何を指しているのか」という問いかけ。「家族」を論じたときにも書いたが、ここに描かれたのはたまたま不運にあった不幸な家族ではない。 60年代の高度成長期を経て、日本の産業構造は大きく変化していた。「大きな時代の流れ」は容赦なく弱いものを押し流してゆく。社会や経済の構造変化は個人の意思や一企業などの思惑を超えて作用する。古いものは壊され、次々に新しいものが生まれる。人込みで沸き返っている大阪万博の影で、故郷を失い、時代に押し流されて漂ってゆく人々が無数に生まれていた。「家族」と「故郷」の二つの家族自体が悪いのではない、他人が悪いのでもない。精一が船の修理を頼みに行った男も、時代が変わり彼が作った他の船が先日廃船になって燃やされたと話す。個人や集団の意志を超えて作用する大きな力はかたちを変えつつ常に存在している。無学な精一にはその力が何であるか理解できないが、確かに自分たちの力ではどうすることも出来ない「大きな力」がそこにある事は感じ取っていた。

  「個人や集団の意志を超えて作用する大きな力」とは時代の流れによる産業構造の大規模な変化を指している。この「大きな力」は後の″時代劇三部作″にも働いている。しかし江戸時代を舞台にした後者の場合、「大きな力」は人々を押し流してゆく時代の変化としては現われてこない。武家社会はむしろ固定した世襲社会である。30石の家に生まれたものは30石の家のものとして生まれ育ち死んでゆく。武士たちは戦をしなくなり、体面ばかりを重んじる形骸化した格式や作法が幅を利かせている。したがってこの時代の武家社会における「大きな力」とは固定した社会の抑圧的力として現われる。武士たちは自分の身分を守ることに汲々としている。

  この抑圧的な武家社会を舞台とした″時代劇三部作″の主人公たちは、武家社会の理不尽な制度に絡め取られ呻吟する。武家社会という階級社会の中で冷や飯を食わされ、御家大事の際には捨て駒にされ、切り捨てられる下級武士たち。藤沢周平の原作はこの下級武士たちを主人公にしている。その点に彼の作品のユニークさがある。「水戸黄門」のように権力者が権力を振りかざすことで事件を解決する世界とは対極にある。またお家騒動を描いても、その中心で活躍または暗躍するのではなく、刺客という捨て駒として描かれる。やくざの世界で言えば「鉄砲玉」である。

  変化の乏しい社会だから、多くの時代劇はお家騒動のような大事件を扱うか、または最初から浪人を主人公にして、がんじがらめの武士社会にとらわれない「自由な」生き方を描いてきた。藤沢周平の原作は時代劇で人気の剣客物ではあるが、同時に主人公を下級武士にしているので剣豪物の豪快さではなく、むしろ武家社会という階級社会の中で踏みつけにされる弱い立場にある者の悲哀感が強調される。しかしそんな取るに足らない存在でも守るべき生活や家族がある。下級であっても武士は武士。そんな彼らのささやかな意地と誇りが果し合いへと赴く彼らの姿に重なりわれわれの胸を打つのである。

  藤沢周平原作、山田洋次監督による″時代劇三部作″は武家社会の残酷さが描かれているという意味で、小林正樹監督の「切腹」(62)や「上意討ち」(67)、あるいは今井正監督の「武士道残酷物語」(63)や「仇討」(64)の系統に属する作品である。浪人ではあるが武士の日常を丹念に描いているという意味では山中貞雄監督の「人情紙風船」(37)にも通じる。山田洋次監督の″時代劇三部作″の主人公たちはいずれも剣客だが、剣豪ドラマではないので剣戟が売り物ではない。むしろ下級武士たちの日常生活を丹念に描きこんでいる。その平和な生活が避けようのない事情で破られる様を描く。したがって浪人者を主人公とした黒澤明監督の「七人の侍」(1954)、「用心棒」(1961)、「椿三十郎」(1962)のような胸のすく殺陣は味わえない。また固定した時代を描いているので、幕末の動乱の時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のようなダイナミズムにも欠ける。良くも悪くもそういう作品として観なければならない。

  ここまで確認した上で、さらにもう一つ別の角度から見てみる必要がある。藤沢周平はKaeru1 決して侍ばかりを描いたわけではない。彼の作品の重要な部分として町人物がある。いうまでもなく彼の共感は権力者ではなく庶民や下級武士などの弱い立場の者に寄せられている。しかし当時の人口の大半を占める農民を描いた作品はほとんどない。『義民が駆ける』(未読)という作品もあるが、これも農民ではなく武士に焦点が当てられているようだ。白戸三平の名作『カムイ伝』と比べてみれば、いかに″時代劇三部作″が限られた世界を描いているか分かるだろう。『カムイ伝』は農民の視点を中心に武士や商人の世界も描いている。ここまで描いてこそ本当にその時代を動かしていた「大きな力」が見えてくるのである。例えば『カムイ伝』の第一部1巻″誕生の巻″に次のような会話がある。

伊集院「竜之進どの、なにゆえ剣を学ばれるな?」
竜之進「笹先生が申しております・・・。兵法は、仁・義・礼・智の四徳にもとづくもの、直
  心をもち非心をたつ・・・剣は敵をきるのでなく、おのれの心の非をきる。」
伊集院「わしはこう思うんじゃ。・・・やがて、人間は火を発見し、鉄をしり、自然から物を
  ひろったりとったりするだけでなく、いままで共同でなければえられなかったものを、
  個人的にも作り出すことができるようになってきた。そうすると個人所有が生まれて
  くる。そして、それは個人差をつくり、豊かな者とまずしい者が、うまれてくるわけ
  じゃ。豊かな者はまずしい者を支配し、豊かな者がますます豊になれば、それだけ
  まずしい者がふえ、いまの武士と百姓のように、支配する者と支配される者ができ
  てきたわけじゃ。少数の者が多くの者を支配するには、権力がなければならぬ。そ
  の権力をささえるには武力が必要じゃ。もちろん支配者どうしの戦いも必要じゃろ
  う。しかし、それもより大きな支配力をもつためじゃ。」
竜之進「すると、武術は人が人を支配するためにあるというのですね?」
伊集院「ちがうかな?もっとわかりやすくいえば、武術は人を殺す方法じゃよ。ハハハ
  ハ、じゃから剣の修行はどんな理屈をつけてみても、その本体はひとりで、できるだ
  けおおくのやつを殺すことができるかということの研究と修練ということじゃ。」
<白戸三平『決定版カムイ伝全集 第一部1巻 誕生の巻』」(小学館)>

   「武士の一分」で新之丞が毒味役など早く辞めて隠居し、身分に関係なく子供たちに剣術を教えたいと語る場面がある。「俺はかねがね、考えていることがある。今までの師匠がたとは違った教え方をしたい。つまり、それぞれの子供の人柄や体つきにあった剣術を、例えばそれぞれの身の丈にあった着物を仕立ててやるように教える。これは俺の夢だの。」中間の徳平が百姓の子供でもいいのですかと聞くと新之丞は構わないと答える。ここにわずかに武士以外の存在が垣間見えるが、それ以上には言及されない。やはり閉じられた世界である。「武士の一分」で映されるのはほとんど城内と新之丞の家である。だからダメだと言っているわけではない。ヴィスコンティの「山猫」は貴族社会を描いた作品だが、これは紛れもない傑作である。藤沢周平の世界がどういう世界なのかを最初に理解しておくべきだと言いたいのである。

  山田監督の3部作すべてに通じることだが、決闘シーンは最後に出てくるだけで、映画の大半は日常生活の詳細な描写に当てられる。特にこの3作目にはその傾向が強い。日常描写の焦点は食事のシーンと移り変わる庭の風景である。食事の質素さと無駄のなさは驚くべきである。ご飯に芋がらの煮物や浅漬けの野菜をつけただけの質素な食事。食べ終わった茶碗にお湯をかけ、漬物できれいにふき取るようにしてそのまま箱状のお膳の中に食器をしまう。あの食器入れとお膳を兼ねたような箱(何と呼ぶのか?)の使い方、食べた後きちっと箱の中にしまう几帳面さ。三十石の下級武士の生活が丁寧に描きこまれている。生活の細部の描写がどれだけこの作品のリアリティーを支えていることか。慎ましやかに夫の指示に従う妻加世(檀れい)のなんでもない所作が実に自然である。現代劇のような過剰な愛情表現はほとんど皆無である。にもかかわらずこの夫婦と中間の徳平(笹野高史)のわずか三人で構成される「家族」には愛情があふれている。檀れいは宝塚出身で初めて見る女優だがはっとするほどの美人で、演技に無理を感じさせない。山田監督の演出力にはいまさらながら舌を巻く思いだ。

  日常の綿密な描写を支えるのは細部のリアリティである。寝込んでいる新之丞(木村拓哉)のぼさぼさで汚く見える月代や地味でくたびれた感じの着物、「~でがんす」が多用される方言などは1作目からおなじみだ。今回は君主が現われるのを待っている新之丞たちがしつこい蚊に悩まされる場面やCGで蛍を描くなどの新たな工夫を凝らしている。加世が着物のしわを伸ばすのに使っていた火熨斗にも驚いた。今で言うアイロンだが、鉄の箱に炭火を入れて使っている。形はアイロンとほぼ同じだ。セットで撮影しているので庭の様子が四季に応じて変わってゆく場面はスタッフの手作りなのだろうが、木の新芽や葉っぱの微妙な変化など作り物らしさを感じさせない。物づくりが失われつつある日本で、この撮影現場には「プロジェクトX」の精神がまだ息づいている。

  決闘の場面でも剣と剣がすりあう時の軋るような金属音が実に生々しい。その音を聞いただけで背筋がぞくっとする。あれは本物を使っていたのだろうか、普通の小道具ではあんな音は出せないと思うのだが。蛍のCGも自然だった。CGに頼りすぎないところもいい。セットでありながら様々な工夫を凝らして使い込んだ感じを出すなど、これまで培われてきた技術が基本に置かれ、CGはワンポイントで使う。本来CGはこのように使うべきだという哲学が感じられる。

  画面に映っているあらゆるものに工夫が込められている。日本家屋独特の縁側がうまく使われている。庭と屋内をつなげる特殊な空間。内側から撮れば人物が手前になり庭の様子が見える。蛍が飛び交う庭の様子を向こう側に映しながら、「ホタルはもう出たか」という新之丞の問いに加世が「まだでがんす」と答える会話が描かれる。目の見えない夫を気遣う加世の切ない心情が画面奥の蛍の光に重なる素晴らしい場面である。庭側から撮れば庭の木々が大きく映されると同時に家の中の様子も映せる。手持ち無沙汰そうに縁側に座る新之丞。横にさりげなく置かれたつがいの文鳥の入った鳥かご。いつも変わらぬリズムで変化する庭を手前に配し、身辺に劇的な変化をこうむった侍の姿を客観的に写し取る。不自然さを感じさせない作られた自然と撮影技術の見事な融合。ついキャメラの位置がどうの、光の当て方がどうのと論じがちだが、その前提となる細部のリアリティーにも、もっと注意を向けるべきだ。

  衣装を担当した黒澤和子のコメントが印象的である。「三村新之丞には奥さんがいる。だから上等な着物ではないけれどきちんと手入れがされているという感じが出るようにしてほしい、というのが山田監督の意向でした。ですから、自然素材のものをできるだけ使い、清潔だけど使い込んだ感じを出すようにしました。」このコメントだけではない。山田″時代劇三部作″の劇場用パンフレットはどれも充実している。下手なメイキング映像より映画作りの現場の様子が伝わってくる。本来パンフレットはこうあるべきだと思った。

  新之丞、加世、徳平の描き方がまたいい。新之丞は腕の立つ剣士であり藩校でも秀才といわれるほど学問もあるが、藩に与えられた仕事は毒見役。当然張り合いはない。妻にSen_1 ぶつくさぼやいている。演じた木村拓哉は方言も自然で、テレビ出演で身についたおざなりな演技をすべてこそぎ落として山田組の一員になりきっている。木刀の素振りや果し合いでの身のこなしなどは素人の域を超えている。剣術に関しては1作目の真田広之と並ぶ出来ばえだ。最初のあたりは顔が細く見えるせいか、線が細い感じを受けたが、失明してからの演技は素晴らしい。失明直後の自暴自棄になった凄絶な姿、意を決っして決闘に臨む毅然とした姿、まるで別人のようになってゆく。特に目がすばらしい。盲人の目の動きをかなり研究したのだろう。パンフの写真を見ればわかるが、決闘の場面の目は完全に盲人の目である。焦点が合っていない。「笑の大学」での稲垣吾郎も名優役所公司を相手に懸命に頑張っていたが、「武士の一分」の木村拓哉はそれを上回っている。「どうすればもっと上に行けるのかと考えてしまう。実質的な合格点などないんですけど、リミットもない。上を目指せば目指すほどある、そういう現場でした。」(パンフ)

  新之丞と加世の場面では互いのさりげない愛情が描かれるが、新之丞と徳平との間ではほんわかしたユーモアがかもし出されている。互いに軽口をたたき合う関係なのだ。前の2作にも中間は出てきたがまったくの使い走りに過ぎない。徳平は存在感を持った一人の人間として描かれている。家族の一員に近い。身分の違いをわきまえつつも、どこか口うるさい小姑のような存在でもある(新之丞も彼にわざと悪態をつくが、これは彼なりの愛情表現である)。主人をいさめたりもする。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係に近い。演じた笹野高史が出色の出来。これまではちょいと出てくるだけの端役が多かったが、ここでは準主役。重要な役を見事に演じきった。寅さんシリーズの常連だから顔は知っていたが、彼を俳優として意識したのはつい最近のことだ。「パッチギ!」で演じた在日一世の役。彼が主人公の康介に向って言った台詞、「お前ら日本のガキは何知ってる?」で始まる激烈な言葉はあの映画のハイライトだった。

  「武士の一分」が描いたのは、質素ながらもお互いを思いやって過ごしていたのどかな日常が暗転してゆく様である。藩主の身代わりに毒見をするというモルモット並の非人間的な仕事への反発、平凡でささやかではあるが温かい夫婦生活を無残に奪われた無念さ、そこに観客の共感が向けられる。黒澤の時代劇のようなばっさばっさと敵を切り倒す爽快感ではなく、山田時代劇の決闘シーンにはむしろ悲壮感が漂っている。

  最後にこの映画のユニークさについてもう一度触れておきたい。チャンバラが売りだった時代劇に日常性を大幅に取り込むということがいかにして可能だったのか。山田監督が逆説的な表現でこれを説明している。「昔のすべてが良かったなどとは思っていません。封建時代の人間関係は過酷だったはず。とくに君主と藩士の主従関係。主君に「腹を切れ」と言われたら「承知いたしました」と、頭を下げるしかない怖い時代、自由・平等以前の重苦しい時代なんです。でもそのように身分関係が固定されていて、能力によって出世する、というようなことがまずなかったから、侍たるもの欲を抱かない、貧乏を恥じるどころか、逆に誇りにする――そんなモラルに包まれたつましい暮らしぶりの中に一種の閉ざされたユートピアを藤沢周平さんは見たんじゃないか、という考えです。」(パンフ)

  とにかく時代劇がとっくに廃れた時代に敢えて時代劇を撮ろうとするにはそれなりの工夫が必要である。それまでの時代劇とは違うものを作らねばならない。山田監督にはそういう思いが強烈にあっただろう。「ごく少数の優れた作品を別にすれば従来の時代劇映画、特にテレビの時代劇はいい加減に作られている。僕たちの先祖が生きていたのはどんな時代だったのか?何を思い、どのように感じていたのか?ということを想像する努力を何故しないのかと、つねづね腹立たしく思っていました。」(パンフ)したがって悪役もそれまでのパターンとは違う設定になる。仇役の坂東三津五郎が面白いことを言っている。「監督は、昔の時代劇のように、(仇役が)一目で悪い奴とわかってしまうのはつまらなく、抗いがたい色気を持たせいたいとおっしゃってました。」歌舞伎役者が抜擢された理由はそこにある。

  最後にタイトルにある「一分」について。一分とは面目のことだが、プライドと言い換えた方が分かりやすいかもしれない。監督は最初「愛妻記」というタイトルを考えていたらしい。確かにこの映画は愛情とプライドが主題である。夫を愛するからこそ自害しようとする夫を必死で引きとめ(「死ぬならどうぞ。私もその刀ですぐ後追って死にますさけ」)、夫のことを上役に頼み込もうとして自分をのっぴきならない立場に追い込んでしまった妻、妻を愛するからこそ死を覚悟しつつ決闘に臨んだ夫、主人を愛するからこそ軽口もたたき果し合いの場面にも付き添って最期を見届けようとする中間。

  「武士の一分」ではプライドの二つの面が描かれている。自分の剣の腕を過信し相手を目が見えないと侮る「驕り」と、敢えて死を決意して決闘に臨んだ男のどうしても譲れない武士の「面目」。勝負を分けたのは剣の腕ではないという描き方がいい。

<関連記事>
 今井正監督の「仇討」については、本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の《映画日記》コーナーに短評を載せています。

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2006年12月15日 (金)

2006年に公開された主な日本映画

「あおげば尊し」(市川準監督) Rousoku
「明日の記憶」(堤幸彦監督)
「アタゴオルは猫の森」(西久保瑞穂監督)
「雨の町」(田中誠監督)
「ありがとう」(万田邦敏監督)
「蟻の兵隊」(05、池谷薫監督)
「UDON」(本広克行監督)
「男たちの大和 YAMATO」(佐藤純彌監督)
「ガーダ・パレスチナの詩」(古居みずえ監督)
「風のダドゥ」(中田新一監督)
「カミュなんて知らない」(柳町光男監督)
「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督)
「かもめ食堂」(荻上直子監督)
「キャッチボール屋」(大崎章監督)
「嫌われ松子の一生」(中島哲也監督)
「THE有頂天ホテル」(三谷幸喜監督)
「佐賀のがばいばあちゃん」(倉内均監督)
「死者の書」(川本喜八郎監督)
「シムソンズ」(佐藤祐市監督)
「好きだ、」(石川寛監督)
「そうかもしれない」(保坂延彦監督)
「チーズとうじ虫」(加藤治代監督)
「ディア・ピョンヤン」(ヤン・ヨンヒ監督、日本)
「手紙」(生野慈朗監督)
「天使の卵」(富樫森監督)
「時をかける少女」(細田守監督、アニメ)
「長い散歩」(奥田瑛二監督)
「涙そうそう」(土井裕泰監督)
「虹の女神」(岩井俊二監督)
「寝ずの番」(マキノ雅彦監督)
「紀子の食卓」(園子温監督)
「博士の愛した数式」(小泉堯史監督)
「バックダンサーズ!」(永山耕三監督)
「花田少年史」(06、水田伸生監督)
「花よりもなほ」(是枝裕和監督)
「ハリヨの夏」(中村真夕監督)
「ひだるか」(港健二郎監督)
「ビッグ・リバー」(舩橋淳監督、日・米)
「武士の一分」(山田洋次監督)
「フラガール」(李相日監督)
「待合室」(板倉真琴監督)
「間宮兄弟」(森田芳光監督)
「三池 終わらない炭鉱の物語」(熊谷博子監督)
「水の花」(木下雄介監督)
「ゆれる」(西川美和監督)
「ヨコハマメリー」(中村高寛監督)
「雪に願うこと」(根岸吉太郎監督)
「夜のピクニック」(長澤雅彦監督)
「ラフ」(大谷健太郎監督)
「六ヶ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督)

 師走は本当に忙しい。「武士の一分」のレビューも半分ほど書いて、その後ほとんど手を付けられないまま今日まで来てしまいました。やっと一山越えたので、何とか明日中には書き上げたいと思っています。そうこうしているうちに年間ベストテンを作る時期になってしまいました。はっきり言って埋め草記事ですが、今年公開された主な作品を日本映画と外国映画に分けて掲載します。またまた味気ないリストで申し訳ありませんが、各自のベストテンを作る参考にでもしてください。

 また年末か1月初めに06年度公開映画をまとめる記事を載せる予定です。そこでも書く事になると思いますが、今年の日本映画の充実振りは特筆すべきです。山田洋次監督が「武士の一分」を撮る時に、自前の撮影所がないので東宝の撮影所を借りるなど、まだまだ日本映画界の課題はたくさん残っていると思います。それでもこれだけ注目作が作られているということは日本の映画人の力量の高さを示しています。日本映画はアニメだけではないことをはっきり証明した1年だったと思います。

 その傾向は僕のブログのアクセス数にも如実に現われていて、年末に記事別年間アクセス数ベスト20を載せるつもりですが、何とベスト5は全部日本映画です。アクセス数は記事の出来とは関係なく、関心の高さを反映するものですからいかに日本映画の関心がこの1年で高まったかが分かります。去年は「日本映画はあまり観ない」という文章を良く見かけましたが、今年は全く見かけません。日本映画を取り巻く環境が大きく変わりつつあります。

 06年はまたドキュメンタリー映画の力作が多く公開された年としても記憶に値するでしょう。僕が目にしたいくつかのベストテンでもドキュメンタリー映画が何本か入っています。アメリカの「スティーヴィ-」と合わせてそのことが持つ意味をじっくり考えてみる必要があると思います。

2006年12月11日 (月)

「武士の一分」を観てきました

Mado_akari1_1   5日から7日までココログのメンテナンスがあり、使いにくかったことをお詫びいたします。また丁度その時期は個人的にも忙しく「ココシリ」のレビューがなかなか書けませんでした。何とか書き終えたのですが、ちびちびと書き続けていたのでだらだらと長い文章になってしまいました。やはり根をつめて一気に書いた方がいいものが書ける気がします。しかしあまり無理してまた潰瘍が出来ても困るので、今後もスローペースで行かざるを得ません。

  土曜日に「武士の一分」を観てきました。山田洋次監督作品ですので安心印、さすがの出来でした。木村拓哉は意外に健闘。特に視力を失ってからの「目の演技」がいい。壇れいは初めて観ましたがなかなかの美人。ただ、いくら3部作とはいっても同じ原作者、同じようなストーリー展開ではさすがに前2作よりインパクトは弱い。もっと工夫が欲しかった。

  他にDVDでベトナム映画「夏至」とスパイク・リー監督の「インサイド・マン」を観ました。ベトナム映画を観るのは「無人の野」(1980)以来2本目。だらだらと何の盛り上がりもなく続くこの手の映画はどうも受け付けない。映像は綺麗だし、女優も美人なのですがさっぱり面白くなかった。一方、「インサイド・マン」はなかなかの出来。スパイク・リーらしさはかなり薄れていますが、この手の映画としては良くできている方だと思いました。デンゼル・ワシントンを観るのは久々。それなりに頑張ってはいましたがかつてのような求心力はない。むしろ光っていたのはクライヴ・オーウェン。あの渋い面構えがいい。たっぷり見ごたえのある作品でした。それぞれの評価点は以下の通り。「武士の一分」はレビューを書きます。(レビューはこちら

 「武士の一分」★★★★☆
 「夏至」★★★
 「インサイド・マン」★★★★

  本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の<miscellany>コーナーに「マイDVDコレクション 今年の成果」という記事を載せました。今年は加速度的に旧作のDVD化が進みました。コレクターとしては喜ばしい限りです。ただ、リストものですし、個人的な趣味で集めたものですからブログには載せませんでした。興味ある方だけどうぞ。

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