最近のトラックバック

お気に入りホームページ

お気に入りブログ 2

  • とんとん亭
    いい映画をたくさん観ているとんちゃんさんのブログ。映画の魅力を丁寧に語っています。
  • 新・豆酢館
    カテゴリーが実にユニーク。関心の広さと深さとユニークさが魅力です。
  • 虎猫の気まぐれシネマ日記
    猫が大好きなななさんのブログ。とても丁寧に、詳しく映画を紹介しています。
  • 犬儒学派的牧歌
    一見近寄りがたいタイトルですが、とても読みやすくまた内容の濃いレビューに出会えます。
  • TRUTH?ブログエリア
    GMNさんの充実したブログ。アメコミに強い方ですが、映画の記事もすごい。読ませます。
  • It's a Wonderful Life
    kazuponさんのブログ。観ている映画がかなり重なっているのでとても参考になります。
  • no movie no life
    洋画、邦画を問わず幅広くご覧になっています。しかも取り上げている映画は良質なものばかり!
  • 日っ歩~美味しいもの、映画、子育て...の日々
    おいしい物といい映画が大好きな方。味わいのある映画を選ぶ確かな目をお持ちです。
  • 再出発日記
    邦画を洋画と同じくらい観ておられます。社会的視点をしっかりとお持ちで、大いに勉強になります。
  • 藍空放浪記
    アジア映画を中心に幅広く映画をご覧になっています。レビューも長文で深い考察に満ちています。

お気に入りブログ

« 2006年1月22日 - 2006年1月28日 | トップページ | 2006年2月5日 - 2006年2月11日 »

2006年1月29日 - 2006年2月4日

2006年2月 4日 (土)

シンデレラマン

car1 2005年 アメリカ
監督:ロン・ハワード
原案:クリフ・ホリングワース
脚本:アキヴァ・ゴールズマン、クリフ・ホリングワース
撮影:サルヴァトーレ・トチノ
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ラッセル・クロウ、レネー・ゼルウィガー、ポール・ジアマッティ
    クレイグ・ビアーコ、ブルース・マッギル、パディ・コンシダイン
    コナー・プライス、アリエル・ウォーラー 、パトリック・ルイス
    ロン・カナダ、デヴィッド・ヒューバンド、リンダ・カッシュ
    ローズマリー・デウィット、ニコラス・キャンベル

  2、3年前から続いていたアメリカ映画の不振は昨年あたりから徐々に回復に向かってきている。「五線譜のラブレター」「サイドウェイ」「ミリオン・ダラー・ベイビー」「アビエイター」「宇宙戦争」「エイプリルの七面鳥」「君に読む物語」「カーサ・エスペランサ」「舞台よりすてきな生活」「ビフォア・サンセット」、そしてこの「シンデレラマン」と、充実した作品が少なからず作られてきた。未見のものでも、「エリザベスタウン」、「ヴェニスの商人」、「エターナル・サンシャイン」、「さよなら、さよならハリウッド」、「シン・シティ」、「チャーリーとチョコレート工場」、「コープス・ブライド」、「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」、「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」、「スタンドアップ」など、これまた楽しみな作品がずいぶんある。

  恐らくここ2、3年のアメリカ映画の不振は9.11以後の状況となんらかの関係があると思われる。喪失感と闇雲なイラク攻撃への反撥と泥沼化したイラク情勢への不安、ブッシュへの不信。一種の自信喪失に襲われ、進むべき方向を見失っていたのではないか。回復後の秀作の多くが過去に目を向けていることはその表れだろう。それも有名人の伝記ものが目立つ。「五線譜のラブレター」、「ビヨンドtheシー」、「RAY」、「アビエイター」、「シンデレラマン」。まだアメリカに夢があった時代に成功した人々、彼らの努力と成功を見ることでもう一度自分たちは偉大な国民なのだと自身をとりもどしたい、そんな願望が込められている気がする。「シンデレラマン」は「シービスケット」同様大恐慌時代が背景で、苦境を乗り越えてゆく主人公たちの姿に今の落ち込んだアメリカ人たちはとりわけ身につまされるものを感じるのではないか。まだアメリカン・ドリームが信じられた時代。かつてアメリカは「夢の国」だった。あの国なら成功をつかめるかもしれない。世界中から食い詰めた人たちがアメリカに渡ってきた。もちろん、成功を掴んだのはそのうちのほんの一握りの人たちにすぎないのだが、喪失感にさいなまれる今のアメリカ人たちには夢が必要なのである。同じボクシング映画でも、現代ものの「ミリオン・ダラー・ベイビー」は「シンデレラマン」や「ロッキー」のようにチャンピオンに上り詰めることなく挫折してゆく。とっくにアメリカン・ドリームから覚め、現実に打ちのめされている人々にはそのほうがリアルなのだ。だから過去に向かう。

  一方で、アメリカを今のようにしてしまったアメリカの政治路線やブッシュに対する批判も噴き出してきた。いずれも未見だが、「ジャーヘッド」、「シリアナ」、「ミュンヘン」など、湾岸戦争、中東での米石油企業とCIAの暗躍、テロ反撃への疑問を描いた映画が続々作られてきている。傑作「クジラの島の少女」のニキ・カーロが監督した「スタンドアップ」のような性差別に痛烈な一撃を加えた力作も生まれている。米国に支援されたエルサルバドル政府軍による弾圧を描いたメキシコ映画「イノセント・ボイス 12歳の戦場」なども公開されている(オリバー・ストーン監督の「サルバドル」もアメリカ人の目からアメリカを批判した骨太な傑作だった)。大量に作られる娯楽映画と少数の良作がともに充実してこそ本来のアメリカ映画である。しかしこれから徐々に変わってゆくだろう。ハリウッド大手の大作は少なくなり、独立プロダクションが製作する地味だが良質の低予算映画が増えてゆくのではないか。いつまでも脳天気な娯楽映画ばかり大量に作っている時代は終わるべきだし、そうなりつつあるのではないか。

  また前置きが長くなってしまった。大恐慌時代に身を挺して貧困から這い上がった実在の人物を描いた「シンデレラマン」が登場してきた背景を探ってみたかったからだ。一度リングを離れたボクサーが中年になってまた再起し、ついにはチャンピオンになるという全くのパターン通りの映画に見えるが、この映画の最も重要な点はまさに大恐慌時代を背景にしているということである。父親の稼ぎが悪く子供をよそに預けた友達のことを話す息子に、主人公のジェイムズ・J・ブラドック(ラッセル・クロウ)は「お前は決してよそにやらない」と息子に誓う。これが彼の原動力になっている。そんな誓いをしなければならない時代だったのである。この映画にはそんな時代の雰囲気がよく描かれている。そしてそれは単なる雰囲気でも背景でもなく、主題と密接に絡み合っているのである。

  電気代が払えず、妻がお祈りをしようとしても、ジミーは無表情に「祈りもつきた」と言う。あるいは久しぶりの試合の直前に空腹のあまり腹が鳴ってしまう。日雇い仲間のマイク・ウィルソンはニューヨークのセントラル・パークに出来たフーヴァー村(Hooverville:大恐慌で家や仕事を失った人たちが掘っ立て小屋やテントを張って住み着いて出来た村。大恐慌に何の手も打たなかったフーヴァー大統領の名を皮肉ってつけられた名前)へ組合のオルグに行き、事故にあって死ぬ。その状況を一言で言い表しているのが、チャンピオンとの試合を前に、ジミーが新聞記者の「以前とどこが変わったのか」という質問に答えた言葉だ。昔は不運続きだった、今は戦う目的がはっきりしているからだと。その目的とは何かと聞かれて、彼は「ミルク」だと答える。彼は文字通り家族を養うために体を張って戦ったのである。この点を軽く見てはこの映画の本質を見失うことになる。彼の戦いは生きるための、そして家族を生かすための戦いだったのである。だからこそ民衆は「食糧の無料配給に並んだ男」に声援を送ったのである。だからこそ彼の通う教会に試合当日大勢の人たちが詰めかけ神に祈ったのである(「ジミーが彼らのために戦うと信じている」という神父の言葉が印象的)。彼を「シンデレラマン」と名づけた記事がこのあたりの事情をうまく表現している。「J・ブラドックは国民に勇気を呼び起こすために甦った。彼の復帰は暗く沈むアメリカ人に希望を与える。敗北寸前の国民は英雄ブラドックに天啓を見た。デイモン・ラニアンが書いたように彼こそ真のシンデレラマンだ。」新聞のタイトルは ”Fairy Tale Fight for James J. Braddock?” 暗い時代に振ってわいた「御伽噺」に民衆は一抹の光明を見出し熱狂したのである。

  1929年10月24日(木曜日)、ニューヨーク、ウォール街の株式市場で株が大暴落した。「暗黒の木曜日(ブラック・サースデイ)」)と呼ばれるこの悪夢の日に端を発し、恐慌の波は全資本主義諸国に波及した。価格暴落、破産、失業。瞬く間に恐慌は人類がかつて経験したことのない未曾有の「世界大恐慌」に発展してゆく。アメリカの実質 GNP は33年にかけて30%も低下し、卸売物価も年に10%以上も下落した。閉鎖された銀行数はこの間およそ1万行に達し、33年の失業率は24%に達した。何と4人に1人は職がなかったことになる! 全財産を一夜で失い、何人もの人々が首をつり、頭を銃で撃ちぬいた。91年のバブル崩壊など比べものにならないほどの社会崩壊現象。人々はただ今日をどう生きるかしか考えられなかった。 1933年3月、ルーズベルトは有名なニューディール政策を開始する。これは一種の限定された社会主義政策だった。資本主義に幻滅した知識人は一斉に左傾化してゆく。この大恐慌からアメリカを立ち直らせたのは皮肉にも第二次世界大戦であった。戦争特需で景気が回復する。直接の戦場にならなかったアメリカは50年代に空前の繁栄を享受する。戦争で疲弊したヨーロッパの列強を大きく引き離して、世界一の超大国にのし上がったのである。折からの冷戦状態のさなか、マッカーシーは赤狩りで左翼たちを追放し始める。赤狩りは30年代からの「負の遺産」の「清算」だった。

  このへんで「シンデレラマン」に戻ろう。1933年、ジミー・ブラドック(ラッセル・クロウ)はかつて連戦連勝で稼いだ大金を大恐慌によってすべて失ってしまった。いまは港湾の日雇い仕事とボクシングの試合(昔のようには勝てないが)で細々と食いつないでいる。仕事場の柵の前に集まった男たちはその日の仕事に必要な人数だけ雇われる。ジミーも雇われreath1 る日もあれば空振りの日もある。仕事にあぶれた男たちが立ち去ってゆく足元には「失業者1500万人に達する」という見出しを掲げた新聞が捨てられている。わずかな仕事に群がる失業者たち。どこの国でも変わらないよく見かける光景。「怒りの葡萄」や今井正の「どっこい生きてる」など、これまで世界中の多くの映画に映し出された場面。面白いのはこの労働が結果的にジミーに幸運をもたらしていることである。全盛期の彼は強烈な右のパンチが武器だった。しかし試合で手の指を骨折したために右手をかばって荷揚げ仕事をしていたおかげで、いつの間にか左手が強くなっていたのである。日雇い労働で鍛えた体力と左右ともに強力になったパンチ、中年ボクサーであったにもかかわらず、彼がヘビー級の世界チャンピオンに上り詰められたのは、日々の労働のおかげだった、こういう描き方に共感が持てる。

  しかしこれほど働いても家計は苦しい。妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)も縫い物をして家計を助けているが当然わずかな稼ぎしかない。3人の子供をかかえた家族5人、苦しい生活が続く。映画は彼を高潔な人物として描いてゆく。彼は酒におぼれはしなかった。鬱憤晴らしに妻や子供にあたったりもしない。長男が肉屋からサラミを盗んできた時には、「いくら苦しいからといって、他人ものを盗んではいけない。それは悪いことだよ」と優しく諭す。「お前は決してよそにやらない」と息子に誓ったのはこの時だ。典型的な家族思いのやさしい父親像。これがいやみにならないのは彼の必死な生活との闘いが描かれているからだ。手の指を骨折した時にはギブスを雇用者に見咎められないために靴墨で黒く塗ってまで仕事を求めに行った。電気が止められ、寒さのあまりに体調を崩していく子供たちを見かねて妻のメイが一時的に父や妹の元に預けた時、ジミーは恥を偲んで救済所で金を受け取り、それでも足りないのでボクシング委員会を訪れ金を無心する。屈辱の行為。本当に家族のことを思っていなければ出来ないことだ。家族のためならプライドも捨てる、彼の強さはここにあったと言っていいだろう。比ゆ的ではなく、文字通りのハングリー精神。信念のボクサー。

  彼の苦しい家計をさらに追い詰めていたのは手を怪我しているにもかかわらず試合をしたためにライセンスを取り上げられたことだ。その時彼も失業者の仲間入りをしたのである。そんなある日、元マネージャーのジョー・グールド(ポール・ジアマッティ)から一夜限りの復帰試合の話が持ち込まれる。ヘビー級2位の強豪との対戦。勝ち負けに拘わらずファイトマネーは250ドル。賞金の250ドルは今の彼にとっては大金である。ジムは家族を救えるという一心で試合を引き受ける。既にガウンもシューズもグローブも売り払って金に替えていたジミーは一式全部借りてリングに上がる。こういう細かいところまで描きこんでいるところがこの映画のリアリティを支えている。ところが、負けて当然のこの試合で左のパンチ力が上がっていたジムはなんとKO勝ちしてしまう。ここから彼の運が向いてきた。

  その試合後の日雇いの仕事場での会話が実にいい。「賞金250ドル。俺の取り分は123ドル。借金が118ドル。残りは5ドル。」雇い主が言う、「金持ちだな。」ジム、「この辺ではね。」せっかくの賞金も借金の返済でほとんど消え、残ったのはわずか5ドル。それでも「金持ち」とは!そういう時代だったのだ。

  その後ライセンスを取り戻し、ジミーは勝ち続けついにヘビー級のタイトルマッチに臨むことになる。このあたりでは妻のメイとマネージャーのジョーが重要な役割を果たしている。特にポール・ジアマッティが素晴らしい。「サイドウェイ」でも素晴らしい演技を見せたが、ここでもまた全く違うキャラクターを演じてみせた。心からジミーの才能を信頼し、最後まで彼とともに戦った。はげた顔が「サイドウェイ」では情けない男役にぴったりだったが、ここではどこか愛嬌のある顔になる。しかし試合中のセコンド役になると大声でジミーを励まし怒鳴りつける。ほとんどアドリブなのだそうだが、昔からセコンドをやっていたかのように見えるところはさすが。名優だ。

  メイとの絡みもいい。メイは夫のことを心配して試合をやめさせようと(今度は手の骨折ではすまないかもしれない)マネージャーのジョーに直接掛け合いに行く。夫に殴り合いをさせておいて、自分だけはヒルのようにうまい血をすすっているんだろうとジョーを怒鳴りつける。しかしその部屋に入ってみて彼女は愕然とする。大きな部屋だがなんと家具はテーブル一つしかなかった。ジミーにトレーニング代の175ドルを渡すために最後の家具を売り払ったのだ。内実は苦しくても外面は見栄を張らざるを得ないマネージャー稼業。そこまでしてジミーを支えているジョーに対するメイの気持ちは変わる。ジョーの言う「夢は大切だ」と言う言葉に時代の雰囲気が響いている。

  しかし試合をやめさせたいというメイの気持ち自体は変わらない。必死でジミーを説得する彼女の気持が真摯であるだけに胸を打つ。大怪我して帰ってくるかもしれない夫を家でじっと待っている彼女の気持ちはどんなだったろう。彼女は心から訴える。「試合のたびにほどほどの怪我でボクシングが出来なくなってほしいと祈っていたの。ライセンスを取り上げられた時は神に感謝したわ。今度は殺される。」そう説得するメイに、ジムは「人生をこの手で変えられると信じたいんだ。つらい境遇をよくすることができると」と答える。メイは引き下がらない。「私はあなたに無事でいてほしいの。」どちらの気持ちも理解できる。理解できるだけにこちらも切ない。このあたりの描き方は見事だ。

  試合当日の家族との別れの場面も秀逸だ。ジミーは女の子と次男にキスをする。長男には握手する。次男もまた握手をせがむ。心配で見ていられない妻にはあえてキスもせず言葉もかけない。振り切るようにして車に乗り込む。こういうさりげない描写が実に効いている。

 実はメイはこのときには気持ちを既に入れ替えていた。控え室にメイがやってくる。「私の支えがないと勝てないわ。」この言葉にはぐっと来た。ジミーを励ますメイの言葉がいい。「バーゲン郡のブラドック、ニュージャージー州の誇り、国民のみんなの星」、ここまでは彼につけられた称号だ。さらにメイは続ける。「子供たちのヒーロー、私の心のチャンピオン。」この映画が家族の愛と絆を描いたことがこの言葉に象徴されている。

  試合に臨むジミーは決して精悍な感じではない。これが実にリアルでいい。頬がこけ、背中が丸まった姿勢に中年の雰囲気が漂っている。つやの失せた、どこか疲れたような、やつれた中年ボクサー。彼はリングに上る。ここから最後の死闘が始まる。最終ラウンドまでもつれ込んだすさまじい試合だった。相手役を演じたのは現役ボクサーである。ラッセル・クロウは撮影中けがをしたり入院までしたようだ。その甲斐あって試合の緊迫感・スピード感はかなりのものに仕上がっている。

  ブラドックは勝った。映画はその後の彼の経歴を字幕で伝えて終わる。金もなくプライドまで捨てて家族のために生きた男。持っていたものは自分の体一つと家族への愛と希望だけ。生活援助を受けていた男が熊の様なチャンピオンを倒し、多くの人たちに夢と希望を与えた。彼がリングで打ち倒したものは貧困と喪失感だったのかもしれない。彼はミルクのために時代と戦ったのである。

2006年1月31日 (火)

彼女を信じないでください

dan01bw 2004年 韓国
脚本:チェ・ヒデ
監督:ペ・ヒョンジュン
撮影:ユン・ホンシク
出演:キム・ハヌル、カン・ドンウォン、ソン・ジェホ
    キム・ジヨン、ナム・スジョン イム・ハリョン
    キム・ウニョン、リュ・テホ、ク・ヘリョン、イ・ヨンウン

  この1、2年の韓国映画の日本流入量はすさまじい限りだ。もう何でもいい、手に入る限り持ってこいといった感じである。韓国映画のレベルは相変わらず高いのだが、これだけ大量に入ってきたのでは選ぶのに苦労する。当然ハズレも覚悟しなければならない。「彼女を信じないでください」はもともとそれほど期待もしていなかったが、出来はまあ標準といったところか。

 「下妻物語」「茶の味」「東京原発」「笑の大学」「約三十の嘘」「運命じゃない人」「ALWAYS三丁目の夕日」「THE有頂天ホテル」とこのところの日本映画には良質のコメディが目白押しだが、好調な韓国映画でも不思議とこの分野には洗練された作品があまりない。韓国のコメディ映画はそれほど多くは観ていないので偏った見方になっているかもしれないが、美男美女を並べて下手な芝居をさせているだけの安易な作品が多い気がする。ほとんどテレビ・ドラマのレベルにとどまっているのではないか。中国では「キープ・クール」「ハッピー・フューネラル」のようなとことん話を広げてゆく大げさな笑いが主流のようで、これまた日本人にはエグすぎて逆に笑えないようだが、それでも韓国物より数段良い。「至福のとき」のような優れた人情喜劇もある。台湾の「熱帯魚」「ヤンヤン夏の思い出」等もレベルの高いコメディだと言える。

  僕の知っている限りでは、傑作と呼べる韓国のコメディは「猟奇的な彼女」「反則王」くらいである。様々なジャンルで数多くの傑作を生み出している韓国で、なぜこれほどコメディのレベルが低いのか。一番の理由は、なんと言っても若い世代を相手に作っているとしか思えない安手の作りにある。美男美女さえそろえておけばそれで満足してくれるさ、という安直な安物。志が低すぎる。「僕の彼女を紹介します」はその典型。チョン・ジヒョンを観るためだけの映画で、それ以上ではない(もっともこの映画の彼女はちっとも美女には見えなかったが)。志の低い安易な映画だから、作りもお決まりのパターン通り。「彼女を信じないでください」は「猟奇的な彼女」のパターンをそっくり頂いている。気の強い女性と気が優しくドジな男、コメディに涙を誘う味付けを加えるという展開。女性が「暴力的」なところまで一緒だ。

  作品のテーマよりも美男美女を見せることにそもそもの狙いがあるのだから、いいものが出来ようはずもない。韓国得意のラブコメもかなりこれに近い状態で、「八月のクリスマス」、「イルマーレ」、「美術館の隣の動物園」「永遠の片想い」等の傑作も生んではいるが、美男美女の組み合わせをとっかえひっかえしただけの安易で安手の作品を大量に垂れ流している。恐らく韓国では映画もドラマもこれらの安手のコメディとラブコメが庶民に一番受けるのではないか。傑作も生まれはするがそれはあくまで例外で、多くは大衆に迎合して、パターン通りの作品を量産してお茶を濁しているのだろう。安易なつくりでも日本では結構受けるのだから、これまた情けない。日本のドラマが同じ程度のレベルだから、むしろすんなり入ってくるのだろうか。

 「彼女を信じないでください」やこの手のコメディに共通する一番の問題は、役者のわざとらしい演技と、あえてそれをやらせた演出にある。ひどいと言えばあまりにひどい。学芸会や大道芸並みの田舎芝居。あまりのバカバカしいわざとらしさに終始冷めて観ていた。キム・ハヌルを一流のコメディエンヌであるとまで褒め上げる人がいるのは信じられない。ただ、さすがに話題になっただけあってストーリーや仕掛けは悪くない。役者も、主役の二人032561 はともかく、周りの脇役(ソン・ジェホとキム・ジヨンが出色)は皆大げさな演技をしていないのでなかなか良い。ストーリー展開は決して悪くはないのだから、うまく演出すればかなりの傑作になったかもしれない。主役二人のわざとらしくて大げさな演技を取り除けば、それだけでもかなり映画全体の水準は上がるはずだ。キム・ハヌルがしてやったりとほくそえむショットがやたらと出てくる。これなど日本のドラマによく出てくる、聞き込みに来た刑事が帰った後、愛想笑いを浮かべていた悪役がにたりと笑う場面と全く同じだ。下手な演出の見本である。キム・ハヌルが本当に騙されて捨てられた女のように振舞ってこそ、そして周りの人たちがそれを本気にして同情してこそ、自然な笑いが起きてくるのである。やたらと目をむきおたおたするカン・ドンウォンの演技も日本のお笑いのショート・コント並だが、キム・ハヌルがまともに捨てられた女を演じていれば彼の大げさな演技も生きてくる。周りはみんな真剣に怒っているのに、彼だけが訳が分からずおたおたする。ボケと突っ込みの呼吸。これでこそコメディだ。キム・ハヌルがしょっちゅうにんまりしてわざとらしく演じていたのでは全部ぶち壊しなのである。一流の詐欺師という設定なのだから。名脇役ソン・ジェホとキム・ジヨンは一切大げさでわざとらしい演技をしていない。だから笑えるのである。あけすけな話をものすごい勢いで喋りまくる田舎のおばちゃんたちだって、滑稽に振舞おうとしてはいない。いつもどおりに喋り捲っているから面白いのである。彼女たちの話し振りから田舎の普段の生活が自然にあぶりだされてくるからである。ここをきちんと押さえなければ一流のコメディにはならない。キム・ハヌルやカン・ドンウォンにソン・ガンホ並の演技を期待することはそもそも無理なのだが、滑稽な身振りをしなくてもコメディを作ることは出来るのだ。

  演出も工夫が必要である。無理やり作っている場面が多い。その典型はヨンジュ(キム・ハヌル)とヒチョル(カン・ドンウォン)の出会いの場面。ヒチョルはヨンジュの座席の下に落とした指輪を拾いたいだけだから、彼女に声をかけてちょっとどいてもらい、指輪を拾えばすむことである。それをわざわざ彼女の足元にひざまずいて座席の下を覗かせるのは、痴漢と間違えさせてぼこぼこに殴られる「猟奇的な彼女」的展開にもって行きたかったからである。だったらもっと無理なくそうなる展開を考えるべきだ。せっかくの面白い場面なのに、このわざとらしい演出がその効果を半減させている。

  それに比べると、しつこいタクシー運転手にヨンジュが思わず「新しい嫁です」とつい口からでまかせを言ってしまったために、話がとんでもない方向にねじれてゆくあたりの展開はよく出来ている。素朴でお人よしの田舎の人たちを騙し続けるためにまた嘘をつき、こうして嘘はどんどん膨れ上がってゆく。とんでもない嘘のシナリオが作り上げられてゆく。何もしらないヒチョルが帰ってくると、電車でたまたま会っただけの女が自分の婚約者になりすましてちゃっかり家に入り込んでいて、自分はいつの間にか彼女を妊娠させて見捨てた血も涙もない極悪人に仕立てられていた。コメディの状況設定としてはよく出来ている。このあたりはドタバタ調になる。さらに見せ場の一つである「Mr.唐辛子コンテスト」を経て、やがて映画の色調は互いに毛嫌いしていた二人がどんどん惹かれ合ってゆくラブロマンスへと転じてゆく。このあたりの展開も悪くはない。やはりキム・ハヌルは「猟奇的な彼女」路線よりも「リメンバー・ミー」路線(作品としては今一だったが)の方が似合う。少なくとも無理して演じているという違和感はない。ヨンジュを変えていったのは温かいヒチョルの家族たちだったという展開も共感できる。

  監督のペ・ヒョンジュンはこれが処女作である。第1作としてはまずまずの出来か。スター中心の映画作りという以前から心配していた状況がかなり進行してきた韓国映画界だが、優れた新人監督の育成という点ではまだ相当な成果を上げている。ペ・ヒョンジュン監督も作品を作り続けてゆく間にいずれ優れた作品を物するだろう。粗製濫造体制に近づいてきたとはいえ、韓国映画界はまだまだそんな期待をさせるだけの勢いを持っている。

2006年1月30日 (月)

イギリス小説を読む⑧ 『夏の鳥かご』

<今回のテーマ>人形の家を出た女たち

(1)20世紀イギリスを代表する女性作家
Virginia Woolf(1882-1941)        『灯台へ』(新潮文庫)、『ダロウェイ夫人』(新潮文庫)
Katherine Mansfield(1888-1923) 『マンスフィールド短編集』(新潮社)
Jean Rhys(1890-1979)            『サルガッソーの広い海』(みすず書房)
Elizabeth Bowen(1899-1973)      『パリの家』(集英社文庫)
Daphne du Maurier(1907-  )      『レベッカ』(新潮社文庫)
Muriel Sarah Spark(1918-  )     『死を忘れるな』(白水社)
Doris Lessing(1919-  )            『一人の男と二人の女』(福武文庫)
Iris Murdoch(1919-  )            『鐘』(集英社文庫)
Anita Brookner(1928-  )           『秋のホテル』、『異国の秋』(晶文社)
Edna O'Brien(1932-  )             『カントリー・ガール』(集英社文庫)
Fay Weldon(1933-  )              『ジョアンナ・メイのクローンたち』(集英社)
Emma Tennant(1939-  )           『ペンバリー館』(筑摩書房)
Margaret Drabble(1939-  )       『碾臼』(河出文庫)、『夏の鳥かご』(新潮社)
Margaret Atwood(1939-  )        『浮かびあがる』(新水社)、『サバイバル』(御茶の水書房)
Susan Hill(1942-  )                 『その年の春に』(創流社)
Angela Carter(1940-92)            『血染めの部屋』(筑摩文庫)、『ワイズ・チルドレン』(早川文庫)

(2)マーガレット・ドラブル著作年表、および略歴
1963  A Summer Bird-Cage   『夏の鳥かご』(新潮社)
1964  The Garrick Year           『季節のない愛--ギャリックの年』(サンリオ)
1965  The Millstone        『碾臼』(河出文庫)
1967  Jerusalem the Golden   『黄金のイェルサレム』(河出書房新社)
1969  The Waterfall               『滝』(晶文社)
1972  The Needle's Eye           『針の眼』(新潮社)
1975  The Realms of Gold         『黄金の王国』(サンリオ)
1977  The Ice Age                 『氷河期』(早川書房)
1980  The Middle Ground
1987  The Radiant Waysedang3
1989  A Natural Curiosity
1991  The Gates of Ivory
1996  The Witch of Exmoor

(略歴)
  シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学のニューナム・コレッジで英文学を専攻し、最優秀で卒業した。ロイヤル・シェークスピア劇団の俳優であるクライブ・スイフトと結婚。『夏の鳥かご』で作家としてデビューした。自分とほぼ同年代の若い女性をヒロインにし、女性の自立、不倫、未婚の母などのテーマを描くのが得意。妹のアントニア・バイアットも作家で、現代のブロンテ姉妹と言われている。

(3)『夏の鳥かご』と現代的ヒロイン
  ヒロインのセアラ・ベネットはオックスフォードを優秀な成績で卒業した若い知的な女性である。物語はセアラが姉ルイーズの結婚式に出席するために、パリからイギリスに戻ってくるところから始まる。姉のルイーズは「くらくらするような美人」で、男にもてはやされているため、セアラはいつも引け目を感じている。姉の方もセアラのことなど眼中になく、二人の仲はよそよそしい関係である。

  特に物語の進行に筋らしい筋はない。物語は、姉の結婚式、披露宴、セアラのロンドンへの引っ越し、ジャーナリストと俳優の友人たちが開いたパーティ、姉の新居でのパーティ、姉とその愛人である俳優との逢い引きへの同伴、姉の結婚の破綻と告白、とエピソードの積み重ねだけで進行している。全体として会話が中心の展開となっている。セアラは観察や考察もするが、それも自分自身やごく身の回りのことに関心を向けることが多い。

  しかし何らかのテーマがないというわけではない。若い女性のヒロインと周りの人々との会話を通して、ヒロインの価値観と他の人々の価値観のぶつかりあいが浮かび上がってくるのである。そのヒロインを取り巻く人々の中でとりわけ重要なのは姉のルイーズである。ルイーズと彼女の世界を理解しようとすることが中心的テーマになっている。それはまたセアラ自身とその世界を理解することでもある。

  この小説の一つの特徴は女性特有の視点や会話が満ちあふれていることである。19世紀にも多くの女性作家が活躍していたが、その文体は基本的には男の文体で、考え方や行動も当時の社会的規範からそれほど大きくはみ出してはいなかった。一方、『夏の鳥かご』はさすがに20世紀の小説ということもあって、ヒロインの考え方や行動や話し方は現実の若い女性のそれに非常に近い。衣服や靴などに目が行く、相手や自分が口にしたことをいちいちあれこれと気にする、矛盾したり、本音とは裏腹のことを言ったりする。作者のドラブル自身この点を明確に表明している。  「ケンブリッジを卒業したとき、小説という形態は未来ではなく過去に属するものだと考えておりました。...ところが...ソール・ベローの『雨の王ヘンダーソン』...J.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』...を読んでみたら、突然小説は20世紀に属するものなのだ、自分自身の声で語り、自分自身の声で書くことが可能なのだ、と思われました。」『女性小説の伝統』(1982)

  しかし、20世紀に入って女性の生き方はどれだけましになったのだろうか。『人形の家』のノラが家を出た後にたどる運命は、魯迅が予言したとおりこの20世紀のヒロインに当てはまるのか。この点についても検討していきたい。

<ヒロイン・セアラの性格分析>
  登場したときからセアラは人生の目標を見いだせないでいる。オックスフォード卒業後すぐにパリに行ったが、ただ暇つぶしに出掛けただけで、特に何をしたわけでもない。パリからイギリスに戻る汽車の中で、セアラは「仕事とか、真剣さとか、教育を受け過ぎて使命感を失った若い女性は自分をどう扱うべきかといった問題を」ずっと考え続けていた。せっかく優秀な成績で大学を出ても、彼女には人生の目的が見いだせていなかった。そこには人生のさまざまなやっかいな問題から遠ざかっていたいというヒロインの意識が現れていると言える。彼女は「わたしって、適応しないものが好きなのよ。...社会的な関わりのない人が好きなんだわ」とはっきり言う。彼女は親友のシモーヌが好きなのだが、それは彼女のような「無責任になりたい」からである。ここで言う「無責任」とはいろんな束縛から自由でいられるという意味だと思われる。セアラは自由にあこがれているのだ。しかし、彼女は決していいかげんな女性ではない。むしろ自分を「退屈な勉強家」だと卑下しているくらいである。にもかかわらず、セアラは「卒業後何をやるか考えていない」「自分が何をしたいのかわからない」と言うのである。彼女は大学卒業後結局BBCに勤めるが、そこでの様子は一切描かれない。仕事をする彼女の姿が全く描かれていないのである。まるで生活のためにとりあえずやっているだけの仕事であるかのように。そして、実際そうなのだ。「お勤めなんてひまつぶしのひとつだわ」と彼女は公言してはばからない。恐らく彼女のこの不安定な状態は、「人形の家」から飛び出したものの、まだ十分女性の社会的地位が固まっていないため、自分の生きがいを見いだすに至っていなかった当時の女性の現状の反映と言えるかもしれない。何をやりたいかは分からないが、古い価値観という束縛には縛られるのはいやだ。とにかく自由でいたい。この心理は今の女性でもある程度は共感できるのではないか。逆に言えば、今日でも1963年当時とさほど大きな違いはないということになる。

  一方姉のルイーズは「とびきりの美人」で「彼女が街を歩くと、みんなが振り替える」ほどである。しかし三つ年下の妹のことは全く相手にもしていない。8歳から13歳まではセアラは「ルイーズを追い回し、まめまめしく仕え、ほんの親しみのひとかけらでも恵んでもらおうと努めた時代もあった。」ルイーズが全寮制の学校に入った頃は、彼女が休暇で帰ってくる前から「毎日カレンダーの日付を斜線で消し」今か今かと待ち望んでいたのだが、いざ汽車が着いてみるとルイーズはセアラの存在を無視して両親にキスをしたのだった。13歳をすぎたころに、セアラは「自分の威厳を取り戻し、ついにはルイーズに背を向けてしまった」のである。今では互いに冷淡になっており、ほとんど会うこともない。だが、ルイーズの結婚後何度か彼女と会ったり、知り合いたちと話したりするうちに、実は自分はルイーズと似ているのだとセアラは気づかされたり、自分で気づいたりすることになる。ジョンには「きみは彼女に似ているね」「二人とも釘のように頑丈だ」と言われ、自分でもあるとき「二人とも真面目な人間なのだ」と気づく。姉自身からも「わたしたち肉食性だと思わない?わたしたち食べられるより食べる方がいい。」「わたしたちは同類なのよ、あなたもわたしも」とはっきり言われる。

art-pure2003b   似ているがゆえに互いに反発しあうということはよくあることだ。ましてや、ともに「肉食性」であればなおさら歩み寄れない。ルイーズに対するセアラの反発の根底には、姉の方が美人で、いつも自分の方が負ける、自分は「才知はあるが、美貌ではない」というコンプレックスがある。しかし、あるときダフニーというメガネをかけた醜いいとこのことを姉と二人で散々こき下ろした後で、セアラは[自分がかくも恵まれた身であることの栄光と後ろめたさを絶えず感じている」ことを意識する。肉体は天からの賜物である。「美しい肉体をもつ者は、この世を大いに利用するがいい」と考えるに至るのだ。このセアラの考えはほとんどルイーズのそれに近い。彼女はどうやらルイーズの後を追っているようだ。

  ではルイーズはどうなったのか。作品の一番最後のあたりで、ルイーズがドッレシングガウン一枚しか身につけていない格好でセアラのアパートに駆け込んでくる場面がある。実は金持ちで作家のスティーヴンと結婚したルイーズは、結婚後も公然と愛人のジョンと浮気を続けていたのだが、あるとき二人でシャワーを浴びているところに思いもかけず夫が帰って来たのである。セアラははじめて姉と腹を割って話をする。なぜジョンと結婚したのかとセアラが聞くと、ルイーズは「お金のためよ」と平然と答える。貧乏だけはしたくなかった、金持ちと結婚すれば貧乏することはないと考えたというのだ。かつて美人だったステラという友達の惨めな結婚生活を見て、自分はあんなふうにはなりたくないと思ったとも言う。そして泣き始める。初めて心の奥底を打ち明け会った二人はその後仲良くなり、互いに良い関係を保っている。後に、結婚したのは妹に追い越されまいとしたからだとルイーズは打ち明けている。その後ルイーズは夫とは別居し、愛人のジョンと同棲していることを読者に伝えて、小説は終わっている。

<セアラとルイーズ>
  セアラとルイーズは19世紀の小説にはまず登場し得ないキャラクターである。間違いなく20世紀のヒロインだ。1960年代に登場したセアラは古い価値観に反発する。「わたし自身は、食事を作ってもらったり床をのべてもらったりするような契約的な慰めに負ける自分をときどき軽蔑するのだけれど、ママはそういうことが悪いとは少しも思わない。ママは面倒を看てもらうのが好きなのは弱さの証拠だとは思わないし、それが当然だと思っている。」結婚式の当日にルイーズが「ヴァージンのまま結婚するのって、どんな気持ちだと思う?」とセアラに聞くと、セアラは「不潔な純白さっていうとこかしら」、「きっと屠殺場に曳かれて行く子羊みたいな感じかしら」と答える。これは19世紀の作家には絶対書けないせりふである。セアラの友達のギルも、夫にヤカンを火にかけろと言われて断ったのが離婚のきっかけだった。これも19世紀までなら考えられないことである。

  しかし、一方でセアラは古い価値観ももっている。結婚なんかいやだと言いながらも、結婚にはあこがれている。セアラにはオックスフォードで知り合ったフランシスという婚約者がいて、今はアメリカのハーバード大学にいるのだが、彼には忠誠を誓い浮気はしない、彼が帰って来たら結婚すると考えている。結婚式の時にルイーズが「大きな純白の百合」の花束をもっているのを見て、セアラはルイーズがひどくもろく見えると思った。「男は万事問題ない。彼らは明確に定義され、囲まれている。しかし、わたしたち女は、生きるために、来る者すべてにオープンで、生で接しなくてはならない。...すべての女が、敗北を運命づけられているのを感じた。」これは一瞬の感傷だったのかも知れないが、あのごうまんなルイーズにも弱さを感じたことは気の迷いだけとは言い切れないだろう。

  セアラは気持ちだけは強気である。彼女は、ギルは自分と比べると「もっと寛大で、率直で、自意識過剰でなくて、癖がない」と言っているが、とすれば、セアラはその逆だということになる。自意識過剰で、癖のあるセアラは斜に構えて世間を見ている。これは世間に対する攻撃姿勢であると同時に、世間から自由でいたいという防御の姿勢でもあろう。何と言っても自分の目標を見いだせないセアラは、大地に根を張っていない宙ぶらりんな存在なのである。ルイーズはそんな妹を「一番特権的で肉食的な人のひとりよ」と表現している。「特権的」という言葉は的を射ている。何と言っても、一流の大学を出られて、適当にBBCで働いていてもやって行ける身分なのだ。その気楽さが彼女の一見浮ついたように見える態度の根底にある。セアラはいとこのダフニーを口を極めてこき下ろすが(「あのひとを見てると、動物園の飼い馴らされたうすぎたない動物を思い出す」)、その一方で彼女は脅威になりそうだと感じてもいる。たとえ醜い女でも、真面目に努力しているダフニーはやはり彼女よりもはるかに堅実に生きているのである。その弱みがダフニーを脅威と感じさせるのである。そういう社会に根付いていない自分の存在を自覚しているからこそ、自由でいられるパリやイタリアへの憧れをつのらせるのである。

 『夏の鳥かご』で描かれている世界は、イギリスの中流階級の、饒舌だが、目的も価値観も見いだせないでいる世界なのである。主人公の二人の姉妹のみならず、他のカップルも離婚したり、浮気したり、貧困にあえいでいたりで、うまく行っている夫婦や恋人たちはほんのわずかしか登場しない。タイトルの「鳥かご」はジョン・ウェブスターの「それは夏の鳥かごのようなものだ。外の鳥は中に入ることをあきらめ、中の鳥は絶望して二度と外に出られないかと不安のあまり衰え果てるのだ」から取っている。「鳥かご」はドラブルの作品の場合、結婚あるいは女性の境遇を指していると思われる。「人形の家」を出ても、女たちはまだ鳥かごの中に入ったままなのである。

  自分はルイーズに似ているとセアラは自分でも気づくが、そのルイーズの結婚は失敗に終わった。これはセアラにとって不吉な予兆とも言える。セアラがその後どうなったかは描かれていない。フランシスと無事結婚できたのか、読者の想像にまかされている。しかしその読者にはもう一つ不吉な言葉が与えられている。シェイクスピアのソネットが作中引用されているが、その引用の最後は「腐った百合の花は、雑草よりはるかにいやな匂いがする」である。ルイーズが結婚式のときに持っていた花束は「大きな純白の百合」の花束だった。はたしてセアラは腐らない「純白の百合」の生き方を目指すのか、それともたくましい「雑草」の生き方目指すのか。「純白の百合」であれ「雑草」であれ、腐らずに生き続けるためには、何らかの生きる目標を見いだすことが必要だろう。満足な目標を見いだすためには、まず彼女の前に努力してつかみ取るに値する、女性にとって価値のある目標が存在しなければならない。それを生み出すのは時代である。セアラの模索は続くだろう。そして、その後も何千人何万人のセアラたちの迷いと模索は続いているのである。

人気blogランキングへ

2006年1月29日 (日)

イギリス小説を読む⑦ 『土曜の夜と日曜の朝』

  このところ忙しくてなかなか映画を観られません。もうしばらくイギリス小説にお付き合いください。

今回のテーマ:工場労働者出身のヒーロー night2

【アラン・シリトー作品年表(翻訳があるもののみ)】
 Alan Sillitoe(1928-  )  
Saturday Night and Sunday Morning(1958) 
   『土曜の夜と日曜の朝』(新潮文庫)
Lonliness of the Long Distance Runner(1959)
  『長距離ランナーの孤独』(集英社文庫)  
The General(1960)               『将軍』(早川書房)
Key to the Door(1961)              『ドアの鍵』(集英社文庫)  
The Ragman's Daughter(1963)        『屑屋の娘』(集英社文庫)
The Death of William Posters(1965)    『ウィリアム・ポスターズの死』(集英社文庫)
A Tree on Fire(1967)             『燃える木』(集英社)  
Guzman Go Home(1968)           『グスマン帰れ』(集英社文庫)  
A Start in Life(1970)              『華麗なる門出』(集英社)  
Travels in Nihilon(1971)            『ニヒロンへの旅』(講談社)  
Raw Marerial(1972)               『素材』(集英社)  
Men Women and Children(1973)       『ノッティンガム物語』(集英社文庫)  
The Flame of Life(1974)            『見えない炎』(集英社)  
The Second Chance and Other Stories(1981)  『悪魔の暦』(集英社)  
Out of the Whirlpool(1987)          『渦をのがれて』(角川書店)

【作者略歴】
 1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに、なめし革工場の労働者の息子として生まれた。この工業都市の貧民街に育ち、14歳で学校をやめ、自動車工場、ベニヤ板工場で働きはじめ、この時期の経験が、『土曜の夜と日曜の朝』など、一連の作品の重要な下地になった。19歳で英国空軍に入隊し、1947年から48年までマラヤに無電技手として派遣されていたが、肺結核にかかって本国に送還された。1年半の療養生活の間に大量の本を読み、詩や短編小説を試作した。病の癒えた後、スペイン領のマジョルカ島に行き、『土曜の夜と日曜の朝』と『長距離ランナーの孤独』を書き上げた。ロレンスを生んだ地方から新しい作家が現れた」と評判になった。その後ほぼ年1冊のペースで詩集、長編小説、短編集、旅行記、児童小説、戯曲などを発表している。1984年にはペンクラブ代表として来日している。

【作品の概要と特徴】
  アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』は、労働者階級を労働者側から描いた最初の作品と言ってよい。それまでも下層出身の主人公はいなかったわけではない。ハーディの『日陰者ジュード』の主人公は職人だった。シリトーと同郷の先輩作家D.H.ロレンスの『息子と恋人』(1913年)は炭鉱夫を主人公にしていた。しかし工場労働者が工場労働者であることを謳いながら工場労働者を描いた小説はそれまでなかった。しかも、『息子と恋人』の主人公ポール・モレルは炭鉱夫でありながら、そういう境遇から抜け出ようと志向し努力するのだが、シリトーの作品の主人公たちは上の階級入りを目指そうとはしない。

  シリトーはノッティンガムシャーの州都ノッティンガム出身。旋盤工の息子だが、D.H.ロレンスもノッティンガムシャーの「自分の名前もろくに書けない」生粋の炭鉱夫の息子である(母親は中流出身)。シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』を初めとする多くの作品はノッティンガムを舞台にしており、ロレンスの『息子と恋人』『虹』『チャタレー夫人の恋人』などもノッティンガムシャーを舞台にしている。ノッティンガムは、マンチェスターやバーミンガムとともに、イギリス中部の工業地帯を形づくる三角形の頂点の一つをなす都市であって、産業革命を契機に起こった労働者階級の暴動や運動には、中心的な役割を果たしてきた土地である。1810年代に起こった機械の破壊を目的とするラッダイトの暴動はここを中心としていたし、1830年代末から起こったチャーティズムの運動にも関係していた。この土地から、ロレンスとシリトーという二人の下層階級出身の小説家が出たことは、単なる偶然ではあるまい。

 シリトーはロレンスよりもほぼ半世紀遅れて作家活動を始めた作家で、文学史的には〃怒れる若者たち〃と呼ばれる一派、すなわち『怒りをこめて振り返れ』(1956年)のジョン・オズボーン、『ラッキー・ジム』(1954年)のキングズレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』(1953年)のジョン・ウェインなどとほぼ同時期に『土曜の夜と日曜の朝』(1958)が発表されたために、シリトーもその一派と見なされたりした。しかし〃怒れる若者たち〃がその後体制化し「怒り」を忘れてしまってからも、シリトーの主人公たちはなおも怒り続けた。

  なお、『土曜の夜と日曜の朝』は1960年にカレル・ライス監督により映画化され、こちらもイギリス映画の名作として知られる。もう1つの代表作『長距離ランナーの孤独』も1962年にトニー・リチャードソン監督により映画化されている。

<ストーリー>
  『土曜の夜と日曜の朝』は「土曜の夜」と「日曜の朝」の2部構成になっている。小説の始まりから終わりまでにほぼ1年が経過している。主人公のアーサー・シートンは旋盤工だが、金髪の美男子だ。15の時から自転車工場で働いている。重労働だが高賃金である。アーサーの父が失業手当だけで、5人の子供をかかえ、無一文で、稼ぐ当てもないどん底生活を送っていた戦前に比べれば、今は家にテレビもあり、生活は格段に楽になっている。アーサー自身も数百ポンドの蓄えがある。しかし明日にでもまた戦争が起こりそうな時代だった。

ukflag2_hh_w   作品はアーサーが土曜日の夜酒場での乱痴気騒ぎの果てにある男とのみ比べをして、したたかに酔っ払って階段を転げ落ちるところから始まる。月曜から土曜の昼まで毎日旋盤とにらめっこして働きづめの生活。週末の夜には羽目を外したくなるのも無理はない。しかし、アーサーの場合いささか度が外れている。ジン7杯とビール11杯。階段から転げ落ちた後もさらに数杯大ジョッキを飲み干した。挙句の果てに、出口近くで知らない客にゲロをぶっかけて逃走する。その後職場の同僚のジャックの家に転がり込む。ジャックは留守だ。亭主が留守の間に、彼の妻のブレンダと一晩を過ごした。

  アーサーは決して不まじめな人間というわけではなく、仕事には手を抜かず旋盤工としての腕も立つ。しかし、平日散々働いた後は、週末に大酒を飲み、他人の妻とよろしくやっている。月曜から金曜までの労働と、土曜と日曜の姦通と喧嘩の暮らし。まじめに働きながらも、ちゃっかり「人生の甘いこころよい部分を積極的に」楽しんでいる。しかもブレンダだけではなく、彼女の妹のウィニー(彼女も人妻)とも付き合っている。さらには、若いドリーンという娘にも手を出している。「彼はブレンダ、ウィニー、ドリーンを操ることに熱中してまるで舞台芸人みたいに、自分自身も空中に飛び上がってはそのたびにうまくだれかの柔らかいベッドに舞い降りた。」とんだ綱渡りだが、ついにはウィニーの夫である軍人とその仲間に取り囲まれ散々ぶちのめされる。祭の時にブレンダとウィニーを連れているところを、うっかりドリーンに見つかるというへままでしでかす。しかし何とかごまかした。アーサーは嘘もうまいのだ。「頭がふらふらのときだって嘘や言い訳をでっちあげるくらいはわけないからな。」

  アーサーの狡さはある程度は環境が作ったものだろう。アーサー自身「おれは手におえん雄山羊だから遮二無二世界をねじ曲げようとするんだが、無理もないぜ、世界のほうもおれをねじ曲げる気なんだから」と言っている。世界にねじ曲げられないためには、こっちもこすっからくなるしかない。軍隊時代は自分に「ずるっこく立ち回ること」だと言い聞かせて、自由になるまで2年間がまんした。「おれに味わえる唯一の平和は軍隊からきれいさっぱりおさらばして、こりやなぎの並木の土手から釣り糸を垂れるときか、愛する女といっしょに寝ているときしかない。」彼がハリネズミのように自分の周りに刺を突き立てるのは、自分を守るため、自分を失わないためだ。自分の定義は自分でする。「おれはおれ以外の何者でもない。そして、他人がおれを何者と考えようと、それは決しておれではない。」この自意識があったからこそ、彼は環境に埋没せずに、自分を保てたのだ。

  アーサーは政治的な人間ではない。確かに彼は「工場の前で箱に乗っかってしゃべりまくっている」連中が好きだとは言う。しかしそれは彼らが「でっぷり太った保守党の議員ども」や「労働党の阿呆ども」と違うからだ。アーサーは、自分は共産主義者ではない、平等分配という考え方を信じないと言っている。もともとアーサーの住む界隈は「アナーキストがかった労働党一色」の地域であった。実際、彼の自暴自棄とも思える無軌道なふるまいにはアナーキーなやけっぱちさがある。「おれはどんな障害とでも取っ組めるし、おれに襲いかかるどんな男でも、女でも叩きつぶしてやる。あんまり腹にすえかねたら全世界にでもぶつかって、粉々に吹き飛ばしてやるんだ」とか、「戦う相手はいくらもある、おふくろや女房、家主や職長、ポリ公、軍隊、政府」とか、勇ましい言葉を吐くが、結局ノッティンガムの狭い社会の中でとんがってずる賢く生きているだけだ。批評家たちからは、反体制的な反抗というよりも、非体制的な反抗だとよく指摘される。だが、反抗といっても他人の女房を寝取るという不道徳行為に命を賭けるといった、ささやかなものに過ぎない。むしろ今から見れば、将来の希望の見えない労働者の、酒や暴力で憂さを晴らし、人妻との恋愛に一時的な快楽を求める、刹那的な生き方と言った方が当たっているだろう。「武器としてなんとか役立つ唯一の原則は狡くたちまわることだ。...つまり一日中工場で働いて週に14ポンドぽっきりの給料を、週末ごとにやけっぱちみたいに浪費しながら、自分の孤独とほとんど無意識の窮屈な生活に閉じ込められて脱出しようともがいている男の狡さなのだ。」窮屈な生活から何とか逃れようともがいている、やけっぱちの男、これこそ彼を一言で表した表現であろう。

  そうは言っても、彼の生き方に全く共感できないわけではない。アーサーと言う人物は、80年代以降のイギリス映画によく出てくる一連の「悪党」ども、「トレイン・スポッティング」等の、「失業・貧困・犯罪」を描いた映画の主人公たちに一脈通じる要素がある。アーサーは彼らの「はしり」だと言ってもよい。イギリスの犯罪映画に奇妙な魅力があるように、『土曜の夜と日曜の朝』に描かれた庶民たちの生活には、裏町の煤けた棟割り長屋に住む庶民のしたたかな生活力と、おおらかな笑いが感じられる。西アフリカから来た黒人のサムをアーサーの伯母であるエイダの一家が歓迎する場面はほほえましいものがある。中にはからかったりする者もいるが、すぐにエイダはたしなめるし、みんなそれなりにこの「客」に気を使っている。アーサーがいとこのバートと飲んだ帰りに酔っ払いの男が道端に倒れているのを見て、家まで連れて帰るエピソードなどもある。この時代の「悪党」はまだ常識的な行動ができていたのだ。もっともバートはちゃっかり男の財布をくすねていたが(ただし空っぽだった)。

  面白いのは、最後にアーサーがドリーンと結婚することが暗示されていることである。この間男労働者もいよいよ年貢の納め時を悟ったようだ。最後の場面はアーサーが釣りをしているところである。「年配の男たちが結婚と呼ぶあの地獄の、眼がくらみ身の毛がよだつ絶壁のふちに立たされる」のはごめんだとうそぶいていた男が、釣り糸を見ながら、「おれ自身はもうひっかかってしまったのだし、これから一生その釣り針と格闘をつづけるしかなさそうだ」などと、しおらしく考えている。さて、どのような結婚生活を送るものやら。

« 2006年1月22日 - 2006年1月28日 | トップページ | 2006年2月5日 - 2006年2月11日 »

ゴブリンのHPと別館ブログ

フォト
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ