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2006年11月26日 - 2006年12月2日

2006年12月 2日 (土)

HPに「ソ連/ロシア映画作品年表」を掲載

  連載記事「あの頃名画座があった」や「ゴブリンのこれがおすすめ」シリーズを見てもらえば分かるように、僕は記録魔です。したがってリスト・マニアでもあります。今までも本館ホームページ「緑の杜のゴブリン」の<miscellany>コーナーに資料として「イラン映画作品年表」と「中国映画作品年表」、それから<イギリス映画の世界>コーナーに「イギリス映画作品年表」を載せていました。それに加えて、今日新たに「ソ連/ロシア映画作品年表」をHPに載せました。以前からソ連/ロシア映画が一般にはほとんど知られていないことを残念に思っていました。しかし知られていないだけで、実際は優れた作品がたくさんあります。決してエイゼンシュテインやタルコフスキーやミハルコフだけではありません。文芸映画や重厚なリアリズム映画ばかりでもありません。作品名が挙がっているだけの面白くもないリストですが、少しでもこの知られざる世界に関心を持ってもらえたら苦労して作った甲斐があります。観た作品の評価点つきで<miscellany>コーナーに入れてありますので、興味がある方は覗いてみてください。

 この間「ポセイドン」(三つ星半)、「PROMISE」(三つ星半)、「ココシリ」(五つ星)を観ました。「ココシリ」の出来が群を抜いています。「ヴェロニカ・ゲリン」を観た時のように、体中から怒りが噴出す思いで観ました。これまで観た映画は基本的にレビューを書くという姿勢でやってきましたが、前にも書いたように、映画を観る時間を削ってレビューを書いている有様でした。今後は観た中から作品を絞ってレビューを書くことにしました。これまではレビューを書くことを想定して、レビューを書くに値するものだけを選んで観ていました。路線を変更したおかげで「ポセイドン」や「PROMISE」を観る余裕が出来たわけです。当面このスタイルで行こうと思っています。

  そうそう、「ココシリ」は丁度今年観た100本目の映画でもあります。12月を「中国映画強化月間」にしましたので、「玲玲の電影日記」、「緑茶」に続いて「ココシリ」のレビューを近々載せます。

2006年11月30日 (木)

ポビーとディンガン

2005年 イギリス・オーストラリア 2005年11月公開 Alice4_1
評価:★★★★
原題:Opal Dream
監督:ピーター・カッタネオ
原作:ベン・ライス『ポビーとディンガン』(アーティストハウス)
脚本:ベン・ライス
撮影:ロバート・ハンフリーズ
編集:ジム・クラーク
出演:クリスチャン・ベイヤース 、 サファイア・ボイス
    ヴィンス・コロシモ、ジャクリーン・マッケンジー
    アビゲイル・ガジョン

  子供を主人公にした映画といえば、かつては誰でもフランスの「禁じられた遊び」(51、ルネ・クレマン監督)とスペインの「汚れなき悪戯」(55、ラディスラオ・バホダ監督)を思い浮かべたものだ。前者のナルシソ・イエペスの哀愁切々たるギターで知られる主題曲と後者のやはり哀愁を帯びた「マルセリーノの歌」も映画音楽の名曲として知られる。

  子供を主人公にした映画が増え始めたのは80年代以降だろう。90年代以降は爆発的に増えている。それと同時に一つ目立つ傾向は子供を主人公にしながらも重い社会的テーマを持った映画が増えていることである。エミール・クストリッツァ監督の「パパは出張中!」(1985)、ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」(1987)、ビレ・アウグスト監督の「ペレ」(1987)、ホセ・ルイス・クエルダ監督の「蝶の舌」(1999)、バフマン・ゴバディ監督の「酔っ払った馬の時間」(2000)、チャン・イーモウ監督の「あの子を探して」(2000)、アボルファズル・ジャリリ監督の「少年と砂漠のカフェ」(2001)、ハンダン・イペクチ監督の「少女ヘジャル」(2001)、フェルナンド・メイレレス監督の「シティ・オブ・ゴッド」(2002)、イマノル・ウリベ監督の「キャロルの初恋」(2002)、フィリップ・ノイス監督の「裸足の1500マイル」(2002)、セディク・バルマク監督の「アフガン零年」(2003)、等々。

  もちろん昔もなかったわけではない。ジョセフ・ロージー監督の「緑色の髪の少年」(1948)、サタジット・レイ監督の「大地のうた」(1955)、今井正監督の「キクとイサム」(1959)、アンドレイ・タルコフスキー監督の「僕の村は戦場だった」(1963)などの傑作を思い浮かべればいい。しかし目だって増えてきたのはやはり80年代以降だ。 小説の世界ではハリポタ・シリーズを始めファンタジー系がリアリズム系を圧倒しているが、どうやら映画ではリアリズム系統がファンタジー・コメディ系統と拮抗している。数の上ではファンタジー・コメディ系統のほうが多いだろうが、作品の出来は圧倒的にリアリズム系統のほうが高いので代表作を絞るとリアリズム系統の方が多数派になってしまう。国別に見ると、子供向けの映画やアニメを大量に製作しているアメリカや日本に対して、それ以外の国は子供が主人公でも大人向けのものが比較的多い気がする。恐らく子供をめぐる現実が変わってきていると同時に、子供を見る大人の目が変わっていているのだ。子供も現実の一部である。戦争やテロや貧困や飢えは男も女も老人も子供も区別しない。子供が戦争や飢えで何人死んだ、親が子供を殺した、子供が親を殺した、子供が子供を殺したというニュースが日常的な時代。そんな時代に今の子供たちは生きている。

  イギリスではどうか。世界一のファンタジー王国でありながら、子供を主人公にしたイギリス映画は意外に少ない。70年代までで名前を挙げるに値するのはデヴィッド・リーン監督の「オリヴァ・ツイスト」(1948)、ケン・ローチ監督の「ケス」(1969)、ライオネル・ジェフリーズ監督の「若草の祈り」(1970)、それにワリス・フセイン監督の「小さな恋のメロディ」(1971)くらいではないか。80年代以降でもジョン・ブーアマン監督の「戦場の小さな天使たち」(1987)、ダミアン・オドネル監督の「ぼくの国、パパの国」(1999)、マーク・ハーマン監督の「シーズン・チケット」(2000)、スティーブン・ダルドリー監督の「リトル・ダンサー」(2000)、ダニー・ボイル監督の「ミリオンズ」(2004)、ショーナ・オーバック監督の「Dearフランキー」(2004)、ハリポタ・シリーズ、そして今回取り上げるピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」(2005)くらいである。こちらもやはりファンタジー系統とリアリズム系統の作品が拮抗している。

  ピーター・カッタネオ監督の「ポビーとディンガン」はファンタジー系統の作品である。しかし王道を行く純粋ファンタジー作品ではない。より正確にはリアリズム的要素を含んだファンタジー映画なのである。映画の冒頭で、見事にカットされたオパールがクローズアップで映される。きらきらと輝く美しい宝石だ。オパールの原石自体は特に美しいものではない。Cutbranco_1 それが加工されてはじめて美しい宝石になる。映画の中ほどで、主人公のアシュモル少年 (クリスチャン・ベイヤース)が加工される過程を観察している場面が出てくる。原石から美しく輝くオパールが生まれるのを、文字通り目を輝かして眺めている。恐らく彼は、これはいくらの値がつくなどと考えてはいない。純粋にその美しさに感動している。その点では彼の妹ケリーアン(サファイア・ボイス)も同じだ。彼女は実際には存在しないポビーとディンガンという空想上の友達がいる。ケリーアンによれば、男の子のポビーは恥ずかしがり屋で、赤いマントを着てパンクっぽい髪型をしている。足は義足。女の子のディンガンは背の高い美人。おへそにきれいなオパールをはめている。二人とも平和主義者である。このおへそのオパールも彼女にとっては単なるきれいな飾りなのだろう。それがいくらで売れるなどと値踏みしたりはしない。

  しかし一方でそのオパールを血眼になって探し続けている大人たちがいる。オパールで一山当てようと目論んでいる男たちだ。中には殺気立っている連中もいる。後にアシュモルとケリーアンの父親レックス(ヴィンス・コロシモ)を泥棒だと裁判に訴える男などは、近くでアシュモルガ遊んでいるだけで追い払うほど神経質になっている。つまり、舞台となったオパール採掘場があるオーストラリアのライトニングリッジは、一攫千金を狙う男たちが集まる欲望渦巻く町なのである(レックスもオパール堀りの一人だが、彼の場合はそれほど欲得づくではない)。「荒野の決闘」の主題歌に使われた「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」というアメリカ民謡に”Dwelt a miner, forty-niner, and his daughter Clementine”という歌詞が出てくる。”forty-niner”とは1849年にカリフォルニアで金鉱が発見されてにわかにゴールドラッシュが起こった時に、一攫千金を狙って金鉱に殺到した人たちを指す。金鉱や採掘場というとどこかの会社が採掘権を買い取り、人を雇って採掘しているというイメージが強いが、何とここはゴールドラッシュ時のカリフォルニアさながらに、個人が採掘権を買って掘っているのである。だからいたるところに穴があり、その周りに掘り出した土を積み重ねた三角錘状の小山ができているという独特の景観をなしている。アリ塚の団地のような眺めである。

  これがファンタジーとリアリズムという二つの要素の土台である。オパールを純粋に美しいものとして見ている子供たち(兄のほうはそれが金になるということを知ってはいるが)と金儲けの手段として見る大人たち。そしてこの二つが接触した時事件が起こる。父親とアシュモルが採掘に出かけたときポビーとディンガンを一緒に連れて行った。母アニー(ジャクリーン・マッケンジー)と一緒にクリスマスのパーティに行くケリーアンを彼女の「友達たち」から引き離すためだ。ところがアシュモルたちは帰ってきたときにはポビーとディンガンのことなどすっかり忘れていた。ケリーアンはポビーとディンガンがいないと騒ぎ出す。まだ採掘場にいるかもしれないと夜探しに行く。その時他人の採掘場に踏み込んだため、疑い深い男に泥棒と間違われてしまうのだ。噂が町中に広がり彼らは白い目で見られる。ついには裁判まで起こされてしまう。

  このようにアシュモルたちウィリアムソン一家は街から孤立して行く。母は勤めていたスーパーを首になってしまう。母親のアニーは色白の美人だが、もともと彼女の意思でこんなさびしい田舎町に引っ越してきたわけではない。一家が危機に瀕した時、自分はこんな岩ばかりの奥地に引っ込んでいる人間ではないというそれまで抑えていた気持ちが噴き出しそうになる。一家はばらばらになりかかっていた。それを端的に表している印象的な場面がある。ふとアシュモルが母の部屋を覗いた時、母親のアニーは昔の写真を眺めていた。父と一緒の写真もあったが、彼女がじっと眺めていたのは父と結婚する前の別の恋人との写真だった。今の夫を選んだ自分の選択は正しかったのか?彼女の心にふっと湧いた迷い。アシュモルはそれを見逃さなかった。僕は今のパパが好きだ、ひょっとしたら違っていたかもしれない苗字より今のアシュモル・ウィリアムソンの方が好きだと母に言う。この一言で母親の迷いは吹き飛んだ。今この苦しい時こそ夫と子供たちを信頼しなければならない、彼女はそう思いなおしたはずだ。部屋を出てゆく息子にかけた「おやすみウィリアムソン」という言葉にその思いが込められている。

  この映画全体を通じてもっとも共感するのはアシュモルだろう。彼はそれまで居もしない二人の友達を信じている妹を馬鹿にしていた。困った奴だと思っていた。しかしケリーアンのお気に入りの遊び場だったトレーラーハウスを何者かがダイナマイトを仕掛けて吹き飛ばすなどの嫌がらせが起き、ケリーアンがショックで寝込んでしまうという事態になった時、彼は何としてでも妹のためにポビーとディンガンを見つけようと決意する。そこからの行動が素晴らしい。尋ね人のチラシを作るためにケリーアンにポビーとディンガンの似顔絵を書かせる場面などは「禁じられた遊び」を連想させるいい場面だ。妹が書いた絵をコピーして彼はチラシを町中に張る。そのチラシに「泥棒」という落書きが書かれようが、面と向かって冷やかされようが彼は毅然としていた。ただ慰めの言葉をかけるのではなく迷わず行動したこと、何よりも感動的なのはその点だ。

  ひょっとしたらポビーとディンガンはまだ坑道の中にいるかもしれないと妹が言うので、アシュモルは夜中に一人採掘抗まで行く。そこで彼はポビーとディンガンが好きだったロリポップの包み紙とオパールを発見する。家に戻った彼は妹に二人は坑道の中で「死んでいた」と伝える。

  彼がその時本当にポビーとディンガンの存在を信じる気持ちになったのかどうかは分からない。そう言えば妹が諦めると考えたのかもしれない。原作では発見されたのは加工されたオパールではなくその原石だったらしい。加工されたオパールが坑道に落ちているはずはない。しかしアシュモルが見つけたのはディンガンのへそにはめられていたオパールだとするためには加工されたオパールでなくてはならない。へそにオパールの原石をはめているはずはないからだ。

  この変更は象徴的なことに思える。あるはずのない加工されたオパールが見つかるこのあたりから、急にファンタジー色が濃くなるのである。アシュモルはポビーとディンガンが死んだことを妹に納得させるために二人の葬式を挙げることにする。こういう展開になるとは意外だった。そこまではいいのだが、その後はまさにファンタジーになってしまう。アシュモルの父が他人の穴からオパールを盗もうとしていたという誤解はついに裁判にまで発展する。ところがその裁判にあっけなく勝ってしまうのだ。しかもあれほど差別していた町の人たちが裁判が終わるところっと態度を一変させてしまう。そしてポビーとディンガンの葬式にほとんどの人たちが参加する。このあたりの展開はあまりにも安易ではないか。そう思わざるを得ない。

  どうも中途半端なのだ。ファンタジーの枠組みに盛り込んだリアリスティックな要素がかならずしもファンタジーを支える働きをしていない、むしろせっかく提起した深刻な問題があっさり片付いてしまって逆に物足りなさを感じてしまう結果を招いている。ポビーとディンガンというイマジナリー・フレンズの決着の付け方は予想外の展開で、その点はうまく出来ていると思ったが、その後の結末は容易に予想がついてしまう。いわば「お約束」通りの展開で、このラストも物足りなかった。

  リアリズムとファンタジーを組み合わせること自体がそもそも無理だと言っているわけでClipmaho はない。「ライフ・イズ・ミラクル」や「ククーシュカ」は戦争という現実を土台にすえながら見事なファンタジーの世界を作り上げていた。「ライフ・イズ・ミラクル」はあの気がめいるほど悲惨なボスニア紛争というテーマにコメディの要素を盛り込むことさえやってのけた(同じくボスニア紛争をテーマにしたオムニバス映画「ビューティフル・ピープル」も一部のエピソードはコメディ仕立てである)。問題はリアリズムとファンタジーの組み合わせ方、あるいはファンタジーへのリアリズムの取り込み方なのである。その点で不満が残る。

  この映画は何を描いているのだろうか。「信じることが大切」だというメッセージが込められているという受け止め方が一般的である。しかしそういうとらえ方には疑問がある。アシュモルがポビーとディンガンの葬儀をすることにしたのは二人の存在を信じたからだろうか。あるいは二人の葬式に町の人たちが多数集まったのは同じように二人の存在を信じていたからだろうか。そうは思えない。葬儀の後見えない犬を連れて散歩している人や誰もいない空間に向かって話しかけている人などが増えたわけではないだろう。

  アシュモルの立場は微妙で、妹にある程度感化されているようにも思えるが、少なくとも両親はポビーとディンガンの葬儀をすることでケリーアンが空想の世界から卒業できると期待していたと思われる。町の人々も見えなかった二人が見えるようになったからではなく、妹を思うアシュモルの気持ちに共感したから葬儀に参列したのだろう。また幾分かは両親と同じ期待を持っていたかもしれない。彼らにはポビーとディンガンは見えないし、そもそも実在するとは思っていないが、一心に二人がいると信じているケリーアンの気持ちを理解し、尊重しようとしたのである。ポビーとディンガンは見えないが、妹のために町中にチラシを張り巡らそうと走り回るアシュモルの姿は見えていた。妹を救おうとする兄の気持ちに共感し、町を挙げて彼の妹を救う行動にでた。われわれはそこに感動しているのではないか。「目に見えない大切なもの」とは架空の友達を指すのではなく、人を思いやる心を指すと解釈すべきではないか。

  ケリーアンが空想の友達を作り出したのは寂しかったからだろう。父はオパールを探し出すことに夢中で、母はスーパーに勤めている。兄は友達と遊ぶのに夢中だったのだろう。学校にも彼女の友達はいない。町自体も一攫千金を目当てに集まってきた人たちであふれている。殺伐としていたに違いない。ケリーアンは一人孤立していた。彼女は追い詰められていたのだろう。そしてそのことに誰も気づかなかったのだ。寂しさを紛らすために彼女は自分で「友達」を作り出した。二人の友達が唯一彼女の心の拠り所だったのである。

  ケリーアンは他人への信頼感や思いやりを失った町が知らず知らずのうちにかかっていた病弊の象徴的存在だったのかもしれない。彼女の存在自体が町に対する警鐘だったのだ。彼女の空想はそういう意味で根深いものだった。サンタクロースは実在すると幼い子供が信じているのとは次元が違う。だからこそ彼女の家族だけではなく、町全体が変わらなければ物語は完結しなかったのである。

  だから結末が問題なのではなく、そこに至る過程がもうひとつ説得的に描かれていないということなのである。90分に満たない短い作品だということもあるが、いろんな点でもう少し描きこんでいればという思いが残る。例えば、父親レックスの描き方。オパールを求めて報われない努力をしている父親を決してアシュモルは馬鹿にしていない。町の連中の嫌がらせで有望な土地の採掘権を手に入れられなくなり、誰も見向きもしない土地でダウジングをしながら掘るべき場所を探している父の姿を息子は少しも哀れんでいない。父親自身の描き方としても一攫千金を狙うハゲタカのような人間として描かれてはいない。生活のためでもあるが、むしろ「夢」を追う存在として描かれている。ただその辺が充分映画全体のテーマと関連付けられていない。「夢」はケリーアンの「想像力」とつながってゆくものである。「夢」や「想像力」だけでは食べてゆけないが、少なくとも現実をより豊かにすることはできる。そういう力を持つものとしてもっと丹念に描かれるべきだった。そうすれば、エンドロールで映された様々な子供の絵がより活かされていただろう。

2006年11月27日 (月)

緑茶

2002年 中国 2006年4月公開 0031
評価:★★★★
監督:チャン・ユアン
撮影:クリストファー・ドイル
編集:ウー・イーシァン
美術:ハン・ジィアイン
衣装:リー・シゥルゥ
作曲:スゥ・ツォン
出演:ジァン・ウェン、ヴィッキー・チャオ、ファン・リジュン
    ワン・ハイジェン、ヤン・ドン、チャン・ユアン、ミー・チゥ
    リー・ロン、チャン・チー、フェイフェイ

  この5、6年中国映画の公開数が少なかったので本格的なレビューを書いたものは先日の「玲玲の電影日記」の他には「子供たちの王様」、「古井戸」、「わが家の犬は世界一」くらいのものだ。しかし短評を加えれば、「最後の冬」、「涙女」、「思い出の夏」、「黄色い大地」、「ションヤンの酒家」、「HERO」、「至福のとき」、「活きる」、「ハッピー・フューネラル」、「たまゆらの女」、「小さな中国のお針子」、「西洋鏡」、「キープ・クール」と結構書いている。11月から12月にかけて中国映画のDVDがまとまって出るので、年内は「中国映画月間」とするくらい力を入れてみてもいいと思っている。「緑茶」と一緒に「PROMISE」も借りてきたので、こちらも出来がよければレビューを書く予定。時間があれば手持ちの他のDVDも観てレビューを書いてみたい。僕にとって中国映画はイギリス映画と並んで重要な位置づけにあるからだ。

  チャン・ヤン監督のオムニバス風映画「スパイシー・ラブスープ」に「麻雀」というエピソードがある。テレビで結婚相手を募集したら候補者が3人現われるという話。親戚や知り合いが仲介をする日本とは違い、ブラインド・デートに近い中国のお見合い風景。テレビで相手を募集することも含めて実に新鮮だった。「緑茶」もこのお見合いで始まる。待ち合わせ場所のティールームで待っていたのは大学院に通うウー・ファン(ヴィッキー・チャオ)という地味な女性。元来は美人なのだが、それをあえて隠すように髪をひっつめにして眼鏡をかけている。服装も地味なスーツ姿。スカートではなくパンツスタイル。そこにやってきたのが気障な感じの男チン・ミンリャン(ジァン・ウェン)。控えめで遠慮がちな女とずうずうしいくらいおしゃべりな男。実はウー・ファンは毎日のように何人もの男とブラインド・デートをしていた。理想の男を求めているのだろうが、ほとんどお見合いオタクのようにも思える。そんなウー・ファンをミンリャンは気に入ってしまう。しかしウー・ファンはつれない態度。逃げるように去ってゆくウー・ファンをミンリャンはしつこく追い回す。ついにはウー・ファンに頬を張られる。

  こんな具合に映画は始まる。二人の関係は付かず離れずで、それが最後まで続く。もちろんそれだけでは変化に乏しい。そこで第二の女性が登場する。ある時ミンリャンはバーのラウンジでピアノを弾くランラン(ヴィッキー・チャオの二役)という女性に出会う。ランランは眼鏡こそかけていないがウー・ファンとそっくりだ。しかし性格は全く違う。金で誘えば誰とでも寝る女だ。服装もこちらは艶かしいスカート姿(足がきれいだ!)。さらに言えば第3の女性もいる。ウー・ファンがいつも口にする彼女の友人という女性である。ウー・ファンはデートの際にいつも緑茶を飲んでいるが、それはその「友人」から「恋の行方はグラスの中の茶葉で占える」と教えられたからだという。

Cw_s01_43   姿の見えない「友人」は別にして、主な登場人物はこの3人だけである。全くタイプが違う二人の女性の間で揺れる一人の男。そういう設定だが、ミンリャンの心はウー・ファンに向いていて、ガードの固いウー・ファンにはぐらかされてばかりでなかなか近づけない不満をランランで代わりに満たしているように見える。しかし話が進むに連れて様々な疑問がわいてくる。ウー・ファンとランランは同一人物ではないか。同じ女性の清楚な昼の顔と妖艶な夜の顔。あるいはウー・ファンの「友人」というのも彼女自身ではないのか。これらの謎は最後まで謎のままだ。

  最先端の北京を舞台に描く、スタイリッシュでミステリアスなラブ・ストーリー。これが一般的なとらえ方だが、確かにそういう面を持っている。主演のヴィッキー・チャオも「緑茶」の見所を聞かれて、「北京のナイトライフ大全のようなものです」と答えている。北京の最先端の場所、バーやホテルやアートスポットなどファッショナブルな場所が意識的に選ばれている。そして上記のような謎を残したミステリアスな展開。あるいはクリストファー・ドイルの何度もはっとさせられるような見事なキャメラワーク。例えばタイトルになっている緑茶。日本と違ってお湯の入ったガラスのコップに直接葉を入れる。次第に葉を広げてゆく茶葉の緑色が鮮烈にとらえられている。かき混ぜた後のぐるぐる回る緑色の茶葉が不安定な3人の関係を象徴しているようだ。

  しかしそういうイメージだけで観るとこの映画の本質をとらえそこなうかもしれない。ウォン・カーウァイ作品を連想する人が多いが、似ているようでどこか違う。ウォン・カーウァイの映画は退屈で僕は好きではない。しかしこの映画には引き込まれた。個人的な好みはともかく、比較するならむしろ僕は「ビフォア・サンセット」と「イルマーレ」を取り上げたい。「緑茶」はほとんどミンリャンと二人の女性との間の会話で成り立っている作品である。ひたすら喋りまくる映画なのだ。そういう意味では「ビフォア・サンセット」に近い。「緑茶」は顔のクローズアップが非常に多い映画だが、それは会話中心なので動きではなく表情を追っているからである(観客にはヴィッキー・チャオの美貌をたっぷり眺められるという楽しみもある)。

  「玲玲の電影日記」で北京電影学院の教育内容がヨーロッパ映画至上主義だったというシャオ・チアン監督の言葉を引用した。確かに「緑茶」にもヨーロッパ映画の影響があることは明らかである。斬新なキャメラワークや音楽の使い方、そして洒落た雰囲気。明らかに従来の重たい中国映画とは違う。しかし僕はむしろ韓国映画「イルマーレ」に近い感覚を覚えた。ヨーロッパ的な映画を作ること自体に狙いがあったのではなく、むしろ非日常的な異空間を描きたかったのではないか。実際にはありえない設定を設けることで、どこかファンタジーを見るような感覚を作り出す。どこか別世界に連れてゆかれるような快感。ゆらゆら揺らめく茶葉のような幻想的な世界。二つの映画にはそういう共通の感覚を覚える。この映画はアート系映画というよりはむしろファンタジーなのだ。

  主人公ミンリャンがどんな職業の男なのか全く分からない(全然働いている様子がない) のもファンタジーらしい。一応働かなくてもいい金持ちという設定になっているようだが、これまたわれわれ庶民にとっては憧れの別世界だ。つまり、現実世界からの脱出という願望を満足させてくれる類の映画なのである。現実逃避と言われれば確かにその通りだが、誰にでもその願望はある。それを満足させるのもフィクションの重要な機能である。だから真っ赤な色で統一されたトイレなどの超モダンな北京の風景が必用なのだ。丁度「イルマーレ」でも青みがかった寒々とした海辺の家というどこか別世界のようなセッティングと”イルマーレ”(海)というスペイン語のエキゾチックな響きが必要だった様に。もちろん主人公たちが出会った喫茶店の近くの路地のような古い街並みも出てくる。しかし日常的な世界を映すからこそ超モダンな「別世界」がいっそう浮き立つのである。

  僕は文革時代を扱った重い映画が好きである。しかし「緑茶」のような映画も好きだ。掴みどころのない作品だという批判もあるが、浮遊するように大都会に生きるつかみどころのない人々を描いているのだから、それはそれでいい。しかし、それならそれで、例えば「子猫をお願い」のようなもっと別の描き方があるだろうという反論もあるかも知れない。しかしそこに狙いがあるわけではない。作りたかったのは軽い都会のラブ・ファンタジーなのだ。2時間ほど楽しい「夢」を観させてもらう、そんな風に楽しめばいい。

  だから上の二つの謎ははっきりと明かされなくてもいいのである。謎めいた女性との出会い。それを楽しめばいい。ミンリャンと彼の友人(ファン・リジュン、有名なアーティストだShinlyoku_01w そうだ)の会話が面白い。友人「あきらめろ。ピアノの女は森林の道のようなものだ。どの道も迷ってしまい、たどり着けない。道と見えて実は道などないのさ。」ミンリャン「なぜ分かる?」友人「俺のほうが先に森林に入ったんだぜ。」ミンリャン「もう一人の女は道がないようで実は道ばかりだ。」すべての道はローマへ続くと友人が結ぶ。ランランではなくウー・ファンを選べと言っているのである。

  会話を通して謎めいた雰囲気が強調されている。「人間の運命なんてお茶の葉のようなものよ」というランランの言葉も同じだ。この謎が観客の関心を引っ張るドライブになっている。だから結局真相はどうなのか知りたくなるが、最後まで明らかにはされない。それはそれでもいい。ただ、ヴィッキー・チャオが二役を演じていることの意味は追求してみる価値があるかもしれない。上でクローズアップが多い作品だと書いたが、大写しになるのはほとんどウー・ファンである。ランランは謎の女という設定からかウー・ファンほどは多くない。しかしミンリャンのクローズアップはほとんどない。つまり男の視線で描かれている映画である。ヴィッキー・チャオの二役は女性の持つ二つの顔を描いているのだろうが、それは恐らく男の願望の反映だ。はぐらかされてばかりで煮え切らないウー・ファンに引かれつつも、あっさり彼を受け入れてくれる妖艶なランランにも心移りする。二人の女性の間で煩悶するというよりは、むしろ「両手に花」に近い至福の境地と言えなくもない。同時にそれは女性の願望でもあるかもしれない。自分にないもう一つの面も持ち合わせていたら・・・。これもある種の理想だ。心地よいくすぐり効果も兼ね備えている映画なのである。他のとらえ方もあるだろうが、とりあえず思いつくのはこんなところだ。

  男の視点で描かれているので、男の出自は一切問わず、一方的に女性の「正体」を探ろうとする展開になっている。しかしウー・ファンは容易に正体を現さない。彼女には「友人」という絶好の隠れ蓑があるからだ。ミンリャンは何とかウー・ファン自身について聞き出そうとするが、彼女は自分のことは一切語らず「友人」のことばかり語る。会うたびに「友人」の話を断続的に聞く展開になっている。しかしその友人の話がすごい。特にその母親の話。彼女は死体に死に化粧を施す仕事をしていた。夫がそれを知った時、死体の匂いが移ることを嫌い彼女に手袋を付けさせた。それでも収まらず、次第に暴力を振るうようになり、ついにはそれを見かねた娘に殺されてしまう。

  ミンリャンもいつの間にかその話に引き込まれ、「それからどうなったんだ?」と何度も先を促すようになる。それほどこの話には人を引き込む力がある。この話は実はランランの身の上話とある接点を持っている。ランランは一度だけ自分の両親の話をする。父は昔作家だったということだが、ウー・ファンの話とつながるのは母親についての話である。「自分は胡桃だと母は私に言ったわ。結婚前はおいしそうで欲しがられたけど、結婚してみたら堅くて黒くてとても噛めない。ずっと後で実を取り出したらまあまあの出来だった。」ミンリャン「君がその実ってわけ?」「そうよ。」「母親の仕事は?」「手袋工場長。」「手袋工場?どうしてまた手袋なんだ?」

  ウー・ファンの「友達」が本当に存在するのか、彼女自身のことなのか、あるいは彼女の想像上の人物なのか、真相は最後まで分からない。しかし手袋を手がかりに考えれば、 ウー・ファンとランランとウー・ファンの友達は同一人物であり、手袋をしていた女性はウー・ファンの母親だと考えるのが一番自然だろう。父親の虐待とその父親を殺してしまった過去が彼女の精神を分裂させてしまった。こう考えると実に重たい話になるが、全く真相は違う可能性もある。いずれにしても、エンディングはそういったことは一切問わず、明るい終わり方になっている。ミンリャンはランランを連れてホテルに行く。あちこち廊下を走り回った末に部屋に入る。突然場面はすりガラスのテーブル越しに下から撮った映像に変わる。すりガラスなのではっきりとは見えない。しかしガラスの上にウー・ファンがかけていたメガネが置かれるのは分かる。いつの間にかランランがウー・ファンに変わっている。姿ははっきり見えないが話し声は聞こえる。「本当に私のこと好き?」

  このラストはランランとウー・ファンが同一人物だということを暗示しているのだろうか。はっきりしたことは分からない。映画はその可能性を匂わせるだけである。いずれにしても散々てこずったがミンリャンとウー・ファンはどうやらうまくいっているようだ。最後は「過去」を引きずっていない。「目の前に虹があるのに雨に打たれることはない」というウー・ファンの言葉(もともとはミンリャンが使った表現)が示すように、二人は前に向かって歩んでゆくことが暗示されている。謎は残っているが、さわやかな終わり方だと思う。

  二役を演じ分けたヴィッキー・チャオの魅力が全編にあふれている。コン・リーやチャン・ツィイーとはまた違った魅力である。この映画で初めて彼女を観たが、他の出演作も観たいと思わせるほど魅了された。一方、「芙蓉鎮」(1984)、「紅いコーリャン」(1987)、「太陽の少年」(1994)、「宋家の三姉妹」(1997)、「キープ・クール」(1997)、「鬼が来た!」(2000)など、中国映画の名作に次々と出演し監督までこなしているジァン・ウェン(チアン・ウエン)もさすがの存在感。監督としての力量も相当なものだが、やはり役者としての魅力が大きい。のっそりとした男なのだが、登場するだけで観るものを惹きつけてしまう天性の才能を持っている。80年代に観た「芙蓉鎮」と「紅いコーリャン」の圧倒的な迫力は今でも記憶に鮮明だ。

  クリストファー・ドイルによる視覚マジックも実に効果的である。日本映画「空中庭園」の撮影テクニックと演出はこれ見よがしで鼻についたが、「緑茶」の斬新なWindow_cb1tキャメラワークはむしろ作品をより魅力的にしている。作品のテーマや雰囲気から浮き上がっていないから である。テクニックばかりがやけに目立つ映画は「どうだすごいだろう」という作り手の驕りが前面に出ていて不快なものだ。この作品の場合は凝ったキャメラワークが作品の不思議空間にうまく合っている。料理がのったテーブルを真上から撮ったショットは、人物を画面の外に置き話し声だけ入れている。料理には手をつけていない。さっぱり話が弾まないミンリャンとウー・ファンの関係がうまく切り取られている。画面の切り替えの際に、わざと最初は壁を映して話し声だけを入れる。キャメラが移動してようやく二人の姿が映るという映し方も新鮮だった。「子供たちの王様」でチェン・カイコーが試みた映像と音をわざとずらす実験も印象的だったが、映画全体の雰囲気を壊さずむしろより効果的にする映像実験なら歓迎すべきだ。

  特に効果的だと思ったのは分厚い緑色のビニールのすだれのようなものを通してその向こう側にいるランランとミンリャンを映す場面。すだれの向こう側から撮ったと思われる赤い色を背景にした同じ場面が交互にフラッシュバックされる。ビニールすだれを通した間接的描写はランランの謎めいた存在をうまく視覚的に表現しており、真っ赤な場面は内面に渦巻く欲望を表しているようで、実に印象的だった。ちなみに余談だが、あのビニールすだれは中国のデパートや学校など多くの人が出入りする建物の入り口でよく見かける。何でこんな邪魔なものをドア代わりにぶら下げているのかと最初は不思議に思うが、自動ドアのように全面的に開かないので(人はすだれを掻き分けるようにして出入りする)冷気や暖気が外に逃げない。考えてみればこの方が安価である上に合理的なのだ。しかし近代化が急ピッチで進む今の中国ではいずれ消えてゆくのかもしれない。

  監督のチャン・ユアンは「ただいま」や「クレイジー・イングリッシュ」、そして「緑茶」の直前に封切られた「ウォ・アイ・ニー」などが日本で公開されている。僕が観たのは「緑茶」が初めて。いろんな作風の映画が作れるようだ。近くのレンタル店では見かけないのだが、何とか手に入れて他の作品も観てみたいものだ。

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