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2006年11月5日 - 2006年11月11日

2006年11月 9日 (木)

スティーヴィー

アメリカ 2002年 2006年4月公開 145分
評価:★★★★★
原題STEVIE
監督:スティーヴ・ジェイムス
プロデューサー:スティーヴ・ジェイムス、アダム・シンガー、ゴードン・クィン
製作総指揮:ロバート・メイ、ゴードン・クィン
撮影:デナ・カッパー、ゴードン・クィン、ピーター・ギルバート
編集:スティーヴ・ジェイムス、ウィリアム・ヒュース
共同プロデューサー:ピーター・ギルバート
アソシエイトプロデューサー:キャスリーン・タッカー
音楽監修:リンダ・コーエン
プロダクションマネージャー:カレン・ラースン
出演:スティーヴィー・フィールディング、トーニャ・グレゴリー、ブレンダ・ヒッカム
    ダグ・ヒッカム、ヴァーナ・ハグラー、バニース・ハグラー

  10月21日に長野大学のリブロホールで行われた「スティーヴィー」の無料上映会の参加者はおよそ230名でした。当日は映画のスタッフとして「スティーヴィー」の撮影に参加した有田桃生さんも来場され、上映後に映画の後日談(出演者たちのその後の様子)や撮影現場の様子、スティーヴ・ジェイムス監督のことなど、現場にいた方でなくては知りえない貴重な話をしてくださいました。有田さんは「幻灯舎」で行われた打ち上げパーティーにも参加してくださり、そこでもまた貴重なお話をうかがうことが出来ました。目標の参加人数には届きませんでしたが上映会としては成功だったと思います。

    * * * * * * * * * * *

House04mb_1   「スティーヴィー」は2回観たが、2度目のほうが感銘は深かった。アメリカの現実の一部が赤裸々に映し出された重い映画ではあるが、決してただ重苦しいだけの映画ではない。むしろ感動的な映画だった。それは終始スティーヴィーに対するスティーヴ・ジェイムス監督の冷静だが温かい視線を感じるからであり、特に後半部分では何とか自分を変えようとするスティーヴィーの姿が映し出されているからである。だがもちろん、明るい映画というわけではない。映画が終わった時点でスティーヴィーは自分の姪に対する性的虐待の罪で服役中である。この先スティーヴィーがどうなるのか、「外の世界」に戻ってきた時どんな人間になっているのか、観客にも監督にも、恐らく本人にも分からない。現実には劇映画のようなエンディングはない。現実は続く。立ち直ろう、這い上がろうとしてもその度にまた引き摺り下ろされる。それは彼を虐待した親や周りの人たちのせいでもあり、また彼自身のせいでもある。彼はしばしば自分を抑えられなくなる。映画はそういうスティーヴィーの姿を、彼のやさしい面も不安定な面も含めて、冷静に映し出している。スティーヴィー本人だけではなく、母親、叔母(被害者の母親)、祖母、妹、恋人、近所の友人たちのインタビューをクロスさせ、一人の人間を、その人間存在を多面的に描こうとする。

  私生児だったスティーヴィーは父親には一度も会ったことがなく、母親からは虐待を受けて育った。母親は彼の育児を放棄して、義理の祖母(スティーヴィーから見て)に預けてしまった。スティーヴ・ジェイムス監督は南イリノイ州立大学の学生だった時にこのスティーヴィー・フィールディング少年の「ビッグ・ブラザー」になった。「ビッグ・ブラザー」とは児童虐待や不登校、貧困、家族のトラブルなど様々なリスクを背負った児童の友達となり、よき相談相手として子供たちを精神的に支えその成長を助ける人、またはそのプログラムのことである。アメリカでは昔から知られている制度で、各コミュニティがそれぞれのプログラムを持っているようだ。

  スティーヴ・ジェイムス監督は事情があって一旦スティーヴィーと離れる。「スティーヴィー」は、10年ぶりにスティーヴィーと再会した彼がスティーヴィーのそれまでの10年間の軌跡と姪に対する性的虐待を起こしてから服役するまでを4年半かけて映し出した記録映画である。最初のころ撮っていたビデオも合わせるとフィルムの長さは約150時間にも及んだという。

  全体を通じてわれわれが問わずにいられないのは「スティーヴィーはいかにしてスティーヴィーになったのか?」という疑問である。母親は「生まれてくるべきではなかった」息子に暴力を振るい続けた。その母親バニースもアルコール依存症の父から暴力を受けて育った。しかし、当然ながら、映画はそのことだけに原因を求めてはいない。複数の人たちにインタビューした結果浮かび上がってきたのはスティーヴィーを囲む人間関係の網の目である。虐待された親が子を虐待するという縦線の関係だけではなく、スティーヴィーがかかわった様々な人々との横の関係も描いている。

  養護施設に入れられたスティーヴィーはそこで彼自身レイプされている。スティーヴィーを育てた祖母は養育を放棄した無責任な母親への憎しみを彼に植えつけた。スティーヴィーの妹(父親は違う)も母親に虐待され、親子の縁を切ろうとさえ考えている。スティーヴィーも母親のことが話題になると口を極めてののしりだす。暴力と憎しみの連鎖。それが網の目のように彼に絡みつき、彼自身を自暴自棄にさせ、荒廃させ、周りの人間関係をとげとげしいものにしてゆく。何度も犯罪を犯してきたスティーヴィーを雇う人は少なく、まともな職には就けない。婚約者のトーニャの両親はスティーヴィーとの交際を認めようとしない。スティーヴィーの友人の中には白人優越主義者もいる。彼らは監獄に入ったらとんでもない目にあうぞと散々スティーヴィーを脅すが、あれは彼らなりの言葉でスティーヴィーを「励まして」いるのである。「アーリア人」などという言葉が飛び出すくらいだからほとんどナチスばりの組織だ。KKKのような組織と思われる。網の目の中にはそんな連中もいる。保守的なコミュニティなのである。他にも間接的な関係で言えば警官、弁護士、囚人仲間、教会(母親はここに救いを求める)もこの網の目に絡んでくる。一人の人間にこれだけの人々が関わっているのだ(これとてもすべてではない)。

  ただしスティーヴィーの育った地域コミュニティを単に保守的で抑圧的だと受け取ってしまうべきではない。舞台となったイリノイ州の小さな町にはまだ共同体意識が残っていて、スティーヴィーのような子をみんなで守り育てようとする気風がある。みんな一生懸命にスティーヴィーを守ろうとしていたが、それぞれ都合が付かなくなってスティーヴィーと離れざるを得なくなる。そういうなんとも間が悪いことが続いてしまったのだ。

  この幾重にも絡まりあった人間関係の網の目を変えるのは簡単ではない。多くの人がButterfly_scho_1 かかわっているからだ。なによりもスティーヴィー自身が変わらなければならない。しかしこれも簡単ではない。充分な判断力が育っていない幼い時期に虐待を受けたスティーヴィーには、暴力と憎しみと人間不信の種が抜きがたく植え付けられている。これを断ち切るのは容易なことではない。しかし、この映画で最も感動的なのはこれほどの虐待を受け、しばしば自分自身を抑えられなくなるスティーヴィーに笑顔が残っていることだ。彼は人間性を失ってはいない。有田さんが言っていたが、スティーヴィーは撮影隊(隊といっても4人だが)が来るのをいつも心待ちにしていたそうだ。彼は監督たちを笑顔で迎えた。スティーヴ・ジェイムス監督や婚約者のトーニャに時々見せる、どこかはにかんだような笑顔。

  スティーヴィーを取り囲む網の目は決して悪意に満ちた包囲網ではない。上に書いたように、彼の周りには彼を励まし支えようとしてきた人たちもいる。終始スティーヴィーを「素材」として映画を撮るべきか葛藤していたスティーヴ・ジェイムス監督ばかりではない。スティーヴィーの犯した性的虐待事件を批判しつつそれでもあなたを支えたいと言った監督の妻、スティーヴィーの最初の里親になった老夫婦、そして婚約者のトーニャ。何といっても彼女の存在が大きい。映画の最初のあたりで彼女が言った「他の人には見えない彼の面が私には見えるの」という言葉が忘れられない。彼女には障害があり、とつとつとした話しかただが、非常に聡明な人だ(それはスティーヴィーも認めていた)。彼女はスティーヴィーの犯した罪を「絶対に許さない」と言いつつも、彼から離れようとはしなかった。

  もう一人彼を冷静に見ていた人物がいる。スティーヴィーに性的虐待を受けた姪の母親、つまり彼の叔母である。この叔母とスティーヴィーの母親が一緒にインタビューを受ける場面はこの映画のハイライトの1つである。分厚いメガネをかけている点を除けば叔母の見かけはスティーヴィーの母親にそっくりだ。しかし全く話している内容は違う。この叔母は一貫して知的で冷静で理性的であり、彼女の話には非常に説得力を感じた。被害者の母親である彼女は当然スティーヴィーの行為を激しく非難する。彼女の娘はスティーヴィーをとても慕っていた。しかし「あのこと」があってからはいつもおびえている。一度やったのだからまた繰り返さないといえるのか?こう厳しく批判しながらも、一方でスティーヴィーを虐待してきた姉バニースを批判する。父親の名前すら教えないのは間違っていると本人がいる前で厳しく指摘する。彼女はスティーヴィーの罪を憎みつつも、そういう行為に走ったのはスティーヴィーが歪んだ育てられ方をしてきたからだという認識も示す。自分は虐待などしていないと終始否定し続けていたバニースとは実に対照的だった。

  この映画を観て強烈に感じたのは、インタビューを受けた人々が思っていることをはっきり語る率直さだ。このドキュメンタリーを支えているのはインタビューで語られた「証言」の重さである。インタビューを受けた人たちが遠慮せずに自分の考えを率直に語っていたからこそ、この映画は優れたドキュメンタリーになりえたのである。それぞれの立場から語っているから当然矛盾しあう証言もある。それがまた複雑な「網の目」の存在を浮かび上がらせているのである。当たり障りのないことしか言えない日本人とはその点は全く違う。日本では作りえないドキュメンタリーなのである。

  率直に語ったといえば、もう一人重要な人物がいる。トーニャの友人、同じ障害者施設にいたパトリシアである。重度の小児マヒであるパトリシアはベッドに寝たきりである。彼女はスティーヴィーを連れて現れたトーニャに優しい言葉をかけ、近々結婚するという二人を祝福する。しかし自分は結婚しないと言う。義理の父親にレイプされた過去を忘れられないからだ。好きな人がいても、どうしてもその時のことがよみがえってきて、男性と深い関係にはなれないのだと。パトリシアの言葉はトーニャ以上に不明瞭だがスティーヴィーの叔母同様その発言内容は明瞭で実に理性的だった。有田さんによると、最初はそんなに長く撮るつもりはなかったが、彼女の言葉に魅せられるようにしてキャメラを止めることができず長々と撮ってしまったそうだ。確かにそれくらい引き付けるものが彼女にはあった。たまたまタバコを吸いに部屋を出ていたスティーヴィーが戻ってきたのはパトリシアがレイプのことを話しているときだった。スティーヴィーは彼女の話を聞いたに違いない。キャメラがとっさにとらえた彼の顔には何の表情も浮かんではいなかった。彼はこの言葉をどう受け止めたのだろうか?シナリオのないドキュメンタリーが意図せずして現実を冷厳にとらえた瞬間だった。

  現実はしばしばフィクションを越えてしまう。昔から「事実は小説よりも奇なり」と言われる。ドキュメンタリー、ルポルタージュなどのノンフィクションがフィクションを超えてしまうのは、現実そのものが人間の想像を超えてしまうからである。このことはフィルムを通してスティーヴィーの世界を観る観客よりも、実際に撮影現場にいた人たちのほうが肌で感じたであろう。有田さんの話では撮影はかなりきつく、まるで日替わりのように4人のうちの誰かが異常な状態になったそうである。スティーヴィーの世界に没入して「戻れなくなりそうに」なり、ものすごく考え込んだり落ち込んだりしたようだ。彼女たちの目の前にあった「現実」は否応なく人を巻き込み、その場にいたものは自分の意思にかかわらずその世界にのめりこんでしまう。「部外者」ではいられなくなってしまう。完全に感情移入してしまうのだろう。

  撮影中様々な思いが彼らの頭の中を駆けめぐったに違いない。どうしてこうなっているのか?自分たちは何をしているのか?自分たちに何が出来るのか?このまま撮影を続けるべきなのか?あるときは何とかこの現実を変えたいと思い、あるときはいや自分たちがGpjg112 やることは冷静に事実を記録することだと思い、撮影中この間を何度も揺れ動いたのではないか。「日替わり」ということは一定期間を置いて繰り返し自分を見失いそうになったということである。客観的立場にいなければと自分に言い聞かせながらも、いつの間にか「対象」と自分の間に距離がなくなっていることに気づく。現実に踏み込めば踏み込むほど現実との距離のとり方が難しくなる。何度も現実にはねつけられ、また幾度も現実にのめりこむ。何度も繰り返し自分を問い直す。「スティーヴィーはいかにしてスティーヴィーになったのか?」という疑問の先には「自分たちはスティーヴィーに何が出来るのか?」、「スティーヴィーは果たして別のスティーヴィーになれるのか?」という問題が必然的に付いて回る。「スティーヴィー」はスティーヴィーの記録であると同時に、ある意味で彼ら撮影スタッフの記録でもある。

  中でも監督であるスティーヴ・ジェイムズの内的葛藤は深刻だったに違いない。監督はスティーヴィーを「対象」として記録することに最後まで悩み続けた。最初は自分が画面に出ることを渋っていたが、スタッフに説得されて画面に出ることにしたそうである。彼がキャメラの後ろではなく目の前にいることでスティーヴィーも心を開くことができたのだろう。監督は自分もキャメラの「対象」となることで避けがたくスティーヴィーの世界に入り込むことを選択したのである。入り込みつつ距離を保つのは言葉では言い尽くせないほど困難なことだったに違いない。他人の生活に踏み込むことへの逡巡、その一方で放っておけないという思い、深い葛藤があっただろう。しかし彼が踏み込むことでスティーヴィーも変わろうとしたのではないか。それまで断絶状態だった家族に細々とではあるが絆が生まれたのは監督たちが踏み込んだからである。もちろん現実は冷酷で、直線的に変わってゆくことなど望むべくもない。あるときはどうしても突き破れない壁に突き当たり跳ね返され、あるときは喜びを共に分かち合う。現実を前にあるときは怒り、あるときは悲しみ、あるときは喜び、あるときは絶望する。そして最後に残るのは、スティーヴィーはいま刑務所の中にいるという冷厳な現実。それでも監督はスティーヴィーのそばにいることを選択した。最後まで彼に寄り添い、見届けることを選んだ。

  最後に、有田さんから聞いた後日談を書いておこう。スティーヴィーの祖母は養老院にあずけられたが、個性の強い人なのでうまくなじめず、今はブレンダ(スティーヴィーの妹)に引き取られている。トーニャはスティーヴィーが監獄に入ってから2年後に二人で話し合って、結局スティーヴィーと分かれたそうだ。今は別の人と付き合っているか結婚している。パトリシアは映画の中ではレイプの記憶のために結婚する気になれないといっていたが、その後結婚したそうである。

  スティーヴィーのその後の経過は思わしくない。10年の刑期を模範囚として早められるかどうかは微妙なところだ。ただ、有田さんは撮影終了直後、編集前に日本に帰ることになったそうだが、そのことをスティーヴィーに伝えたところ、是非この映画を日本でも上映してほしいと言われたそうである。自分の生の姿を撮った映画を日本でも上映してほしいと言ったスティーヴィーに心打たれたが、その約束を果たした有田さんにも感銘を受けた。

  この映画を観た後で印象に残っているスティーヴィーの顔は監督やトーニャと一緒にいる時に時々見せていた優しい笑顔である。あの笑顔に観客はどれだけ救われたことか。あの笑顔が消えない限り彼には立ち直る可能性がある、そう信じたい。

  スティーヴ・ジェイムス監督のことはこの映画を観るまで知らなかった。貧しい黒人少年二人がそれぞれNBA選手を目指して高校、大学へと進んでいく姿を追ったドキュメンタリー「フープ・ドリームス」(94)で注目されるようになった人である。「フープ・ドリームス」は94年に公開され、ドキュメンタリーとしては異例の大ヒットを記録した。

  「スティーヴィー」は彼の長編ドキュメンタリー第2作である。  「スティーヴィー」は「山形国際ドキュメンタリー映画祭2003」で大賞の「鉄西区」(これも観たい!)に次ぐ最優秀賞を受賞した。

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2006年11月 7日 (火)

ククーシュカ ラップランドの妖精

2002年 ロシア 2006年3月公開 Tasogare2
評価:★★★★☆
監督:アレクサンドル・ロゴシュキン
原題:Kukushka
製作:セルゲイ・セリヤノフ
美術:ヴラジーミル・スヴェトザロフ
音楽:ドミトリー・パヴロフ
衣装:マリーナ・ニコラエヴァ
配給:シネカノン
出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ 、 ヴィル・ハーパサロ
    ヴィクトル・ブィチコフ

  久々に手ごたえのあるロシア映画。8月に観た「ナイトウォッチ」は三つ星がやっとの情けない映画だった。その前に観たロシア映画となると恐らくニキータ・ミハルコフの「シベリアの理髪師」(1999)あたりか。「映画日記」(フリーソフト)で調べてみると、観たのは01年10月。もう5年もまともなロシア映画を見ていないことになる。昨年話題になった「父、帰る」は気になりつつもいまだに観ていない。東京にいた頃は「三百人劇場」などのおかげでかなりの数のソ連映画(まだソ連だった)を観ていたが、さすがに地方都市に住むようになってからは疎遠になってしまった。昨年はソ連・ロシア映画のDVD化が少し進んだが、まだまだ氷山の一角。膨大な数の傑作群がいまだ眠っている。しかも、DVD化されていてもレンタル店に置いてあるものは少ない。まだまだ一般にはなじみが薄い存在である。もっと広くソ連・ロシア映画が認知されるようになってほしいものだ。

  さて、本題の「ククーシュカ」。登場人物は実質3人である。ドイツ軍の服を着せられたフィンランド人狙撃兵ヴェイッコ、中年のロシア人兵士イヴァン、サーミ人女性アンニ。フィンランド人兵士とロシア人兵士は敵同士である。フィンランドは39年から40年にかけてソ連と戦った「冬戦争」で国土の一部を失った。第二次世界大戦ではソ連と対抗するためにフィンランドはドイツ側についたのである。

  タイトルの「ククーシュカ」というロシア語は英語のクックー(cuckoo)にあたる。つまりカッコウのことである。同時にロシア語では狙撃兵という意味もある。イヴァンは何度もヴェイッコのことをククーシュカと呼んでいる(また、ヴェイッコをドイツ兵だと思い込んでいるので「ファシスト」とも呼んでいる)。逆にヴェイッコはイヴァンをショルティと呼ぶ。ヴェイッコがイヴァンに名前を聞いたときイヴァンが「バショルティ(くそ食らえ)」と言ったので、それが名前だと思ってショルティと呼んでいるのである。しかも最後にアンニの本当の名前がククーシュカだと分かる。つまり3人とも互いを本名で呼んでいないのだ。

  3人ともロシア語、フィンランド語、サーミ語というそれぞれ違う言葉を話しているので互いを理解できない。しばしば誤解が生じ、誤解の溝は埋まらない。名前をめぐる混乱は一つはここからきている。だがそれだけではなく、個人名など関係ないという面もある。イヴァンにとってヴェイッコはファシストのドイツ人に過ぎないし、同じくヴェイッコにとってイヴァンはしつこく彼の命を狙うロシア人に過ぎない。アンニにとって二人は4年間続いた男日照りの日々の末に現れた「男」に過ぎない。男二人はずっと軍服を着ており、アンニも独特の民族衣装を着ているので、無意識のうちにその国と民族を代表してしまっている(ヴェイッコはドイツ軍の軍服を着たフィンランド人というさらにひねったアイデンティティを持たされているが)。便宜的な呼び名があればそれですむ関係なのだ。いずれも寓意性を帯びているので個性が前面に出る必要がない。

  しかし”ククーシュカ”についてはさらにもう一つの意味がこめられている。アレクサンドル・ロゴシュキン監督はDVDに収録された「メイキング」の中で、カッコーは托卵をするが、アンニは逆に自分の巣に飛び込んできた二人の男を育てたのだと指摘していた。しかもラストシーンではアンニがヴェイッコとイヴァンをそれぞれ父とする二人の息子に父のことを語って聞かせている(子供の名前もショルティとイヴァンだ)。アンニが子供たちに語った父親たちの思い出話には当然誤解が含まれている。しかし彼女が語ることによってそれは「事実」以上に「真実」の物語になる。アンニは最後にすべてを包んでしまう。ここでこの映画の主題が浮かび上がってくる。つまり、アンニはすべてを包む大地のような存在なのだ。命を産み、命をはぐくむ肥沃な母なる大地。アンニがたびたび示す性的な表現は「性」ではなく「生」への欲求を表している。

  「ラップランドの妖精」という副題が邦題に付けられているが、「ククーシュカ」は決しておとぎの国を描いたファンタジーではない。舞台となるのはフィンランドの北部に位置するラップランド。ラップランドはフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ロシアに跨る広大な森と湖の地域である。そこに自然と共に暮らすサーミ人たち。鈍い色の空とどんよりと低くたれ込めた雲。夏の白夜と冬の極夜。オーロラ、ムーミン、サンタクロース。家畜として飼っているトナカイや魚を獲る巧妙な仕掛けなど、日本人にとっては確かに異国情緒に満ちたファンタジーランドである。確かに美しいのだが、ただ単に美しいとだけとらえては不十分である。一面銀色の世界は自然の厳しさを映し出してもいる。

  映画のテーマは命を奪う戦争と命を育む大地の母の対比である。美しくしいが厳しくもあるラップランドは、また戦場でもある。アンニの家の周りはあたかも戦火を遠く離れた別天地のように見えるが、それは「ノー・マンズ・ランド」に描かれたような一種の中間地帯に過ぎない。危ういバランスの上でかろうじて成り立っている平和地帯。時々ドイツ兵が通りかかり、戦闘機が上空を飛んでゆく。そこはあくまで戦場なのだ。ゆったりとしたテンポやのんびりとした日常生活などはヘルシンキを舞台にした「かもめ食堂」に通じるが、その主題には戦争が絡んでおり「ノー・マンズ・ランド」や韓国映画「トンマッコルへようこそ」により近い。

  アンニの住む世界が決して戦争と無縁の世界でないことは、彼女が最初に登場する場Key_2面で暗示されている。ロシア人の死体を見つけたときの彼女の態度や反応にある種の違和感を感じなかっただろうか。彼女は死体をみても全く動じなかった。のけぞりもしないし、腰を抜かしもしない。むしろそこに死体があることを予期していた感じだ。死体を見つけて引きずってゆき、穴に埋めるまでの一連の動作は実に手馴れている。これはそれまで何度も同じことをやってきたことを暗示している。悲惨な現場を何度も目撃し、悲惨さに慣れてしまっている。だから死体を見ても平気なのだ。この世界は決しておとぎの国のような世界ではない。戦争と死が日常的な世界なのである。彼女の夫も兵隊にとられて(恐らく)戦死している。

  アンニはヴェイッコに「あんた臭いわ、男たちって皆鉄と死の匂いがする」と言っている。ヴェイッコとイヴァンがサウナに入っていた時も、アンニは草の束を差し出して「これで拭いて戦争と死の匂いを落として」と言った。軍服を着た二人の男はアンニの家に「戦争と死の匂い」を持ち込んだのである。

  実際二人の男は共に死ぬ間際まで行っている。アンニがイヴァンを見つけた時、彼女は彼が既に死んでいると思っていた。しかし穴に埋めようとした時イヴァンは「生き返った」。アンニが精をつけさせようとイヴァンに飲ませたトナカイの血を混ぜたミルクは「生命力」の象徴である。ヴェイッコはそのイヴァンに銃で撃たれ瀕死の重傷を負った。彼を死の淵から救ったのもアンニだった。生をもたらす存在としての彼女がもっとも鮮明に立ち現れるのはこの時だ。ヴェイッコのいる幻想的な死の世界とアンニが祈祷師のように太鼓をたたいて祈り、犬の遠吠えをしてヴェイックを生の世界に呼び戻そうとしている現実世界が交互に描かれる。死の世界では白い服を着た白い髪の少年がヴェイックを手招きして深い谷の方へ連れて行こうとする。青暗い色調が強調された、石ころだらけの荒涼とした死の世界。深い谷の底には川が流れている。日本で言う三途の川。しかし犬の遠吠えが聞こえ、危ういところでヴェイッコは少年を振り切って引き返す。

  映画の最初と最後でアンニは二人の男を死からよみがえらせた。この土着的な生と死のとらえ方は日本人の死生観とどこか通じるものがある。モンゴルの草原に生きる人々を描いた「天空の草原のナンサ」にも通じるものがある。二人をよみがえらせたのは魔法や霊術ではなく、むしろアンニが体現する大地の力である。アンニは生命力の象徴なのだ。生命力は生殖力と重なっている。サウナのシーンで見せたアンニの妖艶な顔。「私を押し倒してほしいわ」、「触らないで、ぬれちゃうから」などの露骨なせりふを何度も言うが、それが全くいやらしく聞こえない。それは単なる性欲の表現ではなく生命力と生殖力の表現だからである。突然男が2人も現われたとにんまりする彼女には母なる大地としての彼女のおおらかさと豊穣さが表れているのだ。

  冒頭でヴェイッコが鎖を杭からはずそうと苦闘する場面が延々と写される。これは生への執念を描きたかったのである。彼は生への執念と智恵を持った男なのだ(メガネのレンズを合わせ、間に水を入れてレンズの代用にする方法はジュール・ヴェルヌが『神秘の島』で用いている、もっともこちらは時計のガラス蓋だが)。一方、イヴァンの方は登場した時からどこか諦めたような表情を見せている。生命への執着心が弱い男だ。傷が癒えた後、イヴァンがアンニのスカートをはいて小屋から出てくるシーンがある。これも象徴的だ。生命力の弱い彼はアンニのスカートをはいて彼女の生命力を分けてもらう必要があったのだ。

  人工的に設定された寓話のような作品であり、主題は超現実的な要素を含んではいるが比較的単純だ。しかしその説得力は並のファンタジーを遥かに超えている。これまで指摘したように無数の寓意や象徴が巧妙に練りこまれている。とりわけ互いに言葉を理解できない三人がどこか滑稽な共同生活をするあたりはエミール・クストリッツァの「ライフ・イズ・ミラクル」を思わせるシュールでユーモラスな世界だ。

 Cut_gelf_non_w300_1 3人はいつまでたっても相手の言葉を理解できない。それでいて三人とも特に意思疎通の努力をしていない。アンニは終始マイペースだが、イヴァンとヴェイッコはいつまでもいがみ合っている(途中から嫉妬が混じる)。誤解は最後まで誤解のままである。イヴァンはラスト近くまでヴェイッコをドイツ兵だと勘違いしているし、詩人であるイヴァンがロシアの女性詩人エセーニンの写真を見せるとアンニはてっきり彼の奥さんだと思い込んでしまう。きのこのスープにこだわるイヴァンときのこは毒だとしきりに止めるアンニのやり取りも滑稽だ。これらの会話が全く互いの意思の疎通なしで行われているところが絶妙の展開である。当事者同士は理解できないが、字幕を観ている観客には理解できる。この二重のずれ(当事者同士のずれ、当事者たちと観客のずれ)を楽しむ映画なのである。

  しかしただ平和でのんきな滑稽話だけが展開されているわけではない。戦争という隠し味が全編にまぶされている。何度もイヴァンはヴェイッコを殺そうとする。だがそれでも決して陰惨にはならない。ユーモラスな語り口のせいもあるが、なによりも象徴的な存在であるアンニが二人の間にいるから対決がリアルにならないのである。そもそも女一人に男二人という状況は普通ならレイプを恐れるはずだが、彼女は全く恐れる様子もない。むしろ彼女から積極的に男たちを誘っている。母なる大地の前では兵士もただの「種馬」なのである。逆に彼女の「豊穣さ」が引き立つことになる。のどかな寓話の中に戦争を無力化する女性の生命力を描きこんでいる。しかし、見方を変えれば、大地のような女性の生命力という神話的力に頼るということは、逆に戦争の現実がいかに打ち消しがたいかを示しているとも言える。イラクの現状を見ればよくわかるだろう。簡単な解決などどこにも見出せない。しかし戦争の脅威にさらされながらも人々がしぶとく生き延びていることもまた事実である。「ククーシュカ」の力強い象徴と寓意の効果を過小評価すべきではない。「ククーシュカ」は「ライフ・イズ・ミラクル」には及ばないが、そのレベルに迫る優れた作品と言える。

  監督のアレクサンドル・ロゴシュキンは2本のコメディ映画、「国民的狩猟の特色」(95)とその続編「国民的漁労の特色」(98)の大ヒットで知られる。ロシアでは有名な監督だが、日本ではこれまで「護送兵」と「チェックポイント」が映画祭等で上映されただけで、映画館で一般公開されたのは「ククーシュカ」が初めてである。なお、配給は「フラガール」と同じシネカノン。相変わらずいい仕事をしている。

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2006年11月 5日 (日)

4つ星半以上をつけた映画一覧

  映画に点数を付け始めたのは2003年の末ごろからです。これまで5つ星、4つ星半を付けた映画のタイトルをすべて挙げておきます。前に「最近観た映画50本の評価点」で取り上げたものは除いてあります。
  4つ星半グループの先頭にある「ククーシュカ ラップランドの妖精」は昨日観た映画です。次回はこの作品を取り上げます。

★★★★★
「子供たちの王様」(87、チェン・カイコー監督)
「コープス・ブライド」(05、ティム・バートン、マイク・ジョンソン監督)
「博士の愛した数式」(05、小泉堯史監督)
「ヒトラー最期の12日間」(04、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督)
「ヴェラ・ドレイク」(04、マイク・リー監督)
「海の牙」(48、ルネ・クレマン監督)
「ストレイト・ストーリー」(99、デビッド・リンチ監督)
「風の遺産」(60、スタンリー・クレイマー監督)
「酔画仙」(02、イム・グォンテク監督)
「アマンドラ!希望の歌」(02、リー・ハーシュ監督)
「ミリオンダラー・ベイビー」(04、クリント・イーストウッド監督)
「タッチ・オブ・スパイス」(03、タソス・ブルメティス監督)
「海を飛ぶ夢」(04、アレハンドロ・アメナーバル監督)
「大統領の理髪師」(04、イム・チャンサン監督)
「この素晴らしき世界」(00、ヤン・フジェベイク監督)
「故郷」(72、:山田洋次監督)
「遥かなるクルディスタン」(99、イエスィム・ウスタオウル監督)
「阿弥陀堂だより」(02、小泉堯史監督)
「家族」(70、山田洋次監督)
「殺人狂時代」(47、チャールズ・チャップリン監督)
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(04、ヴァルテル・サレス監督)
「どっこい生きてる」(51、今井正監督) Miniwin1
「にごりえ」(53、今井正監督)
「子猫をお願い」(01、チョン・ジェウン監督)
「永遠の片想い」(02、イ・ハン監督)
「過去のない男」(02、アキ・カウリスマキ監督)
「キッチン・ストーリー」(03、ベント・ハーメル監督)
「ハウルの動く城」(04、宮崎駿監督)
「隠し剣 鬼の爪」(04、山田洋次監督)
「史上最大の作戦」(62、ケン・アナキン監督、他)
「ほえる犬は噛まない」(00、ポン・ジュノ監督)
「シルバー・スタリオン 銀馬将軍は来なかった」(91、チャン・ギルス監督)
「永遠のマリア・カラス」(02、フランコ・ゼフィレッリ監督)
「フリーダ」(02、ジュリー・テイモア監督)
「長雨」(79、ユ・ヒョンモク監督)
「ペパーミント・キャンディ」(99、イ・チャンドン監督)
「八月のクリスマス」(98、ホ・ジノ監督)
「森浦への道」(75、イ・マニ監督)
「トーク・トゥー・ハー」(02、ペドロ・アルモドバル監督)
「おばあちゃんの家」(02、イ・ジョンヒャン監督)
「七人の侍」(54、黒澤明監督)
「シティ・オブ・ゴッド」(02、フェルナンド・メイレレス監督)
「祇園囃子」(53、溝口健二監督)
「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」(03、ピーター・ジャクソン監督)
「酔っ払った馬の時間」(00、バフマン・ゴバディ監督)
「麦秋」(51、小津安二郎監督)
「風の谷のナウシカ」(84、宮崎駿監督)
「サウンド・オブ・ミュージック」(65、ロバート・ワイズ監督)
「活きる」(94、チャン・イーモウ監督)
「裸足の1500マイル」(02、フィリップ・ノイス監督)
「ボウリング・フォー・コロンバイン」(02、マイケル・ムーア監督)
「戦場のピアニスト」(02、ロマン・ポランスキー監督)
「アラン」(34、ロバート・J・フラハティ監督)
「橋」(59、ベルンハルト・ヴィッキ監督)
「鬼が来た!」(00、チアン・ウェン監督)
「ノー・マンズ・ランド」(01、ダニス・タノビッチ監督)
「大脱走」(63、ジョン・スタージェス監督)
「たそがれ清兵衛」(02、:山田洋次監督)

★★★★☆
「ククーシュカ ラップランドの妖精」(02、アレクサンドル・ロゴシュキン監督)
「ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ」(93、ニック・パーク監督)
「マラソン」(05、チョン・ユンチョル監督)
「いつか読書する日」(04、緒方明監督)
「Dearフランキー」(04、ショーナ・オーバック監督)
「シンデレラマン」(05、ロン・ハワード監督)
「ALWAYS三丁目の夕日」(05、山崎貴監督)
「THE有頂天ホテル」(05、三谷幸喜監督)
「運命じゃない人」(04、内田けんじ監督)
「サイドウェイ」(04、アレクサンダー・ペイン監督)
「ボーン・スプレマシー」(04、ポール・グリーングラス監督)
「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(85、ラッセ・ハルストレム監督)
「メゾン・ド・ヒミコ」(05、犬童一心監督)
「女が階段を上る時」(60、成瀬巳喜男監督)
「キャロルの初恋」(02、イマノル・ウリベ監督)
「エイプリルの七面鳥」(03、ピーター・ヘッジス監督)
「ベルヴィル・ランデブー」(02、シルヴァン・ショメ監督)
「ロング・エンゲージメント」(04、ジャン・ピエール・ジュネ監督)
「運命を分けたザイル」(03、ケビン・マクドナルド監督)
「ミニミニ大作戦」(68、ピーター・コリンソン監督)
「靴に恋して」(02、ラモン・サラザール監督)
「ピエロの赤い鼻」(03、ジャン・ベッケル監督)
「ディープ・ブルー」(03、アラステア・フォザーギル、アンディ・バイヤット監督)
「五線譜のラブレター」(04、アーウィン・ウィンクラー監督)
「駅前旅館」(58、豊田四郎監督)
「女ひとり大地を行く」(53、亀井文夫監督)
「ウォレスとグルミット 危機一髪!」(95、ニック・パーク監督)
「SWEET SIXTEEN」(02、ケン・ローチ監督)
「マーサの幸せレシピ」(01、サンドラ・ネットルベック監督)
「お茶漬けの味」(52、小津安二郎監督)
「茶の味」(03、石井克人監督)
「ヴェロニカ・ゲリン」(03、ジョエル・シュマッカー監督)
「スイミング・プール」(04、フランソワ・オゾン監督)
「ブコバルに手紙は届かない」(94、ボーロ・ドラシュコヴィッチ監督)
「都会の牙」(50、ルドルフ・マテ監督)
「ゴッドファーザー」(72、フランシス・F・コッポラ監督)
「シュレック2」(04、アンドリュー・アダムソン、ケリー・アズベリー監督)
「飢餓海峡」(64、内田吐夢監督)
「真珠の耳飾の少女」(03、ピーター・ウェーバー監督)
「みなさん、さようなら」(03、ドゥニ・アルカン監督)
「ポセイドン・アドベンチャー」(72、ロナルド・ニーム監督)
「この世の外へ クラブ進駐軍」(03、坂本順治監督)
「フレンチ・コネクション」(71、ウィリアム・フリードキン監督)
「アラバマ物語」(62、ロバート・マリガン監督)
「ビッグ・フィッシュ」(03、ティム・バートン監督)
「カレンダー・ガールズ」(03、ナイジェル・コール監督)
「アメリカン・ラプソディ」(01、エヴァ・ガルドス監督)
「仇討」(64、今井正監督)
「華氏451」(66、フランソワ・トリュフォー監督)
「ブラザーフッド」(04、カン・ジェギュ監督)
「草の乱」(04、神山征二郎監督)
「幸せになるためのイタリア語講座」(00、ロネ・シェルフィグ監督)
「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(76、山田洋次監督)
「女はみんな生きている」(01、コリーヌ・セロー監督)
「GO」(01、行定勲監督)
「ションヤンの酒家」(02、フォ・ジェンチイ監督)
「死ぬまでにしたい10のこと」(02、イザベル・コヘット監督)
「シルミド」(03、カン・ウソク監督)
「コクーン」(85、ロン・ハワード監督)
「本日休診」(52、渋谷実監督)
「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」(02、ピーター・ジャクソン監督)
「薔薇の名前」(86、ジャン・ジャック・アノー監督) Box_sw1
「至福のとき」(02、チャン・イーモウ監督)
「華氏911」(04、マイケル・ムーア監督)
「一人息子」(36、小津安二郎監督)
「悪人と美女」(52、ヴィンセント・ミネリ監督)
「シービスケット」(03、ゲイリー・ロス監督)
「白い恐怖」(45、アルフレッド・ヒッチコック監督)
「1票のラブレター」(01、ババク・パヤミ監督)
「殺人の追憶」(03、ポン・ジュノ監督)
「少女の髪どめ」(01、マジッド・マジディ監督)
「名もなきアフリカの地で」(01、カロリーヌ・リンク監督)
「西洋鏡」(00、アン・フー監督)
「ホワイト・バッジ」(92、チョン・ジヨン監督)
「朴さん」(60、カン・デジン監督)
「誤発弾」(61、ユ・ヒョンモク監督)
「美術館の隣の動物園」(98、イ・ジョンヒャン監督)
「友へ チング」(01、カク・キョンテク監督)
「インファナル・アフェア」(02、アンドリュー・ラウ、アラン・マック監督)
「ヘンリー八世の私生活」(33、アレクサンダー・コルダ監督)
「ザ・カップ/夢のアンテナ」(99、ケンツェ・ノルブ監督)
「キリクと魔女」(98、ミッシェル・オスロ監督)
「氷海の伝説」(01、ザカリアス・クヌク監督)
「警察日記」(55、久松精児監督)
「アバウト・シュミット」(02、アレクサンダー・ペイン監督)
「クジラの島の少女」(03、ニキ・カーロ監督)
「僕のスウィング」(02、トニー・ガトリフ監督)
「小さな中国のお針子」(02、ダイ・シージエ監督)
「パイレーツ・オブ・カリビアン」(03、ゴア・バービンスキー監督)
「WATARIDORI」(01、ジャック・クルーゾ、ミシェル・デバ監督)
「イルマーレ」(00、イ・ヒョンスン監督)
「猟奇的な彼女」(01、クァク・ジェヨン監督)
「脱走山脈」(68、マイケル・ウィナー監督)
「ベッカムに恋して」(02、グリンダ・チャーダ監督)
「歌え!フィッシャーマン」(01、クヌート・エーリク・イェンセン監督)
「SUPER8」(01、エミール・クストリッツァ監督)
「太陽の雫」(99、イシュトヴァン・サボー監督)
「極北の怪異」(22、ロバート・J・フラハティ監督)
「紅夢」(91、チャン・イーモウ監督)

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